タグ: | 【クジラ博士のフィールドノート】 【少年の帰郷】 |
1.
波の音が聞こえた。
星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
ああ、これは故郷の音なのだ、と彼は思った。
少年の頃暮らしていたあの小さな島の。
その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。
空は何者にも占領されておらず、海からの水蒸気を吸い上げてもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていった。
照りつける射すような日差しに目を細めながら海を見る。水平線の先に陸は見えなかった。遮るものがない。本当にここには空と海しかない。ごくたまに、青と碧の境目から船がやってくることがあるが、それくらいのものだ。
海面に視線を移す。波の音と鳥の歌に耳を傾けながら、今日の波は穏やかだと彼は思った。
ふと、海の底から大きな影が現れた。それはゆっくりと浮き上がって、海面に姿を現すと彼の風景に新たな音を加えた。
音と共に吹き上げられたのはしょっぱい水だった。
それは空中でキラキラと輝やくと、やがて海へと還っていった――
プルル……プルル……と、着信を知らせる電子音が響いた。ベンチで昼寝をしていた彼の、シワの入ったスボンのポケットの中からだ。
耳に届いたその音と衣服から太ももに伝わる振動に促されて、彼はけだるそうに起き上がるとポケットに手を入れる。機械的な感触を探り当てると引っ張り出し、チカチカと点滅で催促する電話をなだめるように通話ボタンを押した。
「……もしもし。ツグミです」
眠気を残した声で彼は答える。
「ああ、トシハル君かね」
電話ごしに聞こえたのは聞き慣れた上司の声。ディスプレイに映されていた着信元は彼の勤める事務所からだった。
「昼休みならまだ終わっていないはずですが」
自由時間を邪魔されるのは嫌いだったから、そう主張する。
「そんなことはわかっているよ」
そんな答えを想定していたかのように上司は言った。
「それなら何のご用でしょうか」
急な用件でも出来たのだろうか? 心当たりを想像しながらトシハルは尋ねる。
「それがな、さっき君のお母さんから会社のほうに連絡があって」
「……え、母からですか?」
彼は少し呆けた声を上げた。てっきりいつもかけてくる取引先だと思っていたのに意外な人物が浮上したものだ。
実家と不仲……というわけではない。けれどずっと連絡などしていなかった。
「なんでも急ぎの用らしいから、至急折り返して欲しいとのことだ」
「急ぎの用……」
「いや、僕もね、総務から聞いただけだから」
「はぁ……」
「とにかく、早いとこ連絡してあげなさいよ」
「はい」
「それと」
「それと?」
「君、ご両親に携帯の番号くらい教えておいたほうがいいんじゃないかね。会社用とはいえ、緊急のこともあるだろうし」
いろいろと想像をめぐらせるトシハルに彼の上司は助言する。コンテストの観戦が趣味だという上司は良くも悪くもお節介な男だった。通常、社用携帯というものの使用にはいろいろな制約があるものだが、彼らにそれを支給した会社組織はそれらの私的利用に比較的寛容であったのだ。
「え……ええ。そうしたいのは山々なのですが」
そんな上司の気質と社内事情を十分に理解した上で、トシハルは答える。
「何か問題あるのかい」と、上司が尋ね、それに答える形で彼は続けた。
「はい、僕の実家なんですけれど、あいにく圏外なものでして」
皮肉交じりに答えた。
トシハルの故郷、それはホウエン最大の都市のはるか沖合い、遠い南の海の果てにある。同じホウエン民でもその存在を知る者は非常に少ない。もちろんそんな場所だから携帯の電波など届くはずもなかった。携帯というものが世の中に普及して久しい。それなのに未だにである。
いや、本当は嘘なのだとトシハルは内心に呟いた。圏外。その一言で何も考えずに聞いているとうっかり騙される。現に上司は騙された。だからメカに疎い彼の両親への説明もそれで一発だった。たしかに携帯同士ならそういうことになる。が、母親が使ったのは固定電話のはずだ。圏外とはいえ、固定電話が圏内携帯にかけることは造作もない。つまり、嘘だ。本当を混ぜて作った、嘘だった。
トシハルは携帯の電源ボタンを押して電話を切り、元の場所に仕舞い込むと、腰掛けている公園のベンチから空を見上げた。
ホウエン地方最大の都市、ミナモシティ。
空には何本もの巨大なビルが伸びて、高さを競い、彼を見下ろしている。電柱を機軸にした電線がまるで空を切り分けるように何本も張り巡らされていた。トシハルは思う。都会の空は狭い空だと。まだ止まぬ晩夏の蝉の合唱に混じって、道路を走る自動車の走行音が交差する。あのころとは違う空、そのころとは違う周囲の音。これが今彼の生きる場所だった。
とりあえずは携帯で無い電話を会社からかけよう。と、彼は思った。離島の固定電話が圏内携帯にかけることが出来るように、その逆も造作なかったし、母との仲が険悪なわけでもなかった。だが、彼は故郷の島と自分との間に一定の距離を置くこと、それを心掛けてきた。それに則るとするならば、母にかけるのは固定電話からでなくてはならない。おそらくメカに疎い母に「履歴」という概念は無いだろうが、そうしなくてはなるまい。
彼はベンチから腰を上げると、勤務先のオフィスが入っているビルジャングルに向かって歩き出した。
――もしもし、母さん? 僕だけど。
線が通った電話の、その受話器の向こうから彼は久々に母の声を聞いた。
――トシハル? ああ、よかった! アパートの管理人さんに電話したけどいないって言うし、会社のほうにかけちゃったの。ごめんね、忙しかったかしら。元気にしてる?
大丈夫だ。元気にしている。そんなことを答えた。受話器の向こうから母の声が近況を伺う質問という形で耳に入った。仕事は大変ではないか、部屋は散らかっていないか。そんな質問だ。その声は何か重要なことを切り出すタイミングを伺っているようでもあった。
トシハルはちらりと会社の時計に目をやった。長い針がもう少し回ったらてっぺんを指しそうな角度だった。
――それで? 急用があるって聞いたんだけど。
――ええ、それがね………
そう言って母親は本題を切り出した。
その話は長いようにも思えたし、短いようにも思えた。
「…………、……」
二言三言返事をした後に、訪れたのはしばしの沈黙だった。状況を整理しかね、彼は無言になった。昔からそうなのだ。相手の言っていることが理解できないと無言になってしまう。何と返して良いかわからなくて、言葉が出てこないから、無言になってしまうのだ。
――…………トシハル? トシハル聞こえているの。
母の声が聞こえて、聞こえている、と彼は答えた。
それはあまりにも唐突だったから。うまく咀嚼ができなかった。
「いつ……?」
――……昨日よ。突然でね。
「……予定は?」
――まだちゃんと決まっていないけれど、三、四日後になるだろうって話だわ。人手もいるっていうし、かといってそう何日もそのままにしておくわけにもいかないしね。だから、残念だけれど……
そんな内容を母と何度か繰り返した。そのうちに聞いているのが困難になった。頭がぐらんぐらんと軽く揺れている感じだった。
けれど一度入った言葉は、彼の頭の中でぐるぐるぐるぐると回って、せきたてる。どうするんだ。結論をだせ、と。
ああ、いけない、冷静になれ。内容を整理しなくては。そう思ってブレーキをかける。けれど大した効き目は無かったようだった。何個かの選択肢を考えた。けれど、行き着く先は結局同じだった。
――…………だからね、トシハルには船が出次第でいいから帰って来て欲しいの。お母さんもお父さんも……ううん、みんなあなたを待ってるから。
最後に彼の母はそう言って電話を切った。
どれくらい話を聞いていたのかはわからない。ただ、彼が受話器を置いたその時には、もう周りの会社員達が午後の仕事にかかっていて、せっせとキーボードを叩いたり、電話をかけたりしているところだった。
あれ、そういえば結局何て答えたんだっけ。とトシハルは自問する。頭は混乱したままだった。
うん、わかった……必ず行く。
とりあえずそのように答えた気がする。
波の音が聞こえた。
