「『ああ神さま、どうか私のねがいを聞いてください』
小さなひめは冷たい雪の上にすわると、頭を下げてねがいごとを口にしました。
雪はとてもつめたく、ひめのまっしろで細い足をつきさします。
それでもひめは、雪の上にすわって頭を下げつづけました。ひめには、大切な人がいたからです」
人間が書いた「絵本」という蝶の翅の中で、若い女性、物語でいう「姫」が跪いていた。
子供向けのその本には、細かい描写はされていない。しかし、その姫が何かのために自らを投げ出そうとしているのは瞭然だった。
恐らく、この地シンオウ地方唯一の雪はさぞかし寒かったに違いない。そこに跪いた彼女の足は、悲鳴を上げていただろう。
小さな灰色の手で、絵本の翅がまた一枚はらりとめくられていく。
「その国には、『七枚のヒイラギの葉をイバラであみこんだネックレスを作ると、ねがいがかなう』という言いつたえがありました。
その話を知っていたひめは、ねがいごとをすると雪の中へとかけだして、ヒイラギの葉を集めはじめました」
雪の中に次第に壊れていく体に鞭を打ち、ヒイラギの葉を捜し求め続けた。
そして、大切な人を想って、小さなその手で自然のネックレスを編み続けた。
棘のあるヒイラギの葉、そしてそれよりも鋭い棘を持つイバラ。イバラでヒイラギの葉に穴を開けて通す度に、指にかかる刃が真っ白な真綿のような雪の上に緋色の色彩を施す。
時にはイバラの棘に無残にも葉が千切れ去り、その度に首飾りを紡ぎ直した。当然、指からは痛々しい雫を滴らせて。
はらり。最後のページを、めくった。簡素ながら清楚な絵が描かれた裏表紙が現れた。
――頭部だけ黄色く体は薄い灰色という小さい容姿に、対になった長い二股の尾。
北国の湖に住まう「英知の神」と言われる浮遊したそのポケモンは、この本をはじめて読む前から、物語の結末を知っていた。この、小さな絵本の小さな物語を。
そう、あの子は、「言い伝え」になったのだ。
◆雪に咲く若葉 一 「雪中行軍」
連なる剣の鋒(きっさき)のような山々。その剣は、太陽が差しているのであろう分厚い雲の遥か上へと向けて突き抜けていた。
このような険しい山には荒々しき山肌がありそうなものだが、融け去ることのない白雪がその肌を覆っていて、荒々しいかは分からない。
激しい吹雪が吹き荒れている。一寸先の状況も全く把握できない。視界が白いどころか、目を開けることすら苦しい世界だ。
森の香りがする。
針葉樹もまた、天へと向かい伸びていた。その緑の木々は、大地と同じような美しい白雪を纏っていた。
古来より、この国の人々は、“白と緑”という色彩を愛してきた。その光景は、確かに美しく見えた。猛吹雪が視界を遮り鬱陶しかったが。
――それにしても、ここは何処だろう。若い男は、心の中でふとそう思った。恐らく、テンガンざんを出て少しだけしか歩いていないから、まだ「英知の湖」までもう少しあるはずだ、とも。
テンガンざんを抜ければそこに待っているのは、ふもとに広がる豪雪地帯。まさしく、今男が雪を踏みしめて直立しているこの大地だった。
荒れ狂う空が凍てつく真っ白な涙を振りまいているかのようにも見えた。恐ろしい天候には違いなかったが、かといってここから戻るのも危険すぎる。もう、キッサキシティとテンガンざんの中間地点まで歩を進めてしまっていたのだ。
目指すジムまでは残りわずかと、高揚する気持ちに任せて慣れない雪の世界をこの地点まで進んでしまったのが取り返しのつかない唯一の誤算に、彼は小さく歯軋りをする。
ゴウという音だけでは形容し難い風が吹き荒れている。その風は凍える風となり、空から舞い降りる涙を激しく散らす。
歩く度に、深い雪に足をとられる。風が、前に歩もうとする体を煽る。感情も、いっそう不安に煽られた。
