ランニングシューズがなくたって運動神経がなくたって本気を出せばある程度は走れる。
朝飯も身支度もぶち抜いて家を飛び出すと、後ろからお母さんの「ジャケット裏返しよー!」の声が追いかけてくるがうっせぇそんなの分かってんだよ! 直してる場合じゃねーんだよ! ちゃんと着てほしいなら定時に起こしやがれ!
角を曲がってトウコん家の玄関にすがりつくと、二階からものすごい騒音が聞こえた。爆発的に鼓膜へ飛び込んできた音声をどうにかしてほどいてみると、ベルの叫び声と豚の鳴き声と何かが割れる音、ドタドタ壁を蹴るような音、そんなもんが何テイクも重なり合って断続的に聞こえる。家が揺れている。
不意にトウコの声が凛々しく叫んだ。「たいあたりッ!」
またどんがらがっしゃんと破壊音。
まさか。
あいつら……。
驚くべきは、一階でトウコのママさんが普通にお茶を飲みながらテレビを見ていたことだ。
「おじゃまします」
「こんにちは、みんな二階よ」
「あの、揺れてますよ」
「そうねえ、テレビが見づらいわ」
揺るぎない人だ。
二階へ上がると、部屋の入り口でチェレンがこめかみを押さえつけていた。
「何やってんだお前」
「ふがいない自分を悔やんでる」
「そうか」
悩める眼鏡は置いておいて部屋を見渡す。
すばらしい惨状だった。家具が何もかも暴れ倒している。傾いた本棚からはだいたいの本が、引き出しが吹っ飛んだタンスからは衣服類が床に散乱していたため思わず下着の影を追ってしまった。なかった。
埃の舞うなか、きゃあきゃあしながらベルは爬虫類に指示とも悲鳴ともつかないものを飛ばしていた。わけもわからず壁だの棚だの窓枠だのを駆け回る草蛇を、トウコのきびきびした声にしたがって子豚が追いかける。追いかけながらカーペットをぐちゃぐちゃに引きずった。
「たいあたりーっ」
豚のほうが蛇のすばしっこいのを読んで壁の一角へ突進した。ちょうど走りこんできた爬虫類を壁との間にむぎゅうと潰し込んだのを見てベルがものすごく叫んだ。蛇が目を回して床に倒れ伏し、それでやっと騒動は終わった。
「ツタージャ……!」
駆け寄ったベルが悲惨な顔でへなびた草蛇を持ち上げた。が、そいつはやられた割にはぴんぴんしている。ギュルルと思いっきり腕の中でバク転して尾っぽで飼い主の帽子を叩き落としてみせた。
「あだっ」
倒れたベルをにゃははと笑いながらトウコが起こす。八重歯たまんね。
「すごい……すごい、すごい、すごぉい!」
帽子を拾い上げついでに蛇を落としてもたつきながら連呼する。ベルの声は無駄にでけーので寝起きの頭にはちと響く。
「ポケモンったらこんなにちっちゃいのに! すごいね!」
「すごいねえー」
ああトウコも笑ってら。眩しいなァ。
部屋は目も当てられない有様だけどな。さすがに室内でポケモンバトルはないわ。
「それより二人とも、周りを見t」
「でもポケモンもだけど、トウコもすごい! ポカブと息ぴったりだったよ!」
「えへ、ありがとー」
「二人とも、話を聞k」
「ほんと模擬戦で自分のヨーテリーに手噛まれたどっかの眼鏡とは格が違うね!」
注意しかけたどっかの眼鏡は、ベルによって的確に地雷を踏み抜かれて崩れ落ちた。
「違う、あれは直前にモモンの天然水をこぼしていたせいで……」
「へええ、チェレンったらトイレ入ったあと手とか洗わないタイプぅ?」
「違う!」
ああ、トウコが豚抱いてけったけた笑ってら。屈託ないなァ。部屋ぐっちゃぐちゃにされても笑顔でいられる揺るぎないところがお母さん似だなァ。
「トウコ、おはよう」
とりあえず爽やかな朝に笑顔は欠かせない。挨拶するたび友達増えるね。
「おはよートウヤ。どうしたの?」
「うん、華麗に寝坊」
「おめでとー」
何がめでたいのかわからないけど可愛いからいいや。
「もうみんな選んじゃったよ。ベルがツタージャで、チェレンが青いタヌキ。あたしポカブね」
「へー」
まあ眼鏡でいじめられ屋という点では青タヌキを所持する条件を十分にクリアしてるよなあいつ。
「ところでトウコ、俺のは?」
何気なく投げた言葉だったが、そいつは意外と勢いよくトウコの額に刺さり、彼女を硬直させた。
同時に空気も凍りついた。
「えっ」
「えっ」
俺のポケモンは? と続ける前に同じトーンで返さないでほしい。何もいえなくなる。
うすら寒いものを背筋に感じ、部屋中に散らかった衣類やら本やらを慎重に踏み越え(それでも踏んだシャーペンがきゅうしょにあたって悶絶した)、なんとか机のそばに転がっていた巨大なプレゼントボックスの前に辿り着き、それを引っくり返してみた。
紙が一枚ぺらりと出てきた。
「緑のへびがツタージャ、赤いぶたがポカブ、青いラッコがミジュマルです。仲良く選んでね! アララギ」
そうか。あれはタヌキじゃなくてラッコだったか。
ところで俺のポケモンは?
「自業自得だよ。遅刻するほうが悪い」
「トウヤ正拳」
「ガッ」
右拳に眼鏡が食い込む感覚。チェレンはたおれた。
とりあえず分かったのは、アララギのクソババアには仲良く選ばせるつもりの欠片もなかっただろうということだけだ。
「どうしようトウコぉ、チェレンがしんじゃったよぉ」
「教会で蘇生させてもらえばいいんじゃないかな?」