マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.955] #1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師 3、4 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2012/04/15(Sun) 20:50:58   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 3


 さっきの騒動は何だったのだろうと考える。
 人食いという、想像もつかないような化物に襲われたと思ったら、それを助けてくれる見ず知らずの男が現れた。何だか夢のようで、劇の舞台に立っているような出来事だった。だが、現実としてはそこにドラマチックさもなく、ただただ混乱のうちに終わったという印象を抱く。ボディーガード一人の命が失われたことも悲しくて、それ以上は思考出来そうになかった。唯一同じ経験をしている御者に相談すれば、幾分か気が晴れるだろうか。
 そう考えた矢先、クラウディア夫人が目覚めてしまったので、ロコは口をつぐんだ。人食いのことは他の誰にも話さない方がいい、とドドの忠告を思い出したからだ。
「あら、やだわ私ったら。眠っていたのかしら」
「ぐっすり眠っておられましたよ。馬車の揺れが気持ち良いですからね」
 ロコは努めて笑顔を崩さないようにした。夫人は腑に落ちない様子だったが、深く聞きはしなかった。
 だが、それとは全く別のところに、ロコを襲うものは現れた。
「ところで……何か臭いませんか、お母様」
 どこからか、いやな臭いがうっすらと漂ってきた。不快感を覚えたロコは無意識のうちに、眉間にしわを寄せていた。夫人は少し大げさに嗅いでみたが、良く分からない、という顔をしていた。
 最初は、肥溜めか何かにでも近づいたのだろうと思った。だがそれなら今まで同じ道を通ったときにも感じていたはずである。それではないのだろうと結論付けた。その臭いは、馬車が街に近づくにつれ、強烈なものとなってゆく。それは徐々に、かつ確実にロコを苦しめた。臭いの大本が近くにあるのか、遠くにあるのか分からないのが、ロコの神経を苛立たせた。臭いを感じまいと、呼吸の仕方を変えてみる。そのうち、吸える息が減っていくような錯覚を覚えた。何かが胸の中でぐるぐると回っている感じがした。目の奥に、重いものがのしかかっているような感覚も。意識から振り払おうとしても、最早不可能だった。
「ロコ? ねえ、大丈夫?」
 酸味、甘味、苦味、渋味、辛味、全ての味が負に転じたような臭い。この世のあらゆる食材が腐り、ごちゃまぜにしたスープを飲まされている。そんな想像が頭の中を駆け巡った。吐き気を催して、必死にこらえた。
 ロコの身体が倒れそうになる。すんでのところで、夫人はそれを支えた。その動きは平常時と変わらぬ様子だった。どうやら、母は本当にこの臭いを感じていないらしい。自分だけが、この異臭をはっきりと感じている。
「はぁ、はぁ、げほっ」
 屋敷に到着し、馬車を降りたロコは、えづき、胃の中のものをひっくり返した。水で口をゆすぐと、むせて咳が出る。涙も出た。
 下女が大丈夫かと心配する言葉をかける。彼女もどうやら平気のようだ。
「部屋まで、連れていって」
 肩を借りて、何とか自分の部屋を目指す。階段を上るために上げる足が、鉛のように重い。この時ほど、自室が二階にあることを憎らしく思ったことはなかった。
 部屋に入って、お香を焚くよう下女に頼んだ。ロコはふらふらになりながら机にしがみつく。ベッドで横になりたい気持ちを抑えて、なんとか椅子に座る。下女がお香を焚き、白い煙を上げたのを確認して出て行く。お大事に、と心配する声が、ロコの耳に届いた。
 胸ポケットから、一枚の便箋を取り出す。正方形の便箋。ドドと言うまじない師に贈られた不思議な紙。正体は判然としないが、この尋常じゃない臭いに頼れる人間は彼しかいない。震える手で、紙にインクを乗せていく。要件を書き、インクを乾かし、裏に書かれている通りにロコは紙を折り始めた。そうして完成した姿は、どこか滑空する鳥の嘴に似ていた。
