ポケモンストーリーコンテストSP -鳥居の向こう-
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03 雨守神の嫁入り
クーウィ
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昔々のその昔。まだ人間達とポケモン達が隣人で、互いを敬い合って暮らしていた頃のお話だ。
神奥は真砂の海辺の村に、一人の若い男が住んでおった。
若者は漁の腕も狩りの腕も大層に良い男で、毎日舟で沖に出ては、重い船べりを水面に届くまでに沈め、或いは山に分け入っては、たっぷりの脂身を背負って里に戻り、日々何不自由無く暮らしておった。
ところがある年、突然この地方を、重い飢饉の神が通りかかった。
魚も獣も姿を消して一匹も取れず、山には木の実の影も全く絶えた。
若者の村でも大勢が蓄えを使い果たし、あちらの軒下では老人が力無く俯き、こちらの炉辺では子供達がひもじがって泣く。
炊事の煙もろくに上がらなくなって久しく、火の神を祭る言祝ぎも途絶えがちになった頃、若者は強い決意を胸に、弓矢を背負って狩りに出かけた。
村の仲間達は最早動くに動けず、頼りになるのは彼独りきり。だから若者はどうしても、空手では帰れないと心に決めておった。
目指したのは、この神奥の大地の真ん中に頂く聖なる山並み・天厳山。神々の座所にまで歩き寄せて願いを掛ければ、きっと獲物を授かることが出来ると思ったんだ。
まだ動けるとは言え、やはり食べていない身で険しい天厳山に分け入るのは、幾ら優れた狩人である若者でも、並大抵の苦労ではなかった。
しかし、とうとうその甲斐あって、山の奥にある美しい泉のほとりまで辿り着いた時。若者は遂に一匹の獣を、弓矢の射程に収める事が出来たんだ。
漸く得ることが叶いそうになったその獣とは、一匹の美しい雨守の神だった。
ところが若者は、幾度も弓を差し上げて射ようとするも、どうしても矢を放つことが出来なかった。
皆も知っての通り、雨守神は雲気を司る、水ノ神(みのかみ)の化身。普段から自分達里の者共を見守ってくれている尊い神様を撃つ事は、幾ら飢えた村のみなの為とは言え、若者にはどうしても出来なかったんだ。
それにその上その竜は、今まで見たことも無いほど、呆然と息を飲むほどに、美しかったんだ。雪の様に清い白妙の鱗は木漏れ日に生え、控えめにもきらりきらりと輝いており、それにただただ目を射られるのみの若者には、その美しい体を血で汚す事なぞ、到底かなうものではなかった。
しかしそれにもかかわらず、当の白い竜はじっとそんな狩人の方を見つめるばかりで、身を隠そうともしようとしない。その氷の結晶の様に澄んだ美しい瞳で、ただ真っ直ぐに若者の方を見つめているのだ。
遂に若者はそんな相手の様子に居た堪れなくなって、目の前の水ノ神に向けて、救いを求めるように嘆願したんだ。
「白妙の竜姫。里を見守ってくださる尊き雨守の神よ。今私は、大いに迷っております。私の村には、大勢の飢えた同胞達が、天を仰いで苦しんでおります。今この瞬間にも、彼らはただただ私の帰りを、それも恵みとなるべき山の幸を背負った私の帰りを、ひたすらに待ち焦がれているのです。しかしそれにもかかわらず、私にはあなたを撃つ事は、どうしても叶いません。どうか私に、取るべき道をお示しくださりませんでしょうか」
するとその白竜は、ぶるりと一つ体を小刻みに震わせると、次いで若者に背を向け、付いて来いとでもいう風に珠の輝く尾を打ち振って、泉の向こう側へと滑る様に進んで行く。
それを受けた若者の方も、慌ててざんぶと泉に飛び込み、澄んだ水を逞しい腕で強く掻き分けながら、急いで白竜の後を追いかけた。
泳ぎ着いた水際にて一度軽く振り返り、水を汚した無作法を泉の神に詫びた後、若者はもう既に姿も見えぬ白い姿を胸に抱きつつ、懸命に藪の中を進んでいく。
流石は腕良き狩人だけあって、どんどん深き山懐に沈み込んで行こうとも、かの竜が残した僅かな痕跡を、全く見落とさずに進んで行く程に、やがて如何なる事か急に茂みが切れて、目の前に美しい庭が広がったんだ。
そこにはたわわに実を付けた美しい果樹が、清らかな泉の周りに手入れも行き届いて並んでおり、更にその向こうには見事な屋形があって、周囲には美しい若者やたおやかなる娘達が、身なりの整った童達と共に、微笑ましげに遊んでいる。
突然の事に若者も、これはどうした事かと戸惑う内、屋形の中よりまた一人、周囲の者達より更に一層淑女の品が備わりし娘が出でて来て、此方に向けて近寄ってくる。
思わず自らも姿勢を正して迎える若者に向け、その娘はにっこりと微笑みかけて来ると、首に掛けた珠の首飾り(タマサイ)を揺らしもせずに、威儀を正して丁寧に一礼した。
そして続いて、まるで『付いて来るように』とでも言うかのように、静かに向きを変えて見せると、そのままゆっくりとした足取りで、元来た道を引き返し始める。
