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  [No.3251] Good-bye, Painkiller. [part 2] 投稿者:   《URL》   投稿日:2014/04/26(Sat) 22:04:28   84clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:R-15

――僕らの世界に<異物>が入り込んで来たのは、夕暮れ時が終わって夜を迎えようとしていた頃のことだった。

 「ああ、こんなところに! お待ちください、お待ちください!」

前から声が聞こえてきて、僕は思わず足を止めた。進行方向に見える人影は声を上げたのに続けて、こちらに向かって駆け寄って来る。駆け寄ってきた人の容姿を確かめてみると、概ね三十代半ばくらいに見える女性だった。誰だろう、少なくとも僕の記憶には一致する顔はない。だとすると、かたはの知り合いだろうか。

ねえ、かたは。あの人は――僕は彼女に問いかけの言葉を投げ掛けようとして、隣に居たはずのかたはが僕より幾分先を歩いていることに気が付いた。距離的に、僕が立ち止まっていた間もそのまま歩き続けていたと考えるのが自然だろう。やがてかたはも僕が隣に居ないことを知ったようで、足を止めて後ろへ振り向いた。

 「あつくん、あつくん。どうしたの? どうしたの?」
 「前に女の人がいて、僕らに声を掛けてきてるんだ。かたはの知り合い?」
 「知らない、知らない。アイ・ドン・ノウ。かたはのちいさなお耳には、そんなお声は聞こえません」

知らない、とあっさり否定して、彼女が僕へこちらへ来るよう促す。そうか、知らないんだ。彼女の言葉に嘘は無い。彼女の言葉を信じよう。かたはの側まで駆け寄って、再び手をつないで歩き出す。手をつながれたかたははうれしそうに頬を緩ませて、あつくん、あつくん。あつくんの手、あったかい。あったかくて、とろけてしまいそう――僕にそんな言葉を贈ってくれた。

 「そちらの方はどなたですか? どなたかは存じ上げませんが、すぐにこちらへ来てくださいませ!」

女性はしきりに声を上げている。けれどかたはが反応する気配はなく、何か行動を起こす素振りも見せない。僕もすっかり興味が失せてしまって、あれがどんなポジションの人物で、僕らに声を掛けている理由が何であろうと、僕らには何ら関係ないという気持ちを持ち始めていた。

ただ――引っかからない点が何も無いわけでもなくて。

 「素子さま、素子さま! お願いですから、私めの声を聞いてくださいまし!」

モトコ。僕はその音韻に聞き覚えがあった。

かたはの使っているメールアドレス。そのアドレスのアットマークの前部分は「motoko-84」だ。かたはと、モトコ。もしかすると、かたはの本名と言うかもう一つの名前がモトコ――漢字表記は恐らく「素子」――なんじゃないか。勝手ながら、僕はそんな考えを抱いていた。あの女性が「素子」と呼ぶ理由は、もしかすると僕の考えが当たっていたから、かも知れない。

そうこうしている内に女性はすっかり距離を詰めてきて、そのまま迷わずかたはの右手を取った。

 「素子さま!」

女性から「素子」と呼ばれたかたはは、取られた手をぶんっ、と無造作に振り払って、中空でぱたぱたと振って見せた。穢らわしいものに触れられてしまった。彼女のジェスチャーからはそんな印象を見て取れる。

 「今日の風、なまあたたかくて、ヤな気分。べっとり、じっとり、ねっとり、しっとり。とってもとっても、ヤな気分」

手を触れられたことを「風に吹かれた」と解釈して、かたはは強い不快感を露にした。しきりに手を振り回して、かたはの中で纏わり付いている「風の感触」を振り払おうと躍起になっている。僕は彼女の仕草を見て、女性は彼女にとって歓迎されざる存在であり、彼女の世界には存在しない扱いを受けているのだと確信した。なら、僕も彼女に倣おう。僕とかたはの関係に割って入ろうとするなら、出て行ってもらうだけだ。

 「素子さま、素子さま。お母様もお父様も、素子さまのことを心配されておいでです」
 「早く家に戻られないと、お体の具合を悪くしてしまいます。どうか聞いてくださいまし」

縋りつく女性をその都度その都度無表情のまま振り払いながら、かたはは僕と並んで一緒に歩き続ける。僕は厄介事に巻き込まれているかたはのことが不憫に思えて、組んでいる腕に力を込めて彼女を自分のすぐ側まで引き寄せた。僕の存在を皮膚で感じ取れたかたはが、不満げだった表情を和らげて笑ってくれた。こちらに顔を向けたかたはの頬を撫ぜると、くすぐったそうに目を細める。ただただ愛しかった。

そろそろ行こうよ。僕が呼び掛けるとかたはも呼応して、追ってくる女性を振り払うかのように歩き始める。いい加減、僕とかたはに纏わり付くのはやめてほしい。僕がかたはと共に居られる時間はとても貴重で、どこの馬の骨とも知れない外の人間に土足で踏み入られるのは迷惑極まりなかった。

 「致し方ありません。本意ではありませんが……」

僕らのすぐ横にいた女性がそう呟いて、ポケットへ手を突っ込んだ。間もなく中身を探り当てて、ポケットの外へ持っていたものを出した――その瞬間だった。

 

 「あぁぁあああぁぁぁあッ!!」

 

金切り声。本当にそう表現するしか無い、耳を劈くような凄まじい声を上げて、かたはが左手で女性の手を薙ぎ払った。

 「あッ」

声を上げると同時に、女性の手から何かが吹き飛ぶ。僕は反射的に吹き飛ばされたものを目で追いかけて、落ちた先の地面を凝視する。

雑草を下敷きにして転がっていたのは――落ちた衝撃で蓋の開いた、空のモンスターボールだった。

この女は一体何をしようとしていたのか。僕の疑念が一気に増幅する。まだ、何かポケモンが入っていたなら理解もできた。そいつにかたはを力づくで連れて行かせようとしたのだと考えることができる。けれど、地面に転がるモンスターボールは空で、中には何も入っていなかった。用途が想像できない。僕は何ら理解できぬまま、転がったボールを凝視し続ける。

 「――キライ」
 「キライ、キライ、キライ」

隣からかたはの声が聞こえてきて、僕はそれ以上無意味にボールを凝視するのを止めた。

 「キライ、キライキライ、キライキライキライ」
 「キライキライキライキライキライキライキライキライ」

何かに取り付かれたかのように「キライ」と連呼し始めて、見る見るうちにそのスピードが速くなっていく。息が切れるのも構わずに繰り返して、何もかもすべてを拒絶しようとしている。癇癪を起こした子供、僕は彼女の姿にそんなビジョンを見出していた。

 「キライっ! キライキライキライキライキライキライキライキライ! キライキライキライ、キ・ラ・イ!」
 「キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ! キライキライキライ!」

すぐ側にいるあの女が何かしでかそうとして、かたはがそれを力づくで止めさせた。それはかたはにとって絶対的に「キライ」なもので、許容することなど到底できないものに違いなかった。髪を振り乱して暴れる彼女の様子を目にして、僕は一瞬で理解することができた。

僕は自分に言い聞かせる。あの女はかたはに危害を加えようとした。かたははそれで酷いストレスを感じて、己れの身を守るためにこんな反応を見せているんだ。彼女は今パニックに陥っている。誰かが側に寄り添ってあげなければ、彼女はもっと苦しむことになる。

 「かたは」

こんな時、彼女の側にいられるのは。

 「――あつ、くん」

僕を置いて他にはいまい。そう思いたかった。

 「大丈夫、心配しないで。僕が側にいる、すぐ側にいるよ。だから安心して、かたは」

力を込めてかたはを抱き締めると、あれほど強い拒絶の意志を見せていたはずの彼女が、瞬く間に落ち着きを取り戻した。乱れていた呼吸のペースも落ち着いて、高ぶった感情がクールダウンしていくのが分かる。僕が背中に回した腕で彼女を労るように擦ると、彼女も僕の背中に腕を回して、より一層互いの躰を近づけ合う。

僕らは、ふたりでひとつだ。

 「君の世界にいないなら、僕の世界にもいない。いないんだ」
 「ここには僕とかたはしかいない。二人だけだよ」
 「いつもと同じ、僕たち二人だけなんだ」

彼女が胸の中で大きく頷いたのが分かる。肯定の意がストレートに伝わってきて、とても心地よかった。僕の気持ちがかたはに伝わり、かたはの気持ちが僕に伝わる。心と心が通じ合う、そんな使い古された言葉を引っ張り出したくなる心境だった。千々に乱れていた彼女の心が安寧を取り戻してくれたことが、僕にとっては何よりも喜ばしいことだった。

 「あつくん、あつくん。ありがとう、ありがとう」
 「かたはのせかい、しずかになって、あつくんだけがそばにいて」
 「ほかにはいない、だれもいない。いるのはただ、かたはとあつくん、ふたりだけ」

かたはが僕と腕を組み直す。僕らはぐっと近付き合って、互いに顔を寄せ合う形になる。かたはの匂いがする。僕はこの上なく穏やかな心持ちになって、かたはが本当にすぐ側にいることと、彼女が僕だけを「見て」いてくれていることの素晴らしさを堪能していた。彼女と同じ空間にいる、彼女と同じ空の下にいる、彼女と同じ空気を吸っている。そのすべての現実が、僕に力を齎してくれる。心を潤してくれる。

 「さあ、そろそろ行こう。日も暮れちゃうしね」

彼女をリードする形で、僕は歩き出す。

モトコサマ、モトコサマ――後ろから聞こえる声は、異次元の別世界からの声。僕とかたはの世界では、その音塊は意味を成さない。

無意味なものに意識を向けるほど、僕らは退屈ではなかった。

 

僕のセカイにはかたはがいる。かたはのセカイには僕がいる。

いつしか僕は、それが当たり前のことだと思うようになっていて。

僕とかたはのセカイは繋がっていて、二つのセカイは確かに繋がっていて、他のセカイからは切り離されていて。

いつしか僕は、それが終わることなく延々と続いていくのだと思っていて。

――けれど。

けれど、僕らのセカイは、揺らぎ始めていて。

 

僕らが出会った頃は、まだわずかに夏の匂いを残していた記憶がある。それがいつしか、コートに袖を通していても肌寒さを感じるような季節になっていた。この日も僕らはいつもの場所で落ち合って、取り立てて特徴のない高校生の連れ合い同士の仮面を被りながら、神への――或いは、僕ら二人への――供物を探し歩いていた。

 「あつくん、あつくん」

僕はその時、彼女から呼びかけられたと思った。僕が平時と同じように隣を見ると、そこに在るはずの彼女の姿が見当たらない。あれ、どこへ行ったんだろう。僕が視野を広げてかたはを探すと、すぐに彼女を見つけることができた。

彼女は僕のすぐ後ろで、ぼうっと空を見つめて立ち尽くしていた。視線はまっすぐ天を向いていて微動だにせず、僕がすぐ側まで歩み寄っても何ら変わるところがない。かたは、かたは。僕が呼び掛けてみても応答は無い。一体どうしたのだろう、僕がかたはの肩を叩こうと歩み寄る。

――ぱたん、という音がした。僕の耳にその音が届いたことを、僕の頭は確かに認識していた。

 「かたは――?」

僕が目にしたものは、仰向けになって地面に横たわっているかたはの姿だった。

ハッとした僕は直ちに屈み込んで、かたはを抱き起こそうと手を差し伸べる。かたははまるで眠ってしまったかのように薄く目を閉じて、とても安らかな、けれど拭いがたい悲しみを纏った、静謐な表情をしていた。葬儀を前にした死者――僕自身は葬儀に出た経験は一度として無かったけれど、穏やかに亡くなった死者の表情は幾度と無く見たことがある――のような顔つきだ、僕はそんな感想を抱いて、そして直後に雑念として切って捨てた。

かたはに何があったんだ。僕は些か動揺しながら、かたはの華奢な躰を助け起こす。かたは、どうしたの。かたは、目を覚まして。僕の呼び掛けは、閉じられた彼女の瞳を開くには至らなかった。急に眠気が襲ってきたのか、もしや発作を起こして倒れてしまったのか。様々な可能性の断片が僕の脳裏を掠めて、次に取るべき行動を考える余地を失わせていく。

ピピピ、ピピピ……という、デジタル時計のアラームを思わせる警告音が、不意に辺りに響き渡る。音源はどこだと周囲を見回すが、それらしいものは見当たらない。耳を澄ませてみて、音の出所はかたは、より正確に言うとかたはの左腕に巻かれている旧式のポケギアだった。状況が飲み込めず、僕はかたはを抱いたまま動けずにいた。

さらなる動きがあったのは、警告音が鳴り始めて二十秒ほど経過した後のことだった。かたはの提げていた小さなカバンから小型化した状態のモンスターボールが転がり出てきてカタカタ震えたかと思うと、光とともに中から一体のポケモンが姿を現した。

 (レアコイル……だったっけ)

眼前のポケモンの名前を思い出すのに、ほんの少しだけ時間を要した。鉄と磁石を思わせる器官によって構成されたフォルムを持つ、一風変わった生態のポケモンだ。三つの小さなユニット――形状は進化前に当たる「コイル」に酷似している――が互いに付かず離れず一体となって、常に地面から少し浮いている。見れば見るほど生物とは思えない、生物として認識するには有り余る違和感を持つポケモンだった。

加えて、このレアコイルには今まで見たことのない特異な点があった。僕から見て右下にいるコイルだけが、他の二体とは明確に異なっていた。二体が明るいしろがね色をしているのに対して、その一体だけは鈍いくろがね色に染まっていた。表情も異なっていて、くろがね色のコイルだけはどこか悲しげな目を見せているのが分かった。残る二体が一般的なコイル・レアコイルに見られる感情を感じさせない無機質な目をしていたものだから、尚更特徴が際立っていた。

レアコイルは三匹揃って僕に目を向けて、ふわふわと忙しなく動いている。僕はその様子から、レアコイルが「かたはから離れろ」というメッセージを送っているんだと察した。僕は状況がよく飲み込めないながらも、ともかく一旦かたはから距離を置いた。僕がかたはから十分離れたことを確認したレアコイルは、一斉に視線を僕から外してかたはへ向け直す。右下の黒いコイルが体を揺らすと、残る二体がかたはにアプローチした。コイルがかたはの身に付けていたブラウスに磁石を引っ掛けると、次の瞬間大きく動くのが見えた。

ばりっ。布を引き裂く耳障りな鋭い音がして、かたはのブラウスからプラスチックのボタンが弾け飛んだ。二体のコイルが力を合わせて、かたはの服を引き千切ったのだ。僕は突然の出来事に面食らって、思わず目を見開いてしまう。僕の視界に映し出されたのは、かたはの細くしなやかな肢体だった。

彼女の乳房が剥き出しになったのを、僕はこの目で確かに見てしまった。

胸を包むためのブラジャーを、かたはは身に着けていなかった。ふくらみはどちらかというと控えめな部類に入る。普段彼女と触れ合う中で自然と躰に接触する機会もあったから、概ね想像通りだった。突然彼女の胸が露になった瞬間は、さすがに驚いて鼓動が高鳴るのを感じたけれど、下着を身に着けていないことはかたはなら十分有り得ると思えたから、その驚きは間もなく落ち着いていった。

だが――僕は別のことで、比べ物にならないほど驚いていた。

 (あれって……手術の痕……?)