星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
電話越しからちっともそれは聞こえなかった。それなのに。
否、聞こえたのではない、再生されたのだ。彼の記憶が響かせたのだ。鼓膜に染み付いたその音を頭はしっかり覚えているのだから。
その音がまるで何かを訴えかけるかのようにトシハルの中に響き渡って消えなかった。
ひさしぶりにかけた実家への電話、ひさしぶりに聞いた母の声。
故郷を出てから十年以上の歳月が流れていた。
「ミナモ港までお願いします」
改札から飛び出したトシハルがバックミラーに映る運転手の顔にそう告げると、モンスターボール型のランプを点灯させた黒いタクシーが大都会の道路を滑るように走り出した。
彼が電話を切って、すぐに行ったことはパソコンの電源を落とすこと、そして上司の説得だった。彼が願い出たのは早退と相当数に溜まっていた有給の消化だった。幸い繁忙期ではなかったこともあって、コンテスト好きの上司はそれを了承してくれた。
まぁ、ポケモンリーグ開催の時なんかみんなサイユウやらバトルカフェに行っちまって、一週間は会社が空になるからな。その点お前はポケモンには興味ないみたいで大助かりだ。他のやつらの隙間をよく埋めてくれているし、助かってる。よくわからんが行ってこいよ――彼の要領を得ない説明を理解したのかしないのか、とにかくそう言って、送り出してくれた。
ミナモ美術館前、ミナモ美術大学前、ミナモ市役所前――トシハルを乗せたタクシーは様々な交差点を通り過ぎて、しばらくの間海沿いの道を走っていたが、やがて船着場前に止まってドアを開いた。
「ありがとう」
トシハルは運転手にいくらかの料金を支払うとタクシーから飛び出した。
とにかく船に乗らなくてはならない。そのことで頭がいっぱいだった。
フゲイ島。
それが彼の故郷である島の名だ。ミナモからの距離はおおよそ700キロメートル。
まずはミナモ港からロケットの島、トクサネ行きの船に乗る。海路を南下してトクサネの北に着いたなら、路線バスに乗って南下。ロケットの発射場を横目に見ながら南の突端を目指す。南端の小さな港に行き着いたなら、そこからはまた海路である。
この港からは主に南南西の方角にあるサイユウ行きの船が出ているが、ごく少数、南南東行きの船が混じることがある。
フゲイ島行き。
これこそがトシハルの乗るべき船だった。
幸いにも毎年サイユウで開催されるポケモンホウエンリーグのおかげで、このルートでは情報網が整備されていた。サイユウ行きと言えばホウエン北部のカナズミシティからの空路というメジャーな方法がある。だが、ホウエン南部の住民にとっては少々面倒なルートだった。だから南部のシティやタウンの人々はもっぱら船の旅を楽しんだのだ。だから、何日の何時にミナモ港を出れば、何時のバスに乗れ、トクサネの南端で何時の船に乗れるのか。それはミナモ港で調べてもらうことが出来るようになっていた。フゲイ島は相当にマイナーな行き先であるにもかかわらず、リーグの為に整備された海路検索システムの恩恵に預かっていた。
便利な時代になったものだ。
お陰でそれがトシハルに非情な現実を突きつけるのには時間がかからなかった。
「フゲイ島行きの便は十二日後でございます」
笑顔でパソコンのキーをたたくオペレーターの一言にトシハルはさっそく撃沈した。
行き当たりばったりにも程があった。
馬鹿かトシハル、お前の実家は携帯も届かないほど過疎で、マイナーな所なんだぞと、彼は今更ながらに思う。
思い出した。実家への定期便は二週間に一度しかないのだ、ということを。
ミナモシティはホウエン屈指の大都会だ。すぐにつかまるタクシー、五分に一度は来る電車、そういう感覚こそが当たり前で、十年という歳月が彼の認識を鈍らせていた。
母が言っていたことを思い出す。
船が出次第すぐに帰って来て欲しい、とはすなわちそういう意味だった。
けれど……とトシハルの胸に去来するものがあった。
「……急用なんです。どこかアテはないでしょうか」
期待などしていない。だが、言うだけは言ってみようと思って彼は言葉を口にした。
「そう言われましても……」
と、オペレーターは冴えない返事をする。
「そう、ですよね……」
どうしよう、せっかく休みまでとってきたのに。早くも手詰まりか。
帰らなくてはいけない。帰らなくてはいけないのに。早くしないと、でないと……。
トシハルの中で気持ちばかりが焦ってぐるぐると頭の中を駆けずりまわっていた。
「もしかして、あそこの島の方ですか」
オペレーターは世話話のつもりなのかそんな疑問をぶつけてくる。
「……そうですけど」
「へええ、その割にはオシャレですねぇ」
「は、はぁ。まあ、こっちにきて長いですから……」
おいおい一体どういうイメージでうちの島を見てるんだよ……とトシハルは内心に突っ込んだ。同時にその一言は彼の中に妙な引っ掛かりを残した。
もしかすると、ショックだったのかもしれない、と彼は思う。たとえ離れても島民であるという意識が彼の中にあったのかもしれなかった。同時に馬鹿らしいと思った。どの口を開いて自分が島民だと主張するのか、と。
「まぁもはや元島民と言ったほうが適切かもしれませんけど」
トシハルは歯切れ悪く返事をする。
「それで、本当に何か方法は無いでしょうか。多少料金割り増しになっても構わないです。どうしても二、三日中に島に行きたくて……」
そうして彼はオペレーター嬢を前に粘り続けた。しかし、無いものは無かった。ここで一人オペレーター嬢を困らせたところで増便が出るはずも無かった。
「おい、にいちゃん、あんまりうちのコを困らせないでもらえないかね」
とうとう別の部屋からオペレーター嬢の上司らしき男が出てきて、いさめられてしまった。いかにも船乗りといった風貌の恰幅のいい男だった。
「で? その元島民のにいちゃんが一体何しに帰るんだ」
オペレーター嬢が去って、今度はその上司との面接状態になった。
接客用カウンターを挟んで、細椅子に腰を下ろした男が二人、向かい合っていた。
船が出ないのに理由を聞いても仕方ないだろう、とトシハルは思ったのだが、なぜだか男は聞いてくるのだった。
「何しに帰ると聞いてるんだ」
「いや、それはその……」
「はっきりせんかい!」
トシハルが返事に詰まると、男が喝を入れてくる。何の圧迫面接だろうと彼は思った。
船のチケットを取りに来ただけで妙な展開になってしまったものだ。
「……大事な用があるんです。うまく言えないけど、大事な用なんです。今すぐに向かいたいんです!」
まただ、と彼は思った。思考が言葉という媒体になる前にぐるりと方向転換して、結論にストップをかける。具体的な事象を音にすることを拒否した。頭が、口がそれを拒んでいた。
言わない。言ってはいけない。まだ、言ってはいけない。
「お願いします……十二日後じゃ間に合わなくなるんです。お願いします!」
まだ言葉にしては、いけない。
「僕は……」
……確かめなくちゃ、いけない。
そう言い掛けて出掛かった言葉を飲み込んだ。
「…………」
男は神妙な顔をし、トシハルの顔を見た。
目と目があった。ほんの少しの沈黙が続いた。
「……そうかい」
と、男は言って、胸元のポケットに刺さった携帯を取った。結局、内容はわからず仕舞いだった。だが、目の前にいるひょろっとした男の中で何かが切迫していることは感じ取ったようだった。
「あー、もしもし、ゲンゴロウさん? 忙しいところ悪いねー。あのね、今こっちにクジラ島に行きたいっていうおにいちゃんが来てるんだけどね……」
などと話し始めた。
「うん、うん、わかった。じゃあ待ってる。悪いねェ。ああ、そういえばトクサネは最近どうよ。うん、また今度ロケット見に行くからさ、そんとき飲もうよ」
「あの、」
「ちょっと知り合いのツテでだな、トクサネの港から出る漁船で、あっち方面まで行く船がないか探して貰ってる。ただし、これで見つからなかったら船は諦めるんだな」
「……! あ、ありがとうございます!!」
トシハルは男に深々と頭を下げた。
確かめる。
そうだ、とトシハルは思った。それが今言葉に出来る精一杯だった。
確かめる。そうとも、僕は確かめに行く。その為に島に行くのだ。
――そうだ、トシハル。お前は確かめなければならないんだ。
いつのまにか自分にそう言い聞かせていた。
2.
