はじめに あったのは こんとんの うねり だけだった
すべてが まざりあい ちゅうしん に タマゴが あらわれた
こぼれおちた タマゴより さいしょの ものが うまれでた
さいしょの ものは ふたつの ぶんしんを つくった
じかんが まわりはじめた
くうかんが ひろがりはじめた
さらに じぶんの からだから みっつの いのちを うみだした――

「はじまりの はなし」より





●第三話「はじまりの はなし」





 スタジアムに咆哮が響き渡る。迫力のバトルに聴衆の歓声が上がった。
 いざ始まってみれば心配などまるで不要だった。バトル場の地面を踏んだガブリアスは、まるで鬱憤を晴らすかのように、ここぞとばかりに暴れまくった。
 地震にはじまり、ドラゴンダイブ、仕上げにギガインパクト、数々の大技を繰り出し、並み居るポケモン達を次々とノックアウトしていく。
「ハガネール戦闘不能! よって勝者、青コーナーアオバ選手!」
 不幸にも、そんな暴れ竜の餌食になってしまった鉄蛇を踏んづけて、アオバのガブリアス――ニックネーム、ガブリエル――は、ガッツポーズのような、バンザイのような姿勢をとって勝利の雄たけびを上げた。
「なんとアオバ選手、指示も出さずにストレート勝ちです。さすがは前回のベスト4といったところでしょうか。今大会の優勝候補の一人と目されているだけはありますね」
 何の事情も知らない実況は、音符ポケモンのペラップみたいな声で、そんなことをペラペラとしゃべっていた。
 実際のところ、青年はただ立っていただけだったのだが。
「もどれ。ガブリエル」
 そ知らぬ振りを決め込んで、彼はボールにガブリアスを戻し、やれやれといった感じで控え室に続く廊下に引っ込んでいった。
 ――試合に出て何も思い出さなかったら、最悪あなたは立っているだけでいい。
 ――大丈夫よ。あなたのポケモン、特にガブちゃんは大抵の相手には勝てるから。
 そう助言したのは他でもないシロナであったが、本当にその通りになってしまった。
 強いんだな、僕のポケモンは。
 そんなことを考えながら、青年はガブリエルの入ったモンスターボールを見つめる。もっとも、まだ何も思い出せなかったが。
 けれど、助言をしてくれた彼女のためにも、頑張っているコイツのためにも、少しでも早く思い出してやりたい。青年は自分の中にそんな気持ちが芽生え始めているのを感じていた。
 廊下に引っ込むと、すぐに階段があり、そこを下ると長い廊下が選手控え室に向かって続いていた。彼は階段を降りると、シロナが待つ控え室に向かって歩き出した。
 観客達が熱狂している外に比べると、ずいぶん静かだった。聞こえてくるものといえば自分の足音くらいで、外からの余計な音はシャットダウンされているようだ。ずいぶんと防音が行き届いていると見える。きっと、出場前のトレーナーが落ち着けるようにとの配慮なのだろう。
「…………」
 ……そういえば。
 降って沸いたように彼の頭の中に何かが浮かんだ。
 ここに来る前、自分はこんな場所を歩いてはいなかったろうか? ふと、彼はそんなことを思った。そこは静かな、静かな場所で、ちょうどこんな所だった。そんな気がしたのだ。
(あれは、どこだっただろうか……?)