彼女の痩せた腹部、胸の少し下から足の付け根に掛けて広がる、生々しい手術痕。明らかに切開してから縫合したと分かる、大きな大きな傷跡があった。それだけなら、まだ大したことは無かったかもしれない。僕が目を見開いたのは、彼女のお腹にそんな手術痕が幾つもあったことだ。一つや二つではない、軽く数えただけでも四つか五つは傷跡があった。少なくともそれだけの回数、彼女は体にメスを入れたということになる。

そして――その中でも一際目立つ大きな傷。左右の乳房のちょうど間に見える、酷い火傷の痕だった。

戸惑う僕を文字通り尻目に、モンスターボールから飛び出したレアコイルはかたはのすぐ側まで近寄っていって、体に取り付けられているネジを回し始めた。ばちばちっ、という火花の音が耳に飛び込んできて、レアコイルが体内で発電しているのが外からでも見て取れる。

こいつは、かたはに一体何をするつもりなんだ。発電なんかして、一体どうしようっていうんだ――僕はレアコイルの行動に疑問を覚えながらも、頭のどこかでは、これから起こることの想像が付いていて。

 (まさか、あの痕は……)

十分発電してエネルギーの蓄積を済ませたところで、レアコイルは帯電した磁石をかざして、すぐさま無造作にかたはの胸元に押し当てる。

それは、僕が想像した通りの行動だった。

 「……かはぁっ!」

かたはの喉から、絞り出すような苦悶の声が吐き出された。

耳を劈くような炸裂音ビクンと躰を大きく揺らして、眠ったように目を閉じていたかたはが不意に覚醒する。目をカッと大きく見開き、びくびくと軽く躰を痙攣させながら、はー、はー、と荒い呼吸を繰り返している。意識を取り戻して、今自分がどういった状況に置かれているのかを把握しようと努めているように見えた。

僕は今度こそ息を飲んだ。レアコイルはかたはに電気ショックを与えて、彼女を蘇生させたんだ。やり口はとても荒っぽくて、彼女の躰を慮っているとは到底思えない。意識がそこまで回っていないからかも知れないけれど、彼女の胸にある火傷の痕は、今しがたの電気ショックで真新しい傷跡に塗り替えられてしまっていて、明らかな痛みを伴っているようにしか感じられなかった。

目を覚ましたかたはは暫く呆然としていたけれど、やがて自分が倒れていることを認識したようで、よろめきながらも躰を起こそうとする。その過程で、僕とかたはの視線が交錯した。

 「かたは……」
 「あ――あつ、くん」

感情が失われたかのような惚けた表情でもって、僕の顔をじいっと眺めたまま、かたはは視線を動かそうとしない。いつも思っているけれど、この時ほど彼女の目が作り物だとは感じられないことはなかった。僕も彼女につられて無遠慮に視線を投げ掛け続けていたけれど、不意に自分の無粋さに気を咎めて、かたはから目を逸らした。

 「ごっ……ごめんっ、かたは。僕、無神経に見ちゃったりして……」
 「胸?」
 「……うん。かたはなら、きっと分かるよね。僕が君のこと見てた、って」
 「もちろん、もちろん、お見通し。だけどね、あつくん。かたははあつくんの視線を感じて、とってもしあわせなのです」

胸を大きくはだけさせたまま、まったくもっていつも通りの調子で語るかたはに、僕は却って気恥ずかしさを覚えてしまった。対するかたはは一向にお構いなしで、甘えるような仕草で僕にしなだれ掛かってきた。首筋に彼女の熱っぽい吐息が掛かるのを感じる。

僕にぐっと顔を寄せて、かたはが密やかな声で囁いた。

 「あつくん――見た?」
 「見たって……その、さっきも言ったけどさ……胸、とか?」
 「ううん、ううん。それよりもうちょっと、もうちょっとだけ、下のぶぶん」

下、と言われて、僕はハタと気を取り直した。かたはの胸の下――つまりは腹部。そこを見たかと問われて、僕はつい先ほど目にした、目にしてしまった光景を、まざまざと脳裏に蘇らせる。

 「あれって……手術の痕、だよね?」
 「ピンポン・ピンポン・だいせいかい。おなかをバッサリ切り裂いて、あとから糸でちくちく縫って。かたはのからだはパッチワーク」
 「そっか、やっぱりそうだったんだ」
 「あつくん、あつくん。かたはのおなか、どうでした?」

自ら口にしたように、かたはの腹部は「パッチワーク」の様相を呈していた。それを見て僕がどう感じたか、どう受け止めたか。かたははそれを知りたいと僕にせがんできた。知りたがりの彼女なら、ある意味当然とも言える反応だった。

僕は問いかけを受けて思考を巡らす。何か気の利いた言葉を返そうとか、当たり障りの無い返事をしようとか――そうした「一般的」な考えはあまり保たずにすぐ消え失せて、僕は僕の思ったことをそのまま口にしようという考えを固め始めていた。かたはに虚飾は必要ない。僕の持つ剥き出しの感性こそが、彼女を最大限に悦ばせられるに違いないと、僕はいつしか確信していた。

 「かたはの傷痕――綺麗だったよ」
 「白くてしなやかな肢体についた、荒々しくて無遠慮な傷痕」
 「僕は思ったよ。かたはにぴったりだ、って」

綺麗だった。僕は彼女にそう告げた。

彼女の、痩せた白い躰。ともすると人形のような印象を受けるその身には、赤みを帯びた傷痕がそこら中に付いている。白い躰に、紅い傷。僕はそれを純粋に「綺麗だ」と思った。如何にもかたはらしくて、かたはならあってもおかしくないもので、あるべくしてあったような気さえしてくる。

僕がそっと彼女の傷痕に触れると、あっ、と小さな声を上げて、かたはは感じ入った表情を見せた。くすぐったそうに目を細めると、いつものように――いや、いつも以上に頬を緩ませて見せる。小さなえくぼを作って僕に微笑みかけると、すうっと腕を伸ばして僕に抱き付いてきた。呼応するかのように僕も腕を回して、かたはをいっそう己れの身に近付けた。

 「あつくん、あつくん。うれしい、うれしい。あつくん曰く、かたはは『綺麗』。あつくん曰く、かたはは『綺麗』」
 「何度だって言うよ。かたはは綺麗だ」
 「ああ、うれしい。うれしい」

お気に入りのぬいぐるみを抱きしめるようにして、かたはが僕をぎゅうっと抱き締める。彼女のカラダが僕のカラダに押し付けられて、彼女の持つ体温が直に僕の体温になっていくかのよう。

 「ねえ、かたは」
 「あつくん、あつくん。どうしたの?」
 「君のぬくもりや匂いが直に感じられて、僕は嬉しいけど……胸、はだけたままだよ」

彼女の、年齢的に見て少し小ぶりな乳房が、ちょうど僕の胸板に押し付けられて、わずかにその形を歪ませていた。かたはが気にするとも思えなかったけれど、僕は一応念のために、彼女にそのことを告げてみた。

 「知ってる、知ってる。かたはのお乳、みんなにまる見え、見たい放題。ぜんぜんおっけー」
 「だって、だって。ミルタンクはいつでもそのまま、いつでもオープン、吹きっさらしの雨ざらし」
 「だから、かたはもそのままでいい」
 「ヒトは服を着たケダモノ、服が無ければただのケダモノ」
 「もろいカラダを服で隠した、か弱いか弱い、ちいさなケダモノ」

かたはが一旦僕から離れると、すっくとその場に立ち上がって。

 「それにね、それにね」

大きく、大きく、目一杯に腕を広げて、僕の前に立つ。

 「からだに風を感じると、とっても気持ちいい」
 「くすぐったくて、つめたくて。ふわふわしてて、からっとしてて」
 「からだがいろんな刺激をもらって、かたはのせかいがあざやかになるの」

まさしく全身でもって、かたはは風を受け止めていた。

目に光を宿さない彼女は、残った感覚を惜しみなく使って、自分の世界を作り上げている。彼女は耳で世界を見て、鼻で世界を見て、舌で世界を見て、肌で世界を見ている。風を全身で感じれば、彼女の言う通り「あざやか」な世界が広がることだろう。肌をさらけ出して、微笑みながら冷たい風を浴びる彼女の姿を、僕は尊いものだと感じた。これ以上ないほどに、素敵だと感じた。

 「そうだよね、かたは。かたはの言う通りだ」
 「かたはの言う『あざやか』な世界。僕には見られないけれど、感じることはできる。素晴らしいと思う」

だからこそ――だからこそと、僕は思った。

 「かたはの意見を尊重したい。かたはの気持ちを大切にしたい。これは、絶対に揺るがない」
 「だけど……矮小だけど、僕にも思いがある。薄っぺらいとは理解してるけど、僕は僕なりに気持ちがあるんだ」

羽織っていたコートをさっと脱ぐと、僕は手早くシワを伸ばして整える。

 「僕は、かたはに風邪をひいてほしくない。熱を出しちゃったりしたら、大変だ」

僕は無防備に胸をはだけさせたままの彼女に、着ていたコートをそっと掛けた。

 「あっ――あつくん……」
 「それにね、かたは」

惚けた表情で僕を見つめるかたはをしっかりと捉えながら、僕はかたはの耳元でこう囁いた。

 「僕以外の人に、かたはの綺麗な躰を見せたくないんだ」

かたはの躰を見られたくない。彼女の躰を見られるのは、僕だけでいい。僕一人だけが、彼女の躰を識っていたい。

眼前の彼女が俄にかあっと頬を赤らめる姿を、僕は決して見逃しはしなかった。

 「あつくん、あつくん」
 「あつくん、あつくん」
 「うれしいです。かたははとってもうれしいです」
 「あつくんは言いました。かたはは、あつくんだけのモノであってほしい」
 「あつくんだけが、かたはのからだを知っていたいと」
 「かたははうれしいです。うれしすぎて、次に顔を上げたら、ぱちんとはじけてしまわないか、こわいくらいです」
 「とってもとっても、とってもうれしいです」

僕が掛けてあげたコートをぎゅうっと羽織り直して、かたはが大きく息を吸い込む。すんすんとしきりに鼻を鳴らしている様を目にして、彼女はコートに沁み付いた僕の匂いを嗅ぎ取ろうとしているのだと理解できた。己れの身を抱き締めるようにして、露にしていた胸元を決して見られまいと包み隠す。

唯一人僕を除いて、他の人間の目には決して触れさせまいとするかの如く。

 「あつくんのぬくもり、あつくんのにおい。あつくんのコートは、あつくんでいっぱい」
 「何より何より――あつくんのまごころでいっぱい」
 「かたはに風邪をひいてほしくない、いつもあったかくしててほしい」
 「かたはのからだを他の人に見せないでほしい、あつくんだけが見られるようにしてほしい」
 「誓います。かたはは誓います。あつくん以外の人に、かたはのからだは見せません」
 「あつくんの、あつくんだけのモノに、かたははなりたいです」

僕だけのモノになりたい。僕はかたはの言葉を耳にすると同時に、彼女を引き寄せて強く抱き締めた。壊れないようにそっと、けれど離れないようにぎゅっと。頬ずりをしてくる彼女の、その仕草が愛しかった。

 「くやしいです。とんでもなくくやしいです」
 「こんなにもうれしくて、とってもうれしくて、こころがうれしさではちきれそうなのに、かたはは泣くことができません」
 「ツクリモノの瞳は、涙を流すことができません」
 「うれしくて、くやしくて、でもやっぱり、とってもうれしいです」