――もう一度、助けて。
 ロコは窓を開き、願いを込めて便箋を飛ばした。不思議なことに、それは投げた力以上に力強く滑空し、遠くに消えた。

 その夜、明かりを全て消した頃。誰かがノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと、寝ぼけた目をこする。そうこうしているうちに、もう一度ノックが聞こえた。そこで、叩いているのはドアでは無いことに気付く。
 ノックは、窓から鳴っているようだ。ロウソクに火を灯し、ロコは異臭を覚悟で窓を開けた。窓の桟に人間の手がかかり、よじ登ってきた。ロコは驚き、思わず声を上げそうになる。そして、後に続いて尾の多い獣が、おじゃましますよ、と言ってロコの部屋のじゅうたんに飛び下りた。青年の黒い帽子を見て、ロコは彼が誰なのか理解した。そして、その目的も。
「ドドさん。それに、キュウも……来てくれたのですね」
「お休みのところ申し訳ございません。手紙が届きましたので、早速参上しました」
 ドドは紳士然と頭を下げる。
「いいえ。悪いことなんて何もありませんわ。来てくれて、本当にありがとう」
 ロコは思わず涙ぐみそうになった。一刻も早くこの臭気から解放されたい一心で、手紙を書いたのだ。窓を閉めて、臭気を遮断する。ドドは辺りを軽く見回した。
「手紙通りですね。ひどい臭いだ」
「全くだね」
 うぇ、とキュウも舌を出して苦い顔をする。ドドはロコを真っすぐ見つめた。いよいよ本題に入るのだと、ロコは身構えた。
「単刀直入に言いましょう。この臭いの元凶は、この屋敷にいる人食いです」
「うそ」
 ロコは衝撃を受けた。ウインディの巨躯を思い出して、背筋が凍る。あんなおぞましい生物が、身近に潜んでいただなんて。少し間を置いて、ドドは再び語りだす。
「今からこの臭気の出どころを探しに行きます。そこで、お嬢様には同行をお願いしたい」
 臭いのせいで喉が痛む。それが嫌で、ロコはつばを飲み込んだ。
「もちろん、危険であることは重々承知しております。ですが、きっとお嬢様にしかできないことがある。そんな予感がするのです。お嬢様の身にお怪我がないよう、必ずお守りします」
 ドドは説得を続けた。だが、ロコの心は迷っていた。人食いの姿を見て、今回も無事でいられるとは限らない。だけれど。
「分かりました。一緒に行きましょう。あなたのことを、信用致します。それに」
「それに?」
「助けて欲しい、助かりたいと言ったのは私です。私が動かなきゃ」
 ロコは笑った。ドドはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、お嬢様。それでは、これをお渡しします」
 ドドがお礼を言うと、一枚のハンカチを取り出して、ロコに渡した。
「これは?」
「ハーブの香りを配合したハンカチです。これを口に当てれば、外部の臭気から守ってくれますよ」
「ありがとう」
 ロコはハンカチを顔に近付けた。すうっと爽やかなにおいが鼻を抜けていき、気分が少し楽になった。
「そういえば、どうしてここまで誰にも気付かれずに来れたのですか? 庭には警備の者がいるはずなのに」
 ロコはふと疑問に思ったこ とを口にした。ドドは、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「足音を消すまじない、というものがあるのですよ。姿さえ見られなければ、勘付かれることはありません。泥棒のように、足音を殺す特別な工夫がいらないので便利なんですよ。今からお嬢様にもかけて差し上げましょう」
 ドドはロコの靴をとんと指で叩いた。すると、足下がふうっと軽くなっていくような気がした。足を軽く踏み鳴らしてみると、衝撃を感じるにも関わらず、木と木の衝突音は聞こえなかった。
「さて、行きましょう」
ロコは頷いた。謎の多い人物だが、少なくとも悪意を持って屋敷に近づいたわけではないような気がした。ドドは扉を開き、ロコとキュウは後に続いた。