それを受けて若者も、今は心の内にざわめく不安や怖気をきっぱりと拭い捨て、娘の後に続いて、屋形に向けて歩き始めた。娘の態度やこの庭の気色から、どうやら自分の身に危険が及ぶ事もなさそうだったし、何より一人の男として、招きには堂々と応じるべきだと思ったんだ。
家の周囲に遊び働いている美しい身なりの者達も、若者が近付くとみなにこにこし、礼儀正しく挨拶する。それにも立派な客人として、重々しく恥ずかしくないよう振舞う内に、彼はとうとう門を潜って、屋形の中へと足を踏み入れた。
するとその中では、炉辺を囲んで三人の人々が、静かに座っている。
右の座には、座にあるだけで周囲を圧すが如き威厳のある男が、これもとても近寄り難き威を備える、妻と思しき女と共に並んでおり、その勢はまさに息苦しいばかりである。
流石の若者も一時は息をするのもままならず、胸苦しくなるままに向こう座の方へと目線を外したが、そこで思わず息を飲んだ。
視線をやった向こう座には、案内してくれた娘ですら霞む程の美しさを装いし女人が、雪のような白い肌に空の欠片が如き蒼い衣を纏って、静かに鎮座していたからだ。
娘の首には、天巌山の頂上に形作られし氷の玉を思わせるような、透き通った蒼い珠の首飾り。若者はその瞬間に、そこに座っているのが一体誰かを悟ったんだ。
次いで間を置かず若者は、ここまで連れて来てくれた娘に、横座に座るよう案内される。
そこで彼は一つ咳払いすると、居並ぶ人々にも何ら臆した風に取られぬよう胸を張り、控え目に座している娘の背後を堂々と通り抜けて、隣の位置に席を占めた。
すると暫くして、正面の座に座りし男が口を開くと、重々しくも丁寧な口調で、若者に向けて呼び掛ける。
見るだに神々しき威厳を備えし威丈夫は、こう言った事だ。
「父なる神の申し子。知恵を持ち、火を祀り道具を統べる兄弟よ。遠路よりよくぞ参った。私はこの屋形の主、水竜が眷属の長である。話の程は、立ち返りしこれなる妹より聞いた。早速今夜にも四方の神々に評定を呼び掛け、お前達人間の村の巡りが良くなるよう力を尽くそう。今宵はここでゆっくりと寛ぎ、休むが良い。我らもお前が我が妹の命を惜しみ、慈しんでくれた恩に報いらせて貰おう程に」
果たして目の前の相手は、水ノ神の化身、水竜が一族の長人であると言う。
しかし若者も、村を表する勇者だ。心の内に新たな支えと望みを繋げた今、臆することなどあろう筈も無い。
竜の眷属を率いる目の前の重い神に向けて、堂々と受け答えをした。
「海にまします神。嵐を切り裂き、船人を見守る重き神よ。お心遣いの程、深く感謝いたします。この御恩は、我ら村の一同、子々孫々に至るまで決して忘れはいたしません。が、然れども……不躾ながらも我が心の内に、新たにお願いしたき儀が、水線に立ち上る柱雲の如く兆して参ったのです。何卒それについても、どうかお聞き届け願えませんでしょうか?」
それを聞き終えると、目の前の長人の表情が、チラリと胡乱げなものに変わる。
しかしそれにも動じぬ若者は、自らの欲するところを包み隠さず、一気に言いやった。
「此度私は、あなた様の妹君、雨守神様の御招きを頂き、この屋形へと足を踏み入れることが叶いました。然れども、恥ずかしながら未だに一度たりとも矢を取りて、射外した事無きこの身が射を躊躇いたりしは、ただ相手が尊き神であったのみにはないのです。私はあなた様の妹御が余りに美しき故に、覚えず生まれて後手放したことすらない弓矢の業を、どうしても為す事が出来なかったのです。今はただ、この身に妹君を添わせて頂ける事を、伏して願い申し上げるばかりです」
若者が己の願いの程を目の前の相手に訴えるに及んで、今までずっと静かに俯いていただけの娘が、ハッと首を上げて若者を見る。
それと同時に、願いを聞いた当の主、正面に座する重たき神が、深くため息を吐いた。
「やはりその事か。実を言うと当の我が妹も、そなたが傍に縁りて出ずる日を迎え、行く月を見送りたき旨を、私に願ったばかりである」
思いもかけぬその言葉に、若者の方も信じられぬ気持ちで、娘の方を振り返る。……なれども正面の屋形の主は、そう易々とは若き両者の願いの程を、聞き届けようとはしなかったのさ。
「確かに古には、人と獣が互いに結ばれ、共に生を全うせし前例があった。……然れど今の世は、昔の如きにはあらず。今や我ら獣とそなた等人との距離は、共に同じ父を戴く兄弟の間柄であれ、離れ行く一方である。我等が離れ行くのが時勢の理であるならば、ここでそなた等の契りを認める事は、即ちその流れに逆行する行いである。それに適うだけの強き思いのほどを、そなた達が持っているのか。そして果たして、そなたが我が妹を娶るに相応しき威丈夫であるかどうか、これよりとくと見せて貰うぞ!」
そう言い終えるや目の前の男、屋形の主である重い神はつと立ち上がり、瞬く間にその姿を竜へと変えて、威厳に満ちた重々しい声でこう言い放った事だ。
「私はこれより、四方の神々へと談判(チャランケ)を申し入れる。ここへと帰り着くのは、明日の日が昇る頃合いとなろう。そなたは私が帰るまでに、この屋形の窓と言う窓、棚と言う棚、道具と言う道具全てに木幣を供え、またそこなる宝物棚に置かれている十の小刀の鞘に、彫文を刻んで見るが良い。それが成りし暁には、次なる試練を課そう」