大丈夫だよ。僕の心は、君の涙を感じ取っているから。ささやかながら慰めの言葉を掛けて、僕は彼女の目元を拭った。

そこには確かに、熱い涙が流れていたのだから。

 

日を改めて、僕とかたはは何時ものように二人きりで寄り添っていた。今いるのは公園。以前僕らが話をした、あの人気の感じられない公園だ。隅のベンチに二人で座って、しっかりと互いの躰を密着させる。風を肌寒く感じる季節になった。だから僕らがこうして寄せ合っても何もおかしなことじゃない。僕はそんな思いを抱いていた。

 「かたは。今日は、かたはのことをいろいろ聞かせてくれるんだよね」
 「あつくんの望むままに。かたはの秘密、なんでも教えちゃう」

じゃあ、と僕は少し間を入れて。

 「この間かたはが倒れたとき、すぐ側にレアコイルがいたよね」
 「あれって一体、何者なの?」

僕が先ず訊ねたのは、彼女が意識を失った直後にカバンから姿を見せて、三つのユニットのうち一つだけが奇怪な容貌をしていたあのレアコイルについてだった。僕はその後のレアコイルの行動から、あいつの正体に大筋で予想は付いていたけれど、ここはやはり彼女にきちんと確認しておくべきだと思った。

 「アレはね、あつくん。かたはのセーフティネット」
 「ふつうのコイルがふたつに、ちょっぴりイジったコイルがひとつ。くっつきあって、レアコイル」
 「かたはのこころがイネムリしたら、起きなさいって出てくるの」
 「ばちばちばち。死なないくらいに電気を溜めて、かたはのからだに押し付ける」
 「じゅうじゅうじゅう。お胸が焼けるにおいがして、からだが泡立つ感触がすると、かたははイヤでも目を覚ますの」

想像したとおりの答えだった。レアコイルは、かたはが心臓発作を起こしたときに電気ショックで強引に心臓の機能を回復させて、手遅れになる前に彼女を自動的に蘇生させるために、いつもすぐ側にいるのだ。

彼女の胸に深く刻み込まれた火傷の痕は、あの荒っぽい蘇生措置が何度も何度も繰り返されてきたのだということを、あまりにも如実に物語っていた。

 「かたはのこころは欠陥品。いつコワれたっておかしくない」
 「こころだけではございません。からだの部品のほとんどが、はらはらどきどき、ツナワタリ」
 「地球に生まれたその日から、壊れるさだめにあったのです」

異常を抱えているのは、心臓だけではない。生まれつきの障害で、身体機能が不規則に停止したり、低下したりする。彼女はごくごくいつも通りの口調で、あっけらかんと世間話でもするかのように告げてきた。

 「夜眠るときはいつも言う。さよなら、さよなら。グッバイ、グッバイ。明日が来るかは、カミサマしだい」
 「朝起きるときもいつも言う。ありがと、ありがと、サンキュー、サンキュー。今日もまた、昨日の明日を迎えられました」
 「いただきます。そしていっしょにごめんなさい。食べたいのちを大事にできない、ガタつくばかりのかたはのからだ」
 「いのちを食べても活かせない、明日が来るかもわからない。食べれば食べるほど、無意味な消費」
 「かたはのからだ、いのちの処理場。嗚呼勿体ない、嗚呼勿体ない」

飄々とした調子で語る彼女の目には、すべてに対して達観した、或いは諦観したと言うべきか、行くところまで行ってしまった者が持つ、あの独特の鈍い光が宿っているかのようだった。

 「かたは。さくらいかたは」
 「かたははかたは。かたっぽの羽。半分ぽっちのつばさ、半分ぽっちのいのち」
 「いい名前、すてきな名前。名刺みたいなお名前です」

彼女が僕に名乗った「かたは」という名の由来は、彼女の「壊れやすい」身体に由来しているのだということも、併せて教えてくれた。

そして、自分の「名前」について口にした彼女は。

 「あつくん、あつくん。ここで一つ、ご質問」

僕に質問したいことがあると言って、それから。

 「『ハンバツネヒコ』」
 「こんなお名前、見たり聞いたりしていませんか」

ハンバツネヒコ。その名前に聞き覚えは無いかと、僕に訊ねてきた。

 「知ってるよ、かたは」
 「『半場恒彦』、だよね」

聞き覚えのある名前だった。むしろ、よく耳にする部類に入る。特にここ最近は、目にしない・耳にしない日の方が珍しいとさえ言えたかも知れなかった。

僕の答えを受けたかたはが、こくんこくんと二度頷く。

 「あつくん、あつくん。続けてもひとつ、ご質問」

続くかたはの質問は。

 「『ハンバツネヒコ』のしたことしてること」
 「見たり聞いたりしていませんか」

半場恒彦のしていることは何か。それを知ってはいないか。彼の名前が出てくるときは、いつも決まって彼のしたこと・していることにフォーカスが当たる。そんな状況で、知らないはずなどなかった。

 「知ってるよ、かたは」
 「『オーバーライト・キュア』の研究をしている人。そうだよね」

ポケモンの身体機能を「上書き」することで何でも治してしまう、あの回復メソッドの研究者だと、僕は答えた。

僕の答えを受けたかたはが、こくんこくんと二度二度頷く。

 「あつくん、あつくん。最後にひとつ、ご質問」

最後の質問。そう前置いて、かたはが口火を切る。

 「『ハンバツネヒコ』に子供がいること」
 「見たり聞いたりしていませんか」

僕は、一度瞼を閉じて、小さく息をついて、心が微かに軋むのを覚えながら――静かに、答えた。

 「知ってるよ、かたは。子供がいるって話は、僕もどこかで聞いたことがあるからね」

新聞で目にした記憶がある。半場博士には子供が一人いて、その子供にしようとしていたことがあった。

それは、確か。

 「――かたはは、かたは」
 「かたはが言ったように、かたははかたは」
 「あつくんも言ったように、かたははかたは」
 「かたははかたは。さくらいかたは」
 「どこまで行っても、かたははかたは」

幾度も幾度も繰り返して、かたはが「かたははかたは」と呟く。彼女の紡ぐその言葉一つ一つに、心から、心の底から、心の奥底から、僕は完全に同意する。ほんの一欠片の疑いも持たずに、僕はただ純粋に同意する。

 「けれど」

けれど――。ひとしきり反復したのち、彼女が思考を反撥する。

 「かたはを、かたはじゃない名前で呼ぶ人もいる」
 「いつまでもいつまでも、かたはをかたはと呼んでくれない人もいる」
 「その人たちは、こんな名前をつかっているの」

すう、と音もなく僕に視線を投げ掛けて、かたはは。

 「『ハンバモトコ』」

ハンバモトコ。はんば・もとこ。

――半場、素子。

 「かたはを、そんな名前で呼ぶ人もいたりする」

そこで、彼女は言葉を切った。

僕は漸く、彼女がどんな人物か、僕以外の目から見た彼女がどのようなポジションに位置する人物かを知ることができた。彼女にとってそれがどういう意味を持っていて、僕と共に在ることがどんなニュアンスを持っているのかも、僕はほぼ同時に理解することができた。

彼女は――半場博士の娘だった。

オーバーライト・キュアの権威である半場博士。その半場博士には、子供が一人いる。男の子なのか女の子なのか、それすらも知られていなかったけれど、子供がいるということは確かな情報だった。子供がいるということに加えて、もう一つ確かな情報があることも、僕は忘れていなかった。

 「じゃあ、かたは。君が」
 「君が、『人間用の』オーバーライト・キュアの、被験者になるんだね」

人を「上書き」して治療するという、あの技術の最初の被験者が、半場博士の子供だということを。

 「その通り、その通り。あつくん、物知り。なんでも知ってる」
 「もろいかたはのからだを書き換えて、元気で健康なニンゲンにしてしまおう」
 「ポケモンにできるなら、ニンゲンにできないはずはない。できないはずがないのだあ」
 「これも我がムスメのためだ、我がムスメもきっと喜ぶだろう。わっはっは」
 「ハンバツネヒコは、そんなお考えを持っております」

致命的な身体機能の異常を起こしやすい身体を持って生まれてきたかたは。そのかたはの根本的な治療のために、ポケモンのための医療技術である「オーバーライト・キュア」を転用しようと考えた。半場博士のあの発表は、本質的には、娘である素子、つまりかたはのためのものだということになる。

けれど。その父親の思いは、かたはの様子を見る限り、どこまで行っても一方通行のモノのように思えてならなかった。

 「こうなるまでに、かたはのからだはたくさんイジられました」
 「かたはのからだにメスを入れて、いろんなものを詰め込みました。いろんなものを切り捨てました」
 「初めはニンゲン。他のニンゲンの部品を入れて、元気にならないかと試しました」
 「ダメでした。ダメダメでした。元気な部品もかたはに掛かると、たちまちくさって仕事をやめてしまうのです」
 「お腹を切って、部品を入れて、しばらくするとダメになって、また切って、取り出して」
 「そんなかたはは、病院の常連さんでした」

腹部に付いた無数の傷痕。その由来は幾度も繰り返された臓器移植にあった。身体機能を回復させることを目的として、かたはは他人の臓器を移植する手術を幾度も受けてきた。けれどそのほとんどが効を奏さずに、かたはの身体には適合しなかった。拒絶反応に見舞われて、結局取り出さざるを得なくなってしまう。縫った傷を再び切開するようなことも、きっとあったに違いない。

 「そして、たぶんかたはが七つくらいの時」
 「起きてみると、せかいがまっくらで、どこまでいってもまっくらで」
 「灯りが消えたみたいで、たのしい、たのしい。そんな風にはしゃいでいたら、あの女の人とごっつんこ」
 「転んだかたはがのそのそ起きて、ああやっと立てたと思った瞬間、大きな大きな叫び声」
 「『モトコさまの目が無い、目が無い、目が無い』」
 「あの人は、そんな風に叫んでおりましたとさ」

身体機能の異常は内臓に止まらなかった。今度はかたはの眼球が機能停止して――この話ぶりだと恐らく、眼底からこぼれ落ちてしまったのだろう――彼女は完全に視力を失うことになった。

 「ひかりのないせかい、ぜえんぶ真っ黒で、たのしいことはたのしいけれど、やっぱりちょっと不便は不便」
 「ここで、ハンバツネヒコは考えました」
 「お目々は新品をくっつけられないけれど、代わりになるものはある。あるんだあ、って」

かたはが自分のポシェットをまさぐって、中に入っているモノを取り出そうとしている。指先に探し物が引っ掛かったのだろう、口元を少し綻ばせて、そうっとポシェットから手を引き抜く。

 「かたはの目が見えないなら、耳をつかえばいいじゃない、鼻を使えばいいじゃない」
 「目の見えないポケモンが持ってるチカラ。狭い場所でもするする動ける、すてきなチカラ」

ポシェットから取り出したのは。

 「コウモリモドキのあのポケモン」
 「そこからいろいろ持ってきて、かたはとひとつにしちゃおう」
 「かたはにいっぱい、詰め込んじゃおう」
 「そんなこんなで、またかたはのからだにメスが入れられましたとさ」

小さな、小さな、ズバットのキーホルダーだった。

 (そうか。そういうことだったのか)

ズバットの器官が移植されているから、かたはは辺りの空間を正確に認識できる。目の見えないかたはが、あんな風に自由に動くことができる理由は、そこにあったのか。僕は不思議な納得感を味わっていた。驚きでも衝撃でもない、ただただ、かたはの話に大きな納得感を受けていた。合点がいく、辻褄が合う。何の違和感も覚えなかった。

 「目が見えなくてもせかいが分かるのは、コウモリモドキのパーツが組み込まれてるから」
 「ゆんゆん、ゆんゆん、電波ならぬ、音波がゆんゆん。かたはのせかいは、音で満ちてる」
 「かたはにぴったり、ヒトとケダモノの間をフラフラ、かたははコウモリ、コウモリさん」

彼女は自分をコウモリだと言う。ヒトとケダモノの狭間にいる、どちらでもあり、どちらでもない。暗喩としての「コウモリ」だと、自らを喩えて語って見せた。

 「コウモリモドキがうまく行ったので、ハンバツネヒコは閃きました」
 「ヒトの部品は取りやめにして、ケダモノの部品を使うようにしてみよう」
 「そんなこんなで、またまたばっさり。かたはのお腹を、ばっさり、ばっさり」
 「中の部品をぜえんぶ捨てて、一つを除いてぜえんぶ捨てて」
 「いろんなケダモノから持ってきた、選りすぐりの部品を詰め込みました」
 「ついでに手足もほとんどくさってきたから、つくりものと取り替えられて」
 「残っているのはこころと右腕、それから脳みそ。ただそれだけなのです」

右手を軽く翳して、かたはが呟く。

 「だからね、あつくん」
 「かたはのからだは今、『半分くらいポケモン』なのです」
 「『半分くらいポケモン』なのです」

半分くらいポケモンなのです。二度に渡ってそう強調して、話はそこで終わりを告げた。これが、僕の目の前にいる少女の、かたはの本当の姿なのだと、僕は認識した。

 「あつくん、あつくん」
 「かたはのお話、これでおしまい。これがかたはのホントのホント」
 「目が見えなくて、お腹はキズだらけ、手足もだいたいツクリモノ」
 「お腹の中はほとんどポケモン、ついでにいつでも音波をゆんゆん」
 「絵本に出てくるカイブツみたい。とってもグロテスクな女の子」
 「あつくん、あつくん」
 「それでもあつくんは、かたはのとなりにいてくれる?」
 「あつくん、あつくん」
 「それでもあつくんは、かたはを『スキ』でいてくれる?」

