(四)穴守家
目的の家の門の前にたどり着く。
「穴守」と彫られた表札がある家の旧い造り木戸の前に立ったナナクサは、「ちょっと待ってて」と言うと隣の小さな通用口から入る。
ほどなくしてギシギシと戸が鳴って門が開き、ツキミヤを迎え入れた。
別に通用口からでいいのになどとツキミヤは思ったが、きっと主人の意向なのだろう。客扱いというのは本当らしい。
敷地と外とを隔てている門の段差をまたいで中に入ると、大きな石を並べて作った道が玄関へと続いていた。
暗くてよく見えないけれど散歩ができそうな程度に庭も広そうである。
やはりナナクサが手入れをしたりしているのだろうか。
一方のナナクサは玄関の引き戸をがらがらと開き、ツキミヤを中へと招き入れた。
靴を脱ぎ、軽く身なりをチェックすると、二人の青年は廊下を渡り中へと進んだ。
相当に旧い、けれどしっかりとした造りの家である。通り過ぎた部屋に垣間見えた柱時計がぼーんぼーんと深夜の時刻を告げていた。
「ここで待ってて」
ナナクサはツキミヤを数ある部屋の一つに通すと、背丈の高い草の素材で組ませたアジアン風の椅子に座らせて、この家のどこかにいるタマエを呼びに行った。
しぃんと静まり返った部屋に、りりりりと虫の鳴く音が響く。青白く輝く月が窓からこちらを覗き込んでいた。
何気なく壁に視線を移すと、ミナモデパートに売っている長いポスターを思わせる絵巻物を飾った額縁が目に留まる。
右手には暖色系の色で描かれた人とポケモン達、左手には寒色系で同じように描かれた人とポケモン達。赤と青、二つの勢力が中心を境界にして睨み合っていた。
両陣営の中に一際目立つポケモンが一匹ずつ在った。ほとんど虫のような大きさの人間達、他のポケモン達に対し、絵巻のほぼ下から上までをほぼ目いっぱい使われて描かれたそれは、誰が見ても特別な存在であることがわかる。実際の大きさがどうであるかはともかくとして、その意味の大きさ、存在の大きさが描かれた大きさとして表れているのだ。
赤いほうは二本足のポケモンで、体型はサイドンなどに似ているけれど意外と体は平たい。節足動物に似た節と身体の側面に左右1列ずつに生えたとげが青年にはなんとなくムカデのように映った。一方、そのムカデと対峙する形で描かれた青い色の大きなポケモンは巨大な魚のように映る。本体と同じくらいの大きさがある幾何学模様が刻まれたその鰭は、一方で空を飛ぶ翼に見えなくも無い。
「ホウエン神話の二つ神、か……」
青年は虫がしゃべったかのような小さな声で呟いた。
ふと、青年の足元がざわつく。
こんな時になんだよ、と言いたげに足元に視線を投げると、三色の瞳が一対浮かび上がっていて、窓のほうを見ろと語った。
青年は視線を再び窓のほうへやる。だがそこには何も居なかった。
何か、誰かが見てたのかい? と青年が視線を投げると、そうだと瞳は答える。
すると、廊下のほうから二人分の足音が聞こえて来た。
どうやら家の主人がこちらに来たらしい。
まぁ、いいよ。とりあえずはね……青年がそう答えを返すと、瞳は瞼を閉じて影の中に消えた。
瞳が引っ込むのと入れ違うようにして、タマエとナナクサがやってきて、ツキミヤは椅子から立ち上がった。
「おぉ、コースケ。夜遅く呼び出して悪かったのう」
皿のような丸い目を見開いて、やや興奮した様子でタマエは言った。
「とんでもありません。ちょうど宿にあぶれていた所でして。ありがたいお申出、感謝します」
そう言って、ツキミヤはお辞儀をした。
肩にとまっていた眠いネイティはバランスを崩し落ちそうになる。
「あぁ、だからボールに入れって言ったのに……」
ずり落ちたネイティを片手で受け止めながらツキミヤは言った。
「ははは、ネイテーも眠たいところを悪かったねえ。まぁ、今日はもう遅いから挨拶はこれくらいにしておこう。シュージに風呂を用意させるから、ゆっくり疲れを取ってから寝るといい。明日は村を案内させよう」
とりあえずは客人の姿を確認できたことに満足したのか、タマエはそこまで言うと、じゃあ私はもう寝るよ、コースケをよろしくね……などととナナクサに伝え、去っていった。
「コウスケ君、お風呂入る? すぐに沸くよ」
ナナクサがそう勧めるので、ツキミヤはそうさせて貰うと返事をし、浴場へ向かった。
目的の場所に向かう前にネイティはモンスターボールに収納した。ほとんど眠っていた為か今度は抵抗しなかった。
「それにしても、まさかこれほどとはね……」
あたりに湯気が立ち込める。
浴槽の前にあって、服を脱いだツキミヤはしばし立ち尽くした。
旅の疲れを癒す広いお風呂――確かナナクサはそう説明していたが、穴守家の風呂は確かに広かった。というか露天風呂だった。
