ポケモンストーリーコンテストSP -鳥居の向こう-

企画概要 / 募集要項 / サンプル作品小説部門 / 記事部門
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11 冬を探して 砂糖水(HP


PDFバージョン 紙に2ページ分ずつ印刷して折りたたむと本になります 




 一面に広がるは、白。
 少年は目の前の光景に言葉もなく立ち尽くす。かじかむ手足のことなど忘れ、ただ純白の雪に見入る。降り続く雪は止むことを知らないように次から次へと地上に舞い降りる。
 遠い遠い北の果て、一年中雪の止まない土地。キッサキシティ。
「これが……」
 少年が息を吐く度に白い靄が現れる。それに気づくこともなく少年は呟く。
「これが、雪……」
 思い出すのはくすんだ色で覆われ、どこもかしこもじゃりじゃりとした故郷。雪に似ていると教えられたものと、雪はあまりにも違っていた。踏み締める感触も、舞い降りる様子も。
 白の景色に似合わない浅黒い肌を持つ少年は、大きなくしゃみをすると我に返った。体が酷く冷えきっていた。彼にとっては生まれて初めて感じる強烈な寒さだった。手も足も、かじかむという言葉を越えて、痛い。感覚は麻痺しているのに、じんじんと鈍い痛みがあった。これでもかというほど、防寒対策をしてきたはずだった。けれど、それを嘲笑うかのように、寒さが彼の体を蝕む。
 空を仰ぐ。鉛色の雲が重く空を覆っていた。振り返れば港は忙しく働く人々ばかりで、彼のようなよそ者の姿は見えなかった。彼はナギサシティから来たフェリーを降りて、雪に意識を取られ足を止めたのだ。同じフェリーに乗っていた客たちはとうにバス停へ向かったようだった。
 町外れの港から中心街へは直通のバスが出ている。決して歩いて行けない距離ではない。だがここキッサキシティでは、どこもかしこも雪が積もり、歩くのは少々難儀だ。それゆえ、大抵の観光客は素直にバスを利用する。
 彼が最寄のバス停にたどり着いた時には、バスはとうに行ってしまっていた挙句、次のバスが来るまでかなりの時間が空いていた。そもそも本数自体が少ない。
 彼は少し考えた後、雪の積もる道を歩いて行く。フェリー乗り場でおとなしく次のバスを待つという手もあった。少々建物は古びてはいたが、暖房が効いていたし、バスを待つには十分である。けれど、そうはせずに歩くことにした。寒さを除けば、これも悪くないと彼は思う。歩いている間に雪を思う存分見れるだろうし、体も温まるだろうと。

 どこまでも続く道に、体はくたびれ目は白いばかりの光景にちかちかとしてきた。人が生活している気配を感じられるような場所に辿り着くまでに、彼はくたくたに疲れてしまった。距離自体はたいしたことないと彼は思う。けれど雪道というのは乾いた道と違い、歩くだけで酷く疲労した。
 はあとため息をつくと、白い息が目の前に現れる。歩いたおかげでたしかに体は温まったが、手足の先は冷え切ったままだったし、露出している顔も冷えすぎて痛い。息を吸うと冷たい空気が気管を通り熱を奪っていくし、何より鼻が痛かった。
 時折車が通り過ぎていくのを見て、やっと人の生活圏に入ったのだなと実感した。いくらか人通りがあるのか歩道には足跡がいくつも残っていた。決して、先程までと比べて歩きやすいということはない。むしろでこぼことして歩きにくくさえある。しかし立ち止まったところでポケモンセンターには近づかない。鈍痛を訴える足を引きずり、黙々と歩く。
 そんな時、ふと目に飛び込んできたのは薄紅色。まばたきをしてよくよく見れば、薄紅色のコートを纏った一人の少女が、ぽつねんとバス停に立っている。年はいくつだろうと彼は考えた。自分が旅立った年齢よりはいくつか上、そして今の自分よりも幾分年若いように思った。十二、三くらいだろうかと見当をつける。少女もまた、彼に気づいてこちらを見る。
 彼を見つめるその瞳は、船の上で見た深い海の青を思い出させた。生まれて初めて北の海を見た彼は、そのあまりの暗い色に驚いたものだった。それによく似ていると彼は思った。
 そして、雪のように白い肌に目がいく。この地特有のものだろうか。彼の故郷では見たこともないくらいの白さだ。
「何かご用ですか」
 少女が不審者を見るような目で見ていることに、声をかけられて気づく。つい、無躾にもまじまじと見てしまった。たじろぎながら彼はどうにか返答する。
「その、フェリーで来たんだけど、バスが行ってしまって。ポケモンセンターまで歩いていくところ」
 その答えに少女はああなるほどと呟く。
「ポケモンセンターの場所はわかりますか?」
「うーん、とりあえず市街地に出ればなんとかなるだろうとしか考えてなかったな……」
 少女は寸の間考え、
「じゃあ案内しましょうか」
 と申し出てくれた。彼が迷惑だろうからと断りかけるが、
「わたしもバスが来るまで時間かかるんです。ここでじっとしていても寒いだけだし」
 それならと彼は少女の申し出を受けた。

