蜻蛉の歌(下)
僕らが横になった後、また雨が降り出した。
蒸し暑さがべっとりと覆いかぶさってくるような寝苦しい夜を明けた。昨日の夜の件もあり、余り寝付けなかったので、瞼が重い。時計を見ると朝の6時にもなっていなかった。
ベッドから顔だけあげると、ミリスがなにやらもぞもぞしていた。なんとなく、声をかけづらかった。
アリジゴクの方をそっと見ていると、彼は窓際の方へ歩き出した。そして窓枠へとジャンプして、出っ張りに乗っかった。
「ミリス……?」
すると、突然ミリスは大顎で窓ガラスをたたき割った。
音に驚いて炎姫が跳ね起きる。
ミリスは、そんな僕らをしり目に2回の窓から飛び降りた。
「ミリス!」
僕も跳ね起きる。炎姫が慌てて窓の方へ近づき神通力を使ったけれども、一瞬遅かった。アリジゴクの姿はすでに見えない。
すると突然窓の下からビブラーバが現れて、砂漠の方へと飛んでいった。ミリスが進化したのだ。それにしても、なぜこんな突然。
どうしようと僕がおろおろしていると、炎姫が特大の文字で僕に指示した。
「早く女医さんを呼びなさい!」
寝間着姿のまま廊下へすっ飛んで行くと、音を聞きつけた女医さんが階段を上がってくるところだった。
慌てて事情を説明すると、彼女は血相を変えて「来なさい」と言い、僕の手を引いた。てっきり怒られるのかと思ったけれど、違った。センターに備え付けのオフロード車に炎姫ともども乗せられた。華奢な女医さんには似合わないくらいの大きな車体だ。これくらいじゃないと砂漠には入れませんと彼女は説明した。
「すぐにあのナック……、いやミリスを探しに行きましょう」
凛とした声で、そう言った。そしてエンジンをかけながら小さく、
「もしかすると、とは思ったんです」
僕の顔が一瞬蒼くなった。ことば泥棒ですか、と聞くと、意味がわからないと言う風に彼女はかぶりを振った。そして、一瞬考え込むようにして、
「でも、確かに泥棒されたのかもしれない」
そう付け加えた。
何を、と恐る恐る僕は尋ねる。
「今日と言う日を、です」
女医さんが答えた。
◇
車は道路をそれ、砂漠の上を進み始めた。昨日とは打って変わって砂嵐が吹き荒れる。車体が激しく揺れる。
この地方では今日が蜻蛉の歌の当日なのです、と彼女は言った。
本来ならば朝のうちから多くのビブラーバが飛び立ち、求愛の儀式が始まるのだと。
僕は車の窓から砂漠を見る。ニャースの子一匹いない。当日はブンブンうるさいくらいだと炎姫は言っていたけれど……。
「本来ならば、今日がその日だったのです。本来ならば」
でも、人間がその日を奪った。
環境保護、ですよ、と彼女は皮肉っぽく笑う。
「ここは300年前までは森林だったんだそうです。それが砂漠に変わった。これは環境破壊であるとして、環境保護団体を名乗る組織が辺りかまわず木を植えて砂漠にすむポケモンを駆除してしまいました
「ちょうどそれが4年前の今日。それ以来、蜻蛉の歌を迎えると、存在しない記念日がシグナルになって、わずかに残ったビブラーバ達の行動が、おかしくなってしまったのです」
「ミリスは、一人で歌いに行ったんですか」
僕は尋ねる。女医さんは分からないと首を振る。
「力尽きるまで相手を探して歌い続ける者もいれば、存在しない敵に対して怒りをぶちまける子もいます。けれども、結果は同じ。ただ、精根尽きたビブラーバの死体が残るだけです」
まだナックラーだったから大丈夫だと思っていたら、と女医さんは苦い顔で言った。
そしてもう一度彼女はかぶりを振って、凛とした声で放つ。
「ミリスを探しましょう。いまなら、きっと、間に合います」
僕は同意する。炎姫も頷いた。
言ったものの、見通しの悪い上に広大な砂漠の中で、一匹の蜻蛉を見つけるのは、同じ模様のパッチールを探すのと同じくらい大変な作業だった。
「せめて、目的地が分かれば」
女医さんがこぼす。
『得意の解析で解けないんですか』
炎姫がそう書いたけれども、僕は横に振った。基になるデータが無ければ、解析は無力だ。無から有を生み出すようなことは決してできない。
「何か、心当たりはありませんか」
女医さんがすがるように言った。
僕はかぶりを振る。
そして力なく窓の外を見ると、砂嵐の奥に、うっすらと七色の光が見えた。
「虹だ」
僕は言う。そして炎姫を見る。まさかね、とは思ったけれど。
狐もそれしかないと同意した。
「虹のある側ってどっち方面ですか?」
◇
僕らがミリスを見つけたのは、日が高く昇った後だった。
彼は、虹の根元にもっとも近い砂漠の端で、ノイズと超音波の混じった羽音を“敵”に向かって浴びせかけていた。
これは、もう間違いない。「指さし」や「ことば泥棒」と同じようにミリスの中にシグナルとして刷り込まれてしまったのだ。「虹」という対象が。
でも、何で虹なんかに?
