マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
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  [No.3761] この世にオカルトは存在しない 後 投稿者:GPS   投稿日:2015/06/04(Thu) 20:06:24   75clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

4.夏と神社とソーダアイス

そして梅雨が明けたわけである。
要するに暑い、ひたすらに暑い時期がやってきたのだ。カントー生まれカントー育ちの僕は特別暑さに強いわけでもなく、人並みには暑いのが嫌いでしょうがないタイプの人間である。熱く鋭い太陽光が差し込みまくる廊下も狭苦しい歴史資料室も、どこもかしこも出来の悪いサウナのようで、これ以上無いほどの不快感を煽ってきた。キッサキで着られていた防寒服だという、民俗資料のもこもこが視界に入るだけで鬱陶しくてたまらない。僕にエアカッターやきりさくなどが使えなくて本当に良かったなどと割と本気で思う。
少しでも風通しを窓の向こうでは、テッカニンが自分の季節が来たとばかりに鳴いているし、摂氏何度に達しているのか考えるのも怖いグラウンドには、羽化ラッシュに乗った大量のバタフリーやスピアーが日光を楽しむように飛び回っている。その元気を分けてほしいところなのは言うまでもない。

「あー、つまらないなぁ」

皿やら壺やらの資料をどけたら現れた、おぞましい黴の巣窟を一掃せんとしていた吉岡がぼやく。時計の針は昼過ぎを指していて、本来であればまだ部活動の時間では無いから彼がここにいるのはおかしいだろう。しかしそれには一応理由がある。

「つまらない、って……お前、今が何なのかわかってるのか? 他の生徒が聞いたら怒るか呆れるか、羨ましいって言われるかのどれかだと思うけど。テスト期間に、そんな退屈そうにしてるなんて」

「別に俺は大丈夫ですよ。それより、そうですよ、みんなテストばっかりで忙しいって、全然楽しく無いんですよね。噂も減っちゃったし」

「そりゃそうだよ。テスト以上に気にされるものなんてそうそう無いからな、この時期」

夏休み前の試験期間、午前中だけで終わるテストの後、生徒は皆校舎から姿を消してしまう。部活も休止されているし、中には図書室などを使って勉強している者もいるにはいるけれど、大半は家や塾、或いは友達で集まってファミレスに行ったりと、テストが終わって早々に校舎から出ていくのだ。
1年生から3年生まで、テストとは等しく気が重いものであろう。昨日も歴史のテスト直前になって、ようやく泣きついてきた生徒を何人か相手にしたものだ。教師の立場からするとこの後の採点及び成績処理、そしてそれを考慮した今後の進路指導の方に頭を痛めているのだけど、ともかく学校中の意識がテストに向いているのは間違いなかった。

「そうは言いましてもー、でも、……やっぱりつまらないですよ」

そんな中、吉岡は無駄に気楽である。テスト前からこの調子で、生徒たちがみんなテストのことばかりを気にしてちっとも噂話をしていないと文句を垂れていた。どうして彼がこんなにも余裕なのかわからないが、とにかく彼は皆の注意がテストに集まってしまったことが不満でならないらしい。カビ落としスプレーをかけた壁を雑巾で拭いている吉岡が、「みんな勉強のことばっかりで」と口を尖らせる。

「全然、面白い話しないんですよね。もー、何の公式がどうとか、化学式がこうだとか。タマゴ技とDNA配列が云々だとか」

「だから、テスト前なんだから当たり前だって。そんなのは。大体そんなこと言うなら、一緒に勉強とかすればいいと思うけど? ほら、この前話してた井村とかさ、あと目黒とか。喋りたいならそういうのも手だろ」

「それはそうなんですけど、でも駄目ですよ。みんな塾行ってますし、目黒さんなんて駅前の代ゼミですよ! あの、タマ大合格率トップ予備校。俺と喋ってる暇なんてないんですよ、みんな」

「じゃあお前も勉強しろよ、3年なんだからいくらなんでももうちょっと慌ててもいいと思うけどな。こんなとこでこんなことしてないで……」

「それはほら、アレですよ。三木先生が寂しくないように、っていう思いやり? 俺なりの優しさ? さながらトレーナーの感情を察知するキルリアのように」

「意味わからん……あ、やば」

吉岡の戯言を半分無視していた僕は思わず声を漏らす。どうしたんですか、と尋ねてきた吉岡に「博物館に荷物送るの忘れてた」と返事をした。僕一人では無理なレベルの資料整理に協力してくれる代わりにいくらか資料を寄贈することになっている、カイナの博物館へ送る予定だった荷物の存在がすっかり頭から抜け落ちていたのだ。書面を書き終えて封をするまでのところまでは出来ているのだが、肝心の送付がなされていない。
郵便局の窓口に直接出さなければいけないから、行ける時間は限られている。しかし今日中に送ってしまわないと、メールで申し伝えた日時に間に合わないだろう。どうするべきか、と一瞬逡巡して、今日はもう授業の無いことに思い至る。

「吉岡。ちょっと郵便局行ってくる、20分くらいで戻るから」

だから留守番よろしく、と続けようとして、しかし僕はそう言うのをやめた。風に揺れるカーテンを背にして立っている吉岡の、見慣れたその顔に、僕は別の台詞を投げかけていた。

「……暇なら、一緒に行くか?」

数秒の間を置いて、いいんですか、と吉岡が言う。まあ、下校時間はとっくに過ぎているし、郵便局は学校のすぐそばにあるのだから問題無いだろう。その旨を伝えると、「ふうん、じゃあ、いいんですけど」などと言いながら吉岡は雑巾とスプレーを床に置いた。窓の日の光に照らされた横顔が、嬉しそうな難しそうな、複雑な表情を浮かべていた。
それが気にならなかったわけでは無いけれど、僕が言及出来るわけでもなく、机の下にしまい込んでいた荷物を取り出して窓を閉める。大して風も吹いていなかったのに、それでもその通路を断つだけで不快指数が一気に跳ね上がった。無意識のうちに呻きそうになりながら、壁に掛けておいた鍵を取って廊下に出る。

「そういえば、吉岡」

熱気の立ち込める廊下を歩きつつ、先ほど不意に思った疑問を口にしてみる。

「お前痩せた?」

「そうですかねー……っていうか先生、それセクハラですよ! 体型のこと言っちゃいけないんですよ、今は性別関係無く色々厳しい時代ですからね」

「はいはい、ごめんって……いや、冗談抜きに気を付けろよ。夏だし。食欲無いとか寝苦しいとか、わかるけど夏バテには本当、ちゃんと食べないと危ないからさぁ」

「わかってますってば、心配いりませんよ。それより先生聞いてください! 今日聞けた唯一の話なんですけど、裏庭に出るユンゲラーの幽霊で。ええとですね、体育倉庫のあるところのフェンスに穴があって抜け道になってまして、そこから入って……」

「またそれか、っていうかなんだ抜け道って。今度用務員さんに塞いでもらわないとな……あ、あと吉岡。手洗ってけよ、掃除してたんだからお前」

廊下を進む僕たちが交わす取り止めの無い会話は、鳴り止みそうにもないテッカニンの声に掻き消されそうだ。この大合唱はいつまで続くのだろうか、あと1ヶ月は確実、ひょっとしたら9月にも終わっていないかもしれない。子供の頃は無償に嬉しく思えたものだけど、いつからだったろうか、暑さを増すだけの効果音としてしか捉えられなくなっているような気がする。
ユンゲラーの霊とやらの話をぺらぺらと喋っている吉岡を横目で見やる。楽しそうなその様子はいつも通りの彼そのままで、つまらないつまらないとしょげていたのが嘘のようだった。先ほど感じた、彼が何だか小さく見えたのも気のせいであったのだろう。僕の目の方がやられているのかもしれない、何よりこの暑さなのだから。



「…………暑いな」

「…………はい」

炎天下。そんな表現が、真昼間の外には必要以上に似合っていた。
良く言えば閑静、悪く言えば何も無い住宅地。学校があるのはそんな土地で、少しの店や施設の他にはほとんど家しか見えない道路には照りつける日光を遮ってくれるものなど何も無かった。上空から降り注ぐ太陽の光と、アスファルトに照り返した熱がダブルパンチを決めてくる。全身から噴き出す汗は止めようもなく、ひたすらに気を遠くすることしか今の僕に出来ることは無かった。
どうにか郵便局までは行ってきたものの、学校から歩いて10分という距離は地味に長い。僅かに出来た塀の影ではニャースがうんざりと伸びているけれど、少しでも気を抜いたら同じようになってしまいそうだった。しかも戻ったところで待っているのは暑くて蒸した歴史資料室、その事実が感じる熱気をさらに強くする。
クーラーの効いた郵便局に思いを馳せつつ、僕はこめかみの汗を拭う。あっちの方が若干影っぽい、ということを伝えようと隣を歩く吉岡に言おうとして、しかし代わりに口から出たのは疑問符つきの台詞だった。

「……吉岡? どうしたんだ、具合でも悪いのか?」

僕よりも数歩遅れたところで足を止めていた彼に問う。だが、吉岡は僕の質問には首を横に振って、ただ同じところで立ち止まったままだった。
仕方が無いので彼がいるところまで戻る。と、その視線の先には小さな神社があった。近くの駐車場やコンビニに囲まれて、それなりに神秘的な雰囲気を放ってはいるもののあくまでそれなりな、こじんまりとしたその神社に「ああ」と僕は頷く。

