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  [No.3760] この世にオカルトは存在しない 前 投稿者:GPS   投稿日:2015/06/04(Thu) 20:01:05   79clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

1.僕と吉岡

この世にオカルトは存在しない。


オカルトなど、単なる気の迷いに過ぎないのだ。
都市伝説も、学校の怪談も。そんなものは現実に存在しない、退屈しのぎのまやかしなのだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったもので、一見不可思議に思えることでも実際は何とも馬鹿らしい、誰か人間が面白半分に流した噂、ゴーストポケモンの悪戯、そうでなければくだらない勘違いであったというのがオチである。

全てのことには説明がつく。
「正体不明」なんて存在しない。
何者なのかわからない、不気味な出来事なんてこの世のどこにもあり得ない。


少なくとも、僕はそうやって生きてきた。





「あ、三木センじゃん」

「センセー、何そのプリント?今から職員会議?」

湿気の充満した廊下を歩く学生の、ぺたぺたという足音が雨音に混じる。窓の外には灰色の雲が広がっていて、もう3日は降り続いているであろう雨がグラウンドをひっきりなしに叩いていた。梅雨とは言えどもこれは降りすぎじゃないかと思うと同時に、毎年こんなものかと思う自分もいる。

「違う違う、これは明日の小テスト。お前らの、な」

「げええーっ」

声をかけてきた生徒に返事をすると、彼女たちは大袈裟な悲鳴を上げた。忘れてたんですけどー、明後日にしてよ先生ー、と口を尖らせられたけれども苦笑だけを返しておいた。赤地に白の水玉、水色のギンガムチェック。色鮮やかな2本の傘が、持ち主の不満を表すように揺らされる。
二言三言、言葉を交わしてテスト延期の交渉は無理だと諦めたらしい生徒たちは、しかしそれでも明るい笑顔で手を振った。じゃーねー先生、また明日。高い声はプリンやピッピを連想させたが、今は下手にそういうことを口にすると面倒なので心の中だけに留めておく。「雨で滑らないよう気をつけろよ」と告げてこちらも手を振ると、ダイジョブだってー、と2人の教え子はけらけらと笑っていた。
高校の世界史教師として働き始めてはや8年。タマムシ都市部にも程近いこの学校に赴任したのは3度目となる異動で、初めて門をくぐったのは今年の春である。
ここに来て2ヶ月余、その期間を長いと見るか短いと見るかは置いておくとしても、まあそれなりに慣れてきたとは思う。幸いトラブルも少ない学校で、特段何の問題も無くこの校舎の時は流れているようだ。生徒たちは程よく勉強熱心であり、ああやって駄々をこねるくらいには程よく不真面目で、しかし気さくに会話が出来るのは教師として嬉しくないわけも無く、割合恵まれた職場と言えよう。ありふれた疲労と多忙を除けば、気にすることなどほとんど無いはずだ。

「でさー、アキも知ってる? 女バスの更衣室のさぁー……」

「あ、知ってる知ってる! あれ、あれでしょ、奥から2番目の鏡に…………って、ヤツ!」

「そうそれそれ! それなんだけど、ユッコがね、この前ね、……」

僕とは逆方向を歩いていった、先程の生徒たちを振り返る。楽しそうに喋る彼女らの、この前夏服へと衣替えがなされたばかりだ、白いブラウスが2つ廊下を進む。服装チェック時以外は短くされたプリーツスカート、裾から伸びる素足、膝下を覆う紺の靴下。そして床を踏む毎に、きゅっ、と音を立てる白の上履き……の、あたりに纏わり付いている黒い影。
ゴース、ガス状ポケモン。学術的にそう分類されているポケモンは、2人の生徒の足元をふわふわと漂っては身体であるガスを揺らしている。彼女たちのポケモンか、とも思ったけれども校舎内でポケモンを出すことは禁止されているし、確かあの2人のポケモンはそれぞれキノガッサとケーシィだと聞いたことがあるから違うだろう。
その紫色の気体がスカートの裾に触れるよりも先に、ガスの中に浮かぶ一対の瞳を『視えてるぞ』の意を込めて睨みつけてやった。僕の視線に気がついたらしいゴースはその大きな目を数度ぱちぱちさせて、そして慌てて掻き消える。
困ったものだ、と内心で溜息をつきつつ顔を前に戻す。ゴーストポケモンはあのように、概して悪戯好きなものだ。風も吹かないのにスカートが捲れ上がる、そんな被害にしばしば女子生徒(と、うっかりその場に居合わせてしまった男)が遭っているのだが、それは姿を消したゴーストポケモンの仕業である。心霊現象だの何だのと騒ぐ子もいるがそんなことは無い、蓋を開ければその正体は、誰もが知っているポケモンなのだ。
だから、オカルトなんて信じられ無い。正体不明の噂はしっかり正体を持っていて、この目に映る存在は、全て何の不思議も持ち合わせていないのだから。

それは僕のように、視えるわけじゃなくたって同じはずなのだけれども。
ゴースがいたことも姿を消したことも知らない2人の少女の、「マジでー!?」「怖いよねー!!」という声だけが、遠く後ろから聞こえてきた。





「こんちは、三木センセ」
『歴史資料室』と案内札の設置された教室の引き戸を開けると、この二ヶ月で耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
タマムシシティに建てられたこの学校はそれなりの歴史があり、またそれなりの広さを持っていて、それ故地域住民たちにとってそれなりに便利な倉庫として長いこと扱われてきたらしい。学校という名目を上手いこと利用され、歴史的資料をしまっておく恰好の場所だったわけだ。日に焼けまくった紙から成る書物や作者不詳の絵巻物は勿論のこと、昔使われていた道具、モンスターボールの前身であるぼんぐりや、今では姿を消してしまった農具、宗教的儀式に用いられていたものなど様々な資料がこの学校にはある。
というと聞こえは良いのだが、公立の一学校に放り込まれている時点でその価値は推して知るべきであろう。博物館や美術館が欲しがらない、要するに言うほど特別な史料では無いということである。その癖『それなり』なのが厄介で、それなりの歴史がある分邪険に扱うことも出来ず、学校はこうして今でも史料を保管しているのだ。
そして僕に与えられた役割が、この資料を管理することである。やるべきことは資料室の掃除と整理、言葉にするだけなら簡単だけれどこれがなかなか面倒だ。僕と入れ違いで異動していった前任の担当者はここの管理をほぼ投げ出していたようで、しかし学校にいる年数はかなり長かったため後から赴任した校長や教頭も口を出しにくく、哀れ歴史資料室は無法地帯のまま放置されていた。そこにやってきたのが僕で、これ幸いとばかりに史料の整理と情報化を任されてしまったのである。
この役目があるため担任は持っていないものの、普段の授業の準備に加えて、予想以上に膨大であった資料室の片付はかなり大仕事になりそうだった。しかし、それだけならまだ良かったのだ。部活動顧問も男子バレーの副々顧問だからそっちの仕事はほとんど無いし、一応専用部屋をもらえたわけだし。良いとは決して言えなくとも、悪くも無かった、はずなのだ。
しかし。

「吉岡……何度言ったら勝手に入るのをやめるんだ」

「いいじゃないですか、ここ部室ですし。鍵だってちゃんと借りてきたんですよ? 職員室でフツーに借りれますって」

立ち並ぶ本棚や所狭しと置かれた資料に押し退けられるように、部屋の片隅に据えられたパイプ椅子の先客はそう言いながらへらりと笑う。手にした鍵がアピールするように揺らされて、チャリ、と乾いた金属音を立てた。

「先生何してたんです? 職員室にもいなかったし、もう四時半だし。今日は来ないのかと思っちゃいましたけど」

基本的に生徒だけの立ち入りは禁止されているはずの部屋に上がり込んでいたことへの罪悪感は欠片も見せず、何でもない風にそんなことを尋ねてくるこの男子生徒は吉岡という。白のワイシャツと紺のスラックスというありふれた制服姿の彼は、若干の不健康を心配してしまう程度には悪い血色以外にこれいといった身体的特徴も無く、見た感じはごくごく平均的な高校生と言えるだろう。それなりの歴史分の威厳はある史料に囲まれているとどうにも神秘的に見えなくもないが、同級生たちと一緒にいれば瞬く間に溶け込むに違いあるまい。
吉岡は三年生だが理系志望らしく、世界史の授業を履修していないため本来僕とは縁が無い生徒である。にも拘わらず、彼は僕が最も深く関わっている生徒と言っても過言では無いだろう。それは何故か。

「明日のテスト印刷してたんだよ。職員室のコピー機は壊れちゃったから、印刷室まで行ってたわけ」

「なるほどですね。じゃあ、先生が遅かったのも納得だ」

「お前さぁ、僕がいない時は中入らないで待ってろって言ったじゃん。吉岡がどういう風に鍵借りてんのか知らないけど、部室って言ったって、オカルト研究部は正式に部活として認められてないんだから」

