時計草
木々が密に生い茂る山中を、バスはのろのろ進んでいく。湿った油のにおいとポケモンたちの体臭がまじりあう独特の空気の中、会社から渡された膨大な空間情報の処理が、いまさっき終わった。
長椅子の半分を占領する大きなしっぽがゆらゆらと動いている。膝の上で眠っているキュウコンを起こさないよう注意しながら、そっと窓の外へ視線をやった。
窓ガラスに手を伸ばしてみるけれど、建てつけが悪いのか開かない。手を離したら、ガタンと小さな音がした。
◇
向こうの世界とこっちの世界がつながったのは、30年も前の話になるらしい。
今もってこっち世界とあっちの世界の科学的、あるいは哲学的な折り合いをつけようと頑張っている人たちがいる。量子物理学の概念を応用した多世界解釈などの議論を、主に向こう側の人が展開しているらしい。ある人は、こっちの世界は実は存在しておらず、人間の思念が作り上げた虚構の世界だと主張しているのだとか。けれども、ほとんどの人たちはそんな小難しいこと気にもせず「あるものは、ある」と思っているようだ。結局のところ、この世界の住人は、だれもこの世界のことを知らない。
とはいえ、「向こう側」からすると、ニュートン力学に縛られることの無いこの世界の発見は、金のなる木を見つけたという感じだったと思う。自身の体積よりも多くの水を発射できるハイドロポンプや、正体不明の力で物を動かす念力、さらには質量保存の法則を無視できる「軽石」なる道具の存在を知って、心が浮き立たない人はいなかっただろう。
しかし、ゼニガメを「向こう側」に持って帰っても水を発射することはできず、ただの愛玩動物になってしまうことが分かった。だから、この恩恵にあずかるためには移住しなければならない。そうして多くの人や機械や知識や概念といったものがこの世界へと移植され、発展を遂げた。
“向こう”とつながる前の方がよかった、あの頃は本当によかった、と中年以降の人たちは皆言う。
過去とは、足跡だと思う。「今」や「未来」があまりよく無いから、せめて自分はきれいな足跡を残せたんだと自慢したい。そういうことだと思う。
「私も若いころは旅に出てたんだよ」お母さんが、昔そう言っていた。「私はミニスカートだったんだけど、友達はピンクの服を着て晴れてる時でもずっと傘をさしててね」と不思議な自慢をよくする。
いまはほとんどの人が旅に出ない。ぼくの友達の中でも2人しか旅に出たやつはいなかったと思う。ぼくも町に住み続けている。
能率主義というものの先に市場原理があって、旅をするとそのための学力というものが減ることになり、就職活動に悪影響を与えるというのが大方の理由だ。全く新しい方針を突如打ち出した会社に右往左往しているお父さんは「仕方ないよ」とぼくが旅に出ないことを認めてくれた。
余った時間、ぼくはずっと数学の勉強をしていた。なんで数学なのかはわからなかったけれど、“向こう”から入ってきた最新理論ということで、お母さんも積極的に本を買ってくれたのだ。こんな時代だからね、と少しさみしげに。
“向こう”に昔いたという小説家は、「船の上に居ても、船から落っこちても不幸」というようなことを言っていたらしい。今の時代に生きているのは不幸だが、今の時代から逃げ出そうとして現実逃避してもやはり不幸だという意味。
じゃあ、打つ手は無いって? そんなこと言う人がなぜ歴史の教科書に載るほど有名になるんだろうか。諦めの精神をはぐくめって? 近頃は喜劇ばかりが流行るって? あの頃は良かったって? 見たことも無い世界を懐古しろって?