「にいちゃん、あまりよくない報せだ」
男は携帯の通話ボタンを電話全体を押すようにして切りながら、トシハルに伝えた。
「ダメ……でしたか」
「ああ、残念ながら向こうに行く漁船はないみたいだな、あそこは遠いしなぁ。漁場は悪くないらしいんだが、皆なかなか行かんのよ」
「……、…………そうですか」
トシハルは力なく返事をした。
定期便はアウト。トクサネからの漁船もなし。海路が絶たれるのは意外と早かった。あっけないものだ、と彼は思った。早く島に帰りたい、帰らなくてはいけない。けれどやはり、十二日後を待つしかないのだろうか。それしか方法は無いのだろうか。
けれど、このときトシハルは、もうひとつの感情が湧き上がってくるのを感じていた。それは安堵と呼ばれる類のものだった。
不意に自身の声を彼は聞いた。
――いいじゃないか、仕方ないじゃないか、お前はやれることはやったさ。
声が語ったのはそういう言葉だった。
――先延ばしにすればいいんだ。よかったじゃないか。お前、本当は見たくないんだろ。対峙するのが怖いんだろ。十二日後に行けばいい。すべてが終わってから行けばいい。そのことで誰もお前を責めたりしない。
声は耳元で囁いた。すると別の方向から声が聞こえた。
――何を考えてるんだトシハル! さっき決心したばかりじゃないか。今行かないでどうするんだ。今行かなければ間に合わない、行かなければお前はもう二度と……
――仕方ないじゃないか。船は出ない方法は無い。
――考えるんだ。何か方法があるはずだ。考えるんだ。
彼の中で二人のツグミトシハルが言い争っていた。諦めろ。諦めるな。けれど当の本人に有効な方法は思いつかなかった。
だが、
「おい! 何ぼけっとしているんだ!」
一喝。携帯を切った男の一言に、トシハルのぐるぐる回る思考は中断させられた。
「何寝ぼけた顔してんだ。次あたるぞ」
「えっ……?」
「次あたるって言ってるんだ」
「だって、船が見つからなかったら諦めろって」
「船で行くのは、な」
「? それってどういう」
「いいから! ちょっと待ってろよ」
男はあたりをきょろきょろと何かを探すように一望した。
「ああ、ミサトくん、アレどこにある? アレだよアレ。開くと地図が載ってる縦長のヤツ」
男は先ほどのオペレーターを呼んだ。ほどなくしてあのオペレーターが男の指定したものを持ってきて、手渡した。男はそれをトシハルに突き出すと「開け」と言った。
「は、はい……」
トシハルは男に言われるままそれを開く。
それは遊園地などの施設でよくある地図入りのパンフレットのようなものだった。観光客向けにミナモシティの案内をするのがその主たる目的だった。
「その地図の真ん中に載ってるでかい建物があるだろ」
「はい」
「で、その隣に中くらいの建物がある」
「はい」
トシハルは地図に描かれた建物に目をやる。
大きい建物があって、ポケモンコンテスト会場と記述がある。そしてその隣には併設された中くらいの建物が記載されている。トシハルはそこに書いてある小さい文字を読んだ。
「今からそこへ行って俺の言うとおりにしろ」
と、男が言った。
ミナモシティ第五ポケモンセンターと書かれていた。
――いいか、にいちゃん。海を走るのは船だけじゃない。
――世の中にはポケモントレーナーって連中がいて、あいつらはポケモン使って空飛んだり、海渡ったりするんだ。もっともそれなりの使い手だったならの話だがな。
そうか、その手があったか、とトシハルは合点した。
そういえば、と彼は記憶の糸を手繰り寄せる。島に住んでいたころ、めったにないことだけれどポケモントレーナーが、鳥ポケモンや水ポケモンに乗って空や海から現れたことがあった。
たいていは島を目指してきたわけではなく、潮に流されたとか、風が強かったとかそういった類の理由でだが。
彼は地図と眼前に見える建物とを交互に確認しながら目的のポケモンセンターへと足を進めた。
ミナモシティ第五ポケモンセンター。隣には大きなコンテスト会場。
なるほど、コンテスト会場に併設されているこの場所ならば相当数のトレーナーが利用しているに違いない。思ったとおり、センターに近づくごとにポケモンを連れたトレーナーを多く見かけるようになった。
ふと道端に目をやると免許を取り立ての子どもだろうか。真新しいボールを握った少年らが、初心者用ポケモン同士で野良試合を行っていた。黄色の大きな目のキモリ、赤いエラを突き出したミズゴロウ。生まれ持った属性を生かした技はまだおぼつかないのか、出す技はたいあたりばかりだ。彼らはお互いの体を何度も何度もぶつけ合っていた。
そこから少し離れた植え込みに腰掛けて、膝に乗せたピンクの猫型ポケモンに丹念にブラシをかけるトレーナーがいた。おそらくはコンテストにでも出すつもりなのだろう。黄筋の通った緑の毛のポケモンに赤いバンダナを巻き、満足そうに微笑む者もいた。
不意にトシハルの視界が開けた。そこは広場だった。中心に噴水があって、だばだばと水を噴かせていた。ほのかに朱のかかった金魚ポケモン、にゅるりとうねるドジョウのポケモン。噴水の池の中でトレーナー所有と思しき小さな水ポケモン達が泳ぎまわっていた。そうして、噴水池を囲うように、トレーナーを呼び込む露店が立ち並んでいる。ある場所では丸くデフォルメされた色とりどりのポケドールを売り、ある場所では焼きそばや綿菓子を売っていた。そこは訪れたトレーナー達で賑わっていた。
その向こうにホールと思われる大きな建物が見えた。おそらくあれがコンテスト会場なのだろうとトシハルは見当をつけた。上司がコンテストの大ファンだった。昨日見たマリルちゃんはすごかった。小さい体なのにすごく力持ちなんだ、などと週の初めによく聞かされていたのだが、彼自身はまったくもって見に行ったことがなかった。ミナモシティはホウエンにおけるコンテストのメッカだ。こっちに来てずいぶんと経つのに思えば変な話だ、とトシハルは思った。彼はコンテスト会場右手を見る。そこには地図にある通りの白塗りの建物、ポケモンセンターが建っていた。
ポケモンセンターの扉前まで歩いていくと、シャーッと自動ドアが開いた。
ホウエン最大の都市、ミナモシティの名に相応しく、そのポケモンセンターは近代的で、しかも非常に立派な作りだった。
落ち着いた色の絨毯タイルが敷かれたロビーの至る所に青々と茂った観葉植物が配されている。その下で柔らかそうなソファに腰を下ろした女性トレーナーたちが何やら話し込んでいた。ポケモン回復受付の反対側には最近になってイッシュなる地方から進出したカフェチェーンのテナントが入っている。飲み物を供するカウンターを飾る丸いロゴの中で見たことの無い鳥ポケモンが微笑んでいた。
トシハルはあたりを見回し、目的のものを探す。恰幅のいい港の男は言っていた。
――ポケモンセンターに入ってすぐのロビーに電子掲示板がある。やつらはそこに依頼を書き込んで、ポケモンの交換やバトルの相手を募集してるんだ。そこは俺ら一般人も利用できてな、時々トレーナーにアルバイト募集をかけることがある。
回復受付の少し離れたところにそれはあった。
何人かが、掲示板の前に立ち止まりその内容を読んでいる。一人は何か募集ごとがあるらしく、併設された端末コンピューターの机に座り、真剣な表情でキーボードを叩いていた。
近づいてその内容を見てみる。
「ピカチュウ♀譲ってください」「コンテスト練習相手募集」「ポロック作りませんか」「進化前限定、バトル大会のお知らせ」
様々な依頼・情報が飛び交っていた。
――もうわかっていると思うが、そこでお前さんを乗せて連れて行ってくれるトレーナーを募るんだ。あんな辺鄙な所に連れて行ってくれる物好きがいるかどうかはわからん。が、とにかくやってみるんだな。
端末に身分証を通すと、パスワードとIDが発行される。トシハルは端末ディスプレイのタッチパネルに触れると、すぐさまキーボードを叩き始めた。入力フォームに従って、名前、年齢、性別、連絡先を記入し、次へボタンをクリックすると画面が切り替わって依頼内容入力フォームになった。
『【急募】フゲイ島(GPS ×××.××.×××-×××.××.×××)に連れて行ってくれる方、探しています。ミナモ港から南に約700キロメートルの地点です。トクサネの南までは船とバスで移動、以降の海路を僕を乗せて進める方のご連絡をお待ちしています』
――変わった依頼を頼まれてもらうにはな。金額より品物だ。やつらの欲しがりそうな珍しいものをちらつかせるといい。上級トレーナーほどそういうのに反応する。レアな木の実なんかあるといいんだがな。
『報酬はご相談ください。往復船賃分、宿泊費、実費・諸経費含めた上でお支払いします』
トシハルは尚もキーボードを叩く。
『島に珍しい石あります。』と、書き込んだ。
依頼内容を書き込み終わると、登録ボタンを押した。
直後、ズボンのポケットから振動が伝わってきた。メールの受信を告げるものだった。メールを確認する。中身は次のようなものだった。
『ポケモントレーナーサポートシステムのご利用ありがとうございます。ツグミトシハル様のご依頼を承りました。以下登録内容は○月○日○時まで有効となります』
これで依頼を請け負うトレーナーが現れれば、携帯に連絡が入る。その手はずが整った。
メールを閉じる。トシハルは男の言葉を思い出していた。
――俺もトレーナーは何人か使ったがな、こういう依頼を受けるやつがいるのか正直わからん。まぁ、可能性は低いと思ったほうがいい。
――だがものは試しって言うだろう。トレーナーって人種は変わってるからな。もしかしたら、あるいは……。
3.