「結構歴史あるらしいな、ここ。僕は入ったこと無いんだけど。基本無人っぽいし、お祭りとかがやってるわけでもないし。そういえば何のご利益があるのかもわからないな」

「神社…………」

「何が祀られてるのかもわからん……どうした、気になるのか? そんな見て」

塗装の禿げた、赤い鳥居をじっと見つめている吉岡にそう聞くと、彼はこくりと頷いた。神社なんて今時の高校生の興味を引くようなものでは無いと思っていたけれど、必ずしもそうではないらしい。オカルト研究部などを立ち上げようと考える吉岡のことだから、そういう要素を持ったものとして面白く思えるのだろうか。
「じゃあ入ってみるか。せっかくだし」そう切り出した僕に彼が再度頷く。この様子だと、吉岡もここに来るのは初めてに違いない。通学途中にこの道を通る生徒も多いだろうけれど、バスを使えばこっちに縁は無いはずだから知らなくても無理はないだろう。特段奇妙なものは無い、ごく普通の神社といった様子の境内であったけれど、吉岡はきょろきょろと周囲を見回して感心したような表情を浮かべている。僕はと言えば、木が植えられているお蔭で若干和らいだもののやはり厳しい暑さに辟易していて、その影で涼むマダツボミやナゾノクサなどに同情していた。

「先輩、あの」

「あれ、珍しいこともあるね」

その時だった。僕と吉岡以外には誰もいなかった、誰かが来るとも思わなかった神社に二つの声がした。そう思っていたのはどうやら相手方も同じだったようで、振り返った先にいた声の主たちはこちらの姿を見て少しばかり驚いたような顔をしていた。小声で交わされた会話が、その気持ちを如実に表わしている。
鳥居を背にして立っていたのは二人の若者で、おおよそここにわざわざ足を運んだという感じには思えない。足下と頭の横にはそれぞれのポケモンだろうか、炎を消したマグマラシと、炎天下なのに何故だか雨天時の姿をしたポワルンが主人たちと共に視線をこちらに向けていた。
ワイシャツ姿の僕に比べるとそれぞれ涼しそうな格好、Tシャツやポロシャツに身を包んでいる彼らは参拝客ということで良いのだろうか。人のことは言えないが、こんな時間に神社に来れる人間もそうそういまい。先ほど片方の男が『先輩』ともう一方を呼んでたのから考えるに大学生だろうか、それにしてはその『先輩』と呼ばれた方は少々貫禄がありすぎる気もするけれど。
そんなことを考えていた僕は無意識のうちに不躾な視線を送ってしまっていたようで、『先輩』が申し訳なさそうに口を開いた。

「あ、あの。さっきはすみませんでした、珍しいとか言っちゃって……ここ、僕たちみたいな人以外が来てるのってそうそう見ないものですから。ね、巡君」

「え、はい。そうですね」

人の良さそうな笑顔を浮かべた『先輩』は苦笑しながら頭を下げる。急に話を振られたもう一方の男は少しばかり驚いたような声で同意したものの、それ以上何かを言うでも無く『先輩』の数歩後ろに立ったまま視線をさまよわせていた。困ったような目つきが、眼鏡のレンズ越にあちらこちらへ飛ばされる。
巡という名前らしい、便宜上『後輩』と呼ぶことにした彼をそのまま見続けているのもアレなので、「僕は」と『先輩』に倣って自己紹介でもしてみることにする。しかし僕が口を開くのと同時に、『後輩』は「僕ちょっと向こう行ってきます、お社の方」と、マグマラシと共に足早に離れてしまった。その様子に、『先輩』が「すみません」とまたもや謝る。

「人見知りなんですよ、彼。あ、別に悪い子じゃないんですけど……こうやって俺が話してるとすぐ、ああやって」

「いえ、いいんですよ。こちらこそすみません、じろじろ見てしまって」

苦笑をさらに深くした『先輩』だが、どちらかというと『後輩』の方が自然な態度であろう。大学生で、真っ昼間の神社に来るような初対面の男に堂々と話しかけられる『先輩』の度胸というか精神は、僕にとってもいささか羨ましいものとして感じられた。しかも話しかけられた身としても不快感も無く、自然に受け入れられる雰囲気も、また。

「僕とめぐ……彼はタマムシ大学に通ってまして、ここには時々来るんですよね。この神社、地元の人も滅多に使わないんですけど、なんでかタマ大生には隠れ人気スポットみたいな感じで扱われてて……理由はわからないんですけど、うちの大学の人はよく行ってるっぽいですよ」

鳥居を見上げながら言う『先輩』の説明に、僕はなるほどと頷く。大して参拝客も無さそうなこの神社が割合ちゃんと残っているのは、タマムシ大学の生徒が支えているからなのだろう。信仰心などに加え、お賽銭的な意味でも。
一人で納得している僕に、『先輩』が何か言いたげな目を向ける。『後輩』と同じくレンズ越しの瞳が言わんとしてるその内容が何となくだけれども伝わってきて、僕は慌てて口を開いた。当然だ、こんな時間に制服姿の高校生をいい大人が連れ歩いていたら不審に思われるのも無理はない。

「あ、僕はそこの高校で教師をやってるもので、今はテスト期間でして……荷物を郵便局に出してきた帰りなんですよ、で、こちらは教え子です」

「? ああ、なるほど」

半歩後ろにいた吉岡に目で促すと、彼は慌てたように一礼した。一瞬の間を置いて、『先輩』が頷きを返す。なるほど、あああそこですね時々帰り道に前通りますよ、と先ほどまでの笑顔に戻った『先輩』は人好きのする笑みを浮かべた。その横で、ふわりふわりと青い雫型をしたポワルンが揺れている。
理由はわからないが社の裏に行ったらしい『後輩』がまだ戻ってこないため、何となく『先輩』と話してみることにした。この神社のことを、少なくとも僕や吉岡よりは知っているだろうしちょうどいい。

「ここ、結構古い神社らしいですよね。ここに赴任してきたの今年の春なんでよくは知らないんですけど……何の神様だとか、知ってます?」

尋ねてみると、『先輩』は「ええ」とにっこり笑った。

「ここにいらっしゃるのは、厄除けの神様だそうですよ。巡君……あの子はこういうの好きなので調べたみたいで、教えてくれたんですよね。あまりわかりやすい感じの飾りとかがあるわけじゃないから、いまいちわかりにくいんですけど。お守りとかも売ってませんしね」

「厄除け……へぇ、そうだったんですか。そんな神社がこんな近くにあったなんて思いもしませんでしたよ」

「まぁ、なかなか御利益とか気にすることもありませんしね。どうやら、御神体はベロリンガらしいですよ、厄とか、取り憑いてるものを綺麗さっぱり舐めとってくれるだとか……何とも言えませんけど、その件に関しては」

はは、と『先輩』が苦笑する。確かに、それを想像するとどうコメントして良いかわからない。僕もそれ以上の追及はせず、微妙に話題をずらす。

「失礼なことをお尋ねしますが……ここにいらしたってことは、厄除けのご用件があるということでしょうか? それとも、やっぱりとりあえず参拝という方でしょうか」

「いやいや、今回の僕たちは厄除けをお願いしに来たんですよ。いえ、というのもですね……まぁ、去年の秋にちょっと。色々ありまして。憑いてる……と言うべきかわかりませんけど、まぁ、ちょっと不安でして」

「はぁ…………」


「いえ、気にすることも無いようなことですしそもそももう大丈夫だと思うんですけど! でも、まぁ一応。明日から2人でエンジュ旅行行くんですけど、2人して疑惑あるので、気休めというか念には念をというか、石橋はアームハンマーというか。上手く説明出来なくて申し訳無いのですけど、説明のしようもなくて。すみません」

1人でぺらぺらと喋っていた『先輩』が、困ったように謝るので僕も慌てて、いいんですよ、と止める。言いたいことは半分ほど理解出来たような気がするけれど、何と返すべきかはわからない。吉岡始め教え子たち、同僚の教師相手なら「そんなのあり得ませんよ気のせい、そうでなかったらゴーストポケモンの悪戯です」とでも言えるのだけど、流石に初対面相手にそんな言葉を吐く勇気は僕には無かった。
適当な頷きと相槌を返した僕は、その他に何を言ったものかと逡巡する。と、良いタイミングで「先輩、」と『後輩』が社裏から戻ってきた。Tシャツの襟元をぱたぱたして風を送る彼は、頭についた葉っぱを払いのけながら残念そうに言う。

「いらっしゃいませんでしたよ。どこにも。僕お社の下まで潜りこんだんですよ、でも駄目でした。」

「君さぁ……大学2年にもなって何してんの。大体そこにはいないと思うけど、お社の下って……」

「わからないじゃないですか。僕が神様だったらそうしますよ、人目につかないところにこっそりひっそり隠れて暮らしますからね。思いつくところは全部探さないと」

「だから、君みたいに探す人がいるから逃げるんじゃないの。人目につかないところにさ……あ、すみません騒がしくて。本当」

Tシャツの所々に土をつけた『後輩』と何やら言い合っていた『先輩』が、こちらを思い出したようにはっとする。その会話の内容に、「何か探されていたんですか」と尋ねてみると『後輩』は決まり悪そうに視線を逸らしてしまった。それを横目で見て、『先輩』が微笑を浮かべる。

「いつも神社とか、そういうところ行くと探してるんですよね。神様が見つからないかって。まったく、いい加減謹んでくれないかと言ってるんですけど」

「うるさいですね、僕はいらっしゃるって信じてるんですよ、放っておいてください」

「そこは否定してないよ。俺が言ってるのはさぁ、君に簡単に見つかるほど神様だってうっかりしてないでしょっていう話で、探すことをどうにかして欲しいって話」

「…………神様、ですか」

つい口から漏れた僕の呟きに、2人と2匹が一斉に振り向く。どうしたんだと言いたげな4対の視線に、しまったと思いつつも口に出したものは仕方ないと考え、僕は社を指差した。