無限級数の展開公式を膝の上に置いて、そんなことを考えている時に、炎姫と出会った。
◇
大きなあくびをしてキュウコンが目を覚ます。「起こした?」と尋ねると、炎姫は首を横に振った。バッグの中からメモ用紙とパーカーの万年筆がひとりでに浮かび上がり、ぼくの顔の前で文字を紡ぐ。相変わらず便利な力だ。どうでもいいけれど、ぼくの使うボールペンは100均である。
『もう着きましたか?』
きれいに整った楷書で、彼女はそう聞いた。このキュウコンは今年で198歳を迎えるのだそうで、人の言葉が分かる。炎姫という文字にすると少しはずかしいようなこの名前も、当人から聞いた。「ホノオヒメ」と最初読んでいたけれど、「エンキ」が正解らしい。
「もう、少し、かかるかも」
言った途端にアナウンスがかかった。もうすぐ到着らしい。炎姫に腹をつつかれる。
今回のバスツアーは、観光目的ではなかった。“向こう”の大手ポケモン養殖業者が、珍しいポケモンを捕獲するためにぼくらを集めたのだ。もっと具体的に言うと、セレビィを捕獲するために。
“向こう”にはウナギなる生物がいるらしい。ドジョッチに似てより長く、食用にして美味とのことだ。そいつの数が減った時に、世界中(もちろん向こう側の)が躍起になって養殖技術というものを開発し、ウナギの絶滅を食い止めたのだと言う。だから個体数が極端に少ないセレビィのような種類も、捕獲して数を増やさなければならない、とそういうことらしい。
ライコウとフリーザーに関しては繁殖技術が確立されているが、レジ系のポケモンは殖やし方が皆目わからないのだと教えられた。
「我が社はポケモンの権利を最重要視して個体数を増加させており、遺伝子組み換えといった危険なことはやっておりません。ご安心ください」
ぼくの居た町で捕獲部隊を募る際、竹沢さんという40半ばの責任者らしい人がそう言っていた。何がポケモンのためになって、何がポケモンを苦しめているのか、ぼくにはわからない。無理やり子供を産ますことは、当人のためになるんだろうか。
ぼく以外はほとんど「仕事で」ポケモンを捕獲しているプロだ。もちろんレベルは高いし、種族値の高いポケモンをさらに厳選して個体値の高い「優秀な」ポケモンだけをお供にしている。
御年198歳の炎姫からすると邪道らしい。強いポケモン、弱いポケモン、そんなの人の勝手。大昔の偉大なポケモントレーナーがそう言っていたと、自慢げに言う。いや、書く。
炎姫が生きた過去を、ぼくも生きてみたかった。
それはともかく、一介のポケモントレーナーに過ぎない――さらにいうと、炎姫をモンスターボールに入れて「捕獲」したことが無いので、厳密に言うとトレーナーですらない――ぼくが、なぜこの場に居て就職活動(インターンシップ?)ができているかというと、数学のお陰だった。
◇
突然訪れた道の突き当たり、セレビィの住む森の入口でバスは停車した。木がよりうっそうと茂っている。ここからは歩きらしい。帰りに備えてか、運転手が車をUターンさせた。
「キセノン君、ちょっといいかな」
バスを降りると、山本さんという竹沢さんのお付きみたいな太った人がやってきて、目の前で立ち止まる。
ぼくはバッグからメモリーを取り出して彼に渡す。
「見せてくれるか」
タイトという名前の若いプロの捕獲屋もこっちに寄ってきた。
山本さんと一瞬目配せして、今回支給されたインテル・マルチコアプロセッサ搭載の最新ノートを立ち上げる。合計12人いる今回の捕獲メンバーも、ぞろぞろと集まってきた。
計算結果を見せる。
「マルコフ連鎖モンテカルロ法を用いた階層ベイズモデリングを実施しました。こっちの記号が環境条件。こっちの数字は、環境条件という情報が加わった際の事後確率分布――分かりにくかったらセレビィが出現する確率って考えてもらって結構です――を表しています。GISを使って地図の形式にしたのがこちらです」
今の説明でわかったのかわかって無いのかはわからないけれど、皆「うーむ」とうなった。タイトさんだけ「ほう」とつぶやく。
「要はこの数字が大きい場所で見張ってりゃいいんだな」
タイトさんがそう言った。ぼくは頷く。
「業者に任せると高いんだ。助かったよ」
山本さんが言った。「印刷して皆に渡すから、ちょっと待ってて」そう言って彼はよたよた走ってバスの中へと戻っていった。捕獲屋も三々五々と散っていく。ばたばたと足音がして、すこし土煙が出る。
今も昔も世界のことは何も分からないけれど、今は昔と違って世界のことを計算できる。少し変かもしれないし、普通のことのようにも、思えた。
何故かは知らないけれど、炎姫の体毛の感触が急にほしくなって、頭をなでた。
◇
森の内部へと続く道にそって、風車がたくさん刺さっていた。右にも、左にも、等間隔に、ずっと。
「ありゃ時計草をモデルにしたらしいな」