 少女はコハルと名乗った。
「春生まれだけどコハル」
 コハルは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。彼は一瞬、考え込むと、コハルに合わせるように名乗る。
「俺はリョースケ。暑い日生まれだけどリョースケ。名前くらいは涼しく、って」
「そんなに暑かったんですか」
「生粋のホウエン人がそう思うくらいには」
 二人で笑い合う。
 と、リョースケのズボンをくいくいと誰かが引っ張る。その時にようやく気がついたのだが、コハルの傍らにはあまり背の高くないポケモンが付き従っていた。コハルの陰に隠れて見えなかったようだ。
「この子はユキちゃんです」
 頭や顔と思われる部分は白いのだが、腹の辺りから下は茶色で、手先やしっぽなどは緑色である。この寒さにも関わらず、平気そうな顔をしているようだから、氷タイプだろうと予想はついた。だが、手先などを見ると草タイプのようにも見えた。まさか、本当に草タイプだろうかと尋ねると、草・氷タイプのポケモンだと答えが返ってきた。ユキカブリというポケモンらしい。ユキカブリだからユキちゃんというのだろう。少々安直すぎないかと思ったがそれはおくびにも出さない。
「へえええ、そんなポケモンがいるんだ!」
 素直に驚きを表すると、ユキカブリも興味津々といった様子でリョースケを見つめ返す。リョースケはユキカブリと視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「よろしくな」
 軽く手を出せば、リョースケの手と顔を交互に見、おずおずと手を握り返してきた。
「シンオウには変わったポケモンがいるんだなあ」
 リョースケはよっこらしょと立ち上がる。
「そうですか? わたしから見たらきっとホウエンのポケモンも変わっていると思う気がしますよ」
「それじゃあそれはお互い様ということで」
 その言葉を契機に二人と一匹は歩き出す。

「雪が見たくて」
 キッサキシティに来た理由を問われたリョースケはそう答えた。
「どうしても雪が見たくなったから、考えなしにホウエンからシンオウ行きの船に乗ったんだ。だけど、着いたナギサシティは全然雪がなくて。シンオウならどこでも一年中雪が降るものだと思っていたよ。でもそうじゃないんだね」
「ここくらいですよ」
 ふふふとコハルは笑う。二人が喋る度に、白い息が踊る。
「でもわたしも、ホウエンは一年中半袖で過ごせるイメージがあります」
「さすがに長袖着るくらいには寒くなるよ。でもこんなには寒くないし、雪もあんまり降らない」
「雪、降るんですか」
 コハルは目を見開く。予想通りの反応に、リョースケは笑いを噛み殺す。
「年に何回かはね。でも積もらないから、こんなにたくさんの雪を見たのは初めてだ」
 だから、船から降りて雪に夢中になっていてバスを逃したのだと言うと、子供みたいとコハルは笑う。
「まあね。でもイメージ通りに一年中雪の降るところがあるなんて驚いたよ」
「ああそれは冬の神様が……」
 しまった、とコハルが慌てた様子で口を押さえる。
「冬の神様?」
「なんでもないんです」
 コハルはぶんぶんと、首を横に振る。言いたくないことなのだろうと、リョースケは話題を変えることにした。
「そういえばコハルちゃんはどうしてあそこにいたの?」
 そう問えば、祖母の見舞いに行った帰りだという。具合はどうなのかと尋ねれば、年齢が年齢だけにあまりよくないとコハルは答えた。
「なんとかして、元気になってほしいんですけどね……」
 俯いてしまったコハルに、リョースケは内心焦る。話題の選択を間違ったと。どうにかしてまた別の話をするべきだと必死に考える。コハルのいやに白い肌を見て、これだとリョースケは言葉を紡ぐ。
「ね、ねえ。キッサキシティの人は、みんなコハルちゃんみたいに肌が白いの?」
 コハルは顔を上げて、ぱちくりとしてリョースケを見た。リョースケは日焼けして黒くなった肌に視線が突き刺さるような感覚がした。
「……そうですね、あんまり晴れないですから」
 そう言ってコハルは空を見上げる。どうやら話題を逸らせたとリョースケは安堵する。そうしてリョースケも空を見上げるが、コハルに会う前に見た空と変わらず、鉛色の雲が広がっていた。
「一年中、こうなの? 信じられないな。今時ならホウエンは毎日のように晴れているのに」
 そう言ってリョースケは、馬鹿みたいに明るい空と海を思い出す。明るい海はリョースケを慰めてくれることが多かったけれど、今度ばかりはそうもいかなかった。なんだってあんなに、悩みなんかないとでもいうような色をしているんだと思ったのを思い出した。むしろ、あの明るさが逆に憂鬱で仕方なかった。だからシンオウに来た時、暗い色をした海を見てほっとしたのだ。
「夏はそれなりに晴れますけど、それ以外はだいたいこうですね」
 コハルの声がして、リョースケは我に返った。明るい海も暗い海も遠ざかって、ただただ白い現実に立ち戻る。
「じゃあさすがに夏は雪も降らないんだ」
「いえ、天気が悪ければ夏でも降りますよ」
 信じられないといった目でリョースケはコハルを見た。ホウエンは下手をすれば雪が降らない年すらあるというのに。
「私達にとっては普通ですよ」
 コハルは平然と言い放つ。
 四月にもなれば、半袖でないと動いた時暑くてしょうがないのが、リョースケにとっての普通だ。場所が変われば普通と思っていることも変わる。
 そう伝えると今度はコハルが信じられないといった目をする。それを見たリョースケは苦笑した。
「だから、ナギサシティに着いた時、寒くて寒くて。一応冬服着てたんだけどなあ」
「どうりでずいぶん厚着をしている人だと思いました」
 リョースケの格好はたしかに、コハルと比較するとかなりの厚着だ。これでもかというほど重ね着をしているせいで着膨れしている。ズボンも一枚ではなく、上からもう一枚重ねているのだ。見るからにシンオウの人間ではないのがわかる。
 対するコハルはコートに厚手ズボン、ブーツと暖かそうな格好をしてはいるが、あまり重ね着をしているようには見えない。マフラーすらしていないのだ。
「お店に行ってホウエン出身だ、って言ったら考えられる限りの防寒装備してくれたんだよ。おかげで財布が軽くなった」
 などと軽口を叩く。とは言え、こうやって厚着をしていてもかなり寒いとリョースケは愚痴る。
 実際、寒さは確実にリョースケの体から熱を奪っていた。相変わらず、手足は冷え切って鈍痛を訴えている。呼吸する度に冷え切った空気が通るから、鼻は冷えすぎて尋常ではないくらい痛い。冷たいを通り越すと痛みになるのだなとリョースケは思い知る。
「ほんとに寒がりなんですね、リョースケさん。ここらへんの人は、真冬でもそんな格好しませんよ」
 まあそうだろうね、とリョースケは肩を竦める。反対に、とリョースケは言う。
「反対に暑さには強いよ。特に、俺みたいに屋外ばかりにいるような連中は」
 それにそういう連中はだいたい自分のように真っ黒に日焼けしているのだ、と続けた。肌の白い人間ばかりいるキッサキでは、さぞ肌の黒い自分は浮くだろうとリョースケは思った。
「日焼けですか……ここだと無縁の言葉です」
 その言葉に、リョースケは笑いをこらえる。
「あっちの人が聞いたら卒倒するかもしれないな。女の人は必死に日焼け止め塗って日焼けしないようにしているからさ」
「日焼け止めですか? 使ったことありませんね」
 その言葉にリョースケはとうとう噴き出した。