オカルト研究部。そんなものを実際に、しかも大学ならともかく高校でやろうとする人間が実在していることを、僕は今年の春に初めて知った。要するに吉岡の存在によって知り得た事実である。
見た目はごく普通だし、神出鬼没な所を除けば性格的にもよくいる高校生である吉岡だが、しかし彼は同時に強いこだわりを持ち合わせてもいた。オカルト研究部の活動を絶対にするのだ、と言って譲らないのである。別にそれだけならば僕としても文句を言える立場でも無いしそもそも言う気も無く、どうぞやりたいことをやりなさいなどと大人らしいことさえ言えるのだけれども、現実は少々の問題を抱えている。
まず、オカルト研究部が実際に立ち上げられてはいないことだ。この学校では部活動または同好会を設立するには最低五人のメンバーが必要だが、見ての通り部員は吉岡しかいない。その癖彼は部員を勧誘する気も無いようで、こうしてただ一人でオカルト研究部を名乗っているわけだ。
もう一つ、こっちがより大きな問題なのだけれども、そのオカルト研究部の顧問が僕ということである。当たり前であるが、了承した覚えはない。四月に初めてこの部屋に足を踏み入れた日には既に吉岡がこの部屋にいて、「新しい先生でしょ? 顧問よろしくお願いします」とあっけからんとした笑顔と共に告げてきたのである。そんなことは聞いた覚えも無い俺は当然否定したし他の教師にも質問してみたのだが、吉岡はにこにこ笑いながら「いいじゃないですか、頼みますよ」と言うばかりで、教師陣の答えもどうにも要領を得ない、ふわふわしたものだった。吉岡曰く前任の担当教師は顧問を務めてくれたということだが、他の教師はこの部屋のことをその前任者に任せっきりだったためにここのことは全くわからないのであろう、というのが、僕が泣く泣く出した結論である。

「でも、俺が部活出来るのここしか無いですし。普通の教室は使っちゃダメだし、図書室は喋っちゃいけないし。多目的室とかは他の部活が使っちゃってるし。でもここならほら、おしゃべりも出来るし机と椅子もありますし! これ以上ピッタリな場所もありませんよ」

「そういう問題じゃなくて生徒立ち入りの……いや、そうは言ってもお前だって居心地悪くないか? 埃っぽいし散らかってるし狭いし、今は特に湿気すごいし。あとほら、電気取り替えなくて悪いの僕だけど、薄暗いし」

微妙に寿命が尽きかけてきているらしい、チカチカと点滅を繰り返している蛍光灯を視線で示しながら僕は言う。しかし吉岡はちっとも気にしていない風に、「いいんですよ」と口元をニッと緩ませた。

「俺、暗いとこ怖いタイプじゃありませんし、むしろ好きですから。狭いのならこれから広くしていけば大丈夫ですしね、今日もお手伝いしますよ、どこから片づけていきますか?」

本気なのか冗談なのかわからないことを言いながら、吉岡が椅子から立ち上がって散らかった部屋を見渡している。オカルト研究部の活動はどうした、と突っ込みたくなる気もするが、実際のところ、彼の奇妙な『部活動』の活動内容の八割は僕の手伝いと化しているのだ。申し訳無さもさることながら、手伝わせて良いのだろうかという気持ちもあって断るべきだと思っているのだけれども、少しも嫌がる素振りも見せない上に整理整頓スキルの高い彼の手は、僕にとってかなりありがたいものであることは否定出来ないまま現在に至る。
悪い子では無い。むしろ、一部以外ならば相当理想的な生徒と言えよう。来たばかりの学校で最初に懐いてくれた生徒であったこともあって、僕はどうにも彼を退けられないまま、暫定的とは言え『顧問』の名を享受してしまっていた。

「……じゃあ、あの棚の三段目からやっていこう。あそこには美術史に関する資料をしまいたいと思ってるんだけど、どこに散らばってるかわかったもんじゃないからまず空にするところから」

「了解でーす」

間延びした声で吉岡が言い、パイプ椅子を畳みながら棚に身体を向ける。僕も持っていたプリントをステンレスの机に置いて、今日の作業に取り掛かることにした。

「そうだ先生、先生に聞きたいことがあったんですよ」

空にした棚を雑巾で拭きとっていると、取り出した資料の埃をはたいていた吉岡がこちらを振り返った。狭いわけでは無いが置かれた物の多さによって圧迫感を覚える資料室に唯一ある、小さなガラス窓の外ではやはり雨が降り続いている。気休め程度の湿気防止に開けてあるドアの向こうから聞こえる掛け声は、渡り廊下で筋トレに励む野球部のものかサッカー部のものか、それとも陸上部のものだろうか。梅雨のせいで練習がちっとも出来ない、と嘆いていた体育教師の落胆する顔が脳裏に浮かぶ。

「女子バスケット部の部室の話! 奥から二番目の鏡を午後六時五十九分に覗いて、右手の人差し指と左手の中指を組みながら『もりのリングマ』を歌うと一年後の自分の姿が見えるっての、先生聞きました?」

ひっきりなしに聞こえる雨音に、興奮のあまり早口になっている吉岡の声が重なった。説明を半分ほど聞き流しながら彼に目を向けると、見るからに楽しそうな笑顔を浮かべて僕に熱弁をふるう姿が視界に入る。切れかけた蛍光灯で薄暗いこの部屋も重っ苦しい灰色の雨空も、この生徒くらいの明るさがあれば良いのだが、と不毛な考えが頭を過った。
オカルト研究部を名乗る吉岡だが、実際の彼はオカルト知識にひどく乏しい。僕もその分野に詳しいわけではないから人のことは言えないが、それにしても吉岡のオカルト知識は無いも同然だった。オカルト、というと恐らくUFOだとか地球外生命体だとか、未発見のポケモンがいるかいないかだとか、古代遺跡の謎だとかそういった類を想像するだろう。しかし吉岡はそれらを全く知らないようだし、また興味も無いようであった。ならば心霊写真やパワースポットの方面なのか、と思ってみてもそれも違うらしく、彼がそういう話を持ちかけてきたことは今まで一度も無い。

「あ、しかもコレ続きがあるんですよ、今みたいなやり方でやれば大丈夫なんですけど、コレ間違ったらヤバくて……特に指を逆、右手の中指と左手の人差し指でやっちゃうと、一年後の自分が鏡の中から出てきて今ここにいる自分をひきずりこんじゃうらしいんですよ! しかも! 『もりのリングマ』、これは絶対三番の歌詞じゃないといけないんです……もしも一番を歌ってしまうと……一年後じゃなくて、五十一年後が映ってしまうらしいんです!!」

じゃあ、吉岡は何故オカルト研究部をやりたがるのか。
その答えは今現在の彼の様子そのものにある。吉岡はオカルト知識こそ皆無だが、今この学校で噂になっている怪奇現象についてはいたく詳しかった。この学校にはそれ関係の噂が多いように思えたが、吉岡はその全てを網羅しているようにすら思えるほど噂話に詳しいのだ。
人好きのする性格でお喋りだから情報通なのかとも思ったのだが、それにしても噂話における彼の詳しさには舌を巻くレベルである。

「実はですね、一年生の女子が間違って一番を歌っちゃったらしいんです。そしたら……鏡にサイホーンが映ったんだって言うんですよ! これがどういうことだか先生わかりますか!? 一番を歌った場合に鏡に映るのは五十一年後の自分の姿……でも映ったのは中年の人間じゃなくってサイホーン……つまり、もう違うものに生まれ変わってるんです、つまりその子は五十一年以内に死んじゃうってことなんですよ!!」

「吉岡」

だが、いくら彼が噂話に詳しくても僕がそれに乗るとは限らない。一人で勝手に突っ走り目を輝かせている彼に向かって、僕は至極冷静な声で告げた。

「そんなことがあるわけないだろ、きっと誰かが言い出した他愛も無い作り話だ。大体一年後って……三年生ならまだ大学行って髪染めたりしてるかもしれないけど、一、二年生なんて言うほど変わらないだろうし。七時前だと更衣室なんて暗いだろうし、よく見えなくてそう勘違いしちゃうんじゃないか? サイホーンの件もそう、ドキドキしてたせいでそう思い込んじゃったんだと思うけど、ほら今ちょうどやってるじゃんカロスのサイホーンレースの試合生中継。それでも見てて頭に残ってたとかさ」

「えー、でもいますよ。超化粧濃くてヤッバイギャルが映ったっていう女子!」

「じゃあ偶然居合わせたゴーストポケモンの悪戯だろ。あいつらはそういう、肝試しとか面白半分で怖いもの見たがってるような気配が好きだから」

催眠術を使うゴーストポケモンんが幻覚でも見せてるんだ、そう結論付けると吉岡は面白くないという風に口を尖らせた。先生はいつもそーやってすぐ論破するからつまらない、これだから大人は嫌だ、いや大人だって普通もうちょっと話に乗ってくれると思いますよ。そんな文句が、窓ガラスを雨が叩く音と廊下に響く運動部の掛け声に溶ける。それでも僕はいつものように、彼の話を一蹴するのだ。