 何かを考えるしぐさで、彼は下のほうに視線を注ぎながら、足を進める。何かが思い出せそうな気がした。
「アオバさん、お疲れ様です。モンスターボールをここに」
 不意に声がかかった。青年は顔を上げると思考をストップさせる。
 見るとポケモンセンターで使うモンスターボールを搬送するトレーを持った眼鏡の係員が、青年の前に立っていた。
 彼は内心、何か思い出せそうだったのにタイミングが悪いな、などとも思ったものの
「ああ、ありがとう。試合と関係者の目の届く時以外は……そういう約束でしたよね」
 と、返事をした。
「て、あれ? あなたはさっきの受付の人じゃ」
 眼鏡の係員を見て青年は続ける。トレーを持っている係員、それは先程シロナとやりあったあの受付だったのだ。
「ご紹介が遅れました。私、ノガミと申します」
 と、眼鏡は自己紹介した。少しシャレた感じの縁がきらりと光る。彼は青年を観察するような眼差しを向けて
「あなたの出場を許可した先輩から、私の責任であなたの様子を確認するように言われまして」
 と、彼は続ける。先輩とはきっと、あのとき彼に助言した上司らしき人物のことを言っているのだろう。
「言うなれば、貴方はまだ仮のアオバさんなのです。正式な確認がとれるまでは、ね。前回のベスト4だろうが、四天王の親戚だろうが規則ではそうなのです」
「なるほど、監視付き……という訳ですか」
 さっき散々シロナにやられた腹いせなのかなんなのか、ノガミのやけに挑戦的な物言いに、青年は少々むっとしてそんな言葉を返した。
「まぁ、そんな顔をしないでください。ポケモンを回収するのは、回復ももちろんのこと健康状態チェックなどの意味もあるのです。私が責任を持って行いますから」
 と、ノガミが返して、
「……それに、リーグ運営サイドは貴方の活躍に期待しているんですよ。さっきのストレート勝ちは見事でした。基準点をとったことによる予選通過、おめでとうございます」
 青年の表情を読んだのか、そんな言葉を付け足した。
「ご覧になっていたのですか」
 と、青年が尋ねる。彼は「ええ」と肯定し、
「ですが、あまりらしくないバトルでした。去年は違った。常に戦況を把握して、冷静に指示を加えておられた。今のあなたはやはり仮のアオバさんだ」
 などと評価した。
「……」
 この人、やけに詳しいじゃないかと青年は思った。もっとも今、自分は記憶喪失中であり、自分のバトルスタイルもへったくれもないわけなのだが……。そうか、本来の自分はそんな戦い方をしていたのか、などとも考えた。
「……こっちもいろいろ事情がありましてね。まぁ、僕のポケモンをよろしくお願いします」
 僕の、という単語に若干の違和感を覚えながら、青年はそんな答えを返す。
 それにしてもこいつ、どうしてこんなに挑戦的なんだろう? そんな疑問を抱きつつも、彼はノガミが持つトレーにモンスターボールを丁寧に置いた。


「やったわね、アオバ! ストレート勝ちじゃないの」
 控え室の扉を開けるとシロナが待っていて、開口一番にそう言った。
「それにしてもガブちゃんずいぶん強くなっちゃって……。去年敗退してから、相当努力したんだね。私のポケモンだってこの一年ずいぶん修行したつもりだけど油断できないわ」
 そう彼女は続けたが、青年が少し難しそうな表情をしているのを見て、話を止めた。
「そっか。まだ記憶が戻ってないのよね。修行の話なんかしたってわからないか……去年この大会に出ていたことも、私と対戦したことも全部忘れちゃっているんだものね」
「対戦……したのですか。僕はここでシロナさんと」
 と、青年は尋ねる。
「やだ、シロナでいいわよ。あなたずっとそう呼んでいたじゃない」
「そうか、僕は君をそう呼んでいたのか…………じゃあ、シロナ」
 本当に実感がないらしく、青年はいいのかなといったおももちで彼女の名前を呼んで
「やっぱりこういう場合、礼を言わなくちゃいけないよな。君のおかげでなんとか予選通過できたよ。ありがとうシロナ」
 と、礼を言った。
「い、いいわよ。そんなの……」
 するとどういう訳か、少しばかり頬を赤らめて、彼女は短く返事をする。