タイトさんがそう教えてくれた。この森の守り神であるセレビィへの敬意を表したものであるらしい。
その敬意の対象を、ぼくらは今から捕まえる。
「お前も一応持っとけ」とタイトさんからハイパーボールを一つ渡された。旅のせいだろう。ボールを渡すその手は太く、硬かった。
「お前、なんでここに応募した」
今度はタイトさんが尋ねる。お前はここに来そうなタイプじゃない。金以外のものが目当てだろう。
図星だったので、困る。仕方ないから正直に話した。
「会いたかったんですよ。セレビィに」
「なんで」
「……未来のことを、教えてほしかったんです」
そのまま船に乗り続けるか、あるいは、降りるか。
過去は良くって、今はだめ。そんな「今」が未来になったらどうなるか、不安だから、知りたいから、知らなくちゃいけないから。
悩んでいる時に炎姫に教えてもらった解決策が、セレビィだった。
炎姫との出会いも含めて一息に話し終えると、タイトさんは「わかった」と、小さく言って大きくうなずく。
「しかし、200歳に近いキュウコンは、いまでは珍しい……」
タイトさんが何か呟いている間に、そっと炎姫に聞いてみる。うまくいくのかなと。
『大丈夫』炎姫はそう続ける。
「大丈夫?」
『そう。どうせ、大丈夫』
◇
宿泊場所に着いた。湖のほとりにある小さな広場にテントを張る。
ぼくの仕事は実質終わったも同然で、あとは10歳のころから20年近く旅を続けているプロの人たちに任せていればいい。
10歳のころから数学しかしていなかったぼくは、テントの中で寝ていればいい。
でも、炎姫はそれを許してくれず、湖の周りを無理やり散歩させられた。
『天気もいいですから』
炎姫がそう書いた途端に、雨が降ってきた。
今度は炎姫の腹をつつく番かなと思って近づいたけれど、キュウコンは先々進んでいく。どうやら雨が降っても散歩はするつもりらしい。
◇
与えられた期日は4泊5日。その間にセレビィを捕獲する。
1時間ごとに気温・湿度・風向きの値を更新して、セレビィ出現予測を出す。椅子に座って何か書類を書いている竹沢さんに代わって、山本さんがせかせかと額に汗を浮かべて動き回り、データを配信する。
セレビィはなかなか見つからないみたいだけれど、ストライクやヘラクロス、ガルーラといった珍しい――あるいは有用な――ポケモンも順次捕獲しているようだ。
第一報は2日目の午前11時46分だった。出現確率が3番目に高い場所の17%地点、大樹のそばに現れた。捕獲屋の人がすかさず黒いまなざしをしたうえでハイパーボールを投げたけれど、捕まえられなかったらしい。
第二報は同じく2日目の午後10時53分。出現確率はその時点で最も高かった28%の地点、祠の前。今度はタイトさんが見つけた。しかし、捕獲失敗。
少なくともぼくの予報は役に立っているのだろう。皆そう思ってくれたようだ。
翌朝、タイトさんが首をかしげていた。
「たしかにボールの中に入ったんだ」
そう呟いている。同僚の捕獲屋は小馬鹿にしたように笑っていたけれど、彼は嘘をついていない。ぼくは、知っている。
◇
3日目はハズレ。4日目もセレビィを見つけられないまま夜になった。明日が最終日だ。夕方4時にはバスが出る。
竹沢さんは不満げな様子を隠しもせず、山本さんはずっとおろおろしている。少し、申し訳なく思う。
なぜセレビィが捕まらないのか、ぼくは知っていた。
テントに戻り、もう一度計算をやり直す。
この世界にニュートン力学は通用しない。でも、次元の概念は、両方一緒だった。
縦、横、高さで3次元。最後にもうひとつ、時間も加えて4次元。
空間だけじゃない。時間も計算に入れるんだ。
ぼくが本社からもらったデータは3次元空間情報だけだった。だから、捕獲屋に渡した解析結果には時間の単位軸が入っていない。セレビィがそこに見えるけれど、その時間に彼は存在していない。そんな「場所」ではいくらボールを投げても無駄だ。
コンピューターが4次元空間上の計算結果をはじき出す。画面上の砂時計が落ち切ると、一瞬だけ確率が急激に増加した。午前2時11分から32分までの間、祠の前で。
炎姫に向かって小さく呟く。
「今から、未来に会いに行くよ」
◇
―――それで、私の“場所”がわかったんだ。
セレビィが、言った。テレパシーだった。頭の中に直接響く。
「うん」
ぼくは頷く。
―――私をつかまえるの?
ぼくは右ポケットのハイパーボールにそっと手をやる。
でも、やめた。
捕まえるために、あなたに会いに来たんじゃない。
「聞きたいことがあるんです。未来について」
皆が言っている。私たちの残した足跡は、素晴らしいものだったと。
炎姫は言っている。昔のトレーナーは素晴らしい人だったと。
じゃあ、この「今」が作り出した足跡はどうなっているの? ぼくらの世代で未来が終わるなんてことは、あってほしく無いから。
―――あなたは、どんな未来になっていると思う?