自分の特徴を並べて、それを「カイブツ」「グロテスク」と表現して見せる。その上でかたはは問う。

僕はかたはの隣に居つづけるか、好きでいてくれるか、と。

 「――かたは」

無意識のうちだった。

 「わぁ」

僕の答えに、言葉なんか必要なかった。

 「あつくん……」
 「あつくんは、優しいです」
 「とってもとっても、優しいです」
 「こんな、フランケンシュタインみたいな娘を」
 「迷わず迷わず、ぎゅうっと抱き締めてくれるから」

かたはの問いに、僕は何も言わずに彼女を抱きしめることで応えた。どんな言葉よりも、どんな仕草よりも、僕の思いをストレートに伝えられる方法。ずっと側にいる、ずっと好きでいる。ずっと側にいてほしい、ずっと好きでいてほしい。ずっと側にいさせてほしい、ずっと好きでいさせてほしい。僕の思いは、きっと彼女にも伝わっているだろう。

いつも見せてくれるあの笑顔。頬をマシュマロのように綻ばせて、顔いっぱいに喜びを表現してくれる。僕は彼女のこの顔を見るのが、好きで好きで仕方なかった。

 「フランケンシュタインは、あのモンスターを作った博士の名前だよ。モンスターの名前そのものじゃないんだ」
 「はわわ、知らなかった。ありがと、あつくん。かたははまた一つ賢くなりました。やっぱりやっぱり、優しいです」

僕は――本当に、かたはが好きだ。

いびつで、不思議で、純粋な彼女が、この上なく好きだ。

 

彼女のぬくもりを独り占めして、この上ない幸せを味わった僕は、やがてある一つの考えを胸に宿すに至った。

 「かたは、聞いてほしいことがあるんだ」

かたはが平らな瞳をこちらに向ける。光を持たない彼女の瞳を見ていると、その深淵に吸い込まれていくかのような錯覚を覚える。彼女の瞳がモノを見るための機能を持たない模造品で、僕の姿形を視覚的に捉えることはできていないことは知っている。けれど同時に、彼女は彼女なりのやり方で、僕の姿形を捉えてくれていることも知っている。

僕を文字通り肌で感じてくれる存在は、かたはしかいないんだ。

 「かたは。君が何もかも全部話してくれたことを、僕はとても嬉しく思うよ」
 「君は文字通り、裸の話を聞かせてくれた。身に着けている服を全部脱いだ、裸の話をね」
 「だから僕も君に倣って、裸の話をしようと思うんだ」
 「かたはに、僕のすべてを話そうと思う」
 「何もかも、一つも残さず、すべてを」

何もかも話す。僕はそう宣言してから、かたはから少しだけ距離を置いた。僕はシャツのボタンに手をかけると、一つずつ一つずつそれを外していく。幾重にも渡って巻かれたプレゼントのリボンを取り去るように、或いは幾つも取り付けられた枷を外していくように。

すっかりシャツをはだけさせると、肌着と併せてひと思いに脱いでしまう。躰を外気に晒したのは久方ぶりのことだった。僕は風が肌を撫でていく感触に幾ばくかのくすぐったさを覚えながら、傍らに座るかたはの手をそっと取り上げた。

 「かたは。僕の躰に触れてみてくれる? 好きなようにしてくれていい、君の思うままに」

彼女は瞬時に大きく頷いた。断る道理など無い、と言わんばかりの様相だった。かたはの手が――彼女の言う「ヒトとしての右手」が――艶かしく蠢いて、僕の躰を撫ぜ始める。

無垢な指先が僕の肌に触れた途端、かたはの顔色が目に見えて変わった。ハッとしたように顔を上げて、彼女は僕の顔をまっすぐに見据えてきた。

 「おなじ」
 「おなじ、おなじ」
 「あつくん、かたはとおなじ」

幾度も幾度も同じ線をなぞって、輪郭を確かなものにしていくかのように、かたはが呟いた。おなじ、おなじ、おなじ。何度も何度も、呟いた。

 「分かってくれたんだね、かたは」
 「おなじ、おなじ。あつくんのからだ、キズだらけ。こんなにたくさん、いっぱいいっぱい」
 「そうだよ。君がさっき触れたのも、今指先でなぞっているのも、全部傷痕なんだ」
 「おおきなキズ、ちいさなキズ。こんなにたくさん、大盤振る舞い」

何もかも皆、彼女の言う通りだった。

僕の躰には――大小様々な傷痕が、誰の目から視ても、或いは視えずとも触れれば即座に分かるほど、ハッキリと刻み込まれていた。

 「かたは。僕が以前、君に聞かせた話を覚えてるかな。まだ僕らが出会って間もない頃に、君が聞かせてほしいと強請った話だよ」
 「おぼえてる、おぼえてる。ちいさなヒナの、すてきなお話」
 「そう。有刺鉄線の巣の中に一羽で残された、エアームドの雛の話だよ」
 「キズだらけの小鳥さん、てのひらサイズのちいさなからだ。キズと血を身にまとった、いのちのあかし」

周りを有刺鉄線に取り囲まれて、独りで親が帰ってくるのを待ちつづけていた、傷だらけのエアームドの雛。僕が聞かせたその話を、かたははしっかりと覚えていてくれた。

 「僕がかたはにあの話をしたのは、エアームドの雛が僕自身とオーバーラップしたからなんだ」
 「独りでたくさんの傷を負いながら、いろいろな人に指を指されて、ただじっと空ばかりを眺めている」
 「あれは、他人とは思えなかった」

目を閉じて視界を遮り、かつて目にした血まみれの雛の姿を脳裏に浮かび上がらせる。

今こうして記憶の中の姿を振り返ってみても、あのエアームドの雛は――紛れもなく、僕そのものだった。

 「僕の話をするためには、僕の両親の話から入った方がいいと思う」
 「今の僕があるのは、どういう経緯であれ、両親がこの世にいたのが理由だからね」

かたはが父親の話を聞かせてくれた返礼というわけではなかったけれど、僕もまずは両親について話すことにした。

 「知っての通り、父も母も熱心な帰天主義者なんだ。今も昔も、変わらずにね」
 「そんな二人の間に生まれたものだから、当然僕も帰天主義者として育てられることになった」
 「子供の頃からたくさんの教条を覚えさせられて、週末には教会へ通って話を聞いた」
 「僕はそんな環境に、何の疑問も抱いていなかった」

父と母から受けた数々の教えは、僕の中で未だ変わらずに生きつづけている。安楽死を尊び、延命を蔑む。物事を見る際にバイアスを掛けまいと努力し意識していても、意識の下にある無意識の領域で、僕は両親から教わった帰天主義の教条というフィルターを通して物事を見ていることをたびたび自覚する。

僕の中に固く根を張って、容易には抜き難いもの。それを植え付けたのは、紛れもなく父と母だった。

 「僕は小学校には通わなかった。両親や教会の宣教師から勉強を教わって、それを学業の代わりにしていたんだ」
 「教会に来る同じ年代の子とはよく遊んだけど、誰から話を聞いても同じだった。みんな同じで、それが『普通』なんだって思うようになった」
 「僕はあの時、自分の家族のあり方を『普通』だと思っていたよ。他の家でも同じようにしてる、みんな同じなんだ。そんな風に考えてた」
 「だから、かつて僕が両親から受けていた『祝福』も、ただの習慣の一つだと信じていたんだ」

祝福。この言葉を口にするとき、僕は決まって言いようの無い浮揚感を覚える。他人が離れた場所で口にした言葉を聞くような、とでも言えばいいのだろうか。驚くほど実感の持てない言葉だった。

 「始まったのは、僕が五歳くらいになった頃だったかな」
 「週に一度、決まって同じ曜日の同じ時間に、父親か母親の二人が、僕の部屋に姿を見せるんだ」
 「『祝福』をするために、ね」

あれは確か、毎週金曜日の夜だった。階段が軋む音がして、ガチャリとドアが開かれる。その瞬間に僕はピンと背筋を伸ばして、入ってくる父と母を出迎えた。

 「僕は何度か『祝福』を受けて、事前に手洗いを済ませておくことを覚えた」
 「『祝福』のある日は、朝からあまりものを口に入れないようにすることも併せて」
 「粗相があると後始末が大変だって、子供ながらに分かっていたからね」

勝手が分からない初めのうちは、いろいろと大変だった記憶もある。

 「両親が僕の部屋に入ってくるときは、必ず手に何かを持っているんだ」
 「それは――刃物のこともあったし、金槌のこともあった、ライターのこともあった」
 「もちろん、他のもののこともあった」
 「二人揃って僕の前に立ったのを見てから、僕は両親の前に跪いて、心から感謝の言葉を述べる」
 「『僕を傷付けてくれてありがとうございます』」
 「『神様の元へ近付けてくれてありがとうございます』」
 「僕の言葉が合図になって、僕は両親から『祝福』を賜るんだ」

目を閉じると、父がいつも通りの表情で金槌を大きく振りかぶった瞬間の姿が、まざまざと蘇ってくる。

鈍い音がしたかと思うと、僕の体に鋭い痛みが走って、波動が全身に広がっていく。腕に冷たい感触が走ったかと思うと、途端に傷口がぱっくりと開いて、熱を帯びた血が溢れ出してくる。目の前で炎が煌めいたかと思うと、太腿に小さな火が灯っていて、肉の焼ける腥い匂いが漂ってくる。

両親から賜った「祝福」のすべてを、僕は今でも明瞭に記憶に止めている。果てしなく生々しい記憶のはずなのに、思い出すときは決まって心が乾いていて、どんな感傷も湧いてこない記憶。不思議なほど落ち着いて、僕は記憶を取り出すことができてしまう。

 「帰天主義の旧い教義の一つに、肉体への執着を捨てなさいというものがあるんだ」
 「子供の頃から肉体への執着心を持たせないようにさせて、次の輪廻を速やかに迎えられるようにするためなんだって」
 「肉体への執着心を捨てさせるために行われるのが、肉体を傷付けることなんだ」
 「けれど、帰天主義者の間では、肉体を『傷付ける』という考え方はしていなくて」
 「あくまで『天に近付ける』ために行うものだ、そんな風に考えてるんだ」
 「だから彼らはその行為を『「祝福」を与える』と呼んでいた。もちろん、僕の両親もそれに倣った」
 「痛みは肉体に執着するから感じるもの、執着を捨てれば、『痛み』を感じることは無いはずだ」
 「だから『痛み』を当然のものだと思うようにして、執着を捨てるように諭すんだよ」
 「僕の両親はその教えを忠実に守って、僕の身体を規則正しく痛めつけた。とても規則正しく、儀式的に」
 「母と一緒に湯浴みをして、身体を洗ってもらったりもした。丁寧に丁寧に、母が子に対してごく当たり前にするように」
 「庭で父と僕との二人で遊んで、ごく普通に笑い合うこともあった。父は僕に向けて、優しくボールを投げてくれた」
 「勿論、全員で一つの食卓を囲んで食事をしたりもした。母がケーキを切り分けて、僕の皿に盛ってくれたりもした」
 「帰天主義じゃない、他の『普通』の家族と、まったく同じように」
 「そして――そんな日常風景の一コマとして、僕の身体に『祝福』を与えることをした」

僕は不思議と落ち着いていた。誰かから聞かされた話を、また別の誰かに話して聞かせているかのような心持ちだった。僕自身がどこにも介在していない錯覚を覚える。見事なまでに現実感がなくて、リアリティが少しも感じられない。

話の主軸にいるのは、紛れもなくこの僕のはずなのに。

 「僕はそれが当たり前のことだと、常識的なことだと思っていた」
 「『どうしてこんなことをされるんだろう』とか、『いつまでこんなことが続くんだろう』とか、そんなことは夢にも思わなかったよ」
 「父と母が僕に祝福を与えることは当然のことだったし、祝福に終わりがあるなんて初めから思って無かったからね」
 「僕にとってはそれくらいのレベルで、両親の行為は『当たり前』のものに見えていたんだ」
 「だからかな。僕がまだ小学生の時くらいだった。両親と三人で一緒に、外へ出掛けた」
 「何気なく外を歩いていたら、通りすがった人が僕の姿をまじまじと見つめてくる。僕はまだものを知らない子供だったけれど、道行く人々が僕に投げかける視線がどんな色を帯びているかは直感的に理解できた」
 「哀れんでいる。僕の姿を見て、彼らは僕を哀れんでいた」
 「腕や足にはたくさんの痣があって、切り傷も少なくなかった。今は消えたけれど、あの頃は顔にも同じような痕があった気がする」
 「彼らは僕が両親から酷い目に遭わされていると認識して、それで僕を哀れむ目で見てきたんだと思う」
 「だけど僕にはその意味が理解できなくて、ただ言いようの無い居心地の悪さを覚えるばかりだった」
 「家に帰ってから僕は両親とそのことを話して、両親は僕にこういい聞かせたんだ」
 「『彼らは恵まれていないんだ。この世界にいつまでも執着して、肉体から魂を昇華させられずにいるんだよ』」
 「両親から易しい言葉で諭されて、僕は認識を新たにした」
 「きっとあの人たちは僕よりも恵まれていないんだ、肉体に執着して、本質を見失ってしまった人たちなんだ」
 「そう思うと、僕は彼らの目線が、彼らが僕に哀れむ目を向けてくることそのものが、とても哀れに見えるようになった」
 「僕は恵まれている、幸せなんだ。一切の疑いを持たずに、僕はそんな風に考えるようになった」