そう言い置くと、衣を纏いて竜の姿に変わりし兄神は翼をはためかせ、浮いたと見るや瞬く間に神窓より飛び出でて、遥か彼方へと消えて行った。
私は船守神を見送ると、一緒に残された妹神と共に大急ぎで支度を整え、木幣作りに取り掛かった。
屋形は大きく、窓の数・棚の数はともかくも、舟守神の妻御前(つまごぜ)が運んで来てくれる道具の数は数え切れぬほどにあり、目の回るが如き忙しさだ。
しかし使っておる小刀は、私が日頃から折を見手入れしては使い込んでいる逸品で、使いでも切れ味も見事な物。
それに私自身、村で一番の彫刻の名手であった為、雨守神の姫君がどんどんと手渡してくれる美しい木の枝は、次々と見事な幣となって、屋形の中を飾り付ける。
目を瞑っていても正確に操れる手管は、亡くした父親が言い遺してくれた遺言を、よく守ってきた賜物だった。
『男と生まれて来たならば、男がすべき仕事で後れを取るな。使う道具は常に手入れをして、自在に出来るよう心得て置くものだ――』
そう言い置いてくれた父親と、柔らかく削りやすい部分を選んで材料を集めてきてくれた姫神のお陰で、私は無事夜明け前に、屋形の中を削りさしも鮮やかな木幣で埋め尽くし、十本の美しい宝刀に、見事な彫刻を刻み終えることが出来た。
すると、まるでそれを待っていたかのような勢いで夜が明けて、屋形の前に重い神の降り立つ、地響きの音が聞こえて来た。
入って来た舟守神、我が愛しき相手の兄神は、竜の姿で頭に正装の冠を戴いたまま、すっかり立派に飾り付けられた屋形の有様に胸を打たれた風に私の顔を見るや、夜通しの仕事の出来栄えを称えてくれた。
「御身は大した者である。人の身でこれほどまでの振る舞いは、まさに並の者にてはなし。今宵までに準備が整わぬようなら、我が身自らでなさねばならぬと思い込んでおった程に、最早是非も無い。これならばこのままで立派に、四方の神々をここに迎え入れることが出来るであろう」
それを聞いて私は、自分がまさにこの地に住まう神々を迎え入れる準備を担っていた事を知って、甚(いた)く驚いた。
そんな私の驚きに対し、舟守神はゆっくりと頷いて、次いで心強き言葉を与えてくれた後、こう続ける。
「心配せずとも、これこの様であらば何処(いずこ)の神々の目に止まろうとも、恥じ入ることは何一つ無かろう程に、安心するが良い。……では、次なる試練を課そう。御身の手の内の見事さは、良く知れた。我が妹の身を弓勢(ゆんぜい)の内に捉えらるるなら、狩人としての腕は更に見知るまでも無し。ならば今度は、その知恵の程を試させて貰う」
そう言われると兄神は、悠として宝物棚に歩み寄ると、そこから美しい貝の殻を合わせたものを取り上げて、私に手渡す。
「これなるは幾つかの『毒』を混ぜ合わせ、煮詰めて作ったものである。これより御身は明日の昼までに山懐に分け入って、この薬を綺麗に解せる薬湯を作り、ここに戻ってくるのだ。御身が作りし薬湯と、この貝が内にある毒とを共に我が妹に与え、無事恙無き有様なれば、最後の試練を課して使わす」
竜神より手渡された貝の中には、見るだに気味の悪い泥水を煮固めた様なものが、黒々と蟠っている。私はその試練の内容に もし自分が仕損じたらと思うと恐ろしくて息も途絶える心地がしたが、当の本人である妹神の方は自若として揺ぎ無く、全てを我が手腕に預けて、戸惑いの影すら見当たらない。
薄暮の空を思わせるその美しい瞳を見詰めていると、私の苦悩は忽ち朝霧の様に打ち払われ、これなる試練を必ず乗り越えて見せんものと、決意も新たに屋形の門を後にした。
屋形を辞した私は、すぐさまその足で山に分け入り、解毒の際に使われる、各種の木の実を捜し歩いた。
先ず基となるのは、命を削る様な猛毒にも卓効のある、桃色の木の実。甘く風味も良いそれは飢饉の折もあって中々見つからなかったが、この木が好む日当たりの良い山際を丹念に探して、何とか手に入れる事が出来た。
しかし勿論これだけでは、全ての毒を消す事は出来ない。知恵に於いては人に勝るとも劣らないと言われる竜神が、心を砕いて作ったものだ。一つの木の実の力だけでは、とてもではないが足りそうにない。
そこで私は沢に下りると、木の皮で作った器を取り出して谷川の水を掬い取り、そこに先程取れた桃色の実を一欠けと、件の毒水をほんの一滴、満たした水に混ぜ込んだ。次いでこの企てが何とか成功するよう天地の神々に祈りを捧げると、ゆっくりと覚悟を決めて指先を汁に浸してみる。すると間もなく、汁に浸け込んだ私の指は少しずつ感覚が無くなって来て、まるで血の気を抜かれた様に、曲げも伸ばしも出来なくなった。
さてこそはと思い至った私は、すぐに毒液の中から指を抜き出し、この新しく見つけた別種の毒を消す木の実を探して、下流に向けて歩き出す。やがて川の畔のやや小高くなった場所に小さな赤い実を付けた樹木を発見すると、私は迷う事無くその木に登り、沢山なっている小粒の果実を摘み取って、口の中へと放り込んだ。それは文字通り舌が焼け、耳が熱くなるほどの辛さであったが、代わりに指の痺れは綺麗に無くなり、元の通りに動くようになる。