「え……」
実際、分からなかった。
でも、昔みたいな良い未来になってくれれば、嬉しい。ダメな未来だと言われない未来になっていてほしい。そう答えた。
突然セレビィは声をあげてケタケタと笑った。
意味が分からなくって、セレビィを見つめる。
一瞬静かになる。
セレビィが、ぼくの顔を覗き込む。
―――教えてあげる。未来のあなたたちは、昔は良かったって、懐かしがってるよ。
あなたが残念がっている「今」は、未来にとって大切な足跡だから。
少し得意げに、セレビィはそう言った。
ぼくがきょとんとしているのを見て、彼はニヤリと笑う。
「そう言うもの、ですか」
―――そういうもの、だね。
セレビィはもう一度ニヤッと笑って、消えた。一瞬後にまた出てくる。小さな手には大きすぎる植木鉢を抱えていた。慌てて支えてやる。鉢には花が植わっており、白い花弁に時計の針のようなめしべが付いていた。
―――これ、あげる
セレビィが言う。
―――これは時計草。姿かたちは変わるけれど、ちゃんと育てれば永遠に花を咲かせてくれるよ。こいつのことを忘れたりしなければ。
「ありがとう」
言った瞬間、セレビィは消えた。
時計の針は、午前2時32分を指していた。
「こうなるって、分かってた?」
炎姫に尋ねる。198歳のキュウコンは『さぁ』とわざとらしくとぼけて見せた。
◇
翌日、バスは定時に出発した。タイトさんが反応した以外、誰も時計草には気づかなかったようだ。誰からもらったというタイトさんの問いは、心の中で謝りながら、軽く流しておいた。「ほう」と彼が小さくつぶやく。
バスの中で竹沢さんが、曰く、今回の成果ではストライクを含む希少種のポケモンが複数捕獲できたこと、セレビィが捕獲できなかったのは残念であるが、得た物は非常に大きく、感謝していること、町に着くにはバスであと二日ほどかかることなどを、マイクを使ってぼそぼそと話した。
一通りの話が済むと、実家に電話した。あと二日ぐらいで、帰るよ。
「帰ってこなくていいよ」
お母さんにそう言われた。捨てられたかと絶句する。爆笑されたのが癪である。
「旅に出て、もっと色んなところを見ておいで」
それだけ言われた。うんと頷く。「炎姫もいいよね」と聞く。狐も同意した。
「あ、もちろん就活はそっちでやっててね」
え、就活続けるの?
痛いところを的確に突いた後で、母は静かに電話を切った。
それにしてもバスの中は空気が悪い。ガラスの窓に手をやると、それは拍子抜けするほど簡単に開き、透明な空気がぼくらを包む。
◇
当初の予定とは違う村だが、今日はここで夜を明かす。と竹沢さんがぶっきらぼうに告げる。何があったかは知らないけれど、出発直後と比べて非常に機嫌が悪い。新しい目的地が、もはや町とは言えない集落だったからかもしれない。皆外へわらわらと出ていく。
「明日、バスに乗らなくてもいいですか?」
苛々と歩き回っている竹沢さんにそう尋ねる。かなり驚いたようで、この街から出るバスの本数が異様に少ないことなどを色々聞かされたけれど、別に拒否する理由も無いらしい。どうせ俺も乗れないしなと何かぶつぶつ言った後、お元気でと無感動にあいさつされた。
タイトさんにも挨拶をした。何もかも知っているという風に「おう」と返事がきた。タイトさん、ありがとう。ぼくが言うと、彼は慌ててそっぽを向いた。いい人だと思う。
村の小さなポケモンセンターに入り、チェックインを済ませる。
「旅の途中ですか?」
女医さんにそう聞かれる。少し意外だった。今時ポケモンセンターは短い旅行に使うものになっていたからだ。
「このあたりでは、まだほとんどの子たちが10歳になると旅に出ていますよ」
笑いながら、そう言われた。ふぅんと頷く。自分はこの年になってまだ旅に出たばかりだと言うと、やはりすこし笑いながら頑張ってくださいねと言う。
「その植木鉢はどうなさいます?」
言われてみると、旅をするには邪魔そうに思える。ふと思いついて、実家に送ってもらうことにした。もう一度電話した時の親の声が少し震えていたのは、気付かないふりをしておいた。永遠に咲き続ける時計草だと伝えて電話を切る。
転送装置の中へ吸い込まれるようにして、時計草は消えていった。
過去とか足跡とか言われるものは、ずっと咲き続けるらしい。
忘れない限り、永遠に。
でも、水をやると新しい部分が生えてきて大きくなるらしい。とのことである。
寝る前に、炎姫がそう言っていた。いや、書いていた。
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第一回ポケモンストーリーコンテスト出展作
お題 足跡
一部改訂版