「今宵は満月じゃ。どれ、池月、月でも見に行かんかの」
それは、人間だった池月坊やが九尾の尻尾のなかで水色を咲かせた小さな狐になってから何日か経った、そんなある日のこと。
囲炉裏の炭がすっかり灰がちになり、かすかに橙を残すだけとなったころ、長き年を生きてなお美しい九の尾をたくわえた長老はふと口にしました。
あたたかな囲炉裏端で丸くなっていた坊やは眠そうな目をこすると、かわいらしいその瞳をぱちくりとさせています。
坊やは人間の歳で言えばまだ十を超えたくらいの幼い子でしたから、「お月見」という言葉を聞いたことはあっても、月を見るためだけにお出かけしたことはありませんでした。
ですから長老の言葉に「満月を見ると何かが起きるのかな」とふと首をかしげていると、そばに座っていた赤にこげ茶を帯びた六尾の狐が「狐は満月の光を浴びると、とっても心地よい気分になれるんだよ」と教えてあげました。坊やはふんふんと頷いています。
「とってもすっきりするんだ。池月と一緒に見るのは初めてだな」、と、坊やそっくりの姿に彼岸花のような赤を咲かせた狐が続けます。坊やはわくわくしました。心地よい気分になれるという満月を、大好きな狐の仲間と共に見ることができるのですから。水色を帯びた小さな尻尾が、楽しそうに囲炉裏端を踊りました。
「長き年を経た狐は、満月の下で妖狐に生まれ変わる、とも言うからのう」
長老は、ぽつりとつぶやきました。
ゆらり。小屋の中に灯された火が壁へと投じる、黒々とうごめきのた打ち回る影。細められた目、吊り上がった口元。
唐突な言葉に、幼い狐たちは暖色の灯火の下でおののきました。目の前で九の尻尾を揺らした狐こそ、その言葉の証明のように見えたからです。
坊やは口元をあわあわと動かしながら、誰よりも真っ先に小屋の外へと飛び出していってしまいました。「ま、待ってよぅ池月!」と、ロコンの慌てた声が響きます。それを追いかけるように、「池月、さっきまで眠そうにしてたのに元気そうだな」とゾロアが笑いました。
眠気などすっかり吹き飛んでいました。いつもはやさしい長老の姿、けれど今夜はそれが恐ろしい狐のそれに見えたからです。
けれど何より、眠気を忘れたのはお月さまへの期待のためでした。どうしてみんなと美しいお月さまを見に行くことのできる夜に眠ることなどできましょうか。その月明かりが長老のような狐に力を与えるものだと知ってしまってはなおさらです。
一目散に小屋を飛び出していった幼い狐たちの後姿に微笑む長老。
その揺らめいた黒の影は、訪れた漆黒の闇へとひとつに溶け合いました。
◇ ◇ ◇
ほわっとした小屋の中の空気とは打って変わって、外の空気は染み入るようにひいやりとしていました。
風は穏やかで、森の木々が手のひらをゆらゆらと動かしながら、りいりいと歌う茂みの虫たちとかすかな歌声でひとつの歌を織り成しています。
「あっ」
小屋を飛び出してからずっと坊やの尻尾を追いかけていたロコンが、はたとその足を止めました。
それに気づいたのでしょう、ゾロアだけでなく坊やも振り向いて立ち止まりました。ざりり。踏みしめた砂の奏でる音が一斉に静まります。
森の中に開けた一本の小道の上には、どこにも欠けのないまんまるなお月さまが、宵闇の空の中にひときわ明るく輝いていました。
空を見上げたままのロコンは身動きひとつしません。二匹のゾロアもそのお月さまの姿に見とれたまま、同じように。
その満月はとても美しくはありましたが、今までも何回も見てきたはずの、ごく普通の満月には違いありませんでした。
けれど坊やの瞳には、今日の満月はその美しさだけでなく、ひときわ特別な意味をも持ったもののように映っていたのです。それは坊やだけではなく、他の狐たちにも同じことでした。
「そこで見とれておるのはまだ早いぞ? わしについてくるといい」
狐たちの尻尾のほうから、長老の穏やかな声が聞こえました。飛び出した子狐たちに追いついたようです。
空を見上げていた瞳は、一斉に振り向くと月の光を浴びた金の尻尾を見つめました。
まだ早い。ここから見上げるだけでも心魅かれるようなお月さまだというのに、長老はそう言いました。
