「……よし、寝たな」
俺はこっそり布団から出た。ナズナが居眠りしていて中々厄介だが、どうやらまだ起きてないみたいだな。窓の外はすっかり暗い。時計は午前1時を指している。
「礼もせずに申し訳ないが、出発させてもらうぜ」
俺は忍び足で玄関までたどり着き、引き戸を慎重に開けた。その瞬間、雨風が俺の胸に飛び込んでくる。
「ちっ、面倒だな」
俺は脇に目を遣った。傘が2本あるな。1本は真っ赤、もう1本は深い緑。ま、致し方あるまい。ちょっと借りるぜ。俺は緑の傘を手に取り外に出た。
「やっと脱出できたぜ。しかし、この真夜中にどこへ向かうべきか」
俺はふと考えを巡らせた。俺は正体がばれるのを警戒しないといけない。仮に俺に罪が無いとしても、やっちまったことを消すわけにはいかねえからな。ではどうするか。簡単な話だ、一刻も早く別の町に行くしかない。
俺は耳を澄ました。確かタンバには海がある。そこで船にでも乗っちまおう。俺は波の方向に歩き始めた。
歩いて100メートルもしたら、なんと交番があったじゃねえか。ついてねえ、別の道を行くか。そう思った矢先、運悪く警官に出くわしてしまった。白髪だらけの老人である。
「む、お主見かけない顔だな。こんな夜更けに何をしておるのじゃ?」
「いや、特に何も。まあ、強いて言えば散歩だな」
「なるほど。……しかし、それならなぜお主の持っている傘はナズナさんのものなんじゃ?」
おいおい、この年で因縁つけてどうすんだあんた。ぱっと見、脅しができそうな姿ではないぞ。
「なんだと。おい爺さん、変な言いがかりはやめろよ」
「言いがかりではない。ナズナさんはいつもその傘を使うんじゃ。しかもとても大事にしていてのう。あとわしは爺さんではない、ナツメグという名前がある」
……この深緑の傘をか? 中々良い趣味してやがるな。しかし、この傘のせいで爺さんの疑いの眼が俺に向けられてしまったのは事実。うかつだったぜ。
「なぜお主がナズナさんの傘を……もしや、貴様泥棒じゃな? いやきっとそうに違いない!」
「あ、あのなあ……」
「問答無用! 来い、朝まで捕まえておいてやる!」
俺は爺さんに胸ぐらを掴まれると、そのまま交番に連れて行かれるのだった。この爺さん、なんでこんなに力が強いんだよ。
「ナズナさんや、ナズナさんはいるかね?」
「あ、ナツメグおじさん! どうしたんですか、こんな明け方に?」
明朝。俺はナツメグとか言う爺さんに引っ張られ、ナズナの家の前まで来ていた。俺が素性をしゃべらなかったから、被害者との面識の有無を確かめようとのことらしい。俺の腕には手錠がかけられてあり、逃走は不可能だ。雨は既に上がり、台風一過と言わんばかりの晴天である。
「実はな、昨晩お前さんの家に泥棒が入ったみたいでなあ。ほれ、こっちだ!」
「……すまん」
俺は爺さんに突き出された。開口一番、俺は頭を下げて謝罪した。事情はどうあれ、俺が傘を盗んだという形になるのは事実だからな。俺を見て、彼女は声を上げた。
「テンサイさん! 一体どうして……」
「なんじゃ、ナズナさんはこの男を知っとるのか?」
「はい。おとといの夕方彼が倒れているのを発見したので、私が看病していたんです。駄目じゃないですかテンサイさん、体にさわりますよ」
ナズナは爺さんに状況を説明した。すると爺さんはばつが悪そうな表情で頭をかきむしった。
「なるほど、そういうことか。またやってしまったのう。もう誤認逮捕は何回目かわからんわい」
爺さんはそっと俺の手錠の鍵を開けた。俺の手が再び自由になる。……一体、何人がこの駐在の犠牲になったのか。少し興味があるな。
「それじゃ、わしはそろそろ失礼しよう。良いかテンサイとやら、病人の立場を利用して彼女に手を出そうもんならただじゃおかんぞ」
「はいはい、わかりましたよっと」
爺さんは不要な釘を刺すと、のんびりした足取りで帰っていった。彼が視界から外れた後、俺はナズナに詰め寄った。
「おい、なぜ俺を庇ったりしたんだ?」
「なぜって、テンサイさん何も悪いことしてないじゃないですか。まあ、私の傘を勝手に使ってましたけどね」
彼女はいたずらっぽく笑った。陽気なのも、ここまで進めばある種困りものだな。俺は更に彼女を問い詰める。
「……ふん、俺はあんたが考えるほど善人じゃねえよ。むしろ大悪人だ。そのことを知ってたらどうだったんだ? 俺を警察に突き出したか?」
「もちろんそんなことしませんよ」
「な、俺の話ちゃんと聞いてたか?」
「聞いてましたよ。でもテンサイさんは良い人に見えます。それに、もし仮に悪い人でも大丈夫! 私がテンサイさんの心を奪って神様に捧げちゃいますから
ね。これでテンサイさんは善良な人になれますよ!」
彼女は胸を叩いてこう言い切った。……む、俺としたことが、心が震えてやがるぜ。こんな気分になったのは10年以上無かったが、今になって魂を揺さぶられるとは思いもしなかった。だが、そのことを悟られるのもなんだか気恥ずかしい。俺は目頭が熱くなるのを隠しながらこう答えた。
「……くっ、そりゃ結構なことだ。じゃあ、1つ頼むとするか」
「その意気です! さ、そうと決まればまずは寝ましょう。今日は休みですか
ら、ゆっくりできますよ!」
俺は彼女に促され、一緒に家の中に入るのであった。ふっ、今日は久方ぶりにゆっくりできるぜ。
・次回予告
様々な事情を考慮し、彼女は俺を半ば強制的に居候とした。しかし何もしないと頭がおかしくなりそうだからな。仕事を探すとしよう。次回、第3話「科学者、職を探す」。俺の明日は俺が決める。
・あつあ通信vol.69
この話のナズナさんの台詞は、ユゴー作の『ああ無情』が元ネタです。犯罪歴のあるジャン・ヴァルジャンは、その経歴を示すカードのために今晩の宿にありつけない。そこで親切な神父が暖かい食事と寝床を提供しました。しかし彼は神父が大事にしていた銀の燭台を盗んで夜中に部屋を抜けました。案の定捕まり、翌朝神父の前に連れられます。そこで神父の一言。
「ああ、一体どうしたのですか。銀の食器も譲ると言ったではありませんか」
ジャンはこの一言でことなきを得ました。戸惑う彼に、神父はこう述べるのでした。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪人ではありません。あなたの魂を私が買いましょう。あなたの魂を悪から切り離し、神の下に捧げるのです」
この時を境にジャンは更正し……。
非常に素晴らしい作品です。岩波ジュニアであるので、是非とも読んでほしいところ。
あつあ通信vol.69、編者あつあつおでん