 そんな風に雑談を重ねるうち、ようやく目的のポケモンセンターにたどり着いた。やっとこの寒い地獄から解放される、とリョースケは心の底からほっとした。そしてふと、
「ねえコハルちゃん。ここまで案内してもらったお礼に、飲み物でもおごりたいんだけど、どう?」
 リョースケはそう切り出した。
「えっ、そんな。いいですよ、たいしたことないですから」
 遠慮するコハルにリョースケは苦笑して続ける。
「俺、全然シンオウのこともキッサキシティのことも調べないで来たからさ。ついでに教えてもらえたらなあって。だから、その講義代も込みで飲み物一杯は……やっぱり安いかな?」
 そういうことならとコハルは笑って了承した。

 リョースケはコハルの分も飲み物を買うと、すでに席についていたコハルの向かい側に座った。ポケモンセンターまでコハルと一緒について来たユキカブリは姿を消していた。
「ユキちゃんの分は本当にいらないの?」
「こういうところって、暖房を観光客の人に合わせてるんです。だから、ユキちゃんにはこの中、暑すぎて。いつもポケモンセンターの中ではボールに入ってもらうことにしているんです」
 言われてみれば、ポケモンセンター内はかなり暖房が効き、リョースケでさえも暖かいと感じるほどだ。中に入った瞬間、リョースケは生き返るような気分になったのを思い出す。
「なるほどね」
 コハルを見れば、コートだけでなくさらに上着を脱いでいる。キッサキに住んでいるコハルですらそうなのだ。氷タイプのユキカブリにとって、ここは快適な場所とは言い難い。
「それでさ」
 リョースケは本題に入ろうとする。
「はい、なんですか」
 にこりとコハルは応じた。
「冬の神様って、何?」
 コハルの笑みが凍る。
「なんかさっきちょっと言いかけてたから、気になっちゃって。キッサキシティでは有名な話なのかなー、って」
 違った? とリョースケが尋ねれば、コハルは首を振る。リョースケはその意味を取りかねる。話したくないということなのか、それとも有名ではないということなのか。
「言いたくないことだったら、ごめんね」
「いえ……」
 コハルはうつむいて、それきり何も言わない。リョースケは内心、失敗したどうしよう女の子を傷つけるとか最悪だ、と自己嫌悪する。
 やがて、おずおずとコハルが顔を上げる。北の海の青を宿した瞳が、まっすぐにリョースケを見つめる。
「大した話じゃないんです。でも、聞いてくれますか」
 リョースケはぶんぶんと首を縦に振り、精一杯了承の意志を伝える。
「キッサキシティに一年中雪が降るのは、冬の神様がいるからなんです。でももう、知っている人はあんまりいないんですけどね」
 そう前置きしてコハルはリョースケに伝承を教えてくれた。

 冬の神はその名の通り、訪れた土地を冬にする。北から南へ、各地を冬にするため飛び回る。ところが、冬が終わったとき冬の神には居場所がない。なぜなら、冬の神がいる限り、冬は終わらないからだ。
 困り果てた冬の神に、北の果てに住むキッサキの民が言った。
「この土地の民は皆、寒さにも雪にも慣れています。どうか我らの土地へおいでください」
 冬の神は居場所を与えた彼らに深く感謝し、キッサキの民にこう告げた。
「私はお前たちから大地の恵みを奪うだろう。しかし、代わりに冬がお前たちを守るだろう」
 それ以来、キッサキは雪の止まない土地になったという。

「へー、そんな話が」
 特段、変わった話でもなければ悪い話でもない。ならばなぜコハルは話すのを躊躇ったのだろうか。
「でも、なんでコハルちゃんはこの話をしたくなかったの?」
 コハルの瞳がその心を映してか、揺れる。
「みんな……忘れてしまったから」
「どうして?」
「他にもっと有名なものがあるんです。キッサキ神殿とかエイチ湖とか」
 キッサキ神殿には巨人が封印されているという。大陸を引っ張って移動させるほどの力を持った巨人。そしてまた、大昔には神々と戦ったという。
 エイチ湖にはシンオウ神話で心を司る三神の一柱、知識を与えるユクシーがいると言われているらしい。時折、体を抜け出した魂なのか、透明なユクシーの姿が目撃されるという。
 キッサキシティを訪れる観光客はこのどちらか、あるいは両方、でなければスキー場へ行くのがほとんどだそうだ。冬の神は、目に見えてわかりやすいシンボルがある訳でもその姿が度々目撃される訳でもない。だから今では地元の人間ですら話題に出さなくなってしまったらしい。老人ならば知っているかもしれないが、若い世代であればほとんど知らない、興味もない状態だという。そうなってしまえば、冬の神などと口に出しても笑われるか無関心に聞き流されるかだろう。
「悲しいね」
 コハルの話を聞いて一言、リョースケは言った。コハルは苦いものでも食べたかのように、顔を歪ませる。それでも、とコハルはふっと表情を戻して告げる。
「私、きっと冬の神様はいるって信じています」
 彼女の目はまっすぐで、言葉だけでなく心から信じているのだとわかった。
「理由を聞いてもいいかな。あ、疑っている訳じゃないよ」
 慌てて言い訳するように付け足す。リョースケの様子に、コハルはほんの少しだけ表情を和らげた。
「おばあちゃんが、見たって」
「冬の神様を?」
 こくり、とコハルが頷く。
「それはそれは美しい、氷の翼を持った鳥だったそうです。そして、まるで歌っているような美しい声が響き渡ったって」
 なるほどね、とリョースケは呟き、考えた。恐らくは入院しているという祖母のことだろう。きっとコハルはその祖母のことを慕っているのだ。
「その冬の神様ってどこにいるって言われているの? あと、コハルちゃんのおばあさんはどこで見たの?」
「北です。北の方は開発が進んでなくて、たくさん山があるんです」
 ホウエンの山といえばエントツ山であるが、ここは雪の降るキッサキシティである。リョースケはぼんやりと雪山を思い浮かべる。険しいのだろうか。
「山といっても、そんな高い山じゃないんです。小さい山がたくさんあって、あとは森が」
 小さい山ということは、例えば子供でも登れるくらいだろうか。しかしここは年中雪の降る土地だ。
「うーん、雪がなければそこまで難しくないだろうけど、ここ雪がすごいからね……」
 雪道を歩くだけでも乾いた道を歩く以上に疲労するのだ。小さいとは言え雪山を登るのは、どれだけ大変なことになるかは容易に想像できた。
「そうなんです。それに野生のポケモンもたくさんいるから危ないんです」
「まさか一人で行こうとか考えたりしてないよね?」
「まさか。ユキちゃんは戦えないし、行きませんよ。それに、行くならとっくに行ってますよ」
 それもそうかと話を打ち切った。