僕の知らない世界は、まだどれくらいあるんだろう。坊やは子狐を導くように歩き出したキュウコンの揺らめいた尻尾を追いかけて歩きました。
「今日もマトマのみが一杯とれたな! ヒヒヒ、これでまた一歩化かしマスターに近づいたぜ!」
「うぅ……やっぱりそれ、僕は絶対に騙されてると思うけどなぁ……それに、今日も尻尾が出てたままだったよ?」
稲穂のような金色の九尾が夜のそよかぜの中に揺れていました。それを追いかけるようにして、三匹の子狐が小道の上を歩いていきます。
キュウコンの後について歩きながら、ゾロアとロコンはなんだか楽しそうにおはなしをしています。
どうやら今日も長老のおつかいでマトマのみを取りに出かけたようです。ゾロアの方はとっても得意げな顔をしているけれど、一方でロコンはどこか呆れたような表情をしています。
けれど今日は不思議と、坊やは二匹の狐のその言葉が耳から耳へと通り抜けていくようなのです。熱心な坊やはいつでもまじめに先輩狐の話を聞いて、一日でも早く立派なゾロアー苦になれるようにと努力を欠かしません。ですが今夜だけは、心は遠く月の空にあるような、そんな風にも見えました。
「ほれ。着いたぞ」
両脇に居並んだ木々が途切れぱっと視界が開けた小道の終わりで、はたと足を止めて長老はささやきました。
いつになく穏やかな口調の声に、小さな足の奏でる音がいっせいに止まります。
そこには、澄み渡った清らかな水をたたえた池が鏡のように空を映し返していました。
水面には、いつかキュウコンが子狐たちに人間の姿で作ってくれたお団子のようにまんまるなお月さまがぽっかりと浮かんでいます。
空と水面とに浮かぶふたつのお月さまは、長老の毛並みのような柔らかな色とくっきりとした輪郭をしています。
「わあ……!」――きらきらとロコンの表情に光が満ち溢れます。
ゾロアも同じようにお月さまの姿を見つめながら、時折ロコンのやわらかな尻尾をもふもふと握り締めています。
――坊やは、なぜか自分でも不思議なくらい、このふたつのお月さまに見とれていました。
ロコンとゾロアが池のほとりでお月さまを見つめながらじゃれあっているのも、少しも瞳の中には映ってはいませんでした。
坊やはキュウコン長老と池に映りこんだ月影を見つめ続けていました。ただ、声もなく。
「すっかり見惚れているようじゃの、池月」
キュウコンははっきりと口元に笑みを浮かべました。坊やはうなずきます。
坊やはすっかりこの満月に魅入られていました。愛しい長老の声ですら、曖昧になるくらいに。
「――狐をも酔わす水面の上のこの美しい月こそ、池月、お前の名じゃよ」
ふわっ。月明かりに照らされた毛並みが坊やのほほを撫でました。
もふもふ。長老は突然坊やにそうささやきました。九の尾で坊やを包み込みながら。
坊やは突然のその言葉に、驚いた色を浮かべながら先ほどよりもまじまじと水鏡に映ったお月さまを見つめます。
ゆうらりかすかに揺れる、長老ほどの狐をも酔わすほどに凛としたそれが、自分の名前の意味。
こんなに綺麗なお月さまと同じ名前だなんて――
「そして、その名はある古い九尾の狐と同じ名じゃ」
キュウコンは唐突に切り出しました。いつもとは違う重たさを帯びた言葉が聞こえたのか、じゃれあっていた二匹の子狐は坊やの方へと戻ってきました。
長老は坊やの反応を見ることもなく独りでくすくすと笑むと、続けます。
「――その狐は美しくきらめく九の尾を持っておった。じゃがそいつは恐ろしく強いことも人間には知られておった。
野山を駆け巡り月に吼えるたびに、人間は『生きたいのちを喰らう』ほどに強いその狐を『生喰』(いけずき)と呼んで恐れたのじゃ」
ゆらり。冷たく静かな夜風に揺れる九尾。
坊やの中で、その姿に見たこともないもう一匹の九尾の姿が重なります。
鋭く光る長老の瞳の水面にも満月が浮かんでいました。
「じゃがある日人間は見た。あの恐るべき狐が、池に映ったそれは清らかな満月を見つめて、静かに涙を流しているのを」
老いた狐は滔滔と紡ぎました。
不意に、その尻尾が水へとひたされ、水面をかき乱します。お月さまはゆらりと鏡の上で姿を変えました。
