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  [No.2738] 少年の帰郷(6)〜(10) 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/20(Tue) 21:10:39   126clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:クジラ博士のフィールドノート】 【少年の帰郷

6.

 ロケットの島トクサネを背にしてうきくじらは進む。
 波を割り、航路を開く。
 なるほど、彼女が自信たっぷりな訳だ。
 うきくじらの背中に立ってその様子を見つめながらトシハルは感心していた。
 彼女のホエルオー、シロナガは自分の乗りやすい潮の流れを作り出し、立ちはだかる波をものともせずにぐんぐんと進んでいく。
 乗り心地は完璧に近い。
 まだ、外洋というほど陸から離れていないところを進んでいるが、そこそこ波が立っている。
 それなのに彼らは揺れというものをほとんど感じないのだ。何より手すりも無しに、彼はこのポケモンの上で立っていられた。前方に開かれる視界、青い水平線を仰ぎながら、これなら船酔いをする人でもいけるかもしれないとさえトシハルは思った。
 後方に立っているアカリをちらりと見る。
 思うに、人を乗せない分にはポケモンにとってこんな配慮は必要ないんだろう。そういう類の技術をシロナガに身に付けさせたのは他でもない、この少女に違いなかった。トシハルは改めてこの子は只者ではない、そう思った。
 一方、アカリは何やら手の平サイズの小さな機械を見つめている。
「現在位置×××.××.×××-×××.××.×××、フゲイ島×××.××.×××-×××.××.×××、到着までには丸一日といったところかしら」
 近くに寄って見てみると、その機械の画面にトクサネからフゲイ島までの進路が映し出されていた。
「へぇ、その機械GPS機能がついてるのか。すごいな」
「ポケナビよ。タウンマップ機能に加えていろいろ付いてるわ。トレーナーにとっては必須アイテムね」
 トシハルが物珍しそうに言ったからか、アカリが解説する。
 近くに立っていた鶏頭にまたぎろりと睨まれたが、とりあえず彼は笑ってごまかした。
 オオスバメのレイランはうきくじらの周りをぐるぐると飛び回り、ときどきそのY字型に伸びる尾鰭にちょっかいを出して、鰭の反応を見ては喜んでいた。
 ああ、この感覚は何か懐かしい。
 気をよくした彼は、シロナガの背中を見物して回った。
 1メートル、2メートル、3メートル……トシハルは自らの歩幅を定規の代わりにして、海におっこちない範囲でもってシロナガの頭から尾鰭のほうまで歩いてみた。
 一歩は1メートルとして、歩ききれなかった分を計算に入れると、だいたい15メートルくらいだろうか。ホエルオーとしてはまぁ平均的な部類だ。
 それより、この個体に特徴的なのは背中の模様だとトシハルは思う。
 乗ったときから気にはなっていた。ホエルオーの背中には白い模様が四つあって、普通、楕円形の形が背骨に沿うような形で並んでいる。
 ところがこの個体はどうだ。四つの白い模様が肋骨に沿って伸びて、まるで縞模様だ。たとえるなら、そこを歩くのは横断歩道を渡っているような感じである。
「……ああ、そうか。シロナガってそういうことなのか!」
 彼は思わず叫んだ。
 白い模様が横にそって長く伸びているから、シロナガなんだ。
 それを聞いたアカリはフンと笑って、
「よくわかったわね」
 と、言った。
「普通のトレーナーでも、ホエルオーの背中の模様なんて注目する人はあんまりいないわ。ましてシロナガちゃんの名前の由来を言い当てる人なんてね」
 そして、トシハルの顔を観察するようにじっと見た。
「昨日から気になっていたんだけど、アナタ一体何者? ただの会社員にしては航海の準備だってバッチリだったし」
 アカリの鋭い一言にトシハルは少しばかり動揺する。
「言ったろ、よく船に乗ってたって。これから向かう離島が僕の実家だからね」
「でも、それだけじゃないでしょ」
 ヘタなごまかしは通用しなかった。なおも彼女に問い詰められた。
 トシハルにあるポケモンと関わる何か。もちろん彼はトレーナーではない。だが何かがある。それをアカリは嗅ぎ取ったのだ。
「何者か聞きたいのは僕のほうだよ。そりゃあ、僕はポケモンバトルにもポケモンコンテストにも疎いけど、今までの君の行動とか君のポケモンを見てれば、君が只者じゃないってことくらいはわかる」
 トシハルも負けじと切り返した。
 彼のほうもずっと疑問だった。彼女は一体、何者なのか。彼女に付きまとう視線、一体彼女の何が彼らにそうさせるのか。
「なるほど、お互いに興味があるってわけね」
 とアカリが言い、瞳を覗き込んできて、彼は少しドキッとした。
 押し負けてはいけないと思った。
「どうしてこの仕事を受けたんだい? 君くらいのトレーナーならバトルの賞金だってそれなりに貰ってるだろう。いくら石が欲しいとは言っても、実費だけで離島を往復なんて手間なだけじゃないの?」
 トシハルは彼女がバスでガイドに掲示していたものを思い出していた。あれはおそらくトレーナーとしてのランクを示す何かだった。
 自分を離島まで送り届けてくれる奇特なトレーナーに何を聞いているんだという思いもあったものの、これは彼の中に浮かんだ確かな疑問だった。
 彼女はナビのスイッチをオフにするとポーチに仕舞い込んだ。
「…………」
 アカリはなんだか怖い、でもちょっと困った顔をしてしばらく黙っていた。
 腕組みをした鶏頭がこいつ海に沈めてやろうかという顔で彼を睨んできたが、目を逸らし、誤魔化す。
「…………よ」
 しばらくしてアカリが口を開いた。
「え、何?」
 彼女にしてははっきりしない小さな声だったので、聞き取れずトシハルは聞き返す。
「……行きたかったのよ」
「……? どこに?」
「どこでもいい、どこか遠くに。私のことなんか知らない人がいる土地に」
「どういうこと?」
「もう、たくさんなのよ」
 そう言って彼女は水平線のほうを向いた。
 そのとき彼女はどんな顔をしていたのか、彼にその表情は見えなかった。見ようと思えば見ることができたけれど、たぶん見ないほうがいい気がした。
「そんなに知りたいなら話すわよ。どうせ島に着くまでヒマなんだしね。そのかわり」
「そのかわり?」
「その後でアナタの話もたっぷり聞かせてもらうから。誤魔化して逃げるんじゃないわよ」
「……わかったよ」
 トシハルは観念して、彼女との取引に応じた。海の上だ。逃げようたってそうはいかない。
 それにトシハルは興味があった。
 この少女が何を考えているのか、どういう理由でこの仕事を引き受けたのか。
 携帯の時計を見る。ゼロの数字が並んで午後になったことを知らせていた。アンテナが一本だけ立ってまだ圏内だったが着信は無い。先は長そうだと彼は思った。

