引っ越したい。
このじめじめした四畳半一間、トイレ共同、風呂は銭湯の生活から抜け出したい。そろそろ抜け出したい。着々と食費に潰されていく貯金も、もとはといえばそのために始めたものなのだから。
昔はなんとかなると思っていた。
いや、むしろ「なんとかできる」と思っていた。この指先の硬くなった手で、このアコースティックギター一本で、やっていけると信じて疑うものは無かった。それが今は……。
いや。今でも変わらないのだ。だから生活が苦しいままなんだ。賢くならないかとはよく言われる。せっかく体力があるんだから日雇いじゃなく、シフト組んでパートで入れてやってもいいと引越し業者には言われる。
それでも賢くなれないのは何故だろう。
ライブハウスで先輩に指がかたいんじゃないのかと言われても、路上でケースを心無い足に踏みつけられても、才能ないんじゃないと彼女にフラれても、それでも諦め切れなかったのは何でだろう。
そうやって疑問を持つことによってさえ諦めへの第一歩を踏み出してしまう気がして、俺は考えるのをやめた。
起き上がると朝は十時半で、布団はべたついて気持ちが悪い。顔洗ってそれから、そうだじょうろに水を汲まなければ。
俺の日課に、水やりというのがある。
いやに水の出の悪い蛇口を捻り、園芸用のでかいじょうろに水を溜める。しかし俺の部屋に鉢植えはない。そのかわり、西向きの窓の日陰に、ヒトデマンが転がっている。レジャーシートを敷いたその上に、水晶のような光をたたえたヒトデマンが鎮座しているのだ。
ちょっと前までは銭湯からかっぱらってきたケロヨンの風呂桶に入れてやれたのに、少しずつ成長しているようでもうあんまり窮屈そうだったので出してやった。それからずっと、ヒトデマンに水をやるのは俺の日課なのだ。
「おはようさん」
ヒトデマンは俺の声に返してくれているのか、もしくはただ単に水がうれしいだけなのか、朝方のかったるい日陰でコアをぴかぴか光らせた。
「今日は昼からだよな」
ライブハウスの掃除の仕事が入っている。これも日給で、終わるのが午後十一時の予定だから、帰りにコンビニでこいつと俺の夕飯を買って、ちょっと弾いて一日が終わるだろう。
手持ちぶさたになると、気が付くとケースを開けている。
少し大きめな俺のギターは、高校ん時に叔父から譲り受けたものだ。
叔父の家はカイナシティにある。小さい頃は夏休みのたび叔父の家へ行って、海で遊んだもんだ。あのサイコソーダの味は忘れられない。
海が好きだ。
海には潮騒があり、人の賑わいがあり、うみねこの声が響き、砂を踏む音がある。そんな音が何テイクも重なってそこに海がある。それがいい。俺はそんな海で叔父のギターを聞いたのだ。叔父が弾いたのは古い曲で、亭主関白をもって妻を愛する男にまつわる弾き語りだった。その頃はよくわからなかったものの、今聞くとなんとなく、染みる。叔父は妻を亡くして一人身だったのだ。
いや、それ以外にも聞いた気がする。ギターを。そうだどこか、異国の言葉で。
ああ思い出しそうだ。そういえばヒトデマン、お前を拾ったのもあの海だったな。カイナのにぎやかな海とはほど遠い、北側の紺色をした海だ。灰色の砂を覚えている。あの異邦人のでっかい麦わら帽子も。
俺がたしか、ちょうどこのアパートに引っ越してきて間もなかった頃。
バンド仲間との打ち上げが迫り、たとえそれがスクラッチで当てた五万円ぽっちだろうが金があるのがバレるとたかられるので、いっそ使っちまおうと思って思い切って鈍行列車に乗って向かった海。
残暑の厳しい九月に、家族連れとアベックが一組に釣り人と散歩している親父がちらほらなんて寂しい海だった。それでも俺は磯へ入って、ちょっと泳いではくしゃみを連発したりした。一人じゃ寂しいかなんて予感は出発前からあったが、そのときはギターを鳴らしていればいいと思った。広い海なら騒音公害だとかなんとか隣人に壁を叩かれる心配もないし、うまくいけばお捻りも期待できる。
そして磯でさ、俺の膝に張り付いてはがれなかったのがお前だよな。
どうしたもんかってそこの釣り人に聞いたら「兄ちゃん、そりゃあいけねえわ。あんたそれヒトデマンに噛まれてるよ」だもんな。ビックリしたよ。そうだあの頃はお前もまだこんなもんだったよな。今じゃ枕にできる大きさなのにな。