「いますよ。ベロリンガなら。あそこに」

そう言った僕に、『先輩』と『後輩』はしばらく顔を見合わせて何とも言えない表情を浮かべていた。しかし、「ですから、これからもここに来てくださいね」と続けると、数秒の間の後に2人は揃って頷いた。何かを感じ取ったらしい彼らの笑顔の後ろ、真新しいとも綺麗とも決して言えないけれども、しっかり掃除がされてそうな社の中には桃色の影が見える。僕に今言えることなど、この程度だろう。
お参りをした彼らを見送った僕は、そこで初めて吉岡がいつの間にか、鳥居の足下にしゃがみ込んでいたことに気がついた。ナゾノクサたちが休んでいるそこはいい感じの日陰になっていてなるほど休むには都合が良さそうだったが、そんなことはあっと言う間に意識の外に飛んでいった。
残った塗装の赤と剥げた箇所の黒が斑になった鳥居の下、吉岡はいつにも増して顔が青白く見えたのだ。熱中症か日射病か、頭に浮かんだ嫌な予感を追い払いながら急いで駆け寄る。

「おい、吉岡、大丈夫か……」

「あ、三木先生。いえ、ちょっと。なんか暑くって。外はやっぱり暑いですね」

そう答えた彼は思ったより元気そうであったが、やはりどうにも具合が悪そうに思えた。顔色は間違い無くいつもより良くないし、声も力が抜けている。鳥居にもたれ掛かるようにして笑った吉岡は、学校で見る彼よりも病弱そうというか薄幸そうというか、いつもならば少しも似合わないようなイメージを抱かせた。
ちょっと暑いだけですから平気ですよ、という吉岡の言葉はきっと嘘では無いのだろう。しかし暑さとは馬鹿に出来ないものなのもまた本当だ、少し考えた末、僕は「ちょっと待ってろ」とそこから立ち上がった。先生、と不思議そうに呼びかけた吉岡を手で制して鳥居の外に出る。
自動ドアを抜けて「いらっしゃいませー」斜め向かいのコンビニに入り、クーラーボックスから適当なものを掴んで会計を済ませる。「ありがとうございましたー」と背中で聞きながら小走りで道路を渡り、鳥居の中へと戻ると彼はまだ怠そうにしていた。

「あ、先生……どしたんですか、急に」

半ば寝転ぶようにして鳥居に預けていた身体を起こし、吉岡が僕に問いかける。それには答えず、コンビニのビニール袋から買ってきたものを放り投げて彼へと渡した。少しびっくりしたように目を丸くした吉岡が、「何ですか、……これ……」と首を捻る。

「内緒な。とりあえずこれ食って体冷やせ」

「えっと…………アイス、ですか?」

パッケージをまじまじと眺める彼に頷いてから、そういえば熱中症にはアイスよりもスポーツ飲料とかが良かったんだっけと今更ながらに思い出す。しかしもう遅い、食べないよりはマシだろう。糖分が入っている分プラスだと思うことにする。
何がそんなに面白いのか吉岡は未だ外袋を見ていたが、何観察してるんだ、と言うと慌てたように封を切ろうと袋を持ち直した。しかし手に力が入らないのかそれとも袋が濡れているせいか、指を滑らせているだけの彼が袋を開封出来る気配は皆無である。
仕方が無いので、吉岡の隣に腰を下ろした僕は彼からパッケージを取り上げて代わりに開ける。中から出てきた水色の氷の塊、ソーダのアイスバーだけを吉岡に手渡した。

「ええと…………先生、」

「え? もしかして嫌いだったか……? アイス」

「いえ! そんなことは無いです、いただきます」

妙に慌てた感じで、吉岡はアイスバーに口をつける。その一口目から数秒間、彼は何故か硬直していた。そして喉を鳴らして、ほっと息をついて小声で呟いた。

「…………おいしい」

「……そうか」

そんなに感心したように言ってもらえれば、ソーダバーも幸せだろう。夢中になって食べている吉岡を横目にそんなことを考える。よほど喉が渇いていたのか腹が減っていたか、ソーダバーを食べる彼はいたく嬉しそうで、そんなにするまでのことかと思うくらいに幸せそうであった。相変わらずテッカニンはうるさいし、バタフリーは飛び回っているし、それ以外のポケモンたちは等しく涼を求める暑さではあったものの、ここの前を通った時よりかは穏やかになっている気がしなくもないような、そうでもないような。
そして食べ終わって先程よりかは顔色が良くなったように見える吉岡と共に学校に戻り、「そういえば教室に教科書置きっぱなしでした」という台詞と共に昇降口から走っていった彼を見送ったところでなし崩し的に本日の部活は終了となった。残った資料を片づけて、採点を終えた答案を職員室の金庫にしまって、吉岡の使った雑巾を廊下に干す。結局僕たちが参拝をし忘れていたことに気がついたのは、昼間に比べれば幾分涼しくなったように思えなくもない、7時を回ってもまだ沈まぬ夕日に照らされた歴史資料室の扉を閉めた時だった。


5.陽炎のような夏休み

うだるような暑さ、という表現は今この時のために作られたのではないだろうか。そんなことを本気で考えてしまうくらいには暑くてたまらない。拭っても拭っても次から次へと沸き出す汗はしかし体温を奪ってくれることもなく、倫理的範囲で可能な限り襟元を緩めたシャツにシミを作るだけであった。
ジワジワというテッカニンの声だけが世界を支配しているかのような錯覚に陥る、暑さで満ち満ちた校舎ではそれでも生徒たちが高校生ライフを謳歌している。炎天下のグラウンドでは野球部が声を合わせてランニングし、テニス部が互いに掛け声を口にしながらラリーをし、吹奏楽部による、楽器ごとの練習は各教室から響いてくる。体育館でもバスケ部やバレー部が練習中だし、少し注意を傾ければ水泳部のホイッスルや合唱部の歌声も聞こえてくる。先程廊下を走っていったのは文化祭準備に追われる生徒会の連中か、それとも美術部の部員たちか。ゲームを作っているらしい、コンピューター同好会が職員室に向かったものかもしれない。熔けるような真夏の学校は、生徒それぞれの音に溢れている。
カントー全土を巻き込んだ戦について纏められた資料をファイルに入れながら見やった窓、ガラスを開け放った向こうにあるのは絵に描いたような青空だ。あの、しつこいほどに降り続いていた雨が嘘だったみたいである。ギラギラと熱線を放つ太陽がアスファルトを、体育館の瓦屋根を、校庭の土を焼き尽くす。とてもじゃないが直視出来ないその眩しさは、きっとカロス神話におわせられる生命の神の輝きですら書き消せるに違いあるまい。
暑い。とにかく暑い、それ以外の感傷は持てなかった。クーラーも扇風機も無いこの部屋に、涼をもたらすのはカーテンを揺らす僅かな風と、気休めにと取り付けたアズマオウ柄の風鈴のみである。しかもその風すらほとんど吹かないから風鈴も鳴らず、たまに吹いたと思えば生温い、余計に不快感を募らせるだけのものだった。不快指数ならば校内屈指のこの部屋で、1日の大半を過ごし続けているとだんだん、生きている心地すら失われていくように思えてしまう。かと言って死にそうだったり死んでいる心持ちというわけでもない、何もわからなくなってくる。
それくらいには、暑かった。追い討ちをかけるテッカニンの声、照り返すアスファルト。全てが、揺蕩うように融けそうである。こういった現象を何といった、だろうか。

夏休みが始まって、2週間が経っていた。

「…………あっつ、」

ぽつ、と音を立てて首筋から流れた僕の汗がプリントに落ちる。慌てて拭き取ろうとしたがその手すら汗だらけでどうしようもない、もはや何が濡れていて何が濡れていないのか不明瞭になってきた頭は、肩にかけたタオルでプリントに出来たシミを拭くことを諦めた。どうせ放っておけば乾くだろう、わざわざ余計な手間をかける必要もあるまい。

「なぁ、吉岡」

茹で上げられたように火照る身体を、椅子にもたれ掛けさせて彼に声をかける。蒸した部屋の片隅で、昔に使われていた農具などを眺めていたらしい吉岡は、はたと気づいたようにこちらを向いた。
白いシャツと濃い灰色のスラックス、4ヶ月ほどで見慣れたこの学校の制服に身を包む彼はあまり暑がっていないように見える。しかしそれは良い意味ではなく、どちらかというと熱中症を心配したくなる類の方だ。色素が濃いとは言い難い顔色は悪く、目もどこか虚ろである。

「大丈夫か? 別にいいんだがな、来なくても。別に部活だってこれと言って何かやってるわけじゃないし、ここ暑いし。手伝ってくれるのは嬉しいけど」

「んー、……いいんですよ、先生。僕は好きこのんでやってるんですし、こう見えて暑さには強いですから、ね」

「そうは言っても……お前ほら、一応受験生だし」

そんなことを口にすると、オカルト研究部員3年生の彼はへらりと笑って、大丈夫ですよ、と呟いた。吉岡に限った話じゃないがこの、根拠の無い「大丈夫」はどこからやって来るのだろうか。仮にも受験生の夏休み、毎日のようにこうして資料室に姿を現わす彼の成績はよく知らないけれども不安になってしまう。進学希望なのは間違い無いはずだし、推薦で受けるつもりだとしてもここまで余裕そうにしていると教師としては何か言いたくなるところなのだ。