「トレーナーになるきっかけは些細なことだったのよ」
 と、アカリは言った。
「パパの都合でね、十歳のころにミシロタウンに引っ越してきたの。あれは引っ越してきてから三日目くらいだったかなぁ、ミシロの郊外を散歩していたら、男の人がポチエナに吼えられて腰抜かしてて。それがオダマキ博士だったわ。割とホウエンじゃ有名な博士らしいんだけど……知ってる?」
 知ってる、とだけトシハルは答えた。
 オダマキ博士――彼の得意分野はフィールドワークだ。たしかそれに関する様々な論文を発表していたはずだ。そうか彼の研究所はミシロにあったか。彼は記憶を手繰り寄せた。
 そして彼女は続けた。
 近くに博士の鞄が落ちていたこと、その中にモンスターボールが入っていたこと、ポチエナを追い払うために投げたボールの中に入っていたのがあの鶏頭……バクだったことを。
「まぁ今思えば、わざとらしいったらないけどね。フィールドワークの権威がポチエナに吼えられたくらいで腰抜かしたら調査にならないじゃないの。たぶんあれは口実作りね。もしかしたらパパも一枚噛んでいたのかも」
 まったく油断も隙もないんだから、などと言いながら彼女は語りを続ける。
「……あ、うちのパパもね、ポケモントレーナーをやってるの。前々から私をトレーナーの世界に引き込む機会を狙ってたのよ。正直、あのころはトレーナーに興味なかったんだけど、せっかくバクを貰ったんだから少しばかりトレーナーの旅に出てみないかということになって」
 いかにも周りの勧めだったのだ。積極的にやる気はなかったのだ、などと乗り気のなさそうなことを言った彼女だったが、トシハルがその過程を聞くにそれは彼女にとって悪いものではなかったらしい。
 それどころか話を追うごとに彼女はめきめきと頭角を現し、トレーナーとしての才能を開花させていったのがわかった。
「なんだかんだで、一つ目のバッジをとったわ」
 話が始まって、十五分後に彼女はバッジを一つゲットした。
「これよ」
 彼女はポーチからバッジケースを取り出すと開いて見せてくれた。
 ああ、そうかさっきバスでバスガイドに見せていたのはこれか。トシハルは理解する。
 バッジの数はトレーナーとしての実力の証だ。アカリのケースでは八つのバッジが輝いていた。彼女いわく、これを八つ揃えることで晴れてポケモンホウエンリーグの出場資格が与えられるのだという。
 なるほど、八つ揃っていたからバスガイドも黙ったのだ、とトシハルは思った。
「バクがワカシャモに進化したわ」
 そうしてさらに五分の後、彼女は嬉しそうにそう語った。
「赤い装束と青い装束の変な集団に会ったわね」「船に乗せてもらってムロタウンに行った」「洞窟に石マニアがいて」「バッジが二個になった」「すてられ船ってところに行った」
 そうして彼女の冒険は進んでいった。
「草ぼうぼうの道路があってね、そこで捕まえたのが今のライボルト」「三個目はちょっと苦戦したわね」「パパがね、バッジ四つになったら勝負してくれるって」
 彼女の冒険は進んでいく。順調に仲間を増やし、白星を重ねていく。
「バクがバシャーモになった」「パパに勝った。バッジが五つになった」
 と、彼女は得意げに続ける。
「六つ目のバッジの街は遠かったわね」「トクサネには何度か来たわ」「ルネシティになかなか入れなくて」「海に潜った」「古代ポケモンが復活したのよ」
 こういうのをサクセスストーリーというんじゃないだろうか、とトシハルは思う。
 そうして彼女と彼女のポケモン達は様々な困難を乗り越え、とうとうホウエン中のジムを制覇した。そしてついに彼女はホウエンリーグに出場することとなる――
 て……あれれ? それで結局彼女はどういう理由で今日に至ったんだ? と、トシハルは本来の疑問に立ち返った。
 今までの話を総合すると……
「あー……もしかして、予選で惨敗しちゃって落ち込んでいるとか?」
 と、トシハルはズバリ予想した。
 ほら、あんまりものごとが順調に行き過ぎていると、一度失敗しただけでふてくされたりするじゃないか。と、彼は考える。
 が、彼女はトシハルのちっぽけな予想を華麗に裏切ってみせたのだった。
「……優勝したわ」
「ぶっ」
 トシハルは思いっきり脱力したというか、後ろにのけぞったというか、あやうくホエルオーから落ちて海に転落しそうになった。なんとか体勢を立て直し、負けじとツッコミを入れる。
「なんだよそれ、超がつくほど順調そのものじゃないか!」
 というか、サラリとすごいこと言わなかったか今……とトシハルは思った。
 古代ポケモンがどうのって言ったのも気にはなるが、とりあえず彼女の言うことを総合すると、今自分の隣にいるのは、ホウエン地方で一番強いトレーナーということではないか。
 トシハルは自分には縁のない世界の話に首をひねる。が、一方で合点した。船でサインが欲しいと言っていた女の子、宴会場に見に来ていた野次馬達、バスで囁きあっていた乗客達……なぜ彼らが彼女に注目していたのかを。トシハル自身は見ていない。だが、ホウエンリーグといえばこの地方の一番のイベントで、ホウエン民の一番の関心事だ。少なくとも勤務先の会社が空になって、トシハルが一人さびしく留守番をする程度の威力はあるイベントだ。その時の働きのおかげで今、長期休暇を許されているわけだ。
「で、結局何が不満なんだよ」
 トシハルは尋ねる。周りの視線が多いことだろうか? だがそれをアカリがあまり気にしているようには見えなかった。それともそれも見かけだけのことなのだろうか。
「話はここからよ」
 と、アカリが仕切りなおした。
「はぁ……」
 と、トシハルは気のない返事をする。
「ホウエンリーグってね、全試合テレビ中継されるの」
「うん、知ってる。見てはいないけど」
 トシハルは素っ気の無い返事をした。就職が決まって引っ越してきた今のアパートにテレビはない。関心が無い。ポケモンに関わる気が無かった。だから見る気がなかった。
「あなたって本当にテレビ見ないのね」
 アカリが呆れた顔で言う。
「悪かったな。それで?」
「それがまずかったわ」
「どういうこと?」
 トシハルはさらにのめりこむようにして話を聞く。
「ああいうのって試合前に出場選手の経歴なんかを放送するわよね。賞歴とか」
「ああ、まあ、そうだろうね」
 トシハルは相槌を打つ。そうだ、昔は惰性で見ていたんだと彼は思い返した。大学に入った頃までは。時期になるとテレビで流れるのはその話題ばかりだったから。
「あのとき…………、」
 そこで彼女は急に押し黙ってしまった。
 ちょうどさっきまで海水が満ちていた海岸線が引き潮で後ろに引いてしまったように。
 さっきまでの饒舌ぶりが嘘のようだった。
「あのとき……何?」
 トシハルは聞いてはいけないような気がしたけれどやはり聞いてしまった。興味に理性が負けた。
「私あのとき、これといった賞歴もなかったから。だから…………」
「だから?」
 彼はさらに聞いた。
「本当にいい迷惑。いくら他に言うことがないからって」
 アカリの声はあきらかに不機嫌だった。
 やっぱり聞くんじゃなかったかなぁとトシハルは罪悪感を感じる。
「ねぇ、あんまりおおっぴらにしたくないことってあるでしょ?」
 と、彼女は続ける。
「そうだね」と、トシハルが答える。
「あのとき、ポケモンリーグの第一試合の前、たくさん人が会場に集まってた。中継のためのテレビカメラもたくさん並んでて。会場にいなくともホウエン中がテレビ画面に注目してたわ。そんなときに。あろうことかリーグの司会はこう言ったのよ」
 シュゴオオオッ! と、うきくじらが潮を吹いた。
 霧状の海水が空に舞う。彼女の発した言の葉の音を、潮の吹き出る音が遮った。けれどトシハルは、はっきりと彼女の言葉を受け取った。
「私がパパの娘だって言った。トウカシティジムリーダーの娘だって言ったわ」
 その言葉がえぐりこむように胸を突き刺した。
「私がホウエンに引っ越してきたのはね、パパのトウカジム就任が決まったから。強さを追い求める男センリ……それがパパの通り名よ。パパはトレーナーの間ではすごく有名で……あなたは知ってる?」
 知らない、とだけ彼は答えた。
 ただジムリーダーがどんな存在であるかくらいはバトルに疎いトシハルでも知っていた。各地のジムで挑戦者を待ち構えているというジムリーダー、彼らは非常に優秀なポケモントレーナーでトレーナーたちの憧れの的らしいことも。
「一番……言ってほしくないことだったのに」
 アカリはぎゅっと拳を握って、斜め下の海に目線を向ける。
「私はその大会で優勝したけれど、あれから、周囲の私を見る目は変わっちゃった。バトルに勝てば、さすがはジムリーダーの娘。コンテストで勝っても、さすがはセンリさんの娘。ジムリーダーの娘なんだからバトルに勝つのは当然、強いのは当たり前、私が勝てるのはジムリーダーの娘だから。みんながみんなそういうことになっちゃったのよ」
 トシハルは黙ってそれを聞いていた。
 たぶんこれには自分の前に立つ彼女への嫉妬や羨望、様々なものが含まれているのだろうと彼は思った。きっと誰もがトレーナーとして華々しく活躍できるわけではない。若干十五歳で頂点を手にした彼女に対し、人々はわかりやすい理由を求めたのだ。
「昨日だってそう。コンテストにレイランを出して優勝しても、出場者に言わせれば勝ったのは私がジムリーダーの娘だからで、私のポケモンが努力したからじゃないの。みんなね、私を透明にして私の後ろにいるパパを見てるの」
 ジムリーダーの娘。
 それはとてもシンプルで。わかりやすくて。
 だからそれは人々が飛びつきやすい格好の材料だったに違いない。
「対戦相手も、それを見ている観客も私や私のポケモンのことなんか見ちゃいない。私が私のポケモンと出会ってやってきたこれまでの過程なんか見てくれない。みんな私の背後にいるパパの亡霊だけを見ているのよ」
 だって努力するのはめんどくさい。
 けれど人々は嫉妬深くて、自分の努力と比べようともしないで、成功者の上っ面だけを見ようとする。あの人は生まれつきの才能があるから、あの人の子どもだから。
 あるいは、あの人の弟子だから。
 もちろん生まれ持った能力が重要な構成要素なのはトシハルも認めている。人は生まれたときから平等などではない。
 ……けれど、生まれ持った才能だって水をやらなければ育たないのに。
「今まで我慢してきたけど、昨日のでほとほといやになったわ。別に何を考えてたわけじゃないの。ただ、なんとなくポケモンセンターの掲示板を見ていたら」
「……僕の依頼があった、ってわけかい」
「そうよ」
 彼女は答えた。
「書き込みを見て気が付いたの。遠くに行けばいいんだって。誰も私を知らないところに行けば、知らない土地でなら、私はジムリーダーの娘じゃない。ただの私として見てもらえる。そう思ったから」
 一応、僕の実家もホウエンなんだけどね……などと思いつつ、トシハルは彼女の話に耳を傾ける。
 しかし彼の実家は離島だった。テレビ中継くらいは見るだろうが、ポケモンリーグなど、島の人間にとっては外の世界の出来事なのだ。主にサトウキビの栽培と漁業で生計を立てる島民はポケモンバトルとかコンテストの類には相当疎い。そこにジムリーダーの娘だからどうこうという理由付けは存在しないのだ。
 今の彼女が求めているものがあの島にはあるのかもしれない。そうトシハルは思った。
「……贅沢な悩みだと思う?」
 と、アカリは聞いてきた。
「いや……そんなことはないさ」と、トシハルが答える。
「本当に?」彼女が聞き返す。
「ああ」と、また彼は同意する。別に彼女を慰めるために言った訳ではなかった。
「わかるさ。僕の場合は君とはまた違うんだろうけど」
 けして言葉ばかりの慰めではない。これはたぶん彼の本心だった。
「誰でもあることなんじゃないのかな。今いる世界がいやになることってさ」
 そう答えてあとは黙った。
 ホエルオーは洋上を順調に進んでいた。海風がばたばたと当たっている。寒くなってきたな、とトシハルは思った。
 キャリーバッグを開ける。防寒着を取り出し羽織ることにした。さらに中をごそごそと漁るとカイロをいくつか取り出す。いくつかは自分の防寒着のポケットに入れた。残りを海風が当たって寒そうなアカリに差し出す。彼女は黙ってそれを受け取った。
 日没まではだいぶある。だがそれでもいずれ日が落ちるだろう。空が赤くなって、すぐに陰って、青い夜のベールが空を覆い始めるだろう。
 彼女は話した。自分の傷を。自らの弱さを見ず知らずの自分に晒した。
 太陽が水底に沈んだなら、今度は自分のことを告白しなくてはなるまい。
 トシハルはどこまでも続く碧い海原を眺めながらそのように思った。
 潮風が絶えず吹き続けていた。






7.

