蜻蛉の歌
面接の極意は相手の目を見ることだそうだ。通称アイコンタクトである。
そんな高等技術、まともな人間にできようはずが無い。できるのはニビジムのタケシさんだけであろう。代案として、相手の胸辺りを見るのがよいと本に記されていた。
納得である。この秘伝の技を用いれば、相手はいとも簡単にぼくがアイコンタクトをしているものと錯覚するだろう。面接官からの評価はウナギ登りである。これはすなわちぼくの就活の終わりを意味し、栄光の未来への切符を手渡されたに等しい。
ぼくならできる。いや、2階偏微分方程式を解くのに比べると楽勝だ。1:1の対話形式だからと言って恐れる必要は全くない。
自信を持って面接室に入る。
面接官は恐ろしく美人な女性であった。ぼくの自信は0へと速やかに収束する。恥ずかしくて胸を見ることができないのだ。顔が真っ赤になる。仕方なく、相手の鼻をじっと見つめる。
相手が美人だったのを除けば、幸いにも事前に炎姫と打ち合わせた通りの進行だった。数学は控えめに自慢し、セレビィの件はやや脚色して説明する。最後にポケモン生態学会の最新ニュースを披露した上で、部屋の外で待っている狐に感謝しつつ、面接を終える。
「なかなか情報通でいらっしゃいますね。筆記試験の方もよい成績でしたし、勤勉なのですね」
大人のおねえさんが微笑みながらお褒めの言葉を言ってくれた。これは期待ができる。非常勤研究員の職が入るかもしれない。
あなただからこそ、お聞きしたいのですが。と、面接官は話を続ける。ドキッとする。この展開は、聞いて無い。
「ユラヌス、というポケモンは御存じありますか?」
もちろん、知らない。「あぁ、新種のポケモンでしたよね?」と知ったかぶる。
「いえ、ただのニックネームです」
明らかに落胆したような口調で、美人面接官は肩を落とす。
まずい。
採用人数二人の超難関試験だ。この一言ですべてが終わってしまうかもしれない。
ぼくは慌ててことばを探す。出てこない。
面接官は暗い顔をしてチェックシートに何やら書き込んでいる。
ま ず い。
何か言わないと。何か言わないと。何か言わないと。
けれども何も出てこない。
なぜ出てこない。 なぜ出てこない。 なぜ出てこない。
これは言うべきことを盗まれたのかもしれない。いや、そうに違いない。そういうことにしてしまえ。
誰に? そうだ! 悪いのは彼だ!
「そう言えば、ことば泥棒って知ってます?」
変なことを言ってしまったと思った後には時すでに遅く、面接官は理解しがたいという顔でじっとこちらを見る。
◇
一週間前
◇
面接まであと一週間。
もうすぐ終わると言う解放感と、得も知れぬ不安とが胸のあたりでぐるぐる渦を巻いていた。
近頃は“こっち”でも経済競争が白熱している。そもそも競争無くして発展無しというイデアが蔓延しているのだから、仕方ない。
経済だけではなく、「強さ」の競争も盛んだ。専門用語で抑止力という理論らしい。
なんでも、“向こう”には、世界を何回も消滅させる威力の爆弾があるということだ。物騒な、と思ったあなたはまともだけれど、“向こう”じゃ疎いと笑われる。力は発揮するためにあるのではなく、所持することに意味があるのだから。自分はこれだけ強い力を持っているのだから、あなたは私に攻撃しない方がいいですよ、とそう言う理屈で争いを鎮めるのだ。少し納得である。