甘い木の実と辛い木の実は仲が悪いので、このまま二つを合わせるだけでは、互いの力を潰してしまう。その為痺れを取る赤い木の実を手に入れた私は、この二つの木の実を喧嘩させぬよう、更にもう幾つかの木の実を探す事にした。
今度は再び山の奥へと分け入り、鬱蒼と生い茂る木々の間を抜けて、林の縁へと足を運ぶ。思った通り、そこには明るい日差しを目一杯に浴びた紫色の木の実が、硬く渋い菱形の木の実と共に、そこかしこに顔を出している。
渋い木の実は眠気覚ましに、紫の木の実は目眩に良く効く事を、私は母親から教えられていた。毒の調べ方も木の実の探し方も、全て亡き母の知恵である。
『山の恵みを受ける身ならば、木の実草の実の効用は、全て頭に入れて置くべき。一つで効を為すものもあれば二つで効を為すものもある。互いに喧嘩させて効き目を殺さぬよう、しっかりと気を配らねばならない――』
そう諭し置いてくれた母親と、飢饉の時にも拘らず懐深く、豊かな天厳山の恵みによって、私は滞りなく薬の材料を集め終え、木の実達を仲違いさせる事もなく練り上げて、味わい深い薬湯を作り上げる事が出来た。
薬湯と薄めた毒汁を口に含み、何事も起こらぬ事を確認すると、私は来た道を急ぎ返して、水竜が長の屋形へ戻った。
折しも屋形は大評定の真っ最中で、広き門の内は数え切れぬ程の神々の姿で埋め尽くされ、それぞれの意見に声を張り上げて、まるで天地が震えるが如き有り様である。
我が愛しき女(ひと)の兄、水竜の長たる舟守神も、立派な彫刻を施した冠(サパンペ)を頂き、見事な拵えの大太刀を突いて、威風地を払う堂々とした出で立ちで、居並ぶ神々と議論している。一亘り見回す内にも、帳の狗人の頭や切先の樹氷木の長など、神奧各地の重き神が一堂に会しており、その様はただただ畏れ多いばかりで、とてもではないが割って入れるものではない。
すると見かねた舟守神の妻御前が、鉢巻きを巻いた頭を高く持ち上げ、ぐいと引き結んだ顎を張って、美しくも威厳のある声で、神々に向け言葉を発した。
「この地に住まう神々、我が囲炉裏端に集い給うた尊き神よ。ただ今遠路より一人の客人が、我らが住居に立ち戻って参りました事を言上申し上げます。これなるは里人の勇者、火を祀り道具を統べる兄弟達の代表です」
神なる淑女の呼び掛けに、居並ぶ神々は一斉に此方を振り返り、重い神も軽い神も、皆それぞれに私を見詰める。舟守神も私に気付き、此方に向けてにこやかに微笑んで見せた後、すっくと立ち上がると、私が何故この屋形を訪れたかや、周りの見事な装いが誰の手によって為されたものなのかを、神々に向け雄弁に語って聞かせる。
それを聞いた四方の神々も口々に私を褒めそやし、最初は余り良い顔をしていなかった神も声色を改め私を称えてくれたので、私は何とか面目を保つと共に、仲立ちをしてくれた舟守神の妻御前に深く感謝した。
やがて称賛の言葉が一頻り過ぎ去ると、一座の神々の中から一際大きく、恰幅の良い翁が立ち上がる。沖の眷族の中でももっとも大きく、遥か南の海までも遍く旅する浮鯨の長老は、深みのある厳かな声音でこう述べた。
「陸の眷族、沖の眷族は元々同じ父親から生み出された兄弟である。今、陸の腹からである人が、此処に来て苦衷を訴えるのに何で手を拱いて見ていられようか。私はこれより直ぐに立ち帰り、我ら一族にお前達の村を訪ねるよう申し聞かせよう」
浮鯨の翁に続いて、野面の海鼬の頭目も精悍な面を綻ばせ、大きく一つ頷くと、良く通る声で言う。
「俺も人間の集落の年まわりが良くなるよう計らおう。海の魚(いお)、川の魚に言い聞かせ、お前達の網に恵みを齎せるよう尽力しよう」
更に次々と助力を申し出る者が相次ぐに及んで、私はすっかり安堵すると共に、里に帰ったら神々の恩を決して忘れないよう村の者に言い聞かせる事を約束した。
やがて評定の行く末も定まり、談判の内容は湖の精霊達によって神奧各地に伝えられる事が決定すると、舟守神はつと立ち上がり、家人に酒宴の用意をするよう告げてから、私の方に手招きした。部屋を出る竜神について行くと、彼は私に首尾を聞き、次いで私の差し出した薬の器を手に取ると、屋形の中から妹神を呼び出して、試して見るよう言い添える。
雨守神がいとも容易く承知して、恐れる風も無く毒杯を呷り、薬湯を口にするのを私は息詰まる思いで見守っていたが、神の乙女は何事もなかったように此方を見やり、にっこり微笑み頷いて、私の不安に応えてくれた。第二の試練も無事やり遂げた私に向け、兄神は毒薬の入った貝の器を手渡しながら、満足した表情でこう言った。
「これにて御身の知恵にも合点がいった。毒はその性質を知らねば消す事は出来ず、使いこなせねば命も危うい。なれども御身は、それを使いこなすに足る知恵者なり。これより後はこの毒を用いて獣を取り、また他の人々にも作り方・解毒の仕方を教えて、生活の役に立てるが良いぞ」