「まぁ、でも。具合悪くなったら言ってくれよ、熱中症とか怖いし。この本当に暑いから」

「はい」

至極短い返事。夏休みに入ってからというもの、吉岡はずっと元気が無い。思い当たる理由としてはやはり暑さが浮かび上がるから、こうして登校を控えるよう暗に促してはみるのだが、それでも彼が歴史資料室に来ない日は訪れないままだ。散々雨を降らせていた窓の外がその反動とばかりに青々と広がり、呆けたような吉岡の横顔を逆光にしている。

「……そうだ、先生。……知ってますか、理科室の、コラッタのホルマリン漬けが夜になると逃げ出して正門のピカチュウ像と」

「…………知ってる。昨日も聞いた」

「…………そう、でしたか」

各部活からは3年生が引退し、新しい世代たる1、2年生は猛暑の中練習に励んでいる。受験を控えた3年生は大半が予備校に通っているから登校する生徒は今やかなり少数派だし、いたとしても自習や補習のために来ているのだ。誰もが暑さと秋に待ち受ける大会やイベントと、そして将来のことだけを考えている。
8月に入った学校。噂話に興じる生徒はいなくなった。
それぞれの部活という、ある種閉塞したコミュニティでしか現在の生徒たちは過ごしていない。3年生に至っては個人戦だから噂の広まる場所すら激減しているだろうし、そもそも噂どころでは無いという生徒がほとんどだろう。吉岡の、頼みもしないのに教えてくれるオカルトトークを聞く頻度もテスト明けから徐々に落ち込んでいって、今ではほぼ無くなってしまった。多くて1日に数回、それもあったところでさっきのように、同じ話を繰り返すことすらある。
彼の元気が無いのはきっとこのせいだろう。元々お喋り好きの吉岡だから、こうして皆と話せる時間が減ったのはかなり辛い状況だと思う。彼と親しげにしていた生徒たちも、恐らくその全員がそれぞれ色々なことに追われているのだから。

「そうだ。吉岡は、塾とか行かないのか? 補習とか……」

「あ、ねぇ。先生。これ何ですか」

ということを考えて、せめてもの機会になればと口にしかけた僕の提案はしかし、吉岡の言葉に遮られた。
首筋の汗を拭いながら彼の方に目を向ける。と、吉岡が資料の一つ、一応は透明のケースに収められてはいるもののかなり埃を被っているものを指差していた。座っていたせいですっかり温くなったパイプ椅子立ち上がり、彼曰くの『これ』に近づいて説明書きを探す。控えめに立て掛けるようにして、ケースの隣に置いてあったそれは元の色が何であったのかもわからないくらいに変色していた。

「あー、これは……御神木……だったもの、らしい」

ケースの中にあるのは、一見しただけでは、いや二見しても三見してもわからない物体である。薄汚れたガラスに目を凝らせば、かろうじてそこにあるのが茶色い、乾いた、小さな木片だということだけが見て取れた。
何百年も前、タマムシにあったというこの木片の元である大樹は御神木として祀られていたらしい。まだ整理の終わっていない棚を漁れば、当時の様子を描いた絵も出てくるであろう。説明書きの記述によると、かなり大きな樹であり、それだけの規模の信仰も集めていたそうだ。

「でも、雷で折れたらしい。それでまぁ、社も一緒に燃えて……しばらくはそれでも拝まれてたみたいだけど、だんだんタマムシも都会になっていったし。それでもう一回、今度は大きな火事に遭って……で、ほぼ完全に無くなった、と」

「それで、これですか」

もはや片手に収まるくらいの欠片となって、汚れたガラスケースに閉じ込められた木片を見て吉岡が言う。僕はそれに頷くことも出来ず、ただ彼と同じ場所に視線を向けていた。

「この前、先生と行ったあの神社は。あの神社は、まだ残ってるんですよね」

「…………それは、まぁ。ああやって来る人もいるから」

「でも、この樹は……この、神様は、そうじゃなかった、と」

吉岡の、白い手がガラスに積もった埃を払う。その手つきはどういうわけか、愛おしむような慈しむような、憐れむようなもので、
そのくせ、酷く弱々しいもので、

「消え、ちゃったんですよね。先生」


「………………吉岡、」

その時の僕は、模範的な教師の顔とでも言うべきものを浮かべていたのだろう。その質問に答えることは、僕にはどうしても出来なかったのだ。それを口にしてしまったらおしまいなのだと確信していた。言葉にしたら、何もかもが崩れ落ちるに決まっていた。
だから、僕は話題を逸らしたのだ。言わないように、言葉にしないために。これ以上、話が進んでしまうよりも前に。

「顔色、悪いけど。大丈夫か? 吉岡、具合悪かったりしたら言えよ」

強引に話を打ち切った僕の思惑に、吉岡が気がついたかどうかはわからない。しかし彼は「はい」と笑いながら頷いて、それ以上何か言ってくることも無かった。
そして、開け放しした窓の遠い向こうから何か警報器の音が聞こえたのもそれと同時だった。轟音と騒音と振動、幾多の悲鳴が学校中に響き渡ったのは、それから数秒後のことである。





学校の近隣にあるポケモン研究施設で、新たな回復アイテムの開発チームがポケモンに与える物質を誤ったため、ポケモンたちが激しい混乱状態に陥った。全くの不測事態に職員は対応出来ず、施設の一部を破損しながら脱走したポケモンたちが学校にも向かってきた。部活動や補習、自習などに勤しんでいた生徒たちもまた予想だにしない事態に驚き、校内は一時パニックに満ちた。幸いにも死人や重傷者は出ず、恐怖による興奮状態になった生徒も落ち着きを取り戻した。避難ガイドに則り体育館に集められた生徒たち及び、事故時学校にいなかった者も含めて全ての生徒、教師の無事を確認済。今現在は全校生徒の帰宅が完了されている。
以上、あの後起こった出来事の概要である。割れた窓ガラスや女生徒の泣き叫ぶ声、その中を半ば現実味の欠けたまま動き回り、ようやく事態がある程度落ち着いた時には学校とその周辺一帯が大騒ぎとなっていた。
吉岡の避難は他の教師に任せて、僕は門の警備にあたっていたからその後の彼の動向はよく知らない。しかし、全ての生徒が無事帰宅出来たという報告をもらったから、吉岡もまたそうであるに違いなかった。とりあえず彼に危険が及ばなくて良かったと思いながら、彼が眺めていた御神木に埃除けの布を被せてから、僕は歴史資料室の鍵を閉める。もはや、この部屋どころでは無かったからだ。





そして学校にはしばらく立ち入り禁止となった。警察や消防署の調査があるようで、また一部壊れた設備の修理も入るらしい。夏休み中であったのは不幸中の幸いだっただろう、どうしても練習の必要な部活動は公民館などを借りて活動しているみたいだし、諸々の不都合は生じれど大きな問題は無くて済みそうだった。
僕としても、夏休みに目処を立ててしまおうと思っていた歴史資料室の整理が出来ないのは痛いところであるけれども、それ以外に何かといった事も無い。重体レベルの怪我人も出なかったし、混乱状態になったポケモンも無事保護された。研究所側の被害もそこまで大きくなかったらしく、事故が起きたとは言えかなり幸運な部類だろう。
クーラーの効いた自室でそんなことを考える。お盆に実家に帰る予定だったけれど、少しばかり予定を前倒しにすべきかもしれない。学校に入れない分、違う場所の会議室を借りて職員会議を行ったりしていたのだが、お盆明けに学校への入場が許可されるらしいから、恐らくバタバタしてしまうだろう。ならば少し帰る時期をずらして早めに戻ってきた方が良い、そう考えた僕は実家に電話をかけるべく携帯を手に取った。
学校に入らない日が続いて1週間。生徒たちは元気にしているだろうか。せめて今やれることはしておこう、と机に広げていた資料を眺めて思う。光を放つデスクトップの画面には途中まで出来た目録が表示されていて、その作業の終わりがまだ遠いことを暗に示していた。
そしてその右下辺り、今この場に資料が無いため記入出来なかった空欄が目に留まる。そういえばまだ梅雨が明けていない頃、これに必要な資料の写真を撮ったではないか。正確には吉岡に撮ってもらった、と言うべきなのかもしれないけれど。他の教師に頼まれてメールで送った画像が、今もカメラロールに残っているはずである。
思い至って、電話を後回しにした僕は画像フォルダを起動した。そんなに写真を撮る方じゃないから目当てのものはすぐに見つかって、カタカタとキーボードの音を鳴らして必要事項を入力する。一つ項目の埋まった液晶に満足し、良かった良かった、とカメラロールを閉じようとホームボタンに指を伸ばした。

しかし、そこで僕の指は動きを止めた。


「……………………え?」


無意識のうちに、声が漏れた。
同時に、怒濤のような記憶が押し寄せた。
そしてその記憶は、瞬く間にパズルのピースの如く組合わさり、一つの図式を作り上げた。


親しげに喋り合う友達は数え切れないほどいるのに、放課後を共に過ごす相手を誰も見たことが無い。
理系クラスだと本人は言っていたけれどもそれを肯定する生徒も、同じクラスだという生徒も、担任なのだという教師も一人として存在しない。
テストにも受験にも興味を示さず、3年生という時期なのに何も関係の無さそうな態度を取っていた。
海という単語に考え込んだのは、行ったことが無いというよりも、その存在をよく知らなかったからでは無いだろうか?
他の地方や他の町、それどころか学校の外のものに全て、異常なほどに感心していたあの様子。
そのくせ、あの学校を出た外で、神社の鳥居の足下で、酷く疲れたように寝かせた身体。
ソーダアイスを食べる時のあの感動っぷりは暑くて喉が渇いていたからなんかじゃなくて、今までアイスを……いや、何かを食べるという行為をしたことが無いから、だとしたら?

