ん、誰だ?
ああ、驚いた。こんな霧の多い日に、上まで来る人がいるとは思わなかった。
このあたりの山の上のほうは天気も曖昧だし、墓も古いものばかりだから、あんまり人は来ないんだけど……え? なるほど。ホウエンには観光に。それは納得だ。晴れていればここから見る景色は最高だしね。でも生憎の天気で。ごめんね。あ、いや、確かに天気は俺のせいじゃないけどさ。何か悪い気がして。
ここらへん? 珍しいポケモンかあ、いろいろいるよ。野生の狐も出る。というか、他の地方から来た人にはどこも新鮮じゃないの? あ、そうなんだ。いわゆるグローバル化ってヤツだね。最近じゃどこでもいろんなポケモンがいるからなぁ。まあホウエンはね、けっこう他のところから遠いからね。俺なんかハジツゲ生まれでハジツゲ育ちだから、完全に井の中の蛙さ。ははは。
ん?
今の音?
ああ……あれは鈴の音だよ。
そうだ。
せっかくだから面白い話をしてあげるよ。
良ければ聞いていってくれないかな。
君はハジツゲには行った?
これからか。そうだよね。船が着くのはミナモだもんな。ここは通りがかりか。
あそこには、たぶん君も知ってるんじゃないかと思うけど、降ってくるフエンの火山の灰から硝子の粒を取り出して、加工して硝子細工をつくる伝統工芸の店がある。
ずいぶん昔からああいう技術があるらしくて、うん、灰から取り出して硝子をつくるのはものすごく大変な作業らしいんだけど。
昔々、ハジツゲの硝子細工の職人の十二番目の弟子に、地味な男がいたんだと。
人のいい男で、腕は確かなんだけど、上の弟子にいいように使われたり、細工の腕を妬まれてつくったものを粉々にされたり、それは散々な扱いを受けていたらしい。
それでもひたすら真面目に働き続けたその男は、師匠に見込まれて、この送り火山にね、霊を慰めるための細工品を納めることを許されたのさ。
そして初めてこの山を登った彼は、頂上あたりのここで、一人の美しい娘と出会う。
長く艶のある黒髪に、丈の長い赤の着物を着た娘。
彼女はこの山に住んでいて、墓参りにくる人へ茶を振舞っているのだと言って、彼も家へ上げて、茶と団子を振舞ってくれた。
彼は一目で彼女に心を奪われた。
声を掛けると、鈴の鳴るような麗しい声で返してくる。
その優しげな響きは、普段彼が暮らしていてかけられることの決してないものだった。
職人の世界は厳しく、上からの声はいつも罵声で、下からの声は失敗を責め、周りからの声は冷たかった。それでも「信じれば報われる」という亡き親の言葉を信じてやっていた彼のくたびれた心に、彼女の喉を震わせ紡がれる優しい響きはそれこそ、枯れた大地に降る慈雨のように染み渡ったんだ。
彼は、細工を納めるのを口実に、何度も彼女に会いにここへ来た。
細工をつくるには時間がかかったけれど、彼女を思えば彼はどんな辛い仕打ちにも耐えることができた。
そして彼女への手土産に、綺麗な鈴をひとつ、行くたびに必ずひとつ、つくって持ってきたんだ。彼女の言葉のように凛と、彼女の声のように涼やかに、優しく響く鈴を。
彼女はそれをとても喜んで、お返しにも私はこんなもてなししかできないけれどと言いながら、彼をいつも茶と団子をつくって待っていてくれた。
なによりその喜ぶ顔が嬉しくて、彼のつくる鈴はどんどん細かい細工が施されるようになり、しまいにはここへ納められる細工品よりもずっと手の込んだものになっていった。
そして幾星霜の過ぎたある日、ついに彼は、彼女へあるお願いをすることを決意した。
それは山を降りて、自分と供に暮らしてくれないか、という願いだった。
彼は全身全霊をかけて、ひとつ風鈴をつくった。
何度も筆を入れる前に壊されたりしたけれど、それでもめげずにつくり続けて、遠慮の深い彼でさえ最高の出来だと胸を張れる、素晴しい風鈴をひとつ、完成させた。
そしてそれを、普段は霊前に納める細工品を入れている桐の箱へ入れて、大切に胸に抱いて、山へ向かったんだ。
彼女の家で、出された茶を一口だけ飲んで、彼はその話を切り出そうとした。
実は――と切り出したところでね、けれど彼にはそれが言えなかった。
一瞬で彼女の姿と木目の家が掻き消えて、彼は草むらの上に座っていたからだ。
囲炉裏のように並べられた平べったい石の上に、皿に見立てた大きな葉っぱが置いてあって、その上には獣の糞を丸めた団子のようなものが置いてあった。そして彼が手の中を見ると、欠けた茶碗の中に雑草まじりのどろ水が入っていたんだ。
彼が顔を上げると、さっきまで彼女の座っていたところに、緋色の目をした獣が居た。
白い姿の九尾の狐が、からかうようなそぶりで尾を振って笑いながら、彼をみつめていた。