ポケモンセンターの自動扉が再び開く。依頼を終えたトシハルは足早にそこを立ち去った。
やれることはやった。あとはトレーナーからの連絡待ちだった。
もっとも、あんな辺鄙な島に連れて行ってくれるトレーナーがいればの話だが……。
移動ばかりですっかりお腹が空いてしまったトシハルは、噴水の周りを囲う露店でたこやきと焼きそばを買い求めると、ベンチに腰かけかきこみはじめた。
一心不乱に、焼きそばをかきこむトシハルの目の前で、だばだばと音を立てながら噴水が水を落としていた。一定時間が経つたびに噴水は水を高く吹き上げる。吹き上げられた水は僅かな時間空中でキラキラと輝くと池の中へと還っていった。
焼きそばを全て胃袋に収め、次にたこやきを手にとったトシハルだったが、気が付くと、それを持ったまま、その様子をぼうっと見つめていた。
その様子は彼の中でとあるポケモンに重なり、郷愁の念を呼び起こさせた。
波の音が聞こえた。
星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。
空は何者にも占領されておらず、どこまでも広かった。
海からの水蒸気を吸い上げてもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
ふと、海から海水が吹き上げられる。
吹き上げられた海水は空中でキラキラと輝いて、そうして海へと還ってゆく。
その海水を吹き上げたもの、そいつは巨大な、とても巨大な――
「すみませ〜ん、誰か、誰かぁ〜〜っ!」
誰かの叫ぶ声で彼の回想はストップした。
声のする方向を見ると先ほど彼の歩いてきた通りが見えた。
すると、そこから何やら丸っこい白い色の鳥ポケモンが飛び出してきたのが見えた。
「誰か! そいつを捕まえてください!」
ペリッパーだった。
小さなポケモンを運ぶことも出来る黄色い大きなくちばしと身体の大きさがアンバランスなポケモンだ。そいつは小さな翼を羽ばたかせ巧みな低空飛行で人と人の間を通り抜けてくる。進行方向はまさにこっち側だった。
仕方ないな、と彼は呟いた。
トシハルは食べかけのたこやきをベンチに置き、重い腰を上げると、飛んでくるペリッパーの前に立ち塞がった。それに気が付いたぺリッパーは巧みに方向転換して彼の脇をすりぬけようとした。だが、その動きをまるで想定していたかのようにトシハルはすばやく方向転換し、腕を伸ばす。首根っこをつかんだかと思うと、翼の動きを両腕で封じこめた。
「グアッ!? グアア!!」
ペリッパーはトシハルの腕から逃れようと短い足をバタつかせ抵抗したが、もちろんトシハルは離してなんかやらない。バタ足運動は無駄な抵抗に終わった。自分の無力を悟ったのか意外とすぐにペリッパーは大人しくなった。
「すみませ〜ん、ありがとうございます!」
ペリッパーのトレーナーらしき短パンの少年がぜえぜえと息を切らしながら、駆け込んできた。
「もどれ、ペイクロウ」
男の子は腰につけていたモンスターボールを取り、コツンとペリッパーの嘴の先に軽く当てた。ペイクロウと呼ばれたペリッパーは赤い光になって、瞬く間にモンスターボールに吸い込まれていった。
「どうもすみません、ペイクロウがご迷惑おかけして……」
短パンの少年は本当に申し訳なさそうに言った。
「ううん、いいよ」
と、トシハルは返事をするとベンチに座って、再びたこやきを手にとった。
「それにしてもおにーさんすごいね! 僕のペイクロウをあんなにあっさり捕まえちゃうなんて!」
少年は本当に感動したとでもいいたげに目を輝かせて言った。
「いや、それほどでも……」
「おにいさんもポケモントレーナー?」
と、少年は尋ねてくる。
「いや、違うよ」
「本当に? さっきの動きはそういう風には見えなかったけどなぁ」
「本当だって。僕はただのビジネスマン。ポケモンだって持ってない」
「えーそれ本当? まぁいいけど」
男の子は顔をしかめた。信じられないよ、と言いたげであった。
また時間になったらしく、噴水の水が高く噴き上げられる。だばだばと一層大きな音で水が池に落ち始める。
「でも、昔――」
ダバダバ、ザバァ。音を立てて水が落ちる。その音にトシハルの声は掻き消された。
「ん? おにいさん何か言った?」
「ううん、なんでもないよ」
トシハルは少し寂しそうに笑って少年を見つめた。少年は不思議そうな顔をしていた。
「じゃあね、おにいさん!」
少年が手を振る。これから行われるコンテストにペイクロウと出るのだと言って去っていった。あんな調子で大丈夫なのかなぁと思いながら、トシハルは手を振り返し、にこやかに彼の背中を見送った。
子どもっていうのはどこまでも無邪気だ。自分には何でもできる。どんな夢だってきっと叶えられる。そういう風に無条件に信じていて、疑いを持っていない。
彼は少年の背中にかつてそうだった頃の自分を見た気がした。
そうだ、僕も昔はそうであった、と。
いつからだろう、と思う。いつのまにかそういうものを失って、日々を生きるようになっていた。きっと自分だけではないのだろうと思う。このミナモシティで働いているかつての少年達。彼らは皆そうなのではないか――ふと、そんな風に思った。
そのときだった。不意にブゥウウン、ブゥウウウン、と携帯電話がスーツの中で振動した。
まさか。
トシハルはスーツのポケットに手を突っ込んだ。パチリと携帯を開き、振動の正体を確かめた。メールを受信していた。差出人はポケモントレーナーサポートシステムだった。
『ツグミトシハル様の書き込みに一件の返信があります。』
下段にウェブページのアドレスが沿えてあった。
淡い期待を込めつつ、トシハルはそれをクリックする。アクセスしたウェブページには短い文が添えられていた。
『書き込みを見ました。今日十七時にミナモ灯台前に来てください。』
来た! しかもこんなに早く!
