(二十)
「一体、誰が……」
ナナクサは困惑を口にした。
神降ろしの儀。
それは秘術、禁術の類である。
一介の人間が見様見真似で出来ることでは無く、またそれを識る者が現代にいるのかも定かでは無かった。
仮に名を識るものがいるとしよう。だが、よほどその道に通じている者でなければ。人の世の外を歩いているような蛇の道をゆく人間でなければ、儀式を実行することは出来ない。
そんな者がこの村にいるだろうか、とナナクサは思う。
「ありえない。一体いつ入りこんで、こんな……」
別殿はセキュリティに守られている。
下手に侵入を試みれば警報が鳴る。だからこそキクイチロウを捕まえて鍵を開いたのだ。
何よりナナクサを驚愕させたのは張られた札の記述の正確さと材料だった。
自身の血に類する何かで正確に記述された神文。
こんな芸当をやってのける者がこの村の中にいる――いるのだろうか。
すると、キクイチロウが言った。
「お前がいなくなった前の夜、ここの警報が鳴った。あれはお前ではないのか」
何日か前に鳴った警報。
おそらく札を貼られたのはその時だ。
キクイチロウはずっとナナクサを疑っていた。いや、ナナクサだろうと信じて疑わなかった。
「違う。僕じゃない。僕はずっと山にいた」
そう弁解をするとキクイチロウが吼えた。
「お前でないなら誰だと言うんだ! お前のほかに九十九を復活させたい者がいるとでも言うのか!」
「それは、」
ナナクサは言葉に詰まった。
だが、すぐ次の瞬間に理解した。
いる。いるではないか。九十九を復活させたい者――雨降の敗北を望む者が。
ずっとずっといたではないか。
自身が丸め込んだ今年の九十九に挑んだ、明確な目的をもって九十九になろうとした者が。
「ハハ……そうか。『あいつ』か」
準備がいいものだ、とナナクサは苦笑した。
そうだ、あの男は最初から誰をも頼ってはいなかったのだ。
たまたま利害が一致しただけ。もとより一人で事を起こすつもりだったのだ。
自身が"儀式"をこなす。ツキミヤコウスケが"舞台"をこなす。
だが『あいつ』は儀式も舞台も一人でやろうとしていたのだ。
「やられた、やられたよ。本当に、敵に回さなくてよかった」
目的は定かでない。あの男が何のために妖狐の復活を望むのか。
ただひとつはっきりしていること。それは不本意ながらも手間が省けたらしい、ということだった。
「そこの畳を剥がしてくれないか」
コノハナにナナクサは指示を下す。
小人が二、三匹、畳に手をかけた。畳が二枚、三枚と引き剥がされてゆく。
そこに現われたものを見て、ナナクサは困惑と喜びが混じった笑みを浮かべた。
畳の下には札と同じ古代文字で描かれた円陣のような文様が記述されていた。
「完璧だ。完璧だよ、ヒスイ」
参ったなという具合でナナクサは唸った。
「まったく、僕の立場がないじゃないか」
そうして、すずりに残った黒い血を太い筆で吸い取り、付け足すようにして追加の記述を行った。
しかしそれは、あえていうならば、こう記述する程度のものであった。
余計な衝撃が外に漏れないようにする程度のもの。押さえるべきポイントは押さえられている。堰を切れば間違いなく動き出すだろう。
「ふむ。これでいい」
彼は円陣の外側にさらさらと記述を書き足すと、木の実をひとつ、コノハナから受け取って術の中心に据えた。
その直ぐ後だった。円陣の文字がまるで熱を宿した炭のように赤く、赤く輝きだした。
にわかに別殿の中が熱を帯びはじめた。
「……始まった」
赤い紅い炎の輝き。
その光が足元からナナクサの顔を照らし、揺らめいた。
石舞台を松明が照らし、翁の面と狐の面が対峙している。
「雨の神を名乗りし者よ。うぬに問いたきことあり」
脚本(ほん)にはないその台詞に、舞台を知る多くの村人はざわめいた。
どういうことだ、何かが違う、どうなっている、と。
あるものは目配せして、隣の反応を見たが、隣の反応のまた似たようなものだった。
今年から演出が変わったのだろうか?
