マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.504] もりのこのぬいぐるみ 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/06/05(Sun) 14:29:55   65clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 
 お母さんは彼女に、ポケモンに触っちゃいけません、と言いました。
 ポケモンは炎を吐いたり、電気を出したり、引っかいたり殴ったりするし、野生のポケモンにはたくさんのばい菌やきせい虫がくっついているから、撫でたり、えさをあげたりしちゃだめよ、と言いました。でも、えみちゃんちはヨーテリーを飼ってるよ。と彼女が言うと、そういう人もいるけど、そうするとアレルギーが起きたりする原因になるの。身体がわるくなっちゃうのよ。と言われました。彼女はうなづきました。

 だけどほんとうは寂しかったのです。
 草むらから街へ迷い込んだミネズミにパンの耳をやったり、人なつっこい広場のマメパトの灰色の羽毛にそっとてのひらをうずめてぎゅうぎゅう撫でたり、ヨーテリーのむく毛に顔をうずめてわしゃあと抱きしめたりするみんなが羨ましくてたまらなかったのです。
 だから彼女はある聖夜に、遠い北の国に住んでいるおじいさんへ手紙を書きました。
「わたしはぽけもんがほしいです。ぽけもんのともだちをください」
 切手がみあたらなかったので、紙をぎざぎざに切って、中にモンスターボールの絵を描き、50えんと書き添えてのりで張りました。じゅうしょとなまえと、「サンタクロースさんへ」を書きました。そしてポストに入れました。
 つぎの朝、目が覚めると、彼女はベッドの中にポケモンをみつけました。
 どきどきしながら、お母さんにみつからないように布団の中で抱きしめてみます。ふわふわでいい気持ち。
 けれどポケモンは鳴きません。まばたきもしません。葉っぱのしっぽも動きません。
 それもそのはず、ポケモンはぬいぐるみだったのです。

 それでも彼女は喜びました。喜んで、いつもぬいぐるみのポケモンをつれて遊びました。公園の砂場で遊ぶときも、ともだちと出かけるときも、いつも一緒でした。ともだちはぬいぐるみを「かわいい」と言ってくれました。彼女はぬいぐるみのしっぽにリボンを結んだり、わかば色の手のひらをぱたぱたさせたりして、この子がわたしのポケモンなんだ、と言いました。もう誰がポケモンを撫でながらわいわいいっても、自分にはこの子がいるから大丈夫。
 活発に遊びまわるようになった彼女を、お母さんはたびたび叱りました。彼女がたびたび服にどろはねをつけたり、ずぶ濡れになったりして帰ってくるからです。とくにえみちゃんのヨーテリーがぬいぐるみをおもちゃにしてしまって、しっぽが破けて綿が飛び出し、彼女が泣きながら帰ってきたときは、びっくりするほどの声で叱られました。そしてごしごし洗濯されて、縫い目がひとつ刻まれたぬいぐるみを返されたあと、しばらく会話にえみちゃんの名前を出すとお母さんは怪訝そうな顔をしていました。
 比べてお父さんはほとんど怒ることはありません。いつもはお仕事に出ていて、たまに家にいるときは部屋にこもっているか、TVと新聞をいっしょくたにながめるような器用なまねをしています。
 けれどひとつだけ、お父さんがいつも言っていることがありました。
「森へ行ったらいけないよ。森にはもりのこが住んでいて、もりのこたちはとてもおくびょうなんだ。もりのこをおどかすと森はばらばらになって崩れてしまうからね、だから森へ行ったらいけないよ。」
 ぷかぷか煙草をふかしながら、彼女に言い聞かせるのです。
 森とは、彼女の通っている学校の裏にある、木がたくさん生い茂っている場所のことです。あそこにはお化けが出るとか、子供を頭からばりぼり食べてしまうおそろしいポケモンが住んでいるとか、探検しに行って二度と帰ってこなかった人が大勢いるなんて噂されていましたが、同時にあそこにはものすごい宝物が隠されているとか、奥まで行くと湖があって、そこまで辿りついた褒美に願い事を叶えてくれるとか、そんな話も聞こえてきました。
 朝起きていってきますをするとき、夕ごはんを食べるとき、お休みの日にうちでごろごろしているとき、ことあるごとしつこいほどにお父さんが「森に行ったらいけないよ、もりのこが怖がるからね」と言うので、彼女はちょっぴり気になりました。もりのこってなんだろう。どんなすがたをしているのかな。
 ある晴れた日、彼女はついに森に行ってみることにしました。その日は光が差し込んで、やけに森があかるく、まるで中から輝いているように見えたのです。大丈夫、腕にはポケモンを抱いています。ひとりじゃないもの。大丈夫。
 きょろきょろと目撃者がいないか確かめて、彼女は木漏れ日のひかる森の中へと駆け出しました。
 太くごつごつした木の根をとび越えて、かさかさ気の早い落ち葉を踏んで、枝にひっかからないように身をかがめて。
 やがて、彼女の目の前には、こわいポケモンでも、宝物でも湖でもないものが現れました。