「人間は知った。人間もポケモンも同じ心を持っている。いつの日にか必ず分かり合える、と。
その日から人間は、池に映った月を見つめていたその狐を『池月』と呼ぶようになったのじゃ」
そうして人間は九尾の池月を恐れるだけでなく、敬い尊び、互いに助け合って生きたのだと、キュウコン長老は続けました。
揺らいだ水面はきらきらと光を照らし返しています。そうしてそのかすかなさざなみが消えると、そこには変わらず玲瓏の池月がきらめいていました。
長老は何も言わず、その表情をほころばせます。坊やの大好きな、あの表情へと。
「これも運命のいたずらかのう。古の狐と同じ名前を持った坊やが、狐になることを望んでその通りになるとは」
長く生きてきた九尾の狐の長老は、月の光によりいっそう美しくきらめくその尻尾で坊やをもう一度やさしく包み込みました。
運命。そうかもしれないと、坊やは思いました。狐が大好きで、狐になりたいとまで思って、そんなときに降った雨は狐の嫁入りに降るという雨。あの雨が坊やを狐の姿へと導いたのですから、これは運命が決めたことなのかもしれません。坊やの名前が古の狐と同じ名前ならば、なおさら。
眠りに落ちそうなくらい、あたたかで、やわらかな感触。坊やの表情はだんだんととろけていきます。坊やは喉を鳴らしながら、その感触に身をゆだねました。
「さすがだね、池月。僕たちが大きくなったとき、池月はもう伝説になってたりして」
「やっぱり池月はすごいもんな! 俺たちも負けてられないぜ、どんどん修行しなきゃ!」
思い思いに小さな手を握り締める仕草をしたり尻尾を逆立てたりしながら、子狐はいつものように笑います。
いつでも幼い狐たちは、いつか世界に名前を残すような「化かしマスター」になることを夢に見ています。
夢を追いかけながら毎日を生きて、人やポケモンを化かしたり、おつかいをこなしたり、マトマのみに口から火を吹いたり……
そんな子狐たちの姿を見て、長老もまたしあわせなのでした。
坊やはすっかりとろけきって眠たそうな表情をしています。大好きな、長老のもふもふの尻尾の中で。
自分をいたずらにかけた運命のことが、坊やは嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
「――わしは今から楽しみじゃ。『池月』の名を持った若狐が、いつの日か民の語り草のように謳われる日が」
そう囁いて、もう一度、今度はよりいっそうの想いを込めて坊やをもふりもふりと包み込んでやったとき。
坊やは月明かりの下、ただ満面に笑顔の花を咲き誇らせながら、いつかそんな素晴らしい狐になる日をそっと夢に見ていました。
<おわり>
◇ ◇ ◇
再投稿させていただきました。遅ればせながら、もふパラシリーズ復活おめでとうございます!
そしてラクダさん、ラブコールを頂戴しありがとうございました! 遅くなってしまいましたが、お納めいただければ幸いです。
以下は初回投稿時に掲載したものをそのまま掲載させていただきます。
ご覧下さりましてありがとうございました!
◇ ◇ ◇
狐といえば、やはり満月でしょう! 満月を背にシルエットになった姿、尻尾の揺らめくさまが浮かんでまいります。
たまたま月齢表を見ていたところ、「満月って18日か! 18日ならまだ時間もあるし、書かせていただけるかも!」と思い立って書かせていただいたのがこの小説です。
今回は(イケズキさんのご許可の下、)池月くんのお名前を史実に絡めた形態をとってみました。
イケズキさん、この絡め方、お気に召していただけますでしょうか……(笑)
池月君にスポットライトを当てているため、ロコンちゃん・ゾロアくんの出番が少なめになってしまったのが悔やまれるところです。
ストーリーコンテストの精読が終わって余裕ができましたら、今度はふたりももっと存分に描かせていただきたいですね。
……本当は(4月)18日のうちに上げるつもりだったのですが、肝心の部分でスランプとトラブルに陥り大ピンチに。
夜中から手書き原稿に移行したところなんと筆が進むわ進む。
みなさんもキーボードを駆る指が止まった際は、ぜひ手書き原稿をご検討ください(笑)