彼はとたんに真っ青になって、げえげえ飲み込んだものを吐き出しながら去っていった。
それを狐はあざ笑いながら見守ったそうだ。
彼はそれきり、山へは行かなくなった。
しばらくは仕事に没頭して、何もかも忘れ去ろうとしただろうさ。
けれどふとしたことで、彼女の顔を思い出す。あの優しい声を。鈴を転がしたような響きを。兄弟子に灰集めを無理強いされて、集めたところでなんとも動きが遅いなど役立たずなどと怒鳴られて辛いときに、思うように細工ができず苦しいときに、彼女のことを思い出す。
そして彼は、あの時驚いて置いてきてしまった風鈴を思い出した。
あの風鈴はどうなったのだろうか。
彼女はあの風鈴を、自分の想いのかたまりをどうしただろうか。
どうしても彼女が忘れられず、彼はしばらく経ってから、ふたたび山を登った。
あの囲炉裏のような石のそばに、桐の箱はもう無かった。
彼はそこへ座って、ゆっくり彼女のことを思い出した。
それから、静かに言ったんだ。だれもいない囲炉裏の向こうへ。
「わたしはどうやらずっと騙されていたらしいが、わたしはもうそんなことには慣れっこなのです。そんなことより、わたしはこんなみすぼらしいわたしを、たとい嘘まやかしだったとしても、家へあげて、茶菓子を出して、話を聞いてくれたあなたをわすれることができません。どうかお願いです、にげだしたわたしを見捨てずにいてくれたのだとしたら、まだあの鈴を持っていてくれたのだとしたら、わたしの前へ姿をあらわしてください」
何も起こらない。
風が吹いて、朽ちた墓石の上で蔦を揺らしただけ。
「わたしはあの日、あの風鈴をもってきて、あなたに頼むつもりでした。山を降りて、わたしと暮らしてくれないかと。わたしはあなたがたといまぼろしだったとしても、もうかまわないのです。もういちど会いたい。ともに暮らしたいとさえ思う」
霧が濃くなってくる。
風が淀んで、ざわめきが遠のいていくだけ。
「よい返事をくださるならば、あの風鈴を鳴らしてください。わたしはまたここへきます」
そう言って、彼は霧をかき分けて、山を降りた。
しかし、彼が霊山から帰るため、水辺を舟で渡る途中に、彼は嵐に遭った。
彼はしばらく霊を慰めるために細工を持ってくることがなかった。それよりも彼女のための細工をこだわることもあった。そのための罰だったのかもしれない。
水が増えて、静かな水面は荒れ狂う波を寄せた。
彼の乗った舟は木の葉のように軽々と引っくり返り、彼は水の中に放り出された。
なんとか溺れないで済んだのに、あたりは霧が濃くてどっちがどこなのか全然判らない。
やみくもに泳いでは、岸から離れてしまわないか心配になり、彼はためらうたび雨と波に飲まれそうになる。
そんなとき、ふいに、青白い炎が浮かんだ。
まるで導くように彼の前に現れて、叩きつけるような雨の中、粟立つ水面に燐の火粉を写しながら、煌々と燃え上がった。一直線に霧のなかを切り裂いて。
彼は夢中でその炎を追いかけ水を掻いた。
腕を振り回すように泳いで、炎に導かれるまま、彼は対岸の岸へたどり着いた。
そのころには炎はすっかり小さくなってしまっていて、いまにも燃え尽きそうだった。
濡れ鼠の彼が震えながら良く見ると、燃えている炎の中にあるそれに見覚えがあった。
それは彼女の着物のすそだった。
しかしそれはみるみる、狐の尻尾の先に姿を変え、ぱっ、と一瞬大きく炎を散らしたとき、そこには伸び上がる純白の狐の尾が九つ。
燃えて、燃えて、青白く燃え尽きた。
雨がしだいに優しくなる。
風があたたかくなる。
そして炎の燃え尽きたところに、ばらばらと鈴が落ちてきた。
それは彼が彼女に届け続けた鈴だった。
しまいには、あの風鈴も。
彼女はずっとそれを持っていたのだ。
それを悟ると、彼は叩きつけていた雨のように泣いた。
しんみりした顔するなよ。話はここからだ。
彼女は燃え尽きてしまったから、もう風鈴を鳴らす人はなくなってしまった。彼は返事を聞けずじまいだ。
けれどね、彼の目の前で、今度はひとりでに、誰の手も借りないまま、風鈴が鳴り出したんだ。
彼女の声とよく似た、凛とした優しい響きでね。
そう。そういうことだよ。
だから今でもここで、たまに鈴の音が聞こえるのさ。
いやいやいや、礼なんて要らないよ。たいした話じゃなかったしね。
え、俺はここへ何をしに来たのかって?
ああ、さっきからこの古い墓の前でずっとしゃがみ込んでたからな。
昔、好きだった人がいてね、ここに眠っているんだよ。
ずっと俺が鳴らす鈴の音を聞きながら。
ちりんちりん
***
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評していいのよ】
某氏の昔語に影響されて。