「オカルトなんて信じないからな。学校の怪談も、都市伝説も。あんなのは全部、一時のまやかしに過ぎないんだから」

「またそうやって! いいじゃないですか、こういうのは真偽がわからないからこそ楽しいんですから。それでもオカルト部の顧問ですか?」

「それはお前が勝手に言ってるだけだろ、あと真偽がわからないんじゃなくて、偽だって言ってるんだ、ちゃんと正体はいるから。ああいうのは」

「 視えるのに、ですか?」

「視えるから、だ。それに噂話なんて、どうせすぐに忘れるんだから。お前も、僕も。それにみんなもな」

「そりゃあ、それが噂話の性分ですから」

もはや毎回恒例である会話を交わしつつ、僕と吉岡は資料を片付ける。一挙一動取るたびに埃が舞うため一苦労だが、花粉とのダブルコンボに備えてマスクを二重装備しなくてはならなかった時期に比べたらまだマシだと思うべきかもしれない。そう考えるとこの湿気にも感謝しなくてはならないだろうか、しかしその分カビの問題も出てきた恐れがある。げんなりする気持ちを抑えつつ、真っ黒になった雑巾を床に落とした。
そういえばさっきの女子生徒が言っていたのはこの話か、と今更合点がいったがそのことは黙っておく。吉岡が話す時点でその噂は校内中に広まっているものなのだ。こればかりは確実なことで生徒のほとんどが知っているに違いないのだから、わざわざ僕が報告すべき事でもない。
あ、じゃあこの話は知ってます? 無尽蔵に湧く吉岡のオカルトトークをBGMに、僕たちは手を動かし続ける。晴れている日ならばそろそろヤミカラスが鳴き出す時間だが、やはり雨ともなると彼らも外には出てこないらしく、窓ガラスの向こうから聞こえるのは相変わらず大粒の雨の音だけだった。





お疲れ様です、と用務員さんに挨拶して校舎を出る。雲に覆われたままの日が落ちて、屋内での部活を終えた生徒たちが色とりどりの傘をさして帰っていって、折り畳み傘を使うから大丈夫だなどと言う手ぶらの吉岡を資料室から見送って、それでもまだ雨は降り止まない。月も星も見えない夜空は真っ暗で、明日の天気も変わらないことを暗示しているようだった。
安物のビニール傘を広げて校門に向かう。電車で数駅のところにあるアパートに待つ者は誰もいない、何を食べようが文句を言われることは無い。夕飯はどこで調達しようか、などと帰路にあるいくつかのコンビニを頭に思い浮かべていた時だった。
視界の端、体育館に隣接したプレハブ小屋の周りを薄黒い影がふわふわと、漂っているのがうっすらと見て取れた。

「ああ、やっぱりゴーストポケモンの仕業だ」

僕は、そう口にする。
運動部の部室がまとまったあの建物に、当然のことながら女子バスケット部のそれもある。つまりはあそこにいる影こそが先程の噂の正体であり、オカルトの否定材料であるに違いない。そうだ、そうに決まっている。すぐに忘れ去られてしまうオカルトには、歴とした正体があるものなのだ。

視えてるのに?
視えてるからだ。

さっき交わした、吉岡との会話が蘇る。
生まれつきそういうたいしつで、ゴーストポケモンや一部のエスパーポケモンはど、そういう類のものを見つけることに不自由した経験は無い。僕は、いつだって見てきたのだ。
だからこう考えている。オカルトなんて存在しない、と。
プレハブから視線を外し、校門を出ると野生のベトベターがドブに滑り込むのが見えた。雨に流されたか、それとも自分の意思なのか、不定形の身体からはその判別はつかず、ぼんやりしているうちに紫のヘドロは側溝の奥へと消えてしまう。
きっと、このベトベターよりもずっと呆気無く、あの噂話も消えていくであろう。少し強い風が吹いて、そんなことを考えた、僕の顔を雨粒が叩いて濡らしていった。


2.目まぐるしきは噂話

「あのさ、三木先生。聞きました?」

百均のバインダーに綴じられた、『身分制度における所有携帯獣格差』という紙束を机に積み上げる。溜まったホコリを払うためにページをめくると名状しがたい臭いと、湿気とカビとホコリが一斉に舞い上がって僕の目の奥は悲鳴をあげた。はがねタイプのポケモンを所有出来るのが武士と一部の有力平民だけであった時期が云々、と書かれた箇所にあるエアームドの絵は、得体の知れない緑のシミで変色している。
見なかったことにしつつバインダーの表面を拭う。気管に入り込んだホコリに咳き込んでから、並べられた土偶の汚れをハタキで掃除していた吉岡の方を振り返った。

「何を。聞いたって」

「アレですよ、消しゴム。消しゴムの話。ニドリーノとニドリーナを描いておくと、好きな人とラブラブになれるって話です」

またそれか。そう言葉にする代わりに、僕は鼻で短く息をする。資料室の片付けをしながら情報通吉岡の話を聞くという、いつも通りのオカルト研究部活動風景であるが、よくもまあ、こう、尽きることなく話題をもってこられるものだ。

「あ、先生はどうせ信じてないんでしょうけど。でもすごいんですよコレ、もう実際に学校で5件の成功を確認してますからね。1年が1組、2年と3年で2組ずつのカップルが」

「信じるも信じないも……そういうのは、その『おまじない』に浮かされてるだけだから。そういう場合は消しゴムなんかなくても上手くいくもんなんだ、単にきっかけなんだよ。それは。……大体なんでニドリーノとニドリーナなんだ? ニドランのオスメスじゃダメなのか、ニドキングとニドクインじゃ」

「んー? なんででしょうね、僕たちが高校生だからそういうことになってるんじゃないでしょうかね。先生もこの前言ってたじゃないですか、『人間の青年期にあたることが多い』って。第二進化は」

「そう言われれば、言ったかもしれないけど。その話なら」

整理していた資料に描かれている絵を見て、何故どの時代でも子どもはニドラン、若者がニドリーノとニドリーナ、大人になるとキングとクインを連れているのか、と吉岡に聞かれたのはいつだったか。記憶を遡ってみるもはっきりは思い出せない。湿気に苛立っていた憶えは無いから、梅雨に入るよりも前のことだったかもしれない。兎にも角にも確かにまあ、そんな話はしただろう。
それにしたって、噂の趨勢は本当に早いものである。この前盛り上がっていた、女子バスケット部更衣室の鏡がどうのというあの話はどうしたのだろうか。目の前で楽しそうに新しい噂話に興じている吉岡など、もはや完全に頭から抜け落としていそうな気がするけれども。51年未来の自分がポケモンでつまり1度死んでしまうだのなんだの、あんなに興奮していたというのに。

「ニドリーノとかニドリーナじゃないといけないのか、描くのは」

「そうなんじゃないですかね。うーん、今のとこ、別のポケモンだとどうなるみたいな話は聞いたことないですけど。あ、でもアレです。絵が下手だとニドリーノとかニドリーナに見えないからダメだって。ある程度ちゃんとしてよ」

「世知辛いおまじないだ……どんなリアリティなんだよ、それ」

「あ、あとですね。好きな子が自分と同じ性別だったらアレ描くんですアレ」

「時代だな。ニドリーノとニドリーノ、ニドリーナとニドリーナって感じで描けばいいのか?」

「いえ。そうじゃなくて。片方メタモンにするんです」

生々しいんだよ。今度は口に出してそう言った。
流石に1度は止んだものの梅雨はまだまだ明けないようだ、湿気の元凶たる雨は、今日も変わらず降り続いている。大真面目な顔で阿呆なことを言う吉岡へ向けた、僕の溜息を雨音たちが掻き消した。





翌朝、4ぶりに見た青空は必要以上に晴れ渡っていた。雲は欠片ほども無く、湿気の反動で太陽光の熱がこれ以上無いくらいに熱く感じられる。暑い。
学校に続く道、周囲を歩く生徒たちも暑い暑いと口々に文句を言っている。続く雨にもうんざりするが、これはこれできついものだ。

「せーんせっ、三木せんせっ」

「おはよーございまーす」

シャツの襟元に空気を送り込んでいると、後ろから声をかけられた。振り向いた先にいたのは1組の男女生徒、確か3年生で同じクラスの生徒たちだったはず。担当クラスの記憶を手繰り寄せつつ、「おー、おはよう」と言葉を返す。

「暑いものだな、朝からこれじゃ」

「やだなー、先生ったら。からかわないでくださいよ」

「やっぱ『おまじない』で付き合ったこと、バレまくってる感じっスかね?」

「え? あ、いや。暑いって熱いじゃなく……ん? もしかしてお前らって、あの、消しゴムの」

3年に2組、という吉岡の言葉を思い出しながら尋ねると、2人は少しばかり照れ臭そうに笑って頷いた。ああ本当にいたのか、消しゴム使って誕生したカップル。信じがたい事実に若干台詞を選びあぐねていると、女子生徒の方がはみかみながら口を開いた。

「おまじないやったのは私で、ホントに出来るのかなー、って思ってたんですけど。こんなんで上手くいくわけないじゃん、って。でも。でも、そしたら木崎の方から」

「いやー、アレなんです、俺はこの消しゴム流行る前から……でもまぁ、何も出来なかったんスけど……でも、そしたら部活のヤツに『張間、消しゴムにアレ描いてるって』『お前じゃねーの? 絶対木崎だわ』とか言われたんスよ。で、ダメ元で。そしたら」

