「どうした。早く行け」
苛立ちを露わに男が言った。尊大に私を見下す瞳には、光がない。
「行けったら」
男は痺れを切らしたように舌打ちすると、私の脇腹の辺りを蹴り上げた。
私は否応無しに広いバトル場へと放り出される。
痛みよりも、絶望のあまり、身体が言うことを聞かない。何もかもうまく考えられなくて、頭の中に黒い渦がくるくる巻いては同じ問いを繰り返す。
ねえ、教えてよご主人。私はどうしたらいいの。
お願い、助けてよ。怖いよ、怖いよご主人。
『怖いよおぉぉっ!』
突如響き渡った笛の音のような悲鳴に、私ははっと我に返った。
子供らしい、甲高い声。見れば、すぐ隣のバトルフィールドで、毛むくじゃらの小さな犬がひっくり返って四つ足をじたばたさせながら、大声で咽び泣いている。
『怖いよおぉぉ! あいちゃん、あいちゃぁん! 助けてよおぉぉ!』
トレーナーの名前だろうか。嗚咽混じりの声からは、時折、それらしい響きがこぼれて聞こえてくる。
こんな小さなポケモンまで主人と引き離されたのか。
その光景につい目を奪われていると、フィールドの端にいた黒ずくめの一人が子犬を指差し激しく罵声を浴びせた。
何をやっている、役立たずめ。
子犬の泣き方がひどくなる。
さっさと言うことを聞け、この愚図が。
思わず耳を塞ぎたくなる言葉の嵐。
それでも子犬は泣き止まない。
とうとう罵り続けていた黒ずくめが歩み寄り、まるでサッカーのシュートでもするような大袈裟なモーションで子犬を蹴り上げた。たちまち子犬の身体は投げ出され、対戦相手らしい腕組みした砂色の鰐の足元で、ぼろ雑巾のようにぺたんとなる。周りで見ていた他の黒ずくめたちから、ゴールだ何だの大喚声。
砂鰐は、少しの間虚ろな目で子犬を見下していたが、特に手を差し伸べることもなくどこやらに視線を泳がせあくびをした。
さっと鳥肌が立った。
砂鰐の態度は、見て見ぬ振りというよりも、まるで関心がない様子。何事もないように平然と突っ立っている彼の足元には、まだ痛みにのたうち回る小さな獣がいるというのに。
砂鰐の荒んだ瞳に、あの紫猫の面影が見えた気がした。目だけは対象物を捉えているのに、そこから通じた先には何もない。常世のどこでもない、遠く離れた別の場所から、何もかも、自分のことさえも他者の目線で見下しているみたいな、淀んだ光を浮かべた目。
どうして、なんで。あんな目ができるんだろう。
「個体識別番号二三三、ヨーテリー。認定ランクE。調教の必要あり」
女性が機械的に何かを読み上げると、黒ずくめの一人が仰向けに転がる子犬を乱暴な手つきで押さえつけた。
縮れた毛玉が悲鳴を上げる。怪しく艶めく黒手袋の向こう側で、小さな足が懸命にもがいている。溺れているみたいに、苦しげに。
黒いマスクがからから笑い、毒蜘蛛の足のような黒い指先が踊るように動くたび、チャラチャラと、金属同士が擦れるような音がする。
喉元を降りてくる冷たい予感。見てはいけないと思いつつ、吸い寄せられて繋ぎ止められたように、目だけが離せない。
やがて、子犬の泣き声がぱったり止んだ。精一杯の抵抗も、ぜんまいの切れた玩具のように緩やかに、そして、完全に動きが止まる。
何らかの処置を終えた黒い手が、捕らえたときとは対照的に、優しく、そうっと、子犬の身体を解放した。
子犬は動かなかった。仰向けにひっくり返ったまま、ぼろぼろの毛を床に広げて、いっぱいに見開かれた瞳はぐりんと白目をむいている。そのすぐ隣、涎で固まって房のようになっている長い毛と毛の間から、黒光りする何かが見え隠れした。口輪だ。いかにも頑丈そうな、幾つもの鋲を打ち込んだ、鉄の口輪。
喉から降りてきた冷たいものが、胸の奥底の隅々まで広がっていく。
時を失ったように動かない子犬の身体。きつく食い込む黒鉄の隙間から、無数の泡が溢れ出す。泡は薄汚れの毛を伝い、重力の赴くままに滴り落ちた。
『全く、馬鹿なチビだぜ』