なかにはそのように考える者もいて舞台演出のほうを見たが、彼女もまた困惑の表情を浮かべていた。
面に隠された役者の表情は伺えない。
脚本に無い台詞を吐いた狐の面からも、またそれを受けた翁の面からもそれを読み取ることが出来ないことが彼らの困惑を一層深める一因となった。
狐面は続ける。
「この土地の者は、何ゆえに雨を求める?」
村人はその問いに少し安堵した。
それは至極当たり前の問いであり、アドリブの一部であるように思われたからだ。
「至極当然の事。田の稲穂育くみしは、田を満たす水なり。故にこの土地にありし者、雨を求めたり」
即座に翁面が返した。
とっさのアドリブだったが、それは彼にとって至極当たり前の答えだった。
だが、妖狐は嗤った。その答えを嘲笑った。
「奇しき事を申す。我、貴殿より旧き時よりこの地に在りし。しかれども、この地の田、水を得るに雨を求めたことは無し。見よ」
狐面は扇である方向を指した。
「この地には旧くから、水湛えた河流れ、土地潤したり」
扇の指したその方向は河だった。
岸辺近くに穴守家が料理を振舞った長屋のある、あの河。
かつてシュウイチやタマエが共に魚を獲ったという河。
六十五年前、野の火が現れたその時にシュウイチが村人達に石を投げられたのもこの河だった。
「この地の者共、かの水を田に引き稲穂育みたり」
妖狐が続ける。
特訓の為に移動する時は決まって、ナナクサがこの土地のことを語ってきかせてきた。村を流れる河のこともその話題の一つだった。
ナナクサは上流のほうを仰ぎ見て語っていた。
村を囲う山々。それらが水を蓄え、この河に水を注ぎ込んでいる。特に重要なのはここから山一つ越えたところにある森だ。古の木々が根を降ろす森。この土地より高い場所に位置するその森に河の始まりがある。森から始まった小川はやがて川となり、険しい山の斜面の分け目から姿を現す頃には河となって、この土地に流れ着く。
「この地を流れし河、この地を見下ろす山々の蓄えし水なり」
河が血管だとするならば森はその心臓部。たとえ――
「たとえ雨降らぬ年にも枯れることはなかりけり」
妖狐の声が舞台に響き渡った。
それは雨の神の存在意義に関わる問いだった。
元来、水が豊かな地で雨の神にすがる必要は無い。妖狐はそう云ったのだ。
偽物とはいえ、よく出来た脚本だ。面の内側で青年は思う。そうして狭い視界の向こう側にある翁の面の表情を伺った。
「戯言を! 豊かなるこの地に悪しき火を撒き散らす。それが貴様だ」
翁の面はそう言ってすぐに切り替えした。
その声は怒りであるとか動揺のようなもので震えているように聞こえた。
「我、悪しき火より田を守らん。我が雨の存在理由そこにあり」
来た。青年は心中で呟いた。
それこそが望んでいた台詞だった。
「雨の神よ。あいわかった」
この年の九十九は言った。
炎のゆらめきで、狐面が笑ったように見えた。
「ならば守ってみせよ。そなたが悪しき火というものから、見事、田を守ってみせよ。我とそなたと、真剣勝負といたそうぞ!」
ざわりとどよめきが起こった。
「真剣、勝負……?」
「左様なり」
雨の神に狐は即答する。
「我、祭の数だけの戯れを繰り返したり。我が炎、雨に勝てぬは脚本(ほん)故なり。我が意に背きその脚本(ほん)をなぞりたるが故なり。我が敗北、我が意に背きし結果なり」
妖狐は云った。あえて云ってはならぬことを。
つまり、いつも負けているのは脚本のト書きに仕方なく従っているだけだ、と云っているのだ。貴様を勝たせてやっているのだ、と。
それは暗黙の了解。誰もが知っているが口にはしない決まりごと。
「聞け! 我が意思、我が言葉は操り人の筋を通したるが故なり! 我、炎の操り人の内より、今年の九十九となりし。ならばこそ我、水の操り人より選ばれし者と勝負欲すなり。我、操り人の筋を通したり!」
それは悪意を持った明らかな挑発だった。
だが……
(手遅れだ)
翁の面のその内側でトウイチロウは歯噛みした。
今年の九十九は何かが違う。何かを仕掛けてくる。
そんな予感を祖父は口にしていたし、トウイチロウ自身にも何か感じるところがあった。そしてその予感は、今まさに眼前にて現実となった。
これは脚本を無視した無茶苦茶な主張だ。そんなことは言葉を発した九十九本人も分かっているだろう。だからこそ、新たな価値観を九十九は舞台に持ち込んだ。役者という基準でなく、操り人として、ポケモントレーナーとしての価値観を持ち込んだのだ。操り人として試合をさせてくれ。結果の決まった戯れではなく、本当の勝負を、と。
無論、こんなことは許されない。許されていいはずが無い。だが……
(手遅れだ。もはや道理を通しても、神の顔は立たぬ……!)
言霊は放たれてしまった。言葉が放たれ耳に届いた時に、それは舞台の台詞となった。妖狐の言葉が音となって届いたその時に、そこには力が宿った。
狭い視界の向こうで狐面の裂けた口が嗤っている。出方を伺っていた。
脚本の記述に従えという道理。それは当然の主張と要求。
けれどそれを口にしてしまったら、舞台は壊れる。雨の神の面目と神性は失われるだろう。
村人のプライドとして、長の孫として、あるいは舞台の一員として、何よりも雨降として。
それは避けなければならなかった。
「よかろう!」
雨の神は応えた。またどよめきが起こった。
「我、数多の水の操り人より勝ち上がり、今年の神となりし。同様に貴殿、炎の操り人の内より勝ち出でて、今年の九十九となりし。ならば勝ち上がった者同士、ここで雌雄決するもまた筋なり!」
キクイチロウは続けざまにそう言った。
舞台の主役が応えることで、舞台の行き先は固まった。
(手遅れだが、手遅れではない。むしろ……)
演技でない勝負を受ける。そう決意を固めた時に妙な冷静さがキクイチロウの中に戻ってきた。ようするに勝てばいい。勝てばすべてが元通りなのだ。
いや、むしろ真剣勝負で勝利すれば、神の神性と説得力は一層強まるに違いない。お堅い村の長老達にも、すべては今年の演出だったと説明すればいい。彼は自分にそう言い聞かせると、徐々に九十九との距離をとった。九十九が呼応して、それに習った。
それが合図だった。
「カメジロー!」
「カゲボウズ!」
上手下手に分かれた雨降と九十九は、まるで初めから示し合わせていたかのように互いの相棒の名を呼んだ。
舞台の中央に、二本の砲台を背負う大きな亀、そして小さな闇色の人形ポケモンが躍り出た。
(とりあえずここまで)
(現代パートのバトルまで終わりましたが、途中が埋まってないのでとりあえずここまで)
また原稿があるのでしばらく潜ります(