「まさかホントに、『おまじない』効いちゃうなんて。すごいですよね」

男子生徒は照れ笑いを浮かべて頬を掻いているし、女子生徒はキラキラと目を輝かせている。いつぞやの吉岡を彷彿させるその目に、なんだやっぱりそんなことか、と呆れが内心に生まれた。
見るからに幸せそうな2人に言う。

「そんなのなぁ、お前らみたいなのは消しゴムなんかなくたって上手くいっただろうよ」

「やだー、もー、三木先生って時々めっちゃすごいこと言う」

「当たり前だ。そんなオカルトなんか、おまじないとか、あるわけない」

「あー、そういう。やっぱ先生は先生っスね」

「いつもそうだよね。でもそこが三木センだって言われてるけど……」

僕の一歩後ろを歩いているカップルは顔を見合わせ、一緒に笑い声をあげた。その様子に思う。やっぱりなぁ、と。
校門の上に見える電線に止まったポッポたちの鳴き声は雨の時には聞こえなかったもので、その実暑さを余計に増しているようにさえ感じられた。久々の朝練に励む野球部だが、この頃夏に向けて多くなってきたバタフリーたちに邪魔されている。今後はこういう日がどんどん増えるのか、と思いつつ校舎に向かう僕は、背後の2人に投げかけるような、その実独り言のような言葉を呟いた。

「ま、いいけど。それも青春ってことだな」

「もー、オジサンみたいなこと。先生まだ30なんでしょ、もー。青春とかダサいですよ」

「そうスかねぇ……俺はまだ、なんとなく……アレ、信じてるんスけど」

男子生徒の言葉に振り返る。ショルダーバッグのベルトを肩に掛け直した彼は、やけに真面目くさった顔を傾けた。

「だって、アレっスよ。どうしてアイツらが張間のこと知ってんのか、知ってたのか……聞いても全然わかんないとかなんとか。コレってなんか、やっぱなんかある気がしません?」

「そりゃ、アレだよ。お前をからかってんだろ」

「そうっスかね……」

「そうだって」

言い切った僕に、女子生徒が何度目かの「もー」と共に口を尖らせた。
2人と別れて校舎に入る。ようやっと日差しから開放されたかと思ったのは一瞬のことで、すぐさま質量のある湿気に襲われた僕のシャツに、汗が流れてシミを作っていた。



「あ、三木センじゃん」

「おっはよー、三木ちゃん!」

朝の定例職員会議を済ませ、ホームルーム担任で無い僕は向かうクラスが無いため資料室へと足を運ぶ。蒸し暑い上に窓から差し込む日光が熱さまで与えている廊下を歩いていると、騒いでいる生徒たちの中から声をかける一行がいた。
4、5人の男子生徒、荷物は教室に置いてきたのか何のかんのと口々に言いながら半分取っ組み合っている。授業を担当している子たちも混ざるその集団が身に纏う、夏服の白シャツが太陽光を反射してどうにも目に眩しかった。ふざけた口調で呼んできた男子生徒、オニスズメみたいに前髪が跳ね上がっている少年の肩を軽く小突く。

「なんだ、その三木ちゃんっていうのやめろって言ってんだろ。チャイム鳴るから教室戻れって」

「そんなことよりさー、三木ちゃん今日テストなんでしょ、マジ勘弁なんだけど。明日にしよーよ、明日」

「三木センさぁ、アレ教えてアレ! なんだっけホラ、何とかの飢饉と何とかの改革の順番、ほら色々あるヤツ!」

「とりあえずテスト受けて追試だな」

色々と突っ込みたい気持ちを抑えながらそれだけ伝えると、男子生徒達は揃って口を尖らせた。いいから最後のわるあがきでもしなさい授業までまだ時間あるんだから、などと言いながら廊下に広がる彼らを押し退ける。昨日の女子たちといい、何故こんなに嘆く羽目になるまで勉強をしようと思わないのか。学生時代の自分も彼ら同然であったから人のことをとやかく言える身では無いけれども。

「おはようござい、ねぇ、三木先生。昨日のこと、もう噂になってるよ」

こいつらに教えてもらった、先生気にしてたこと。聞き慣れたその声に、足と過去の後悔を打ち止める。「吉岡」と、どうやら男子生徒の群れにいたらしい彼に、僕がその先を言うよりも前に吉岡の周りの教え子たちが騒ぎ出した。

「えー何!? ナニソレ聞いてないよよっぴー! あのことってアレでしょ、消しゴムの続編! マジで、マジで言ってんのかよよっぴー、三木センが気にしてたとかマジヤバじゃん!?」

「マ、ジ、で!? あの、何聞かされてもあり得ないで片付ける三木せんせーがあんなくだらねぇ噂気にしてたとかマジかよ! 何? 明日雨なの!? まぁ梅雨だけどさぁ!!」

「ばっかオメー、雨どころじゃねぇわミュウツーが降ってもおかしくねーっての、いやむしろ雨は雨でもはじまりのうみって奴だな! だって三木ちゃんだぞ、オバケもヨーカイもホラーも全部『そんなものは存在しない』『もしそう思うのなら、それはゴーストポケモンの仕業だな』で済ます三木ちゃんだぞ!? その三木ちゃんが消しゴムのおまじないなんてさぁ」

「あー、……うるさいぞお前ら! いくら授業前だからってもうちょっと静かにしろっての、あと西田、それはもしかしなくても僕のモノマネのつもりじゃないだろうな」

「そうですけど?」と当然のような顔で言ってきた生徒の一人に、僕は思わず脱力する。こんなことでここまで騒ぎ立てる生徒たちも生徒たちだけれど、余計なことを言ってくれた吉岡にも気が抜けた。本人は至って悪気が無さそうな様子で「それで、それでですね先生、」などと少しでも早く噂のことを話したいといった調子であるのがまた呆れものだ。
力が抜けすぎて怒る気も起きない僕の首に、男子生徒が馴れ馴れしくも腕を回してくる。ただでさえ暑い上に蒸しているのだからやめていただきたいものだ、それに子どもの体温はどうしてこうも高いのだろう。
これだけうるさくしていたというのに、廊下にいる他の生徒たちはこれといって気にしていないらしく各々普通に喋っている。高校生とはこんなものなのだろうか、回された腕の熱に浮かされ始めた頭でぼんやりと考えていると、開けたガラス窓からコンパンが覗いていた。前いた学校ではモルフォンの鱗粉が部活中の生徒に被害を及ぼしたせいで、教師総出でむしよけスプレーを撒いたものである。
ここは果たしてどうであろうか。どちらかというと鱗粉よりも、彼らの反撃たるかぜおこしによって目に入ったスプレーの方が辛かったけれど。いらぬ思い出に浸る僕を他所に、「まーいいじゃん、いいじゃん」と腕を回している生徒がニヤニヤと笑う。

「三木センもさー、実は気になっちゃったりするんだって。ホントはオバケとか好きなんじゃねぇの? 吉岡とよく話してるし」

「井村、それ言えてる! やだな〜三木ちゃん、いじっぱりなんてさ、だから結婚出来ないんだって。あっでも攻撃高めなの三木ちゃんにピッタリ」

「だからうるさいんだよ、お前たちはいちいちいちいち」


一言も二言も多い彼らに睨みを効かせると、教え子たちはケラケラと笑ってみせた。原曲たる吉岡までもが一緒になって笑っているのが頭にくるところだが、これ以上怒ったところで暖簾に腕押しマグマッグに釘であろう。それで、と吉岡の話を促してやる。

「結局何なんだ。その、昨日の話の続きっていうのはさ」

「あ、はい……ニドリーノと二ドリーナじゃないとどうなるか、ってヤツなんですけども。全く関係ないポケモンだと何の効果も無いらしくて、相手が自分よりも年下だったらニドラン、年上だったらキングとクインを描けばいいらしいですよ。で、両方をキングとクインにしたら、今は何も起きないけど将来、大人になったら恋が叶うみたいです」

「ふぅん。なるほど、ね」

「ここからが本番です。問題はニドランのオスとメスのセットを描いた場合はどうなるか……その時は……そうしてしまったら…………」

吉岡が変に溜めを作る。本人は神妙な雰囲気を演出してるつもりだろうけども、朝っぱらの明るい廊下ではあいにく珍妙でしかない。それでも高校生とは単純なものらしく、彼を囲む男子生徒たちはその様子に呑まれたかのように生唾など飲んでいる。
「ニドランだと、ニドランだとですね……」吉岡は尚も溜めている。いいからさっさと言えよと口に出したいのを必死に堪える僕の首に回る腕の力が込められ、息苦しいと暑苦しいので二重にやってられなさを感じた。

「両方をニドランに、第一進化とニドランにしてしまうと……なんと!!」

「…………なんと?」

「なんと…………アレです。ニドランっていう進化してないポケモン描いたから、それ以上育たなくなっちゃうんです、男も、女も。『然るべきとこ』が」

言い切った吉岡に、僕も含めたその場全体の時が止まる。この空気を、この雰囲気をどうすれば良いのかわからない。今の子どもというのはこれが面白いとでも言うのだろうか、だとしたら僕は知らない間に随分と歳をとってしまったようである。それか、ジェネレーションギャップとやらだろうか。
え、と言葉にならない感情が短い声となって喉から上がってきた。