地面を蹴りつける蹄の音と一緒に声がした。私を威嚇していた、あの縞模様の馬だ。口元には、嘲るような笑みを浮かべている。
『ガキはガキらしく、素直に言うこと聞いときゃあ痛い目見ずに済んだのに。なあ、新入り?』
言いながら私に向けられた縞馬には、また、あの目。
止めて。止めてよ。もう、こんなの、見たくない。
いよいよ堪え切れなくなって、身体中が痙攣したように震え出す。無駄に力んだ筋肉が次から次へとびくついて、だめだと思うのに、何とかしたいのに、自分ではどうにも止められない。止めようと思えば思うほど、固く食いしばった歯の隙間から、きりきりと耳障りな音がもれる。
『じゃ。一応新入りさんに、ここでのルールっていうの? まあ忠告な』
そんな私の様子にも頓着せず、縞馬がぎざぎざのたてがみを振りかざした。
『ルールは大きく分けて二つ。一つはまあ、分かるよな? 奴らに逆らうなってことだ』
縞馬が顎でしゃくった先には、ちょうどあの子犬が気絶したまま黒ずくめの人間に首根っこをつまみあげられて、どこかへ連れて行かれるところであった。
いい見せしめだよな、縞馬が笑いを含んだ声でそう言った。
『さて、もう一つはもっと簡単。この場所じゃあ、弱さは罪。強さこそが全て。それだけだ!』
場内のスポットライトが一斉に私と縞馬を注目する。試合開始を告げる、女性の声。むせるほどの喚声。その声の群れに混じって、一直線に指示が飛ぶ。
「ゼブライカ、スパーク!」
相手方の黒ずくめが縞馬を指差し大きく叫んだ。それと同時に彼の白黒の身体が青白い稲光に包まれる。
その様子を、地面に這いつくばったまま、半ば放心して見つめていると、
「コジョフー、見切りだ」
コジョフー?
背後から聞こえた男の言葉に、微かな違和感。
違うよ、私の名前は――
「何やってんだ、馬鹿野郎!」
縞馬の攻撃を直撃し、フィールドの端まで吹き飛ばされた私にたちまち叱咤の声が降り注いだ。
ああそうか、と初めて気づく。私は、この男の言うことを聞かなければならないんだ。
ボールを持っているだけの、私の名さえ知らない、この男の言うことを。
いや、本当は分かっていたのかもしれない。男の声を聞き、顔を見た、最初のあの瞬間に。それでも、心の奥底で、何かが必死に抗い続けている。まだ、私は、ご主人の面影を探している。
頬を地面につけたまま起き上がれずにいる私の腹の下を通じて、一旦遠ざかった蹄の振動が迫ってくるのが感じられた。あの縞馬が再び此方へ向かって突進してくるつもりらしい。
「もう一度、コジョフー。見切りだ」
低くて、冷たい、有無を言わせぬ厳しい声。
哀れな子犬の姿が脳裏をよぎる。
動かなきゃ。うわべでも、何でもいいから、言うことを聞かなきゃ。
ああ、でも。足が、強張って、動けない。
近づいてくる、蹄の音。まるで運命のカウントダウンみたいに、刻々と。
ご主人、ご主人。嫌だよ。まだ、あなたと一緒にいたいのに。
そうだ。また海を見せてよ。海が見たい。
きらきら光を弾いて揺れる水面。世界のまだ見ぬ土地へと続く青い地平線。走馬灯のように脳裏に閃いたその情景は、私はご主人の腕の中にいるみたいで、いつもより少しだけ視点が高く感じられて。いつか見た景色。いつか見る景色。または、そのどちらでもない、今までの彼との思い出全部が夢だったような気までして。
いつしか目の前の静かな海が、荒ぶる雷となり、激しい音を立てながら襲いかかる。
嫌だ。嫌だよこんなの。お願い。助けて。助けて、ご主人――!
『大丈夫』
頭の奥底に声が響く。
『自暴自棄になってはいけないよ。周りをよく見て、落ち着いて行動するんだ』
これは、夢の中の声?
『大丈夫、大丈夫……もう一度主人に会いたいのなら、とにかく、生きろ』
そうだ。生きなきゃ。
カッと目を見開くと、青い稲光がもうすぐ目の前まで迫っていた。硬い蹄が槌のように振り上げられ、下ろされる。
見える。はっきりと。見切れる!