しかも逃がそうとしても手のひらから離れないんだよな。何だよお前、磯じゃいじめられてんのか? って俺が聞いたの覚えてるか。……おい、光るなよ。だってお前さ、なんか必死な感じしたもんな。わかるよ。俺もずっと学校でヘッドフォンしてたらちょっといじめられかけたもん。
んで、どうしようもないから近場のフレンドリーショップでモンスターボールでも買って連れて帰るか、とか思いつつ膝から引っぺがしたヒトデマンを持ったまま歩いていると、木陰から弦楽器の音が聞こえたんだ。
覗いてみるとそれはココナツみたいな形のギターで、弾き手は目の蒼い男だった。不健康に白い手で弦をはじいている、けどもそのなんともすがすがしい、真夏に感じる清流の風のような音色に俺は驚いたんだよ。間違いなく。
異国の曲なんだろうな。そいつが何語喋ってんのか俺にはわからなかったが、俺も気が付いたらギターを下ろして一緒に適当に弾いてた。そいつは挨拶みたいなことをしてきたから、俺は挨拶みたいなことを返した。あとはギターを弾いただけだった。二、三曲か? あいつ上手かったな。あれきり会ってないけどな。
夜になって、篝火が見えるような時間になってさ。
――CDだよ。俺が帰ろうとしたら、あいつがよこしてきたんだ。年季の入ったやつ。あいつの持ってたのと同じ弦楽器がジャケットに描いてあった。
それで俺、そのままもらうわけにもいかないだろ。タダで。大切そうなもんだったし。でも俺がそのとき持ってたのは帰りの切符と、磯で拾ったヒトデマンと、ギターと、230円だけだった。
どうしたかって? 何だよ、そんなに点滅するなよ。まだ怒ってるのか、あのときあいつにやった230円があればボールが買えたって? しょうがないだろ。じゃあお前を渡せばよかったのかよ。そこで採れた新鮮なヒトデマンですってか? あ、止んだ。
大きなアコースティックギターを抱えるように構えて、胡坐で座って弦に触れる。なんだかこうして海を思い出しちまったからには、またあの曲が弾きたいな。あのとき230円でもらったあのCDの、異国の弦楽器の曲。
思い出しながら弾いてみた。
やっぱり楽器が違うから、あんなふうに細かく振るうような、綺麗な音は出ない。その代わり、流石叔父のギターだ、哀愁漂うマイナーコードが似合う。
あの海の一瞬を思い出しながら弾くと、俺は必然、ヒトデマンをみつめていた。
ヒトデマンはまるでギターから吐き出される波形を飲み込んでいるかのように、歌うようにぴかぴか点滅していたが、やがてちょっとずつ透明に、星型のすみずみまで輝きながら歌い始めて、どうしたんだと思ったら、突然くるくる回りだしやがった。
「おい、踊るほどじゃあないだろ。」
笑ってやると、ずっとずっとまるで燃え尽きる前の星のように赤く輝いて、本当にどうしたんだ、なんてとうとう心配になるほどくるくる発光していると、ほどなくしてゆっくり回転が止まった。
しかしそこにもうヒトデマンはいなかったのだ。
なぜなら奴は、紫翠のような深い輝きを湛えた、スターミーになっていたからだ。
俺は目をぱちくりした。
「進化……」
それでも手は止めなかった。最後まで弦を弾いて、それからまじまじとスターミーを見た。
スターミーはちかちか点滅した。
「……するんだなァ」
俺は窓の外に白昼の空を感じつつも、ギターに寄りかかって欠伸をした。
さ、仕事へ行く準備でもするか。
今は日雇い労働者でも、いつかはこのギターと腕とで引越しをできる金を稼いでやるのさ。そして今度は風呂とトイレのある家へ住んで、ヒトデマ……スターミーをきちんと風呂へ入れてやろう。あの銭湯はポケモン禁止だからな。
「あ、そうそう」
朝風呂しにいくのに、一度俺は相棒ふたつを振り返った。
「いつもサンキューな。つまんねー愚痴聞いてくれて。」
ギターは相変わらず無口だが、スターミーはちょっとちかちかした。
いつかこの潮騒で稼いだ金で、もう一度お前の生まれた海へ行きたい。お前のためじゃないぞ。俺はな今度はな、あの異邦人ともう一度会い見えてだな、あの弦楽器の名前を尋ねてやろうと思っただけなんだぜ。
***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】
とある友人に敬意を表して。
彼女の好きなポケモンが偶然スターミーだったとかいうまさかなこともありました。