一般家庭というよりは旅館のレベルである。そして一人で入るにはあまりに広い。
湯船から湯を掬い取り、軽く身体を流す。ナナクサから受け取った石鹸とスポンジで軽く身体を洗ってから、青年はざぶんと、湯船に浸かった。
こんな風呂にゆっくり浸かったのはひさしぶりだった。
身体を芯から温める湯の抱擁に身をゆだねながら、眠さに鞭を打ってここまで来た甲斐ががあったなと思う。
あの時要らぬ寄り道をして、宿を取り損ねたが、要らぬ寄り道をしたおかげで自分はこうしている。思えば縁とは不思議なものだ。
そんなことをツキミヤが考えていると、彼の目の前でぶくぶくと泡が立った。
何かと思って見ていたら、一匹のカゲボウズが湯船の中に浮かび上がってきて、水面に顔を出してきたところであった。
だが、湯船の湯をを飲んでしまったらしく、げほげほと咳き込んだ。
「……変なタイミングで出てくるからだよ」
ツキミヤは少々呆れ気味に言った。
「で、何?」
ツキミヤがそう尋ねると、カゲボウズがほれ向こうを見ろと言わんばかりに、青年が顔を向けている左斜め上の方向に視線を投げた。ああ、そのことかと思ってその方向を見る青年。だが、
「湯気でぜんぜん見えないね」
カゲボウズの視線が差す方向を見つめながら青年はこぼした。
だが、先ほど待たされた部屋といい、何かが自分あるいは自分達を視ているらしいことは確かであるらしかった。それもおそらくはこの家に入ってからだ。
何かあるのかもしれないな、この家は。面白そうじゃないか。そんなことを考える。
湯気の向こうから見ているらしい何者かの正体について思案していると、青年が入ってきた方向からガラガラと引き戸を引く音が聞こえてきて、こちらに近づいてきた。やってきたのは服を脱ぎ捨て腰にタオルを巻いたナナクサだった。
ツキミヤは湯船の中でぶくぶくと泡を立てるカゲボウズの頭を急いで湯船に突っ込んだ。
「コウスケ君、僕も一緒していいかなー?」
ナナクサは軽い調子で尋ねてくる。
使用人が客人と一緒に入るのは、どうなんだろうなどと一瞬考えはしたものの、そんなことをうるさく言うつもりはツキミヤには無かった。第一ここは旅館ではないのだから。主人も寝付いてしまったことだし、もうプライベートな時間だと考えているのかもしれない。
ナナクサは湯船の湯で軽く身体を流すと、そそくさと湯船の中に入り、ツキミヤの隣に並ぶ。
「いいでしょ? タマエさんちのお風呂」
ナナクサはそう言って、青年にこの家の風呂の感想を求めた。
「ああ、どこかの旅館かと思ったよ。でも、おばあさんとお孫さんの二人暮らしにはちょっと広すぎるかな」
ツキミヤはそう答えておいた。
すると次の瞬間、湯の水鉄砲がツキミヤの顔にかかった。見るとさっき風呂に沈めたカゲボウズが再び浮かび上がってきてしまって、不意に飲んだ湯を吹いてからゲホゲホと咳き込んでいるところだった。どうやらうまく戻れなかったらしい。
だから変なタイミングで出てくるなと言ったのに。青年は内心悪態をついた。
「ほえ? 風呂にカゲ、ボウズ……?」
驚きの声を上げたのはナナクサである。
慣れない湯船の中で姿を消す余裕もなかったのだろう。それはしっかりとナナクサの目にも捉えられていた。
「あ、ああ……ネイティの他にカゲボウズも持ってるんだ。ボールの中で待ってろって言ったんだけど、勝手についてきてしまって……」
一方のツキミヤはとりあえず手持ちということで誤魔化すことにする。
「ふうん、そうなんだ」
と、ナナクサは言った。
湯船に浮かぶカゲボウズの角をつんつんと突くと、
「ネイティといい、カゲボウズといい、コウスケ君ってちまっこいポケモンが好きなの?」
などと聞いてくる。
「……そういうわけじゃないさ。もっと大きいのだっている」
そうツキミヤが答えると、
「へー、そうなんだ。じゃあ、明日にでも見せてよね」
と、勝手に話を進めた。
余計な事を話さなければよかったと思う。
いや、手持ちを見せるくらいわけないのだが、どうにもナナクサが自分の中にずけずけと押し入ってくるようで青年はあまり気乗りがしなかった。
すると、
「ねえコウスケ君、なんか怒ってない?」
ナナクサは雰囲気を感じ取ったのか心配そうに聞いてきた。
「やっぱり僕が無理やり連れてきちゃったから……」
「別に……眠いだけだよ」
素っ気無く返事をすると、
「よかった」
と、彼は安心したように言った。
「そうだ! コウスケ君の背中流してあげようか?」
「ぶっ」
突然の突拍子のない提案にツキミヤは噴き出した。
そしてざばぁという音と共に湯船の中で立ち上がって、
「馬鹿か君は! 僕はもう寝るからな!」
そう言って、湯船からあがると、すっかり風呂を満喫しているカゲボウズにいくぞと声をかける。