そうして重い神は、この毒の製法や効能、そしてそれを如何にして猟に使えば良いかを、こもごもに語って聞かせてくれる。私は一言半句をも聞き漏らすまいと耳を傾け、その全てを頭に刻み付けた。
語り終えた兄神は、次いで再び威厳に満ちた相貌に立ち返ると、遂に最後の関門に話を向けた。
「では、これよりいよいよ最後の試練を課そう。されば先ずはこれより出立致し、御身を試練の場へと送り込むべし」
すると盛装していた舟守神は冠と大太刀とはそのままに、再び衣を纏いて竜の姿に立ち替わると、畏れ憚る私をひょいと背に乗せ、逞しい翼を一振りするや宙に浮いて、そのまま流星の如く空を駆ける。軽々と天を衝くその勢いは恐ろしいばかりで、聳える天厳山は瞬く間に後ろへと流れゆき、冠の中心から突き出た角は風を切って、通った道筋に雲を曳いた。
竜神の細角は雲を散らしてヒュウヒュウと鳴り、私の着物の太帯はブウンブウンと鳴り騒ぐ。私は冷たい風に凍えながらも、何くそこの程度と勇者らしく目を見開き、面を伏せて堪え入るほどに、やがて竜神は速度を緩め、山吹色のその体は、何時の間にか地上を埋めて揺蕩っている、霧の中へと降下していった。無事地面に降り立った私は、深い霧の中先へ歩み行く足音を頼りに、舟守神の背中を懸命に追いかける。やがて何時の間にか、我々二人は深い洞窟の奥に分け入っており、そこで初めて足を止めた重い神は、私に向けて厳かに宣言する。
「ここは戻りの洞窟。あの世とこの世の境目にある、尊き神がおわす場所である。御身はこれより神々の宴が終わるまで、三日の内にこの洞窟を通り抜け、自力で外へと出て見せよ。見事この試練をやり遂げたなら、私は予ねて約した通り、御身と妹が一緒となるのを認めよう」
そう厳かに宣言すると、舟守神はふわりと浮き上がり、あっと言う間に視界の内から消え失せて、洞窟の闇の向こうへと去っていった。
独り取り残された私は、今こそ自分の力量が試される時だと奮い立ち、天地全ての神々の助力を願いつつ、洞窟の中を歩きだした。
今まで腕良き狩人として、浅い海、深い海、十の谷、二十の山を越えて来た私だ。例え奈落の底に程近い場所であろうとも、火影を頼りに必死に知恵を絞って歩いたならば、何とかなると思ったのだ。
ところがこの洞窟は、行けども行けども果ても無く、おまけに酷く視界が悪くて、何処を歩いているのかてんで分からない。今まで私はどんな闇の中でも方角を見失った事は無く、常に帰りの道を見通す事が出来たのだが、此処はどう目を凝らして見ても、どちらが出口か分からないのだ。
光の差さぬ闇の底ではどれだけ時間が経ったのか良くは分からなかったにせよ、それでも一日経ち二日経ちとどんどん日が過ぎている事は肌で感じられる。しかし二日目が暮れる頃になっても、私は依然暗がりの中を彷徨っており、最早ここ数日の疲れもあって、息も絶え絶えの有様であった。
やがて遂に力尽き、躓いた拍子に勢いよくぶっ倒れると、そのまま冷たい土に塗れて、全く立ち上がれなくなった。掲げた火種も燻り消えて、どうにもこうにも動けない。
最早これまでかと思った時、不意に何かの気配がして、辺りの空気が張り詰めた。同時に何処からか、何かに見られているような奇妙な感覚が溢れ出て来て、私の目玉を左右に振り動かす。見ると目の前に沈む影の中に何やら巨大なものが渦を巻いており、重々しい神の勢いが、ひしひしと私の全身を押し包んで来る。
まさかこんな事になるとは思いもよらなかったので、私は慌ててその場に起き上がり、どのような神が現れても礼を失する事の無い様坐り直して、私を見ている神が現れるのをひたすら待った。けれども何時まで経っても件の神は姿を見せず、やがてそれとは別の気配が、静かな息遣いと共に近付いて来た。
間を置かず闇の中から現れたのは、何と驚くべきか、我が愛しの君である、雨守神その人だった。夢かと思い茫然とする私に対し、白い竜の姿をした姫神は、立ち上がるよう呼び掛けて来る。
「あなた様がこの洞窟に入ったと聞いて居ても立ってもいられず、兄の目を盗んで迎えに参りました。既に日は傾いて、三日目の夜が近付いて来ています。最早一刻の猶予もありませぬ故、今すぐ此処を発ちましょう」
それを聞いて私は、目の前の乙女が私の身を気遣って、兄である重い神の意思に背いてまで助けに来てくれた事に、深く感謝した。しかし一方、このまま雨守神に助けられて外に出たのでは、兄神である舟守神との約束を果たす事が出来ないと考え、気持ちは有り難いけれども、それには及ばないので安心して欲しいと答えて、申し出を断る事にした。
ところがそれを聞いても、神なる乙女は首を縦に振らず、逆に私に対してこう言った事だ。
「此処この戻り洞窟は、あの世とこの世の境目の、尊き神の住まう場所。我々重き神でも早々入れる所ではなく、増してやあなた方人が入っても、決して三日で出られるものではありません。軽い神ならば力尽き斃れるまで歩き続ける事も珍しくない場所であるのに、我が兄はそれを知りながら、あなた様を此処へ連れて来たのです」