全身の細胞が瞬時に反応する。咄嗟に左腕を地面に打ちつけ転がると、縞馬の蹄が背をかすった。
危なかった。ひやっとしたのは一瞬だけ。
私はバネのような膝を使って、ほとんど反射的に跳ね起きる。そのまま勢いは殺さない。空中で右手を突き出し、縞馬の脇腹の辺りに発勁を食らわせる。
筋肉だろうか、それとも骨か。想像していたよりも遥かに固い。
だが、不意の攻撃に驚いたのだろう。縞馬の細い足が四本とも、頼りなげにふらついた。
チャンスだ。膝を使ってしなやかに着地をすると、軸足に力を入れ、そのうちの一本に鋭い蹴りを入れてやる。
私より丈のある縞馬の巨体が、いとも簡単にひっくり返った。
場内からどよめきの声が上がる。その反響に若干飲まれつつ、男が何かを叫んだ。
私への指示のつもりだろう。聞こえないし、聞く気もない。
全部無視して、もう一度地面を蹴って飛び上がる。その足を、前へ。
ようやく起きた縞馬の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
ドッ、という鈍い音。一瞬間が空いて、縞馬の頭が再び地に伏す。場内のどよめきが吸い込まれるように消えていく。しんと静まった世界で、あの女性だけが相変わらずの淡々とした声で、何かを告げた。
「個体識別番号二三六、コジョフー。認定ランク、B」
それを皮切りに黒ずくめたちがざわめき始める。なあおい、今の、何かすごくねえ? ああ、ぜったい負けだと思ったのに。いいなあ、いきなりランクBかあ。俺の奪ってきたやつも、それくらい強かったらなあ。
私は肩で息をしながら、そのざわめきをぼんやりと聞き流していた。不思議と現実味が感じられず、何の達成感も湧いてこない。身体を流れる熱い血が、まだ刺激を求めて暴れている。
今まで感じたことのない感覚に戸惑いが芽生え出したとき、ふと誰かが背後に立った気配がした。例のあの男だ。先ほどまでの苛立った様子はどこへやら、勝利の美酒に酔いしれた様子で目尻に皺を寄せ、黒マスクの向こうで満足げに笑っている。だが、見下す瞳は完全に私を通り越して、ここではないどこかを見つめていた。
「ようし、よし。よくやったな」
言葉だけの労いを口にすると、男はボールを取り出し私に向けた。
赤い光に包まれながら、私は、今ここにご主人がいたなら、どんな言葉をかけてくれただろうかと、そんなことを考えていた。
「ナンバー二三六、ランクB……いきなりBか。すごいなこりゃ」
「ああ。お前も闘技場来れば良かったのに。なかなか面白い試合だったぜ」
「ほー、そりゃあ見てみたかったな。……えーと、Bの四。ここだな。おい、出ろ」
私が連れて来られた場所は、薄暗い地下道のような場所だった。
ざらざらとしたコンクリートが剥き出しの質素な床には大小様々なポケモンが寝そべっていて、ボールから出された私を出迎えた。思わず咽そうになる埃っぽい空気と、一斉に突きつけられる、刃のように冷たい視線。その様子も、やはりというか、魂の抜けたような儚げな印象だ。どのポケモンも、あの紫猫や縞馬と同じ渇いた目。ここにいるポケモンは、皆こんな風に生気を吸い取られた抜け殻みたいになってしまうのだろうか。
目に見えない圧力につい後ずさりすると、ガシャリという無機質な音とともに、冷たいものが背に当たった。妙な違和感。壁じゃない。思わず振り返り、息を飲む。床から天井に、それに、此方の壁から向こうの壁までびっしりと、規則正しく整列する黒い線。一本一本が私の腕ほどの太さもある。各隙間もそれぐらいだろうか。鼻先だけなら出せそうだが、頭はつかえてしまいそうだ。
逃げ場のない鉄格子を呆然と見つめていると、静かな洗礼から一転、突然けたたましい雨音のような響きが押し寄せた。それを合図に、今まで寝そべっていただけのポケモンたちが腰を上げ、皆こぞって同じ方向へと集まり始める。
何が始まるのだろうか。十数匹ほどの異種族が寄り集まった一群は、何もないように見える壁の前で静止した。
やがて激しい音が鳴り止むと、壁の下部分が縦方向に回転した。口を開いたそこは窪みのようになっていて、中には何か茶色いものが覗いて見える。どうやら食べ物であるらしい。
