マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
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  [No.3317] お下がりのシンボラー 2 投稿者:GPS   投稿日:2014/07/06(Sun) 18:12:07   81clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「じゃあ、好きなところにどうぞ」
 通された屋敷の中は外見同様の美しさで、入ってすぐのホールや上へと続く階段など一つ一つから確かなこだわりで以て造られたことが感じられた。見えるもの全てに溜息をつきそうになりながら広間に案内される。ここもまた息を飲むような空間で、無言で足を止めた俺に気づいていなそうなサボンテさんはそんなことを言って部屋を出ていった。彼にくっつくようにしてシンボラーも続く。
 扉の中のシンボラーを認識した時、先に反応したのは俺ではなくラビちゃんだった。やっと見つけたとばかりにラビちゃんは元々鋭い嘴をさらに尖らせて鳴きまくったのだけれど、しかしシンボラーは俺の知っているような反応をよこさなかった。
 反応というか、無反応なのが俺の知っているシンボラーなのだ。聞こえているのかすら不安になるくらい、どれだけラビちゃんが騒いでもシンボラーは平然としているのに、「ターコイズ」と呼ばれたそのシンボラーは驚いたように身体を揺らしてサボンテさんの影に隠れた。
 こいつは俺のシンボラーではない、と直感で理解する。それならば一体、どこに行ってしまったのだろうか。「見慣れないポケモンだろうし怖がらせてしまったかな」とラビちゃんに謝るサボンテさんの言葉に意識半分で頷きながらあいつの姿を思い描いた。
 少し前のそのやりとりを反芻しつつ、残されてた部屋を見回してみる。白い壁と白い床、白い天井に白い柱。白で統一されたこの屋敷だが、壁のところどころに埋め込まれている、黒の線が少し通った水色の石はターコイズだろう。アバゴーラ、パールル、シャワーズなどポケモンの彫刻も多いが、いずれにしても目の部分はその宝石で出来ていた。かなりの量が使われていそうだが、一体いくらかけたのだろうと無粋なことを考えてしまう。
 高級感漂う赤いビロードの絨毯、化学繊維などでは絶対になさそうな素材のソファ、窓からの風でサーナイトのように揺れているカーテンはもしかしたらシルクだろうか。Tシャツにジーンズの俺は明らかに場違いで、萎縮しつつ一番小さな隅のソファに腰を下ろす。
 風通しの良い窓際に置かれたグランドピアノ、凝った作りの調度品。どれも華々しさを放っているが、その反面俺しかいない部屋のそれらはなんだか切なく見えた。そういえば、この屋敷もサボンテさんと彼のシンボラーを除けば町同様誰もいない。サボンテさんが退室したため声も足音もなくなって、部屋に響くのは先ほどまでのように風の音と微かに聞こえる波の音だけだ。
 少しばかり離れたところにある大きなテーブルには、いくつもの椅子が設置されている。どう見ても、サボンテさんが一人で使っているとは考え難い。それにこういう家ならば、使用人というものが存在していてもおかしくはないのではないだろうか。
 やっぱり誰もいない世界に迷い込んだのか、という思いが頭をよぎる。しかしサボンテさんはいるし、ターコイズという名のシンボラーもいた。どういうことなんだと首を捻りながら視線を動かすと、いくつかの額縁が目に入った。紺碧の海底を泳ぐ巨大な影、荒れ狂う波濤と雨風の中を飛ぶ鋭い光、光が差し込む明るい海を漂っているフワンテのようなシルエットは何なのだろうか。

「おや、その絵たちが気になるかい?」
 ちょうどそこで声をかけられる。そんなに時間は経っていないはずだけれども、絵に見入ってしまったようだ。ええ、まあ、などと返しながらいつの間にか戻ってきていたサボンテさんに顔を向ける。
「あっちの青い魚は、ホウエンというところの海の神様らしい。あの白い鳥はどこのだろう、わからないけれども、あれもまたどこかの海の守り神だと言われている。あっちの絵、綺麗だろう。シンオウという地方でたまに見られる海の妖精だ」
 慣れた手つきでティーセットを並べながらサボンテさんが言った。その近くにはシンボラーが控えている。あいつと瓜二つなその姿に、まだ諦めていないらしいラビちゃんが睨むような目になった。
 俺の前に置かれたカップに赤い茶が注がれる。久しぶりに感じられる潮風以外の匂いを吸いつつ、俺は絵に目を戻した。
 海のポケモンを描いたものの他に、恐らくこの町の様子を描いたのであろう絵もいくつかある。噴水のある広場で子供たちがヨーテリーと鬼ごっこをしている絵、花屋の店先でドレディアが女の子に百合の花束を手渡している絵、船で届いた輸入品を運ぶダゲキとナゲキと筋骨隆々の男たち。たった今漁を終えたばかりらしい、港に上がる漁師とブイゼル、フローゼルたちの手には獲物が沢山掲げられてて、それを出迎える婦人の姿も絵に収められていた。
 白い町で人とポケモンが生活している何枚もの絵。俺が見ることの出来なかったその光景は、確かにこの町にあったものらしい。
「あの絵を見てくれ」
 またしても考え込みかけた俺にサボンテさんが声をかける。彼の指さす方向に視線を動かすと、どの絵よりも高い場所に飾られた一枚の作品が他のものよりも豪奢な額に入れられていた。
 それは家族を描いたものだった。中央に描かれた、恰幅のいい男性は体型こそ違うもののサボンテさんによく似ていた。隣で微笑んでいる女性は、サボンテさんと同じ目の形をしていた。
「……ご家族、ですか?」
「その通り。描いてもらったのはだいぶ昔だけどね、父はかなり腕の良い画家に頼んだらしく皆そっくりだ」
 夫婦を囲むようにして、九人の子供がそれぞれの表情で位置についている。男の子が六人に女の子が三人、立っている者もいるし座っている者もいる。精一杯の気取った顔の子、緊張しているらしく姿勢が良すぎる子、反対に溢れんばかりの笑顔の子、自分が描かれていることなどお構いなしに母親にしがみついている子。彼らの周りには何匹かのポケモンもいて、この家を守っているというシンボラーも、この絵が描かれた頃の当主であろう父親の傍らに鎮座していた。
「あれが当時の僕だよ」
 サボンテさんが、絵の隅っこの子供を指す。ムーランドの大きな胴体に隠れるようにして、遠慮がちにこちらを見ている一番小さなあの子供がこの紳士になったのだとは、成長というものは偉大なんだなあとしみじみ思う。
「大家族ですねえ」
「はは、まあね。僕みたいな家だと子供は沢山いるものだけど、それにしたって九人は多いか」
 一通り目を通したため、一度絵から視線を外してお茶に口をつける。喉を滑り落ちる温かな芳香は確かに紅茶なのだけれども、今までに飲んだことのない不思議な味がした。
「どうだろう、口に合うかな? イッシュ本土と同じ、茶葉はメブキジカの角のものなんだけれども、潮風の中で育てているせいか味が変わっちゃうらしくて。大丈夫?」
「なるほど! そういうことだったんですか、おいしいです」
「それは良かった、本土から来た人に出すと駄目な方も結構いるからね」
 こっちもどうぞ、と菓子皿を寄せられる。「カロスからの輸入品だ」と勧められたガレットはこの前父がお土産に買ってきたものよりも幾分素朴な味に感じられた。焼菓子を頬張る俺とラビちゃんを、サボンテさんは微笑ましそうに、シンボラーは無表情な目で見ていた。