 翌日も時間があるというコハルに、キッサキシティ内の案内をしてもらう約束を取り付けた。
 連絡先の交換のためにポケナビを見せると、コハルは物珍しそうにしていた。シンオウにはないのかと尋ねると、ポケッチというものならあると答えが返ってきた。
 アプリをダウンロードすることで様々な機能を持たせることができるらしいが、ポケナビとは違い、電話などはできないそうだ。彼女はポケモントレーナーではないので、ポケッチではなく携帯電話を持っていた。
 アドレスを交換した後、ふと思いついて荷物から木箱を取り出した。故郷の土産物としてもよく知られる品を、今日と明日のお礼だと言って彼女に渡した。やはりと言うべきか遠慮されたが、自分はもう使わないのだと説明して、半ば押し付けるように渡す。彼女には申し訳ないが、彼にとっては一種の区切りをつけるためにも手放しておきたかったのだ。ポケモンセンター内では使わない方がいいと伝え、その日は別れた。

 翌日。約束した時間の十分ほど前に、リョースケのもとへコハルからメールが届いた。
『急用ができてしまって、今日は案内できそうにありません。ごめんなさい』
 たったそれだけ書かれていた。あんまりだとリョースケは思った。昨日直接断れなかったからこうやって断ったのだろうかとか、断るにしてもあまりにも稚拙な言い訳であるとか、そんなに嫌だったのだろうかとか。リョースケはポケモンセンターのソファで一人うなだれた。
 ポケモンセンターには人が多い。リョースケが顔を上げ、ぼんやりとしている間にも次々にポケモンを連れた人間が目の前を通り過ぎていく。
 ああそういえばここにはジムがあるのだと、コハルに聞いたことを思い出す。挑戦しないのかと尋ねられ、返答に詰まったことまで思い出した。挑戦できる訳がなかった。連れて来ているのは炎タイプのポケモン一匹だけだなんて、誰が言えよう。たしかにタイプ的には有利かもしれないが。曖昧に笑って挑戦はしないと言ったあの時、コハルは臆病者と思っただろうか。
「やめた」
 考えるのはやめにしよう。考えたところで、鬱々とするだけだ。じっとしているとまた泥沼の思考に囚われそうな気がして、リョースケは立ち上がった。行く当てなどなかったが、雪の中を歩くだけでも気分転換にはなるだろう。

 ポケモンセンターの自動ドアをくぐると、外は相変わらず極寒の地だった。寒い。せっかく温まったリョースケの体から一気に熱が奪い取られる。呼吸する度冷たい空気が体内に侵入して、体の中から冷えた。
 じっとしていては体が冷えるばかりだと、リョースケはとりあえず歩き出した。どこへ行こうかとぼんやり考える。昨日コハルに聞いたキッサキ神殿にでも行こうか、それともユクシーがいるという湖か、はたまた滑ったこともしないのにスキー場へ行こうか。どれもしっくり来なかった。そもそもリョースケは雪を見に来ただけであり、それ以外にやりたいことも行きたいところもなかった。
 当たり前のように降り続ける雪に、リョースケは幼い頃の記憶を重ねる。
 いつだって当たり前のように、灰が降り続いていた。どこもかしこも灰で覆われてくすんだ色をしていて、靴底はいつもじゃりじゃりとした感触がした。灰が侵入しないように注意しても、建物の中だろうがどうしたってじゃりじゃりとした感触からは逃げられなかった。手も足も、皮膚全体が、口の中でさえも灰の存在を感じ続けていた。
 それが当たり前だと思っていたけれど、故郷を出るとそんな感触とは無縁だった。じゃりじゃりしない地面、床。走り回っても灰は舞い上がらず、咳込むこともない。洗濯しても異物感の取れなかった衣服は、いつの間にかそんなものがあったことすら忘れ、当然のような顔をして滑らかさだけがそこにあった。
 けれど、人は信じないかもしれないが、リョースケは決して故郷が嫌いではなかった。灰から逃げることのできないそこはいつも異物感が付き纏ったが、それを当たり前のものとして育ったリョースケにとっては必ずしも嫌なものではなかったのだ。
 だが、リョースケは逃げてきた。