 それは草原でした。
 濃い緑の色をしたたくさんの葉っぱの中に、白く小さな、ぼんぼりのような花がめいっぱい咲いています。壁のようにそびえていた木がみんな開けて、そこはまるで森へ遊びにくる誰かにしつらえた広場のようでした。見上げれば青空、さんさんと太陽が降りそそいでします。彼女は、ああ、ここがひかっていたんだ、と思いました。
 彼女はせっかく来たのだし、ぬいぐるみに花輪をつくってあげようと、膝をついて花の根元をかきわけようとしました。するとその前に、草たちがかってにガサゴソと動き出したのです。
 びっくりした彼女がぱっと手を上げると、そこからひょこりと、だれかの鼻先がのぞきました。
 もぞもぞ這い出してきたのは、ぬいぐるみとそっくりなすがたをした、くさへびポケモン。
「もりのこ!」
 彼女が言うと、彼はきゅうと首をかしげます。
 もりのこさん、びっくりしないで。わたしは遊びにきただけなんです。森が崩れてしまわないように。彼女は胸がどきどきするままに微笑みながら、ちいさな彼にひとさし指を差し出しました。
 もりのこはそれをしばらくじっと眺めていましたが、ふと彼女の顔を見上げると、にぃーっと笑って、その指を握りました。
 葉っぱの手のやわらかくみずみずしい感触が、合図でした。

 それから彼女ともりのこは、日が暮れるまでそこで遊びました。草の中におなかから飛び込んで泳ぐ遊びは彼が教えてくれました。彼女はおかえしに花輪のつくりかたを教えてあげましたが、もりのこのちいさなてのひらではすこし難しすぎたらしく、彼はついにしっぽをつかんで自分が輪っかになってしまいました。彼女は笑いました。
 やがて目が霞んでしまって、なにごとかと彼女が目をぱちぱちすると、よく見ればとっぷり暮れた赤い空、振り向けばだんだんと暗くなる帰り道。かえらなきゃ! と彼女がすっくと立ち上がると、足元できゅう、と寂しげな声がしました。
 もりのこが草の中から、じっと彼女を見上げているのです。
「ごめんね、明日、またくるからね」
 彼女は背中に聞こえる鳴き声に、何度も何度も振り返りながら、森の中を戻っていきました。

 もりのこと仲良くなった彼女は、暇さえあれば森へ遊びにいくようになりました。
 森で過ごす時間が楽しくて、彼女はともだちからの誘いを断るようになりました。どうして? と聞いても「うん……」ともじもじするばかりの彼女に、ともだちはだんだん話し掛けてこなくなりました。彼女はどうしても、ほかの人にあの広場を教えるのがいやだったのです。男の子はらんぼうだから、ミネズミを木の枝でつつくようにもりのこをいじめるかもしれない、女の子たちは校庭や空き地の草むらのように、花という花を摘み取ってしまうかもしれない。けれど、ともだちと話さない学校はひどく退屈でした。やがて彼女はだんだん「行きたくないなあ」と呟くようになり、すこしづつ遅刻するようになりました。