「ナギサさんちの息子さん、明日島を出ていくんだってよ」
「これで何人目になるかねぇ」
 あれはまだトシハルが幼い頃の記憶。近所の人と母がそんな話をしていたのを幼いながらに覚えている。それはなんともいえない哀愁の響きを含んでいて。あのころの親たちの会話、あれは自分の未来を暗示していたのだろうか。
「ねぇ博士、ナギサのおにいちゃんどこに行っちゃうの」
 親に尋ねるのはなんだか気が引けて、彼は近所の博士にそれをぶつけた。
「さぁな、ミナモかカイナか、それともホウエンでないもっと遠くかもしれないな」
「もう帰ってこないのかな」
「ん……どうだろうな」
「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼い彼の頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
 あの頃は、まだ幼かった彼はまさか自分が島を出て行くなんて考えもしなかった。
 あの頃の自分にとってはあの島が世界のすべてだった。

「…………」
 夜のベールが覆う空をトシハルは見上げていた。何千、何万という星がちらちらと揺れる。その中で夏の大三角やさそり座、いて座など数ある星座が輝いていた。こんな夜空を見るのは久しぶりだった。ミナモシティではこんな満天の星空は見られなかったから。島にいたころはこれが当たり前の空だったのに。
「トシハルさん」
 …………。
「トシハルさん!」
 そこでトシハルは過去から現在へと引き戻された。
 ぼうっと暖かい光を放つランプを挟んで、赤いバンダナの少女と鶏頭のポケモンが座り両手にカップ麺をかかえていた。
「あ、」
「あ、じゃないわよ。のびるわよ」
 トシハルが自分の両手でかかえたものを見ると、カップ麺が僅かに開いた蓋の隙間から湯気を吹いていた。
 アカリがどこからか取り出したヤカンを鶏頭が腕の炎で沸騰させた。彼らの連携プレーがホエルオーの背中の上でカップ麺にお湯を注ぐことを可能にしたのだった。ポケモンの背中の上で、こういうものを食べる日がくるとは思わなかった。炎ポケモンってこんな使い道もあったのか、とトシハルは感心していた。
 目の前ではアカリと鶏頭がずるずると夕食をすすっている。アカリはともかく、鶏頭のほうが指が三本しかないくせに器用に箸を使って食べているところにトシハルはちょっと驚いた。
 日が完全に水底に落ちて、星空が輝きを増しはじめた頃、アカリはホエルオーの進行を止めた。今日はここまで。次の日に朝日が昇る時まで、ここで寝かせるとアカリは言った。
「で、どうなのよ」
 カップ麺のスープまで飲み干すとアカリが切り出した。
「どうって?」
「決まってるでしょ。あなたの素性について」
 アカリがそう言うと、トシハルの箸が一瞬止まる。
「…………」
 トシハルは困ったような顔をして少しの間黙っていたが、やがて一気に麺をすすり上げ、細切れの麺と細かい具ごとがーっとスープを飲み干すと、いよいよ口を開いた。
「素性っていっても、君に比べたら大したものじゃないよ」
 空になったカップをそっと足元に置くと、持ってきた固形の菓子を開いた。包装を破りひとかじりするとまた空を見上げる。
「つまらない話だよ。……さて、どこから話したらいいものか」
 満天の星空。その昔、あの島の上から見上げた空もこうだった。
「そうだなぁ、じゃあ島の話からはじめよう。昼間にも少し話したけれど」
 そうして彼は話し始めた。自分が生まれ育った島の話を。巨大なうきくじらの上で語り始めた。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 なにもかもが変わってしまった昔と今の自分。
 見上げた空だけは昔と変わらない。
「あそこは本当に何もないところだ」
 と、トシハルは切り出した。
 島の住民は主に漁業とサトウキビ栽培で生活を営んでおり、船は二週間に一度きり。だから、島に生まれ、島に育った人間にとって島が世界のすべてだった。
「たまに外から人が来るとすれば、空か海から旅のポケモントレーナーがやってくるくらいで。それも道に迷ったとかそういう理由でね。だからトレーナーっていう発想自体希薄だった」
「トレーナーとして旅立った子は?」
「わからない。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。ただ僕にはそういう発想はなかったなぁ。でもきっとなるっていったら反対されたんじゃないのかな。島の住人にはわからないものだから。自分のポケモンを持って漁の手伝いをさせる人はいたけどね。ただモンスターボールなんて上品なものは使わないよ。放し飼い」
「ふうん」
 トレーナーとして旅立つのが自然な世界であったアカリにとって、それは未知の世界の話だった。素っ気ない返事をしながらも、アカリはトシハルの言葉を聞き逃すまいとしていた。
「……でも」
「でも?」
「バトルって発想はなかったけど、研究をしている人がいた。もともと島の住人ではなかったらしい。僕が生まれるずっと前に移り住んできたのだと聞いた。研究者っていったら、トレーナーとはまた違う次元でポケモンに関わる人たちの憧れだ。けど、ポケモンの研究なんて島の人間には理解できない職業だったからね。最初はいろいろ苦労したらしい」
 トシハルはその後、研究者といえばカントーのマサラタウンに研究所を持ってるオーキド博士はあまりにも有名だなどと、説明した。
 だが、一方でこうも付け加えた。彼のように大きく世に知られる研究者もあるが、一方で多くの仕事をしても世に知られない研究者はもっと多いのだと。
 島に移り住んできたという「彼」はそんな研究者の中の一人だったとトシハルは語った。
「カスタニ博士って言うんだ。世間一般にはあまり名前が知られていないけれどいろんな仕事をした研究者でね。時には命の危険に晒されたこともあったらしい。僕はそんな博士の武勇伝を聞いて育ったんだ。ちょっと偏屈で頑固なところもあるけれど立派な人だよ」
 淡々とトシハルは語った。けれどその言動には博士に対する尊敬の念が含まれている――そういう風にアカリの目には映った。
「各町で旅立つトレーナーの面倒を見るなら、国から多くの援助が得られるらしい。もちろん博士にもそういう話がなかったわけではないらしいけど、どうもそれがいやだったみたいでね。そもそもあまりトレーナーが好きじゃなかったらしい。人がポケモンを飼ったり、使役したりするのは気に入らないと言って。なにより束縛無く自分の研究がしたかったみたいだ」
 と、トシハルは続ける。
「そんな人だから、昔僕がカントーからポッポをお持ち帰りしたときなんかずいぶん怒っちゃってね。野生ポケモンに餌をやるからそうなるんだって」
 トシハルは苦笑いをする。
「そのポッポどうしたの」
 興味ありといった風にアカリが尋ねた。
「しばらくはブツブツ文句を言っていたけど、傍に置くからには躾けなきゃならんとか言って、そのポッポ……名前はダイズって言うんだけど、仕込み始めたんだ。研究をサポートさせるためにね。博士の研究は野生ポケモンの観察がメインだ。鳥ポケモンなら生かせると考えたんだろう」
 しかしまあ、これがなかなかうまいんだ。
 と、トシハルは続けた。
「トレーナーは嫌いだなんて言ってたけど実はそっちの才能もあったんじゃないのかなぁ。ほどなくしてダイズがピジョンに進化してね」
 懐かしそうに語る。
「それで? カスタニ博士は何を研究していたの?」
 アカリが続けざまに尋ねる。いつの間にか会話に夢中になっている彼女がそこにいた。
「ホエルオーだよ」
 と、トシハルは答えた。
 ホエルオー、それは今まで見つかった中で最も大きいポケモン。
 それは、今まさに彼らを背中に乗せ運んでいるポケモンでもあった。
「あるとき129番水道で偶然それを見かけた博士はすっかり虜になってしまったらしい」
 それからトシハルは、博士が水生のポケモンを得意とする研究者であること、島に来てからは研究のほとんどをホエルオーに費やしていたと説明した。
 そしてこうも言った。
 生まれ育った島は何もないところだ。あるのは周りに広がる海だけだと。けれど、ひとつだけ誇れるものがあるのだと言った。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。空は何者にも占領されず、海からの水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、そこに海から海水が噴き上げられる。
 その海水を噴き上げたもの、そいつは巨大な、とても巨大な――
「一般にはほとんど知られていないけれど、フゲイ島の周辺海域はホエルオーの一大生息地なんだ。これだけホエルオーを間近に見れる場所は他に無い。奇跡のような場所だと博士は言っていた。そのことを島民に気づかせたのは、生まれたときから島にいる人間ではなく、島の外からやってきた博士だったんだ」
 そうして博士は徐々に島民に受け入れられていった。調査のために漁師に協力してもらったり、島の様々な援助を受けられるようになった。
「僕にとって博士は、三人目の親のような存在だった」
 と、トシハルは言った。
 気が付けば、博士の助手のようなことをしていた。博士と一緒に数え切れないほどの回数船に乗った。いつも洋上からホエルオーを見ていたと彼は語った。
 そうしてアカリは理解した。なぜ彼が航海の準備を整えることができたのか、なぜ自分の持つホエルオーの特徴をすぐに掴むことができたのかを。ジムリーダーの名前を知らない彼が、オダマキ博士だけは知っていたのもおそらくはこのためである、と。
「海の鳥ポケモンもよく観察したなぁ。調査用の発信機をつけるために一時的に捕まえることもあった」
 昨日のコンテスト会場前、ぺリッパーを捕まえたことを思い出しながらトシハルは言う。ずいぶん鈍っていると思っていたのだが案外身体は覚えているものだ。
「あの頃の僕は、自分は研究者になって博士の後を継ぐんだと思って疑わなかった」
 そこまで言うと、トシハルはまた黙ってしまった。
「…………」
 鶏頭が眠そうにあくびをする。それを見て彼女はついにバシャーモをモンスターボールに戻すことにした。アカリは無言でトシハルを見つめる。ホエルオーの背中の上でついに彼らは二人きりになった。こんな場所で無用心な、とトシハルは思ったが、それは彼女が真剣に話を聞くサインのような気がした。
「つまらない話だよ……それでもまだ聞きたい?」
 トシハルがそう尋ねるとアカリは黙って頷いた。
 仕方ないな……トシハルは寂しそうに笑った。
「寝袋出そう。話はそれから」
 トシハルはそう言ってカップ麺のカップをつぶすと、袋にいれて口を縛った。
 夜の海上。彼らの進路には漆黒に染まった海面が広がっている。その漆黒の海はどこまでも暗く、どこまでも深く感じられた。
 トシハルは寝袋に身を包むと、同じように寝袋に身を包んだアカリとのその間にランプを置いた。
 意識を夜の海に潜らせた。
 記憶という名の深い深い海に、夜の海に潜らせた。
 いや、ただ巡って来たこの機会。その場の空気に抵抗することができず、沈んでいるだけなのかもしれないとも彼は思った。本当は思い出したくなんかなかったのだから。

「君がトシハル君かね」
 彼は、誰かがそう言ったのを聞いた。
「あのカスタニ博士の推薦だそうだね。君には期待しているよ」
 島の外の世界を知った。外に出たからこそ見えるものがある。
 知りたくなんかなかったのに、思い知ったことがある。
 自分の存在のなんと小さいことだろう、そして彼の人のなんと大きいことだろう。