単調なコントラストの風景の中には、木陰の足跡。
自分たちは確かに歩いてきたという唯一のしるしだけが黒い点となって残る。
その足跡に寄り添うように、ちんまりとした足跡が続いていた。
彼の袂で寄り添うように歩く、若葉を纏った可愛らしいリーフィアのものだった。
「大丈夫か? 少し、休もう」
彼は、針葉樹の袂に体を休めた。
激しい吹雪にさらされたまま歩き続けたリーフィアの頭を撫でつつ、彼女には気づかれないように明後日の方向を向いて苦い顔をした。
激しい後悔の念が、彼を締め付けていたからである。
彼が持っていた荷物は、悉く雪崩にさらわれていってしまったのだ。
暖を取るものから一夜を明かすためのもの、そして空腹と渇きを満たすためのものまで全てが、さらわれた。荷物を雪の上に置き、リーフィアと周囲の状況を把握するためにその場を離れていたその間に。
激しい音響に振り向いたときには、もう遅かった。自分たちがいた場所は跡形もなく大雪に流されていた。
もしあの場所にい続けていたら。
身震いが起きた。
最初は命が助かっただけでも良かったと楽観視をすることが出来たが、今はそうではない。あの時点で命が助かっても、この後すぐにこの大地に斃れることは少しも否定できないのだ。
現に自らの命を保つ頼みの綱のたったひとつさえ、手元にない。
第二のミスは、それからだ。
いつの間にか、腰元からリーフィアを入れていたモンスターボールが脱落していることに気付いたのだ。
彼は、死力を尽くして雪の中を掻き分け、掻き分け、何度も掻き分けて、こうなった今は命以外の何よりも大切な紅白の球体――雪の中にそれを彩るように映え、同時にそれに紛れるような色の球体――を探し続けた。だが、見つからないのだ。
まだポケモンセンターの転送システムなどまだ開発されておらず、それどころか回復装置さえ全ての建物に装備されているとは限らなかった、古い時代。
だから彼がいつも腰元にきっちりと付けているボールは、リーフィアのボールひとつを除いてヨスガシティの友人に預けていた。それらのボールに入っているポケモンは、みな寒さに弱い属性だったからである。
それに寒さに弱く無闇に雪の中で出せないようなポケモンのボールを携帯している状態で、雪崩にでも巻き込まれたりしたらどうするのだ。雪崩から逃げられなかった自分だけでなく、何の罪もないパートナーまで命を落とす――厳密には、ボールに閉じ込められたままになる――ことになるのだ。
仮にボールを破壊し、ボールが埋もれていた雪を突き破れたとしても、その先の極寒の中で生き延びれる可能性は低い。
本当はリーフィアすら、彼は友人に預けるつもりだったのだ。
だが、何の手違いか空のボールと勘違いして彼女のボールを持ってきてしまったのだ。ヨスガシティを出る前に気づいてボールを置いていこうとしたが、遅かった。
ボールからリーフィアが突如として飛び出すと、引き込まれるような可愛らしい瞳で、ズボンの裾を引っ張りつつ見詰めてきた。駄目だと言ってボールに戻そうとするのだが、何故かその度に首を振って嫌がる。
もう、観念するしかなかった。
どんよりと曇る空に相まって募る悔しさと情けなさに、吹雪の身を切るような寒さがより強く身を削っていくようにすら思われた。
リーフィアの緑の葉に、うっすらと白雪が積もっている。この雪が身を脅かすものでなければ、美しいのに。
その鬱々とした天候の下、何よりもボールを雪に奪われてしまったことがどうしようもなく申し訳なかった。
くさタイプという属性に加え元来より寒さに弱い彼女にとって、無防備な状態で外にいることは生命を危険にさらすことを意味するからだ。