 本当ならば、どうして町に誰もいないんだとか、大家族のはずのこの家になんでサボンテさんだけなんだとか、イッシュ本土かセイガイハか、俺の知っている場所に戻る手段はあるのかとか、聞きたいことはある。しかしこうして当然のようにシンボラーとだけの家にいるサボンテさんを見ていると、様子がおかしいということを指摘するのはどうも気乗りしない。
 話を切り出すタイミングをなかなか掴めず、俺はガレットをかじりお茶を舐めるだけになってしまう。何も言うことが出来ない俺の耳に届く波の音は、そのせいかさっきまでよりも大きく聞こえてしまう。そんな沈黙をどうとったか、サボンテさんが「そうだ」と明るい笑顔になった。
「あの曲を教える、って約束だったよね」
 あっ、と俺も頷く。是非ともお願いしますと頭を下げると、サボンテさんはにこ、と笑った。俺の向かいの席を立ち、立てかけてあったチェロを取って戻ってくる。
 そのまま演奏するだろうと姿勢を正した俺だが、サボンテさんは弓を構えることはなかった。代わりに、「ターコイズ」とシンボラーに話しかける。呼ばれたシンボラーは頷くような素振りを見せ、身体をぼんやりと光らせた。
「ターコイズにはちょっと変わった特技があってね」
 あの光は、シンボラーはじめポケモンがエスパータイプの技を使う時に発せられるものだ。何故今それを、とたじろいだ俺を落ち着かせるようにサボンテさんが言う。
「あの子は『みらいよち』が使えるんだ」
「みらいよち……」
 普通のシンボラーでは覚えないはずのその技は、バトルにおいて指示した少し後に効果が発動するものだ。それを使えるとなると恐らくタマゴ技ということだろうか。携帯獣学部でもなく、バトルサークルに入っているわけでもない俺はそのあたりに明るくない。
 まあ、エスパータイプのシンボラーがエスパータイプの技であるみらいよちを使うこと自体は別段驚くことでもない。気になるのは、どうして今それを使うのかということだ。
「しかも、ターコイズのみらいよちはただのみらいよちとはちょっと違う」
 サボンテさんの説明は続く。最初はうっすらだった光はだんだん強くなり、力も大きくなっているのがわかった。水色の石は一際明るい光を放っている。
「ただ、攻撃を後に持ってくるだけのものではないんだよ」
 その言葉が終わりかける時だった。窓から聞こえてくる波の音に混じって、小さな、ピアノの音がしてきたのだ。鍵盤を優しく叩くその音は、徐々に大きさを増していく。
「こんなことが出来るポケモンに、僕は今まで会ったことがないから……驚くかもしれないけれど、危なくはないから安心して欲しい」
 苦笑したサボンテさんが、すっ、と窓の方を手で示す。ピアノの音が聞こえたそちらの方向へ、つられて首を動かした。すると、
「…………え!?」
 絵の中に描かれていた女性、つまりはサボンテさんのお母さんが、先ほどまで閉じられていたはずのグランドピアノを弾いていた。カーテンの揺れる窓際で、長い髪を風に遊ばせながら、鍵盤の上に指を踊らせているのは、紛れもなく絵の中の人だ。
「……どう、いう、…………」
「ターコイズはね、今までに見たもの、聞いたものを再現することが出来るんだ」
 ピアノを弾くお母さんだけじゃない。その周りに、子供たちが次々と現れては動き出す。笑い声、涙混じりの声、怒ったような声と、聞こえるものも増えていった。
 優しげな旋律が広間に響く。その空間にはさっきまで誰もいなかったのが嘘だったかのように、部屋の中は一気に音に満ちた。シックな長いスカートを履いた女の人が一礼しながらどこからともなく出現して、楽譜をいくつか置いていったけれどもあの人は使用人だろうか。
「みらいよちっていうのは、先の時間に効果を期待する技だろう。ターコイズは恐らく、それを応用しているんだ。過去の時間において、何度も何度もみらいよちを使っておくことで、こうして未来に力を発動することが出来るんだろうね」
「は、はあ……」
 僕たち家族の推測だけど、とサボンテさんは付け加える。わかったような、わからないようなその説明に曖昧な返事をした。膝の上で驚きのあまり嘴をあんぐりとあけたまま膠着しているラビちゃんに、身体を光らせたシンボラーが得意げに揺れた。
 正直俺だってまだ混乱しているけれど、ポケモンの技が謎に満ちていることは常識だしとりわけエスパータイプのことはわからないことだらけだ。そう考えると、こういうシンボラーがいてもおかしくなかろう。などと強引に自分を納得させて冷めた紅茶を口に含む。

 いくらか落ち着いてきたので、再度ピアノの方を見てみるとさっき弾いていた曲が終わるところだった。そのタイミングで駆け寄る子供たちの一人一人を、母親は優しく抱きしめる。
『おかあさん! つぎ、あのきょくがいい!』
『うみのうた! あれひいて!』
 小さい女の子二人が母親にせがむ。はいはい、と笑った母親は膝から子供たちを降ろすと、先ほど使用人さんが持ってきた楽譜の中から一つを手に取った。
 ほどなく奏でられるその旋律に俺は、あ、と声をあげる。それは町を徘徊していた時に聞こえたあのメロディで、サボンテさんがチェロで弾いていたのと同じだ。これ、と口の動きだけでサボンテさんに伝えると「こちらの声は向こうに聞こえないから大丈夫だよ」と告げられる。
「この歌は、ここの町歌という感じかな。いつ作られたのかわからないし、誰が作ったのかもわからないけれどもみんな歌うことが出来る」
 ピアノの音に合わせて、子供たちが歌い出す。海の偉大さと美しさ、町の振興への祈り、海と町に暮らすポケモンと人の絆を歌ったその歌詞はすんなりと頭に入った。
 一度引き終わっても、子供たちはよほどこの歌が好きなのか、もう一回、と母親にねだる。何度も奏でられる旋律に、気がつけば俺も一緒になって口ずさんでいた。ラビちゃんが歌っているつもりなのか嘴をふるわせる。サボンテさんもチェロを構えて、低弦の音色をピアノに重ね出した。
「親から子へ、子から孫へ。兄から弟へ、姉から妹へ。この歌は伝えられてきたんだよ」
 美しいけれども悲しい、切ないけれども明るい旋律が潮風と共に部屋を満たす。それに乗る波の音でさえ、共に音楽を奏でているように思えた。
「伝えられるのは歌だけではない。この町で生きる人たちの気持ちが、この旋律に込められて、下の世代へと受け継がれていくんだ」
 気持ちが受け継がれる、という言葉に俺の胸が一度鳴った。歌っていた口を閉じてしまう。ここに来る前、迷い込む前の記憶が不意に蘇った。
 ものと共に、気持ちさえ押しつけられる。この綺麗な歌とは違うことのはずなのに、何かが重なった。今回のこと、洋服のこと、部屋のこと、ベッドのこと。シンボラーのこと。「お下がり」と伝承は別のことだとわかっているのに、俺は黙り込んでしまう。
「カクタスくん……?」
 弓を動かす手を止めて、サボンテさんが心配そうな顔で俺を見た。何でもないです、と慌てて取り繕って手を大きく振る。尚も怪訝な目つきの彼から逃げるようにして、俺は傍らに置いてあったサックスケースを引き寄せた。
「次は俺も一緒に演奏しましょう! 音階、間違ってたら直してくださーー」
 途中まで言いかけて、俺は言葉を切った。視線はサボンテさんではなく、窓際の方へと向く。
 俺が思考に入っていた間に鳴り止んでいたピアノの椅子に座っていたはずの母親が立ち上がっていた。過去の光景から聞こえてくるのはピアノの旋律ではなく、子供たちの争う声に変わっていた。