「博士、お話があります」
 散らかり放題の博士の部屋に入って、彼は話を切り出した。
 博士の部屋は薄暗かった。電気が付いているものは机にあるスタンドライトだけで、その弱い光からかろうじて部屋の全体像をつかむことができた。

 海に潜る。
 記憶という名の深い深い海に潜る。

 ねえ博士、僕には重いよ。
 僕には重すぎる。
 このまま持っていたら、沈んでしまうよ。

 トシハルは記憶を呼び覚ます。走馬灯のように過去の事象が巡る。彼は過去へ舞い戻る。
「この話をするのは君が初めてだ」
 ランプをはさんでトシハルは少女にそう言った。
 言葉を形作る唇がランプの光に照らされていた。
「島には中学校までしかなくってね。高校は通信制を出たんだ」
 と、トシハルは始めた。
 高校を出てからは特に考えていなかった。ただ、なんとなく親父のサトウキビ農園の仕事や博士の手伝いをするのだろうと思っていた。ところが博士の考えは違っていた。
「トシハル、お前は一度島を出て大学に通え」
 通信の卒業証書を受けた日に唐突に、博士は言った。
 進学は考えていなかった。というかそういう発想が元からなかった。そもそも大学に進むような者が島にはいなかったからだ。
「君のご両親にも許可はとってあるし、入試の手続きは済ませといた。明後日は船が来るだろう。だからその足でカントーに行って来い」
 そう言って、地図とカントー行き飛行機のチケットを渡された。わけがわからなかった。
 博士に言われるがままに飛行機から降り立ち、地図に導かれるまま行った場所はカントーの大都市で、タマムシシティと呼ばれていた。その郊外に立派な大学があった。こんなに大きな学校をトシハルは見たことが無かった。その中で博士と同じくらいの年齢の男の人が何人か待ち構えていて、いくつか質問をされた。
 やったことといえばそれだけだった。それで、彼はその大学に通うことになった。
「最初は島とあまりに環境が違うので戸惑った。ポケモン学の授業は楽しかったけど、ときどき何を言っているのかわからなくて、ずいぶん苦労したんだ。まわりの友達にはさ、お前よくそれでこの大学に入れたなと言われたよ」
 後々になって彼は知った。
 その場所は、通信制高校を出ただけの学生には到底入れない所だったと。
 今自分が通っているこの大学に入るために、周りはみんな猛勉強してきたことを。
 ペーパーテストで何人いや、何十人のライバルを蹴落として、高いハードルを越えてきたのだと。
 ならば、あの「試験」は一体何だったのかと彼は自問した。
 あとで両親に聞いたところによると、博士は両親に進学の許可を取ったのち、すぐに大学に電話をかけて、「実はおたくのとこの大学で面倒を見て欲しいのが一人いるからよろしく」というようなことを言ったらしいのだ。電話の相手は二つ返事でOKしたらしい。これには彼の両親も驚いたそうだ。
「僕はさ、必死に勉強したよ。だいぶかかったけどニ年の中ごろにはなんとか追いついて、あの大学にふさわしい程度の教養も身につけたつもりだ。だから、他と違う方法で大学に入ったことに引け目は感じてないさ。でも……」
 けれど、勉強をすればする程に、新しい段階にステップアップすればする程に僕の中で博士の存在が重荷になっていったんだ、とトシハルは語った。
 勉強して勉強して、理解が進むほどに、それがわかってしまったのだと。
 カントーで一番大きい大学柄、様々な人に会う機会がトシハルにはあった。大学で教鞭を振るう高名な教授達、名誉教授達、そして高名な研究機関の所長達。皆、携帯獣研究における各分野のプロフェッショナル達ばかりだ。
「みんながみんなね、同じように博士のことを話すんだ」

 ――博士は恩人さ。彼のアドバイス一つでぐんぐん研究が進んだもんさ。
 ――あの人はほんとすごい。次元が違うよ。いつ寝てるんだというくらいに画期的な論文をボンボン発表していった。
 ――ちょうどあの時期は、携帯獣研究が大幅に進んだ時期でね、その中で活躍した人はたくさんいるけれど、間違いなく五本の指に入るんじゃないかな。
 ――でも、いつだったかな。急に俺はホエルオーを研究するんだとか言い出して、大学から出ていっちまったんだ。ほぼ完成していたたくさんの研究も全部周りに譲って、金にもならない研究をするために離島に隠居しちまった。
 ――だから私達がね、今こうしてこの椅子に座っていられるのは、あの人のおかげだよ。共同研究の成果を博士が全部譲ってくれたおかげさ。この大学であの人に足を向けて寝られる奴なんてそうそういないね。
 ――オーキド? 俺達の年代じゃ彼も相当だけどなぁ。あのままあの人が大学に残って研究を続けていたら、世間一般にポケモン博士として名を馳せたのは、オーキドじゃなくてカスタニだったかもしれないよ。オーキドは所詮後発の研究者だ。先駆けだよ、あの人は。
 ――とにかくその博士が君を推薦してきたんだ。我々が断れるわけないだろ?

 さて、君はあのカスタニ博士の推薦だ。
 君は、博士の秘蔵っ子の君は、我々に何を見せてくれるんだい?

 なんだこれ。
 トシハルは眩暈がした。
 携帯獣研究が飛躍的に進歩したのは今から約四、五十年ほど前だと言われる。その時に博士は様々なプロジェクトを打ち立てて、若い研究者達に助言を与えながら、同時進行していたのだという。
 これが。これがあの博士の実際なのか。彼にとってカスタニ博士という存在は、小さいころからすぐ近所に住んでいて、ただ当たり前のようにそこにいる人だった。だから、島民が当たり前のように親の家業を継ぐように、僕が博士と同じように研究をするのが、自然な流れだと思っていた。両親もそれには暗黙の了解を出していて、黙ってついていきさえすれば博士のようになれるのかと思っていた。
 だが、今ここに立ちはだかるこの歴然とした違いはなんなのだ、と。
 ――見られている。
 ここには博士はいない。博士は島にいるはずなのに、自身の後ろにはいつも博士が立っている。まるで亡霊のように立っている。
 無論、そんなものを連れてきたつもりはなかった。
「だが、見ていた。あそこにいる人達は見ていた。僕の後ろにいるカスタニ博士を見ていたんだ。だから、博士は立っていたんだろう。僕の後ろに確かに博士は立っていたんだ」
 幼いころから博士の武勇伝を聞いて育った。育ったつもりでいた。
「でもよく考えてみればそれは島に来てからの話ばかりだったんだ」
 博士は島に来る以前の自分ってものを語らなさすぎなんだとトシハルは思う。
 自身の影響力ってものを理解していない。世間一般にはどうだか知らないが、ここでは、あなたが僕を送り込んだこの世界では、みんなが貴方の名を知っているじゃないか。
 みんなが見ている。僕の後ろに立っている貴方を見ている――。
 博士の期待に応えなければ、という気持ちは持っていた。自分は博士に選ばれたのだと。
「けれど勉強すればするほど、新たな知識を得れば得るほどにわかってしまうんだ。あの人の凄さってものが。論文を読めば打ちのめされるんだ。理解すれば理解するほどに遠いんだ」
 そうだったのだ、とトシハルは悟った。
 そもそも僕は貴方に才能を認められて、選ばれてここに来たわけじゃないんだ、と。
 たまたま博士のいる近所に生まれて、たまたま近くにいただけ。自分がここにいるのはたまたま。
 ああ、跡を継ぐなどと、なんとおこがましい愚かな考えだったのだろう。
 絶望した。自分には何も無い。この大きな世界の流れに必死についていくのが精一杯なのだ。
「凡庸な僕は、きっとあなたの劣化コピーにすらなれない」

 ねえ博士、僕には重たいよ。
 僕に貴方の名前は重すぎる。
 このまま持っていたら、僕はその重さで沈んでしまうよ。

 どうして僕を大学に行かせたのですか博士。
 どうして島の外に出してしまったのですか。
 どうして。
 おかげで僕は知ってしまった。知りたくもないことを知ってしまった。
 自分は限りなく平凡でとりえのない人間だと、知ってしまった。

「僕の入学をきっかけに、博士と大学との交流も復活してね。島では何人かの実習生を受け入れることになったんだ。みんな僕なんかよりずっと優秀で、これなら僕はいらないと思った」

 そうさ、僕のかわりはいくらでもいる。
 僕なんかより博士の後継に相応しい人間はいくらでも…………

「博士、お話があります」
 大学最後の春休み、島に帰省中のトシハルはそう切り出した。
「博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください」
「なんだいきなり」
「データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません」
「そんなことか。そもそもお前が大学行ったときから、そんなことは期待しとらんよ。そりゃあ、休み中はまぁ手伝わせたがな…………トシハル?」
 ほの暗いこの月灯りの中では弟子の顔はよく見えなかった。
 だが、弟子が声色の端々から、なんだか妙な空気を漂わせているのを感じて博士は顔をしかめた。
「何か言いたいことがあってここに来たんだろ。論文は結論から書くように、回り道せずにはっきり言え」
 じれったいという様子でそう言う。
「博士、僕は大学を卒業したら、島を出て行こうと思う」
「……なんだって?」
 がたり、と音がした。博士が椅子から立ち上がった音だ。
「もう、就職先も決めてきました」
「なんだそれは。お前、私にはそんな話ちっとも……」
「そりゃそうでしょう。博士にはそんな話しませんでしたから」
「理由を言え」
「もういやなんですよ。別に僕は、研究が好きなわけでも、ホエルオーが好きなわけでもなかった。もう飽き飽きなんですよ。僕はただ、たまたま貴方の近所に生まれて、たまたま貴方の近くに居ただけだ。もう貴方に付き合うのは終わりにしたい」
 彼は言った。これは博士に対する拒絶の言葉だ。
 これでもう、二度と元には戻れない。
「……ずっと、そういう風に思っていたのか」
 しばらくの沈黙を置いてから、静かに博士は言った。
「そうです。毎日毎日、海に出てホエルオー、ホエルオー、ホエルオー……僕はそんなことをしてこの先の人生を浪費したくない」
 これでいい、これでいいのだ。自分は博士にはなれない。
 自分は平凡でとりえの無い人間だ。だから茶番は終わりにしよう。
「博士も知っているでしょう。今年も島から何人も若者が出て行った。このままこの島に居続けて、博士の二番煎じをしながら、お金にもならない研究を続けていたって、僕に将来は無い……」
 トシハルは言い聞かせる。器ではないのだと。
 荷が重すぎる。自分にはできない。博士のように立派には出来ない。僕は決して博士のようにはなれない。
 世界を知らぬ少年の、短く愚かな夢だった。
 そうさ、最初っから器じゃなかったんだ。
「貴方には感謝していますよ博士。あなたが僕に外の世界を教え、いち島民にはとうてい手にいれられない学歴を与えてくれたおかげで、僕は島の外でも十ニ分にやっていける。バカなことをしましたね。僕を島から出さなければあなたは僕を好きなように使えたでしょうに」
 今までありがとうございます。そして、さようなら。
 もう戻らない……戻れない。
 島を出る前日、ピジョンのダイズには博士をよろしくと頼んだ。
 君は替えのいる僕とは違う。空を飛べる君には君にしかできないことがある。僕はもう手伝えないけれど、君は違う。君はこれからも博士の傍にいてやって欲しい、と。
 ダイズは了承したかしないのか、一声悲しそうに鳴いた。

