マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.234] 投稿者:夜梨トロ   投稿日:2011/03/19(Sat) 12:44:37   57clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 二



 僕がおじさんを呼びにいってから約一時間ほどしただろうか。おじさんは風の如く素早くあの生き物の元へ向かうと、せっせと治療を始めた。普段のおっとりとした立ち居振る舞いからは考えられないくらい俊敏な動きだった。薬草などを使って怪我を治しているその様子を僕は途中から見ていられず、寝るふりをして背を向けていた。
 雨は止み、木の葉から雨粒が垂れる昼過ぎ。千切れたような雲の向こうに青空が見える。激しいにわか雨だったなと僕はその空を何となく視界にとらえて虹の在り処を探してみる。けれど七色の橋はその欠片も見えず、高い上空にあるのは雨上がり独特の鮮やかな青色と未だ残る灰色だけ。
 湿った空気が漂う中で、おじさんが僕の真上に顔を覗かせた。それは治療が終わったことを示しているのだろうか、僕は再び立ち上がって振り向く。御神木の根元に身体を委ねる巨体。地面には未だに血が残っていることに僕は縮こまりながらも、まだ出血していないところを確認し安堵する。荒い呼吸も落ち着いて、今は安心して眠っているのだろうか。ほんの少しだけ開いた口から小さな吐息が漏れている。
 半径一メートル以内はまるで見えない壁が張られているかのように、僕はそれ以上近づくことができなかった。足が震えてそれ以上進めない。不安と恐怖が行くなと囁いている。
「坊、お手柄だったわね」
 おじさんはそう言うと大きな丸い手で僕の頭をそっと撫でた。
「もう少し遅かったら出血しすぎて間に合わなかったかもしれないもの。それにしてもすごい怪我だったわ。一体何をしてこんなことになったのかしら」
 不思議そうに生き物を見つめるおじさん。こうして並んでみるとやはりおじさんよりもずっと大きい生き物であることが一目瞭然である。今は寝そべっているが、立っている時の迫力を思い出すと今でも震撼する。
 生き物を身を乗り出すように見つめていた僕の背中をおじさんは突然押した。僕は少しよろけて半径一メートル内のその領域に踏み込んだ。当然だが何も起きない。震える足を自分で励ましながら僕は近付く。
 そうすると目を閉じていた目の前の生き物の瞳が見え、僕の足は思わずかたく凍りついてしまった。その黒く大きな瞳が僕の姿をとらえる。
「……な、なんだよ」
 僕は強がりつつそう呟く。思っていたより小さい声で、もじもじと怖がっているようにしかこれじゃあ聞こえないだろう。その時頭に強烈なげんこつが入り、思わず僕は悲鳴をあげその場に潰れるように座り込む。殴ってきたのは勿論おじさん。
「ごめんなさいね。怪我は一応吐血ほどはしといたけどしばらくは動かないでくださいね。また血が出たら大変だから」
「ああ……感謝します」
 僕は頭を抑え涙を堪えながら、その生き物から出てきた声に目を丸くする。その大きな巨体からは考えられないほど小さく、掠れた声だった。僕のさっきの呟きと左程変わらない声量である。声が小さいのはまだスルーできても声の掠れ具合は異常だ。風邪でもひいて喉が潰れているのだろうか。
 少し身体を震わせすぐに痛みに倒れるオレンジの獣。おじさんの忠告を無視して動こうとしたのだ。
「あなた、どこから来たの? この森に住民じゃあないでしょう?」
 おじさんの問いに少し獣は目を逸らし、しばらく沈黙が流れる。どうしてすぐに答えないのだろう。しかしそのうちその口が開いた。
「ずっと遠く……海を越えた向こうから……」
「うみ?」
 僕は思わず聞き返した。彼の掠れ声への心配は虚空に消え、聞いたことの無い単語に僕は興味が向く。ただ相手は“うみ”という単語自体に反応していると気付いていないのだろうか、こくりと頷いただけで話を続ける。
「いつだったからかこの地方にやってきて、しかし突然捕えられ、今は逃げてここまでやってきた。その途中に崖から落ちてしまった、だから怪我を負ってしまった」
「崖ってこの近くにあるあの崖? 落ちてよくここまで歩いて来れたわね。頑丈な身体ね」
「そんなことは無い。結局このざまだからな。……本当は海を越えて戻るべき所に戻りたいが、それは叶いそうにない」
「海ねえ。それは難しいわね。むしろどうやって海を越えてきたのか、そっちの方が疑問だわ」
 おじさんも“うみ”を知ってるのか。一体何なんだろう“うみ”って。後で聞いたら答えてくれるかな。
 獣は黙ったまま答えない。答えたくないのだろうか。沈黙の後、ウインディは下げていた頭を上げておじさんと相対する。
「とにかく、助けて下さったのは有りがたい」
「お礼ならこっちの坊やに言って下さい」
「ありがとう、ええっと……」
 獣はこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
「名前は何というんだ」
「名前? 名前なんて別に無いよ」
「え?」
 オレンジの獣は首をかしげる。そんなにおかしいことだろうか、僕は僕だし、おじさんはおじさん、お母さんはお母さん。それ以外に何があるというのだろうか。
 しかしその後獣は何かを考えるように顔を俯かせて、勝手に一人頷いた。
「ここの者達は名前など無くてもなんとかなる、というわけか。ふむ」
 何だか馬鹿にされたような気がして、僕はむっと顔をしかめる。
「じゃああんたは名前があるのかよ」
 意地を張ってそう言うと、おじさんがまた頭を叩いてきた。といっても先程よりも随分優しい威力だったけど。
 獣は少し微笑む。微笑んだその瞬間の生温かい息すらも大きく僕に吹きかかる。少し強い風が吹いたように僕の毛が揺れた。いや、それよりもその微笑んだ表情の柔らかさに僕は驚かされ、印象深く頭の中に残る。
「ウインディと呼ばれていた」
 溜息をつくように自然と零れてきた言葉は、噛みしめるように籠った声。
「だからそれが私の名前なのだろう。ウインディと呼んでくれ」
 ウインディ。
 僕はそれを心の中で再び呟いた。それは、他と個を区別するために生まれた言葉。何故だろう、不思議な響きを携えている気がした。僕には無いその名前を、彼は嬉しそうに呼んでくれと話す。僕には無いものを彼は持っている。それは、獣が森の外の世界から来た生き物であることの象徴だった。