この言葉に私はまたしても驚くと共に、あれ程自分の事を褒め称えてくれていた舟守神がどうしてこのような仕打ちをしたのか、尊ばれていた重い神が何故私にこんな無理難題を吹っ掛けたのか、そんな疑問が冬の雪雲の様に膨れ上がった。
「私をあなた様のいるこの場所まで導いて下さったのは、神奧でも最も尊く、本当の重い神である、この洞窟の主です。あなた様を外に案内するのは、ただ私一人の思いではなく、あなた様を見込まれた、此処なる大神の御意思でもあるのです。ならばこそ、今はただ腰を上げて、私の後に続いて外においで下さい」
流石にそこまで言われると、私も無理に此処に留まる理由は無く、またそれほどまでに重く尊い神の意思に背く訳にもいかないので、意を決して立ち上がり、雨守神に道案内を頼み込んだ。先を行く白竜に遅れはすまいと疲れも眠気も退けて、見込まれた勇者らしく一歩一歩を踏み締めて歩く内、何時の間にやら岩壁が尽きて、狭霧に沈む夜の森へと抜け出していた。
私が無事に外の空気を吸い、あの時影の内から私を見守り、こうして外へと導いてくれた洞窟の主に向けて礼拝を繰り返すのを目の当たりにした雨守神は、一足先に屋形に戻ると言うが早いが瞬く間に頭部の羽根飾りを広げ、夜の空へと舞い上がる。やがて闇の底でも白く輝かんばかりに見えるその美しい姿が見えなくなると、まるでそれを追い掛ける様に夜が明けて、新しい日々の始まりを告げる最初の光が、朝霧煙る森の中へと差し込んで来た。
その荘厳さに私が胸を打たれていると、不意に強い風が巻き起こり、辺り一面で渦を巻いて、草木を揺らしてごうごうと音を立てる。思わず目を覆って暫くした後、風が弱まるのを待って見開いてみると、周囲の霧は綺麗さっぱり晴れ上がっており、鏡のように美しい湖が、私の前に広がっていた。湖を囲む丘には一面に花が咲き乱れ、湖面には白い雲が映って、得も言われぬような美しさである。
そして、その湖の真ん中――透き通った水面の直ぐ上に、数日前より私の力を試している相手、船人を見守り、嵐の海で苦しむ者に救いの手を差し伸べてくれる尊い神が、背中の翼を大きく広げ、澄んだ瞳で此方を見ていた。風を操り、辺りの霧を一遍に吹き散らせて見せた山吹色の竜神は、朝の空気を静かに震わせ、厳かな声音でこう言った事だ。
「父なる神の申し子。火を祀り道具を統べて、胆力知力共に並ぶ者無き若者よ。よくぞ我が試練を乗り越え、この地へと足を踏み入れた。そなたこそ真のつわもの、我が妹の夫(つま)となるに相応しき威丈夫である。約束の通り我が妹と契りを結び、共に相添いて出ずる日を迎え、行く月を見送る事を認めようぞ」
その言葉、目の前の重き神から発せられたその言葉は、私が心の底から、魂の奥底から欲していたその言葉に他ならない。……だが、私の体に流れている血、遠く祖先から受け継いで来たこの地に生きる者の誇り高き血が、この言葉をそのまま受け入れる事を、どうしても肯んじ得なかった。むつきの取れぬ幼き日々から、祖父母も村の長老達も、私に向けてただ一つの事柄を、必ず守る様に伝えて来たのだ。
『凡そ人は勿論、天地に遍く神々に、一言たりとも嘘を言ってはならない。この世のものには須らく魂が宿っている。獣や草木は勿論の事、石や道具に至るまで全てのものが見ているのだから、例えどんな事があろうとも、恥ずべき真似をしてはならない――』
相手は船人の守り神。海にて糧を求める者にとり、最も重い神である。例え一言半句たりとも偽りを口にしてはならぬと誓った者が、どうして数多の神の中でも殊更重く、尊い神を欺けようか? そこで私は、どんな報いを受けようとも天地に誓って恥じ入る事の無い様、朝風の中に浮遊している竜神に向け、自らの取った行動を、包み隠さず言上した。
しかし案に相違して、舟守神は全く怒る気配も無く、やがては満面の笑みを浮かべると、「よくぞ申した」と言葉を継いだ。「無論心得ている」と続けた我が愛しき人の兄神は、心から誇らしげに私を見下ろすと、次いで美しくも威厳に満ちた声で私に語り掛けて来る。
「御身も既に見知っておる通り、この洞窟の深奥より、人が自力で走り出る事は不可能である。此処はあの世とこの世の境目なれば、死せる魂が容易に抜け出て来れぬよう、強い力で抑え込まれている。しかしなればとて、このまま作法通りに打ち過ぎて御身を見捨てる事は、我が妹にはかなうまい。……もし万が一それがそのまま通るのならば、それは最初から共に暮らせるだけの覚悟が無かったと言う事だ」
竜神は大きく一つ頷くと、更に雄弁に言葉を紡ぐ。
「だが、それをひた隠しにして糊塗する様では、御身の器も高が知れていると言うもの。目先の事に囚われて正しい行いを打ち捨てるなら、それは最早勇者の振る舞いにては無し。私は敢えて素知らぬ振りをして、お前達二人を試していたのだ」
この舟守神の言葉に、私は今度こそこの目の前の神が如何なる考えを持って私に無理難題を課したものかを、しっかりと理解する事が出来た。と同時に、我と我が身が選んだ道に本当の正しさ、真の誇りを見出して、漸くこの長く厳しい試練を乗り越えたのだと、身の震える思いがした。