「そうして僕は島を出て行った。博士の下から逃げ出したんだ」
 ランプが弱々しく揺れていた。
 アカリは無言だった。ただランプがまだ目を覚ましている彼女の顔を照らしていた。
「……つまらない話だったろ?」
 トシハルは光り輝く満天の星々を仰ぎ見る。鏡がなくてよかったとトシハルは思った。今自分は一体どんな顔をしているのか。どんな情けない顔を彼女の前に晒しているのか。それを見ることがなくてよかったと思った。
「小さいころから目をかけてくれて、大学にまで行かせてくれたのに、僕は博士を裏切った。それ以来、島には帰っていない。帰れなかった」
 彼は今、あの時のように海を渡っている。
 そして語る。かつて、何を思いどんなことを考えて島を去ったのかを。
「でもあなたは、今こうして帰ってるんでしょう。帰るからには、会うんでしょう。博士に」
 長い間、黙っていたアカリが口を開いてそう言った。
「……そうだね。でも正直どの面下げて会いに行けばいいのか見当もつかないよ」
 トシハルはそう答え、やがてそっと目を閉じた。
 自分と少女がその身を委ねているうきくじらに波が当たる。それがちゃぷんちゃぷんと音を立てていて、それがやけに耳に響いた。
 その音を耳に残しながら、トシハルは眠りに落ちていった。





8.

 意識が戻った。
 まだ瞼は重く閉じられているけれど、瞼を通る光がまぶしかったから、周りはずいぶんと明るくなっており、日はとっくに昇っているのだとわかった。
 だがトシハルの目覚めは悪い。昔から低血圧なのだ。だから覚醒したとわかっていてもなかなか行動に移せない。
 にしても妙に周りが騒がしい。潮騒に混じって何かの鳴く声が響いている。なんだか妙に身体が重い。気持ちとしてはもう少しゆっくり寝ていたかったのだが、どうにも不快感のほうが勝っていたようで、トシハルはしぶしぶと目を開いた。
 すると、なぜか目の前にうつっているのはドアップのキャモメの顔だった。
 キャモメはトシハルの眼前で一声、ミャア、と鳴いた。
「うわあっ!」
 びっくりして、思わず彼が飛び起きると、バサバサっとキャモメ達がトシハルを避けるように飛びのいた。どうやら身体の上に何匹か乗っかっていたらしい。どおりで身体が重かったわけだと彼は理解した。
 見ると自分達が乗っているホエルオーの背中にはたくさんのキャモメ達が止まっていて、青い背中が白い羽毛で染まっているところだった。
「おはようトシハルさん、ずいぶんゆっくりね」
 少し離れたところからアカリが言った。鶏頭も一緒だった。
 彼女の頭の上にキャモメが一匹とまっている。その周りにもキャモメ達がたかっており、バシャーモと彼女の服の赤がよく映えていた。
「……おはよう」
 トシハルは寝ぼけた顔で返事をした。
「で、このキャモメの集団は何?」
「……なんか、朝食がわりにポロック食べてたら集まってきちゃって」
 もぐもぐと口を動かしながら彼女は言った。
 ポケモン用の菓子なんだけど結構いけるのよ、と彼女は言った。自分が納得したものなら手持ちのポケモンたちもよく食べるのだと彼女は続けた。
「もっとも、半分は海上に突如島が現れたもんだから、ていのいい休憩場だと思ってるみたいだけどね、あなたも食べる?」
 そう、アカリが勧めるのでトシハルも食べてみたが、アカリがうまそうに食べている赤い色のそれはものすごく辛くて、騙されたと彼は思った。げえげえ言っていたのを見かねて渡されたピンク色のものは、なかなか甘くておいしかった。それを見たアカリが「あなたってきっと臆病な性格なのね」と、言ったが、トシハルには意味がわからなかった。
 やがて、アカリの持つポロックケースが空になると、キャモメ達も次第に飛び去っていった。
 トシハルは真新しい寝袋をキャリーバッグにしまうと、栄養ドリンクを取り出して一本飲んだ。
 アカリが飲みたそうにこちらを見ていたので一本渡したら、バク用にもう一本欲しいというからさらに追加で一本渡してやった。彼女と一匹は同じようなポーズでごくごくとドリンクを飲むと、同じタイミングでぷはーっと息を吐いた。まったく飼い主に似るとはよく言ったものだ、とトシハルは思った。彼らの息はぴったりだった。
 アカリは他のポケモン達も出して、朝ごはんにした。それが済むとグラエナとライボルトがうきくじらの背中を走り回りはじめた。サーナイトは端のほうに静かに腰掛けると潮騒に耳を澄ませている。オオスバメのレイランはトシハルに再びリボンを見せ付けてから飛び立つと、ぐるぐるとホエルオーの周りを旋回しはじめた。
 ホエルオーの背中に座ってアカリは静かにそれを眺めていた。穏やかな風が彼女の髪を揺らす。リラックスしている様子だった。
 自分がミナモシティに引き篭もっていたその間も、彼女はずっとこうやってホウエン中を旅して回っていたのだろうか。トシハルはその旅路に少しだけ思いを馳せる。ときどき鯨の背中の上をキャモメ達の影が横切っては消えた。
 昨日のことを思い返す。父の存在が重荷だと。誰も私自身を見てくれない、そう彼女は語った。
 決して彼女はポケモンが嫌いじゃない。父親もポケモンバトルも嫌いなわけではないのだろう。ただ、そう。息苦しかったのだと思う。アカリのその心を知ったその時に、トシハルの胸には刺さるものがあった。
 僕達は似ているのかもしれない。形や立場は違うけれど。
 アカリには言わなかったけれど、トシハルはそう感じていた。
 トシハルと少女は一時的な雇用契約を結んだ。だから今この時を共にしている。だが、トシハルを島に送り届けた時に彼女の仕事は終わる。その時彼女はどうするのだろう。ホウエンに戻るのだろうか。
 きっと彼女は強い。ポケモンリーグで優勝するくらいの器だったら、どこでだってやっていける、生きていけるに違いない。けれどトシハルは若きリーグチャンピオンの行く末を密かに案じた。彼女にとっては余計なお世話かもしれなかったが。
 本当にしょうもない。何を考えているんだか。彼女はポケモンを扱う才能にあふれた女性(ひと)だ。凡人に生まれた自分、逃げ出した自分とはそもそも違うのだ。そんなことはわかっていたけれど、それでも彼女に自身をだぶらせていた。
 アカリはポケナビを取り出し、スイッチを入れる。GPSで現在位置を確認した。
「だいぶ進んだわね。このまま何もなければお昼ごろには着きそうよ」
「え? あ、そ……そうかい。順調そうでなによりだ」
 トシハルは答える。
 その返事はあまり歯切れがよくなかったから、アカリは訝しげな目を向けた。
 着く。昼には島に到着する。
 トシハルが何かに身構えているようだった。波が飛沫を立てていた。

 ポケナビの時計が午後を知らせて、彼らは軽い昼食をとった。オオスバメも獣達も飛んだり走ったりするのに飽きて、おなかがいっぱいになると目を細めて日光浴をはじめた。
 うきくじらの背中から見える景色はあいかわらずだったが、島には確実に近づいているはずだった。
「ねえ、知ってる?」
 トシハルはアカリに問いかける。
「何?」
「水平線が見える距離。僕が海岸に立って見渡すことの出来る距離は、3キロちょっとって言われてるんだ。これには計算方法があるのだけど、基本的に視点が高くなればなるほど見える距離が長くなる。僕達の目の高さがホエルオーの上半分を入れて4メートルくらいだから、計算すると……そうだな。約7キロだね。残り7キロメートルになれば島が見えるはずだよ」
「へえ」
「……昔ね、博士に教えてもらったんだ」
 トシハルは懐かしむように言った。
「だからね、そのバシャーモの肩に乗せてもらえば、もっと遠くから見れるはずだ。そうなると……だいたい8キロというところかな。実際の島には高さがあることを考慮すると、残り10キロになればもう見えるかもしれない。残り10キロ地点になったら一度進路を見てみるといい」
 そう言って、彼は遠い昔を回想した。

 博士は少年を肩車すると、問いかけた。
 ――おうい、トシハル、どうだ? 見えるか?
 ――うん、見えるよ! ホエルオーがね、二匹見える。並んで泳いでいるよ。親子かな。兄弟かな。それとも恋人かな?
 ――さあなぁ、お前はどう思う?
 ――うーん、わからないや。
 ――わからない時はな。想像するんだトシハル。想像することもまた訓練なんだぞ。