 ウインディがやってきたという話は瞬く間に森中に広がり、数刻後には彼の周りは森の皆の姿で埋もれていた。それを僕は遠くから呆然と見詰めていた。興味に目を輝かせた子供がその中の大半で、外からじゃあ様子が殆ど見えないほど沢山居る。おじさんが傍に控えて、怪我が悪化しないか心配しているのがわかる。基本的に安静しなきゃいけないだろうに、周りがこれだけ騒いでいては安静になんてしていられないだろう。まあ、別に僕には関係無い話だけどさ。
 軽く溜息をついた後つまらなくなって上を見上げる。御神木の葉がさわさわと揺れ、その向こうからやってくる木漏れ日がちかちかと光る。先程までの雨は一体なんだったというのか、不思議に思えるほど爽やかで晴れ晴れとしている。空も森の皆のようにから元気にはしゃいでいるようだ。うるさいくらい眩しいんだ。
 耳を立てると様々な黄色い声が飛び交っているのが分かって、聞き取ってみる。大きいなとかすごいねとか、そんな感じ。確かにその言葉に偽りは無く実際とてつもなく大きい。多分森にいる生き物の誰よりも遥かに大きいと思う。けれど何だかそれは僕にとってとてもつまらなく感じられる。突然やってきて森で一番大きな存在になるだなんて、つまんない。なんだか心に針がちょいちょいと刺さる様に痛く感じる。
 ああなんだか、気持ち悪い苛立ちだ。
 いっそ寝てしまえばこの沈んだ心も何となく癒されるだろうか。つまらない時間を起きたまま呆然としているより、眠ってしまった方が有意義なのかな。そうだ、眠ってしまおう。聞こえてくる声を子守唄に変えてしまおう。目をすっと閉じて暗闇の中に潜りこむ。小さい体を更に縮こまらせる。意外と疲れていたのかな、白い雲のようなふわふわした眠気は案外簡単に僕を包み込んでいった。


 おっきいねえ。おっきいなあ。
 すごいねえ。すごいなあ。
 ああそうだ、なんて大きいのだろう。僕の記憶の中のお母さんよりもずっと大きいんだ。でも僕はそれをつまらないと必死に心の中で訴える。