 4

 
 夜の暗い屋敷というものを、ロコは歩いたことがなかった。キュウが先頭を歩き、火を吹いて灯り代わりにする。その光が当たらない陰の部分に、何か見えない魔物が潜んでいるのではないかという気分にさせられた。どれだけ気を使わずに歩いても、一切の音が鳴らない。ドドのかけてくれたまじないが、逆に夜闇に潜む何かの存在を感じさせてしまう。身体を縮こませながらも、ロコはドドにしっかりとついていく。
 二人は一階の一室に入った。母が化粧をするときに使う部屋だ。掃除の行き届いた化粧台。そして、全身鏡。ドドは全身鏡の前に立った。鏡は淵が金属で装飾されていた。それをじっくりと観察し、指でなぞった。
「ここだな」
 胸ほどの高さの一部分を、ドドはぐっと指で押し込んだ。その瞬間、かちっ、という音がして鏡が淵ごと横に開く。奥は地下へと続く階段になっていた。
「なるほど、隠し扉か。何かを隠すには丁度いい」
 下から、ハンカチで覆っていても分かる程の強い異臭が吹きこんできた。ハンカチをさらに強く押し当てる。この下に、人食いがいる。心臓がばくばくと鳴り始めた。
 地下へと続く階段は、壁のレンガが古びていて不気味さを覚えた。キュウが、燭台に火をつけて降りる。ロウソクがまだ新しい。きっと、誰かがこの部屋に出入りしているのだ。でも、誰が。
 階段が終わり、どうやら開けた場所に出たらしい。キュウが、ロウソクの全てに明かりを灯した。昼のような明るさに包まれ、ものの輪郭が浮かび上がっていく。部屋のごつごつとした壁、そして、その場所に居座る――放置されている、と言った方が正しいかもしれない――ものの姿。
「ほう。お前が人食いか」
 うっ、とロコは顔をしかめた。その人食いの姿は、ウインディやキュウコンとまるで異なるものだった。
 一言で言えば、それは紫のヘドロだった。半液状の物体が小さく盛り上がり、よく見ると目や口に当たる部分が分かる。光に驚いたのか、ヘドロは手のようなものを伸ばしてくるが、身体は地面に滴りすぐに全部崩れ落ちた。今まで見た人食い達よりも、遥かに鈍重な印象を与えた。
「こいつはベトベトンだな。身体がドロドロだから、自分ではほとんど動けねえんだ」
 キュウが喋る。ふうん、とドドは軽い相槌を打つ。ドドは一体どうやって人食いの名前を掴んでいたのかと思っていたが、どうやら同じ人食いのキュウが知っているらしい。
 ロコはベトベトンに近づけなかった。ヘドロの身体から放たれる臭いがあまりにも強烈だったためだ。ドドから貰ったハンカチも効力を失ったかのように、嫌な臭いが貫通する。
 不意に、ドドはロコをぎょっとさせ行動に出た。右腕をベトベトンの前に差し出し、近付けたのだ。ベトベトンは、うおー、と鈍い唸り声を上げて、ドドの腕にヘドロを伸ばし包みこんだ。心臓が縮みそうな思いをしたが、ドドは振り返って笑う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。人食いとは言えど、ただその肉を食らう者だけとは限らないのです。例えば、水分だけを食らう者、爪だけを食らう者、色素だけを食らう者。色々な奴がいる。こいつは恐らく、人間の垢や体内の毒素を根こそぎ食らう人食いです」
 ドドの腕にまとわりついたヘドロは、事実すぐに離れた。ドドがその腕をロコに見せると、確かに包まれた部分だけ色が明るくなったように見える。
「ほらね」
 ドドは呟いた。ロコの頭に、新たな疑問が浮かび上がる。
「でもどうして私、こんなにひどい臭いに気付かなかったのかしら。近くにずっといたはずなのに」
 この質問には、キュウが答えた。
「こいつは人間の毒素を食うと、ゲップみたいなのを出すんだ。食えば食うほど臭いを出す。ただ一回一回の量はそんなに多くないから、臭いは少しずつ強くなっていく。それだから、ずっと屋敷にいたりなんかすると、気付かないこともあるかもしれないな」
 キュウはけたけたと笑った。そういえば、そうだ。ロコは数か月家を出ていなかったことを思い出した。ロコがドドの顔を見上げると、ドドは理解したように頷く。
