蓮の花音に聞こえし泉あり。
虫獣鳥など日ごと集ひては歌詠み、時にとりて人もすなる歌会をせんとて、するなり。
ある夜、蓮の花咲き乱るること、いとおもしろければ、蓮の花にて歌会せんと言ひけり。
朔なれば、魚、蓮のみ集ひて歌詠みけり。
蓮、魚、蓮と詠みて、蓮の歌すぐれたれば、誰か詠まんと言へども、詠まず。
さればとて、若き鯰進み出づ。
水芙蓉 咲き乱れるは さうざうし うるはし君を 隠す蚊帳なり
魚、蓮ども、魚の歌すぐれたりと言へり。
誰をか思ふは知らねども、蓮の花の盛りなれば、垣間見るべからず。
魚、蓮に袖あらば若き鯰と共に袖ぞ絞らめ。
水芙蓉の君、いかに、何かはと問へば、若き鯰、かたち知らず、ただ声のみ聞く。
水の外より、水芙蓉の君、誰かは、蓮の花をかし、我も詠まんと言ふものあり。
声までも 覆はましかば 水芙蓉 我と君とを 分かつ橋立
またすぐれたる歌なり。
若き鯰、かこそ君なれと言へば、蓮どもとく見よとて見んとするが、水芙蓉の君、葉を渡り、泉の彼の岸に消えぬ。
小さき蓮、尾を見たり、柿色なりと言へども、水芙蓉あればついに見ず。
(現代語訳と訳注)
蓮の花で有名な泉がある。
虫や獣や鳥などが、日ごと集まっては歌を詠み、折に触れては人もするという歌会をしようと言って、するのだ。
ある夜、蓮の花が咲き乱れること、とても興趣深いので、蓮の花という題で歌会をしようと(誰かが)言った。
朔の日なので、(月明かりがないため虫や獣や鳥は泉に来れず)魚と蓮だけが集まって歌を詠んだ。
蓮、魚、蓮の順で歌を詠んで、蓮の側の歌が魚の歌より勝っているので、「(魚の側は)誰か詠まないのか」と(蓮が)言うけれども、誰も詠まない。
「誰も詠まないなら」と言って、若い鯰が進み出た。
水芙蓉 咲き乱れるは さうざうし うるはし君を 隠す蚊帳なり
魚たちも蓮たちも、この魚の歌はすばらしいと言った。
「誰を思っているかは知らないけれども、蓮の花が今盛りなので、想い人の姿を(蓮の葉の隙間から)覗き見ることができない。
私たち魚や蓮にもし涙があれば、この若い鯰と一緒に泣くだろう」(と魚や蓮が感想を述べた)
「水芙蓉の君とはどんな姿だ、(魚か獣か人か、)何だ」と(誰かが若い鯰に)聞くと、若い鯰は、「姿は知らない。ただ声だけ聞いている」(と答える)
水の外から、「水芙蓉の君って誰でしょうね。蓮の花がきれいだわ。私も(蓮の花を題に)歌を詠もう」と言うものがいる。
声までも 覆はましかば 水芙蓉 我と君とを 分かつ橋立
またすばらしい歌だ。
若い鯰は、「あれこそ水芙蓉の君だ」と言うので、(大きな蓮が)「蓮たち、はやく(水芙蓉の君の姿を)見ろ」と言って、
(命じられた蓮たちは、その姿を)見ようとするが、水芙蓉の君は蓮の葉を渡ってあちらの岸に消えてしまった。
小さい蓮は、「尾を見た、柿色だった」と言うけれども、水芙蓉が(水面を覆って)咲いていたので、とうとう水芙蓉の君の姿を見ることはなかった。
(和歌解説)
声までも 覆はましかば 水芙蓉 我と君とを 分かつ橋立
(「君の姿を水芙蓉が隠してしまう」と嘆くのに対して)
どうせなら声まで覆い隠してしまえばよかったのに、水芙蓉よ。
この花は私と貴方を結ぶ橋ではなくて、水面のあちらとこちらに分け隔てる橋であるよ。
(出典など)
『池端日記』
執筆者、執筆年共に不明の日記もの。一説には作者は木石竜子とも。
池のほとりに庵を結んだ作者が、各地の伝承を聞き伝で蒐集しつつ、折りに触れ過去を振り返るという内容になっている。
百人一首、特に蓮見小町とその歌にまつわる伝承が多く記されているが、その多くが作者の創作だと思われる。
この話も、「水芙蓉の歌は詠み人知らずである」という伝承に題材をとった作話とされる。
庵の場所といい、日記中に小町の名前が出る頻度といい、作者は単なる小町シンパじゃないか、とも。
【書いちゃった】
水芙蓉の歌に返歌を詠みたい、詠みたいと念じた末にこのような形になりました。
池端日記の作者はどうも私のようです。
水芙蓉の歌は水の歌人がハスミを想って詠んだ歌だろう、と思いましたが、
「虫も魚もみな喋っていた頃のこと、蓮の葉が水面を覆っていて互いの姿は見えないけれど、水面のこちらと向こうで歌を詠み合い、惹かれ合う男女」
……という解釈で書きました。
でも、要は、どうしても水芙蓉の題で詠みたくなった池端の人が作話したということです。
ハスミノコマチ炊いてきます。