今まで、僕は彼が帰っていくのを見たことが無い。
彼が、登校してくるのさえ、この目に映したことも無い。

彼はいつだって気がついたら歴史資料室に、廊下に、教室に。


いつだって、彼は、学校にいたのだ。


彼が『インカメしちゃいました』と言ったはずの画像、彼を撮ったはずの画像、あの時の彼が背にしていた雨空の窓しか写っていない画像を画面に映した携帯が、僕の手から滑り落ちる。それは音を立てて床にぶつかったけれど、僕の身体は少しも動いてくれなかった。鉛のように重たいような、それでいて全身から血を抜かれたように軽いような。指一本動かすことも出来なくて、頭はがんがんと痛かった。
脳裏で警鐘が響き出す。学校の噂話を楽しげに伝えてくる彼の話し口が、海という言葉に一瞬だけ揺らされた彼の目が、この世で一番のご馳走だとでもいう風にアイスを食べる彼の笑みが、夏休みが進むごとに弱々しさを増していく彼の姿が、御神木だったものを前にした『消えちゃったんですよね』という彼の声が。一斉に、頭の中を駆け巡る。

鼓動がどんどん速くなっていくのを、どこか他人事のように感じた。ようやく足が動いた時には既に僕は、床に落とした携帯を拾い上げることすら忘れて、机の上の財布だけをひっつかんで部屋を飛び出していた。
熱帯夜とも呼ぶべき、蒸し暑い暗闇。もわもわと充ちる湿気を表すかのように夜空に広がった雲は重苦しい灰色で、散々続いた梅雨を思い出させるようだった。





捕まえたタクシーに「出来る限り速く!」と叫んで夜道を飛ばしてもらい、料金を半ば放り投げるようにしてドアから雪崩れ出る。運転手が終始不可解な表情を浮かべていたけれど、そんなことに構ってはいられなかった。一刻も早く、一秒でも早く僕はあの場所へと行かなくてはならないのだから。
目の前に聳え立つ、夜の学校は誰の気配も無い。使われなくなった要塞のようであるが、先日の事件の処置がまだ済んでいないらしく張り巡らされた黄色いテープが唯一生活感のようなものを醸し出していた。ある種倒錯的な現象だが、とにかく誰もいないのは今の僕にとっては好都合である。
校門は正門も裏門もしっかり施錠されているから使えるはずもない、下手に乗り込んで面倒事になっても困る。だから僕は迷わず裏口の、体育倉庫があるフェンスの所へと向かうことにした。緑色の金網に空いた人一人分通れる穴は、いつか彼に教えてもらった抜け道だ。裏庭に出る、ユンゲラーの亡霊に会うための。
そうだ、これも、彼に教えてもらったのだ。思い返せば数えきれない。彼が教えてくれたのだ。いつだってそうだ、どれだって、そうだったのだ。教えてくれたのは、彼だったのだ。

僕に。
そして、学校中に。

雑草が好き放題に伸びた裏庭に入り込んだ僕は1階事務室のベランダへと向かう。ここの壁は壊れていて、修理が済むまでどうにか隠しているのだと事務員の方が言っていたのを僕は知っているのだ。そして、その修理がまだちっとも実行されていないことを。
植木鉢やら砂袋やら、スコップやらを急いでどかしている僕を、夜の裏庭に集まっているらしいズバットやモルフォンたちが遠巻きに見張っている。しかし今は構っていられない、暗闇に光るゴルバットの視線を背中に受けながら、僕は穴を覆い隠すものたちを放り投げていく。やがて現れたのは崩れかけた壁、流石に僕が直接通ることは叶わないけれどもまだ策はある。箒の柄を通して窓の鍵を開け、横に引いたガラスの間から事務室へと身体を滑り込ませた。
窓を閉めることすらもどかしく、全速力で廊下を走る。しんと静まり返った夜の学校はこれ以上無いほどに静寂に満ちているというのに、頭の中に鳴り響く警報がそれを核から打ち壊してしまっていた。床を蹴る自分の足音と、荒くなる息遣いと、聞こえるわけが無いはずの鼓動がやけにうるさく響き渡る。一刻ごとに速さを増すそれらに耳を貸さないようにして、ただ、薄暗がりを駆け抜ける以外にすべきことは無い。
会談を駆け上がる。また走る。その先の角を曲がる。
そして見えてきた、あの案内札、そこにある扉に体当たりするかのようにしながらドアノブを、回す。

鍵がかけられたはずのそこが、いとも容易く開いたことに対する異常は、しかし脳の片隅でしか認識されなかった。
急に走るのをやめたことによって、いきなり止まることが出来なかった身体が歴史資料室へと倒れ込む。極限まで荒くなった呼吸と限界の心臓、そして相変わらずのカビ臭さによって息が今までに無かったほどに乱れだす。チカチカする視界の中、血の昇った頭でどうにか呼吸を整える僕に、一つの影が重なった。


「三木先生」


いた。
彼が、まだ。

僕の目の前に、彼が、オカルト研究部部長を名乗る彼が、いたのだ。


「三木先生、こんばんは」

「吉岡」

上がった息ではそれしか言えなかった。その続きに何を言うか、考えることも出来なかった。
どうしてここにいるんだ、どうやって入ったんだ、早く家に帰りなさい? 違う、そんなことを言ったところで何の役にも立ちやしない。こんな、ありふれた注意などを彼にしてもどうしようも無いのだ。じゃあ何を言えばいい。何を聞けばいい。
彼に、何をすれば。僕がどうすれば。
彼は。

何も言葉に出来ない僕を他所に、彼はいつも通りの様子で笑っている。
いや、いつも通りなんかじゃ無い。彼の姿は、暗闇に浮かぶ彼の姿は今にも消えてしまいそうだった。テスト前の退屈そうな様子も、学校外の神社で立ち竦んでいた様子も、夏休みが進むごとに顔色を悪くしていた様子も。そんなものは比べものにならないくらいに、今の彼は弱々しく、か細いものに思えてしまった。誰が見てもおかしい、異常なほどに幽かな気配だった。
違う。誰が見ても、じゃない。きっと今の彼は、僕以外には見ることすら叶わないかもしれないのだ。

「ねぇ、三木先生。知ってます?」

彼は言う。いつものように。
その先を告げさせては駄目なのだ、と頭の中で僕が叫ぶ。だけどそれは声になってくれなくて、情けない呼吸だけに変わっていく。喉元から絞り出される呼気をどうにかして音に変えたいのに、僕の口からはやっぱり息しか漏れなかった。

「三木先生には、沢山の話をしましたよね。女子バスケット部の更衣室の鏡の話、消しゴムのおまじないの話、あと、美術室の石膏が動くとかも。他にもたくさん、たくさん。もう、数えられないくらい、いっぱい話をしました」

そんな僕の様子に触れること無く、吉岡は1人で喋り続けている。過ぎ去った時間を懐かしむようなその口調に、心臓を握り潰されるみたいな心地に陥った。やめろ、やめてくれ、そう言いたくて仕方が無い。そんな、全てを想い出に変えてしまうような。何もかもが終わったことだと言うような。
まるで、これから、過去になってしまうかのようなのは。
吉岡は笑っていた。ただ穏やかで静かで、その癖いつもみたいに悪戯っぽくて、誰にでも好かれる笑顔を浮かべていた。残酷なまでの笑顔で、彼は、三木先生、と僕のことを呼んでいたのだ。

「でも、これから話すのは、今までしたどんな話よりも面白いと思います。一番面白くって、一番素敵な話なんじゃないでしょうか。そう思ってもらえると、三木先生が面白いって思ってくれると、俺も嬉しい、ですね」

「………………吉岡、」

どうにかそれだけ声にする。情けないまでに震えきった僕の声は、しかし言いたいことや抑えられない感情を伝えるには十二分であったはずだ。
だけど吉岡は、それを聞いてくれなかった。わかった上で、伝わった上で、彼は 首を横に振ったのだ。僕の気持ちも願いも訴えも全部理解しているのに、それがもはや無駄なものなのだと言うように、彼は僕に笑顔を向けた。

「聞いてください。三木先生に、聞いて欲しいんです。この話は、この話だけは。三木先生、だけに。…………最後の、噂話は。誰よりも噂話を知ってる、オカルト研究部部長の俺、吉岡が。誰よりも噂話を信じない、三木先生だけに教えます」

駄目だ。

駄目だ。

そう叫びたくて仕方が無いのに、僕の口はもう動かすことすら出来ない。 やめろ、黙れ、黙ってくれ。お願いだから。子供のように泣き叫びたかったし、殴りかかってでも止めたかった。しかしもう、今の僕には何も出来ないのだ。ただ、彼の話を聞くこと以外に、僕の出来ることなんて何一つとして無いのだろう。



「ねぇ。三木先生。知ってますか?」


そうして、彼の話が始まってしまう。

夜の歴史資料室を背にした彼の姿は酷く弱々しくて幽かで儚くて今にも消えてしまいそうで、



「『ヨシオカ』っていう、話なんです、けど。ね」




終わりに近づいているのだと、はっきりわかってしまうものだった。


6.この世にオカルトは存在しない

「『とある学校に、こんな噂話があるのです』」


吉岡の言葉が、薄闇の歴史資料室に響く。いつもと変わらない白シャツとスラックス、模範的な夏服に身を包んだ彼が背にしているのは、今まで色々な景色を映してきた窓ガラスだ。閉められた鍵、取り付けられた風鈴は受ける風が無いために少しも動かない。
春の陽気を浮かべた青空。雲に覆われた昼の空。橙色から紫に変わりゆく夕焼、星が少しずつ滲み出てきた夜空。しつこいほどに続いた梅雨の曇天と、うんざりするほどに晴れ渡った夏の空。
様々な空を背景に、吉岡はその都度違う話を聞かせてくれた。彼は恐ろしく情報通で、お喋り好きで、流行りの噂に敏感だった。どんな噂も彼の口から語られないことは無く、あらゆる話が彼の声となっていた。どうして、こんなにも知っているのか疑問に思うほどに。