「そして今こそ、御身が真の勇者だと知れた。例え我等が間が離れ行く理だとしても、お前達なら間違い無く、それを乗り越えられるだろう。……さあ、我が背に跨り身を預けるが良い。今日から御身は我等が一族、同じ血に繋がる親族(うから)なれば、如何なる気兼ねも無用と致せ」
重き神の申し出は余りにも過分に過ぎたが、私も村を表する勇者だ。神々の評定も無事終わった事であるし、この上は一刻も早く村へと立ち返り、此度の首尾を伝え聞かせて、共に再建に励まねばならぬ。そこで私は恭しく礼拝し、目の前の神に身を預けると、来た時と同じく姿勢を屈め、今は敬うべき兄となった尊き神と共に、早朝の光眩い蒼空へと飛び立った。
舟守神に見送られ、無事添い遂げる事の叶った雨守神と共に村に帰った私は、その足で家々を回って人々を集め、天厳山で起こった出来事と、神々が年まわりが良くなるよう計るべく約してくれた事、そして舟守神をはじめ様々な神が伝え聞かせてくれた仕来たりや知恵を、村の皆に語って聞かせた。
そして折しも長い話が終わり、村の皆から称賛の声を送られていた時、浜手の方より百の遠雷が轟く様な音が、地響きと共に聞こえて来る。何事かと村人総出で駆け付けて見ると、そこには小山の様な浮鯨の大群が砂浜狭しと犇いており、御蔭で私達は、老いも若きも数カ月ぶりに、たっぷり食べる事が出来た。
あちらの軒下では老人が神の恵みを寿ぎ、こちらの炉辺では子供達が嬉しさの余り咽び泣く。必要な数だけ迎え入れ、残りの鯨達は心からの感謝の念と共に村人総出で海に向けて押し戻し、礼拝し手を振って別れたが、蓄えは十分過ぎる程に満たされて、最早飢えに苦しむ事も無くなった。魚も再び網にかかる様になり、山の木の実も少しずつ共に戻って来て、私達の村、真砂の村は、漸く平穏な暮らしを取り戻す事が出来た。
やがて噂は周囲の村々にも広まった為、あちらの村からも此方の里からも、人々が交易をするため訪れる様になって行く。私達は神々から授かった恵みを独り占めせず、出来る限りそうした人々に分け与えたので、そのお礼に送られて来る宝物は引きも切らず、皆豊かに物持ちになって、毎日楽しく暮らせるようになった。
私は尊き神を妻に迎え子宝にも恵まれて、村でも一番の長者になったが、あの時神々から受けた恩を忘れず、舟守神からの戒めも守って、常に身の周りを質素に保ち、慎ましく暮らしておる事だ。
雨守の神を妻に迎え、水ノ神の眷族となった勇者になり代わって、この私が語って聞かせました。
出典:『雨守神の嫁入り』神奧・真砂地域の昔話より
この物語はいわゆる『天人女房』、及び『天界への使者』と言った形式に属するものであり、本土に於いては『天女の羽衣』や『天馳せ使い』に相当するものであろう。前半部は語り部による三人称、後半部は主人公であるマサゴの若者の視点による一人称で描かれているのが特徴で、二人の語り部がそれぞれ役割を交代しながら語られる。またこのすぐ隣に位置するワカバ地区では、更に嫁入りなった後の雨守神(ハクリュー)視点の物語が伝わっており、三人の語り部が交代しながら謡い上げると言う、よりスケールの大きなものとなっている。
同じ様なタイプはシンオウ各地に伝わっており、妻として娶るポケモンについては地域によって様々(例えばキッサキではユキメノコ、カンナギではアブソル)であるが、何れも山奥等人里離れた神域が舞台である事や、登場するポケモン達が人と同じ姿で相対する点は共通している。これはシンオウ地方の先住民の間に於いて、ポケモンは本来人と同じ姿で生活しており、人界に姿を現す時にのみ獣の形を取る、という伝承が存在する為である。
若者は村に帰った後、毒の製法と木の実の効能の関係等様々な知識を伝えたとし、それらの起源は神々たるポケモン達にあるとされている。事実この地方に於いて狩猟等に矢毒が用いられるようになったのは、ノモセ東部やヨスガ周辺がそのはしりと目されているが、これらの地域に於いても毒の製法はグレッグルやロズレイドと言った、ポケモン達から伝授されたものとなっている。更にシンオウ固有の文化として有名な彫紋や木幣の制作も、元々はマニューラが仲間への情報伝達の為に岩や倒木に付けるサインがモデルになったと言う説があり、この辺からもこの地方の人々の生活とポケモン達の生態が、如何に密接に関わっていたのかを窺い知る事が出来よう。
またこうした物語は、人々の日々の娯楽であると同時に、子供達にどのような生き方をすべきかと言った、いわゆる人生訓としての役割も担っている。即ち物語中に於いて、『泉の水を無闇に汚してはならない』、『嘘は決して吐いてはならない』と言った日常的な訓戒が其処此処に散りばめられており、子供達は幼い時から、こうした昔語りを通じて社会に於ける道徳や生活の知恵に、自然と親しんでいくのである。
翻って学術的な視点から見てみると、やはり此処でも興味深い点が幾つも浮かび上がって来る。