 ふと、今自分はどこにいるのだろうとリョースケは疑問に思う。つい考え込んでしまって、行き先についてはまるで考えないままただ歩いてしまった。自分はどこへ向かっている?
 案内板を見つけたので現在地を確かめると、どうやらポケモンセンターの北にいるようだった。
 なぜ北に向かっているのだろう。そういえば、コハルは今頃何をしているのだろうか。
 コハルの薄紅色のコートを思い浮かべた瞬間、急がなくてはと焦燥感に駆られる。なぜ。
 ありえない、そんな馬鹿なと思う。けれど、コハルが一人で北に向かったのではないかと、そんな考えが浮かんで消えない。昨日彼女が行かないと言ったのを聞いた。行くはずがない。なのに、足は止まらない。昨日渡したあれを使うなら、不可能ではないかもしれない、などと思いついてしまったら、もう足は止まらなかった。
 だが、杞憂かもしれない。だからリョースケは、コハルがいなかったらいなかったでいいのだ、と思うことにした。どうせ行く当てなどないのだから。だから、自分一人が勝手に慌てているだけなのだ。
 まさか、まさか、ね。そう思いながら道を急いだ。

 一面に広がるは、白。
 その中にぽつねんと浮かぶ薄紅色に目を奪われる。
 市街地にだけかろうじて作られた道。その北の端にコハルは一人で立っていた。正確には一人と一匹だ。けれど、リョースケの目に映るのはコハルの姿だけだ。
「どうして……」
 息を切らせリョースケは尋ねた。一応は整備された道であろうと、雪が降り積もってしまえば歩きづらいのは変わらなかった。平素とはあまりにも勝手の違う雪道を、それでもリョースケは可能な限り急いだのだ。
「リョースケさんなら来てくれると思ってた」
 コハルはリョースケの問いには答えず、微笑む。
「私の話をちゃんと聞いてくれたのはリョースケさんだけでしたよ。だから、リョースケさんとなら行ける気がするんです」
 コハルの真っ直ぐな目が、リョースケを射抜く。リョースケは棒立ちのまま動けない。
「俺は……」
 リョースケの顔が歪む。
 違うんだ、とリョースケは呟く。
「俺はそんな人間じゃないんだ」
 コハルの話を聞いたのは、彼女が思うような理由ではない。決してリョースケが優しいからでもコハルが真剣だったからでもない。
「逃げてきたんだ。何も考えたくなくて、ただの思いつきでここに来ただけで。君の話を聞いたのだって、一人だと考えたくないことを考えてしまうからなんだ」
 だから、コハルが思うような人間ではないのだと。そうしてリョースケは俯く。顔を上げられない。
「じゃあ、どうしてここに来てくれたんですか」
 コハルの声が降る。リョースケはそれに答えられない。
「いいんです。リョースケさんが来てくれなくても、一人で行くつもりだったから」
 その声は意外にも明るい。コハルにはリョースケを責めるつもりはないのだろう。けれど、リョースケにとっては責めてくれた方が何倍もよかった気がした。だが、実際に責められたら、やはりリョースケは同じように落ち込むのだろう。
「俺は……」
 リョースケは口ごもる。コハルを止める資格も、一緒に行く勇気も、リョースケは持ち合わていなかった。リョースケは結局何も言えずに、コハルがユキカブリと共に山へ向かうのを、ただ呆然と眺めていた。

 このままでいいのだろうか。現実から目を背けて、両親から、故郷から、結果から逃げて、挙句年下の少女からも逃げるのか。なぜ、自分はここへ、こんな街の外れまで来た? コハルを止めるため? 本当に?
 本当は、共に行くつもりだったのではないだろうか。いや、と彼は否定する。だとしても、自分には追いかける資格なんてないじゃないか。けれど、リョースケは思い出す。コハルの後ろ姿を。あんなにも小さな背中を、自分は放っておくのか? 戦う術を持たないと自ら告げた彼女のことを、見て見ぬふりをするのか?
 諦めるために、雪の降るこの土地に来たはずだった。けれどリョースケは、この地で出会った少女を見捨てることなどできなかった。諦めようとした彼の目には、諦めずにもがく彼女がひどく眩しくて、うらやましくて。おこがましいと言われるかもしれないけれど、彼女を手伝いたかった。だからリョースケはがむしゃらにコハルを追いかけた。
 真っ白な雪に点々と残された足跡を目印にリョースケは進んだ。進む先に澄んだ鈴の音が聞こえて、リョースケは進む方向が間違っていないと安堵しながらひたすら歩いた。必死に斜面を上り、点在する木々の間から薄紅色のコートが見えて、リョースケはコハルに呼びかける。
「コハルちゃん……!」
 名前を呼ばれたコハルが振り向いた。
「リョースケ、さん」
 またもや息を切らせて現れたリョースケに、コハルは信じられないものを見たように目を見開く。
「ねえ……コハルちゃん。俺も連れて行ってくれない?」
 白い息を吐き出しながら、リョースケは精一杯の笑顔を作ってコハルに向ける。
「なんで……」
 コハルは顔を歪める。泣きそうだ、とリョースケは思った。嫌がられたとは微塵も思わなかった。コハルはぎゅうと薄紅色のコートの端を掴む。黒い鈴がりりん、と鳴った。
「俺も冬の神様が見たいから、じゃ駄目?」
 とリョースケが尋ねれば、コハルは顔を背ける。
「勝手にしてください」
 とだけコハルは答えを返した。だから、勝手にすると言って、リョースケは笑った。そっぽを向いたコハルが、それでも受け入れてくれたのだとリョースケは知っていた。

「黒い鈴、役に立ったみたいでよかった」
「そうですね、おかげで今のところ野生のポケモンには会ってないですし」
 リョースケがコハルに渡したのは黒い鈴。ハジツゲタウンで火山灰を溶かして作られるガラス製品であり、土産物として販売されている。様々な色の鈴があり、黒い鈴の場合は鳴らすとポケモンが近寄りにくくなる効果がある。それ以外の色をした鈴の場合も、それぞれポケモンに対して影響を及ぼす。そのため単なる土産物としてだけでなく、ポケモントレーナーもよく購入している。同じ効果を持つビードロというものもあるが、現在は鈴の方が主流だ。
 リョースケもまた、例に漏れず持っていた。とは言え、ハジツゲ出身のトレーナーは大概持たされるものである。未熟なトレーナーには必要なものだと子を思う親は考えるのだ。
「でも、本当によかったんですか? 私なんかがもらって」
「うん。昨日も言ったけど、もう使わないんだ」
 初心者トレーナー必携の黒い鈴をリョースケはコハルに渡した。それはつまり、
「トレーナー、やめるから」
 深い青の瞳が、リョースケを見つめる。
「どうしてなのか聞いてもいいですか」
「いいよ。それに多分、誰かに聞いてほしかった気がするから」
 リョースケは語る。