「『ちょっと不思議で、ちょっぴり怖めで、とびきり楽しい噂話。学校中が盛り上がる、沢山の噂は生徒を、そして時には先生たちも巻き込んで、毎日のようにみんなに伝えられていたのです』」


そして、それを今日も彼はやろうとしている。今までに無かった、夜中の曇り空を背中に受けて。『噂話』を、吉岡はその口から語ろうとしているのだ。


「『その噂は、一体どこから出てきているのか? それを不思議に思った人は沢山いたけれど、結局誰にもわからなかったし、知りようもありませんでした。そもそも本気で調べようとする人なんて、いなかったのかもしれませんが』」


その『噂話』が終わろうとしている。一番最後の話が、今、他ならぬ彼によって終わらせられようとしていた。


「『しかし、ちゃんといたのです。噂話の出処が。学校に、奇妙で愉快な噂を流していた1つの影が』」


噂話は終わりを迎える。



「『その影を、学校のみんなは、「吉岡」と呼んでいたのです』」



彼、『ヨシオカ』という噂話は、終わりを迎えようとしているのだ。




吉岡というその男子生徒が、一体何者なのかを知る人は誰一人として存在しません。彼と親しくしている生徒や言葉を交わす教師は数多くいましたが、彼の詳しいことを知る者はいなかったのです。きっと別のクラスで別の委員会で、別の所に住んでいるのだろうと、学校中のみんながそう考えていました。
彼は何者なのでしょう? それは、誰にもわかりません。彼は気がついたらそこにいる、そういう存在なのですから。生徒も教師も誰だって、この学校の中なら誰もが仲良く出来る存在なのです。彼は全ての生徒と友達で、全ての教師の教え子でした。彼はこの学校で、みんなの中に溶け込んでいたのです。

彼は、沢山の話を知っていました。沢山の不思議な、怖い、そして楽しい噂話をみんなに教えていました。それこそが、彼という存在がそこにいる意義だったのです。
彼はそういう存在でした。面白い噂話を教えてくれる。どこからともなく現れて、楽しく噂を伝えてくれる。彼という存在はそのために、この学校にいたのでしょう。

彼の姿が現れてからというもの、学校には数えきれない程の噂話が広まりました。月に1回、半月に1回、週に1回…………次第に生まれる頻度を速めていく噂はそれでもしかし、生まれる度に学校中を賑わせました。生徒も教師も、みんなその噂たちを楽しませていました。
ちょっと不思議で、ちょっぴり怖めで、とびきり楽しい噂話。溢れるそれは学校に笑顔と喜びと、小さな興奮を呼び起こします。
何度も、何度も。
いくつも生まれる噂は、雨がやまない日も暑くてたまらない日も、学校中を明るくしていたのです。


「『しかし、それもやがておしまいが来るのです』」


噂話というのは、あくまで噂に過ぎません。実態が無い、本当か嘘かわからないからこその噂話なのです。噂話が存在している保証は『みんなが話している』という事実、たったそれだけです。
彼の流した沢山の噂も、時が経つごとに消えていきました。噂話は遅かれ早かれ、人々から忘れ去られていくものです。新しい話題が出てくれば、古い話は記憶から無くなってしまいます。

けれど、彼だけは、『彼』という噂話だけは長いこと残っていました。何故でしょう。
簡単なことです。彼の存在意義は、噂話を教えてくれるということ。彼は、沢山の噂を学校に流すことによって、自らの存在を保っていたのです。



「『でも』」



テスト期間に、みんながテストのことを気にして噂への興味を無くすように。
部活や勉強が忙しくて、夏休みの学校で話すことが変わっていくように。

誰も入れなくなった学校で、噂話をする人などいなくなった学校で、ただ取り残された『噂話』はどうなるのでしょう?



「ねぇ、先生。三木先生」



吉岡は、『ヨシオカ』は言う。



「どうなると、思いますか?」




生まれた頃からこの体質で、僕はいつでも視えていた。
姿を消して悪戯を図る困ったゴーストポケモンも、バトルを有利に進めるためにその身体を隠して戦うエスパーポケモンも。
そこかしこに漂う、行き先に迷っている幽霊や地縛霊、強い思いに囚われてしまった魂だって視えている。出来ればあまり見たく無いような風貌の魑魅魍魎も、時には視界に入ってきた。

そうだ、僕は視えているのだ。
初めから全部、視えているのだ。


オカルトだって、僕は全部、この眼で視てきたのだ。


「三木先生だけが、俺を見ていたんです。俺が吉岡じゃなくて、『ヨシオカ』だってわかってたんですよ」

僕は視ることが出来た。彼が言うような『噂話』その正体が、僕にはいつだって視えていた。
女子バスケット部の更衣室には未来を見せる、全校生徒の消しゴムには縁と縁を結びつける、美術室には退屈している石膏を動かしてやる心優しい、ピカチュウの石像と逢瀬を重ねる、なんでも知ってる、願いを叶える、バトルを繰り広げる、夢の中に現れる、『正体不明』がそれぞれ存在している。いや、していたのだ。

「先生だけでしたよ、俺に『お前誰だ?』って聞いたの。そりゃあ三木先生は、単に自分が新しく来たばっかりだからって思ったんだと思いますけど。でも、みんなは違います」

この学校に流れた全ての噂話、全てのオカルトは、『存在している』。僕には視えているし、視えていた。ずっと昔からそうだったように、僕は全てのオカルトを眼に映していた。
沢山の、それはもう数多くの。ここに来てからいくつ視たことだろう、全てを覚えてはいるけれど、あまりの多さに数えようとは思えなかった。

「だって、みんなはそんなこと思わない。……思えないんです、よ。そもそも。俺はここにいるのが当たり前、オカルト研究部もあって当たり前。俺は、そういう『噂話』なんですもん。オカルト話が大好きな、お喋りの3年理系男子。たったそれだけの情報で、みんなは俺を無意識に受け入れるんです」

僕は、オカルトが視える。
正体不明のオカルトが、存在することを知っている。

「三木先生は視えてるんだ。俺は嬉しかったよ、噂話に惑わされてる人ばっかりの中でそうじゃない。俺の正体、不明な正体『ヨシオカ』を視てくれる人がいて」


だから、わかったのだ。


「だから、思ったんだ」


わかってしまったのだ。



「三木先生には、俺が消えるところまで視て欲しいって」




オカルトの正体が視える、そこまでは良かったのだ。時にはおぞましい見た目の者もいたけれど、それでも僕なりにこの生まれつきを楽しんでいた。みんなには見えないものが見える、という特別感も少なからずあったかもしれない。とにかく僕は、昔はオカルトを視ては喜んでいたのだ。
だけど、それはある日を境に哀しみへと変わってしまった。小学5年生の時に出会ったそのオカルトは彼とよく似た存在で、イマジナリーフレンドと呼ばれるような類のものだったと今になって思う。周りの友人たちは当たり前のように遊んでいたその少女を、僕だけが知らなかったし僕だけが不思議だと感じていた。
そこにいることも、彼女が笑っていることも。それが変でたまらなかった。友達に言ってもわかってくれないから、ある時彼女だけにこっそり伝えたのだ。すると彼女は、そう、吉岡と同じように、「そんなことを言ってくれたのは三木くんだけだよ」と嬉しそうに笑ったのだった。
彼女と過ごす時間は不思議なまでに楽しかった。友達の誰よりも、僕は彼女と仲が良かった。彼女の不明な正体を知る、彼女を視ることが出来る僕を、彼女は、「幸せだ」と言ったのだ。

だけど、その毎日は終わってしまった。中学生に上がってから半年ほどが経った頃、次第に彼女の姿を見なくなってきた。視えなくなってきた。あれだけ遊んでいたのに、友達の誰もが彼女のことをすっかり忘れていた。
彼女は、いわば想像上の友達だった。子どもの想像から生まれた存在だったのだ。そんな彼女は、もしもその『想像』が失われたらどうなるか。
今更考えるまでも無いだろう。


「ねぇ、先生。みんな、俺のことなんて、綺麗さっぱり忘れてるんですよ」


それが、オカルトの視える僕に突きつけられた真実だった。

あの小さな神社と、資料室にある御神木の一部。何が違ったのだろうか、何がその二者を分けたのだろうか。
その答えは至極簡単で、タマ大生2人がいるかいないか。つまりは信仰、神を信じ、神の存在を覚えている者の有無に違いない。
いくら小さくとも、どれだけ古くとも、地元住民すらロクに参拝しなくても。あの神社は、タマムシ大学の学生たちの記憶に根付いている。だから視えたのだ。まだ、はっきりと存在している桃色の姿が。
だけど、どうだろう。同じ神なのに、御神木の方は何も視えない、ただの木片に成り代わってしまっている。本来そこに宿っていたはずの存在は忘れ去られ、御神木であった大樹と共に崩れ落ちたのだ。今残っているのはその残滓、しかもそこに存在していると認識出来るのは木片だけで、もはや何も視えないのだ。