トシハルは親指で素早く返信を打った。
『ご連絡ありがとうございます。では十七時に灯台前で。』
待ち合わせまでに時間がある。
携帯で時間を確認すると、彼はショッピングへと繰り出した。
彼が足を運んだのは海を臨む巨大な施設。老舗であるミナモデパートに対抗して開発された大手資本ショッピングモールだった。一年ほど前に開業したばかりのその巨大な箱にはいくつもの専門テナントが入り、何階層ものショッピングストリートを形成していた。
まず、大きなキャリーバッグを購入した。車輪がついていて引いて歩けるタイプのものだった。これならなんだって入る。
「すいません、カイロは置いていませんか」
トシハルの質問にドラッグストアの若い店員は怪訝な顔をした。
無理もなかった。今の季節は去り行く時期とはいえ夏だ。それがキャリーバッグを持ったスーツの男がいきなりやってきてカイロ出せと言ったのでは、そんな顔にもなるだろう。
変な人だなぁと思いながら、店員は店長を呼んできた。店長は夏場だから置いてないですよ、と言えと指示した。が、パートの年配女性が倉庫の奥の売れ残りを思い出すに至った。トシハルは中身を数えずにそのまま清算を済ますと、ダンボールは返却して、中身をキャリーバッグに放り込んだ。
次にセレクトショップで丈夫そうな傘を二、三選びぶち込んだ。黄色いレインコートもぶち込んだ。若者達でごったがえすアウトレットの洋服店で、フードまわりにモココの毛を縫いつけた季節はずれのコートを一着、手に入れる。暖かそうな手袋に帽子も購入した。
隣にあったネクタイの専門店にも足を運ぶ。店員に自身の望む柄のネクタイは無いかと彼は尋ねた。イメージ通りのものを手に入れると彼は丁寧にそれをしまった。
アウトドア用の店で電池式ランタンを詰め込み、さらに寝袋を突っ込んで、重くなった頃にキャリーが方向転換した。思い出したようにドラッグストアに戻ると小瓶の栄養ドリンクを一ケース、それとすぐに食べられる固形の栄養食などをかごに詰め込んでレジに持ち込んだ。ピピッとレジのディスプレイが再び値段をはじき出した。
「ありがとうございました!」
再び現れた晩夏のカイロ男を前にして、パートの女性はあくまでスマイルを絶やさなかった。きっと仕事のアフターで話題になってしまうんだろうなー、などとトシハルは想像し、苦笑いを浮かべた。
……とりあえず、こんなもんでいいだろう。
トシハルは再び携帯電話で時間の確認をする。少し時間がありそうなのでカフェに入って一息ついた。
ホロホロコーヒー。丸いロゴマークの中心で赤いトサカの鳥ポケモンが微笑んでいる。ポケモンセンターに入っていたのと同じチェーンだ。イッシュ地方から進出したというこのコーヒーチェーンは、二、三年前まではまったく見かけなかったのに、今ではここホウエンでもすっかりお馴染みの存在だ。Mサイズのアイスココアを注文する。中ジョッキ並みのグラスになみなみと注がれたココアにたっぷりのクリームが乗っかって出てきた。トシハルは窓際の席に腰掛けてストローで均等にクリームとココアをすする。ガラス越しに見える通りの向かいはホビーショップだった。天井では飛行機がくるくると輪を描き、人通りに向かってテレビがこうこうと光っていた。
進化戦隊ブイレンジャー。通りに向けられたテレビに懐かしい題字が踊ってトシハルは少し驚いた。小さい頃、島の画質の悪いテレビで数週間遅れの放送を齧りつくように見ていたから。ああ、きっとリメイクだ、と彼は思った。リメイクされてたなんて知らなかった。ブラッキーの戦士、ブイブラックはやはり今作も秘密を抱えているのだろうか。甘苦いココアを吸い上げながら、彼はしばし思いを巡らせた。
氷がごろりと転がったグラスをカウンターに返す。携帯画面を操作し、再びメールの画面を見る。今から行けば約束の時間に少し早く到着するだろうと思った。
残りはこの返信主との交渉だけだった。
彼はミナモ港の灯台のある埠頭に向かって、パンパンになったキャリーケースをガラガラと引きながら歩き出した。
……それにしても、と今更ながらにトシハルは思う。
『書き込みを見ました。今日十七時にミナモ灯台前に来てください。』
自分の正体は一切語らないで呼び出すだけとは、この返信の主、いい度胸しているというか、なんというか。
ポケモントレーナーってみんなこんな感じなのだろうかと、トシハルは考える。
交渉するのならポケモンセンターにでも呼び出せばいいものを、なんでわざわざ人気の少ない埠頭なんかに。あの男の人がトレーナーは変な奴が多いって言っていたけど、きっとこの人も相当変人に違いない。
そんなことを考えながら歩いているうちにトシハルは再び港に到着した。季節柄、まだ外は明るくてあまり夕方近くには見えなかった。海が波打ちながらキラキラと輝いている。大きな船舶を繋いだ鉄の鎖に何十羽ものキャモメが並んで、羽を休めていた。何羽かがミャアミャアと騒ぎながら彼の視界を横切っていく。
彼らの行く方向に灯台が見えた。返信の主との待ち合わせ場所だった。
波が埋め立てのコンクリートに当たって、ぱちゃぱちゃと音を立てている。トシハルはそのコンクリートの上をガラガラと荷物を引きながら、進んで行った。コンクリートの道の先に、灯台がにょっきりと立っている。
海の方角から風が吹いた。灯台の下で何かが揺れて、トシハルは目を凝らす。
あそこにいるのがそうなのか……?
灯台の下に二つの人影が立っていた。二人とも髪の毛がたなびいている。
一人はとても長身でがっちりとした体格、もう一人はそれにくらべるとだいぶ小柄だった。
しかし、彼はその二人に近づくにつれてだんだん自分の考えがおかしいことに気が付いた。どうも長身のほうが変なのである。やけに全体的に赤っぽいし、頭の先からツノのようなものが生えている……。
さらに近づいてトシハルは確信した。あれは人ではない、人型のポケモンなのだと。
じゃあ、あの小さいほうが。
ついにトシハルは灯台の影の下にまで入った。そうして一人と一匹に対峙した。
……女の子?
彼が見た二人組は猛火ポケモンバシャーモ。そして赤いバンダナの女の子だった。
十代半ばくらいだろうか。バンダナの両側から伸びた栗色の髪が風になびいていた。
「あ、あの……」
「おじさんが掲示板の人?」
「………………」
トシハルは顔を歪ませた。
競り負けた。女の子がトシハルを押し切った上で早くしゃべった。
というか、今の言葉はショックだった。確かにそろそろそういう歳ではある。それは紛れも無い事実だったが。
「私はアカリ。ミシロタウンのアカリよ。こっちはバク。バシャーモのバク」
トシハルが微妙に傷ついているのをわかっているのか、わかっていないのか、アカリと名乗った女の子は一方的に話を続ける。
「まァよろしくね。ツグミトシハルさん?」
海風がびゅうっと一層強く吹いた。
前途多難な旅となりそうだった。
4.
