タグ: | 【納涼短編2014】 【※すでに納涼の時期ではない】 【※もう冬です】 |
ユカリは辺りを見回し、考えた。
ここは一体どこなのだろうか、と。
その部屋は、床も壁も天井も、灰色のモルタルだった。広さは4畳半くらいだろうか。
生温かくてじめじめとした空気。広さは4畳半くらいだろうかとユカリは予測した。決して背が高い方とは言えないユカリでも、立ちあがったら頭をぶつけそうな低い天井。そこに1か所だけ、何とか拳が入りそうなくらいの大きさの穴があり、金網が取り付けられている。
体温が伝わってぬるくなった床から身体を起こすと、鈍い痛みが全身を走った。特に左腕がひどい。動かそうとすると涙が出るほど痛い。折れているかもしれない、とユカリは思った。頭もぐらぐらと揺らぎ、目の奥の辺りがずきずきと刺すように痛んだ。
何か役に立つものが入っていなかったかと、ユカリはリュックを探した。しかしいつも肌身離さず持っていたはずのリュックがない。ここに来る前に落としてしまったのだろうか、とユカリは考えた。
ふと、ユカリの頭に疑問が浮かんだ。
そもそも私、今まで何をしていたんだっけ?
どうしてここにいるんだっけ?
「おはよう」
突然、部屋の隅から声がした。ユカリが驚いてそちらに目を向けると、さっきまで何もなかったはずの場所に、知らない男性が寝ころんでいた。
ユカリは驚いて勢いよく起き上がり、またしゃがみ、そのまま床に寝ころんだ。折れた左腕を思い切り動かした上に勢いをつけすぎて頭を天井にぶつけ、ダブルの痛みをくらったユカリののどの奥からふぎゅう、と変な声が漏れ出した。
男は呆れたように笑いながら、けがしているのに無理やり動かない方がいいよ、と言った。
ユカリは改めて男の顔を見た。頭の中は未だにぼんやりとしていたが、やはりユカリは見覚えがなかった。
「あなたは誰?」
「誰だろうね」
「ここはどこ?」
「どこだろうね」
「私はどうしてここにいるの?」
「どうしてだろうね」
男は微笑みを浮かべたまま、ユカリの質問をそのまま返すだけだった。
「名前くらい教えてよ」
ユカリがそう言うと、男は少しだけ天井を見上げてから、ユカリの方を向いて言った。
「ハクヤ、だよ。君は?」
「私はユカリ。縁って書いてユカリ」
「ユカリさん、か。ユカリ。ゆかり。縁。うん、素敵な名前だね」
男、ハクヤはそう言ってからも、何度も小さな声で縁、ユカリ、と繰り返した。
「何度も呼ばないで、恥ずかしい」
「素敵じゃないか。縁。えん。えにし。ひととのかかわり、つながり、めぐりあわせ。今の僕と君も」
ハクヤはそう言って両手の指を絡ませ、にっこりと笑った。
気障ったらしい男、とユカリは思ったが、ふいに左腕がずきりと痛み、それ以上考えることを放棄した。
「左腕、痛む?」
「折れてるみたい」
「そうなんだ。動かない方がいいよ」
心配するなら少しくらい治療しようとか思ってくれてもいいのに、と思いながらユカリはハクヤをにらんだ。その気持ちを察したのか、ハクヤは困ったように笑った。
「ごめんね」
ハクヤはそれだけ言って、寝転がったまま動くことはなかった。
静寂の中で、自分の心音と呼吸音だけが頭に響く。全身の色々な箇所に突発的に襲ってくる鈍痛に顔をしかめながら、ユカリは全く身動きせず灰色の床に転がっていた。
「ユカリさんは、好きな人とかいるのかな」
ハクヤが声をかけてきた。ユカリは目だけ動かしてハクヤをちらりと見た。
「別に。ひとりで旅してると、そう言うのどうでもよくなるし」
「そうなんだ。ユカリはひとりで旅をしていたんだね」
「ひとりって言っても、ポケモンもいたけどね。……あなたは、どうなの?」
ユカリがそう尋ねると、ハクヤはとても穏やかに笑った。
「『彼女』はね、天才だったんだ。古今東西探しても、あれほどの才能を持ってる人は、そうそうないと思うよ」
ハクヤは天井を見上げ、ユカリに話しかけているのか、ひとりごとを呟いているのか、どちらともとれない調子で言葉を続けた。