吉岡は言った。イッシュのカゴメで『オバケ』とされていたキュレムは、実は宇宙から来たのでは無くて、人々の恐怖心から生まれたのではないかと。その真偽は僕に確かめようも無いけれど、しかしそういう生まれ方をする存在は確かにいることを僕は知っている。
彼女がそうだ。吉岡がそうだ。この学校に流れた、無数の噂がそうだ。人間の間に流れる感情や想い、思惑が交錯して、彼らのような『正体不明』を生み出すのだ。

人の記憶にしか存在出来ない、人から記憶されなくなったら消える運命に抗えない、『正体不明』を。


「井村たち、一緒にランド行こうって言ってたんですよ。目黒さんは、文化祭楽しみだねって、そう言ってくれたんですよ。でも、もう駄目です。みんな、全部覚えてないんです」


吉岡と楽しげに騒いでいた男子生徒たちは、補習を受けている最中に窓ガラスを割って突っ込んできたボーマンダによって怪我を負った。吉岡がかわいいと評した女子生徒は、図書室に本を返しに来たところ、校内を走り回っていたライチュウのタックルを喰らって病院に運ばれた。皆、命や今後に関わるほど重い症状というわけではない。
わけではない、けれど。違うクラス、違う委員会、違う場所に住んでいるような、深く知らない友人のことなど頭から抜け落ちてしまったとしても、責めることなど誰にだって出来やしないだろう。

夏休みと、突然の事故。重なった2つの要素は、この学校から吉岡の記憶を消し去るには十分過ぎるほどだった。


「ねぇ。三木先生。もう、俺のことわかるの、先生しかいないんですよ」


吉岡は笑う。
そうだ、今彼の存在を確認出来るのは、視ることの叶う僕しかいない。

しかし、それが何になる?

都市伝説とは、『都市』が談るから都市伝説なのだ。
学校の怪談とは、『学校』が怖れるから学校の怪談なのだ。

それと同じで、学校に流れた噂話ならば。



「先生。お願いです。先生だけは」



僕1人だけが覚えていたところで何の意味も無い。
学校の噂話は、『学校』が、全校中の生徒や教師によって流されなくてはいけないのだから。

だから、その次の言葉を言わないでくれ。
もはや今にも掻き消えてしまいそうに気配の無い、目の前の吉岡に叫びたい。弱々しいとか幽かとかいう程度では済まないような、瞬きすれば彼はその瞬間にいなくなってしまうかのようにさえ思えた。

駄目だ。だめだ。それ以上は、絶対に。
今までに幾度と無く視てきた視えなくなってきた、無数のオカルトが脳裏を駆け巡る。
一際強く浮かんだのは、幼い少女の懐かしい笑顔。もう世界のどこにもいない、不明なる正体を消してしまったその微笑み。それに吉岡の悪戯っぽい笑い方が重なった。
彼も同じなのだと、同じ道を辿るのだと、そういうことなのだろうか。

正体不明の、オカルトたる、彼も。
何も出来ない僕の前から、忘れ去られて消えていくのだろうか?


「三木先生。三木先生だけでいい、俺のこと、忘れないでくださいね」



そうじゃ、ないだろう。


頭の中で自分がそう、はっきりと言い切った。そうじゃないと。そんなはずはないと。
僕がしてきたことは、そんなことじゃないのだと。

僕は視える。オカルトを、正体不明を視ることが出来る。彼らが生まれ、人に伝えられ、そして消えていくまでの過程を全て視ることが可能なのだ。

だからこそ、僕は。



「俺が消えても。三木先生、だけ、は」




「……………………認めない」




僕は、ずっと。




「先、生…………?」




せめて僕は、僕だけは。




「…………オカルトなんて、認めない」




少なくとも僕は、こう信じて生きてきたのだ。





「この世に、オカルトは存在しない!」





少女が消えて、その後も何度と無く別れを積み重ねて、どうしようもない哀しみと虚無感に押し潰された僕は、しかしどうにかして彼らが消えずに済む方法が無いかと考えた。
正体不明のオカルト、人の想像から生まれて想像上に生き、そして想像する者がいなくなれば誰にも知られず消えてしまう。この世界に住む不思議な生きもの、動物図鑑には載ってない……ポケモン図鑑にも、載っていない。存在を証明されない彼らは、その正体など持ち合わせていないのだ。

オカルトを、記憶と共に世界から消えてしまうオカルトを、僕は失いたくなかったのだと思う。
許せなかった。認められなかった。生まれてきてくれたのに忘れられる彼らが、生み出したくせに忘れていく者たちが、僕は肯定出来なかった。オカルトとは都市伝説とは怪談とは噂話とは、そういうものなのだと理解してはいても、それに首肯することなど僕には到底不可能だった。
僕は、彼らを消したくない。生まれたオカルトを、どこでもないどこかに消し去りたくなんか無い。


だから、僕はオカルトを否定する。


「オカルトなんて、あり得ない。そんなものは認められない、正体不明などあるはずない……どんなものにも、必ず正体があるに違いない」

この世にオカルトは存在しない。

そう言い切るのは、否定することで変えたかったからだ。


オカルトなど、単なる気の迷いに過ぎないのだ。
都市伝説も、学校の怪談も。そんなものは現実に存在しない、退屈しのぎのまやかしなのだ。

そう断定するのは、いつか忘れられて消えてしまうオカルトを生み出したくなかったからだ。


幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったもので、一見不可思議に思えることでも実際は何とも馬鹿らしい、誰か人間が面白半分に流した噂、ゴーストポケモンの悪戯、そうでなければくだらない勘違いであったというのがオチである。

そう明言するのは、そうやって僕が『正体』を定義することで、オカルトが消えるのをやめさせたかったからだ。


全てのことには説明がつく。

説明がつけば、彼らは消えずに済むと思ったから。


『正体不明』なんて存在しない。

存在が証明されれば、彼らはたとえ人の記憶から失われても、その姿までもを失うことは無くなると考えたから。


何者なのかわからない、不気味な出来事なんてこの世のどこにもあり得ない。

はっきりした正体を持ってしまえば、曖昧な存在で無くなった彼らが世界から忘れ去られなくて良いのだと、信じたから。



少なくとも、僕はそうやって生きてきた。


だから僕は、オカルトなんてありやしないと、狂ったように言い続けるのだ。


「オカルトなんて、……オカルトなんて僕は認めない。認めたくない! 忘れられれば消えてしまうだなんて、僕は、認められるわけがないんだ!」

僕は言い続けた。オカルトなんかあり得ないと、ゴーストポケモンの仕業だと、何か別のものだろうと。口に出して、言葉に変えて、正体不明を否定してきた。
いつも上手くいくとは限らなくて、僕が足掻いても霧散してしまったオカルトも数多くいる。それでも、彼らを引き留められる可能性に賭けて、こうして言うのだ。オカルトなんか存在しない。この世にオカルトはいやしない。
更衣室の鏡に未来を映すオカルトは、もはや誰一人として覚えていない。だけどそのオカルトは、僕が否定したオカルトは、「ゴーストポケモンの仕業だ」と僕の言葉で打ち消されたオカルトは、『鏡の前で好き勝手に姿を変えて人をからかっていたゴースト』という正体を得て、ゴーストとして今学校にいる。恋が成就する消しゴム、生徒の恋愛を叶えていたオカルトは、『偶然にもポケモン図鑑の解説みたいな展開をもたらしたラブカス』として2年5組の水槽で泳いでいる。掃除を真面目にすると不幸を棄ててくれるダストダスはそのままの姿で学校のゴミ捨て場に、ピカチュウ像と逢瀬を重ねるホルマリン漬けのコラッタはヨマワルが動かしたことに。全てのオカルトを、僕はこの口で説明した。
彼らが消えてしまわないために。刹那の話題を攫っただけで、後はどこにもいなくなってしまわないために。忘れられても、自分の身体で存在するように。

「噂は、オカルトはそういうものなんだ、なんて言葉で納得出来るわけ無い。僕はお前たちが、お前が……吉岡、もう誰にだってどんな存在にだって、そんな風な顔をしないでほしいんだ」

それは果たして、僕の我儘なのだろうか。
だとしても構わない、僕はもう失いたくないのだ、一緒に眺めた夕焼けの向こう側に消えていった彼女のように誰かを失うことなどまっぴらだ。
それに、オカルトが消えていいものだなんて誰が言えるだろうか? 消えても構わないと思う者があんな風に笑うだろうか、海の向こうに行ってみたいなどと言うだろうか、まるで自分と同じであって欲しいと願うように、キュレムの認識を覆したがるだろうか。
消える場所に、わざわざこの部室を選ぶだろうか。

「頼む。消えないでくれ、忘れられたらいなくなるだなんてやめてくれ………オカルトなんて、そんな、そんな悲しくて、哀しいものを! 僕は! お前に、認めたくない!!」

違うだろう。頭の中の僕が叫ぶ。
だから、今日もまた、僕は否定を言葉にするのだ。

「お前は、オカルトなんかじゃない。この学校に、オカルトなんか存在してない。1つだって無いんだ、全部無かった。未来を映す鏡も恋を叶える消しゴムも、夜に動く石膏像も」

目を丸くして、戸惑うような表情を浮かべている吉岡の肩を掴んで畳み掛けるように言う。
力を込めた僕の手は、確かに白シャツ越しの肉と骨の感触を得たはずなのに、そのくせ空を掻いただけのような虚しさを抱いた気がした。背中に冷たい汗が噴き出るのを感じる。その寒気を振り払うように、僕は夜の校舎に声を響かせた。