音を立てて荒々しく車が止まる。
ぼくは首を振る。いまは理由を考えている場合じゃない。いまやることは一つだけだ。
僕は女医さんに告げる。
「モンスターボール、貸してください」
◇
久々に握るその重みは、ほとんどないに等しいくらいに軽かった。こんなもので本当にポケモンが捕まえられるのか不安に思いつつ、車のドアを開ける。
瞬間、耳をつんざくような音が直接頭の中に響いてきた。必死で吐き気をこらえる。
ミリスの超音波だ。車からでた女医さんの足取りはもうふらふらとしている。やっぱり、自分が何とかしないといけないみたいだ。
けれども、当のミリスは空高くに上っていて、僕の腕力ではボールが届きそうにない。
『私が神通力でボールを投げます』
狐がそう書いた。
驚いて振り返ると、炎姫は少しよろめきながらも『だってボール投げたこともないんでしょう? そんなんじゃ当たりませんよ』
そう書いて、僕からボールを取り上げた。そして、上空へとボールを浮遊させる。
僕は、従うしかなかった。
こんな時、数学という武器は余りにもろく、弱すぎた。
炎姫は慎重に、ミリスにばれないよう巧みにボールを操作する。
そして、あっけなくそれはミリスの背中に到達し、小さく閃光がしてミリスはボールの中へ……
突然、強烈な吐き気に襲われた。同時に、ありとあらゆる音程のノイズが僕の頭を支配した。
ミリスが超音波混じりのソニックブームでボールを跳ね飛ばしたのだ。女医さんは慌てて二つ目のボールを取り出す。けれどももっと近くから捕獲しないとまた同じように失敗してしまう。
そう思った瞬間、ミリスは下へと降りてきた。
けれども、僕らにボールを構える余裕は全くなかった。
侵されたシグナルに支配されて自我をなくしたミリスは、僕らを敵とみなしたらしい。
「だましうち」だ。その必中技は、ボールを操作していた当人、炎姫へと狙いを定めていた。
より強くなるノイズに吐き気をこらえながら、僕はやっとの思いで顔をあげる。
ミリスがもう、炎姫の目の前まで来ていた。
◇
『なんであなたが』
狐がそう書いた。
炎姫をかばった右腕は、蜻蛉の羽によって寝間着ごとパックリと切り裂かれていて、僕の利き腕からは血がだらだらと流れていた。相変わらず、レベルの割には技に切れがある。
女医さんが慌ててぼくの方を見る。そして頭を抱えながら
「ポケモンもそうだけれど、あなたの身の安全の方が重要です。可哀想ですがあきらめて……」
「女医さん、妙案、思いつきました」
僕は必死で笑いながら、女医さんのことばを遮る。
炎姫も女医さんも、驚いて口を閉じる。
ミリスはまだ僕らの上を旋回している
「解析の目的って、知ってます? 一言で言うとね、パターンを見つけて、それを利用することなんです」
二人とも訳がわからないと言う顔で、こちらを見る。
僕は女医さんから左手でボールを奪うようにとる。
今さっきで分かった。このノイズもソニックブームも、彼にとって歌なんだ。そして、そう、ミリスは突っ込む以外のまともな攻撃方法をいまだに知らない。
「女医さん、少し離れてぼくを指さしてください」
「また何を……」
「いいから早く!」
彼女は言われたとおりに僕を指さした。炎姫は何をしようとしているか察したらしく、僕を止めようとしたけれど、しぶしぶ僕の指示に従った。
準備はできた。後は「雑音」が有ればいい。
ぼくは、力の限り叫んだ。
「ミリス!! 破壊光線!!」
“指示”というシグナルがミリスに伝わる。彼は誰が標的か、理解したようだ。
そして、僕の方へと一直線に急降下した。
加速のためか、ノイズが一気に強まる。鼓膜が割れそうだった。吐き気が波のように押し寄せる。万力で頭を押さえつけられたような痛みがする。
ミリスが手を伸ばせば届くところに、居た。
その目にはきっと僕らが映っているだろうし、けれども、彼の心の中に僕と言うことばは入ってはいない。
ミリスの目に反射した僕の姿が自分でも良く見える。
僕は、そんな彼に向って、ボールを…………投げなかった。
一瞬後には、自分からボールへ突入してきたミリスが光に包まれてボールの中におさまっていた。