 彼がポケモントレーナーとして旅に出たのは十才の時だ。リョースケがパートナーとして望んだのは、所謂初心者用のポケモンではなかった。
「小さい頃、テレビで見てからずっと、旅をするならあのポケモンって決めてたんだ。親には無理を言っちゃったなあ……」
 リョースケは遠くを見つめる。けれど見えるのはただただ白に塗り潰された光景。もしくは肌を顕わにした木々くらいだ。
「そうそう、サクラっていうんだ。あとでコハルちゃんも会ってくれるかな? まあ、野生のポケモンが飛び出してきたらすぐに会うことになるけど」
 コハルはもちろんと了承して、楽しみだと告げる。
 そうやって、意気揚々と旅立ったリョースケだった。しかしありふれた話だった。リョースケにはそこまでの才能はなかった。誰もが夢見るリーグチャンピオンになど手が届く訳もなく。それどころか、ジムバッジを集めるのさえままならなかった。
「本当に……よくある話なんだ。自分でも、わかってるんだ」
 リョースケは苦い苦い笑みを浮かべる。
「才能の差って本当に残酷だよ。どんなに自分では努力したつもりでも、才能のある人には敵わないんだ」
 己よりも後から旅立った者に抜かされ、年下の人間に負けて。それでも努力すればきっと。そう信じて、毎日毎日特訓に明け暮れた。そうして足掻いて足掻いて、旅立ってから五年が経ったある日。久しぶりに帰省したリョースケに、両親は告げたのだ。
「一年前に、ポケモントレーナーなんてやめて、学校へ行けって、言われた」

「リョースケ、そこに座りなさい」
 父親がそう言った時にはもう、リョースケはわかっていた。父親の真正面に座ったリョースケは、知らず知らず拳を強く握りしめていた。
「お前もわかっているだろう? このまま続けたところで、時間を無駄にするだけだ。今ならまだ間に合う。勉強して学校へ行きなさい」
 わかっていた。知っていた。わかっていたけれど、突き付けられる現在の衝撃が弱まることなどない。
「無試験とはいかないが、トレーナーをリタイアした子供達が行く学校があるんだ」
 リョースケはただ黙って父親の話すことを聞いていた。頭の中が真っ白で、言葉は出て来なかった。
 ポケモントレーナーを目指して挫折する子供達は数多くいる。それゆえ、救済制度が存在するのだ。中学に行かなかった子供達に中学レベル、下手をすれば小学校レベルから勉強を教えてくれる学校が作られた。本人次第ではあるが、小学校レベルからスタートして四、五年もあれば卒業できる。
 そういった父親の説明の大半はリョースケの頭に入らなかった。諦められなかった。諦めたくなかった。まだ自分にだって才能はあるのだと、信じたくて。

「リョースケさん?」
 不意に掛けられた声にリョースケははっとして、苦々しい思い出から我に返った。突然黙ってしまったリョースケを心配そうに見つめる青い瞳。リョースケはその目から逃れるように視線を落とす。足元には真っ白な雪が冷え冷えとあるだけだった。
 リョースケは日に焼けて浅黒くなった顔を歪め、話を続ける。
「そんなに急に、諦められなかった」
 だからリョースケは、両親に掛け合った。あと一年で残りあと五つのバッジを集めてみせる、と。
「正直、自分でも無謀だってわかってた。どんなに才能のある人でも不可能だってことくらい、わかってた。でも、頑張れば少しくらいは手が届くんじゃないかって、思ったんだ。たとえ八つ目までは無理でも、五つ目、六つ目まで手に入れたら認めてもらえるかもしれないって、思ったから。だから、死に物狂いで頑張って、四つ目は手に入れられたんだ。だから、いけるかもしれないって思った」
 けれど、当たり前だが現実は厳しい。
「でもさ、やっぱり無理だった」
 その後はどんなにトレーニングを重ねようが、決して届かなかった。次のジムではジムリーダーにすらたどり着けなかった。
「は、はは……わかってたんだ。自分に才能がないってことくらい。わかって、たんだ」
「リョースケさん……」
「で、時間切れ」
 あっさりと言い放ったリョースケの表情は言葉とは裏腹に、酷く複雑だった。
「今思うと、この一年はただ心の整理をするための時間だったんだと思う」
 トレーナーをやめる。言葉にすればたったそれだけのことを受け入れるのに随分時間がかかってしまった。リョースケは自嘲する。
「雪を見たら、諦めるつもりで来たんだ。まだ自由に動けるうちに、やりたいことやって、ちゃんと諦められるように」
 なのに、とリョースケは手袋をした手で顔を覆う。
「諦めたく、ないなあ……」
 コハルは何も言わない。雪が音もなく降り続ける。足を止めたのを不思議に思ったのか、ユキカブリがリョースケのズボンを引っ張る。リョースケはぽんぽんとユキカブリの頭を軽く撫で、ごめんごめんなんでもないよ、と謝る。
「コハルちゃんもごめんね、こんな話をしちゃって」
 リョースケは手をだらりと下ろし、無理矢理作った笑顔をコハルに向ける。
「もう、諦めるって決めたんだ。未練たらたらだけどね」
 そう言ってリョースケは話を打ち切った。そして、さあ行こうとリョースケはコハルを促す。二人と一匹は止めてしまっていた足を動かし始めた。