「不思議で怖めでとびきり楽しい、噂話を教えてくれる。どこかの誰か、男子生徒だって! この学校には、いなかった!!」

「三木、先生」

彼の目が揺れる。震えた声はひどくか細くて、熱気と湿気とほんの少しの冷気が混じり合う空気へと、今にも溶けてしまいそうに思えた。背後に見えるのは御神木だったものが収められたケース。
でも、僕は、そうなる彼を否定したいのだ。もう諦めてますというように空虚な笑顔を貼り付けているくせに、縋るような瞳を向けてくるこの存在を。誰も覚えていてくれないのだ、と零れ落ちる声で言ったこの生徒を。
オカルト研究部唯一の部員、吉岡のことを。


「僕は、最初から視えていた。その僕が、否定する。全部視えてしまう僕は、噂話『ヨシオカ』を認めない」


いつものように。ずっとそうしてきたように。


「初めから、全部がゴーストポケモンの仕業だった。そう、全部、悪戯好きのゴーストポケモンがやったんだ」


消えてくれるな、と大声で叫ぶように。


「いつの間にか人の影に、人の中へと潜り込んで」


いなくなるな、と泣きながら訴えるように。


「噂を流してみんなの興味を引いて周りの熱狂を、熱を奪って」


オカルトなんか認めない。オカルトなんか存在しない。
そんな哀しい正体不明を、黙って視送ることなんて僕には出来ない。


「次はどんな話をしようか、そのタイミングを見計らってる。ずっと、『ちょっと不思議でちょっぴり怖め、そしてとびきり楽しい』呪いを、学校のみんなにかけるタイミングを」


だから言う。
言い続ける。


「そしてみんなが夢中になってるのを見て、暗闇とまでは行かなくとも薄暗い、オカルト研究部が誇る部室たる、歴史資料室で笑ってる。全部、全部」


この世にオカルトは存在しない。


「そんな、悪戯好きのゴーストポケモンが、全部やったことに決まってる!!」



少なくとも、僕だけは。

そう宣言して、彼らと生きていたい。



「そうだろう、なぁ。………………吉岡」



掴んだ肩が、ふわりと軽くなる。一瞬で手から無くなった感触に、僕は冷たい床へと膝をついた。静まり返った夜の学校、切られた電灯と薄い暗闇。
夏服に身を包んだ、1人の男子生徒がいたはずのそこに広がる柔らかな靄を、両手両腕の精一杯の力でしかしそっと、抱き寄せるように包み込んだ。





「おはよー! 超久しぶりじゃん!!」

「めっちゃ焼けたねー、どこ行ったの!? え、旅行とか行った系、もしかしてムロとか!? あー部活か!」

「終わっちゃったなー、今日から学校とかマジ無いんですけど」

9月1日、夏休み明け。学校へと続く道を、生徒たちが今日も賑やかに歩いている。すっかり日に焼けた者、友人との再会にはしゃぐ者、久々の早起きだったのか、大きな欠伸をしている者。それぞれの新学期が始まって、まだまだ暑い空の下には沢山の白いシャツが登校中だ。
学校の門をくぐるまではポケモンを出して良い、というかそこまで拘束する権限が校則には無いため、まだポケモンをボール外に出している生徒が多い。ガーディと共に走っている生徒もいるし、エネコやニャスパーを腕に抱きながら談笑している女子生徒たちもいる。中にはゼブライカに乗りながら登校しているツワモノもいるけれど、そこはまぁ、個人の自由だろう。道端に落ちている菓子の袋を拾おうとしているゴンベを慌てて引っ張っている生徒を横目に考える。
と、ガバイトを連れた生徒とマリルリを連れた生徒が何やら言い合っているように見えた。往来でのバトルは禁止されているから止めようかと足を早めかけた僕だが、何か言うよりも前に、彼らは互いに笑い声をあげてそのまま走っていってしまった。久しぶりの登校でテンションが上がっていただけか、と肩の力をほっと抜く。

夏が終わればすぐに涼しくなるわけでは無いように、8月が終わればテッカニンが鳴き止むというわけでも無い。眩しく輝く太陽の光もまとわりつく熱気もそのままで、まるで夏休みが始まる前、何が変わったというわけでもないように思えて今は7月なのではないかという錯覚に陥りそうになる。
だけど、それは違う。もう夏休みは終わったのだ。それどころか梅雨も、夏の始まりも、うだるような猛暑も全て過ぎ去った。全部、終わってしまったのだ。
聞こえてくる生徒の会話、そこに不思議な噂話などどこにも無い。学校全体があれだけ盛り上がっていた、出処不明の噂はもはや誰一人として話していない。無数の噂も幾多の話も、そしてそれを教えてくれた存在も。全部、全部、皆は忘れてしまったのだろう。

噂話とは、そういうものなのだから。


「三木センセー、おっはよー!」

「先生久しぶりー! 元気してたー?」

声を掛けてきた生徒に振り向くと、いつか梅雨がまだ明けていない頃、小テストの日時を延期してくれないかなどと言ってきた2人の女子生徒が笑っていた。全然焼けてないじゃん、何してたのセンセー、などと口にしながら彼女たちは小走りで僕の隣に並ぶ。一歩遅れてついてくるキノガッサとケーシィが、トレーナーの動きに慌てて歩幅を広めた。
先生は忙しいんだ、そうそう肌も焼けないよ。そう返すと、キノガッサの主人たる生徒は「じゃあ日サロ行けばいいじゃん日サロ、駅前にウルガモスのあるし」と的外れなことを言い出した。別に焼きたいわけじゃないって、と突っ込む僕の逆隣で、もう一方の生徒が「似合わなそーっ」と1人ツボに入っている。
いつまでも日焼けの話をすることも無いので、夏休み中に起きた事故のことを聞いてみる。大丈夫だったのかと問うと、彼女たちは口を揃えて、テニス部は合宿中だったからと答えてくれた。なるほどな、と頷く僕に、でも友達とかヤバかったみたいで、結構マジだったんでしょ、と2人は苦い顔を浮かべた。

あれこれと話しているうちに、学校が見えてくる。壊れた場所の工事ももう終わっているだろう、怪我をした生徒たちは治ってきただろうか。後遺症が出ただとか悪い知らせは今の所聞いていないから、大丈夫なのだと信じたい。無かったことにというのは無理だとしても、大したものではなかったと言える程度の出来事となれば良いと思う。
あの事故の衝撃は、生徒にとっても教師にとってもかなりのものであっただろう。当然だ。あんなことが起これば、誰だって動揺しても仕方無い。動揺のあまり、何か別のことを忘れたとしても。

事故を境に、皆の意識が向かなくなったのを機に、この学校に流れていた噂話は終焉を迎えた。元々単なる噂に過ぎないそれを、今更思い出す者もいまい。噂話なんてその程度のもので、だからこそ噂話は噂話なのだ。
伝説や神話では無い。人の意識や思い、会話から生まれた正体不明は、それを語る人がいなくなれば消えてしまう。存在が先立たない、それ故噂は忘れられればあっけなく消え去るのだ。
それは一種、『信仰』から生まれる神と近いのかもしれない。信仰心が無くなれば、どこにもいなくなってしまう神様に。


次第にその姿を見せてきたあの学校からはもう、全部無くなったのだ。



「あれ、三木先生」

気づいたようにそう尋ねた、髪を二つに結わえたその女子生徒は首を捻る。彼女の細い指は、僕の鞄の外ポケットを差していた。

「先生、ポケモン持ってたっけ? ボール。前、無かったですよね」



ちょっと不思議でちょっぴり怖め、そしてとびきり楽しいあの噂を、覚えている者は誰もいない。
僕を除いた全ての人が、全てを忘れてしまっただろう。

忘れていないのは、オカルトを認めない僕だけだ。


「そうだよ、夏休み中にね」


この世にオカルトは存在しない。


「会ったのはもっとずっと前で、4月にここに来た時会ったんだ」


全てのことには説明がつく。
『正体不明』なんて存在しない。
何者なのかわからない、不気味な出来事なんてこの世のどこにもあり得ない。


「ゲンガーでね、不思議な話とソーダアイスが大好きなんだ」



少なくとも、僕はそうやって生きてきた。

そしてこれからも、そうやって生きていく。


「名前は、『ヨシオカ』」


オカルトが視える僕は、消えてしまう正体不明が視えてしまう僕は、オカルトの存在を否定する。
全てのものには消えない正体があるのだと叫んで、誰が忘れようといなくなったりしないのだと訴えて、それは歴とした実態を持っているのだと宣言する。

そうすることで、彼らが消えない道が拓けるのなら。
その正体が証明されて、誰にも見えなくなったりしないのなら。
あの、哀しそうな寂しそうな、諦めたような姿を視ることが無くなるのならば。

オカルトなんて存在しないと、僕はいつだって言い切るのだ。



「みんなと、きっと仲良くなれるだろう」



新学期が始まる校舎はすぐそこまで近づいている。相変わらず生徒たちは騒がしく、校門に立っている生徒指導の教師が何かを言っている声が聞こえてきた。休み明けだろうと関係無い、朝練に励む部活動の音もそれに重なっていく。テッカニンの鳴き声も負けじと響き、そのうるささは暑さを増すことこの上無い。
9月を迎えたこの学校では、どんな事が起きるのだろうか。体育祭や文化祭の準備、生徒会の選挙もあるし2年生には修学旅行が待っている。各部活動のイベントも怒涛のように控えているだろう。
しかし、僕は思う。この学校で起こり得ることが悪いものになるはずは無い。あの噂話を作り出した、彼を生んだこの学校は、ちょっと不思議でちょっぴり怖めかどうかはわからなくとも、とびきり楽しい毎日を続けていくに違いないのだから。

見上げた校舎、歴史資料室の窓ガラスが、陽の光に照らされてきらりと輝いた。


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