今にして、僕は思う。

結局のところ――哀れなのは、僕も道行く人々も、さして変わらなかったんじゃないか、と。

 「祝福を受けていると、決まっていつの間にか気を失って、世界が真っ白になっていくんだ」
 「初めは耐え難かった痛みも、徐々に和らいでいって。少しずつ少しずつ弱まって、やがては完全に消えていく」
 「本当に何も感じなくなるんだ。刃物で腕を切られても、金槌で頭を叩かれても、火でお尻を炙られても、何も、何も」
 「すべての感覚がスープのように溶けていって、最後はみんなひとつになる。何もかもが収斂されていく」
 「痛みを忘れて、ただ魂だけがそこに在る感覚が広がっていく」
 「祝福が終わって何時間かが経つと、僕はもういちど目を覚まして、いつも汚れたシーツの上に横たわっているんだ」
 「真っ暗な天井を見つめながら、僕は思っていた」
 「『僕はこんなにも両親に愛されてる、とても幸せなんだ』、って」

僕は信じていた。僕が恵まれているのだと、僕が純粋に愛されているだと。

僕は、幸せなのだと。

 「十二歳になる頃に、僕は両親に手伝ってもらいながら<Painkiller>を創った」
 「エアームドから抜け落ちた鋼の羽を鍛えて、鋭いナイフに仕上げたんだ」
 「<Painkiller>を使って初めて召したポケモンは、エネコだったよ」
 「公園で箱に入って捨てられていたのを拾ってきて面倒を見てたんだけど、具合が良くならなくてさ」
 「この子を楽にしてあげたい。これ以上苦しませたくない。そう思って、僕はエネコの喉笛を切り裂いた」
 「手の中で息絶えていくエネコを見ていると、僕は――胸の高鳴りを抑えられなかった」
 「これが、命の終わり。そして、ここから新しい命が始まるんだ、って」
 「もちろん、両親からはたくさん褒められたよ。よくやった、それでこそ我が子だ。そんな風にね」

虚ろな目で僕を見つめながら逝ったエネコの姿を、僕は今なお鮮明に記憶に止めている。帰天主義の考え方で死者を記憶に止めてはならないと頭で理解していても、あのエネコの最期だけは生涯忘れることができないだろうと、僕は考えていた。

 「僕が十四歳になるまで――つまり、今から三年くらい前までは、僕の世界は家と教会だけだった」
 「ごくたまに両親と一緒に出掛けたり買い物に出たりしたことを除けば、本当にそれだけで世界が完成されていたんだ」
 「そのまま僕は両親の手で、純粋な帰天主義者として育てられるはずだった。大人になった僕は同じく帰天主義者の女の子と結ばれて、僕の両親がそうしたように、僕のような子供を育てるはずだった」
 「だけど、そうは行かなくなった」

何事も、終わるときは呆気ないものだと思う。

 「近所に前々から僕のことを気に掛けていた人がいて、ある日僕が傷だらけで外へ出たのを見掛けた」
 「僕があまりに酷い有様だったからかな、その人はついに僕の家のことを児童相談所へ持ち込んだんだ」
 「それから数日もしないうちに児童相談所の職員がやって来て、有無を言わさず僕を両親から引き離した」
 「名前は……義徳さん。岡本義徳さんって名前だった」
 「僕は訳が分からないまま保護施設へ連れて行かれて、義徳さんから色々なことを教えられた」
 「『君は酷い目に遭わされてきた』」
 「『君は不幸な家に生まれた』」
 「『君は碌な人生を送れなかった』」
 「要約すると、概ねそんな意味だった」
 「僕はずっと家に閉じ込められていて、親から歪んだ教育を受けていて、普通の子とも遊ばせてもらえなくて……何より、数え切れないほどの『暴力』を受けていた。そのことを、認識させられたんだ」

生まれて初めて外の世界から客観的に見られた僕の有様を告げられて、僕は完膚なきまでに叩きのめされて、あらゆる言葉を失った。地面が熱したバターのように溶けていって、為す術なく飲み込まれていくかのような感覚だった。実際僕は立っていられなくなって、床にへたり込んでしまったのを憶えている。

 「同じ時期に全国でこんな風に帰天主義者の家族に調査が入って、僕のような子供が大勢保護された」
 「さすがに不味いと思ったのか、教会が急ごしらえで教義の解釈を変えて、子供を傷付けるのは止めさせたんだ」
 「それから僕はしばらく施設で保護されたあと、両親がこれ以上僕を傷付けることは無いと判断されて、家に戻された」
 「いろいろと手続きをして、学校にも通うようになった。ずいぶん面倒だった記憶があるよ」
 「僕が保護されて以来、父も母も、僕の身体を痛め付けることだけはやめた。教義が変わったからね」
 「そして、僕と両親は――『祝福』を除けば一応これまで通りの関係のまま、それらしく一つ屋根の下にいる」
 「僕もまた、教会には通い続けているし、ポケモンを召すことも止めていない」

表向きは何も変わっていない、これまで通りの日々を過ごしているかのように見えているに違いなかった。

 「だけど、変わってないわけなんかなかった」
 「何もかも何もかも、何もかもすべて、変わってしまったんだ」

けれどその内情は、あまりに激しい変化に曝されていた。

 「僕はあの時、全部知ってしまったんだ」
 「眼前の世界は大きく歪んでいて、恵まれていたわけでも幸せなわけでもなかったということを」
 「あの家が、僕の家族が、異常な性質を抱えた、異質なモノなんだということを」
 「僕は――<りんご>を食べてしまったんだ」

変化の奔流に押し流されるまま、僕は不安定でありつづけた。

 「何もかもすべてが揺るがされて、僕はどうすればいいのか分からなくなった」
 「どうすればいいのか分からないまま、今もこうやって生きているんだ」

僕は拠って立つ地を失って、そこから這い上がれないままこの瞬間にまで至っている。

己れの信じていたものをことごとく打ち砕かれて、それは悪しきことだ、信じていてはいけないことだという現実を突き付けられた僕は、何かを信じることを極端に恐れるようになった。再び裏切られることに怯えて、僕はあらゆるものに対する思い入れを無くすように努めてきた。

 「今の僕は、何が『正しい』のか分からずにいる」
 「躰に付いた傷痕は今も消えなくて、身体が憶えた習慣も未だ消えずにいる」
 「教会には通い続けているし、冠婚葬祭のルールも変わっていない」
 「そして僕自身も、今もポケモンを召し続けている」
 「けれど、理解しているんだ。把握してはいるんだ」
 「僕は――異常で、異質なんだって」

自分自身がこの世界においてイレギュラーでアノマリーな存在であると自覚して、それでもこの世界で生きていかなければならないことの不条理さ。息を潜めて、己れを押し殺して、それでも生きていかなければならないことの理不尽さ。僕はどこにも持っていく場所のない懊悩を背負わされて、今にも押しつぶされそうになっていた。

 「そうやって日々を無為に過ごしていると、不意に僕は生きていることの意味を喪失しそうになる」
 「この世界に馴染めずに、癌細胞のような存在として此処に在ることを認識して、無性に死が恋しくなる」
 「堪らずに<Painkiller>を引っ張り出して、勢いに任せて喉笛を掻っ切ろうとしたことなんて、数え切れないくらいある」
 「死を願って刃を首筋に当ててみるけど、でも、その時にいつも決まって思い出すんだ」
 「『自殺はもっとも尊ぶべき行いである』――帰天主義にはそんな教義があるってことを」
 「そう思うと僕は急に醒めてしまって、死にすら意味を見出せなくなる」
 「意味の無いことをする意味なんて無いから、僕はそのまま<Painkiller>を片付ける」
 「ケースに<Painkiller>を仕舞いながら、こんな考えが頭に浮かんでくる」
 「『とうに痛みを忘れた僕に、<Painkiller>が何の役に立つんだろう』」
 「どこまで言っても僕は縛られていて、有刺鉄線の巣の中に閉じ込められたままなんだ」
 「翼を血に塗れさせて、消えない傷痕を懸命に隠しながら、外から浴びせられる視線に何も応えられずにいる」
 「僕は、ずっと巣の中から出られずにいたんだ」

すべてを言い終えると、僕は小さく肩を落として息をついた。僕のすべてを、ありのままをかたはに話して、僕は文字通り裸になった。裸の僕を、かたはにぶつけた。

隣に座るかたはは片時も目線を離すことなく、ただ僕だけを見つめ続けていた。向けていたのは目だけじゃないことは明らかだった。耳も、鼻も、肌も、彼女のすべてが僕に向けられていた。何もかもすべてを表沙汰にした僕と、何もかもすべてを僕に向けたかたは。静寂で満たされた公園で、僕らは全身全霊のぶつけ合いを展開したわけだ。

 「あつくん、あつくん」

しばしの空白の後、先に口火を切ったのは、かたはの方だった。

 「あつくんは」
 「あつくんは、巣の中から出たい?」

外に、出てみたいか。

 「とげとげ、ちくちく、いたいいたい。ぎらぎらまぶしくかがやいて、ぷんぷん広がる血のにおい」
 「そんな巣からお外に出て、気持ちいい風、たくさん浴びてみたい?」

外に出て、その身を心地よい風に晒してみたいか。

彼女は僕にそう問うた。

何かが腑に落ちていく感触がした。大きな大きな納得感が体中を満たしていき、鬱屈した思いがすべて消え失せていくのが分かった。

彼女は――かたはは、何もかも分かっていた。僕が何を求めているかを、僕が何を訴えたかったかを、すべて、すべて、すべて。

 「あつくん、あつくん」
 「もし、あつくんが望むなら」
 「かたはがお手々で巣をかき分けて、あつくんを外へ連れてってあげましょう」
 「ふたりでいっしょに、たのしくおでかけ。どこまでも、どこまでも」

目一杯に両腕を広げて、頬を緩ませにっこり笑う。それはかたはだけに許された、僕のすべてを受け入れてくれるサイン、僕のすべてを受け止めてくれる証。

僕は、青空を覆い隠す分厚く堆積した黒い雲を切り裂いて、眩い太陽の光が差し込んでくるヴィジョンが見た。周囲を取り囲んでいた赤茶けたイバラが取り払われ、心地よい風が身体を撫ぜていく感触がした。

 「ありがとう」
 「ありがとう、かたは」
 「君と一緒なら、僕はどこへでも行ける、どこまでも行ける」
 「僕が君を導いて、君が僕を導く。何も恐れることなんてない」
 「ありがとう。ありがとう、かたは」

大きく開かれた彼女の胸へ飛び込むと、僕は彼女をきつく抱きしめた。僕に負けじとかたはも僕を力一杯抱きしめる。お互いに相手を絞め殺さんばかりの強さで抱いて、思いのたけを込めた抱擁を続けた。彼女の鼓動が僕の鼓動とシンクロして、一つの「いのち」になったかのような感覚が僕らを包み込む。

自分のすべてを明らさまにして、相手のすべてを受容する。僕らは服を着ているかも知れない。けれど心は丸裸で、隠しているものなど一つもない。裸の自分と裸の相手、あるがままの姿でぶつかり合い、せめぎあい、そして今こうして一つになっている。腕に力を込める度に、その思いが一層強くなっていく。

 「あつくん、あつくん」
 「あつくんは、かたはのこと、信じてくれました」
 「はだかのかたはを、すっぽんぽんのかたはを」
 「いま、こうして、おしつぶされそうなほどに、強く、強く、だきしめてくれていること」
 「それが、何よりの『あかし』です」

うれしい、うれしい。彼女は何度も繰り返して、背中に回した手でペタペタと僕に触れる。あつくんだ、あつくんだ。手のひらを通して僕を感じながら、かたはは感じ入った声をあげた。首筋に彼女の熱っぽい吐息が掛かって、僕の全身に快い刺激が走る。

やがて僕は右手を内側へ差し入れて、そっと彼女の服の中へ忍ばせた。手探りで彼女の腹部に付いた傷を探し当てると、縫い目に沿ってすうっとなぞっていく。かたはは一瞬身を固くしたかと思うと、たちまち弛緩させて躰を震わせた。僕に倣うようにかたはも右手を回し、同じく傷痕を撫で始める。

 「気持ちいい? かたは」
 「あつくん、あつくん。きもちいい、きもちいい」
 「それは良かった。僕も同じさ」

そう、気持ちいい。

君といると――気持ちがいいんだ、かたは。

 

僕たちは一つだ。

 「あつくん、あつくん。ああ、あつくん」
 「かたは、美味しい?」
 「おいしい、おいしい」

握り締めた<Painkiller>、刃に絡みついた真っ赤な血、無造作に転がるスバメの躯、しなだれかかる最愛の人、まとわり付く桃色の舌。すべてが一つになって、僕を満たしていく。何も恐れるものなどなく、何も気に掛けることなどない。僕の側にはかたはが居る、かたはの側には僕が居る。

それだけで、僕は満たされた。

 「かたは、こうもりさん。いびつでぶきみなこうもりさん」
 「だからね、だからねあつくん」
 「まっかっかな血、だあいすき」
 「あったかい血、だあいすき」

舐め回された<Painkiller>が、唾液で濡れてテラテラと光っている。僕が舌を這わせて残った血と一緒に唾液をするりと舐め取ると、かたはは赤子のように頬を綻ばせて見せた。