「縁があったのかな。『彼女』と僕も。ひとり、ふたり、つながって、まとまって……たくさん、たくさん。そんなに長くない付き合いだったけど、僕もたくさんのひとと縁がつながったから……」
ぶつぶつと続く言葉はユカリの頭の中の睡魔を呼び覚まし、次第にユカリの耳に入らなくなっていった。
相対性理論、というものを説明する時にしばしば用いられる例えに、「楽しい時と辛い時で感じる時間の流れの速さは異なる」というものがある。楽しい時時間は速く流れ、辛い時は遅く流れるように感じるというものだ。
ユカリはそれを思い出し、ならば今自分の時間は止まってしまっているのだろうか、とずきずき痛む頭でぼんやり考えた。
時計も、太陽もないこの場所に来てどれだけの時間が経ったのか、全く想像もつかない。奇妙な同居人は時折取りとめもない話をしてくるが、その言葉はすぐに会話かひとりごとかわからない呟きに変わる。
最初のうちは話を聞こうと努力していたが、ユカリには流れているのかわからない時間が経過するたび、頭の中がぼんやりとしてきた。
全身に徐々に寒気が襲い、顔だけが燃えるように熱い。締め付けるように頭が痛み、左腕が時折鼓動に合わせて火箸を押しつけられたように痛んだ。
ぞくりとするほど冷たい手が、ユカリの額に触れた。いつの間にか、部屋の隅にいたハクヤがユカリのすぐ隣に来ていた。
「熱が出てきたみたいだね」
霧の向こうから聞こえるようなハクヤの声が、ユカリの耳に届いた。
額に触れる冷たい手はぼんやりとした頭には心地よいはずなのだが、なぜかとても不快に感じ、ユカリは重い右腕を何とか持ち上げ、ハクヤの手を振り払った。
ハクヤはしばらくユカリの顔を見つめ、静かな微笑みを浮かべて言った。
「ねえ、ユカリさん。僕たちが出会ったのも、縁があったからだと思うんだ。あなたが突然来たのは驚いたけど、それもひとつの縁だよね。足りなかったんだ。ひとつだけ。たったひとつだけ」
熱に浮かされた頭に、ハクヤの声がじっとりとしみてくる。
ハクヤはゆっくりと、ユカリの顔に顔を近づけてきた。
「ユカリさん。僕と一緒になろう。僕の最後の足りないひとつになってくれ」
半ば働きを放棄しつつあるユカリの目には、ハクヤの目がぼんやりと光って見えた。
「――駄目」
今にも唇と唇が触れそうなところで、ユカリがかすれた声を絞り出した。
ハクヤの動きがぴたりと止まった。ユカリはぜえぜえと喘ぎながら言った。
「ハクヤ、あなたは、好きな人、いるんでしょう。ずっと、『彼女』のこと、しゃべってたじゃない」
「『彼女』は」
「流されちゃ、駄目よ。あなたの、足りない、部分を、埋めるのは、私じゃない。わたしじゃ……ない……」
ユカリはそこまで言って、ごほごほとせき込んだ。
ハクヤはしばらく灰色の天井を仰ぐと、穏やかな微笑みを浮かべて呟いた。
「そうか、そうだよね。僕たちには『彼女』がいたよね。『彼女』がふさわしい。最後は、『彼女』が……」
ハクヤの呟きはユカリの思考の霧の中にかき消え、ユカリの意識は闇に沈んだ。
ユカリは山道を歩いていた。
小雨の降る日だ。足元はぬかるみ、湿った髪の毛がじっとりと顔にまとわりつく。
長年履き続けているスニーカーのすり減った底が、ぬかるみに捕らえられ、滑った。
右手に持っていた傘が宙を舞い、ユカリの身体は崖下へ滑り落ちた。
崖途中の岩肌に身体を強く打ち付け、呼吸が止まる。目の前は火花が散ったように真っ白になった。
ユカリは、無意識のうちにボールをひとつ手に取り、放り投げた、気がした。
「――大丈夫か! 君、しっかりしろ!」
うっすらと開いたユカリの目に、薄暗く狭い部屋と、紺色の服を着た男性の姿が映った。空気が粉っぽく、ユカリは小さくせきをした。
こっちは生きている女性だ、担架持ってこい、意識は、身元は、と複数人の騒ぐ声がユカリの耳に響く。
目の前の男性に名前を問われ、ユカリです、と答えると、ユカリの意識は再び途切れた。
三角巾で吊った左腕に気を払いながら、ユカリはタクシーを降りた。少しだけ待っていてくださいと言い、ユカリは少し離れた場所にある家の前へ向かった。