例えば主人公である若者の妻となるハクリューであるが、本来シンオウ地方に於いて、ハクリューはそれほどメジャーなポケモンではない。ハクリュー・カイリューを含むミニリュウ系統のポケモンは生息域が極端に限られており、カントーやジョウトのフスベ周辺など一部地域の他、シンオウ地方ではテンガン山系の奥深くに若干の生息が確認されている程度である。
けれども一転、その進化系であるカイリューが信仰されている地域は非常に広範囲に亘り、我が国は勿論全世界の海浜・島嶼地域にその片鱗が垣間見られる。言うまでも無く、その理由は同種の難破船や漂流者を陸へと導くと言う独特の習性によるものであり、高い知能も相まって非常に神格化され易い向きがあると言える。実際シンオウ地方に於いても、マサゴやワカバの他にミオやナギサ等、ほぼ海沿いの地域全てで神性を認められており、一部ではマサゴやワカバの如く、ハクリューではなくカイリューが漁師である主人公の下に嫁ぐと言う伝承が存在する。一般的にハクリューは神秘的な生き物ではあっても、その習性の違いにより進化形であるカイリューに比べると神性を見出されるケースは少なく、特に海上を生活の場とする海辺の民に於いては、殊更その傾向が顕著である。
ならば何故マサゴやワカバに於いては、『舟守神』たるカイリューではなく、『雨守神』であるハクリューが嫁ぐ事になったのだろうか? これを紐解くには、このマサゴ一帯の海岸が、古来より主要な交易地であった事に焦点を当てる必要がある。古今何れの場合に於いても貿易港は文化の交差点であり、シンオウ各地の港町もその例外ではない。同じく著名な交易の場であり、北の海へと開かれた港町であるミオやナギサ、キッサキを通して入って来たのは、主に大陸産の織物や装飾品、そして紋様や彫刻と言った狩猟文化に寄ったものであった。
それに対し、本土との繋がりが中心のマサゴ・ワカバに伝わって来たのは、鉄器や漆器などの日用品、そして何より、穀物の生産を根幹とする農耕文化である。シンオウは我が国の最北端に位置しているだけあって稲作には向いていないものの、雑穀の栽培はそう難しくはない。実際これらの地域から伝播した雑穀類は、これまで狩猟採集のみで農耕が存在しなかったシンオウ地方に瞬く間に根を下ろし、順調に普及していった。
やがてそれに従い、本来信仰されていた神々――即ちポケモン達に加えて新たに重要視されて来たのが、こう言った農耕に際して重要な働きを及ぼす力を持ったポケモン達である。例えばハクリューは元々『カントコロカムイ(天空を領有する神)』と呼ばれ、比較的重い神(シンオウ先住民の間では、神の地位を表すのに重い・軽いと言った表現を取る)として認知されていたが、農耕文化が普及するに及んで、一挙にその存在感を強めている。ハクリューには天候を変える力がある事が知られているが、まさにこの能力は農作物の収穫を直接左右する重要なファクターであり、それがこのポケモンに、従来尊ばれていた他の神々を凌ぐ影響力を与えるに至ったのである。狩猟採集がメインの時代には、集落を見守る神と言えば昼はムクホーク、日没から翌朝に掛けてはヨルノズクと言った所が挙げられていたが、栽培活動が生活に根を下ろした結果、集落の守り神とは農作物の生長を保障してくれる存在、即ち天候を変えて雨を降らせる力のある、『雨守神』を指す事となったのだ。
一方その半面、依然として狩猟採集が中心の北部地域では、こう言った信仰対象の入れ替わりは起こる事が無かった。ミオやナギサと言った他の海浜地域に於いて、ハクリューではなくカイリューが花嫁とされるのはその為であると考えられる。また、物語の中で主人公の若者はテンガン山に於いて様々な知恵を授けられたが、これは同地がミニリュウ族の生息地であるのみならず、北部地域との陸路に於ける交易の中継地である事とも深いかかわりがある。即ち、矢毒は元々より東のヨスガやノモセからの伝播技術であり、彫紋や木幣の制作は北部のカンナギやキッサキから伝わったものである。ヨスガやノモセの物語では、伝授された矢毒はそれぞれ植物性、または動物性のもの一種に限られるが、マサゴやワカバに於いて舟守神から伝授されたものは、それら複数の毒物を調合したものである。この辺りからも、マサゴ地域に伝わって来た文化や技術の道筋が、こうした物語の中にしっかりと反映されている事が窺い知れると言えよう。
雨守神たるハクリューを里に迎え入れると言う事は、即ちこの地域が狩猟採集中心の生活から農耕も含めた多様な生活基盤を手に入れたと言う経緯そのものであり、そうして豊かになったからこそ、この地には『あちらの村からも此方の里からも、人々が交易をするため訪れる様になって』いったのである。こうした生活の変化は文化や行事の面でも影響を及ぼし、実際に村にハクリューを招いて農耕の手助けをしてもらい、その命が尽きた時にはその魂を神の国へと送る為の、盛大な祭りを開催すると言う習慣が現れた。これがいわゆる『魂送り(イオマンテ)』であり、現在も良く知られているシンオウ先住民の代表的な祭事の一つとなっている。
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