 結局それにどういった結論を出したのか。今はもう覚えていない。
「ねえ、トシハルさん聞いてもいいかな」
 進路を見つめながらアカリは言った。
「なんだい」
「あなたは島を飛び出したっきり十年以上帰らなかったのよね」
「ああ、そうだよ」
「それならどうして?」
 アカリが聞いた。それは核心をつく質問だった。
「十年以上ずっと帰らなかったのに。それなのにどうして、急に会う気になったの? 船を待たずに私に依頼してまで、どうして海を渡る気になったの?」
「…………」
 トシハルは急にまた押し黙ってしまった。
 聞かないほうがよかったかしら。彼女は一瞬そう思ったが、けれど興味のほうが勝ったから、訂正をしてやっぱりいいわなどとは言わなかった。自分もあと十年経ったのならこのような気持ちになるのだろうか。トシハルの中にひとつの答えを見出そうとしていたのかもしれない。
「確かめなくちゃ、いけないから」
長い沈黙の後にトシハルは重い口を開いた。進行方向から海風が吹き付ける。
「……確かめる?」
「そう。僕は確かめるために海を渡ったんだ」
 アカリの視線が動いた。まじまじとトシハルを見る。
 海風が吹いて彼女の栗色の髪が風に揺れた。
「それは、あなたの気持ち? それとも博士の気持ち?」
「………………」
「別に、そこまでは答えなくてもいいけど」
 再びトシハルから視線をそらし、海を見る。彼女なりの配慮なのかもしれなかった。
 海と空が続く。海を縫うようにしてホエルオーが進んでいく。
「トゥリッ!? トゥリリィ!」
 突如、日光浴をしながら目を細めていたオオスバメのレイランが顔を上げ、鳴いた。何かを察知したらしかった。鶏頭や他のポケモン達も気が付いたらしく、同じ方向を見る。
 その直後、ホエルオーが目指す方向からピューイという高く澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてきて、トシハルとアカリはその方向を見た。
 ほどなくして、空の彼方に小さな影が見えた。影はすぐに大きくなって、やがてホエルオーの上空を輪を描くように旋回しはじめた。
 大きな鳥ポケモンだった。ホウエンに多く生息するオオスバメとは違う姿。尾は短く、代わりに長く立派な冠羽が潮風にたなびいている。レイランはますます興奮した様子で、バサバサと翼を羽ばたかせながら短い鳴き声を頻繁に上げた。
「ダイズ……? お前、もしかしてダイズか!?」
 鳥ポケモンのシルエットを捉えたトシハルが叫んだ。
「ダイズ、あれが……」
 アカリもその姿を凝視する。
 ピューーーーイ。
 トシハルの声に応答するように鳥ポケモンが返事を返した。
 大きく翼を広げたそれは、とりポケモン、ピジョットの姿だった。ピジョンからさらに成長したポッポ系統の最終進化系だ。その大きな鳥影がうきくじらの真上を通過する。
 かと思えばすぐにまた戻ってきて、高度を落とすとその背中に着地した。
「ピュイ! ピュウイイッ!!」
 背中の上の全員が新たな乗員に注目する中、進行方向を見ろ、とでも言いたげにピジョットは冠羽を高く上げ、翼を広げると、鳴いた。
「バク、」
 アカリが思いついたようにバシャーモに言った。鶏頭は少女を担ぎ、肩に乗せる。そうして少女は進行方向に目を凝らした。
「トシハルさん、見えた! 島、見えたよ!」
「…………10キロか」
 トシハルは小さく、けれど感慨深そうに呟いた。














9.

 ダイズは真っ先にレイランの洗礼を受けた。初対面の者の前で自分のコレクションを見せびらかすというあの行動を彼女はダイズにもやりはじめた。両翼を広げ、どうよどうよと横目にちらちらと確かめる。アカリが言うには、どうやら人相手だけでなく、ポケモン相手にもやることがあるらしかった。ダイズは、オオスバメの行動の意味がわからず、目をぱちくりさせて首を傾げた。それでもレイランは満足そうに、フフンっと鼻息を荒くした。
 彼女はこのピジョットのことが随分とお気に召したらしく、日差しが照りつけて相当に暑いというのにダイズにすりよって目を細めている。久しぶりに会ったダイズの顔は困り顔であった。
 アカリもホウエンではなかなか見られないピジョットがものめずらしいのか、ダイズのまわりをぐるぐると不審者のように歩き回り、トシハルさん触ってもいいかしらなどと断りを入れた後に、撫で回してみたり、抱きついてみたり、あげくの果てにほおずりしてみたりして彼を困らせた。アカリはさらに乗ってみてもいいかなどと聞いてきたが、さすがにそういう訓練はしていないと思うから、とトシハルは断った。
 二匹の獣ポケモンがふんふんと匂いを嗅ぎに近づき、サーナイトも遠慮がちに近づいた。
 その一方で、鶏頭だけはそういう趣味はないとでも言いたげに、ピジョットにまとわりつく一人と一羽、そしてその取り巻き達を離れた位置から見守っていた。
 バシャーモは格闘タイプだ。大きな鳥ポケモンは苦手なのかもしれないとトシハルは思った。
「行かないのかい、ダイズはおとなしいから大丈夫だよ」
 などとひやかしを言ってみたが、ぎろりと睨まれたので、それ以上は言わないでおくことにした。
 そんなことをしているうちに、トシハルの目線からも島を確認することが出来るようになる距離までホエルオーが到達した。
 肉眼で確認する約十年ぶりの島だった。
 ああ……!
 トシハルはわずかに口をあけて、そのままその光景に見入っていた。
 心臓がバクバクと鼓動を高鳴らせた。
 上陸の時が近づいている。
 突然、彼らが乗るホエルオー、シロナガの周りに、いくつもの潮が吹き上がった。
 無論、それはシロナガのものではなかった。潮吹きの張本人達が海面に顔を出すのに時間はかからなかった。彼らの周りに何頭ものうきくじら達が集まって、海面から顔を覗かせる。
 シロナガは同族達に潮吹きで答え、しょっぱい水がトシハル達に降り注いだ。炎タイプの鶏頭はちょっと迷惑そうだった。
「すごい……」
 海に落ちそうなほど身を乗り出して、彼らの群れを一望しながらアカリが感嘆の声を上げる。
 彼らの前に広がる碧色の海にはたくさんのうきくじらの影がゆらめいていた。
 オオスバメ、グラエナ、ライボルト、サーナイト。アカリのポケモン達も口をあんぐりとあけて、その様子に見入っている。
 うきくじらは数を増やし、シロナガを中心に艦隊を組み進んでいく。
「すごい。私、ホエルオーがこんなにいるところ見たこと無い。ホウエンにこんなところがあったなんて」
 前から、奥から、横から、碧い海に映る巨大な影の先頭から次々と潮が吹き上がる。その度に彼らは歓声を上げた。トシハルはそんな様子をずっと見守っていた。どうしてか涙が出そうだった。
 ダイズがばさりと翼を広げると、空へ舞い上がる。ニ、三周ほどホエルオー艦隊を一望するように旋回すると、瞬く間に島へと吸い込まれていく。おそらくは島民に来訪者のことを知らせる気なのだろうとトシハルは思った。もう向こうからもこちらが見えるはずだった。
 フゲイ島の集落、フゲイタウンは狭い町だ。ピジョットが知らせた来訪者のことは、瞬く間に島の住人に伝わった。
「博士の鳥ポケモンさ騒がしいぞ」
「さっき海のほうさ飛んでって、戻っできた。誰か来たらしい」
「それにしても、こんな時に、ねえ」
「まぁた迷ったトレーナーじゃながとか」
 様々な憶測が飛び交った。だが。
「ありゃ、あれはもしかしてトシじゃないのかい……!?」
 誰かが双眼鏡を持ち出して、高台から彼らの姿を確認し、言った。
「トシだって!?」
「そりゃあ確かか、お前さんの見間違いじゃあないんかい」
「次の船は十日くらい後じゃろ。トシが来れるわけねぇ」
「いや、間違いない。あれはトシじゃ。トシがホエルオーさ乗っとる。ホエルオーさ乗って帰ってきた」
「ホエルオーさ乗って? あれまー、トシさ、いつのまにホエルオー乗りさなったんじゃい」
「ありゃトシの奴、女の子と一緒に乗っとるなぁ。誰だろか。かわいい子じゃい」
「そんなことより本当にトシさ、間違いないんじゃな」
「ああ、間違いない。トシじゃ」
「おおい! 誰ぞツグミさんちさ知らせでこい! トシさ帰ってきだってな。それと……」
「それと?」
「それと……博士にもな」
「そうだな。博士さ伝えなげればな。トシさ帰ってきたってな」
 何人かが小走りに道を急いだ。
 ほどなくして、ぞろぞろと島民達が海岸へ集まった。もう島からも向かってくるうきくじらを確認できた。うきくじらが島の海岸へと近づいてくる。両者の距離が互いに近づくにつれて、彼らはお互いの姿をはっきりと認識する。
 島民達はそれがたしかにトシハルであると確信した。
 トシハル達は彼らを見る。島民達は口々に何かを叫んでいる。
 それはかつて島を出て行った者に対する拒絶の意味合いは感じられず、むしろ彼の帰郷を歓迎しているようだった。
「よかったじゃない、トシハルさん」
 そんな彼らの様子を見、アカリは言った。
「あなたが深刻そうな顔して話すから、心配してたのよ。でもこの様子なら大丈夫だよね。博士だってきっと…………トシハルさん?」
 アカリは振り返りざまにトシハルを見た。だが、島民達の歓迎ムードにも関わらず、彼はどこか影を落とした深刻そうな顔をしたまま、島民達の様子をじっと見つめていた。それは誰かの姿を探しているようにも見えた。
「ねぇ、もしかしてあの中にいたりするの?」
 と、アカリが続けざまに聞いたが、彼はずっとその方向を向いたまま黙っているだけだった。
 澄んだ鳴き声がまた聞こえてきて、ダイズが島から飛んでくる。またホエルオーの上に着地するとてくてくと歩いてきて、彼の傍らに立つと、嘴で服の袖を引っ張った。
 何をしているんだ、早く行こうとでも言うように。
「あ、ああ……。そうだね」
 と、トシハルはつたない声で言った。
 どうにも様子がおかしい、とアカリは思う。
「トシぃ、よぐ帰っできたなぁ! もうお前は間に合わないだろうって諦めていたんだ。けんど間に合ってよかった。本当によかった!」
 二人は、島民の一人がそう言ったのを聞いた。
「間に合った? 何のこと?」
 と、アカリが尋ねる。
 トシハルはまたしばらく沈黙していたが、今度はかすかに言葉を漏らした。
「間に合った、だって……? 最初から間に合ってなんて……いないんだよ」
 震える声でトシハルは言った。口を閉じてからも唇が震えていた。震え続けていた。
「どういうこと?」
 するとトシハルは自嘲するように、悲しく笑った。
「君が言うようにあの中に、カスタニ博士がいればよかったんだけどなぁ」
「だから、それってどういう……」
 ハッとしてアカリはもう一度島のほうを見る。海岸に立つ島民たちを……。
 その瞬間、彼女は気が付いた。あることに気が付いてしまった。
「トシハルさん、」
 そして、理解した。
「確かめなくちゃいけないことって、これだったの?」
 いつの間にかそう問うていた。
 ああ、どれくらいの時間が経ったろう。どれくらいの時を費やしただろう。
 と、トシハルは回想した。
 どんなに時間をかけたって、結果は同じだった。ただ、認められなかっただけだ。事実は歴然と存在していたのに。頭の中で、受け入れ拒否をしていただけだった。
 短くもあり、長くもある抵抗だった。でももうその時間は終わったのだ。結果は何も変わらない、と。
 島へ連れて行ってください。
 彼はそう依頼した。海を渡ることが出来ないから。
 でも今はこうだったのではないかと思う。
 島へ連れて行ってください。一緒に来てください、だったのではないか、と。
 道連れが欲しかったのだと思う。だって一人で行くのは怖いから。逃げ出してしまいそうだから。一人では立っていられないから。
 そうだったんだ、と彼は気が付いた。本心はそうだったのだ、と。
「会社にさ、母から電話があったんだ…………」
 と、トシハルは言った。
「それは僕にとってあまりにも唐突で、突然過ぎて、受け入れられなかった。信じられなかった。何かの冗談だって思った。だから考えないようにした。自分の目で見るまでは考えないようにしようって僕は決めた」
 トシハルは言った。アカリにそのように言った。けれど目を合わせることは出来なかった。アカリはずっと島の方向を見つめ続けていた。
 島の人々は皆一様に同じ色の服を着ていることに、彼女は気が付いていた。身につけている形はそれぞれ違うのだが、皆一様に同じ色の服を着ているのだということに。
 彼女はもう理解していた。あの日、自分とトシハルが出会ったあの日、この島で何が起こっていたのか。何の準備が進んでいたのか。
 なぜ彼は帰郷したのか。
 トシハルの独白が続いた。
「だから僕は……行かなくちゃいけなかった、確かめなくちゃならなかった」
 潮騒が、波の音が聞こえる。海と陸の狭間で響いている。
「本当はさ、いつこうなってもおかしくはないって知っていたんだ。いつかはくることだったんだ。だってあれから十年以上経っていたんだ。僕の知る博士は僕が幼いころから、僕が少年だったころから、とうに幾十も年を重ねていた人だったんだから」
 南国の太陽が差す。うきくじらの身体に彼らの影を濃く濃く刻みこんだ。ミャアミャアと鳴く海鳥の影が通り過ぎてゆく。
「いつかは来るって頭のどこかでわかっていたのに、ずっと考えないようにしてた。電話を受けたときもそうだった。認めてしまったらすべて終わってしまうような気がして」
 波が、揺らめく。白い砂浜に寄せては返す。繰り返す。
「…………だけどもう認めないといけないんだね。受け入れないといけないんだね」
 海と陸の狭間を挟んで旅人と島民は向き合っている。うきくじらの上に立ち、そこから見る彼らの衣装は黒だった。
 黒。それは悲しみ、悼み、祈りを捧げる色だ。
 島の住人達。彼らは皆、一様に黒の衣装を纏っていた。
 トシハルはくるりと方向を変えると歩いてゆき、うきくじらの背中に置きっぱなしだったキャリーバックを開く。そうして何かを取り出した。
 それはミナモのショッピングセンターで買ったネクタイだった。
 包装を開ける。そのネクタイに模様は無かった。
 トシハルは傍らに立つピジョットに、海岸に降ろしてくれないかと依頼した。
 そうして深くお辞儀をすると、アカリに詫びた。
「ごめん……こんなことにつき合わせて本当にごめん」
 頭を下げるトシハルが片手で握っているネクタイの色は黒。黒一色だった。
 黒。それは去ってしまう誰かを送るための色。
「僕は博士に会ってくるよ」
 トシハルは顔を上げるとそう言った。
「……会って、お別れをしてくるから」
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 島で育った少年は、キャリーバックから取り出した黒い色のネクタイを、締めた。