 家にいるときは、ぬいぐるみとお話しながら、もりのこと明日なにをして遊ぶかを考えます。
 そうやってこっそり夜更かしをしていたのが悪かったのかもしれません。
 ある日彼女は、夜中とは思えぬ大声を、自分の家のリビングから聞いてしまったのです。
 お母さんの声でした。お母さんが、遅く帰ってきたお父さんを怒鳴っているのです。そういえば最近、お父さんは夕ごはんに間に合いません。休みの日も出かけるか、もしくは部屋にこもっていがちです。
「あなたって人は――――まだ夢を――――40過ぎにもなって――――ちょっとは家族のことも――――ポケモンがそんなに大事!」
 彼女は毛布をかぶってああ、これは夢だと、言いました。

 その日、お弁当と水筒を提げ、一日過ごすつもりの満々な彼女が森へいくと、もりのこは葉っぱをぎゅるんと巻き上げるイタズラをしかけてきて、それがあんまりとつぜんだったもので、彼女はすっころんで「ひぎゃあ!」と素っ頓狂な声をあげてしまいました。彼と彼女はおなかを抱えて笑いました。しかしだんだん笑いが収まると、彼女の心の中に、まるでスカートに草の汁で緑のしみが広がるように、じわじわと昨日のお母さんの声が蘇ってきました。
 なにを言っていたのかはあまり聞き取れませんでしたが、やさしいお父さんを、あんなにもおそろしい声で怒鳴りつけるお母さんを思うと、いったい何があったのか、不安で身体が震えそうで、彼女はそっともりのこを抱きしめました。もりのこはきゅう? とたずねて彼女の頬をぺちぺちします。
 もう帰りたくない。わたしももりのこになりたい。
 そう思いながらも、空を夕暮れが蝕むほどに、夜の森の恐怖が追ってきます。まっくらな森。お化け。怪物のポケモン。真っ黒に沈んでいく帰り道。
 やっぱり帰らないわけにはいかないんだ、と思っても、どうしても足が動かなくて、彼女はついに泣きそうでした。
 もりのこは腕の中。
 ふと、彼女はなにかをひらめきました。
「いっしょに来て」彼女はお弁当と水筒を入れていた手さげ袋を差し出して言います。「今夜だけでもいいの。いっしょに来て……」
 彼が何かをいうまえに、彼女はもりのこを袋に入れて胸の前に抱えると、町へと走り出しました。

 真っ赤な夕焼けに照らされて、半分ほど夜に浸った木々のあいだを走りぬけ、ぜいぜいしながら彼女は森を出ました。そして学校の前まできて、やっと自分が、手さげを抱きつぶしていたことに気がつきました。
 はっとして湿った手さげを開いてみると、もりのこはすっかりしなびていました。
 みずみずしくぴかぴかしていた身体の水気がすっかり抜けて、生気がなく、葉っぱのしっぽは葉脈がういて、しわしわでした。手はひからびた草のようにくると丸くなっています。
 ああ。胸の中につめたくにぶい色をしたものが流れ込んできて、たいへんなことをしてしまったと、彼女は思いました。もりのこは森でしか生きていけないんだ。なんてことを。わたしがすっかり自分に夢中だったせいで、この子をこんなにしぼってしまった。彼女は耳の奥で、彼と過ごした森が、がらがら崩れていくのを聞きました。
 いまにも乾きそうな彼の身体にのこったお茶を浴びせ、最後のひとくちを半開きの口へ流し込むと、彼女はもう何も思わず暗い森へ飛び込みました。お化けも怪物も、今の彼女に追いつけるものはなにもありません。ただ自分のせいで、だいすきなもりのこが動かなくなってしまうなんて、それだけはいやだ、いやだと唱えながら、数歩先さえ霞む夜の森を、走りました。
 ついに広場にたどり着くと、濃紺の夜に染まった草原の最中、彼女ともりのこを満月が迎えました。
 彼女がそっともりのこを草の上に置くと、ぐったりしていたもりのこのしっぽが、ぴくりとしました。ぱたぱた、まるでお月様を仰ぐようにしっぽが動きます。すると彼のまわりで草花がざわめきました。風もなしに、彼のしっぽへ引き寄せられるように揺れて、やがてあざやかな新芽の緑をしたひかるしずくがしたたり、もりのこのしっぽに吸い込まれていきます。彼女は、もりのこはやっぱり森の子どもなんだ、と思いました。
 やがて彼は目をぱちくりしながら立ち上がり、にぃーっ、と笑います。
 彼女は半分泣きながら、ごめんね、ごめんねともりのこを撫でました。