「しかし、自分の毒素をこいつに食わせている人間がいるということになる。毒素をこいつに全て預けて、自分の美を保っている人間が」
「一番臭いに鈍感なのはエサやってる張本人だろうな。自分の臭いだから、気付けるわけがねぇ」
 ロコははっとした。ある人物が一人、頭に浮かんだ。まさかと思ったが、意思に反して人物の像がはっきりと浮かび上がる。
 その時、階段を勢いよく降りてくる音。ロコは背中を冷たい金属のトゲで刺されたような感覚を覚えた。まさか。
「あなた達、ここで何をしているのです」
 クラウディア夫人の声が、狭い空間に反響する。息を乱し、肩を震わせ、口元を大きく歪ませて、ドドに対して怒りをむき出しにしていた。

「こんなところに勝手に入るなんて……さては泥棒ね! 人を呼ぶわよ」
 クラウディア夫人はドドに向かって大声を上げる。口元を大きく歪ませ、今にもはちきれそうな怒りを露わにしている。ロコは、夫人のこの顔に見覚えがあった。夫人の容姿について疑いを持った執事を扇子で殴ったときだ。あの時と同じだ、と思った。あの時と全く変わっていない、まるで子どもが癇癪を起したような顔。
「私は泥棒などではございませんよ」
 ドドは素っ気ない態度で答えた。
「私はディドル・タルト。まじない師でございます。本日はロコお嬢様の依頼を受け、人食いを退治しに来たまでのこと」
「ロコが……?」
 ドドがロコの方を指した。そこでようやく夫人はロコの姿に気付いたらしい。夫人は困惑の表情を浮かべている。
「あなたはクラウディア夫人……ロコお嬢様のお母様ですね。早速ですが、今この屋敷に何が起こっているのか、奥様はご存じですか」
「さあ、ね」
 毅然とした態度で夫人は答えた。
「そうでしょうね。あなたはきっと気付かないでしょう」
「何がいいたいのかしら」
 夫人は苛立ちを見せる。
「貴女様は非常にお美しい顔立ちをしておられるようですが、その美貌を手に入れたのはつい最近のことだとか」
「ええ。そうよ」
「どうやって手に入れました?」
 冷たい緊張が走る。中にいる者は誰ひとり、夫人から目を離せなくなった。口元を歪ませながら、夫人は思案していた。
「いつもひいきにしている商人が、特別なクリームを売ってくれたのよ。これを毎日塗れば、身体の毒を全て吸いだしてくれるっていう触れ込みでね。私は運がいいと思ったわ。塗ってみたら、本当に身体の悪いところが消えて無くなってしまった。驚きよね。シミが消えるだけじゃなくて、歳とともに痛みかけていた髪まで若いころのようにつやつやになったんだもの」
「それが、このヘドロということなのですか」
 ロコがベトベトンに目をやりながら、聞いた。
「ヘドロなんて言うんじゃないわ」
 夫人はキッと睨みつける。
「これをくれた人は、こう言ったわ。これは貴女の人生のごほうびです、って。私は嬉しかった。私のためにここまでしてくれる人が、いると思う? あの人は私の欲しいものをしっかり言い当ててくれたのよ」
「これが欲しかったものですって?」
 ロコは怪訝な顔をした。
「これのせいで私は」
 ここまで言って、ロコは口をつぐんだ。言葉が出なかったのではない。臭気にやられて、また胃の中のものをひっくり返しそうになったからだ。反射的に、ロコは背中を丸めた。ハンカチをしっかり口に当て、染み込んだ香草の匂いを感じ取ろうとした。その瞬間、ロコの身を案じ一歩踏み出した夫人の姿を、ドドは見逃さなかった。
「奥様。このクリーム……ベトベトンは、確かに人の毒素を吸い取り尽くす力がある。ですが、これには裏があるのですよ」
 夫人はしゃがんで、ロコの肩を抱いた。そして、顔をドドの方へ向けた。
「このベトベトンは、毒素を吸い取った分だけ、悪臭として外部にまき散らす。あなたが美しくなるたびに、他の誰かが不幸になるのです」
 夫人ははっとした。
 その時、ドドの後ろで、ベトベトンが唸った。その口から吐き出される息。それがロコへ到達すると、ロコはいっそう強くえづいた。
「累積した奥様の毒素が、ベトベトンの吐きだす臭気を少しずつ、少しずつ強力なものにする」
 ドドは地下室の中をゆっくりと動き回りながら語り始める。