10.

 その昔、もう何十年も前のある暑い夏の日だった。
 水平線の向こうから、自前の小型船に乗って、見知らぬ男がこの島へとやってきた。
 海の向こうからやってきたその男は島の一員となることを希望した。
 昔から漁業とサトウキビ栽培だけで暮らしを立ててきた島民たちにとって、浜辺に降り立ったその男が口にした職業は聞いたこともない風変わりなものだった。
 そんな男を多くの島民達は冷ややかな目で、遠巻きに観察していた。どうせ内地の者の気まぐれだろう。一ヶ月も持たずに島からいなくなるに違いない。そう彼らは噂した。
 だが男は島に居座り続けた。
 月はやがて年に変わり、一年が過ぎ、二年が過ぎ……そして三年が経った。
 やがて島には男がいる事が、その風景が当たり前になった。
 そうして男は島の一員となった。
 男は輝く碧い海を指差し、言った。私は彼らに魅せられてこの島に来たのだと。
 ここは奇跡のような場所だ。このあたりの海域には通常考えられないほどの密度で私の求める者達が存在しているのだ、と。
 男が指差すエメラルド色の海には、ゆらゆらと揺らめく水面の網に彩られた、それはそれは大きな生き物が悠々と泳いでいた。

 少女はポケモン達を機械球に収めにかかった。足の下のホエルオーと、バシャーモとオオスバメだけを残した。次にピジョットとオオスバメが、それぞれの主を島へと上陸させる。ピジョットのほうが先に、少し遅れる形でオオスバメが続いた。遅れる形で鶏頭が、くじらの上で助走をつけ、大きく跳ねて着地する。少女はそれを確認すると、オオスバメをねぎらってから機械球に収納した。
「こちら、ポケモントレーナーのアカリさん。さっきまで乗っていたのは彼女のポケモンで……彼女のホエルオーに乗せて貰ってここまで連れてきてもらったんです」
 ピジョットのほうの主が、島の人間といくらか言葉を交わすと、そうホエルオーの主を紹介した。そうしてトシハルはアカリがどこかに泊まれるように手配すること、もてなすようにと依頼する。島民達はその依頼を快く承諾した。
 アカリはずっと黙っていた。彼女のことを横目に確かめながら無理もない、とトシハルは思う。
「そうだ。ミズナギさんは」
 と、トシハルが島民に尋ねると
「集会場にいる。博士もそこだ」
 という答えが返ってきた。
「そう、博士はそこにいるんですね」
 トシハルはそれを確認すると、歩き始めた。浜に集まった島民達が同時にぞろぞろと集団で移動しはじめた。黒い服ばかりの集団の中にあって、アカリとバシャーモの赤が一層際立っていた。
 ふと、トシハルが海のほうを振り返るとさっきまで彼らが乗っていたうきくじらが海へと戻っていくのが見えた。
 ボールに戻さなくてよかったのかとトシハルは尋ねたが、ここには仲間もたくさんいることだし、島を出るまでは好きにさせておくつもりだ、と降り立ってはじめて口を開いた。
 彼女のうきくじらは、二、三度潮を吹くと、やがて海へと消えていった。
「トシ、よう間に合った。昨日は準備やらでばたばたしとったからの。今日ちゃんと通夜祭ばして、お別れは明日の昼さやる予定だったんだ」
 集会場に向かう道がてら島民の一人が言う。
「そうでしたか……」
 トシハルは力なく、けど少しほっとしたように答えた。
 集会場はすぐに見えてきた。よくある町内会の会場程度には広い建物だった。縦に長い集会場は突端が海に向かって伸びている。一番奥の窓からは青い水平線が見えた。
 その窓のちょうど下に簡素な、けれど大人一人が足を伸ばしても入る大きな木の箱が、二つの小さな台に支えられる形で置かれていた。
 集会場の入り口に立ったトシハルの視線がそこに釘付けになった。
 傍から見ていたアカリにもそれがはっきりわかった。
 それは待ち人の寝床だった。木の壁に阻まれてその姿は見えない。
 けれどそこに納められ横になっているのはうきくじらの上でトシハルが語ったその人に違いなかった。
「お帰りなさい、トシハルさん」
 と、声がした。
 二人が振り返ってすぐ後ろを見るとその人は立っていた。
 着古された白いワイシャツの痩せた男だった。
「……ミズナギさん」
「よくぞ戻っていらっしゃいました」
 ミズナギと呼ばれた男は微笑む。木の箱のほうをちらりと見て言った。
「さ、顔を見せてあげてください。博士はずっとお待ちでしたよ」
「……ミズナギさん、僕は」
 トシハルはそう言い掛けて言葉を詰まらせる。
「さ、俺達は時間まで暇しよう」
 そう言って島民達は集会場をぞろぞろと出て行った。
 一人去りまた一人去り集会場にはトシハルとダイズ、アカリと鶏頭、ミズナギ、そして棺だけが残される。
「あ、あのミズナギさん、彼女はポケモントレーナーのアカリさんと言って……今回海を渡ってこれたのは彼女のお陰なんです」
 トシハルはたどたどしく言った。
「そうでしたか」ミズナギが答える。
「アカリさん、それは大変お世話になりました。おかげでトシハルさんは間に合いました。貴女にはお礼を言わねばなりませんね」
「いえ、その、報酬をいただいているお仕事ですから……」
 アカリは顔の両サイドに伸ばした髪を指で巻き取ると、少しばかり視線をそらした。
「ミズナギさん、彼女は水の石が欲しいんだそうです。お手空きのときにでも洞窟に案内してあげてくれませんか」
 トシハルが依頼する。「もちろんお安い御用ですよ」と、ミズナギは答えた。
「えっ、じゃあこの人が採掘の名人?」
 と、アカリが尋ねると、
「まぁ、昔いろいろやってたものですから」
 と、ミズナギは言った。
「どうですかアカリさん、なんなら今からでも洞窟に案内しますよ」
「いえ、そんなに急いでるわけでは……」
 気まずい。アカリは奥にある棺をちらりと見た。
「外からのお客様はめったにいらっしゃらないのです。だから歓迎しますよ。島もご案内したいですし」
「……」
「さ、そっちの鶏のお兄さんも一緒に」
 そう言ってミズナギはアカリとバシャーモの背中を押した。
 そういうことか、とアカリは理解する。すぐさま鶏頭に、行こうと目配せした。集会場を出る直前にトシハルのほうを少しだけ見る。黒ネクタイをつけたトシハルは押し黙って棺のほうを向いていた。
「ダイズさん、貴方もです」
 心配そうにトシハルの様子を見守っていたピジョットは、不服だとばかりに冠羽を立てたが、すぐに諦めて羽を下ろし、観念した。そうしてとことこと彼らの後ろについていった。
 途中何度か後ろを振り返ったダイズが最後に見たのはトシハルが棺に一歩二歩と近づいていき、その小さな窓に手をかけるところだった。
 ざざん、ざざん、と窓の向こうで海が鳴っている。
 天気はよく、窓から差し込む光は暖かかった。
 人が去った集会場。トシハルはその光の下で小さな窓をそっと開く。
 開いた窓のその中で痩せた男が眠っていた。痩せている。それが第一の印象だった。
 とにかくなんだか思っていたよりも痩せている。そのようにトシハルは思った。
 それは身体から熱が失われて血の気が引いてそうなったのか、それとも痩せたままにその時を迎えたのか。もはやそれを確認する術はなかった。いや、記憶は鮮やかなようで、あやふやになっているものだ。もともとこんなものだったかもしれないとも思った。けれどもやっぱりもう少しふっくらしていたよなぁ、とも思う。結局のところ結論は出ることがなく、痩せているという印象だけが彼のリアルだった。
 そのままだったのは愛用の眼鏡だった。生前と同じ状態のままかけられた眼鏡。無機物だけはたしかな客観としてそこに存在していた。けれど、違うと思い直した。だって眼鏡は外して眠るものだから、生前通りというのは違うと思った。
 よく人の死に顔は穏やかなものだと言われる。穏やかといえば、穏やかかもしれない。だがもう少し適切な言葉があるように彼は思った。あえて言うならば普通の寝顔、であろうか。行儀の良い普通の寝顔だ。ただし、その眠りは永遠で、決していびきをかくことも、寝返りを打つことも無い。それどころか寝息すら立てない眠りだった。