凍てつく世界を見据える栗色の瞳は何も語らない。
けれど彼には、その瞳には希望なんかより、怒りや悲しみ、絶望ばかりが映っているのではないか、そんな気がした。
罪のない彼女を命の灯火が消えるような状況に置いたのだから。
彼は自らの大切なパートナーに、身を切る白の大地の上に跪いて詫びた。
「許してくれ」、その一言を、音も消え去る轟音の雪風の吹く世界に叫びながら。
ふっ、と、あたたかいものが右の頬に触れた。
やさしいぬくもりに驚いて顔を上げてみると、咲いたばかりの若葉のまぶしさのような笑顔を、リーフィアは浮かべていた。
「構いません」、そう言わんばかりに。
彼を見つめるその瞳には、希望の色だけがあふれていた。
憎しみの色は見えない。怒りも悲しみも、同様に。都合のいい解釈などではない。
それらの負の想いをかき消すような、確かなる灯火のきらめきだけが、その瞳には映っていた。
そして彼女はもう一度、彼をいたわった。自らの頬を、愛する主人のそれに摺り寄せて。
心の中の弱弱しい一本の木に重くのしかかった大雪が、少しずつ融けてゆくのが分かった。
太陽のないはずの木陰の彼の隣に、かすかな陽光があるのが分かった。いつだってそばにいてくれた陽光だ。
自らを何処までも真っ白に降りつむ雪に、そう気付いた彼の瞳から零れ落ちた雫が小さな穴を作っていた。
幸いにも、所在なく座った背の高い針葉樹の居並ぶ木陰には雪風の刃は及ばず、しばしこの脅威をしのぐことができた。
だが、気温による体温の低下そのものは防ぐことができない。
彼は着重ねしていた服のうち最も上に着ていた厚手のコートで、この豪雪にさらされたままだったリーフィアを包んだ。
空の色合いとは対照的な小さな息が一息がもれたが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
体を、心をあたためてくれるのは、心優しいリーフィアと焦燥の炎だけ。
夜になれば、人間やポケモンの体では到底耐え切れない低気温になり、低体温症になってそのまま死んでしまう。殊に、くさタイプのリーフィアは危険だ。
助けを待とう。彼の経験則は、彼自身にそう語りかけた。
しかししばらく考え込んで、彼は自身の経験則が諭すのを否定した。
連絡手段もない今、偶然にも助けがやってくるようには思えなかったのだ。
進むべき道など、最初からない。退路も直前に雪崩に流された場所、同じ所を歩くことは得策とは思えない。そもそも、進んでいる向きすら曖昧なのだ。
――キッサキに行くしかない。
この体で、自分からキッサキに辿り着く以外に残された手段はない。
目指す街までの道のりは常に吹雪いていて、いつ晴れ間が差すのかも分からないのだ。
加えて食糧もない、暖をとるものもない。ここで一夜を明かすことさえ危険なのに、何日も待っていられるとは彼には到底思えなかった。
だが、リーフィアはどうする?
一緒に連れて行けば、いくらコートで包んだとはいえ、また豪雪降りしきるあの極寒の地を手探り状態で歩き続けなければいけないのだ。
それにまた雪崩が起きてしまえば、共倒れする可能性もある。
あの針葉樹林の膝元にある限り、夜にさえならなければ彼女の身には危険なことは起こらないはずだ。
なんとしてでもリーフィアだけは救いたい。
たとえ、自分の命が白銀の大地に散っても。
「夜にまで街に辿り着いて、次の夜までには必ずリーフィアを助ける」。そう心に決めた。
主人は彼女を護りたい一心で、経験が鳴らす警鐘に聞こえないふりをして、キッサキシティへ自力で助けを求めることにしたのだった。
片時も離したことのなかった彼女をそこに置き、希望の陽光が、自分の後ろと心の中とにあるのを感じながら。