 「あつくん、あつくん。あつくんの中に、かたはが入っていく」
 「そうさ、かたは。僕の中で混ざり合って、一つになるんだ。だけど――これだけじゃ、物足りないよ」
 「ものたりない、ものたりない。かたはもいっしょ、ものたりない」

僕もかたはも同意見だった。これじゃあ物足りない、もっと互いを交わらせたい。

 「そうだね、かたは。じゃあ、僕に任せて」
 「あつくん、あつくん。痛くして、痛くして」

今一度<Painkiller>を強く握る。肩に置かれたかたはの右手を取り上げると、掌に刃の先端を押し付けた。あっ、と小さな声が漏れる。その様相に僕は感情が昂るのを感じて、より深く刃を差し入れていく。この刃が彼女を傷つけて、彼女にまた一つ傷痕を作る。そしてそれは紛れもなく僕の手で付けられた傷痕だ――だらだらと流れる鮮血を目にして、僕の鼓動は早鐘を打つかの如く律動を増していた。

刃を引っ込めると、傷口に口付けて彼女の血を啜る。舌を赤い血が流れて、喉の奥へ吸い込まれていく。彼女の肉体の一部、彼女を構成する組織の一部、彼女の<いのち>の一部。

僕の中に、かたはが吸い込まれていく。

 「いたみはいのちのあかし」
 「かたはの手の中、いたみでいっぱい、あふれそう」
 「うれしい、うれしい。しあわせ、しあわせ」
 「だから、だから」
 「いたいの、いたいの、とんでかないで」

掌から血を飲む僕にぐっと顔を寄せて、かたはが僕の耳をそっと甘噛みする。かぷっ、という音が聞こえてきそうだった。くすぐったくじれったい、湿った舌の感触。僕は感情の赴くままに、かたはの綺麗なうなじを撫でた。

 「くすぐったい、くすぐったい」
 「きもちいい、きもちいい」

彼女の上げてくれる声は無上の歓びとなって、僕に止めど無く降り注いでゆく。

 

自転車に乗って河原を駆け抜ける。僕の後ろには、かたはの姿もある。

 「一度こうやって、かたはを自転車に乗せてみたかったんだ。絶対に気に入ると思ってね」
 「あつくん、あつくん。すてき、すてき」
 「君も素敵だよ、かたは。腰掛ける姿、とても絵になってるよ」

かたはは身体を進行方向から見て右へ向けている。けれど上半身は少し折り曲がって、僕の背中から両腕を回してしがみつく体勢を取っている。そうして身体を重ね合わせていると、かたはの心音が聞こえてくるのがはっきりと分かった。きっと僕の鼓動も、かたはに直接伝わっていることだろう。

こんな風にして、僕らは街中を駆け巡っていた。歩き慣れた道も見慣れた風景も、自転車に乗っているだけでずいぶんと変わって見えるものだなんて、思ってもみなかった。かたはと肌を合わせながら、流れるように移り変わっていく風景を楽しむ。僕にしてみれば、最高の贅沢以外の何者でも無かった。

 「あつくん、あつくん。自転車こぐの、じょうず、じょうず」
 「中学生くらいまではよく乗ってたからね。今だって、腕は衰えちゃいないさ」

僕らが乗っている自転車は、駅に違法駐輪されていたものを失敬してきたものだ。これが触法行為だということくらい言われずとも理解はしていたけれど、僕には罪の意識はまるでなかった。長らくフェンスにチェーンで束縛されていた自転車を解放してやった時は、清々しささえ覚えたくらいだ。この自転車にしても、乗られないよりも乗り手がいる方がずっといいに決まっている。僕にはそう思えてならなかった。

 「自転車さんもおよろこび。あつくんとかたはを乗せて、久しぶりのオシゴトタイム。たのしい、たのしい」
 「そうさ。僕らはこの自転車の束縛を解いて、助けてやったんだ。僕だっていい気分だ」
 「かたはもいっしょ、いい気分。あつくんもかたはも自転車も、決して縛られはいたしません。カラダもココロも何もかも、どこまでいっても束縛不可能。かたはとあつくん、ふりーだむ! おーるたいむ・ふりーだむ!」

かたはが腕にさらに強く力を込めて、僕をぐっと抱きしめた。僕は背中に背負った幸せをひしひしと噛み締めながら、ペダルを踏む足に熱が入るのを感じた。

力強く進み続ける自転車。その前籠には、血まみれになった<Painkiller>が放り込まれている。二時間ほど前に街外れの草むらで衰弱して死に瀕していたマッスグマを見つけて、二人の「共同作業」で召したためだ。

 「あつくん、あつくん。風、きもちいい。風、とってもきもちいい」
 「かたはも風を浴びてるんだね。こうして冷たい風を感じると、生きてるって感じるんだ。そう思わないかい?」
 「思う、思う。かたはは生きてる、あつくんも生きてる、ふたりはいきてて、いたみのある世界に生きてる!」

風を切って道を駆け抜け、生きていることを強く強く実感する。その過程で死に掛けたポケモンたちを召して、命が燃え尽きる瞬間を手の中に残す。血を啜り、肉を食らい、そして互いの躰を傷付け合う。

僕らは文字通り、生を謳歌していた。

 

死に寄り添うことで生を実感できる。僕らはその考えについて、頭の先から足の先まで、あるいは骨の髄まで一致していた。

 「あつくん、あつくん。すごい、すごい、すごい数。とってもたくさん、うなるほど」
 「うん。かたはの言う通り、物凄い数だよ」

すっかり冷たくなった風の吹き荒ぶ砂浜を、かたはがはしゃぎながら歩いていく。僕は彼女の姿を目で追いながら、自然と頬を綻ばせる。

新聞の小さな記事で取り上げられていた、ある海沿いの街。僕らの住んでいるところから電車を乗り継いで三時間ほど掛かるその場所に、僕はかたはと共に訪れていた。訪れた目的はただ一つ。記事に書かれていた事象を、より肌で感じたいと思ったからだ。

 「こっちにも、ほらあっちにも。どこもかしこも、お祭りさわぎ!」
 「ああ、素敵な光景だね。こんなにも沢山の亡骸を見るのは、生まれて初めてだよ」

僕らが歩いている砂浜には、シェルダーやメノクラゲといった、かつてポケモンだった肉塊が、そこかしこに転がっていた。

記事に書かれていたことを要約すると――この辺りの海水の温度が例年に比べて異常に上がって、環境の変化に耐えられなくなった海棲のポケモンたちが次々に死んだ。そして、かつてポケモンだったそれらが砂浜へ大量に打ち上げられて、大きな騒ぎになっている――そんなところだった。

僕はその記事を見つけて、すぐにかたはにメールを打った。かたはからは、すぐさま「いきたい」という返事が来た。僕は即座に「いこう」と応えた。僕たちがここにいる理由は、それだけで説明できた。

 「あれも死んでる、これも死んでる、みいんな死んでる! カラスさんもおおいそがし!」
 「聞こえてるみたいだね、かたは。キャモメやペリッパーの代わりに、ヤミカラスが空を飛んでるよ」

少し先を見れば、腐乱の始まったラブカスにヤミカラスが群がり、そのすぐ側には既にカタチを喪失しつつあるママンボウが転がっている。ふと隣に目を向ければ、死んで間もないマンタインと随伴していたテッポウオの姿がある。彼らの周囲にも、またヤミカラスが集まり始めていた。

数え切れないほどの「死」。気が遠くなりそうな数の「死」。

立ち込める死臭に混じる潮の匂いを嗅ぎ分けながら、僕はそっと天を仰いだ。

 「かれらは屍肉を啄んで、いのちをさらに燃え上がらせる」
 「死骸は血となり肉となり、明日を迎えるカテになる」
 「昨日を生きて、今日を生きて、明日を生きて」
 「そしてかならず訪れる、死ぬための日を待ち続ける」
 「朽ちたカラダはホシへと還って、新たないのちをつくりだす」

死骸の散乱する砂浜を、かたはが軽やかに舞う。

 「死は生をはぐくみ、生は死をもたらす」
 「生は死のはじまり、死は生のはじまり」
 「りーいんかーねーしょん。りんね・てんせい」
 「終わらないチクセキを続けて、いのちはぐるぐる廻る、廻りつづける」
 「永遠に、永遠に。いつまでも、いつまでも」

命のサイクルは終わらない。外から手を差し伸べることはできず、完全に閉じた輪廻の中で、僕らは生きている。救いもなければ、破滅もない――かたはの紡いだ言葉を、僕はそう解釈した。

 「かたは、手をつなごう。君と一緒に歩きたいんだ」
 「つなごう、つなごう。かたはとあつくんのコネクション、ピア・ツー・ピアのネットワーク」

観光地を歩くような気楽さでもって、僕らは手をつないで歩く。

見るべきものは、たくさんあった。

 

あの公園は、僕とかたはだけのプライベート・スペースではないか。そんな他愛ない錯覚を抱いてしまいそうになるほどに、件の公園は人気というものが感じられなかった。

 「あつくん、あつくん」
 「かたは、君は今日も素敵だね」
 「すてきなあつくんがとなりにいるから、かたはもすてきになるのです」

隅にある朽ち掛けた木製のベンチに腰を落ち着けて、僕とかたはが何の遠慮も無しに抱き合う。僕らを見咎める無粋な者の姿はなく、僕らを見物する物好きな野次馬も存在しない。両腕を使って抱き締めた最愛の人の熱を取り入れて、僕の身体は俄に熱くなっていく。かたはもまた、同じようだった。

傷だらけの身体を抱き合う男と女。かろうじて身に纏っている衣服が剥がれてしまえば、そこかしこに付いた無惨な傷痕が露になる。僕らの傷痕を見れば、常識の世界で生きている人々はきっと気味が悪いと感じることだろう。自分たちのクラスターから排除して、存在しなかったことにしてしまいたい。そんな考えを抱くに違いないと、僕は考えていた。

 「あつくんのからだ、あったかい」
 「あったかいのは、いのちがもえているから」
 「もえるいのちを胸に抱いて、あつくんは今も生きている」

痛々しい傷痕が無数に残された僕の体を抱いて、かたはは「あったかい」と口にする。僕の体が暖かいのは、僕の命が燃えているから。命が燃えているのは、僕が生きている証拠に他ならない。そしてそれは、かたはもまた同じことだ。

例え常識から排斥されようとも、僕らは生きているのだ。

 「あつくんはココにいる」
 「かたはもココにいる」
 「今この瞬間、あつくんも、かたはも、確かにココに存在してる」

僕の背中にぐるりと腕を回すかたは。彼女の右手、その薬指の付け根には、関節をなぞるように付けられた歪な傷がある。それは僕もまた同じで、あたかも指を切り取ろうとして失敗したかのような様相を見せている。昨日の夜に僕の<Painkiller>を使って、彼女の傷を僕が付けて、僕の傷を彼女が付けたものだ。

外から見ると――それはまるで、リングのようにさえ見えた。

 「あつくん、あつくん」
 「あつくんからもらったリングは、かたはの一生のタカラモノです」
 「ううん、ううん、そうじゃない」
 「一生じゃ足りなくて、二生でも、三生でも四生でも、百生でも足りません」
 「いつまでもいつまでも、かたはが分子になってもなお残る、絶対的なタカラモノ」

うっとりとした口調でもって、かたはが僕にそう告げる。

 「これで、僕たちは完全に一つになった。一つになったんだ」
 「かたはとあつくん、二人で一つ。分かつことはできなくて、どこまでいっても、ひとつの存在」
 「そう――その通りだよ、かたは。君の言う通りだ」

僕たちは一つになった。身も心も一つになって、僕らという存在を分離させることはできなくなった。

 「ほんとうは、いっしょにいてはいけないふたり。であってはならなかったふたり」
 「それが、あつくんとかたは」

帰天主義者の子供たる僕。オーバーライド・キュアの開発者の娘たるかたは。僕らは共にあってはならなかった、めぐり逢ってはならなかった――僕らを取り囲む大勢の人々は、きっと一人残らずそう言うだろう。

 「盛者必衰の信奉者と、永久不滅の探求者。鏡合わせのイデオロギー、そこから生まれたコドモたち」
 「コドモとコドモが一つになって、虚像と虚構に牙を剥く」

けれどその中心たる僕とかたはは、まったく逆の感情を抱いていて。

僕とかたはは、既に不可分な存在になっていて。

 「あつくん、あつくん」
 「かたはのカラダは半分ケダモノ。半分くらい、ポケモンなのです」
 「ポケモンはヒトに捕まると、あるじと呼んで忠誠を誓います」
 「あつくんはかたはのあるじ。あつくんは、かたはのあるじ」
 「かたはは幸せです。あつくんに支配されていると感じるとき、かたはは天にも昇りそうな気持ちになるのです」

見えていないとは思えないほど蠱惑的な瞳で、かたはが僕を撫で回すように見つめる。

 「君は――かたはは、本当に悪い娘だ」
 「僕に甘い言葉を囁いて、すべてを曝け出して、生まれたままの姿でぶつかってくる」
 「いつの間にか僕の心を掴んでいて、決して離しはしない」
 「僕のような狂信者の子供と肌を重ねて、あまつさえ僕が君を支配しているなんて言う」
 「まったく可笑しい話だよ。支配しているのは君、支配されているのは僕なのに」