本当にうまくいくのかなと炎姫に聞いてみると、そんなわけないでしょうと一蹴されてしまった。
……炎姫の話はともかく、今は「最強のポケモン」が流行りである。
ミュウツー・ゲノムを探そうと今は亡きロケット団の跡地をあさったり、海底敷設式ソナー監視網「SOSUS」を用いてルギアを探したりなど、各国余念が無い。セレビィの一件も、それに絡んでいたとかいないとか。
しかし、幸か不幸か、そんな理由でポケモンの生態研究には多くの予算が割かれ、加速度的に研究は進んでいった。
ぼくみたいな経験の浅い若手でも、頑張れば参入できる。そう言う訳で、非常勤研究員に狙いを定めて応募した。
合格すれば、まずは1年間の研修期間があり、それを乗り切れば「非常勤」の名前が外れて常勤だ。
筆記試験は、数学のお陰でパス。
面接まで、後1週間を切った。
◇
『もっと良いメモ帳に換えませんか? パーカーの万年筆が泣きます。ほらあそこ、モレスキンのノートがありますよ』
ここは駅前の文房具屋。履歴書に記入するために100円のゲルインクボールペンを買いに来た。
クロスやデュポンといった高級文具が所狭しと並ぶ中、100均のメモ帳を神通力でひらひらさせながら炎姫が主張する。入る店を間違えたようだ。こんな店を駅前に作るなと店主には是非に主張したい。
炎姫よ、なぜそんなブランド物を選ぶ。貧乏人には目に毒だ。
キュウコンはメモ帳をやぶいて器用に矢印の形に折りたたむ。そして高価なノートをくいくいと指し示すけれど、とりあえず無視する。そんな金があるのならこれほど必死で職を探したりはしないのだ。
「100円のボールペンを使えば、メモ帳とバランスが取れるよ」と言ったら、彼女はガクっとうなだれた。
沈黙。
素直に怒ってくれればいいものを、落ち込まれると、なんか、申し訳ない。結局買ってあげた。\1480。
その結果、今日の昼食は菓子パン1個である。多分、夕飯も。
あ、結局ゲルインクペン買ってない。
◇
美味しそうなにおいの立ちこめる街中を後にして、砂漠と目と鼻の先にある広場に座って、食事をとる。もう春は通りすぎたあと。初夏の日差しが照りつける。かなり暑い。砂漠の目の前なので影もない。今日は色々と場所を誤る。
「ポケモンをもっと大切に、この星の環境を守ろう」と謳った看板の影でたった一個の菓子パンを味わって食べていると、炎姫がモモンの実をどこからか見つけてきて、ぼくにくれた。意外といいやつだ。二人でモモンを食べる。
すると、ガチガチと音がした。お上品に神通力で切り分けてからモモンを口に入れている炎姫がそんな音を出すはずが無い。
耳の良い炎姫が先に音の主を発見した。気にいったのか、さっきのメモ帳矢印をもう一度使って指し示す。
小さなナックラーだった。ならいいや、と思って、またモモンにかぶりつく。
ガチガチ!
無視されたナックラーは怒ったようだ。種までしっかりしゃぶった後に、ナックラーへと目を向け、立ち上がる。
茶色の彼は一歩退き、砂地に入る。
そのままぐるぐると回転し、小さなアリ地獄を作った。ぼくの片足がやっと入るくらいの大きさだ。
クワッ!