「あ、あのさ……」
海風が吹く灯台の下、自分の前で仁王立ちしている女の子にトシハルは尋ねる。
「何?」
女の子はぶっきらぼうに聞き返す。
「そ、その、仮にも僕たちはその……」
正直なところ、彼は動揺していた。
無理もない。海を渡るトレーナーっていったらこうもっとごっつくてゴーリキーみたいに筋肉隆々の船乗りみたいな男性トレーナーを想像していたからだ。
まさか、こんな華奢な十代の女の子が来るなんて予想していなかったのだ。
正直これはまずいことになった。
「き、君さぁ、もっと自分のことを大事にしなくちゃだめだよ?」
「……ハァ?」
「だ、だって」
あまり年齢のことは考えたくなかった。けれども――
「い、いや、もちろん僕はそんな趣味ないし、そんなことしないけど……」
トシハルの考えはこうだった。三十代に突入しちゃった「おじさん」の自分と十代の女の子が二人っきりで海を渡るっていうのは、まずいのではなかろうか。こう、その、常識的に考えて、だ。
「あのね、世の中にはやましいことを考えているグラエナがわんさかいるんだよ?」
一生懸命生きているグラエナに失礼だよなぁと思いながらも、そんな例えを用いる。
もちろんすぐに後悔が襲ってきた。
ああ……何言ってんのかな僕は……。
トシハルは頭を抱えて顔をゆがませた。
「あああ、あのう……?」
すると今度は女の子のほうが動揺しはじめた。
いかんいかん……。トシハルは呼吸を整えて、少し落ち着くと改めて言い直した。
「あの、君……アカリちゃんって言ったっけ。今いくつなの?」
「え? 十五、だけど……」
アカリと呼ばれた女の子は不機嫌そうに答える。
「ねぇ、ちょっと考え直したほうがよくない? この仕事」
と、トシハルは言った。
「はぁ!? なにそれ!?」
今度はアカリが眉を吊り上げてあからさまに声を荒げた。聞き捨てならないという風だった。
「何? 若造でしかも女の子の航海技術に不安があるってわけ? 私もなめられたモンね」
う、うん、正直それもあるんだけど……とトシハルは思ったが、彼女の剣幕に少々びびっていたのもあって、大人の対応をしようと一生懸命努める。
「そ、そうじゃなくて」
いや、そうなんだけど! と、思いつつ大人の対応を考える。
「だったら何よ!?」
アカリはますますヒートアップする。
どうやら余計に怒らせてしまったようだった。
「だってまずいだろ!?」
と、トシハルは叫んだ。
さっき決めた大人な対応とやらはどっかにすっ飛んでいってしまった。
「だってまずいだろ! 仮にも見知らぬ男女、しかも三十過ぎたオッサンと十代の女の子が海上に二人っきりっていうシチュエーションは!!」
顔を真っ赤にしてなかばヤケになって叫んだ。
勢いも手伝って自分をオッサンよばわりしたついでに、なんだかとってもはずかしいことを口走ってしまった気がした。
はー、はー、はー、ぜー。
そこまで言うとトシハルは両膝に手を当てて肩で呼吸した。
暮れかけた夏の海で何を叫んでいるんだろう、と思った。
もういいや開き直っちまえ。そう思ってとどめの一言をお見舞いせんとした。
「第一そんなことがバレたら君のお父さんに殴られ」
「パパは関係ないでしょ!!」
殴られちゃうよ、とトシハルが言う前に今度はアカリが顔を真っ赤にして叫んだ。
「いや、そういう訳にも……」
いかないだろう、と言いかけると、
「あーあーあー! もう、わかったわよ! とりあえずあなたの言いたいことはわかった!」
アカリは納得したのかしていないのか、会話を終わらせるように言った。
「わかってくれてうれしいよ……」
とりあえず好意的に解釈する。が、
「わかったけど、その心配には及ばないわ」
とアカリは言った。
「へ?」
マヌケな顔をしてまじまじと少女の顔を見るトシハルに、アカリはほれ私の後ろを見ろというジェスチャーを取ってみせる。彼は言われるがままに少女の後ろを見た。
アカリの後ろで、腕組みをした鶏頭の赤鬼のようなポケモンがトシハルを睨み付けていた。
ポケモンホウエンリーグが推奨する初心者用ポケモン、アチャモ。立派に育て上げたあかつきにはこのように人型の屈強な用心棒になるのだ。なるほどこれは心強い。同時に、怖い。
ツグミトシハル、三十ウン歳。男のプライドに誓ってもちろん「そんなこと」はしない。してはならない。だが、もしも気が狂って海上でおかしな行動をとったとしてもこれなら心配はあるまいと彼は納得した。道を誤ったその先は想像に難くなかった。
鶏頭が尚も睨み付けてくる。彼は急ぎ目を逸らす。敵意は無い。おかしなことだって考えていない。そういう無言のアピールをトシハルは送った。
それを見て取ったのかアカリは、
「じゃあ、わかっていただけたところで具体的な話に入りましょうか」
と、話を強引に進めてきた。
やっぱり仕事の話に入るんだ……と、トシハルは不安そうな顔を露わにした。
「何? まだ何かあるの?」
すぐさま表情を読んだのか、すかさずアカリは突っ込んだ。
「いえ、その、ないです……」
いや、あるけど。
と、思いつつそういうことを言える空気ではなかった。
アカリがおっかない。何より彼女の後ろで腕組みしてるポケモンがもっとおっかなかった。
「ねぇ、おじさんってテレビとかあんまり見ないでしょ」
アカリが聞いてくる。
「う、うん、そうだね」
なんでそんなこと聞くんだろうと思いつつトシハルはそのように答えた。
そんなことよりおじさん呼ばわりしないで欲しかった。
「ああ、やっぱりね」
彼女は何か納得したように言った。
「心配しなくても乗り心地は保障するわよ。私のポケモン大きいし。それより、荷物の中身見せて」
アカリはそう続けると、いいけど、とトシハルが言う前につかつかと彼の前に進んでくる。
ばっと彼の手からキャリーバッグを奪って引き寄せ、中を開き物色し始めた。
「おじさん」に四の五の言わせるつもりはまったくもってないらしかった。
そうして、防寒着に栄養ドリンク、先ほどショッピングモールでトシハルが買い物したものを次々と引っ張り出しチェックをはじめた。彼女の行動からは遠慮というものが微塵も感じられなかった。トシハルは人生の先輩としてアカリにいろいろ物申したかったのだが、彼女に何を言っても無理な気がした。なんとなくだがそれを察した。
そのような感じで彼が微妙な表情を浮かべているのをよそにバッグの中身を引っ張り出しながら、アカリは、
「ねぇ、フゲイ島って聞いたことないけど、おじさんのなんなの」
などと、尋ねてきた。
「実家があるんだ。だけど次の船が十二日後でね」
と、キャリーバッグの惨状を横目に見ながらトシハルは答える。
「どんなところ?」
彼女はさらに尋ねてくる。
「何もないところだよ。ここの街はたいていのものがあるけれど、本当にあそこは何もない」
記憶をたぐりよせるようにしてトシハルは言った。
海の向こうを見る。当たり前だが故郷の島は見えなかった。遠すぎた。
「そう」
と、アカリは素っ気無い返事をした。
「そうだな。あえて言うなら、時間の流れがここよりゆっくりしているかな」
反応の読めない相手に戸惑いながらもトシハルは話を続けようと努力する。
「……掲示板に珍しい石があるって書いてたけど」
「島に洞窟があってね、水の石とかがゴロゴロ出る」
「ゴロゴロ!?」
アカリの眼光が鋭く光った。どうやら彼女にとってそれは魅力的なアイテムだったようだ。
ああ、なるほど。それに釣られたのか。港の男のアドバイスにトシハルは感謝した。
「ちょっとした採掘の名人がいるんだ」
「じゃあ、紹介して」
「あ、ああ。うん」
現金な子だなぁ、と思いつつトシハルは了解する。
「石が手に入るなら渡航の報酬は実費だけでいいわ」
「そうかい、そりゃあ助かるよ」
会話を進めながらアカリは尚も荷物をひっくり返す。
一方、トシハルの中ではだんだんと島の記憶が蘇ってきていた。
「それと、そうだな。あの島にはね――」