『やだ! 僕もこれ欲しい!』
『なんだよ、やめろよ! これは俺のだぞ!』
『だって僕だけ持ってないんだもん!』
 小さな男の子二人が取っ組み合いを始めてしまったようで、何やら言い争っている。やめなさいよ、とか、だめだよ、とか周りの兄弟姉妹たちが止めに入っているけれどもなかなか収まらない。とうとう母親が二人を引き離した。
『どうしたの、あなたたち。喧嘩はしていいことだったかしら?』
 なだめるように母親が言う。引き剥がされた二人のうち、小さい方は涙目になってもう片方を睨んでいる。背の高い方の子はその視線にぷいと背いて、手に持ったものを大切そうに、そして小さい方の子から隠すみたいにして抱え込んだ。
 ここから見る限り、彼が持っているのは船の模型のようだ。おもちゃにしては精巧な作りだ、やっぱりお金持ちの家に生まれた子供は遊び道具までも洗練されているということだろうか。
『こいつがおれの船を取ろうとしたんだ。おれは悪くない』
『だって……だって、兄ちゃんが』
『おれは何もしてないだろ!!』
 背の高い方の子が怒鳴り声をあげ、周囲で成り行きを見守っていた子供たちがきゃっ、と後ずさる。小さい子が、恐らく兄なのであろう背の高い男の子のおもちゃを奪おうとしてしまったということか。子供にはよくあることだろう、と思ったものの先ほどの「僕だけ持ってない」という言葉がひっかかる。
 九人の子供たちを見回してみると、確かに一番小さい、泣いているその子以外の子供は全員何かを手にしている。男の子は船の模型、女の子はお人形。足下には他にもいくつかのおもちゃやぬいぐるみ、カスタネットやタンバリンなどの楽器が転がっているけれども、彼らが大事そうに持っているそれは他のおもちゃとは違う、特別感のようなものがあった。
『もう、怒らないの。泣かないで、今度あなたにも作ってあげるって言っているじゃない。ゆっくり待った方が来た時嬉しいわ』
 母親が困ったように小さい子をあやす。しかしその子は首を振り、「うそだ!」と強く言った。
『もう何度も何度も、そう言ってまだくれないじゃん! いつになっても、僕だけ持ってないんだよ!!』
『おもちゃ屋さんが忙しいのよ。必ず、あなたにも作ってもらえるから』
『でも、僕だって……』
『わがまま言わないの。お兄ちゃんやお姉ちゃんを困らせちゃいけないわ、サボンテ』
 少しきつい口調で母親が言い聞かせたその途端、ピアノの周りに映し出されていた光景がふっと消える。シンボラーが技を止めたのだろう。しかしそれよりも、母親の言葉に混じった一言、小さい子へ投げかけられたその名が気になった俺は条件反射的にサボンテさんの方を見てしまう。
「恥ずかしいところを見せてしまったね」
 決まり悪そうにサボンテさんが苦笑した。その台詞から察するに、やはりあの小さい子は幼少のサボンテさんだったということか。
「九人もいるとなると、両親は末の僕にまで手が回らないことも多くて……大分困らせてしまっていたんだと今はわかるけど、あの頃はよく泣く羽目になったね」
「いやいや、わかりますよ。俺も末っ子ですから」
 照れくさそうに頭を掻くサボンテさんにそう言うと、「そうなのかい?」と少し驚いたような顔をした。流石に九人じゃなくて五人兄弟ですけど、と付け加える。
「五人でも九人でも変わらないさ。そうか、君も僕と同じか……」
「色々大変ですよね、末っ子って。兄ちゃんと姉ちゃんがみんな羨ましく見えちゃって」
「ああ。なかなか上の皆と同じ様には扱ってもらえないし、ほとんどの場合は最後にされるしね」
「イヤなことばっかりってわけでも無いんですけど……もう、俺なんかお下がりばっかりでうんざりですよ。部屋は姉ちゃんのお下がりだから壁紙が超ファンシーだし、ベッドは狭いし、兄ちゃんのお下がりの本にはめっちゃでかでかと名前書いてあるし。ポケモンだって……あ、領主さんの家では流石にお下がりはないか」
 思いっきり庶民ノリで話していた俺だが、そこに気づいて言葉を切る。しかし、サボンテさんは「お下がり、か」と呟いた後にふっ、と小さく笑いを作った。
「……そうでもない、と思うよ」
「え?」
 こんな立派な、やんごとなき家の人にもお下がり文化は存在するのか。末っ子はやはり大変なんだなと思いかけた俺だけれども、それは「確かに、服や部屋というわけではないけどね」という言葉に否定される。
 それなら、何のことなのだろうか。サボンテさんのお下がりは、何だったのだろうか。それを聞こうと俺が口を開く前に、サボンテさんがワンテンポ早く言葉を発した。
「ところで……君は、この町の様子を見たよね?」
「えっ、……はい、まあ」
「誰もいなかった、だろう?」
 あえて避けていた話題が唐突に出され、俺はすぐに答えを返すことが出来なかった。黙りこくった俺の声の代わりに、やけに耳につくような波の音が部屋に響いた。
「…………えーと……」
「間違っていないよ。その通り、今はこの町に誰もいない。昨日までならある程度残っていたんだけれども、折しも今日ですっかりもぬけの殻さ」
 僕とターコイズを除いては、と付け加えるサボンテさんの少し後ろでシンボラーが揺れる。紅茶を口に入れた時に一瞬薫った、磯の香りが窓から滑り込んできた。この屋敷は緩やかとは言え高台にあったらしく、よく晴れた青空の下、太陽に照らされた町と海が開け放たれた窓から一望出来る。その方向をちらりと見やり、サボンテさんは静かな口調のまま、言った。 
「この町は……この美しい町は、僕が『お下がり』としてもらったものだ」

「……………………」
 言葉の意味が飲み込めず、俺はまたしても無言になる。何かを言おうとは思うのだけれども何を言うべきなのかわからない。膝の上のラビちゃんが心配そうに見上げてきたけれども、その羽毛を撫でてあげることすら出来なかった。
 俯いたまま黙っている俺の言葉を、サボンテさんはしばらく待っていてくれたのだがやがて口を開いた。「だって、おかしいと思わないかい」と自虐的な声色になる。
「普通に考えて、領主の座を継ぐのは長男だろう。もし違ったところで、長女が婿を取るとか次男が継ぐとか……間違っても、九番目の末っ子に与えられるような地位じゃない。領主としてこの町を治める権利も、この屋敷も、ここを守ってくれるシンボラーも、本来ならば僕では無い、上の兄弟たちの誰かが手にするはずだ」
「あっ……」
 言われてみればその通りだ。時代の先を行くような会社の重役や最近の商店ならばこの限りでは無いだろうけれど、やはりこういう世襲が根強く残る家柄では家を継ぐにあたって、基本的に上の方の子供から優先順位が高くなるものだ。今までこのような家の人と直接話したことが無いから失念していたけれど、そういうものだろう。
 じゃあ、何故。なんで末っ子のサボンテさんが領主として、ここにいるのか。そして、どうして町に誰もいないのか。今度こそ尋ねようとした俺だけれども、「時に君は、三闘を知っているかい?」と逆に尋ねられてしまった。
「三、闘?」
 またしても唐突な問いに疑問符を浮かべた、俺の言葉に波の音が重なる。三闘、とはコバルオンとテラキオン、ビリジオンの三闘伝説のことだろうか。伝説のポケモンと言っても良いくらいの三匹で、何度かカメラが彼らの姿を捉えたという報道があったかどれも真偽ははっきりしていない。
 三闘という言葉にはそれ以外思い当たらなかったので、とりあえずサボンテさんに尋ねてみる。三つの名前を並べた俺に、彼は「そう。その三匹だ」と頷いた。