「………………それだけ?」

「え、はい」

「…………………………それだけ、か?」

「はい。ですけど。これだけです」

何でもない風に頷いた吉岡に、僕の口から「くっだらねー」という呟きが漏れて消えていく。どっと湧き立つように笑った男子生徒たちの大声に、感じる暑さがさらに増したのは言うまでもないだろう。ちなみに相手がポケモンの時は逆に片方人間を描けばいいらしいですよ、という吉岡の説明が心底どうでもよかった。



例によって雨である。タマムシはおろかカントーの梅雨はまだまだ開けないようで、歴史資料室の空気は相も変わらずじめじめと湿っていた。この部屋のメリットとして思いつくのは、じばくもだいばくはつも無効になることくらいであろう。全身を包む湿り気にうんざりする。

「ねぇ、知ってますか三木先生。この噂、『放課後の美術室の怪』」

しかし、心身ともにうんざりしているのは僕だけらしく、吉岡はいつもと変わらず絶好調だった。歴史資料室の掃除をしながら噂話を語る、通常運転のオカルト研究部。適当に収められていた紙束を研究テーマごとにファイリングする手を休めないまま、彼は今日も噂話を教えてくれる。

「美術室にあるじゃないですか、ほら、カロスの芸術家の石膏。放課後になるとアレ、独りでに動き出すらしいですよ」

「何がしたくて……大体、動き出すも何もあれは首から上しか無いはずだろ、どうやって動くっていうんだ」

「それは……とにかく動くんですよ、石膏が! 美術部の1年生が見たらしいですよ、彫りの深い真っ白なイケメンの顔が美術室の床を這ってるのを! 彫りの深い真っ白なイケメンの顔が! 顔だけが!!」

「だから言ってんだよ、顔だけが動く時点でゴーストポケモンの悪戯に決まってるんだって」

そしてこのやり取りもいつも通りである。毎回毎回、よくも吉岡は飽きずに話しかけてくるものだと感心するけれども、考えてみれば僕の方も同じかもしれない。毎回毎回、飽きることなく変わらない返事をし続けているだなんて。
何百年も前にシンオウで着られていたという民族衣装に積もった埃を払う。とてもカビっぽい。梅雨が明けたら布系のものは、一度外に干してしまった方が良いだろうか。

「っていうかどうしたんだよ、消しゴムの話は。あんなに騒いでたのにもういいのか」

時間経過によるホツレなのか、それとも最近の虫食いなのか、判別付かない穴を見て見ぬフリしながら尋ねてみる。バサバサと音を立てながら資料を片付けていた吉岡の、件の石膏をとやかく言えないほどに白っぽい顔はきょとんという擬音が聞こえてきそうなほどであった。その様子に、内心の自分が「やっぱりか」と呟く。
吉岡に限らず、ここ最近の噂話は異常なペースで移り変わっていた。最初のうちは何週間か続いていたはずの噂は、やがて晴天と雨天が三度入れ替わるたびに変わるようになり、一度降り出した雨が止むごとに別のものになり始め、そして今や灰色の雲が消えるのを待つ暇も無く、新しい噂へと変わっているのだ。
いくら噂話というものがそういう性質だとは言え、これは普通では無いように思える。反面、高校生とは流行に飛びつきやすい年齢なのだと考えることも出来るには出来るわけで、それほど気にかけることでも無いだろうとも感じられるのだ。
その高校生である、吉岡も不思議そうに首を捻る。何故そんなことを気にするのかとでも言いたげな顔で、「そうですかね」と考え込むような声を出した。

「噂なんてこんなものだと思いますけど。それに、まあ、先生の言う通りウソだった噂もありますから、そうだとわかったらいつまでも話してることも無いでしょうし。俺たちは今を生きてますから、古いことにこだわってる場合じゃないっていうか? そんな感じ? ですかね?」

「適当な奴だな。あと『もある』じゃなくて『しかない』の、全部嘘だから。噂なんて」

「わかりましたわかりました、わかってますよ、三木先生はそうだって。本当こだわり強いんだからなぁ……ハチマキも眼鏡もしてない癖に」

つまらなそうに言いながら、吉岡は百均のファイルの中に論文を突っ込んでいく。彼が背にした窓の外にはしとしと雨が降り続いていて、明日までに止みそうな気もしなかった。

「でもいいんじゃないですかね。いろんな噂あるの面白いですし」

「それはそうだけど、な……あ、吉岡。その資料写真撮っといて、地理の佐田先生に送ってくれって言われてたんだ」

言いながら、ポケットから取り出した携帯を彼に放り投げる。了解です、と答えた吉岡の声から数秒後、カシャリというSEがじめじめした室内に鳴り響いた。

「あ、すいません。変なとこ触っちゃってインカメで撮っちゃいました」

「あー、いいよ後で消すから。とりあえずそこのページとそれと……あとそれ、サイユウの島面積の変化の、それそれ。そこ撮っといて、よろしく」

「おっけーでーす。あ、それでさっきの続きなんですけど。石膏の芸術家さん、生前アマルス可愛がってたらしくて、だからアマルスの絵をその場で描くと……」

カシャカシャという音を響かせながら、聞いてもないのに吉岡がまた喋り出す。遮る意味も無いのでそのまま聞き流すスタンスの僕が黙っているため、彼の話は終わることを知らずに続くばかりだ。雨の音など気にならないくらいに、彼は途切れることの無い噂事情を披露してくれる。
そのようにして、オカルト研究部はいつもと変わらず活動らしくない活動を終えて解散となった。それが3日前のことである。たった3日前なのだ。にも関わらず、降り続く雨がまだ止んでいないのにも関わらず、吉岡はまた新しい噂を口にした。


「先生、大変ですよ。体育倉庫にバスケのボールがいっぱいあるじゃないですか、あれヤバいんですよ。あれ、水曜日の夜だけこっそり、ビリリダマに変わって、しかもそのビリリダマ! 爆発すると中からジラーチが目覚めるっていうんです」


「三木先生。音楽室のピアノなんですけど、正面に見える窓枠にバタフリーが止まってる状態で『つきのひかり』を弾ききると夢が叶うそうですよ」


「ねぇ三木先生、これ知ってます? 2年の現文の教科書に載ってる、タイトル忘れたんですけど友達自殺させちゃうあの話。図書室にあるあの本を3日間枕の下に入れておくと、夢の中の自分とお話出来るらしいです」


「体育館! 朝7時44分の体育館で、両手を失ったエビワラーと両足を失ったサワムラーが嘆き悲しみながらバトルしてるらしいんです。でも、2人とも特性てきおうりょくでも無いくせにその状態に慣れてるっぽくて、本来のお互いに負けないくらい強いっぽいですよ」


「まず、紙を1枚用意するじゃないですか。そこに、最近解読されたっていうあの、イッシュの海の底にあった遺跡の……ああアレ! ハルモニア文字を書くんです。それで、そこにオセロの石を置いて、みんなの指を合わせて『おうさま』を呼ぶんです。『おうさま』は何でも教えてくれるんですよ。人のことはもちろん、ポケモンのことだって」

あまりにも目まぐるしく変わっていく、彼の話に僕も流石に口を挟みはした。しかし吉岡は首を傾げるだけで、他の生徒と同じくただ噂話に興じるだけであった。

「なぁ、どうなってんだよこんな次から次に」

「次から……何が? です? そんな不思議ですかねぇ、信じてくれない割に変なとこで突っ込んできますね、三木センセ」

「まぁ、別にそれは…………」

吉岡が話すことも、学校中に広がっていることも。あり得ないまでの速さで変わっているのに間違いは無い。
流れた噂はすぐに別のものへと変化して、瞬く間に皆の意識から失われてしまう。「イマドキの高校生の流行なんてこんなものですよ」と吉岡は言うけれども、それだけで済ませる話では無いだろうと僕は思えてならなかった。しかしそんなことを言っても何が変わるはずも無いだろう。結局は「どっち道信じてないけどな」などと答えになっていない返しをしながら、やはり降っている雨をガラス窓越しに眺めるくらいしかすることが無いのであった。



「それにしても、よく考えるものですよねぇ」

雨の外では相変わらず梅雨時の雨が降り続いている。しかし今日の天気はいつもと少しばかり違っていて、雷を伴う激しいものであった。普通の雨の時ならばここ、職員室の窓から学校に棲みついているニョロゾなどの姿が見えるのだが、電気に弱い所以だろうか、影を見せ無い彼らはどこかに隠れているようであった。

「昨日の朝には『17時半になると音楽室のマンドリンがめざせポケモンマスターを独りでに奏でだす』、一昨日の掃除の時間には『第2多目的室の窓から色違いのブラッキーが現れて願いを3つ叶えてくれる、でもその代わりに命を10年削られる』その前の日の昼休みには……」