湯船から上がり、胸板が顕になったツキミヤを見て、ナナクサが「おや」という表情を浮かべた。
が、そのことについてナナクサがいつもの調子で問う前に、青年はカゲボウズを連れてすたすたと脱衣所のほうへ歩いていってしまった。
「コウスケくーん、コウスケ君の寝る部屋だけどさー、さっき待ってたとこの隣ね。もう布団は敷いてあるからー」
湯気の向こうに消えたツキミヤに向かってナナクサはそう声をかけた。
彼は少し複雑そうな表情で青年を見送った。
湯船から上がった時に見えた青年の胸には、三本の痛々しい傷跡があったからだ。
ナナクサが用意してくれた寝巻きに身を包むと、ツキミヤは寝室へ向かった。
廊下を渡りながら、
「例のあれ、まだ見てる?」
と、傍らにひらひらと浮かぶ人形ポケモンに目で合図する。
カゲボウズはコクンと頷いて返事をした。
「そうか。どうしたものかな……」
そう呟きながら、寝室の襖を開くと、部屋の中心にいかにもやわかかそうな布団と毛布が用意してあった。
手でそれを押してみる。たぶん、チルタリスの綿毛が入っているのだ。高級布団である。
部屋の奥に目をやると掛け軸と面がかかっていた。
白い肌の面には細い金色のツリ目が描かれ、赤や青で何本ものひげが伸びていた、そして丈夫には大きな耳――狐面である。
それがこちらを見るようにある種不気味に笑っていた。
ツキミヤは面に向かってくすりと微笑み返す。
カゲボウズが中に入ったのを確認して、寝室の戸を閉めた。
そして、何事も無かったように部屋の中心まで進み、布団に腰を下ろす。
しばらくの間。
闇夜にまぎれるかすかな音をツキミヤは聞き逃さなかった。
「鬼火」
ツキミヤがそう呟くと、先ほど彼が閉めた襖の向こうから
「うわああああっ」
という悲鳴が聞こえたと同時にドスンと腰が床についた音がした。
ツキミヤはゆっくりと立ち上がると襖に近づき、それを開いた。
目の前には突然現れた鬼火を前に腰を抜かした一人の少年の姿。彼はしまったという顔でツキミヤを見上げた。
「よっ妖怪……!」
「妖怪? 僕が?」
青年とカゲボウズがくすくすと笑う。
「だって、ひとだま……さては、お前……」
動揺が収まらない様子で少年は言った。
ちょっと脅かしすぎたかな、とツキミヤは鬼火を引っ込めさせ、少年を落ち着かせるように
「こんばんは。ナナクサ君から話は聞いているよ。君がタマエさんのお孫さんなんだね」
と、言った。
すると少年はなんだ知っていたのか、という顔をして
「タ、タイキじゃ! あの偏屈なタ、タマエ婆がめずらしく人を泊めると聞いたんで、どんなやつか一目見てやろうと思っての……」
と、言葉を詰まらせながら必死で強がった。
「タイキ君って言うのかい。僕はコウスケだよ。ツキミヤコウスケ。コウスケって呼んでくれればいい」
かすかに笑みを浮かべながら、ツキミヤは自己紹介した。
「こっちのは僕のカゲボウズ。鬼火を出したのはこの子」
少年は青年の傍らでひらひらとマントをたなびかせているポケモンをまじまじと見た。
「なななんだ。そ、そいつか……。脅かすな……。その鬼火が出た時、俺はてっきりタマエ婆が泊めたのはあの妖怪なんじゃないかと焦ったわ」
このあたりでやっと少年はやっと落ち着きを取り戻しはじめた。
「ひどいな。人を妖怪よばわりするなんて。何? その妖怪って。そんなに僕に似ているの?」
妖怪というキーワードが気にかかり青年は探りを入れる。
「なんじゃ知らんのか。この村の昔話に出てくる炎の妖じゃ」
炎の妖。
少年はそう言った。
「今は祭の時期じゃからの。そいつの名前が一番口にされる時期じゃ。口にされる回数が多いとその名前の主は力を持つんだと。姿を現すんじゃと……だから」
「へえ面白そうだね」
「タマエ婆が言っとったんじゃ。なんならシュージがもっと詳しい」
「ナナクサ君が?」
「そうじゃ。あいつ村の育ちじゃないくせに、やたらと村のこととか米のことなんかに詳しくてのう」
「そうかい。じゃあ明日村を案内してもらうついでに聞いてみようかな」
またあいつか。苦手なんだよなぁ、あのタイプ……などと考える。
「まあいいや……、今日は遅いから寝かせてもらうよ。また明日ね、タイキ君」
青年はそう言って部屋に入り襖を閉めた。
ほどなくして、少年がぱたぱたと廊下を戻っていく足音が聞こえた。
野次馬なところは少年もあの青年もよく似ていると彼は思う。
襖に背を向けるとおのずと部屋の奥に掛けられた先程の面と目が合った。それは月明かりに青白く浮かび上がって相変わらず静かに笑っている。
「妖怪を泊めた、か……言い得て妙じゃないか」
青年は面に向かって再び微笑み返した。