「昔、人間が戦争を始めたせいでポケモンが脅かされた時にポケモンたちを救った三匹、それが三闘だ。持ち前の怪力で岩を壊し、ポケモンたちの逃げ道を作ったテラキオン。すばやい身のこなしで、ふりかかる火の粉からポケモンたちを守ったビリジオン。そして、危険な状況でも冷静さを失わずに、焼ける森に怖がるポケモンたちを導いたコバルオン」
 その伝説は俺も知っている。しかし、どうしていきなりこんな話を始めるのか。内心で首を捻る俺を余所に、サボンテさんは少し音量を落とした声で呟いた。
「君がよりによって今日、…………の日に、来たのも……」
「はい?」
 途中の言葉を、波の音が掻き消した。何と言っているのかわからず聞き返した俺だけれども、サボンテさんはそれには答えずにシンボラーの方を見た。
「五年前、君は見ていたんだろう」
 サボンテさんがシンボラーの模様、目にあたる水色の円をじっと見つめる。シンボラーは動かず、サボンテさんを正面から見返した。波だけが聞こえる部屋が静まり返る。 シンボラーは、いつも俺のシンボラーがしているようにただただ浮いているだけだ。だけれどもそこには俺のとは、いや、さっきまでのシンボラーとさえも違う気迫があった。ただそこにいるだけなのに、有無を言わせないような雰囲気を纏っているのだ。
 恐ろしい。俺は、初めてシンボラーに対してそんな感情を抱いた。ミステリアスな模様が、大きく広がる沢山の羽が、類を見ないシルエットが、鈍く光る水色の石が。このポケモンが、こんなにも恐く見えたのは初めてだった。
 しかし、エスパーポケモンのぞっとするようなオーラを目の当たりにしても尚、サボンテさんは動じていなかった。静かな目で、シンボラーを見つめ続けている。サボンテさんの黒い瞳と、シンボラーの水色の瞳が、しんと交差した。
 状況が飲み込めず、また、間に入っていける空気でも無い中俺は立ち竦むしか無い。口の中に湧いた生唾をごくりと飲み込む。俺の喉が鳴ったのと同時に、サボンテさんが息を吸った。
「ターコイズ」
 シンボラーの名前が呼ばれる。低い声で、触れるように発されたその言葉にシンボラーの尾羽が少し揺れた。
「大丈夫だ。もう、全部済んだことなんだから」
 何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。しかしシンボラーは理解しているようで、少し球体部分を傾けてサボンテさんに何かを伝えていた。それは彼の言葉に抵抗するようなニュアンスが見て取れたけれども、その本意を俺は探れない。その動きに対してサボンテさんは首を横に振った。
「心配する必要は無い、全部解決したじゃないか。昨日説明した通り、あとは時を待つだけだ」
 それに、カクタスくんが来たのも何かの縁だろう。そう付け加えたサボンテさんに、シンボラーが渋々と言った調子で視線を外した。ぷいとそっぽを向いたその身体が先程同様光を帯びる。このシンボラー特有のみらいよちだろうか。
 しかし、今度は何の光景を。縁とはどういうことか。今日何が起こるのか。それ以前に、さっきの話の続きは。聞きたいことが山ほどあって口を開きかけた俺を、サボンテさんはそっと手で制す。それに気圧された俺の声の代わりに、ざらざらとした波の音が部屋に鳴った。

「五年前のことだ」
 窓とは反対の、沢山の絵が飾ってある方を見てサボンテさんがぽつりと呟く。海の神様の絵。町で暮らす者の絵。彼の家族の絵。それら一つずつに視線を動かしてから、彼は目を伏せた。
「波の穏やかな夜だった、と、当時の領主だった父から聞いている」
 小さい声で話すサボンテさんの言葉を、波の音から拾い上げるのが大変だ。聴覚に神経を集中させているうちに、シンボラーの技も発動していたらしい。絵が飾られた壁の下、白い柱の間にぼんやりと五つの影が現れる。
 二つの影は人間の男女で、片方はさっきの光景でピアノを弾いていた母親の面影があった。サボンテさんの母親の、年を重ねた姿ということか。となると、隣に立つ同じくらいの年頃の男性は父親だろう。絵の中央にいる男性ともよく似ている。
 俺たちに対して横を向く二人の正面に、次いで三つの影が現れた。それぞれ高さが違う、四足のポケモンの影だ。それが徐々にはっきりしていき、茶、緑、青の色を帯びた時、その影が何たるかがわかった俺は思わず息を呑んだ。
「三闘……!!」
 本や図鑑、教科書などの絵で見たことは多々あるけれども、三闘実物を見たことなど無い。数多の研究者が探しているのだ、俺が出会ったこともなくて当然である。そんな彼らを目の前にしてしまい、シンボラーが再現出来るということは実在したのか、という事実とそれを確認してしまったことに絶句する。
「でも、なんでここに……」
 震える声でどうにかそれだけ呟いた俺に、「聞いていればわかる」とサボンテさんが言う。それに対して何か言うよりも先に、浮かび上がった影のうち父親が「どういうことですか」と張りつめた声を出した。
『それは……それは、あまりにも酷すぎるのではないでしょうか!?』
 父親の拳はわなわなと震えていた。母親は両手で顔を覆い、声こそあげないものの涙を流していた。サボンテさんの両親の顔は色を失い、見ているこちらが辛くなりそうなほどだ。事情も何もわからないのに、胸が締め付けられそうになる。
 しかし、相対する三闘は怖いほどに落ち着いていた。テラキオンは鎧のような鋼を光らせてる。ビリジオンは爽やかな毛並みを風に遊ばせている。一瞬の揺らぎも見せない静かな瞳のまま、威厳溢れる立ち姿を見せていたコバルオンが三匹を代表するようにして口を開いた。
『もう決まったことだ、何度も言わせないで欲しい。我らに続く四番目の聖剣士、ケルディオは海や川などの水面を渡って移動し、世界を廻る運命にある』
 コバルオンが言葉を喋ったことに心臓が跳ねたが、伝説になるくらいのポケモンだからそのくらいは出来るものなのだろうか。ともかく、ケルディオ、というのは三闘伝説の続編に出てくるわかごまポケモンだったはず。三闘よりかは有名では無いけれど、同じように実在があやふやな、伝説の中のポケモンである。コバルオンの口振りからするとケルディオもまたいるらしいけれど、それがサボンテさんの両親とどう関係しているのだろうか。
 父親は口をつぐみ、母親は短い嗚咽を漏らす。そんな二人にお構いなしといった様子で、コバルオンは続けた。
『ケルディオにとって川は道、海は大地。それを封じるものがあっては、あの子は世界を廻ることが出来ない。どうして、の理由はそれだ。わかったか、この町を海に還すことは必要なのだと』
 淡々と告げられた言葉は、しかし耳を疑うような意味を込めていた。海に還す? 町を? それはつまり、ダムを作る時のように町を海に沈めるということだろうか。だが、そんなことを町の者が黙って受け入れられるわけがない。
 案の定、当主であるサボンテさんの父親は激昂した様子でコバルオンに食ってかかった。圧倒的な力で人間の戦争を止めさせたポケモンと言っても、今のやりとりではあまりにも理不尽すぎる。
『おかしいだろう! 何故、私たちの町が沈められなければならないんだ! 海ならいくらでも広がっているだろう、こんな小さい町……島の一つや二つ、避けて通ればいい!』
『駄目だ。あの子はまだ幼い、聖剣士としては駆け出しの身であるのだ。決まったルート、最短で済む道を通らなければ途中で力尽きてしまうだろう』
『だからと言って……』
『何でもだ! これはもう決定事項なんだ、何を言っても変えられぬ!』
『身勝手なのは重々承知。でも、どうぞ受け入れてくださいな』