僕とかたはが口付けを交わす。僕が求めたわけでも彼女が求めたわけでもなく、どちらともなく自然に口付けていた。僕はかたはの、かたはは僕の感情を理解しているから、意識せずとも一つになれる。

いつまでもこんな時間が続く――僕は、そんな幻想に浸っていた。

 

 「臨床実験、間近に」

リビングで何気なく読んでいた新聞の見出しに、僕は無意識のうちに吸い寄せられていた。オーバーライド・キュア、件の「上書き治療」の人間版の臨床実験が、もう間もなく実施される予定――とのことだった。

こんなことがあってはならぬ、命を冒涜する行為だとして、帰天主義者たちがこぞって声をあげていた。その中には、むろん僕の両親も含まれる。今ここに二人の姿は見当たらない。いつものように朝早くから出掛けて、教会で団体行動のための準備をしているに違いなかった。僕は少し遅くまで眠っていたから、彼らの集まりには巻き込まれずに済んでいた。

彼らは、大規模なデモを計画しているようだった。恐らくは僕も参加させられることだろう。上書き治療に賛成か反対か、趨勢がどちらに向いているのかは定かでは無かったけれど、彼らは少しでも流れを自らの元へ引き寄せたいと考えているに違いなかった。

僕がこれといって何の感慨も持たず、単調に新聞の字を追っていたけれど。

 「――かたは」

側に置いていた携帯電話のサブディスプレイに彼女の名前が踊っているのを見た僕は、即座に新聞を置いて立ち上がった。

 

彼女とあの河原で待ち合わせるのは、少しばかり久しぶりのことだった。

 「あっ。あつくん、あつくん」
 「お待たせ、かたは。遅くなっちゃってごめんね」
 「ううん、ううん。あつくんが来るまでどきどきすることも、かたはの素敵なおたのしみだから」

僕が側に近づいてくるのを認識した途端、彼女は僕めがけて勢いよく飛び込んできた。僕は地に足を着けて、しっかりと彼女を抱き留める。華奢な身体は僕の力でも簡単に持ち上げられるほど軽くて、彼女はこうして僕に持ち上げてもらうことをとても好んだ。抱いたまま軽く一回転してから、僕が彼女を地上へ下ろしてやる。

メールで僕を河原へ呼び出した彼女の様子は、昨日までと何ら変わらないように見えた。色の無い瞳はしっかりと僕を見据えていて、彼女の世界に僕が彼女なりの姿形で描き出されていることが容易に想像できた。持ち上げられてからぐるんと一回転したことで少しだけ乱れてしまった彼女の髪を直してやると、くすぐったそうに目を細めた。

かたはの仕草一つ一つに心奪われながらも、僕は今日彼女がここに僕を呼び出した理由について考えを巡らせていた。既に考えは固まっていて、僕は彼女から何か「話」をされるだろうと踏んでいた。

 「あつくん、あつくん」
 「今日のかたはには、ひとつ、おはなしがあります」

どうやら、僕の予想は当たっていたようだ。

 「何の話かな、かたは。教えてくれる?」
 「たいむ・たいむ。ここでおひとつ、こーひー・ぶれいく。あつくんは、かたはのおはなし、なんだと思う?」
 「かたはのお話か……そうだね」

彼女のしようとしている話が何か、僕はここに来るまでにとっくに考え付いていた。

 「――さしずめ、君が君でなくなる、ってところかな」

白い歯を見せて屈託無く笑う彼女の表情が、予め用意しておいた答えの正しさを物語っていた。

 「あのね、あつくん」
 「もうすぐ、かたははここからなくなります」
 「かたはは専用の病院へどかんとぶち込まれて、手術までお外に出られなくなるのです」

彼女は手術を行う日程が決まり、特別な病院に入れられることになった。何もかも想像していたとおりだった。何の驚きもなく、そして一切の意外さも無かった。完全に思ったとおりの内容だった。

 「それでですね、あつくん。手術の前に、ぷち手術を行うことも決まりました」
 「ほんのちょっぴり残ってる、かたはオリジナルの臓器たち。これをぜえんぶ取り出して、ケダモノのからだから作ったものと取り替えっこします」
 「そしてそして、それだけじゃあありません。かたはの大事な右腕も、手術の前に引き千切って、人工のものと交換します。えくすちぇんじ・えくすちぇんじ」
 「一見だいじょぶそうなこの右腕ですが、実はちょっとずつダメダメになってきていて、放っておくとどろどろでろでろに腐ってしまうんだそうです。おお、怖い怖い」

手術に先立ち、彼女に残された僅かな「人間性」たる右腕も切除されることが決まった。今は何の変哲もない、他人と変わらないに見える右腕だけれど、それもまた他の器官と同じように、機能を失いつつあるという。彼女はそんな内容の話を、いつも通りの表情と、いつも通りの口調と、いつも通りの声色で、僕にしてみせた。

 「あつくん、あつくん」
 「かたはを使った実験が成功すれば、オーバーライドなんとかは、実用化のメドが立つそうです」
 「どんな怪我も疾病も、ちょっとの時間でぱあっと治せちゃう。そんな夢みたいなお話」
 「いたみはかりそめのものに成り下がり、いたみの無い生を、いたみを味わうことのない生を、永遠に過ごすのです」
 「かたはを栄えある第一号にして、ニンゲン向けのオーバーライドなんとかを普及させるのが、ハンバツネヒコの狙いなのです」

そこまで言うと、かたはは目線を上げて、僕と目を合わせた。

かたはが受けようとしている手術。もしそれが成功すれば、かたははいかなるダメージも即座に取り除くことができる身体に生まれ変わることになる。痛みはごく希薄なものに成り代わって、いつでも取り除くことができるようになる。痛みを失ったまま、かたはは悠久の時を生きることになる。

――それは「生きている」のだろうか。「生きている」と言えるのだろうか。僕は意識せぬまま、そんな疑問を胸に抱く。

痛みの無い人生。かたははかつて、それを恐ろしいと口にしていた。痛みの無い世界、それは命の無い世界。彼女の言葉を借りるなら、こう表現される。

痛みの無い生はなく、生と痛みは不可分である。仮に生と痛みを分かとうとするならば、それは即ち虚無に至る。

彼女は今まさに――虚無へと足を踏み入れようとしていた。

 「――ダメだ」
 「行っちゃダメだ、行っちゃダメだ、かたは」
 「かたはは、ここにいなきゃダメなんだ」

ほんの数刻濁っていた意識が不意に意識が明瞭になると、僕は感情に突き動かされるまま、かたはをきつく抱き締めていた。

 「君が君でなくなるのは嫌だ」
 「かたはは、痛みを感じるから、人間だから……だから、かたはなんだ」

気持ちをありのままに言葉にする。美辞麗句で着飾ることも忘れて、僕は剥き出しの言葉を口から吐き出していた。かたはに行ってほしくない、ここにいなきゃダメだ、君が君でなくなるのは嫌だ。心の赴くまま、僕は彼女に言葉を投げかけ続ける。

僕らの細腕では抗いがたい大きな波が、僕とかたはを押し流そうとしているのが分かっていたから。

 「あつくん、あつくん」
 「あつくんは、分かってくれる」
 「あつくんだけが、分かってくれる」
 「いたみのないせかい、それはいのちのないせかい」
 「かたはは、かたははそんなところへなんか、行きたくありません」
 「カタチを変えても、どんなカタチであっても、かたはは『生き』つづけたいです」

かたはが僕にすがり付き、しきりに「生きたい」と繰り返す。

それが一般的なコンテキストで用いられる「生きたい」とは大きく様相の異なる、僕とかたはの間でだけ通用する意味を伴うものだということは、僕にはよく理解できていた。

 「あつくん、あつくん」
 「かたはに、いたみをください」
 「ずっとずっと消えることのない、いたみをください」
 「それが、かたはのねがいです」
 「それが、かたはののぞみです」
 「いたいの、いたいの、とんでかないで」

彼女は求める。痛みを求める。しきりに求める。何度も求める。

僕に、痛みを求めている。

 「――分かった」
 「分かったよ、かたは」
 「僕が、君の望みを叶えるから」

拳に力を込め、僕はかたはに誓う。

彼女に――消えない痛みを与えなければ、と。

 

ここがどこで、今が何時か。それは僕らに取って、取るに足らない些事と言えた。

三日後のことだった。オーバーライド・キュアの適用準備の手術を間近に控え、翌日から病院に入院することになっていたかたはを屋敷から密かに連れ出し、僕らは闇に紛れてその場を後にした。彼女を誘拐する試みはあっさり成功して、かたはは容易く屋敷から抜け出すことができた。

彼女から寄せられた希望を受けて、僕は彼女の部屋を訪れた後、彼女の両手首と両足首をそれぞれロープで固く縛り上げた。続けてガムテープを口に張り付けると、持参したボストンバッグに丁寧に詰めてその場を後にした。彼女が前もって窓のロックを壊しておいてくれたから、僕は悠々と屋敷を出入りできたことも記しておく。

人気のない場所でバッグを開封してから、中で丸くなっていたかたはに声を掛けた。彼女は満ち足りた表情を浮かべながら、自由の利かない両腕と両脚を敢えてもどかしそうに揺らして見せた。僕がそっとガムテープを剥がしてやると、ぷはっ、と小さく息を吐き出して見せた。

 「やあ、かたは。誘拐された気分はどう?」

僕が少しおどけて問い掛けると、かたはは頬に愛らしく笑窪を作りながらこう応えて見せた。

 「すてき、すてき。とってもすてき。かたは、あつくんの所有物になった気分」
 「ハンバツネヒコの所有物じゃなくて、あつくんの所有物」
 「自分の居場所ががらりと変わって、あたらしいせかいに来たみたい」
 「からっぽのお屋敷から、においと音に満ちたお外のせかいへ。ああ、きもちいい、きもちいい」

敢えて誘拐のような形式を取ることによって、あの屋敷から精神的にも離脱したかった――かたはの言葉は、彼女のそんな心境を顕している気がしてならなかった。僕の所有物になることで、あの屋敷の、彼女の家族の齎す束縛を断ち切りたい。彼女がそう願うなら、僕が彼女のために動かない理由などなかった。

不要な荷物を近くに捨てて、僕とかたはは肩を並べて、手を繋いで、歩調を揃えて歩き出す。夜の森は光源というものが見当たらなくて、ただ月明かりだけが僕らを照らしているだけだった。隣を歩くかたはの息遣いが聞こえてきて、僕は感情を昂らせまいと抑え込むことにとても難儀した。けれどそれは決して苦痛ではなく、むしろある種のゲームのような、大きな楽しみを伴う行為だった。

 「ハイキングみたい。あつくんとかたは、ハイキングしてるみたい」
 「今まで一度もしてないけれど、やっぱりこれって、ハイキングみたい」
 「ふたりでいっしょ、森の中。ずんずんずんずん、進んでく」
 「たのしい、たのしい。うれしい、うれしい」

僕らが織りなす夜の逃避行をハイキングに例えて、かたはは楽しそうに声を弾ませた。

 「君に同意するよ、かたは。これはきっと、ハイキングなんだ」
 「僕も一度だってハイキングなんてしたことない。君が言うんだし、僕も思うんだから、間違いない」
 「思う存分楽しもうよ。ここにいるのは、僕と君だけなんだから」

彼女が僕らの行為をハイキングだと考えるなら、僕もまたハイキングだと考えるのが道理だった。僕が彼女に同意を示すと、かたははきゃっきゃっと声をあげて喜びを表現して見せた。

外が闇に包まれていることを除けば、僕らはあまりにもいつもと変わらなくて――これから僕が彼女にしようとしていることを、何かの拍子にふっと忘れさせてしまいそうで。

 「あつくん、あつくん。かたは、喉が渇きました」
 「よし。じゃあ、少し休憩しようか。僕も一息入れたいと思ってたんだ」

手頃なスペースを見つけて、僕がかたはをそこに座らせる。彼女が腰を落ち着けたのを見届けてから、僕もすぐ隣に座り込んだ。ポケットから<Painkiller>を取り出すと、躇いなく左手を切りつける。手のひらにささやかながら血溜まりを作って、僕はかたはの口元へ左手を持っていった。

 「わあ」
 「いいよ、かたは。さあ、味わって」
 「あつくん、あつくん、ありがとう、ありがとう。いただきます、いただきます」

かたはは僕の作った血溜まりに鮮やかな色をした舌を差し出すと、チロチロと少しまどろっこしさを感じる舌遣いで血を舐め取り始めた。彼女の舌先が僕の手のひらを撫ぜる度に、僕の神経がざらついた柔らかな感触を捉えた。血溜まりの周囲に彼女の唾液が付着して、風に晒され冷たくなっていく。そのすべてに関して、僕は心地よさを感じずにはいられなかった。

血溜まりをすっかり空にしまうと、かたはが僕にしなだれかかって、右手に握っていた<Painkiller>に手を掛けた。お返しをしてあげるというサイン。僕は一切抵抗せず、彼女が求めるままに<Painkiller>を手渡した。彼女は少し危なっかしい手つきで柄を握ると、右手の指先を楽しげに切りつけた。