 家に帰ると、顔を真っ青にしたお母さんに怒られました。けれど今日は力なく、ほとんど囁くような震える声で、泣きながら怒っていました。お母さんは、ごめんなさい、とやっぱり泣きながら謝る彼女をぎゅっとしました。つぶれるほど強く抱きしめました。そのとき呟かれた言葉は、押し殺したように震えていましたが、たしかに聞き取れました。ごめんなさい。彼女は自分の言葉をそっくりお母さんに返されたのです。
「引越しをするのよ」お母さんはいいました。「ここのお家は、今日でおしまい。明日、北のほうへ行くからね」
 彼女はきょとんとしました。よく意味がわからなかったのです。
 しかし一晩ぐっすり眠って、目を覚まして、気が付きました。お母さんがスーツケースを持っている理由。彼女の手さげ袋に、もちものを詰め込んでいる理由。
「どこへ行くの」
 彼女が言うとお母さんは、自分の実家の名前をあげました。電車をいくつも乗り継いで、一度だけ行ったことがあります。あの森よりずっと深い緑と、広い畑のある遠いところです。
「もう戻らないの」
「そうよ。きっと戻らないわ」
「お父さんは?」
 彼女が胸騒ぎのままに聞いても、お母さんは「さあね……」と首をかしげるばかりです。
 ただ荷物をまとめる手を少しだけ止めて、言いました。
「友達とさよならできなくて、ごめんね」
 彼女は、はっとしました。ここを出るということは、戻らないということは。
「お願いお母さん、ひとりだけ。ひとりだけお別れを言わせて、お願い、お願いします」
 あんまり必死な彼女に、お母さんは、その子はどこに住んでいるの、と聞きました。
「森に。もりのこは……」
 口走ってから彼女ははっと口を押さえました。言ってしまった。言ってしまった。もりのこは誰にも秘密だったのに。
「もりのこですって」お母さんはとつぜん怒ったような、むしろ笑うような、だんだん泣きそうな震えに浸されていく声を押し殺して言いました。「あの人、もりのこだなんて、本当に」そして深い深い溜め息をひとつつくと、部屋の真ん中に落ちていたぬいぐるみを拾い上げ、しばらく眺めてから彼女の手にのせて。「森はだめよ。危ないし、時間がないもの」そう言いました。
 彼女はただ、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめました。そして顔をうずめて、バス停に向かっても、電車に揺られても、ついに顔を上げることはしませんでした。

 お母さんと彼女はその日、山のふもとにあるおばあちゃんとおじいちゃんの家について、そこで一晩過ごしました。
 彼女はぬいぐるみを放しません。
 あくる日、二人はそこからちょっと電車でいったところの、前にいた町よりすこしさびれた駅前の、古いアパートにつきました。
 彼女はぬいぐるみを放しません。
 今日からここで暮らすこと、ここから学校に通うことをお母さんが説明しました。
 彼女はぬいぐるみを放さないまま、ただ首を横に振ります。

 お母さんが出かけて行きました。知らない人がピンポン押してもぜったいに出ちゃだめよ、キッチンのものには触らないでね、さまざまに言いつけてお母さんが出て行ったあと、彼女はひとりの部屋で、そっとぬいぐるみから顔を離します。
 ぬいぐるみは口をにゅっとして、妙なかたちに微笑んだまま、それっきりです。もりのこのように、にぃーっと半月のような口で笑うことはありません。
 なにもせずに膝を抱えていると、つぎつぎにいろんなことが、なんのそぶりもなく頭の中から飛び出してきます。お父さんがふぅと煙を吐きながら、低くざらついた響きで語った森の話。朝ごはんのパンの香り。お母さんのキンキンした怒鳴り声。砂場でぬいぐるみを振り回したこと。森で遊んで、身体中に緑のしみをつけてどうしたのと怒られ、とっさに空き地でダイビングごっこをしたんだと言い訳したこと。ひとさし指を握ったもりのこの手のみずみずしさ。仕事帰りのお父さんと、あちちと言いながら鍋をはこんできたお母さんと、椅子にちょこんと乗せたぬいぐるみ、みんなで囲んだ夕ごはんのカレー。あのときつけたカレーの染みはまだぬいぐるみの頭でかすかに黒ずんでいます。
 電車の音、壁のきしむ音、どこかで鳴っている電話、知らないアパートの部屋の中は、まるで暗く沈んだ森の中でした。
 彼女は、ぬいぐるみを床にぽてんと落とすと、もうだれにもあいたくない、と言いました。