 テラキオンとビリジオンがコバルオンに続く。泣き崩れる妻を支えながら「おい……」と尚も引き下がる父親に、コバルオンは落ち着き払った声で「五年後だ」と告げた。
『五年後の今日、この町を海に還してもらう。なに、民も財産もそのままに、とは言わぬ。ただ海面さえあれば良いのだ、ここで暮らす者もお前たちも、安全な場所へと行っておくといい』
 せめてもの罪滅ぼしに、ここに生きる者全ての繁栄を約束しよう。と、コバルオンが言ったのを境に映し出された五つの影がすっと消えた。能力を使い終えたシンボラーが光を失う。
 視線をサボンテさんに移動させる。何を言えば良いのかわからなかった。言いようの無い息苦しさばかりが追いかけてくる。柔らかな絨毯の上で立ち竦み、口を開きかけては閉じるばかりの俺を見ないまま、家族の肖像に目を向けたまま、サボンテさんは話し出した。

「あの後、両親は僕たち子供を集めて先程のことを説明した。町民たちにどう伝えるか、何か解決策は無いのか……何日も何日も、話し続けたけれども、答えは出なかった」
「三闘が訪れた夜から半月……両親の姿が、この町から消えた。逃げたのだ。いずれ消えゆく町が怖くて、逆らうことの出来ない大きな力が怖くて。そして、何も出来なかったことを町民に責められることが怖くて」
「僕も兄弟たちも、気がついた時はまさかと思って呆然した。しかしいつまでもそうしてはいられず、元々家を継ぐことになっていた長兄が当主の座についた。だが、長兄も両親と同じだ……一週間もしないうちに、妻と子を連れて夜の闇に身を消した」
「次兄も、三番目の兄も……姉二人は余所の地へ嫁に行ってしまってもう屋敷にいなかったが、それ以外の兄弟たちは皆同じだった。皆、この町から逃げていった。町が海に還る前に、町民たちがそれを知る前に」
「あの夜からちょうど二年後。とうとう、僕だけが残された」
 サボンテさんが、家族が描かれた絵の額縁をそっと撫でた。ミジュマルの最終進化形、ダイゲンキの勇ましい彫刻が施された一角はほこり一つ溜まっていない。
 黙ったままの俺の耳に波の音が届く。普段ならば爽やかで涼しげな気分になれるはずのそれは、纏わりつくような、締め付けられるような音となっていた。背中に生温かい汗がつたう。
「一人取り残された僕も、当然考えた。僕にも妻子がいるんだ、二人を連れて逃げてしまおうか……太陽が昇り、月が沈み。約束の日が刻一刻と近づく中、そんな思いはどんどん強くなっていった。さんざん羨んだ当主の座は、地獄にあるという針山のようなものだった。少しでも早くこの場所から逃れたい、そんな考えばかりが募っていった」
 少し語気を荒げて、サボンテさんは続ける。消える運命に置かれた町と、それを背負う立場を「お下がり」として押しつけられたのだ。服だの部屋だの、そんなレベルでは到底ない。それ以上誰に責任も求めることも出来ず、突然与えられたものに苛まれる日々。それが、サボンテさんの身にふりかかったことだった。
 自分はどうするべきなのか。何を優先し、何を捨てるか。白に囲まれたこの町で、サボンテさんは苦渋の選択を強いられ、しかし決断出来ずにいた。
 歯を噛みしめるような表情のサボンテさんに、俺はかける言葉を持たない。波がまるで這い寄ってくるような音を立てる。
「そんな時」
 不意に、彼の口調が緊張の糸を少し緩めた。
「そんな時だった。部屋に籠もって嘆く僕の元に、同じく兄弟たちが残していったターコイズがやってきた」
 その言葉を受けて、シンボラーがサボンテさんに寄り添うようにしてふわりと動く。球体の部分を優しく撫でられたシンボラーは相変わらずの無表情であったが、無機質だと思っていた顔の模様はどこか和らいでいるようにも見えた。ゆらゆらと揺れる動きに呼応して羽が舞う。
 独特の形状をしたその身体が、またもぼやりと光る。今度は何の記憶を見せてくれるのだろうか、と俺が考えているうちに像は壁の絵を隠すようにして現れ始めた。映し出される過去の情景の向こう側は白い壁だから勿論奥行きなど無いはずだけれど、部屋に生まれた町の様子は、まるで本当にそちら側へと行けそうなくらいだ。
「何の用だ、と言った僕に、シンボラーは町の記憶を見せた。昨日のものなのか、先週のものなのか、それとも何年も前のものなのか……いつの記憶なのかはわからなかったけれど、それは確かにこの町のものだった。この町で、人とポケモンが生きる様子だった」
 白の町、家と家の間を走る道を小さな子供たちが走っていく。コアルヒーの群れと追いかけっこをしているようで、水色の羽が飛ぶのもお構いなしに、家の前に植えられた緑の脇を賑やかに駆け抜ける。モジャンボと共に掃除をしている婦人や、ガマゲロゲと競い合うようにして荷物を運ぶ若者が微笑ましそうに眺める中、バタフリーを頭に止めた果物屋がナナを一つほうってやった。笑顔でそれを受け取り、子供たちとコアルヒーは騒がしくも賑やかに町を行く。ランプラーとシャンデラを連れたコックやフローゼルと並んで歩く漁師、メラルバを背負い両手に本を抱えた作家風の若者など、にこやかにすれ違う人々が白の町に次々と現れる。
 シンボラーに映し出されたそれは、俺が見た無人の町とは違う、同じ場所なのに全く異なるものだった。
 それはきっと、三年前にサボンテさんにも見せたものと同じなのだろう。末の子ということもあって屋敷の中では一番立ち位置が低かったというサボンテさんは、直接町に出向いて町民と一緒に働くことが多かったらしい。それもあって、改めて見つめることとなった町の様子は、彼の心にすとんと落ちた。
 領主という地位を手にして初めて、真正面から見た白い町。この情景をシンボラーに見せられたサボンテさんは、「それで、決めたんだ」と笑った。
「逃げるとか、逃げないかの前に、まずは町のみんなにちゃんと話そう、ってね。この町に起こること、そして僕たちが何も出来なかったこと。あんな風に、まっすぐ生きている人たちを裏切ることなんてとても出来なかった」
 そう言うサボンテさんの顔は、先程までとは違う、憑き物が落ちたようなすっきりした表情をしていた。それは俺がここに来て、彼を初めて見た時と同じようにだ。
「そして、みんなに全てを話して……僕は自分が、とんでもない勘違いをしていたことに気がついた」
「憎まれるかもしれない、恨まれるかもしれない。絶対許してなんかもらえないだろう。そう思っていたのに、そんなことはちっとも無かった」
「町の人々は、僕の話を聞き終わって口々に言った。俺たちの町の運命ならそれは俺たちの運命でもある、沈む直前まで共に生きようじゃないか、民が逃げ出すような町が聖剣士様の通り道としてふさわしいはずがない、最後まで立派な町として残すべきだろう。ポケモンたちも一緒になって、勇ましく、頼もしい笑みを浮かべていた。僕を、そして聖剣士たちを責めるものなんかいなかった。みんな、僕や僕の家族にはなかった、目の光を持っていた」
「町民たちが奮起して、最後に僕の妻が言った。この町は、あなたにとって、黙って沈ませることが出来る程度の町なのですか、と」
「それを聞いて、僕はやっと気がついたんだ。自分は、なんて素晴らしい所に生まれ、育ってきたのだろうと。そして、なんと素晴らしいものをもらったのだろうと」
「その日から、僕も町のみんなも一緒になって、それまで以上に明るく過ごした。誰もが力を合わせ、笑って生きていた。信じられないくらいに幸せな毎日で、ふとした瞬間に、まさか沈むなんて嘘だろうと思ってしまうくらいだった」