 「ああ――いたい、いたい。きもちいい、きもちいい」

感じ入った声をあげて、指先から血を滴らせる。僕は息を飲みながら彼女の手を取って、指先を口の奥にまで咥え込んだ。舌を絡ませると、滲み出た鮮血を僕のものにしていく。かつてかたはのものだった血、今は僕のものになった血。血は体の奥深くへ潜り込んで行って、一瞬で僕とかたはの境界を失う。僕はかたはで、かたはは僕だ。一体感が僕を支配する。

心ゆくまで互いの血を体内で混ぜ合わせ合って、僕らは再び立ち上がって歩き出した。どこを目指しているわけでもない、目的地なんて有りはしない。今は二人で歩いていられさえすれば、ただそれだけでよかった。歩いて行った先で、今の僕らにとってふさわしい場所が見つかれば、そこが目的地になるだろう。

 「あつくん、あつくん。ここ、風がきもちいい」
 「うん。少し小さいけれど、なかなかいい広場だね」

少しばかり歩いた先に、僕らは目的地になり得る場所を見つけることができた。木々の林立する森の中にあって、僕らのいる場所は不思議と開けていた。まるでポケットのよう、僕はそんな感想を抱く。あるはずの木が無い、周りとは明らかに異なる異質な場所。とてもとても、浮いた場所。

僕らにはぴったりの場所だった。

 「あつくん、あつくん」
 「いいよ、かたは。僕の中へおいで」

かたはが甘えた声をあげて僕に抱きつく。僕は腕をいっぱいに広げて彼女を受け入れると、お返しとばかりに彼女を抱き締める。僕の中へ彼女を取り込まんばかりに、僕の内側へ彼女を飲み込まんばかりに、強く強く、強く。

 「あつくん、あつくん」
 「かたはの中には、あつくんがいっぱい」
 「あつくんの中にも、かたはがいっぱい」
 「いっぱい、いっぱい、あつくんがいる」
 「からだの中を巡り巡って、ひとつの場所にあつまって」
 「あつくんの熱、それがかたはのエネルギー」

胸の中にかたはを感じて、僕は思いを巡らせる。

痛みとは、なんだろうか。

 (痛みは生きていることのあかしだと、かたはは言った)

痛み。それは僕がずっと忘れていたもの。幼い頃に与えられて、たくさん与えられて、飽きるほど与えられて、本来の意味を喪失してしまったもの。すべての痛みに無自覚になった僕は、生きているのか死んでいるのかさえ判然としないまま、ただ動くことのできる人形、或いは血の通った肉の塊として、この世界に在った。

そんな有様だった僕が、今は生きていることをはっきりと自覚している。僕は今この世界に生きている。もう一度生きている実感を得られるようになったのは、かたはのおかげだ。他の誰でもなく、他の何でもない。紛れもなくただ一つだけ、かたはが側にいるという実感が、僕をもう一度この世に蘇らせた。

 (生きることは、痛みを伴うこと)
 (痛みが在るから、人は生きている)

痛みを抱いて生きていく。かつて痛みのために社会的に死んだ僕が、痛みを抱いて生きていく。それは一体どんなものなのだろうか。どんなことなのだろうか。

分からない、解らないし判らないけれど、それは僕に必要なことだと本能が告げていた。かたはが呼び覚ましてくれた、僕の眠っていた一部分。生きているから痛みを覚える、痛みを覚えるから生きている。つまり痛みは、生きている実感を持てるもの。生きていることの意味を理解させてくれるもの。

生者には、痛みが必要なんだ――僕はその境地に至った。

 (痛みは生きる上で欠かすことのできないもの、切り離すことができないもの)
 (すべての痛みを殺すことは、生きることをやめてしまうこと)

かたはを抱き締める。彼女のぬくもりが僕を包み込む、彼女の甘い匂いが鼻をくすぐる。僕は彼女が好きだ。他の何者も及ばないくらい、彼女のことが好きだ。生きている彼女が好きだ。僕の側にいる彼女が好きだ。

こんなにもかたはを好きでいるのに、かたはの命は消えようとしている。脆弱でも赤々と燃えている炎が、形ばかりの作り物に挿げ替えられようとしている。

僕もかたはも、少しも望んでいないのに。そんなあり方など、これっぽっちも望んでいないのに。

 (少し前に――かたはは、痛みが欲しいと言った)
 (かたはにとってもっとも大きな「痛み」は、なんだろう)

かたはの痛み、それはとりもなおさず僕の痛みにもなり得るはずだった。僕にとってもっとも大きな痛み、僕は今一度それを思い描いてみる。僕にとってもっとも辛く苦しいこと、身が引き裂かれるような思いを味わうことになるもの。

手の中に在る<Painkiller>を握り締める。強く握り締める。とても強く、強く握り締める。幾つもの命を召してきた刃。夥しい量の血を啜ってきた僕の半身。すべてを闇へ葬る光。

<Painkiller>、痛みを殺すもの。痛みに満ちた生を終わらせて、新しい体に生まれ変わる。痛みは拒絶すべきもの、根絶するべきもの、殺すべきもの。<Painkiller>という名前には、すべての「痛み」を完全に否定する、頑ななメッセージが込められているのが分かる。

かたはから聞いたことがある。偶然かはたまた必然か、オーバーライド・キュアの核になるプログラムの名前も<Painkiller>ということを。ポケモンの持てる痛みを根こそぎ殺しつくし、すべての傷病を無に還すという確固たる意志。与えられるものが死か生かというだけで、そこに大きな違いは無い。

僕もかたはも、痛みを拒絶することを是とする家に生まれた。痛みを拒絶して、終わりの無い輪廻や、永劫の命を手に入れようともがき続ける。そんな人々の背中を見ながら、僕らはここまで育ってきた。

 (僕は彼らに言われるまま、ただ教義に盲目的にしたがって、たくさんの「痛み」を殺してきた)

その中には――僕自身が受けるべき、与えられるべき「痛み」も含まれている。

 (僕はもう一度「痛み」を取り戻したい)
 (それが、僕がここに生きている唯一の証左になる)

かたはがくれた「生きている実感」。それは確かな存在感を持っていたけれど、まだ完全ではないことは僕自身が一番よく理解していた。嵌め込むべき最後のピース、埋めるべき最後の一かけら。それこそが、まさしく「痛み」だった。

僕が「痛み」を取り戻すには、捨てなきゃいけないものがある。断ち切らなきゃいけないものがある。

 (<Painkiller>)

<Painkiller>、痛みを殺すもの。あるいは、痛みを失わせるもの。

この刃が<Painkiller>として、痛みを殺すものとして、僕の一部として在り続ける限り、僕は「痛み」を取り戻せない。生きている実感を得られない。

僕の手の中に在る<Painkiller>の意味を、変えなきゃいけないんだ。

 「――あつくん、あつくん」

かたはが僕の名前を呼んで、そっと顔を上げる。僕は思索を止めて、彼女の目をじっと見つめた。

 「あつくん」
 「あつくん、あつくん」
 「あつくん、あつくん、あつくん」

かたはがしきりに僕の名前を呼ぶ。

彼女の透き通った美しい声が、僕の体内で響き渡って。

彼女が空気を震わせる度に、僕の心が激しく戦慄いて。

 「かたは」

僕は、

 「かたは」

僕は、

 「かたは」

――僕は。

 

 「――!」
 「……君の願いを、叶えるよ」

 

握り締めた<Painkiller>で、かたはの胸を貫いた。

重ね合わせた胸の間に、熱い血が溢れてくる。赤黒いそれは瞬く間に僕らの隙間を満たして、地面へばたばたと落ちていく。かたははきょとんとした顔を見せて、僕の目を見つめつづけている。

 「あつ……くん」
 「あつ……くん」
 「むねが……いたい……」

震える手で僕の肩に手を置き、かたはが絞り出すような声で僕に言う。作り物の眼は闇夜のように真っ暗で、僕の姿を映し出してなどいない。形だけの瞳は表向きだけ繕っているばかりで、そこから涙を流すことなどあり得ない。

頭でそう理解していても、彼女の仕草は、理屈や理解を軽々と無視するもので。

彼女は――泣いていた。

 「二回め……にかいめ……」
 「あつくんが、かたはの、中に……」
 「これで……さいご……」

僕はただじっと、血を流すかたはの姿を見つめていた。痛みを抱き、痛みに震え、痛みと共にある彼女を、僕の生きている瞳に焼き付けておくために。

これが僕の選択なのだということを、二度と忘れることのないように。

 「いたい……いたい……」
 「かたは、あつくんの……あつくんのやいばで……つらぬかれて……」
 「だいすきな、だいすきな、だいすきな……あつくんに……あつくんに……」
 「いたい、いたい、いたい……」

すべてを見透かした瞳で、彼女が僕に呟く。

僕はかたはを殺すことにした。かたはは僕に殺されることになる。僕に生きている実感をくれた唯一人の少女、僕のことを生けとし生ける者の中でもっとも好きだと言ってくれた女性。彼女は僕に殺され、僕は彼女を殺す。

最愛の人を殺し、最愛の人に殺される。

 「かたは」
 「これが、僕の答えだ」
 「僕が導き出した――『痛み』の答えだ」

彼女は何も言わずに、ただ僕から目を離そうとしない。彼女の世界の中で、僕はどのような形で描かれているのだろう。いかなる形であっても構わない、僕が彼女の世界に在るなら、彼女の中で僕が生きているなら。

それだけが、僕の願いだから。

 「あつ、くん……あつ、くん」
 「かたは、さよならは、いいません」
 「この、おわりのない、『いたみ』を」
 「この、かぎりのない、『いたみ』を」
 「ただ、このむねにいだいて」
 「からだをつめたくして、にくをくさらせて、くちてゆくだけ……です」

淡々と淡々と、僕に向けた言葉を紡ぐ。彼女の口調はいつもと変わらない。何も変わらない。ただ、今にも声が消え入りそうになっているだけ。

それはあたかも、彼女の命のように。

 「かたは、ずっと」
 「あつくんからうけた『いたみ』を、この『いたみ』を」
 「わすれずに、ただかたちをかえて、すがたをかえて」
 「おわりのおわりまで、いきてゆきます」
 「きえない『いたみ』を、いやされることのない『いたみ』を」
 「『あつくん』につらぬかれた、この『いたみ』を――ずっと、ずっと、ずっと……」

薄く眼を閉じる。言葉が途切れる。鼓動が静まっていく。

命が、消えてゆく。

 「――そうだよ、かたは」
 「君はカタチを変えて、ずっと生き続けるんだ」
 「僕に躰を奪われた痛みを抱いて、終わりの無い生を続けるんだ」

かたははもう応えない。声を掛けても、手を取っ手も、頬を撫ぜても、すべては無意味で。

 「……あつ、く、ん……」

だけど――最後に、最期に。

 「……………………」

もはや聞き取ることさえ難しいほど掠れた声で、彼女は僕に――「いきて」と言った。

裸の心は驚くほど無防備なまま、獣の爪で引き裂かれるような痛みを受けて。

 「かたは、受け取ったよ。確かに受け取った」
 「僕は生きていくよ。『生きて』いくんだ」
 「君を喪ったという『いたみ』を、僕の手で君を葬ったという『いたみ』を」
 「永遠に味わいながら、この世界で生きていくんだ」

血塗れの最愛の人を、僕はそっと地面に寝かせる。血溜まりに眠る彼女は青白い肌をしていて、この世のものとは思えないほど美しく見えた。彼女以上に美しいものなど、僕は決して見ることなどできまい。これまでも、そしてこれからも、ずっとずっと、永劫に。

鮮血の装束を身に纏った彼女を手放した僕は、意識せぬまま両手を上げて、真正面から掌を見つめる。

 (――ああ)

右手も左手も、赤くて、赤くて――ただ、赤くて。

 (僕は、かたはを)
 (かたはを――手に掛けたんだ)

流れる血を眺めながら、僕は彼女の最期を想った。

 

泥と血に塗れてボロボロになった手と、小さく盛られた土の山を交互に見つめる。

この下には、かたはの躰が眠っている。死装束を身に付けたまま、冷たい土の中に眠っている。

 「けれど君は……君の心は、君の『いのち』は」

眠っているのはかたはの躰。彼女の心は、僕の中に在る。未来永劫離れることなく、僕はかたはと共に歩いていく。彼女と見つめ合えない痛みを、彼女と語り合えない痛みを、彼女と触れ合えない痛みを――すべての消えることのない痛みを抱いて、僕はもう一度生きていく。

それが彼女の願いであり、僕の成すべきことだから。

 「僕は、かたはと共に生きていく」
 「自分の足で立って、痛みを受け入れて、生きていく」

僕は転がっていた<Painkiller>を、そっと拾い上げる。目を閉じ思考を巡らせて、あらゆる記憶に想いを馳せる。

 「僕たちは痛みと共に生きていく。だから――」

手の中に在る<Painkiller>。痛みを拒絶するもの、痛みを殺すもの。

すべての痛みを殺したい。僕の親と彼女の親が相反する概念をもって成そうとした、決して交わることのない二つの思想。

継ぎ接ぎだらけの彼女の躰と、血塗れになった<Painkiller>は、まさしくその象徴だった。

 「僕たちは歩き出す」
 「無数の<いたみ>と<いのち>に満ちた、生ける者たちの世界を」

膝を突いて屈み込み、最後にもう一度天を仰ぐ。

 「さあ、お別れだ」

目線を動かした先には、小さな小さな土の山があって。

 「――さようなら」

 

 「さようなら、<Painkiller>」

 

盛られた土の上に――小さな墓標が突き立てられた。


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