町の郊外にぽつんと建つ小さな家。周りには黄色と黒のテープが張り巡らされている。
ほんの数日前までここの地下にいたのに、ユカリにはすでに、随分遠い昔のように感じられた。
1週間前、ユカリは小雨の降る山道を歩いていた。そこで足を滑らせ転び、ユカリはうっかりと崖から落ちた。ぬかるんだ道、すり減った靴、そして傘をさしていてバランスをとれなかったのがユカリの落ち度であり、不幸だった。
パニックの中、とっさに放り投げたのはネイティの入ったボール。まだ育っていないネイティは、主人の危機に慌てて「テレポート」を放った。
ポケモンの技「テレポート」は使用すること自体に制限はないが、座標を違えるととんでもない場所に飛ぶことがあるので、到着座標は各町のポケモンセンターの前など厳しく定められており、他の場所へ飛ぶことは基本的に禁止されている。
しかしそれも、指示を出すトレーナーが健在であること、またポケモン自身がテレポート先を理解できるだけ鍛えられていることが前提である。
慌てて出した慣れない技は半ば暴発し、ユカリは荷物もポケモンも持たぬまま、身ひとつでどこかへ飛ばされてしまった。
そしてその場所こそが、今ユカリの前にある家の地下だった。
ユカリはこの家の地下に3日閉じ込められていた。その間、崖下に残されたユカリの荷物とポケモンたちが他の旅人に発見され、ユカリは行方不明者として捜索がされていた。
3日経ちユカリは発見され、近くの病院に搬送された。左腕の骨折と全身の打ち身、そして衰弱があったが、幸いにも命に別条はなく、3日ほどの入院の後、無事退院となった。
しかし、それらの経緯より、自分を発見した警察から入院中に聞いた話の方が、ユカリにとってはよっぽど衝撃的であった。
ユカリが見つかった日、警察に電話があった。
町はずれの家から、苦しそうな女性の声の通報だった。
『助けて、『彼ら』に殺される』
警察が駆けつけると、部屋の中には女性の死体が転がっていた。
顔に恐怖が貼りついていたが、死因は結局わからなかったという。
その時、床下から、たくさんの人の声が聞こえてきた。
警察がモルタルの床を壊し、ユカリはようやく発見された。
ユカリと同じ空間にあったものの影響もあり、すぐにその場所の捜査がなされ、騒ぎは更に大きくなることとなった。
あの家の地下の空間は、ユカリの寝ていたモルタルの下には、大量の人骨が埋められていた。
それら全てが、あの家に住んでいた女性の、『彼女』の手によるものだった。
『彼女』は人殺しの天才だった。
老若男女様々な人の命を奪っては、遺体を自分の家の地下に作った空間に埋めていた。
殺しては埋め、殺しては埋め、『彼女』の家の地下にはたくさんの死体が積もっていった。
その数、106。
最後のひとりは、ユカリがいたモルタルの部屋の隅で、白骨となっていた。その近くには、これまでの経緯と、『彼』の身元がわかるメモが遺されていた。
たくさんの人を埋め狭くなった空間にモルタルで蓋をし、家の床、地下の空間からしたら天井に小さな空気穴を空け、暗くて狭い空間が出来上がった。
『彼女』に最も愛された最後のひとりは、生きたままその狭い場所に閉じ込められた。
107人目の名はハクヤ。「白八」と書いて、ハクヤ。
黄色と黒のテープに阻まれた誰もいない小さな家を、ユカリはぼんやりと眺めた。
風がユカリの髪を揺らし、足元の落ち葉を巻きあげた。
ユカリは踵を返し、タクシーへ戻ることにした。
この場所に、今はもう、人と呼べるものは誰もいない。
生きている人も、もう生きてはいない人も。
風に紛れて、老若男女、たくさんの人の声がまとまったような、何かの鳴き声が聞こえてきた。
ユカリの視界の端で、紫と黄緑色のもやがとりついた小さな石が、何回か弾んでどこかへ消えたような気がした。
+++++
今年書こうと思ってたぶん何とか書き終え。
冬だけど! もう冬だけど!
その昔何かの企画か何かで書こうかなあと思っていた奴だったような気がする。
書きかけで放置しすぎててもう何も思い出せない。