「けれども、そんな淡い希望はやはり叶わなかった。毎年、あの夜と同じ日が来る度に三闘が僕の前に現れたのだ。約束を忘れてはいないだろう、と。三年前は曖昧に、二年前は抵抗しつつも渋々、一年前は何も言わず、僕は頷いた」
「そして、この町にとって最後の一年が過ぎた。三闘がそうしてくれたのか定かでは無いけれど、例年よりも大漁で、貿易も上手くいき、気候にも恵まれた。人も、ポケモンも、この町の者はみんなが幸せを感じていた」
「それでも約束の日は否応無しに近づいて、一月をきったあたりから少しずつこの町から去っていった。親戚や子供のつてを辿ったり手の職を利用してセイガイハや本土に移住するのだと、一つ、また一つと町の影が減っていった。お元気で、またお会い出来るのをお待ちしております、と僕の手を握る顔の全てを覚えている。中には、是非とも訪ねてきてくださいと移住先を教えてくれる方もいた」
「この町と一緒に死ぬ、と頑なになる人をどうにか説得したり、行く当てが無い人の移住先を見つけたりしていると約束の日まであっという間に過ぎ去ってしまった。今日から三日前、僕が小さい頃からずっとこの屋敷に仕えてくれていたメイドと彼女のママンボウがサザナミに向かい、やっと、全ての町民を安全に送り出すことが出来た」
「そして昨日、最後に、僕の妻と子供がこの屋敷を発った。一緒に見届けると言ってくれたけれども、それは僕の役目だからとセイガイハに行かせたんだ。少し強引になってしまったが……危険な目には遭わせたくない」
 娘は怒ったままだったな、とサボンテさんは苦笑して、一度言葉をきった。彼にぴたりとくっついたまま、シンボラーがゆらりと身体を動かす。
 波が堤防に打ちつける音がする。まだ映し出されていた町の中、人とポケモンが笑い合っていた。それを愛おしそうに見つめ、だけれども数秒後に目を閉じて、サボンテさんが「そして」と繰り返す。
「そして、とうとう今日が来た。まさか、こんな時にお客さんが来るとは夢にも思っていなかったよ。不思議なこともあるものだ」
 感心したように言いながら、サボンテさんが俺を見た。黒い肌に黒い髪、黒い瞳には俺が映っている。彼の言った、『今日』の意味がやっと理解できた。
 今日は、今日はつまり。
「約束の日が、ついにやってきた」
「左様。わざわざお待ちいただいた旨、感謝しよう」
 静かに言葉を紡いだサボンテさんに続いて、落ち着き払った低音が広間と廊下を隔てる扉の方から聞こえてきた。その声にシンボラーが反応して、広間に浮かびあがっていた町の様子が霧散する。
 屈強な体躯を低く構えた茶色、床から伸びるすらりとした四肢を持った緑。それに挟まれるようにして、なめらかな青い毛並みを揺らし、立派な角を威厳たっぷりに携えたコバルオンは三闘の真ん中で俺たちを見据えていた。
 いつ、どこから入ってきたのかわからないけれど、今度はシンボラーによる投影では無い。俺の目の前にいる三闘は、確かに本物だった。驚きと、彼らの放つオーラによって声が出せない俺には目もくれず、コバルオンはサボンテさんに向かって「領主殿」と告げる。
「時は満ちた。今を以て、この町を海に還してもらう」

「見た限り、この町から民は既に去っているようだけれども、御前はまだ待っていてくれたのだな。準備は出来ているのか?」
 過去の光景にあったそのままの声で、コバルオンがサボンテさんに尋ねた。荷物をまとめているようには見えないが、と怪訝そうに言うコバルオンに、彼は「これで良いのです」と静かに微笑んだ。
「では、行こう。じきに海が来る、陸地まで我々が導く」
 コバルオンはそう言って、広間の扉を振り向き俺たちを促した。テラキオンとビリジオンも、身体の向きを少し変えてそちらへ行けというような動きをとる。
 海に町が沈む前にここから出るということだろうか。サボンテさんがこの後どこへ行くのかわからないけれど、コバルオンの台詞から考えるにとりあえず町からは去るのだろう。シンボラーがすうっ、と扉の方へ移動する。俺もそっちへ一歩を踏みだし、しかし、サボンテさんが動かないことに足を止めた。
「サボンテさん……?」
 行きましょうよ、という思いを込めて名前を呼ぶ。だけど、それでもサボンテさんは動かなかった。絵を背にして、サボンテさんは柔らかな笑みを浮かべて立っている。押し寄せるような波の音が響き、俺もシンボラーもそして三闘も、彼が動くのを待っていた。
 誰も、何も言わない。じっと彼を見ている。部屋にいる皆の視線を集めたサボンテさんは、どれくらいの静寂の後だろう、やがて「三闘様」とようやく口を開いた。
「なんだ」
 コバルオンが答える。その口調は待たされて苛立っているという風では無く、淡々としていた。
「僕は、この町が大好きです」
「知っている。御前が、御前の家族の誰よりもこの町を愛していたことなど、我々はよくわかっている」
「人とポケモンが寄り添い、互いが互いのことを思いやりながら生きている、この町が大好きなのです」
「わかっている。だが、今更事を変えることは出来ない。申し訳ないとは我々だって思っている、しかし……」
「それは承知しております」
 サボンテさんの声は穏やかだった。穏やかで、だけども芯が通っていた。三闘を前にしても何も恐れることなく、この町の領主であるサボンテさんは「約束を取り消せ、と言うわけではありません」とはっきり言った。
「僕が望むのは、僕を、この町と共に、海に還して欲しいということです」

 その言葉に、俺も、テラキオンも、ビリジオンも。そしてコバルオンでさえ動揺に身体を固まらせた。町と共に海に還る、その言葉が暗に意味していることを悟った俺たちは絶句し、サボンテさんの方をじっと見る。
「聖騎士様、ケルディオ様のためにこの町を捧げましょう」
 波が、まるで何かに叩きつけるような音が部屋にこだまする。しかしそれにも負けず、サボンテさんは凛とした声でコバルオンに告げた。
「しかし、どうか波に流さないでいただきたいのです。波によって押し流し、まるで、この町が存在しなかったようなことだけにはなって欲しくありません。確かに存在するこの町を、消し去るのでなく、海の底に眠らせて欲しい」
「それは可能だが……だが、それだけならば御前が一緒になる必要は無いだろう」
 コバルオンの言葉に、残りの二匹と俺も頷く。だけど、サボンテさんは首を横に振ってそれを否定した。
「確かに、今の僕の地位は、兄弟たちから押しつけられたものです。しかしそれでも、いや、そうでないとしても、僕はこの町を愛しております。この町に生まれたこと、この町で生きたこと。何もかも、誇りに思っています。僕は、この町にあって幸せでした。この町は僕にとってかけがえのない宝物だ。だから、せめて最後は。最後は、町と共にありたいのです」
「しかし……」
 納得しきれないというようにコバルオンが口を開きかけた、その時だった。
 「ぢぢぢぢぢゅいぢゅい!!」と、突如俺の腕の中から響きわたった大声が緊迫しきった空気を切り裂く。ずっと黙っていたラビちゃんが鳴き叫んだそのことで、俺は初めて、今まで聞こえていた波の音が段々大きくなっていったように感じていたのは気のせいではないこと、そして、もうそれがすぐそばまで迫っていることに気がついた。
「…………えっ!?」
 ラビちゃんの翼が指した窓の外、ついさっきまでは誰もいない白い町が見えたその景色を見て、俺は一瞬自分の目を疑った。