「『家庭科室のホイップホップにくろいヘドロを混ぜるとメガレックウザの霊が現れる』、でしたね」

毎日の放課後定例の職員会議が終わり、伸びをしながら呟いた数学教師の言葉を英語教師が引き継いだ。教師になって3年目だという彼女は、薄黄色のブラウスの袖のボタンを留め直しながら「うちの部活もそれで持ちきりでしたから」と嘆息する。綺麗に片付けられた机の上で、彼女の手が楽譜の束を丁寧に揃えていた。うちの部活、というのは確か合唱部であっただろう。
長野先生もでしたか、うちもそうですよ。部屋を出ようとしていた、サッカー部顧問の現国教師も話に入ってきた。それに続いて他の教師達も頷き出して、会議を終えたはずの職員室は外から聞こえる雨の音を掻き消すくらいに賑やかなものになる。無理も無いだろう、噂話はこの頃異常なまでに乱立しているのだから。
生まれては消え、騒がれては収束して。ものすごいペースで盛り上がりと消失を繰り返す生徒たちの「ちょっと不思議な噂」は、彼らと関わる僕たち教師の間にも当然ながら流れている。可愛らしいものだと達観する教者や一緒になって面白がる者、僕のように冷淡に構える者など捉え方はそれぞれであったが、しかしこうも大量に話が湧いて出ると、興味を持ち始める教師も次第に出てきたのだ。
いいじゃないですかいっぱいあって楽しいし、吉岡の言葉が脳裏をよぎる。彼が教えてくれる話もまた毎日のように移り変わり、同じ噂は2度として登場しなかった。教師陣の会話を耳に窓の外へと目を向ける。朝4時の職員室の窓には運命のポケモンが映るのだ、などという噂を聞いたのは4日前のことだったか、5日前のことだったか。

「田中先生もでしたか。うちのクラスなんてもう大変ですよ、『ノートの21ページ目の右端に鳥居を描くと、中からセレビィが出てきて未来にやるテストの問題を教えてくれる』で大盛り上がり。どいつもこいつもノート買ってきて」

「うちはこの雨で全然練習出来てませんからなぁ。『ポワルン少女』とかいう噂が流行ってますよ。屋上でバトルして、にほんばれとあまごいとすなあらし、そしてあられを同時に使えば呼べるらしいです」

「あぁ、天気を好きに変えてくれるというアレ。野球部は確かに練習出来なくて困ってるだろうからな、生徒会の連中は生徒会室に出るとかいう霊の話ばかりしてるが」

出るだけらしいから何をしてくれるわけでもないだろうけど。生徒会顧問でもある、ザングース似の教頭は短い溜息を吐いた。

「本当、毎日毎日よく考えるものだ。こんなことしてる暇があったらもう少し、真面目に勉強とかしてくれれば良いものを」

「でも、私たちがあのくらいの頃もあんまり変わらないものでしたよねぇ、ほら……おまじないだの学校の怪談だの。懐かしいなぁ、口裂け女、マァ冷静に考えて実際、口が裂けた人間なんてルージュラみたいなものですからそこまで怖くもありませんがね」

からからと笑った美術教師に、「いつの話してるんですか田口先生は」と数学教師が苦笑を浮かべる。

「でも言われてみれば、似たようなものかもしれませんね。私も小学校の時にほら、あの……キュウコンとウィンディとジグザグマの集合体をよく呼び出そうとしていましたから」

「ああ、コックリさん! いつも思うんですけど、その面子でジグザグマだけ随分とかわいいというか、アレですよね……俺の時代じゃあ『キューピッドさん』でしたよ。すごい力持ったトゲキッスだとかラブカスだとか、まぁ色々言われてましたけど。誰が誰を好きだとか付き合ってるだとか。今となってはかわいいものですよね」

「結局、五円玉はちっとも動かないんですけどねぇ。私はちょうど携帯が出てきた時代ですから、アレですよ。『メリープさん』」

ああ! 職員室中の教師が声を上げた。娘が怖がってた、時代に乗ってる都市伝説はもっともらしく聞こえるものですからね、と頷き合って、皆は口々に懐かしいエピソードを披露する。先ほども思ったのだけれども、ことこういう話に関しては興味を持つかどうかなど年齢に関係無いのかもしれない。
そんなことを考えながら話を流し聞いていた僕に、キューピッドさんの話を持ち出した化学教師が顔を向ける。三木先生は何かありましたか、そう言った彼に間髪置かず、「ダメですよ岩本先生」と現国教師の笑い混じりの声が投げかけられた。

「この類の話、三木先生にしても。オカルトとか都市伝説とか……ねぇ、そうでしょう、三木先生」

「ま、そうですね。いくつか聞いたことはありますけど。後はご想像にお任せしますよ」

ほらこの通りだ、肩を竦めた化学教師に他の教師たちが笑う。僕のこれについてはもはや学校中が公認しているようなものだから、今更どうということも無い。これだけ変な噂が多いと、それを否定する考え方も知れ渡るのだ。
「それにしても」2年生の学年主任がどこか感心したような声色で口を開く。

「ホントかウソかは置いとくとして……置いとくとしても、ある意味噂様々ですよ。生徒がこれだけ噂に夢中になってくれたおかげで、今年度に入ってから揉め事もめっきり減りましたからね」

「ああ、確かにそれは言えてますねぇ。みんな何だかんだで楽しそうですし、流れる噂は全部、人を貶めたり悪く言ったりする系のものじゃないのもありがたい。ちょっとばかり騒がしくなったのは否定出来ませんが、嫌な思いをしてる生徒がいなそうな分いい傾向でしょう」

「まるで宗教ですね。時代が時代なら、為政者ですよ」

それはいくらなんでも持ち上げ過ぎですよ、為政者という声に古典教師が野次を飛ばす。「いやいや野田先生、仏教で国を治めた聖徳王のように、一種この噂だって、不思議な話で学校を安定させてると言うことも出来る」生物教師は冗談混じりの声色で反論した。流石に聖徳王と一緒にするのはどうですかね、と僕も笑ってみると、草葉の陰で泣いてるかもしれませんよと数学教師の援護をもらった。
しかしどの道、この噂のおかげで生徒も私たちも楽しく過ごせているのは事実だな。苦い顔をしつつも教頭が言う。僕としては噂を肯定する気も無いけれど、それは確かに否定出来なかった。この、乱立に乱立を重ねる噂たちが学校にとって悪いものだとはどうも思えなかった。

「他人を傷つけるような方向のものが出てきたり、噂を気にしすぎて他のことに支障が出る生徒がいたら別ですが、今みたいな感じならばこのままでも良いのではないでしょうかね。幸い、呪いをかけたりするだとかいうのは聞きませんし」

「そうですね。ま、テストと夏休みの時期になればみんな噂なんて忘れるだろうし……盛り上がってるのは悪いことじゃないでしょう。ぬいぐるみを使った呪術のようなアレだとか、ヤバい方向にも今の所行ってませんしね」

「ああ、『ひとりかくれんぼ』ですか。しかしどうなんですかねアレ、実際のところどんなにやったところで、カゲボウズかよくてジュペッタしか出てこないそうですが本当の霊なんて……」


「失礼しまーす、3年の吉岡です」


と、ガラリと引き戸が開けられる音と、真面目さと適当さが同居した声に、なんだかんだと盛り上がっていた教師達は揃ってそちらに顔を向ける。入り口の扉に手をかけて立っていたのは見慣れた顔のオカルト研究部唯一無二のメンバーで、「おう吉岡か、どした?」と3年生担当の数学教師が尋ねた。そういえば彼は理系コースだった、恐らくこの先生が担任なのであろう。
歴史資料室の鍵を借りに来ました、そう言った吉岡に「おおそうだったか」「そんな時間か」「部活部活」と教師たちは慌てて動き出す。鍵置き場に一番近いところにいた英語教師が歴史資料室の鍵を手に取り、吉岡に渡そうとして「そうだ、三木先生いらっしゃるから一緒に行きなさい」と僕を見ながら告げた。どの道そのつもりだったので彼女から鍵を受け取り、他の教師同様職員室から廊下に出る。

「先生たち、なんかすごい楽しそうだったけど。何の話してたんですか?」

もわっと湿気た廊下を歩きながら、吉岡がそんなことを尋ねてきた。

「ああ……最近噂が多いとか、昔はこんな怖い話があったとかどんなおまじないしてたとか、……ああ、あと。噂のおかげでみんな楽しそうだ、とか。かな」

「へぇ」

ぺた、ぺたという、僕のスリッパと吉岡の上靴の足音が廊下に響く。短く答えた吉岡は、何が面白いのかやたらと嬉しそうなニコニコ顔を浮かべていた。オカルト研究部たる彼のことだから、教師までもが噂話に花を咲かせていたことが楽しいのだろうか。
今日も運動部はグラウンドが使えない。吹奏楽部のリズム練習や合唱部の発声練習に混ざって、校内筋トレに励む彼らの掛け声がうっすらと聞こえてきた。それを耳にぼんやり歩く僕たちを、ぴかりと光った雷の輝きが照らし出す。うっかり落ちて、停電騒ぎなどにならないで欲しいものだ。