「いや、きっと記憶のある僕だったら君に礼を言うのだと思う。だから……」
 さっきまでとはずいぶん違う感じの彼女を目の当たりにして、青年は少し戸惑ってフォローするように付け加えた。
「でも、僕が本当に優勝候補なら、ライバルを潰すいいチャンスだったわけだろ。シロナが僕の出場にこだわる理由は何?」
 そうして、さらに青年は続けた。ここの部分こそ彼の一番聞きたい部分だったからだ。
「だ……だって、約束したじゃない」
 さっきと同じ調子でシロナは返事をする。
「約束?」
 と、青年が尋ねると、はぁ、と彼女はため息をついた。
「あなた本当に何も覚えていないのね。去年の決勝トーナメントで私、アオバに負けたのよ。あんまり悔しかったから私、来年も絶対シンオウ大会に来い、そのときこそあんたを倒してやるって言ったわ。そうしたらアオバ、わかった来年も絶対に行くからと言ってくれて」
 そこまで言うと、彼女は聞かなくても勝手に語りはじめる。
 その後の試合も一緒に見ていたこと、その間にいろいろな話をした事。自分のポケモンの話、旅の中で遭遇した出来事……そのほかにも沢山の話をして過ごした事。大会が終わって別れた後もときどき連絡取り合っていた事。
 それを語る彼女はどこか恥ずかしそうで、けれどとても嬉しそうで、先ほど出会ってから発破をかけられてきたばかりだった青年は、こんな一面もあるのだと意外に思った。
「でもね、私が一番好きだったのは、あなたが話してくれたシンオウの神話や昔話」
「昔話……?」
 意外な話題が出て、青年はそう聞き返す。
「初めにあったのは混沌のうねりだけだった。すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た」
 シロナは唱えるように言った。
 それは「はじまりのはなし」と呼ばれるものだ。シンオウが、この世界がはじまるときの話だ。遠い、遠い日の昔話――――神の時代の話。
「最初のものは二つの分身を創った。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した」
 と、彼女は続きを唱える。
「二つの分身と三つの命……?」
「二つの分身は、それぞれ時間と空間を司るポケモンとされているわ。ハクタイシティにある銅像のポケモンはその姿を今に伝えている。三つの分身は心を。それぞれ感情、知識、意志を司っているのですって。それらしい壁画が私の故郷、カンナギタウンにあるの」
「詳しいんだね」
「……全部あなたが教えてくれたことよ。あなたの故郷ミオシティにはシンオウ一大きな図書館があって、旅立つ前はいつもそこに通っていたとあなたは言っていたわ。たくさんの神話と昔話に触れて、あなたは育った」
「ミオシティ? ……そこが、僕の故郷なのか」
 ミオシティ、海辺の町である。町のシンボルとも言える跳ね橋の下をいくつもの船が行き来している。そして、もう一つのシンボルがシンオウ地方最大規模の大きさと蔵書数を誇るミオ市立図書館。特にシンオウの民俗学の蔵書収集には力を入れている。
 青年は頭の中で知識としてはそんな情報を探し当てた。だが……自分がそこで生活し、図書館に通って、本を読んでいたという実感。それが伴わなかった。
「もしかして、何か思い出した?」
 少しばかり考え込む青年を見て、シロナが尋ねる。
「いや」と、彼は答えた。
「でもわかったことがある。どうやら僕の中にはシンオウの地理だとかポケモンの名前とか、そういうものはある程度知識としてあるらしい。現に対戦相手のポケモンやタイプが何かくらいは見ればわかるんだ。けれど、その後が続かない。知識と行動が結びつかない。実感が沸かないんだ。僕が僕たる実感が」
 そう言って青年はじっと手を見た。本当ならその手に握っていたであろうモンスターボール。今は手元にない。今の自分にはその資格がない。
 ――あなたは仮のアオバさんなのです。
 ふとノガミが放ったあの台詞が頭をよぎった。
 不安なものだ。自分がないというものは。せめてカードを持っていたなら少しは安心できたのだろうか。