碧い海、波の音、白い砂浜。島を囲う砂浜とその波打ち際の風景は他のホウエンのどのそれよりも美しいとトシハルは思っている。空にはもくもくと成長した入道雲。青と白の滑空するキャモメたち。そして……――
「よし、荷物はこれでいいわね」
さらに語ろうと思ったのに、それ以上はアカリに遮ぎられてしまった。
本当に四の五の言わせない子だなぁ、とトシハルは思う。
「足りないものがあったら買いに行こうと思ってたんだけど……どうやらその必要もなさそうね」
「……そうかい。そりゃあよかった」
人の話は最後まで聞くものだよ。
少し不機嫌になって彼は答えた。
「それにしても、」
アカリが上目使いにトシハルを観察するようにじっと見る。
「トレーナーに頼んで海を渡りたいなんていう人、珍しいのよね。だからどんな素人かと思ったら、結構詳しいじゃない。防寒着もあるし、ご丁寧にカイロまで。よく見つけたわね」
「そりゃどうも。洋上は寒いからね」
と、トシハルは返答した。
先ほど買い込んだもの。コートにカイロ。傘にレインコート。それは主に自らの身を寒さから守るのが目的だった。ポケモンの背の上、そこには冷たい風から身を守ってくれる壁も、降るかもしれない雨をはじいてくれる天井も存在しないのだから。
「そうそう、船の中ならいざ知らず、壁のないポケモンの上だとどうしてもね。……おじさん、前にも乗ったことがあるの?」
「いや」
トシハルは否定した。
「乗せてもらうのは初めてだよ。でも、船には数え切れないほど乗ってたから。寒いのはよく知ってる」
そう、海風の寒さをトシハルはよく知っていた。かつてはいつも甲板から海を見ていたのだから。
「そう」
と、アカリは答えた。
それはそっけない返事だったが、先ほど会ったときよりはトシハルに興味を示しているようにも見えた。
「そうだ。それより」
彼女ともどうにか会話が成立するようになったと見てトシハルは切り出した。
「何?」
「その……おじさんって言うの……やめてくれないかな」
トシハルは視線を逸らしながら言った。
「どうして?」
真顔で聞き返すアカリに、はぁ、とため息をついた。
「……だって………………なんか傷つくじゃないか」
わかっている。十五歳の少女からすれば三十の半ばに差し掛かった自分は「おじさん」なのだ。しかし、と思う。せめてもう五歳ほど歳を食ってから言ってもらいたい。それくらいは許されてもいいはずだとも彼は思う。
「……わかった。じゃあ何て呼べばいいの?」
「ツグミでも、トシハルでも、その、おじさんじゃなきゃなんでもいい」
ああ、またおじさんと言ってしまった……自己嫌悪に陥る自分自身を懸命に励す。
「じゃあ、トシハルさんで」
「うん、それで頼むよ」
彼はほっと一息ついた。最初っからそう呼んでくれればいいのになどと思いながら。
「で、トシハルさん、」
今度はなんだ。トシハルが顔をしかめる。
「とりあえず、これはもういいわ。内容はわかったから。合格だから。もうしまっていいよ」
アカリはしゃがんだまま、広げるだけ広げて中身を出したキャリーバッグを指差し、そう言った。
「…………え」
僕が片付けるのかよ! 自分で勝手に散らかしておいて! あきらかな不満を表情に出してトシハルはアカリを見下ろし硬直する。が、彼女は何食わぬ顔をしていた。
これはひどい、と彼は思った。目の前にいるこのポケモントレーナーはこっちの立場をまったく気にかけていない。否、かけようという気が無い。
「き、君さぁ」
そう言い掛けて、少女の後ろに立つバシャーモ――鶏頭と目があった。
鶏頭は「なんか文句あるのか」とでも言いたげに黄色と青の瞳でぎろりとトシハルを睨みつけた。
「………………」
ずるい。これは卑怯だ。畜生、誰だ! この女の子にアチャモを与えた輩は! 責任者出て来い!! 心の中心でトシハルは叫んだ。
いいのか。いいのか? 僕の帰郷の旅は本当にこんなんでいいのか?
自問せずにはいられなかった。
「ちょっといいかい」
「何?」
「なんかさっきから君と契約する前提で話が進んでいるみたいなんだけど」
「そうよ」
「いやちょっと待てよ! まだ会っただけだろ!? 決めたって言ってないだろ!?」
彼は盛大にツッコミを入れた。荷物を放置されたって選ぶ権利はあると主張したかった。
「でもおじさん、他にアテないでしょ」
「おじさんって言うな!」
ああ、まったくもって疲れる子だと彼は思った。しかしアカリの指摘するように他にアテなど無いことも事実だった。
「じゃあ、せめてポケモン見せてくれないか」
「ポケモン?」
「波乗り用のポケモン。見て納得したら君にお願いするから」
腹を括った。人選に不満を残しながらトシハルは自分を納得させるようにそう言った。この場合大事なのはトレーナーよりポケモンだ。なんと言ってもそのポケモンには二人分を乗せられるそれなりの大きさが必要なのだ。
「わかった。いいよ」
アカリはあっさり承諾した。そしてポーチからごそごそとモンスターボールを取り出す。
「ちょっと離れて出すね」
そう言って、鶏頭とすたすた埠頭の先まで歩いていってしまった。
やれやれ。何を出してくるのやら。トシハルはほとんど期待せずにその様子を見守った。
だが、結果として彼は、アカリとの渡航を決定することになった。
トシハルは目を見開いた。
アカリが向かった方角からは一斉に海鳥が飛び立った。
5.
バスのエンジンが小気味よい音を立て、南島の舗装道路を疾走する。
二階部分がオープンになったバスの席は雲の流れる南国の空と風景を堪能し、トクサネ宇宙センターのロケット発射台を一望するにはよい場所だった。
鉄骨の建造物にセットされたロケットが天に向かって先端を伸ばしている。待てないとでも言いたげだった。観光バスのガイドによれば次の打ち上げは一週間後だという。
道の反対側を見れば海。マングローブの自生する海岸に穏やかに波が打ち寄せている。
バスはまるで残りの距離をカウントするかのように、道路にそって植えられた高い椰子の木を次々に追い越してゆく。
トクサネ南港につくまでのバスの間、二人の間にそれという会話はなかった。
少女は相変わらず鶏頭を出したままだった。ピカチュウ程度を抱いて乗せるのならともかくとして、人並みに大きさのあるポケモンをボールから出したまま公共の乗り物に乗せるには追加料金がかかる。だからたいていのトレーナーはポケモンをしまって一人で乗車する。だが、アカリはお構いなしだった。たぶんそれは彼女にとって当たり前のことで、今までもずっとそうしてきたのだろうということが伺えた。
バスガイドは彼らを見て少し不安そうな表情を浮かべていたが、アカリが何かのケースを開いて見せると納得して、彼女らを席に案内した。トシハルがちらりとケースの中身を覗くと、色とりどりの何かがキラリと光ったのがわかった。
「ねえねえ、あの子ってもしかして……」
「え、マジで」
「だってほら、あのバシャーモ」
トシハルの後方の席でそんな会話が聞こえた。
風がびゅうびゅうと遮って全部は聞き取れなかった。ただ彼女らが明らかにアカリのことを話しているのだと彼は理解した。
まただ、と彼は思った。昨日の夕方からアカリと行動を共にしているが、妙に周りが騒がしい。そのことにトシハルは気が付いていた。
「契約は成立ね」
灯台の下、なみのり用のポケモンを背に赤バンダナの少女は言った。
トシハルは十分に納得した上で、彼女との渡航を決めた。
波乗り用のポケモンを見て彼は納得した。これなら心配無い、と。外見で彼女を見くびりすぎていたと彼は恥じることになった。
すぐにトクサネに渡ることにした。トクサネで一夜を明かして、朝に出発すれば良い。
視線に気が付いたのは、夕日に染まる海を見ながら、トクサネ行きの船に揺られていた時だ。
小さなポケモンを連れた少年、少女、それに船の乗組員、彼らがやけにアカリに視線を向けているのだ。最初トシハルは自分の顔に何かついているのかと思った。が、もちろんそんなことは無かった。