 目をまた開くと僕は小さな影の中にいて、すぐにおじさんの傘の中にいるのだと分かった。何か夢を見ていたような気がするのに、内容は何も覚えていない。何も見ていなかったのかもしれない。あやふやな中でゆっくりと身体を起こす。頭が働かず状況を理解するのに少し時間を要した。森は少しだけオレンジ色に染まっていて、静けさを携えた柔らかな時間帯へと移り変わろうとしていた。
 そういえばやけに静かだ。僕はそっと顔を上げると、あのオレンジの獣が同じ場所で身体を横にしていた。周りに群がっていた森の皆の姿は何時の間にやら消えていて、この周りの空間にいるのは僕とおじさんとあの獣だけになっている。ふと僕は頭上に視線をやると、おじさんは目を閉じて一人眠っていた。おじさんを起こさないように忍び足でその場を離れ、傘の下からゆっくりと抜け出す。恐る恐るおじさんの表情を伺ってみるとどうも気が付いていないようで、ほっと胸をなでおろす。
 夕日の輝きが僕を照らし、少し長くて大きな影が僕の足元から伸びる。
 オレンジの獣もおじさんと同じく目を瞑っている。寝ているのだろうか。
 ウインディ、と僕は心の中で呟いた。ウインディというその言葉の羅列はまるで何かの魔法の呪文のように思える。それを口にすると、何かが変わってしまうようなそんな予感が僕の中をよぎる。だから僕はそれを声に出さずに、心の中で唱えた。
 息を止めてなるべく物音を立てないよう慎重に御神木の元へと歩み寄る。息が詰まりそうなほどぴんと張ったような空気の上から、何かの鳥が飛び立ったような音が聞こえてきた。
 その時、分厚い毛の下の黒く大きな瞳が姿を現した。すぐにウインディは僕の姿を捉える。また僕は金縛りにあったように動けなくなる。ウインディは倒していた身体を時間をかけて起こして、立ちあがるまではいかずも身を御神木に寄りかける。それだけで僕にとっては言い知れない巨大な迫力が襲いかかってくる。
「よく眠っていたな」
 変わらない掠れ声が耳を掻く。
「べ、別にいいだろ、寝てても」
 僕はせめてもの足掻きのように声を籠らせる。これだけでなんだか自分が本当に小さい存在だと思い知らされて心が締め付けられる。
「改めて感謝をするよ。君が助けてくれたんだろう」
「……別に、いいよ、それくらいのこと」
「そう言うな。おかげで一命をとりとめたんだ、本当に感謝しているよ」
 僕は何だか居たたまれなくなって顔を伏せる。急に恥ずかしくなってきてこの場から逃げ出したくなる。なんだろうこの気持ち、胸のあたりがむず痒くてしょうがない。僕よりずっと大きくて力がありそうな生き物がこうも軽々頭を下げるなんて、こっちは一体どういう表情をしたらいいんだよ。
 しばらく沈黙が続いて、なんともいえない空気で満たされる。何か言葉を発したくなるけど何も出てこなくて、あっちから何か話しかけてくれたらいいのになんて考えていた。きっとおじさんなら何の気兼ねも無く様々な話を持ちかけるだろうけど、生憎今の僕にそこまで余裕は無くて、いっそここから逃げ出そうかと思うのに足は固まっている。
 遠くで誰かの声がする。それは親を呼ぶ子供の声だとすぐに分かった。
「この森はとても良い場所だ」
 唐突にウインディは話を始める。
「まだここに来て一日も過ぎていないが、優しさと活気に溢れている。心が落ち着く」
「……あんなに囲まれて、騒がれてたのに?」
 僕は不思議になって思わず疑問を投げかける。
「ああ。怪我を負ったこの身体には少し負担かもしれないが、気持ちは幾分と楽になった。しんみりと同情されるよりは、騒がれた方が気は楽だ」
「ふうん」
 そんなものなんだろうか。よく分からないや。
「色々とあって、無気力でひたすら歩いていたからな。身体だけ動いていて、そこに意志など無い。ただ、歩いていた。そんな状態のおかげで怪我を負ってしまったのは反省すべき点か」
 最後の一フレーズに自分で少し笑うその表情はなんだかその巨大な図体とは合わないような気がした。けれどかえって僕の心は少し緩んで、つられるようにしていつの間にか笑いがこみあげてきていた。