「大丈夫、あなたは思い出すわよ。だって記憶がなくなってこの場所に、約束の場所にやってきたじゃない。それは身体が覚えているからよ。少し思い出すのに手間取っているだけ」
 言い聞かせるようにシロナが言った。
「ああ、そうだね」
 あまりそう思ってはいない顔で青年は答える。
 控え室のテレビ画面に予選Bのバトル中継がずっと流れていた。トレーナーが指示を出すとポケモンがそれに応える。勝利した者達は互いに喜びをわかちあい、敗れた者達は悔しさを噛み締めあっていた。
「そろそろ予選Bが終わるわ。じきに予選Cが始まる。私、行くわ」
と、シロナが言う。
「さあ、勝つわよ。あんなバトル見せ付けられた後で、負けていられない」
 バトルがはじまるのを待ちきれないといった様子でシロナは言った。
 ああ、彼女は本当にポケモンバトルが好きなんだな。そういう風に青年は思った。
「待っているよ。決勝トーナメントで君と当たるのをね」
 と、気まぐれに言ってみせた。それは記憶喪失以前の青年に似て、少し驚いたような顔をするシロナに
「……と、記憶のある僕ならこういうのかな?」
 と、付け加える。
「ふふ、そうね。言うかもしれないわね」
 彼女は少しはにかんで、でも少し残念そうに笑う。
「それじゃあ決勝トーナメントでね!」
 と、身を翻し控え室を出て行った。自動扉が閉まる音だけが控え室に残る。ふう、と青年は肩の力を抜いた。近くにあったソファーに腰掛けると
「さて、どうしたものか」
 と、言葉を漏らす。何気なしに、天井を見た。やっと一息つけるためか、その天井に今日の出来事が走馬灯のように巡っていた。そして、
「ポケモンリーグ……予選……決勝トーナメント、」
 などと今日の出来事を時系列でブツブツ口に出し始めた。
 何かが思い出せそうな気がしたのだ。
「ミオシティ……図書館…………そして、昔話と神話、か」
 いつのまにか彼は暗い廊下のことを頭に描いていた。控え室に戻るときふと浮かんだあのイメージを。下へ、下へと下っていた気がする。
 何も聞こえない。暗い、暗い場所。
 ……いや。何かが聞こえる。あれはなんだろう?
 あれは、……水の音?
「初めにあったのは混沌のうねりだけだった」
 どれくらいの時間そうやって過ごしていただろうか。ふと、彼の口からそんなワンレーズが漏れる。シロナがついさきほど彼に聞かせた「はじまりのはなし」だった。
「すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た」
 と、続ける。さきほど一回聞いただけにしてはずいぶんと流暢な語り口だった。
「最初のものは二つの分身を創った。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した……」
 宙を見つめ、虚ろな表情で青年は呟いた。
 そして、続けた。彼女が話さなかった神話のその続きを。
「二つの分身が祈ると物というものが生まれた。三つの命が祈ると心というものが生まれた。世界が創り出されたので、最初のものは眠りについた……」
 彼の横で光が点滅していた。控え室のテレビがリーグの実況を淡々と映し出しているのだ。
 Cグループの予選が始まるらしかった。審判の旗があがって画面が動き出す。彼の眼にもそれは映ったが、いらぬ情報としてすり抜けていく。
 何を思ったのか、青年はリモコンを手にとって、次々にチャンネルを変えていく。トレーナー用品のCMが映ったり、時折、砂嵐が映ったりしてめまぐるしく変化する。
 チャンネルがニュース番組に切り替わる。最近、シンオウ地方を通過した季節外れ台風と、その爪痕について報じていた。幸いにも台風はポケモンリーグの開催場所に達する前に、東側に反れてじきに消滅してしまったらしい。そこでプツっと画面が消える。青年がテレビを切ったのだ。
「……だが、このはなしには続きがある。はじまりのはなしには、続きがある。忘れ去られたのか、あるいは削除されたのか、今は誰も知るものがいない」
 どこで聞いたのか、青年は無意識にそんなことを呟いていた。




第ニ話 / もどる / 第四話