一度トシハルはトレーナーらしき少女に妙なことを聞かれた。アカリと離れて自販機で飲み物を買っていたときのことだ。
「あの、アカリさんのマネージャーの方ですか」
トシハルは怪訝な表情を浮かべた。意味がわからなかった。
「違うよ。そんなんじゃないよ」
揺れる船の中、トシハルがそう答えると、じゃあ貴方はなんなのといった感じの反応を少女は見せた。
「あの……私、アカリさんのファンなんです。その、サインをお願いできないかなと思って」
持っていた小さなノートを見せて彼女は言った。
甲板で日の落ちる海を見ていたアカリにそれを伝えると、そういうのはやっていないから、と少し不機嫌そうに言われた。
ははあなるほど、とトシハルは少しだけ理解した。おそらくコンテストのコーディネーターと同じようにポケモントレーナーにもファンがつくのだと。上司がコーディネーターにサインを貰ったと嬉しそうに話していたのを彼は思い出していた。
先ほどアカリに見せられた「あのポケモン」を所持しているというだけで、並のトレーナーでないことは想像がついていた。きっとこの界隈じゃそれなりに有名なんだ。トシハルはそう思った。
だが、それにしても、だ。それにしたって視線が多すぎやしないか、と彼は思う。
トクサネの温泉宿で食事をしていたときもそうだった。
「そんなに食べるの?」
トシハルが質問すると、浴衣を着た温泉あがりのアカリが当然だと言うように頷いた。目の前に並べられたのは地魚の船盛り、旬の食材をたっぷり煮込んだ鍋、大きな貝のバター焼き、魚の塩釜焼き、その他いろいろ。座敷部屋だったのをいいことに鶏頭だけでなく、オオスバメ、グラエナやライボルト、サーナイトまでも繰り出して、ずいぶんにぎやかな夕食となった。トシハルの隣で白い肌のサーナイトが上品に正座し、茶をすすっていた。
だがその時もトシハルは周りの視線が気にかかった。派手にポケモンを出しているからでは無い、と思う。この温泉宿はそういうのに寛容で、だからアカリも選んだのだと話していたから。宿泊客である他のトレーナー達も問題のない範囲で、ポケモン達との食事を楽しんでいた。だから断じてポケモンを出していたからではないと彼は思う。
アカリが席を立つと宴会場の人々の視線が動く。それどころか、宴会場の外から覗いている野次馬がいたようにも見えた。当のアカリは気に留める様子もなく、並べられた海の幸を白米片手に手当たりしだい口に運んでいたのだが……。
この子には何かある。トシハルはもうそれに気が付いていた。
バスが南端の港に到着した。
終点になります、とガイドが言う。パラパラと客が降りていく。ほとんどの人々はトクサネ宇宙センターが目当てだったから、降車人数は少なかった。トシハル、アカリ、鶏頭は順番に狭い階段を下っていった。
サイユウ行きの船が出る船着場を通り過ぎ、彼らは適当な場所を探した。人気が無く、適当に深い場所が最適だった。船のある場所でいきなりこれを出したら、波が立って迷惑になりかねなかった。それを知っていたから彼らは適当な場所を探していた。
結局は一キロほど歩いただろうか。テトラポッドの積みあがった波の寄せる突端で、アカリはモンスターボールを開放した。
見るのはもう二回目だったから、その中身はわかっていた。
だが、昨日見たその衝撃がトシハルの中に蘇った。
大きな何者かが海に飛び込み海面を叩いた音と共に水飛沫が上がって、羽を休めていたキャモメ達が一斉に飛び立った。ばたばたという羽音が周囲を包む。高い高い波が上がる。トシハル達の立つテトラポッドのすぐ下にまでそれは届いて、やがて黒い水跡を残し、引いた。
シュゴォオオオッ!
蒸気船が煙を噴くように、海に放たれた者が海水を吹き上げた。
「ホエルオー……!」
彼女が繰り出したそれを見てトシハルは目を見開いた。
灯台の後方に、巨大な、それはもう巨大なポケモンが浮かんでいた。
「ホエルオーのシロナガちゃんよ」
灯台の下でその巨大なポケモンを背にアカリは仁王立ちし、腕を組んだ。フフンどうだ参ったかと言いたげに、不敵に彼女は笑った。
彼女のボールから放たれたのは、うきくじらポケモン、ホエルオー。
それはいままで見つかった中で最も大きいポケモン。
その巨体の背中は人二人が乗るには十分な広さだった。このポケモンほど安定した波乗りポケモンをトシハルは他に思い浮かべることが出来なかった。
それは彼にとって最も馴染みがあり、郷愁の念を思い起こさせるポケモンでもあった。
同時に彼は思った。これはあの人から自分への皮肉かあてつけか何かじゃないのか、と。島で待っているであろうあの人の。
「……どうやら少々、君を見くびっていたみたいだ」
見かけからアカリを判断していたと知ったトシハルは恥じ、そして詫びた。
そうして正式にアカリに依頼をした。君に頼みたい。僕を島に連れて行って欲しい、と。
「それじゃあさっそく出発しましょうか」
アカリが確認する。
「ああ、そうしよう」
と、トシハルは答えた。
アカリが別のボールを手に取る。
「レイランちゃん、出番よ」
ボールが赤い光を吐いたかと思うと一匹の鳥ポケモンが現れた。
「レイランちゃん、悪いけどあそこまで連れてってくれるかしら」
アカリが言う。出てきたのは一匹のオオスバメだった。
黒と白をベースにした模様に、額や首まわり、しっぽの先を染める赤が美しいポケモンだ。
レイランと呼ばれたオオスバメはテトラポッドに着地した。トシハルの前にぴょこぴょこと進み出ると、バッと左右の翼を広げて見せた。
「うわっ」
一瞬驚いたトシハルだったが、レイランをよくよく見ると翼の中に何かがたくさん光っているのを発見した。
「リボン……?」
会社の上司が語っていたコンテストトークから得た知識から察するにコンテストで貰ったものと思われる。レイランは「どう? すごいでしょ?」とでも言いたげに首を横にひねり、横目にトシハルをチラチラ見る。
「レイランのコレクションなのよ。初対面の人にはそうやって見せびらかすの。褒めてあげると喜ぶわ」
アカリが解説する。
「そうなの? い、いやー、すごいなー。レイランは」
トシハルがやや棒読みで褒めたにもかかわらず、レイランは満足したのかフンッと鼻息を荒くして満足げな表情を浮かべた。その表情はホエルオーを背に得意げな顔をしていたアカリにそっくりであった。
「さ、荷物をしっかり掴んで。レイランが乗せてくれるから」
アカリが言った。
ホエルオーの平均的体長は14メートル、もちろん高さだって4、5メートルある。うきくじらが浮かぶところまでキャリーバッグを持って泳いでいき、自力で登るのはとても無理だったからだ。
「こう?」
トシハルは、キャリーバッグを両腕で抱えた。
するとレイランが肩に飛び乗りぐわっとわしづかみにする。
「うわぁ!」
トシハルは悲鳴を上げた。ばっさばっさとすぐ上から空を切る羽音が聞こえる。彼の身体が宙に浮いた。波のたゆたう海の上を通過して、青い陸地の上へ彼は下ろされる。ぶよん、という感触が足元から伝わってくる。
「あ、ありがとう、レイラン」
トシハルはオオスバメに礼を言う。またレイランがフッと笑った。大きさのわりにずいぶんと力があるとトシハルは思った。
「私たちも行くよ」
続いて、アカリとその荷物を抱えたバシャーモがホエルオーに飛び乗ってきた。
さすが彼女の相棒とでも言うべきか。彼女が具体的な指示をせずとも、ちゃんと意図を理解しているらしい。
ぶよんと鯨の背中に着地し、バシャーモはすっくと立った。その肩の上からアカリは遥か水平線を望む。行く先を指差してホエルオーに指示を出した。
「シロナガちゃん! 進路を南南東にとって!」
「オォオオオオーーー!」
アカリの声に応え、うきくじらが吼えた。
巨体が前のめりに揺れる。大きな鰭(ひれ)が海水をとらえ、ゆっくりと方向転換をはじめる。ぐるりと向き直り、水平線の向こう、南南東へと進路を定めた。
「フゲイ島へ向け、出発!」
巨体が大海原へ漕ぎ出した。