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「コハルちゃんはどうして冬の神様を探すの?」
 長い沈黙のあとリョースケは言った。先程喋りすぎてしまったのをごまかすように。
「おばあちゃんを元気づけたいんです」
 詳しく聞いてもいいかと、リョースケが尋ねるとコハルは頷いて言葉を続けた。
「おばあちゃんが元気ないというのは昨日話しましたよね? でも、冬の神様の話をするときだけは少し元気になるから。だから、実際に会ってその話をしたいんです」
 ただ話を聞くだけではなく、実際に会った者同士として話がしたいのだと。もう誰も信じてはいない冬の神だけれど、自分は信じているのだと、ただ機嫌を取るために信じたふりをしているのではないと、そう言いたくて。
「あわよくば、何か会えた証拠でも持ち帰れたらいいんですけどね。例えば羽とか。そしたら口先だけじゃないってわかってもらえるし、きっとおばあちゃん喜んでくれると思うんです」
 絶対にほしい訳ではないけれど、とコハルは呟く。会うだけでなく羽までほしいなんて言ったら、罰が当たりそうだと彼女は笑った。
「それに、私が会いたいんです。おばあちゃんのことがなくても、私は会いたい」
 足を止めたコハルをリョースケは見る。深い青がリョースケを見つめ返してきた。
「どうして?」
 さっきから聞いてばかりだとリョースケは思う。
「私、キッサキが好きです。みんな雪ばかりで嫌だ、出て行きたいって言うけど、私は好きなんです」
 コハルは笑う。コハルは笑っているはずなのに、酷く寂しそうに見えた。
「冬の神様は、キッサキを守ってくれているんです」
 リョースケは黙って続きを促した。
「キッサキは一年中雪に覆われています。だから外からの文化は中々入って来なかった。誰にも入って来れなかった」
 コハルは目を伏せる。
「キッサキは最後まで独立を保っていました。本州の人達は入って来れなかったから。でも、やっぱり人がやって来て。色んなものが踏みにじられた」
 ろくに学校に行っていなかったリョースケにはよくわからない話だった。けれど口を挟まない方がいいような気がして、リョースケは何も言わないことにした。
 つかの間、コハルは黙る。沈黙を埋めるように雪がちらつく。
「たくさんのものが失われました。多分、私も知らないたくさんのものが。言葉も、今とは違ったのに、みんな使えなくなっている」
 リョースケはやはり何を言ったらいいかわからなくて、ただ黙っているしかない。
「そうしてみんな、大切なことも大切なものも、忘れて、わからなくなって」
 コハルの言葉はまるで独り言のようで。リョースケの存在を忘れてしまったかのようだった。
「ああ私、悔しいのかもしれない。誰も彼も、忘れてしまって、私ばっかり必死で」
 知っていますか、とコハルはリョースケに問う。突然のことに戸惑うリョースケに構うことなくコハルは言葉を継いでいく。
「キッサキに一年中雪が降る理由を、みんなこう思っているんです。キッサキ神殿にいる巨人を封じ込めるためだって」
 リョースケは、昨日コハルに聞いた話を思い出す。観光地にもなっているというキッサキ神殿。巨人がどうの、という話はたしかに聞いた。
「たしかにそういう話もあるんです。今はキッサキ神殿にたくさん人が集まるし、観光でお金稼がないと、キッサキはやっていけないし。だから、そっちばっかり有名になるのは仕方ないんです。でも、私は」
「冬の神様の方がいい?」
 コハルの言葉を代わりに引き継ぐ。彼女は軽く頷き、肯定の意を示す。
「はい。私はそうだと思いたい」
 曖昧にコハルは笑う。
「私は、やっぱり冬の神様がいるって信じたいんです。おばあちゃんが教えてくれたことが、本当だって」
 しばらく押し黙ったコハルはぽつりと呟く。
「その声、歌うように美しく、凍てつく羽を持ち、その目閉ざされたのち、全てのものは頭(こうべ)を垂れる」
「それは?」
「冬の神様の伝承にある一節です。ふと思い出しちゃって」
 そうしてコハルは聞き逃してしまいそうなほど小さな声で呟いた。もう誰も覚えていないけど。