かかってこいということらしい。無視してもよかったのだけれど、なんとなくモモンの種をタコ糸に結び付け、ナックラーの目の前にぶら下げてみる。
ナックラーはモモンの種にとびかかった。そのまま糸を上に引っ張る。
アリジゴクの彼はしかし、決して種を離そうとはしない。そのまま宙へ持ち上げられ、数秒後に足場がないとようやく気づいてじたばたした。しかし、何も、起こらない。
「釣れた」
ぼくが言う。
『釣れましたね』
炎姫が同意した。
◇
この一件以降なぜか懐かれてしまったらしく、アリジゴク君は同じテンポでずっとガチガチ言いながら、ぼくの周りをぐるぐる回っている。要するにコイツは暇だったのだろう。かまってくれる相手を見つけて喜んでいるようだ。
しかし、ぼくには彼にずっとかまっている余裕などない。面接まであと1週間を切っている上に「旅をしながら元気に就活!!」と謳っている4社に出す分のエントリーシートを書きあげねばならない。
まずは自己PR文を完成させることからだ。ガチガチ! とアリジゴクが騒いでいるのを冷徹に無視し、必死で書類と向き合う。
そういえば、研究職の筆記試験は変わったものだった。もう終わったことだからいいのだけれど。
小論文や単純な計算問題だけでは無く、意味不明な単語の羅列の後に「この言葉を見てわかることを記入せよ」とだけ書かれた不親切な問題も何問か出た。ちなみにありとあらゆる道具を使用してもよいという条件下。ついでに言うとポケモン持ち込み可。けれども炎姫はまったく手伝ってくれなかった。薄情なやつだ。
結局コンピュータ任せにして解析した。テキストマイニングという代物だ。計量文体分析の手法を用いて、蓄積された膨大なテキストデータを何らかの単位に分解し分析する。
マシンラーニングというこれまた別の理論を用いて文字通り“機械に学習”させると、炎姫のしっぽをいじくっている間に問題が解けてしまった。
うん。やればできる。
当時はそう思った。
全ての会社がこれと同じことをしてくれればいいのにと思うけれど、そう甘くはないことをつい最近知る。
自己PRうんぬんという厚い壁にたちふさがれた今、数学という武器は余りにも小さく、弱すぎた。
額に汗を浮かべながら、必死で行間を埋める。砂漠から生暖かい風が吹いてくる。
ガチガチ!
「黙れ」
言いながら、手を動かし続ける。 ガチガチ!
炎姫が言うには、自分を推薦しないといけないんだったよな。 ガチガチ!
要は、自分をほめるのか。 ガチガチ!
……わたくしは、はち切れんばかりの優しさを胸に秘めながらも抜群のリーダーシップがあり、明るく好奇心に充ち溢れ、地下の研究室に引きこもりながらにしてロビンソン・クルーソーのごとき自給自足生活ができると言う類まれな逸材でありまして……
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
「炎姫! ナックラーに破壊光線!」
『その前に、あなたの文章をなんとかしたら?』
◇
結局、ぼくの自己PRは最初から書きなおす羽目になったのはまた別の話である。
それはともかく、日が高く昇っても、ナックラーがうるさいのには変わりない。さすがに不憫に思ってくれたのかあるいは当人がうっとうしくなっただけのかは知らないけれど、昼寝をしていた炎姫が起き上がって話をつけてくれることになった。
数分ほどポケモン談義があった後、炎姫が見えない力で万年筆を走らす。
『残念でしたね』
恐る恐る、何が? と尋ねると、『ことばが通じない』と返す。
「通じない?」
以下、炎姫の解説である。
ポケモンには2種類の意思疎通方法があるらしい。一つは、周囲の状況をセンサーでキャッチして相手に対応するというもの。曰く、『人間には退化してしまった能力ですね。これだから人間は』。
いちいちうるさいよ。
ちなみに専門用語でシグナルとかカイロモン・フェロモンと言うものであるらしい。知らなかったです、ごめんなさい。
で、もう一つが、“ことば”による会話。
実際ことばはそれほど必要とはされない。シグナルさえ感知できれば大丈夫とのこと。
だから文盲だからと言って心配する必要は全くないんですが、と続ける。あなたみたいな「人間」には厄介者となりそうですがね。
そうか、とつぶやく。
要するにこいつを黙らせることはできないということのようだ。困るじゃないか。ガチガチ言って就活を邪魔されたら、研究室引きこもり生活の夢がついえてしまう。
その方が健康に良いのでは、と炎姫にからかわれた。
そんな殺生な。生まれて一度もモンスターボールを投げたことがないくらいのインドア人間がアクティブに働くなんて不可能だ。
『このナックラーは、ことば泥棒にことばを奪われてしまったのかも』
冗談めかして、狐がそう書く。
ことば泥棒?