「そうだ先生、知ってますか? 屋上にある避雷針の話なんですけど、雷が続けて4回落ちるとなんと、昔この地で悲惨な最期を遂げたジバコイルの怨霊が……」

「はいはい。僕は信じないから、どうせサマヨールの見間違いだ」

「またそうやって。面白くないですか、地縛霊だけにってヤツですよ、『ジバ』コイル」

ピクリとも笑えないギャグを嬉々として披露してくる吉岡に適当な頷きを返していると、歴史資料室の札が見えてきた。ドアノブに差し込んだ鍵を回すと、ガチャリという音とともにまたもや外が鋭く光った。
続いて、数秒遅れて響く轟音。近いな、と何とも無しに思って振り返る。窓の外に見えるのは雨に濡れゆくグラウンドと体育館の壁だけで、屋上の避雷針など目視しようも無いのだった。


3.海の向こう側

「ねー、どこ行く? やっぱジムでしょ? チャンピオンの出身だしさー」

「ね! もしかしたら見れるかもよ、本人! 最年少のリーグチャンピオン」

「でもさぁー。なんでよりによってソウリュウとカゴメなのって話。せっかくイッシュ行くってのにさ、俺ライモン行きたかった」

ガヤガヤと賑やかな教室で、生徒たちが思い思いのことを口にする。外はしつこいくらいに明けない梅雨の雨が今日も降っていて、3階の窓から見えるのは灰色の空だけだ。月曜6限のホームルーム、騒がしい生徒の熱気と湿気が混ざり合ってまとわりつく。

「はい静かに静かに! 楽しいのはわかるがちょっと落ち着けー、お前たちはドゴームじゃないんだから」

教壇に立ったこのクラスの担任が、手を打ち鳴らして騒がしさを諌める。「センセー、そこはバクオングでお願いしまーす」とふざけて返す生徒に、担任教師も「そこまで強くは無さそうだしなー」と応酬した。授業ならぬ授業、ホームルームの雰囲気にくつろいだ教室がどっと沸き立つ。
教室前方の黒板に大きく書かれた文字列は、白いチョークによる『修学旅行』。楽しいのはわかる、という担任の言葉も頷ける。修学旅行と言えば体育祭や文化祭と並ぶ学校行事の1つだし、学校から出て別のどこかに行けるとなればその楽しさもひとしおだ。
自分もそうだったし、今まで担当してきた生徒もみんなこんな感じで盛り上がっていたのは記憶に根強く残っている。

僕が副担任であるこのクラス、この学校の2年生は10月末にイッシュへ行く予定である。ソウリュウとカゴメというチョイスに、ライモンのミュージカルや遊園地、ヒウンの大都会を期待していたらしい生徒たちは不満を漏らしているけれど、ちょうどハロウィンの時期だから伝統的な町の方が良いだろうという教員のささやかな工夫なのだ。
伝わっているかは定かで無いが。

「じゃ、今日決めて欲しいのはー、……まず2日目からの行動班。1日目はクラスで移動だからいいんだけど、2日目から班ごとになるからよろしくな。まぁ5、6人……で、民宿とホテルそれぞれ部屋分けも。ソウリュウの民宿は、まぁそうだな、男女両方とも3つに割って、ホテルの方は基本2人かな。男子だけ1組3人部屋作って……じゃ、そんな感じであとは頼む。井口」

早口で説明した担任に指名された、学級委員の女子生徒が立ち上がる。彼女と入れ替わるようにして教壇を降りた担任が、教室の後方でぼんやりと成り行きを見守っていた僕の方に向かってきた。

「お疲れ様です」

途端に騒がしさをさらに増したクラスの声に掻き消されない程度の小声で告げる。

「三木先生、すみませんね。こんなうるさいクラスで……飛行機とかバスの席決めもこうなると思うと、今から困ってしまいますよ」

「いえいえ、いいんですよ。修学旅行ともなれば楽しみなのは当たり前ですから、一大イベントですしね。行ってる間だけじゃなくて、こうやって準備してる時もイベントの一環ですから」

「はは、ですね。もう修学旅行は始まってる、ってことですもんねぇ」

担任教師が表情を緩める。僕より一回りほども歳上である彼もまた、学生時代に同じ経験をしたのであろう。岩本先生はどこに行かれたんですか、と尋ねようとして、しかし教室後ろの掃除用具入れに貼られた1枚の紙が目に留まった。

「先生……あれ、何です?」

尋ねた僕が指差した先、担任教師の視線がその紙へと向く。「ああ、これはですね」彼はどこか楽しそうに笑いながら、何やら秘密めいたことを言うように声を落として言った。

「私は今日の朝に耳にしたんですが、アレですよ。噂。見えますか? あれに描いてあるのはダストダスなんですけど……まわちょっと個性的な絵ですけどね」

「ハァ……掃除用具入れに、ダストダス」

『個性的』と評されたその絵、ダストダスというよりは爆発した後のドガースに見えるイラストを横目に気の抜けた返事をする。すると担任教師は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「掃除用具入れにダストダスの絵を貼っておいて、掃除が終わった後にホウキやチリトリをしまうとですね、そのダストダスが汚れ具合をチェックするらしいんですよ。つまり、どれだけ真面目に掃除してたかですね。一生懸命掃除をしてくれたら、ダストダスがその、頑張った人の不幸も一緒に棄ててくれる、と」

「それは……なんというか、また…………」

「おかげで、今日はみんな掃除頑張ってくれましてね。いやぁ、どうせすぐ飽きるんだとは思いますけど、噂というのもなかなか馬鹿に出来ないものですよ。いえ本当に」

教室では、班行動の男女グループをどう組み合わせるかで揉めている。話し合いかジャンケンか。クジ引きを作った方が良いという意見に対して「面倒くさい」と不平が挙がった。窓の外の強い雨も気にせず、生徒たちはやいのやいのと騒いでいる。
その様子を見ながらニコニコしている担任教師に、僕は曖昧な頷きを返した。教室の隅に置かれたゴミ箱、中途半端に開いた蓋の隙間から、薄くなって消えかけているニドリーノと二ドリーナの絵が描かれた小さな消しゴムが捨てられているのが見てとれた。





結局、グループ決めは盛り上がりと喧騒と興奮を重ね、ホームルームが終わったのは定刻から30分ほどを過ぎた頃だった。各部活動の鳴らす音が蔓延る廊下を早足で歩く。予測していたことではあるが、思っていた以上に延びてしまったものである。吉岡は鍵を借りて先に資料室へ行っていることだろう。
しかし、その思惑は半分ほど外れていたようであった。歴史資料室へと続く廊下の角を曲がったところで、おや、と一瞬足を止める。見慣れた案内札の下に立っているのは確かにオカルト研究部員の吉岡であったが、今日そこにいるのは彼だけでは無かったのだ。

「あ、三木先生」

僕に気がついた吉岡がもう1つの人影、何やら楽しげに談笑していた相手から視線を動かして顔をこちらに向ける。彼と話していた、長い髪を高い位置で結わえた女子生徒は僕にぺこりと頭を下げた。

「目黒さんが先生のこと探してたんですよ、だからここで待ってれば来るって」

「先生。昨日の分のプリントです、お願いします」

差し出された、昨日彼女のクラスで提出を求めたそれを受け取りながら思い出す。この生徒は昨日風邪で休んでいたから、終わったら持ってくるようにと今朝の授業で伝えたのだ。
「ああ、お疲れ様」と受け取ると、彼女は再度一礼して、ポニーテールを揺らして去っていく。小走りの動きに合わせて翻る、茶色いスクールバッグにつけられたニンフィア柄のリボンを眺めていた吉岡が「目黒さんって」と呟いた。

「かわいいですよね、本当、フェアリータイプって感じ。イーブイにも似てるし。でもここはミルタンクで」

小声で言われた吉岡の意見に「それに僕は否定も肯定も出来ない」とだけ返しておく。明確な答えを告げる代わりに「タイプか」と聞いてみると彼は、そーでもありますけど、とニッと笑った。素直な奴である。

「仲良いのか、同じクラス……じゃないよな。目黒は私大の文系志望だし」

「んー、でもまぁ、結構話しますよ。目黒さんだけじゃなくって、他のみんなとも」

「そんなもんか……ま、お前は喋んの好きだしな」

「それで、目黒さんが教えてくれたんですけど! 校庭にあるモモンの木の下にはペロリームの死体が埋まってて、だから甘……」「噂話はもういい」そんなことを言い合いながら部屋に入ると、相も変わらず酷い湿気が充満していた。この前ポケットマネーで乾燥剤を買ってみたのだけれど、果たして本当に機能しているのだろうか。焼け石に水である気がしてならない。
内心で疑惑を募らせている僕に、「あれ、先生これなんですか」と吉岡が声をかける。その声に振り向くと、今しがた机に置いたファイルに視線を落とした彼は興味深げにそれを覗き込んでいた。
さっき教室を出た際にクラス担任から渡された修学旅行用の名簿や資料だ、クリアファイル越しに見える1枚目のプリントには『渡航に関する注意事項 その一 ポケモンの管理について』という文字列が並ぶ。