 一面に広がるは、白。
 空は飽きることがないようで、白い欠片が降り続いている。吐く息も白。太陽もないのにリョースケの目はちかちかした。
 どれだけ歩いたか、感覚も麻痺してわからなくなった頃。ぽっかりと開けたところに二人と一匹は出た。足は重く、持ち上げるのにも難儀するほど歩いたリョースケは、ほうと息をついた。
「どこにいるんだろうね」
 ぽつりとこぼす。まだ先なのか、どこまで行けばいいのだろうと先を見る。雪に覆われた山肌が少しだけ遠くに見えた。なぜだか広場のようになっているそこには、木があまり生えていなかった。
「……もう、戻りましょう」
 リョースケは傍らの少女を見遣る。本当にいいのと尋ねればコハルは首を縦に振った。
「わかってたんです……どうせ私には見つけられないって。私の前に、冬の神様は現れてくれないって」
 それはまるで、先程のリョースケのようだった。だから、という訳ではないが、リョースケは何故と尋ねた。
「きっともう、冬の神様は人間なんて嫌いなんです。忘れてしまった人間の前なんかに、現れてくれるはずなんてなかったんです」
 だから、もう戻りましょうとコハルは繰り返す。もう、いいんですと。
「コハルちゃんがいいなら。わかった、戻ろう」
 コハルがそう言うなら仕方ない。そうして踵を返したときだった。
「ユキちゃん?」
 それまで大人しくコハルに付き従っていたユキカブリが、怯えるように彼女にしがみついたのだった。コハルが足を止めたので、リョースケも歩みを止める。一体なんだと疑問に思った時だった。ぴん、と空気が張り詰める。
 高く澄んだ音が聞こえた。まるで美しい歌声のような。雪が降り積もっているせいか、音はあまり響かない。びゅう、と強く風が吹いて、はっとして二人は振り向いた。
 氷の鳥がいた。冴え冴えとした美しい羽に覆われた鳥は、リョースケ達をじっと見ていた。
 時が止まったかのように、誰も動かない、動けない。
「あ、あ……」
 コハルがわずかに声を発するが、言葉にならない。
 動いたのは氷の鳥だった。それを見たリョースケは、反射的にかじかんだ手を動かしていた。
「サクラ、かえんほうしゃ!」
 炎を纏ったポケモンが現れたと同時、リョースケは叫んだ。途端、冷気と熱気がぶつかり合い、蒸気と強風でリョースケは思わず目を閉じる。風がおさまり、前を見れば炎を纏った一角獣、ギャロップがいた。ギャロップは主人に視線をやるでもなく、氷の鳥を真っ直ぐに見ていた。
 対する氷の鳥は少しも慌てた様子もなく、ただ悠然とその場に留まっていた。
 これは神と言われるほどの力を持つことからくる余裕だろうかとリョースケは思った。しかしリョースケはこの考えを振り払う。今は考えているときではない。氷の鳥はどうやらこちらに敵意があるようだ、と判断する。不意打ちに近い形で何らかの技、おそらくは「ふぶき」を放ってきたのだ。コハルのユキカブリは当てにならない。戦えるのはギャロップだけだ。
「サクラ、もう一度だ!」
 いきなりボールから出されたにもかかわらず、ギャロップはなんら躊躇うことなく口内に炎を溜め、それを放出する。氷の鳥は、目を閉じて攻撃するような様子を見せない。リョースケはわずかに違和感を覚えつつ、それを振り払う。炎タイプと氷タイプなのだ、タイプはこちらが優勢。このまま押せばいい。
「もう一度、かえん……」
 リョースケが指示を繰り返そうとした時だった。氷の鳥が目を見開いたかと思うと、空気がぴしりと音を立てた。どう、とギャロップが雪の中に倒れ込む。
「な……」
 リョースケは呆気に取られる。何が起きたのかわからなかった。ギャロップの炎は消えていないところを見るに、まだ息はあるだろう。けれど、これ以上の戦いは無理なのは明らかだった。このままではまずいとリョースケは思いながら、ギャロップから目が離せない。
 せめてコハルだけでも逃がさなくてはと、横に立つ彼女を見る。コハルは真っ直ぐ氷の鳥を見ていた。何を思っているか、リョースケにはわからない。喜び? それとも恐怖? とにかく守らなくてはと、リョースケはコハルの前に立とうとした。
 けれど、それまでコハルにしがみついていたユキカブリが、何か声を発しながら前へ出た。説得でもしようとしているのだろうかとリョースケは思う。同時に無茶だ、とも。しかし意外にも氷の鳥はユキカブリの声に耳を傾けているようだった。ユキカブリはこの土地のポケモンだからだろうか。ギャロップのような異分子とは違うのか。
 今のうちに逃げた方がいいのか、ともリョースケは思ったが、下手に動いて氷の鳥を刺激するのは良くないのではと考えると動けなかった。コハルも動く気がないようなので余計に逃げるのは難しかった。
 と、甲高い声が真正面から聞こえた。歌うような美しい声、というのは本当だったなどとリョースケは思う。次の瞬間、前から雪混じりの強い風が吹いて、視界は白で覆いつくされた。そこでリョースケの意識は途絶えた。

「……さん、リョー……さん、リョースケさん」
 左頬にざらりと生暖かい感触を感じてリョースケは目覚めた。
「サクラ?」
 声に反応してか、ギャロップは舐めるのをやめ、鼻先をリョースケの顔にぐっと押し付ける。リョースケはその馬面を優しく撫でた。ふと右を向けばやけに肌の白い少女の顔が見えた。
「リョースケさん、大丈夫ですか」
「コハルちゃん……」
 ギャロップを軽く押しやり、リョースケは上半身を起こす。まだぼんやりとする頭を軽く振る。
「あー……ここは……」
 辺りを見回しても、どこもかしこも雪で真っ白でどこなのかわからない。どうやらコハルもわからないようだった。
「まあ無事だったからいいか。ポケナビあるし方角わかれば多分帰れるよ」
 コハルは見るからにほっとした様子だった。
 それにしても、とリョースケは言う。
「あー負けた負けた。完璧に負けた」
 せっかく起こした上体を、また雪の上に投げ出す。見上げても鈍色の雲があるだけの空。
 戸惑っている様子のコハルを置き去りにリョースケは言う。
「完膚なきまでに負けたなサクラ。ごめんな、俺弱くて」
 あーくそとリョースケは仰向けのままひとりごちる。
「やっぱり圧倒的だなー、敵わないや」
 清々しい顔をしてリョースケは笑う。
「これですっぱり諦められるよ」
 あの、とコハルが遠慮がちに声をかける。
「ん? ああごめん。何?」
「大丈夫、ですか」
「けがはないよ。頭を打ったわけでもない。ただ、そうだな、やっと現実を受け入れただけ」
 そう言って起き上がるリョースケだったが、首元に違和感を覚えてマフラーに手を突っ込む。
「これって……」
 出てきたのはまるで氷のように透き通った羽。コハルも驚いたのか目を見開いている。
 氷の鳥、否、冬の神が落とした羽。太陽でもあれば光に透かして見るのに、などとリョースケは考え、無造作にコハルへ差し出す。
「はい、コハルちゃん」
 目を白黒させ、コハルは差し出された羽を受け取る。
「いいんですか」
「何が?」
「だって……」
「いいんだよ、俺が持ってても仕方ないし。おばあちゃんに見せてあげなよ」
 そう言えば、コハルはやっと笑ってありがとうございますと礼を言う。
「リョースケさんのおかげで、冬の神様に会えました。本当に、ありがとうございました」
 深々と頭を下げるコハルに、リョースケは慌ててやめてほしいと告げる。
「お礼を言うのはこっちの方だよ。やっと、自分の弱さを認められた。ありがとう。これでようやく前に進める」
 さあ帰ろうとリョースケはコハルに手を差し出した。