初めて聞く言葉だ。
『昔の人がよく使ったいいわけです。うまい言い回しが出てこないって嘆きながら。ちょうどさっきのあなたに似ていますね』
そうか、と頷く。ことば泥棒か、便利なことを聞いた。今度使おう。
『彼みたいなポケモン、たまにいますよ』。あっけらかんとそう言う――いや書く――炎姫を横目に、眼が無駄にきらきらしているアリジゴクをじっとみる。
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
「黙れ」
言いながら、ちょっとの間ナックラーから目が離せなかった。
なんとなく、不思議な気持がしたからだ。
ガチガチ クワッには全く別の意味があるのだろうか。ぼくらには、決して分からないような。
間違っても擬人化して同情しないことですねと炎姫に釘を刺される。
『アレにとってはその方が不憫というものです。心配しなくても野生のポケモンは賢い。少なくとも、人間よりかは、ずっと』
そうか、と頷く。いや、一言多いんだけど。
『でも、早く進化しないと、求愛時期に間に合いませんね。それが原因でガチガチ言っているのかも』
「求愛?」
なんでも、ある日一斉にビブラーバが飛び立ち求愛の儀式が行われるらしい。
雄たちは歌を歌って雌を誘い、砂漠の上に卵を残す。こいつ以外にナックラーが見当たらないのはおそらく皆進化してしまったからだろうと言うことだ。
ある日っていつ? と尋ねると、知らないと返された。ビブラーバがブンブンいってるから嫌でも気づきますよ、と書く。
『せっかくなのでアレの進化を手伝ってあげましょう。アレのためでもありますし、寝ているのにも飽きました』
アレのため、ね。
あれ、そういえばぼくの就活は?
198歳の狐はいい暇つぶしを見つけたと喜びながら、件(くだん)のアレを鼻で突っつく。
◇
ミリス。
いい名前だと思う。ランダムに文字を打ち込んで完成した名前とは思えない。
やるだけ無駄、という炎姫の言葉を無視してアレに名前を付けてやったのだ。慰めにもならないとは知っているけれど、人間には名前が必要だ。
それはともかく、進化といえばレベルアップ、経験値を増やすことが肝心だ。砂漠を少し離れた草原で見るからに弱そうなナゾノクサを見つけたのでカモにすることにした。
しかし、このナックラー、どのような技を使うのかが分からない。とりあえず強そうな技を指示してみる。
「行けっ! ミリス! 破壊光線!」
そう言ってナゾノクサを指さすと、ミリスは心得たとばかりにすっ飛んで行き、哀れな草にかみつく。あっという間に歩く草をノックアウトさせた。意外と強い。
「あ、そういえば、言葉が通じた?」
『通じていると思います?』
後でわかったことだけど、ハイドロポンプと指示してもフレアドライブと言ってみても、このアリジゴクはかみつく攻撃しかしなかった。
◇
日は西に傾き始めている。
ミリスのほかにナックラーは見当たらない。もうすでに全員進化してしまったのではと焦りながら、思い出したように生えている木々に目を凝らす。
いろいろやっているうちに、指さした相手にかみつく習性があることが分かった。このポーズがシグナルになっているらしい。
もう少し指をピンと伸ばせば何かの間違いで破壊光線を打ってくれるかもしれないと淡い期待をしつつ、かみつく攻撃でも勝てそうな弱小ポケモンを探す。我ながらいい根性だ。
『何か、聞こえます?』
突然炎姫がそう書く。
僕はあわてて耳を澄ませる。
アリジゴクが一人ガチガチ言っていた。それ以外は何も聞こえない。
尋ねても炎姫は何も答えてくれないので、仕方なく一人でカモを探す。
昼寝中の大きなハブネークは無視して、ふよふよと頼りなく飛んでいるコイルを標的に定めた。地面タイプのナックラーとはすこぶる相性がよい。
「行けっ!! ミリス!! 破壊光線!」
指の伸びが足りなかったのか、相変わらずミリスはかみつく攻撃をした。必死で伸ばしたのに、残念だ。心なしか炎姫の目が冷たい。まぁ「かみつく攻撃!」と叫んでもなぜか反応が悪いから、破壊光線のままでいいんじゃないかな。
こちらの事情は知る由も無く、ミリスは勢い良くジャンプして、コイルにかみついた。そして電磁石にぶら下がる。
この情景はどこかで見たなと思っていると、案の定彼は降りられなくなった。
彼は必死でじたばたする。
しかし なにも おこらない。
「あ、こいつ、ダメかもしれん」
炎姫に助け船を出してもらおうかと思ったけれど、そもそもこいつにバトルの経験はあるのだろうかと逡巡する。少なくとも僕とのペアでバトルの経験はない。
その一瞬後、異様な音が聞こえた。
ギィィキィィィィ!