 波が、いや、波じゃない。海が、町を覆いつくしていたのだ。透き通った水が一面に広がっている。白の町並みはそのままに、先ほどまでは青空と水平線を背にしていたはずの白い町は、海底のものと化していた。俺に続いて窓に目を向けたコバルオンが切羽詰まった声をあげる。
「まずい、もう時間が無い!」
「三闘様! その子は今日来てくれた客人なのです、巻き込むわけにはいかない……その子をお願いします」
「御前は!」
 早く来い、とコバルオンが吠える。しかし、サボンテさんはゆっくりと頷いただけだった。コバルオンの瞳が、じっとサボンテさんを捉える。サボンテさんは、穏やかな笑みのまま、もう一度頷いた。それを見たコバルオンはしばし沈黙し、「…………承知した」と苦々しげに領主から目を伏せた。
 待ってくれ、とサボンテさんに口を開きかけた俺を、コバルオンが「行くぞ」と突き飛ばした。よろけた俺は、サボンテさんから離されてしまう。立ち上がって駆け寄ろうとしたものの、俺を阻んだコバルオンはさっきのサボンテさんと同じ、有無を言わさぬ瞳をしていた。逆らうことが出来ずに言葉を飲み込む。
 時間が惜しい、窓から出るぞとコバルオンが言った。海が広がる窓の向こう、水の中へとテラキオン、ビリジオンが消えていく。絶対に手を放すな、と俺に警告したコバルオンが窓に足を掛けた時、背中にサボンテさんの声が響いた。
「ターコイズ、お前も行くんだ」
 思わず振り向くと、サボンテさんがシンボラーの球体部分に両手を添えて語りかけていた。その手を強引に振り払い、シンボラーはサボンテさんの胴に寄り添う。身体を横に振りながら羽を大きく動かすその様子は、まるで主人の言葉に抵抗しているようだった。嫌だ、嫌だと繰り返す小さな子供のように。
 しかしサボンテさんはそれを許さなかった。自分にくっつくシンボラーを引き剥がし、無理矢理に視線を交わさせる。
「ターコイズ」
 コバルオンは動かない。サボンテさんの言いたいことが終わるのを待っているようだ。
「お前が僕のところに来てくれて、本当に嬉しく思っている。短い間とは言え、この町をお前と一緒に治めることが出来て僕は幸せ者だ。お前は、僕がもらった素敵な『お下がり』だよ」
 サボンテさんは、さっきもそうしていたように優しい手つきでシンボラーを撫でた。丸い身体が、小さく震える。派手な色の羽が今は力無く見えた。
「でも、『お下がり』には良くない記憶もくっついてくるようでね。この町が無くなってしまって、悲しいとか、悔しいとか。僕の兄たちだと、面倒だから押しつけてしまえ、だとか。そんな気持ちを、これから先に『お下がり』として受け継ぐわけにはいかないだろう」
 シンボラーを撫でる手が止まる。止まった手は、最後に頭部の水色の石にそっと触れ、とりもどきポケモンから離れていった。
「だから、嫌なものは全て僕が背負う。悲しさも苦しさも、悔しさも辛さも、全部僕が飲み込んで海の底にしまってしまう。なに、幸せそのものだったこの町と一緒なんだ。苦では無いさ」
 サボンテさんは冗談めかして笑ったが、シンボラーの方はとてもそんな雰囲気ではない。ぶわりと広がった羽は、相対するサボンテさんが主人でなければ攻撃していてもおかしくない様子だ。それでもサボンテさんはその気迫に動じることなく、淡々と、しかし優しく話を続けた。
「だから……だから、ターコイズ。お前は、幸せな記憶だけを『お下がり』として、僕の家族と共に生きていって欲しい」
 告げられた言葉に、シンボラーがさっきよりも強く抵抗する。しかし、サボンテさんは頑としてそれを振り切った。シンボラーの水色の瞳を強く見据え、大きく息を吸い込む。
「行くんだ!!」
 その声と共に、サボンテさんがシンボラーを突き飛ばした。不意打ちに対応出来なかったらしいシンボラーが、勢いをつけて俺とコバルオンにぶつかってくる。衝撃によろめいて窓の外に出された俺はサボンテさんを振り返ることも出来ず、否応なしに海中へと放たれた。
 群れを成して泳ぐ大量のバスラオ、飛ぶようにして悠然と進むマンタイン。家の間をくぐり抜けていくプロトーガ、海水に揺れる店先の花に頬ずりをしているサニーゴ。上に目を向けると、ホエルオーの腹部と思しき大きな白い影が横切った。
 まるで、今日の朝に携帯で見たセイガイハの祭の風船みたいだ、と考えるのとほぼ同時に、いや、こっちが元だと思い直す。海底から見た海の中は、あの祭の写真にあった、シンボラーが狼狽したという、青空に浮かぶ風船とよく似ていた。
 シンボラー、と俺がその言葉を頭に思い浮かべた時、隣で甲高い音が鳴った。なんだこれは、とそちらを向く。鳥ポケモンの鳴き声と、コイルの嫌な音を混ぜ合わせたような、聞き慣れないその音声。それは、シンボラーの方から鳴っていた。
 いや、シンボラーは、鳴いていたのだ。今まで聞いたことが無かったから失念していたけれど、ポケモンなのだから鳴いてもおかしくなどない。
「………………」
 シンボラーは、鳴いていた。もう会うことの出来ない主人に。自分を守ってくれた主人に。町と共に、ここに残ると決めた主人に。
 俺はシンボラーに手を伸ばす。俺はサボンテさんでは無いけれど、このポケモンを撫でてあげなければならないと思ったのだ。幸せな記憶を、明るい記憶を託されたこのポケモンを。
 しかし、俺の手がシンボラーに触れるか触れないかのところで突然辺りが光った。目も眩むような光に、俺は思わず手を止めてしまう。あまりの眩しさにコバルオンに尋ねることも出来ず、ほぼ無意識のうちに目を覆った。
 ところ構わずに辺りを見渡す。首が上を向いた時、光の中で海面が視界に入った。そこを、その表面を、何か小さい四つ足のポケモンが軽やかに駆けていくように見えたけれども……はっきり見ることは出来ず、まもなく俺は目を瞑った。


 数秒経っただろうか。瞼の裏の明るさが変わってきて、ようやく俺は目を開けた。視界のちかちかが収まると、はっきりしてきた目は先程と同じ、ホエルオーの大きな腹やマンタイン、バスラオの群れなどを捉える。美しい鰭を揺らしつつ、ネオラントが群れの前を横切った。
 しかし、ほどなく気づいた。それは本物のポケモンたちではなく、澄み切った青空に浮かんだ風船だったのだ。セイガイハシティ開催の、マリンバルーンフェスティバル。俺たちが向かっていた祭そのものだ。
 霞がかった頭のまま、辺りを見回す。瀟洒な作りの屋敷の広間も、白の町も、そんなものなどどこにも無かった。荷物とサックス、ラビちゃんはちゃんといるけれど、俺が立っているのは海底と化した町では無くセイガイハの中央広場近くの砂浜である。コバルオンも、テラキオンとビリジオンも、サボンテさんもいない。きゃあきゃあと祭を楽しむ人々の声が少し遠くに聞こえる砂浜で、俺は佇んでいた。ラビちゃんが呆けたような、気の抜けたような声で短く呻く。
 ただ、シンボラーだけが残っていた。サボンテさんを慕い、白の町を守り、そして幸せな記憶を背負って、海の底から抜け出したシンボラーが。
 そして、俺が兄と姉に「お下がり」でもらったシンボラーが。
 俺の隣でじっと浮く、シンボラーに手を伸ばす。このポケモンを、撫でなくてはいけないと思ったのだ。少し前にも、もしかするとずっと昔にも、そう思ったのだ。
「…………、いや、」
 シンボラー、といつもの調子で言いかけて、やめる。もっと呼ぶべき名前があるのだ。それはシンボラーも持っている水色の石で、家族を守る力を秘めた石と同じ名前だ。
「ターコイズ」
 初めて口にしたその名に、シンボラーは身体を震わせた。丸い体躯を強く抱きしめる。震える身体は無機質なんかじゃない、温かくて、柔らかかった。