「だましうち」。必中の技なのだから、当たるところにボールを用意しておけばそれでいい。野球の苦手な僕とっては、なかなかの妙案だったと思う。
突然静かになった砂漠の上、元来体力の無い僕は、ミリスの入ったボールと右腕から流れ落ちる血を交互に眺めているうちに意識がもうろうとして、そのまま倒れた。
◇
目が覚めると個室にある白いベッドの上だった。服も着替えさせられていた。
横には炎姫が座っている。
『あの程度の出血で、倒れますか、普通』
狐が僕を非難した。けれども、その目はほんの少しだけうるんでいる。
無駄な優越感に浸っていると、ノックの音がしてモンスターボールを抱えた女医さんが入ってきた。
そして「大丈夫ですか?」と聞くので、当然のように大丈夫でないと答えた。いや、だって、血が出たし。
そんな僕に、彼女は笑いながらモンスターボールを手渡した。そして
「これは、もう、あなたのポケモンです」
と告げた。回復されたミリスが中でぐっすりと眠っている。
僕が捕獲した、初めてのポケモンだった。
「そう言えば」
と僕は突然切り出した。
「僕って何日くらい眠ってました?」
なんのことかわからないと言う顔で、女医さんは僕を見る。あいかわらず話が通じない。
「いや、漫画とかでよくあるじゃないですか。負傷した主人公が目覚めたら『えぇ!もう3日も寝ていたのか?!』とか言って驚くシーン」
狐がやれやれとかぶりを振る。
もしかして一週間以上眠っていたのかと危惧していると、女医さんは戸惑いながらこう告げた。
「何日っていうか……3時間くらい?」
親切にも賢い狐が補足してくれた。
『八分の一日です』
やはりというか、数学オタクはヒーローには不向きであるらしい。
◇
◇
面接が色々な意味で終わってからもう一カ月ほどが経った。
とりあえずミリスの定位置はぼくの頭の上となったらしく、色々と邪魔である。重いし。
最初のうちは僕の腕を切ったことを申し訳なく思っていたらしく余り懐いてくれ無かったのだけれども、慰めてやっているうちに心の傷も癒えたらしい。ことばが通じなくても、なんとかなるようだ。
とはいえ「アレ欲しい」とかって指さすと突然品物に向かって突っ込んで行ったり、エントリーシートをカオスな音波でぐちゃぐちゃにしてしまったりと色々困る点もある。それでも最近は慣れてきたような気がするから不思議だ。
で、結局就職先は決まっていない。
いっそのこと炎姫が僕に化けて面接会場に行ってもらえないかと頼んだところ、あっさりと断られた。
そうやっていろいろな会社や施設を点々としていた有る日、電話がかかってきた。
相手は語調から若くて(おそらく)きれいな女性であると推察された。一瞬後に「おそらく」という要素は無くなった。
「キセノンさんでいらっしゃいますね。先日の面接結果について御報告にあがりました」
あのときの面接官だ。
慌てて普段より1オクターブ高い声で返事をする。
「結果は、仮採用とさせていただきます」
一瞬の沈黙。
それからあわてて10回くらい怒涛のようにお礼を言った。
そんな僕を制して彼女は続ける
「本採用ではなく、特別枠における仮採用ということになりますが、規約通りまずは1年間の試験採用を経て、常任研究員になるという流れは変わりません」
ぼくは満面の笑みで顔も見えない相手に向かってうんうん頷く。
炎姫が白い目で僕を見る。
「資料の方は最寄りのポケモンセンターで受け取る形になります。まずはアルバイトということで外回りの仕事をこなして頂くことになります。遊びに行くなら早いうちに行かれたほうがいいですよ」
最後、ちょっと冗談めかしてそう言った後、彼女は告げる。
「今回は、私、氷室がキセノンさんの担当と言うことになります。よろしくお願い致します」
僕が5回くらい追加でお礼を言ったあと、電話が切れた。
「終わった……。就活が」
炎姫にそう告げる。
『じゃあ、どこか遊びに行かないといけませんね。担当官もそう言っていましたし』
そうだねぇ、と呟く。じゃあベタに遊園地でも行こうかなと思いついてみる。
色々あったけれど、悪い終わり方じゃない、とそう思った。
でも、ミリスは未だにブンブンうるさい。
意味がわかっているのかいないのか……。