コイルが未だ聞いたことの無い音で叫んだ。同時に、バキっと鈍い音がする。
まさか、と思ったけれど、コイルの鋼の体にひびが入っていた。
やりすぎるとレベルアップどころではなく、コイルが死んでしまう。
慌てて止めに入ろうとする前に、ミリスはコイルを手放した。ドスっと音がして、不格好に着地する。
『大丈夫。この子はよく程度をわきまえています』
炎姫が書く。念のため哀れな電磁石に傷薬をスプレーしてあげたけれど、確かに命に別状はないようだった。
しかし、どう見てもレベルは31から32なのに、異様とも言える強さだ。
ことばという理論的な制御装置が無いために、本来筋肉にかかるべきセーブが取り払われているのかもしれない。
そう思った。
◇
そろそろ帰ろうかと言う時分、通り雨が降った。ミリスを抱き上げて炎姫とともに大きな木の下で雨宿りをする。環境保護を謳った看板に大きな雨粒が当たって、冷たい音を放った。そういえばこの看板、いたるところにある。どれも錆びてるけれど。
真っ黒な空を見ていると、雨はすぐに止んだ。
その瞬間からミリスの機嫌が悪くなった。空に向かってあからさまな敵意を示している。不思議そうな顔をした炎姫とともに空を見上げるけれども、虹以外には何も見えない。
『虹が嫌いなようですね。トラウマでもあるんでしょうか』
炎姫があっさりとそう言った。これも一種のシグナルか? と聞いてみたけど、やはりあっさりと『知りません』と返される。さっきからずっと、何か考え事をしてるみたいだ。
タイミングも良かったので、結局その日の特訓は切り上げ、ポケモンセンターで宿をとることにした。
ミリスを抱いてチェックインをしていると「ナックラーね」と女医さんが感慨深げに言った。「懐かしいわ」と目を細める。むかし育てていたことがあったのかもしれない。
相変わらず旅をする人は少なく、部屋はガラ空き。2段ベッドが二つ置いてある部屋を一人で貸し切れることになった。こういうシチュエーションは無駄に好きである。
ミリスは部屋でごろごろしており、炎姫はそのアリ地獄をじっと見つめている。種族が違うとはいえ案外気になってるのかもしれない。違うって?
それはともかく、二匹とも捕獲されたことの無い“野生”のポケモンであることが信じられない。炎姫はともかく、ミリスを下手に人間に慣れさせてもよかったのかなと、いまさら少し不安に思った。
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
ガチガチ クワッ!
「黙れ」
不安に思ったのがなんだかばからしくなって、時事問題に目を通す。あの調子だと、すぐにぼくらのことも忘れるだろう。
ガチガチ・ガチガチ・ガチガチ クワッ!
ガチガチ・ガチガチ・ガチガチ クワッ!
ガチガチ・ガチガチ・ガチガチ クワッ!