「お前が、俺のところに来て良かったよ」
 抱きしめたまま、大きな羽の間をそっと撫でる。サボンテさんのようにはいかないかもしれないけれど、俺がそうしたかったのだ。
「俺のところに来てくれて、ありがとう」
 潮風が俺の頬を打つけれども構わない。寄せては返す波を聞きながら、何度も何度も震える身体を撫でた。
「お前は、最高の『お下がり』だよ」
 俺にとっては二回目になる、あの鳴き声が砂浜に響く。シルエット同様独特で、不思議な声だ。高い音で鳴り続けるその声は身体に合わせて震え、大きくなったり小さくなったりしている。尾羽が揺れて、柔らかな砂を少し散らした。
 シンボラーの身体をさっきよりも強く、しっかりと抱きしめる。お祭りの楽しげな声に重なって、まるで嗚咽しているみたいな鳴き声は、海の底までも届きそうだった。


「カクタスー、昨日言ってたやつ調べたよー」
 今日の分の講義を終え、バイトだというキョウヤと別れてサークルに向かう道中である。生徒だの教授だの各々の連れるポケモンだので騒がしい大学の廊下で、リュウが俺を呼び止めた。
「マジ!? もう調べてくれたの!? サンキュー、今度なんか奢るわ」
「いいって。この前のお土産もらったんだし、このくらいなら」
「いやいや、俺がおさまらないの! お礼ってことで、な?」
 差し出されたコピー用紙の束を受け取りながら頭を下げる。じゃあお言葉に甘えて、と笑った友人は「でも」と首を傾げた。
「どうしてカクタスがいきなりこんなことに興味持ったの? 考古学とか史学の類とか、絶対興味無いと思ってたし、前自分でも言ってたし」
「うん? まあ、いいじゃん」
 適当に笑ってリュウの言葉を受け流す。と、「いいけどさ」と笑い返した友人は引き連れていたゲンガーの手を握りなおして満面の笑みを形作った。
「じゃ、今度よろしくね。僕とポケモン十三匹分、お店はカクタスにお任せするよ」
「じゅうさっ……!? ちょ、おま……」
「じゃあねー! 楽しみにしてるよー」
 のほほんとした顔で意外と抜け目無い友人は、俺の言葉を聞き終わらないうちに廊下の人混みポケモン混みに紛れて見失ってしまった。こりゃあ、バイトのシフトを多めに入れなければいけなそうである。とほほと廊下で溜息をつく俺を、ヤンチャムに頭の上を支配されて降りてくれ重いと喚いている男子生徒が不審そうに見てきた。
 その視線から逃れるようにして、部室へと足を早める。歩きながらリュウにもらった紙の束を見ると、昔々セイガイハの近くにあったけれどもある日なくなってしまったという小さな島町のデータが集められていた。丁寧にまとめられたそれを、大切に鞄にしまう。
「ちーっす」
「おう、お疲れー」
「お疲れさまー」
 部室のドアを開けて軽く挨拶、返ってきた声に会釈しながら定位置に荷物を置く。ひょこひょこと我が物顔で部室を闊歩するラビちゃんに、俺が買ってきたセイガイハ土産のマカダミアチョコを食べていた先輩がナッツ部分を砕いて与えた。小さな嘴が嬉しそうにそれをつつく。
「ようカクタス、これ美味いぞ」
 ドラムの先輩が放ったカイスのアイスをキャッチ、「あざーす」と告げた俺の後ろから大きな影がゆらりと移動した。ゆらゆらと揺れる尾羽に興味をひかれたのか、キーボードの足下にいたエリキテルがぱちぱちと電気を起こしながら恐る恐るといった感じで近づいてきた。小さな電気ポケモンに、水色の目をしたシンボラーはじゃれさせるように身体を振る。エリキテルは目を輝かせ、揺れる羽を追いかけ始めた。
 あの日俺が迷い込んだ町の正体は、結局わからずじまいである。みらいよちの応用による能力で映し出されたものだったのか、あの場所に残ったサボンテさんの想いがそうさせたのか。はたまたその両方が合わさったことで、現実と記憶が交錯したのか。真偽はわからないけれど、夢では無かったと思っている。
 そしてあれ以来、シンボラーは幾分か感情豊かになったようだ。幸せな記憶を、とサボンテさんに命じられたシンボラーは長い間ずっと、嫌なことを封じるために自分の感情さえも押さえ込んでいたのだろう。悲しみも苦しみもずっと押さえ続け、記憶の奥底にしまいこみ、忘却の彼方に葬りさろうとしていたのだ。
 だけどもそれは出来ず、結局、海底から見た景色とよく似た祭の様子を見て思い出してしまった。思い出して、その記憶を蘇らせたのだ。
 でも、それを俺が見た。全ての記憶を、「お下がり」として受け取った。シンボラーの故郷だったあの町が、主人だったサボンテさんが、ちゃんと存在していたと知る人が生まれた。それを理解したシンボラーは、もう感情を抑えるのをやめたのだろう。
 楽しそうにしたり、怒った素振りを見せるようになったシンボラーに俺の家族は当初こそ戸惑ったものの、安心したように出迎えた。なかなか面白い奴じゃないか、と父親が言った。ご飯の好みがやっとわかったわ、と母親が肩を竦めた。今度見に行くわ、と長姉が電話の向こうで話した。これならすぐにチャオブーとも仲良くなれるかな、と長兄が苦笑した。せいかくは何だろう、きのみの好みは、と次兄が考察しつつくしゃみした。前よりはいいんじゃない、と次姉がそっぽを向いて口を尖らせた。
 サボンテさんの奥さんからずっとずっと、シンボラーが守り続けてきた俺の家族は幸せに暮らしている。頭部にある水色の石は、食卓を囲む俺たち全員から見える場所で鈍く光っているのだ。
 エリキテルをじゃらしているシンボラーから目を離し、楽器の準備に取りかかる。この前の練習に参加出来なかった分、一ヶ月後に迫ったミニライブまで追い上げなければならない。だけどその前に、と、俺は楽譜の無い曲を吹いてみる。
「お? 何だ、聞いたことない曲だな」
 美しいけれど、悲しい。切ないけれど、明るい。部室に響くその旋律に、サークル員たちが反応する。
 「お下がり」は、ものだけじゃなくて記憶や感情も一緒に受け継がれる。幸せな記憶も、辛い記憶も全部併せて伝えられるのだ。
 それでも俺は、誰かの思いをもらうことは悪いことでは無いと思う。そう、思うようになった。そりゃあ新しいものは欲しいし、今だって時々寝る時にファンシーでキュートなペロッパフの壁紙が目に入るとげんなりすることもあるけれど。だけど、お下がりも悪くない、と思えるようになったのだ。
 シンボラーは、しまいこんだ記憶と共に受け継がれてきた。それを教えてくれた今、記憶を一緒に受け継ぐのは俺の役目だ。いつか俺も、このシンボラーを誰かにお下がりとして託す時がやってくる。その時は、あの町の話とサボンテさんの話を伝えることになるだろう。
「いいメロディーだなー……なあカクタス、それ何て曲?」
 ベースのアンプをいじる手を止めていた同級生が尋ねてくる。ワンフレーズ演奏し終わった俺は、うーん、と悩んで頭を掻いた。そう言えば正式な曲名を聞いていなかったのだ。勿体ぶるなよー、とトランペットが野次を飛ばす。
 海の底に眠ったはずの、もう誰も見ることの出来ない町で聴いたこの音楽。白の町であった出来事を一つ一つ思い出し、俺はリードを指でなぞった。サークルのみんなを見回し、「この曲は」とかしこまった声色を出す。
「これは、『お下がり』っていう曲なんだ」
 サックスを持った俺の視界の隅で、お下がりのシンボラーが笑うみたいにふわりと揺れた。



長さにより、二つにわけました。
読んでいただき、ありがとうございました。


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