「奥様は知っておいでですか。この屋敷の周辺で、怪しい臭気が漂っているという噂を。屋敷にいる方々は常に臭気にさらされているせいか、どなたも気付いておられないようですが、外部の人間には明らかのようですよ」
 ロコはレベッカの顔を思い出した。昼間、その話を聞いたばかりだ。
「本日、お二方はオコネル氏の家にお茶をしに行った。一度家を離れたお嬢様は、その時今まで慣れていたこの家の臭気への耐性を完全にリセットしてしまった。お嬢様の今のお身体が、本来あるべき反応です。奥様、本当にこのクリームとやらを使い続けても宜しいのですか?」
 ドドは夫人に問うた。喋り終わると同時に、ロコはむせた。
 もうハンカチがあってもなくても変わらないほど、臭気は強くなっている。目を開けられず、何も見えなくなった。頭が揺さぶられるような感覚の中に、絶望が広がって行く。数秒先を生きる道でさえ、暗く霞んで消えてしまうのではないかと、ロコは思った。
 ふと、その背中に温かいものが伝わった。とても懐かしい感覚だった。暗闇の不安が、包みこまれるような安心感に変わっていく。夫人が……母が、ロコの肩を抱いていたのだ。
「ロコ、大丈夫だから。ほんの少しだけ、我慢してね。ほら、立って」
 夫人に身体を預け、ロコは立ち上がった。目を開ける気力はない。
「ロコを部屋まで送ります」
 夫人はドドに言った。
「このクリームはどうされますか」
「処分してください。こんなヘドロ、もう要りません」
「かしこまりました。仰せの通りに」
 ドドはにやりと笑って、深く頭を下げた。
「それから」
 夫人はロコを階段に下ろし、顔を上げたドドに早足で近づく。パァン、と快気いい音が響いた。ドドの頬を平手で打ったのだ。拍子抜けするドドの顔に笑みを見せて、夫人は踵を返した。
「それじゃ、後は宜しくお願いしますわ」
 夫人はロコを抱えて、階段を上っていく。呆気に取られたキュウとドドの二人だけが、地下室に取り残された。
 ロコの部屋までの幾段もの階段を、夫人は誰の手も借りずに登った。ベッドにロコを寝かせ、ロコの一番好きな香を焚く。甘い匂いが広がり、ロコの身体をほぐしていく。
「本当に、いいのですか」
「何が」
 夫人は優しい口調で返した。
「あのベトベトンを、処分しても」
 夫人は答えなかった。ただ静かな微笑みを浮かべるだけだった。
「お母様にとって、大事なものだったのでしょう。ずっと、若さと美しさを追い求めてたんだもの。それなのに」
「だって、ロコにそんな顔されちゃ、嫌でしょう?」
 夫人は苦笑した。
「我が娘のあんなに苦しそうな顔を見たら、やっぱり助けなきゃって思うのよ。あなたの親ですもの」
 ロコは布団に顔を深く埋めた。
「私、昔は良家に嫁ぐためにありとあらゆる勉強をしていたのよ。周りが十の勉強をしたら、私は十二。周りが十二したら、私は十四。そんな具合にね。教養を身につけて、絶対に良家に嫁ぐんだって思ってた。あの頃は輝いていたわ。これからどんな道を歩けばいいのかはっきりと見えていたから。でも、いざこの家に来てみたら、なんだか急に穴に突き落とされたみたいな気分になっちゃってね。どれだけ土地があって、奇麗な家に住んで、服で飾ってみても、それは変わらなかった。でも、それしかないと思い込んでいたのよね。いつの間にか、自分を美しく飾ることでしか、生きていく先が見えなくなっていたのよ。でも、きっとそうじゃないのね。私には、あなたとイングウェイがいる。まだまだ終わりなんかじゃないのよ」
 ロコは小さいころから、何度もこの話を聞いていた。美への執着が強くなった夫人を避けるようになってから、久しぶりに聞いた昔話だった。だが、今回はいつもと違って聞こえる。夫人の言葉が、胸の中にすとんと落ちていく。
「さあ、もう今日はお休み」
 夫人は立ち上がって、布団を軽く叩いた。
「あ、そうだ、ドドさん」
 地下室のことを思い出し、ロコは気になった。
「私がちゃんと言っておくわ。安心してお休み、ロコ」
 クラウディア夫人は微笑んだ。


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