「いいからお前は黙れ」
無駄にテンポよくガチガチ言うミリスを一喝すると、文盲のアリジゴクは余計に激しくガチガチ言った。いったい何の恨みがあると。
本当に、何を考えているのかわからない。炎姫にならって、一人で騒いでいるアリ地獄の彼を、じっと見つめる。
「……言葉が無い、か」
昔、ある哲学者は「思考とは記号を操作する働きである」と言ったらしい。
要するに、名前と言う記号を操作して言葉をつむぐことが、人間にとっての思考であると、そういう主張だ。
しかし、ミリスには言葉が無い。
言葉の名前を、理解できない。
そして僕は、そんなミリスを理解できない。
「よろこぶ」とか「かなしむ」って言う言葉が無いのなら、いったい何と感じればよいのだろう。
ミリスはまだガチガチ言っている。
でも、その“言葉”が何かを指し示すことは、決してない。
◇
『やっぱりおかしい』
いきなり炎姫がそう書いた。
「どうしたの?」
ミリスが「ガチガチ クワッ!」以外にも、規則的な音を発している。そんな気がするんですと、炎姫は書いた。
『もしかして、なにか、言ってるのかも』
「言う? ことばが無いのに?」
『ナックラーにだって、発声器官はあります。音のコピーくらいなら、ことばが分からなくてもできるのかも』
音のコピー?
オウム返しに僕は尋ねる。
彼はずっと、そのコピーを延々と叫び続けている?
意味も知らないのに呟き続けることばって、一体何なんだろう。伝えたいことが無いのに、伝えてしまう。記号の意味を知らないままに、操作する。そんなことばの意味。
狐はじっと考えた後、諦めたように首を振った。『今日はもう寝ますか』
炎姫はそう書いたけれども、
「ちょっと待て」
ぼくは炎姫の提案を遮って部屋から出て行く。一息で階段を降り切った。
受付では夜勤の女医さんが椅子に座って眠そうに本を読んでいた。僕が声をかけると、彼女は少し怪訝な顔をして、けれども僕の願いどおりの物を貸してくれた。
女医さんから預かったマイクを片手に、僕は部屋へと走って戻る。
『何をするんですか?』
まぁ見てなさいと少し優越感に浸りながらミリスにくっついて音を採集する。
マイクに拾ったところで雑音が多すぎるでしょうという炎姫を無視して、計算プログラムを探す。確か、むかし作っていたはず。
「あった。信号検出理論のプログラム」
信号検出理論とはもともとはレーダーによる自動監視作業の最適化を意図して開発されたものだ。ノイズだらけのデータから敵を発見するためには、雑音から信号を検出しなければならない。その理屈を応用する。
ノイズ音波の確率分布を推定。最尤方程式をちょいちょいと解いてやれば……。
「できた」
得意満面の表情で炎姫に宣言する。
さすがの炎姫も驚いたようだ。今までも色々やったけど、そのなかでも一番変な計算をしたような気がする。狐のくせに狐につままれたような顔をしていた。
「結果の音声、聞きたい?」
聞くまでもないことを聞いてみる。炎姫は素直に頷いた。アリジゴクの彼は、何が起こっているのか理解できていないらしくガチガチ言いながらこっちを窺っている。
作製した音声ファイルを開き、メディアプレーヤーの再生ボタンを押す。
音に合わせて画面のグラフが上下する。
すると…………何やら雑音のようなものが聞こえた。
失敗だったかも。
自慢した分、恥ずかしい。変なことを言うべきではなかったと後悔しながら横目で狐を見る。
炎姫は深刻な表情でパソコンを睨みつけていた。
『もう一度流してください』
慌てて言われたとおりにする。
聞こえる。と耳の良い狐は書いた。
長寿の狐は、めったに見せない焦りを見せながら、かすれた文字を書く。
『これはポケモンのことばじゃない!』
ポケモンのことばじゃない? どういう意味だ。
ぼくにはまだ音の判別ができない。
人間にも聞こえるくらいの音にしなければ。
メディアプレーヤーを繰り返し設定にして、音量も最大にして……
「これって――」
狐は静かに頷く。
『これは、人間のことばのコピーです』
パソコンのスピーカーからは、ひび割れた低い声が、音のグラフとともに何度も何度も繰り返し再生されている。
ことば泥棒 ことば泥棒 ことば泥棒 ことば泥棒……と
――――――――――――――――
蜻蛉の歌(下)へ続く