 ふふ、と無意識に僕が笑うとウインディもはは、と笑う。なんでか分かんないけど笑えてきて、それは止まらなかった。ウインディも僕も小さい声しか出ないけど、その表情は満面一杯に笑みが広がっていた。なんで、どうしてはもうどうでもよくなっていた。
 そうして笑うと、僕の中にあったウインディに対する震えるような警戒心とか恐怖心とか、そんな感情が少しだけひいていくのが自分でも分かった。そして、昼間に親しまれていた理由がほんのちょっとだけ理解できたような気がした。
 けれど意味の分からない笑いの連鎖もそのうちには途切れる。また互いに次の言葉を待つ緊張を持った雰囲気が生まれる。
 オレンジ色の空を、沢山の鳥ポケモン達が群れを成して滑っていくのが目に入った。
「空、好きなのか?」
 素朴な尋ねごとに僕ははっとして慌てるように下を向く。込み上げる小さな恥ずかしさで頬がほんのりと熱くなる。
「別に、好きっていうわけじゃあないけど」
「でもよく空を見上げているね。昼間だってよくそうして見ていた」
 あんなに周りが混み合っている状態で僕の姿を見ていたのだろうか。なんだか全てにおいて見通されているような、自然と喉が渇くような変な感覚が僕に降りかかる。
「癖だよ、ただの」
「癖?」
「……おじさんが空が好きだから、僕も癖になっちゃったんだ」
 適当に言い訳のようにつらつらと出てきた言葉だけど、決して嘘ではない。おじさんは森の中でけっこうロマンチストで、ふと空を見上げては例え話を思いついて僕に話してくれる。雲の形であったり空の青さであったり、太陽の光の強さであったり星の瞬き具合であったり、様々な空の表情を色鮮やかな表現で僕に教えてくれた。そこからおじさん作の物語が生まれたりする。一番最近で言えば黒い流星の話。三日月を空に浮かぶ揺り籠と言ったり、星の煌めきを星達が話をしているようだと話したこともあった。不思議と納得させられることも多々ある。そんな感じの話を小さい頃から聞いてきて、おじさんの傍で共に空を見てきたからか、僕も無意識によく空を見上げている。さすがにそこから詩的に何か発言することはできないけど。恥ずかしいしそれ以前に思いつかないから。
 ふむ、とウインディは頷いておじさんの方を向く。僕もつられてそちらを見る。相変わらず目を閉じたまま、気持ちよさそうに眠りの世界に入っている。どんな夢を見ているのかな。きっと、僕は見た事の無いようなロマンチックな夢をおじさんはいつも見ているんじゃないかな。
 無限に広がるおじさんの中の世界観は綺麗で羨ましくて楽しかった。だから僕はおじさんが大好きだった。
「なんだか彼を見ていると、こちらまで眠くなりそうだ」
 そう言った後にウインディは大きな欠伸を見せた。いくつも並ぶ巨大な歯が姿を見せ、赤黒い喉も露わになる。何もかも僕とは比較にならないくらい大きくて、呆然としてしまう。
 それは僕にも伝染して、ウインディの口が閉じられた頃僕は弱弱しいほど小さな口をぱっくりと開けて欠伸をする。でも実際そんなに眠くはない。なんとなくの欠伸だ。だって昼間から夕方までであれだけ寝たんだもの。
 ウインディは少しもぞりと身体を動かし、頭を倒す。その目は細く、今にも閉じてしまいそうだ。
 僕はもう一歩、また一歩とウインディに近づいてみる。ゆっくり、ゆっくりと歩み出す度に、僕の中で緊張が膨らむ。けれど何も起こらない。目の前の獣は今、普通に生き物の意欲に従って睡眠につこうとしているだけ。僕と、おじさんとさほど変わらないように感じられた。
 目と鼻の先の距離までやってきた時、ウインディはそっと笑ってみせた。

 こんなにも大きな身体をしているのに、目の前で無防備に静かに眠ろうとしている。風の如く突然ここにやってきて、なのに自然と溶け込んでいる理由は彼の大らかな性格にあるのだろう。
 目に見えるものだけが全てではないのかもしれない。

 また、うみのことを尋ねてみようか。
 僕はそんなことを考えながら、ウインディの穏やかな顔を見つめていた。


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