それを察したのと、強い香りが鼻を貫いたのと、どちらが先だったろうか。食欲を増すようにと、故意につけられた人工的な匂い。そのあまりの刺激に思わず口を押える。腹から熱いものがこみ上げ、それに感化されたように、飛び切り苦い唾液が湧き出てくる。まるで毒だ。
その間に簡素な食卓は盛況に包まれていく。ある者は手を伸ばし、ある者は顔を窪みの中に突っ込んで、互いを押しのけぶつかり合い、一心不乱に咀嚼する。
その音を聞きながら、私はその場に座り膝をかかえた。考えごとをするときのいつもの恰好。こうすると心持ち少し落ち着く気がする。
できればこれから先どうするかを考えたかったが、とても気力が足りず断念した。代わりに、ぼんやりとした意識はあの縞馬との戦いを思い出していた。正直、彼に勝てたのは偶然だろう。あんな風に戦ったのは初めてだった。まるで熱に浮かされたみたいに、気づけば次から次へと技を繰り出していた。そういえば、結局あの男の言うことはほとんど聞かなかったのだと思うと、小さな抵抗が成功したみたいで少しだけ嬉しくなった。
しばらくすると、ほぼ食べ尽くされてしまったからか、それとも匂いに慣れたのか、少しずつ吐き気も収まってきた。何も食べずとも、不思議と空腹は感じない。
私は丸まったまま目を閉じた。
ここ数日の色々な出来事が頭の中で再生される。小川で水遊びをしたこと、ご主人に肩車をしてもらったこと、仲間と一緒にオレンの実を頬張ったこと――
ふいに明るく色づいた情景が停止した。じんわりと、目の裏が熱くなる。
なぜ。なぜ、私だったのだろう。
あのとき外に出て、ご主人の隣を歩いていたのが、私ではなく、他の仲間だったら。
今更何を考えたって仕方がない。それは分かっているはずなのに、どうしようもなく“思うこと”は止められない。
ディンは私よりずっと強いから、あの紫猫や仮面の影にも負けなかったかもしれない。ソルは身体も大きいし、足も速いから、ご主人を背に乗せて逃げられたかもしれない。
いや、そもそもあの場所は何人ものトレーナーとすれ違った場所。街だって近くにあった。
なぜ、私が目をつけられたのだろう? なぜ、誰も助けに入ってくれなかったのだろう?
ご主人は泣いていた。顔をぐちゃぐちゃに歪めて、声を枯らして、何度も、何度も、私の名前を呼んでいた。
そこまで思い出して、ふと、あることに気づいてしまう。
守れなかった。私は、ご主人のポケモンなのに。何一つ、できやしなかった。
なぜ今まで考えもしなかったのだろう。彼がその後、無事なのか。自分のことばっかりで、どうして、微かでも気にかけなかったのだろう。
私がご主人を守らなくちゃいけなかったのに。
助けて、なんて。私が言える言葉じゃなかったんだ――
『食べないのかい?』
暗闇の中、低くて張りのある声が響いてくる。あのときの声と同じ。
私はまた夢を見ているのだろうか。
『食欲が、無いんです』
この前の夢と違って、今度は声を出せた。自分の耳でも辛うじて拾えたほどの、小さくか細い声になってしまったが。
『食べないと元気が出ないだろう。また明日も戦うことになるだろうから』
それは分かるが、とてもそんな気分じゃない。匂いを嗅ぐだけであれだけ気持ち悪くなるのなら、口に入れたとたんに吐き出してしまうだろう。
何も言わずにいる私に、暗闇の声は再び問いかけてきた。
『きみの名は?』
名前? 私の?
初めてご主人に会った日のことが、一瞬にして脳裏に浮かぶ。
――今日から、お前の名前はユイキリだ!
眩しいほどの彼の笑顔。懐かしさすら感じることが、やたら悔しく思う。
『……ユイキリ、です』
『そうか、ユイキリ。その名前、大事にしまっておきなさい。必要なときに失くしてしまわないように』
『え?』
何やら意味深な言葉を告げられ、戸惑う。
そんな私を見てか、声はゆっくりとした口調で語り続ける。
『今はまだ耐えるときだ。日の光が差さぬこの場所で、きみの名を呼ぶ者は誰もいない。
だが、いずれ必ず好機が来る。希望を捨てるな。
ユイキリ。きみならきっと、主人に会える』
はっとして、顔を上げる。
深い暗闇の向こうで、おぼろげな白い霧が静かにたなびき、消えていった。