 ピンポンに出てはいけないと言われていたので、「お母さんよ!」とドアをどんどんされるまで、彼女は立ち上がりもしませんでした。
「いま両手が塞がってるの」お母さんはドアごしに言います。「鍵、開けて」
 彼女はがんばって腕を伸ばして、指先で鍵をひねりました。
 ドアを押し開けると、爽やかで甘い香りが広がります。まるであの森で作った花輪のような。
 見上げれば、お母さんの顔が花に埋もれているのです。
 お母さんはそれはおおきなバスケットブーケを抱えていました。編みこみのきれいなかごの中いっぱいに、白や赤、黄色のあざやかな花が、咲き乱れているのです。どの花もとにかくおおきくて、わたしがいちばんきれいでしょう、と競い合っているみたいでした。
「ほかにも荷物があるから、ちょっとまっててね」
 ブーケを奥の部屋に置いて、お母さんはまたぱたぱたと外へでていきます。
 彼女は輝きすぎて眩しいぐらいの花束を眺めましたが、その背景はどうやっても殺風景な部屋の中で、あの広場を吹き抜ける風は、高い高い空は、残念ながらその中にはありませんでした。
 ただ、その花と葉のすき間に、彼女はなにかカードのようなものを見つけたのです。だから彼女は、膝をついて花の根元をかきわけようとしました。
 するとその前に、花束が勝手にがさごそと動き出したのです。
 背骨に電気が走ったようでした。
 びっくりした彼女がぱっと手を上げると、そこからひょこりと、だれかの鼻先がのぞきました。
 もぞもぞ飛び出してきたのは――。

「もりのこ!」

 もりのこは、かごを蹴って彼女の胸の中に飛び込みました。かごが倒れて色とりどりの甘い香りが床いっぱいに散らばります。そして緑のちいさな手は、なんとか彼女を抱きしめようとしながらきゅうきゅう言いました。
 彼女がカードを見ると、そこには太い字で、こう書かれていました。
『ツタージャのそだてかた
1 みずとひかりをやること
2 そとへでてあそんでやること
3 ぬれたタオルでやさしくふいてやること
4 あいしてやること
 ひとつきはやいけど、たんじょうびおめでとう。 おとうさんより』
 彼女はついに、うちのこになったもりのこを抱きしめました。つやつやした彼の身体からは、新緑の香りと、ほのかになつかしい煙の匂いがしました。それだけで、もう何でもできるような気がしたのです。もうずっと一緒ね。
 ただ、こんなに素敵な花束をもらってどうして、こんなに胸がくるしいのか、涙がながれるのか、それだけはついにわかりませんでした。

 戻ってきたお母さんは、きゅうきゅうした鳴き声と娘の笑い声のする奥の部屋をちょっと覗こうとして、やっぱりやめました。
 そしてダンボールだらけの引っ越したての部屋の中に転がっていた、しっぽに縫い目のある古ぼけたツタージャを拾い上げました。使い古されてすっかり綿は固くなり、手触りはけば立って、あざやかな緑だった身体は灰色にくすんでいます。
 もはや役目を終えた彼を拾い上げながら、お母さんは、あて先不明の印を押されて自宅のポストに放り込まれていた娘の手紙を見つけたあの日、思わず売り場でぬいぐるみを手に取ってしまったあの日のことを、ゆっくり思い出していました。

 

***
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