「あー、今日遅れたのもこれやってたからだ、修学旅行の班決め。吉岡も行っただろう、確か……去年はジョウトだったんだっけか」

「イッシュ行くんですか? 2年生」

「そうだ、アンケートで希望が多かったから……カロスといい勝負だったらしいけど。海越えるからな、色々注意することもあるんだよ」


「海…………」


溜息混じりに言った、何の気無しの言葉だったのだが、吉岡は何故だか1つのワードに反応した。どこか呆けたようにさえ思えるその様子に、なんだ海外行ったこと無いのかと問うと、彼は「ええ、まぁ」と頷いた。
高校生にもなって今時珍しい、と考えることは出来るけれど、しかしカントー住みならそれもそうかと納得することもまた可能である。トキワ育ちの僕とて、中学2年生の時家族でシンオウに行くまでは海を跨いだことは無かったのだから。
そうか、海かぁ。と何だか感心したように呟いている吉岡に、「海外に行ってみたい場所とかないのか」と尋ねてみる。

「ライモンのバトルサブウェイとか、ミオの大きい図書館とか。ルネの街並みも人気だな。ああ、あとはやっぱりミアレか、定番」

キナギやムロで泳ぐのも若いうちはいいよな、と思い浮かぶままに言ってみたのだが、吉岡はいまいちピンときていないような顔で首を傾けていた。まあ、旅行に興味の無い高校生など世の中にわんさかいるだろうから、急に聞かれても困るのだろう。少し考えた末に、彼は「面白い話があるとこがいいですね」と大変彼らしい答えを返してきた。

「またそれか。噂話なら、別にここだっていくらでも聞けるだろうに、わざわざ海外まで行かなくても」

「そうは言っても、先生。ここには無い話があるじゃないですか。僕は色んな話が聞きたいんですよね、もっと沢山話したいんです」

やけに目を輝かせる吉岡に、僕は何と返すべきか言葉を選びあぐねる。流石はオカルト研究部部長を名乗ることはおる、この熱気は一体どこから来るのだろうか。
どの道、下手に刺激すると食いついてきて収拾がつかなくなるので黙っておくことにした。しかし僕のおもわくはあまり当たらなかったらしく、吉岡は「面白そうですよねぇ」と1人で話を始めてしまう。

「この前、図書室で読んだんですよ。イッシュで起きたUFO事件の本! すごいですよね、だってミステリーサークルですよミステリーサークル! あんな綺麗な丸なんて普通出来ませんって、やっぱり宇宙人ですよ宇宙人」

「あれは宇宙人の仕業なんかじゃない、やったのはポケモンだ。ゴチルゼル達は天体の動きによって行動するから、技の出し方も実際すごい正確、数式で表せるような緻密なやり方なんだ。あの事件の年にはゴチルゼルが大量発生してな……その群れが畑を荒らそうとして入り込んで、結果すごい綺麗な丸が描かれたってこと」

顔を赤くして、身を乗り出さんばかりの盛り上がりを1人で見せている吉岡を落ち着かせるべくそう返したのだが、しかしどうやらそれは逆効果だったようだ。ニヤリと笑った吉岡は、「なんだ」と僕を見て口角を上げる。「知ってるじゃないですか、先生も。そんなこと言いながら」
余計なこと言ったな、と内心で後悔しながら彼の視線から逃れるべくそっぽを向く。だが、吉岡は僕が思っていたよりも物事を気にし無いタチだったらしく、目をキラキラさせながら尋ねてきた。

「いいじゃないですか、海の向こうの話! やっぱりスケール大きそうですよね、何でもビッグな感じで。イッシュのモンスターボールって、俺たちの知ってるのより大きいんでしょ? こないだ教えてもらいました」

「それ嘘だよお前……なんでそんな嘘に騙されるんだ…………? イッシュは何でもかんでも大きいっていうイメージ捨てた方がいいぞ」

呆れ混じりの声で返しつつ、こうなるともう止まらないであろう吉岡に、少し話に乗った方が良いのではないかという考えが浮かんだ。「大きいのならなぁ」と記憶を引っ張り出しながら僕は口を開く。

「イッシュじゃないけど、馬鹿でかいのなら昔あったぞ、シンオウのリッシ湖で。リッシーっていってな、新種のドラゴンポケモンもだとか報道されて……ま、結局作り物だか合成だったんだけどな」

「馬鹿でかい? ドラゴンタイプなら、まぁ大きくても当たり前……」

「そんなもんじゃなくて。ホエルオーよりもでっかいっていう話だったんだよ。巨大生物とか言われてなぁ、でもさ、冷静に考えりゃすぐわかるよな、リッシ湖レベルに狭さにそんなの棲めるわけないって」

「合成ですか……UFOの本にも書いてありましたよ、ほとんどの写真がそうだって。心霊写真も」

「そうだよ。宇宙人が見つかった、捕まえたって写真も合成だったからな……マダツボミの写真に肉つけたりして」

「でも、オーベムとかリグレーは宇宙から来たらしいじゃないですか」

「それは別の話だし、あくまで一説だからなぁ」

そんな会話をしばらく続ける。見ると不幸になるという黒いムーランド、入ると死ぬモンスターボールなどの話をするたびに彼は喜んでみせたが、不意に淡々とした声になって「十字架最強ですね」とコメントしてきたあたりに今時の高校生を感じざるを得ない。
どれくらい話していただろうか、話題が一区切りしたあたりで「でも、先生」と彼が切り出した。

「都市伝説とか、怖い話とか。何が違うんでしょうね」

何が、って。何と。
そう尋ね返すと、吉岡は「『伝説』とですよ」と答えた。
伝説。その言葉を聞いて、一番最初に思い浮かんだのは三者三様の鳥だった。炎と、氷と、雷。生きる伝説とされた彼らは、とある1人のポケモントレーナーによって捕まえられたという説があるけれど、今はどこにいるのだろうか。その『とある1人のポケモントレーナー』がもはや伝説となってしまったのが現状なのだ、ずっと前のポケモンリーグセキエイ大会を制覇して、その後ジョウトに姿を消してしまったというその存在は。

「俺、よくわかんないんですよね。神話とか、伝説とか言われてるポケモンと、オカルトの違い。似たようなものじゃないですか、なんか超人的っていうかケタ違いな力持ってて。普通の説明じゃどうにもならない、同じ感じじゃなくないですかね。ああいう、ポケモンたちって」

そう話す吉岡の顔はいつものような、好奇心を前面に出したものだったけれど、しかしどこか虚ろに視えた。何故、彼がこんな話をしたのか僕にはわからない。どうして吉岡が、こんなにもここに引っかかっているのかは、僕には知る由も無いのだ。
僕は首を横に振った。「同じじゃない」違うんだ、と口を動かす。

「ああいうのは、先にいるんだ。先にポケモンがいて、その力がすごいから伝説になる。神話になる。元々存在してたものが、ずっと語られてるだけだ」

語られて生まれるオカルトとは違う、僕はそう言った。
修学旅行で行く予定の、イッシュ地方カゴメタウン。今はもう無くなった風習だが、あの街では昔、夜になると住人が皆部屋の中に篭っていたという。それは何故か。
『ばけもの』を恐怖していたからだ。
化物と呼ばれていたポケモンはキュレムといい、遥か昔に隕石と一緒に落ちてきたらしい。この真偽は定かで無いが、キュレムは人を攫って喰らうという言い伝えがあり、カゴメタウンの人たちはキュレムを『ばけもの』と恐れ、夜が来る度に震えていたという。
勿論、今ではこの話を本気で信じる人はいない。イッシュ中を揺るがした事件の際、少女トレーナーに保護されたキュレムが本当にそんなことをしていたのか知る術も無い。しかしともかく、『ばけもの』などという伝説は、元々『キュレム』がいたから出来たものだ。
噂話とは、違う。

「でも、先生」

そう説明した後に、だけど吉岡は意を唱えた。でも。彼は、その言葉を繰り返す。


「もしかしたら、ですよ。キュレムは、『ばけもの』と恐れられたキュレムは……本当はその、怖いって思う気持ちから生まれたんじゃ、ないでしょうか?」


「………………それ、は」

彼が口にしたその考えに、僕は答えることが出来なかった。薄い微笑で、真っ直ぐな目で、そんなことを言った吉岡に、僕は何か言葉を返すことが出来なかった。
あまりに突飛な考え方に反応しきれなかった、そんなはず無いだろうと否定する気になれなかった。それ以上に、こんな話をしだした吉岡に何かを言うということ自体、僕に可能だとはとても思えなかった。
黙り込んだ僕に、吉岡はへらりと表情を崩す。やる気の無いその笑い方はいつも彼がするものだ、「イッシュかぁ」とどこか独り言のような呟きが歴史資料室に響く。

「いいなぁ。海の向こう、俺も行ってみたいなぁ」

特例で3年連れてってくれたりしないんですか? おちゃらけた調子の彼に、僕もようやく力が抜けた。そんなわけ無いだろ、自分でお金貯めて行け、などと返すと吉岡は「ですよねぇ」とけらけらと笑い声を上げる。
彼が背にしている窓に目を向けると、そこに降っていたはずの雨はいつの間にか止んでいた。うっすらと明るくなっている外、空を覆っていた雲が途切れて光が差し込んできたのが小さい窓からでもよく見える。僕の視線に気がついた吉岡も振り返って、止みましたね、今回のは長かったですね、と嬉しそうに言った。そうだな、と頷いた僕の目は雲を切り裂く光の眩しさに耐え切れず、逆光となった吉岡の映る視界を瞼と共に閉じてしまった。


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