 指先で撫でるように顔に触れてみる。ああ、本当に冷たいものなんだ、と彼は思った。
 ――ねぇ博士、僕が島を去ってから、貴方は何を想って、何を考えて生きてきたんですか?
 二人だけの集会場。トシハルは声にならぬ問いを投げかけた。無論、返答は無い。キャモメの鳴き声と波の音だけが耳に響いている。
 どれほどの時間その寝顔を見つめていただろうか。やがてトシハルは横になって行儀良く眠る博士の隣に体育座りした。
「……博士、僕の愚かな告白を聞いてくれないでしょうか」
 天井を見上げる。彼はそこで初めて口を開いた。それは十年といくつかの時を隔てた久々の会話だった。返しの無い一方的な会話だった。
「僕はね、博士は死なないって思っていたんです。僕は島を出て、ミナモシティでポケモンとはまったく関係の無い仕事をしていて、その間も貴方は海でホエルオーを追いかけている。そういう時間がずっとずっと続くと思っていた。変わることなく続くと思っていたんです」
 彼はそのように告白した。
「だから信じることが出来なかった。母から貴方が船の上で倒れてそのまま起き上がって来なかったなんて聞いても、まったく信じられなかった。だから僕は確かめに来ました。自分の目で確かめに来ました」
 熱中症だろうと、母は言っていた。ホウエンという地方が今年のポケモンリーグを終えて、その熱は冷めかけて、時期的に夏は終わりに差し掛かっていた。けれど、ずっと暑い日が続いていた。
 空から戻ってきたダイズがけたたましく鳴いた。船を操縦していたミズナギがそれに気が付いて駆けつけた時は既に手遅れだった。だが、それは研究者としては理想的な死に方だったかもしれないとトシハルは思う。最後の最後まで博士は現役だった。現役を貫き通して、博士は死んだ。
「もちろん、知ってはいたんですよ。人はいつか死ぬ。今は永遠に続かない。でも知っていることと理解していることは違う。分かっていることと身に染みていることは違うんです。僕は知っていても理解はしていなかった。分かっていても、身に染みてはいなかった」
 ああ、何を言っているのか! トシハルは心中で叫んだ。
 こんなものは言い訳だ。全部言い訳だ。間に合わなかったことへの言い訳だ。
「僕はいつだってそうだった。子どものころは子ども時代が永遠に続くと思っていたし、貴方を手伝うようになってからは、こういう日々がずっと続くと思っていた。その時ごとにそう信じていたんです。僕は与えられるがままだった。そのままでいればいいと思っていた。いつまで経っても少年のままだった」
 だが世界は変わっていくように出来ていた。島の人々が年々少なくなっていくように。遠くの地方からカフェチェーンが進出するように。新しいショッピングセンターが立つように。古くなった戦隊モノが今にあわせてリメイクされるように。
 変化。それは世界の法則だ。抗いようの無い法則。けれどそれはトシハルの観念と相容れないものだった。ある方向に向かい、伸びる二つの線。理想と現実。はじめは小さな距離だったそれは平行線をたどり、時が経つうちに開いていった。欲するモノがあるならば年相応に変わっていかねばならなかったのに。皺寄せは大学に入った頃にやってきた。
 それで少年は壊れてしまった。耐え切れなくなってしまった。
 だから少年は逃げ出した。いつのまにか開いてしまったその差を直視することが出来なくて。
「博士……貴方はきっと僕を許してはくれないのでしょうね」
 身を丸めて座り込む。その横にある木の箱に彼は言った。
 これは罰だ。変わっていく世界から目を逸らし続けた罰。
 ああ、馬鹿だ。本当に馬鹿で愚かで救いようが無い。そもそも自分なぞお呼びではないのだと彼は思った。死んで口無しになった相手に言い訳だけ撒き散らす自分はどこまでも臆病者で、卑怯者だ。

「ええっ、じゃあトシハルさん、アカリさんに何の説明もしていなかったんですか?」
「ええ、まあ……島に行きたいってことだけでしたね」
 まだ慣れない。鶏頭やダイズと共に舗装されない島の道を進みながらアカリは緊張気味に答えた。
 海沿いの細い道。アカリの歩くすぐ右で海が輝いている。まぶしい日差しに目を細めながら海を見ると遠くに鯨影が小さく見えた。ホエルオーの一大生息地だとトシハルが説明した通りだ。
「それは本当に申し訳ありませんでしたね。島に着いた途端、みんな黒装束だったんじゃあ、さぞ驚かれたでしょう」
「ええ……まあ」
 アカリは歯切れの悪い返事をした。
 博士がいるということは聞いていた。まさかああいう状態だとは思っていなかった。
「本当に、悪いことをしましたね……」
 ミズナギは頭を下げる。
 そんな、いいですから。そういう感じのジェスチャーをとってアカリは首を振った。
「どうか許してあげてください。トシハルさんはきっと混乱されていたんだと思います。なにせいきなりでしたから」
「……はい」
 アカリは静かに返事をした。
 確かにロクな説明もせずこういうことに付き合わせたトシハルに対し不満を感じなかったではなかった。だがそれは何か怒りとは違う感情だったと思う。尤も本来あったはずの不満のようなものもトシハルのあの様子を見ていたら、すぐに失せてしまったというのが本音だった。
 正直、見ていられなかった。
「すでにご存知かと思いますが、ここは定期便の本数が少なくてね。だから、もうお別れには間に合わないだろうってみんな諦めていたところなんです。本当は待っていてあげたいですけれど、いつまでもそのままにしておくことも出来ないし……」
「……はい」
「結構多いんです。本土に渡った親類が死に目に会えなかったり、顔も見れないってことがね。貴女という方の助力を得られたトシハルさんは本当に運がよかった」
「…………」
「昨日は仮通夜……といってもみんな準備でバタバタしていてね。今日ちゃんとした通夜祭を開く予定です」
 ミズナギは行程を説明し、再び歩き始めた。
「お別れは明日の昼からです。この島には火葬場なんてないからみんな水葬になるんですよ。みんなで船で沖へ出て、棺を沈めるのです。この島の人たちは昔からみんなそうしてきた」
 そうして細い道は下りに入ってさらに細い道になった。アカリは木の根っこの階段を踏みしめながら下っていく。ダイズがばさっと飛び立った。行く場所がわかっているのだろう。
 五分ほど行くと、少し開けた小さな砂浜に出た。彼ら以外に人はいなかった。
 わあ、とアカリは小さく声を上げた。岩壁に囲まれたこの小さな砂浜は言うなれば秘密のプライベートビーチといったところだった。先ほど飛び立ったピジョットが一足先に待っていた。白い砂浜に小さな波が打ち寄せては引いていく。こういう島であの人、トシハルは育ったのだな、とアカリは思った。
「アカリさん、こちらです」
 ミズナギが言って、岩壁に口をあけた洞窟を指差した。
 入り口は畳二枚分ほどの大きさだろうか。アカリ達が入っていくと、カサカサと音を立てながら一匹のヘイガニが奥へ退却していった。
「大潮の時になるとここまで海水が入ってくるのですよ」
 ミズナギが言った。
 彼は懐中電灯を取り出す。ゴツゴツとした凹凸のある足元に注意しながら、進んでいくと、カチリとスイッチを入れた。洞窟の壁を照らす。時折、碧いものがキラリと光った。
 ミズナギがピッケルとハンマーを取り出す。
「さあ、アカリさんどれにしましょうか。それともやってみます?」
 アカリが頷いたので、彼女にも同じものを渡すと岩壁を崩しはじめた。カツン、カツンという音が洞窟に響いた。
「前に一度化石が出たことがあってね。壊さないように周りを崩すのには結構気を遣いました」
 ミズナギは壁を崩す。口を動かしても手を動かすことを忘れなかった。
 トシハルが採掘の名人と言っただけあってその手際のよさは格別だった。みるみるうちに周りの不要な岩が削られていき、碧く輝く石が露わになっていった。
 ガキンと最後の一撃を食らわせる。ポロリと彼の手中に石が落ちた。
「一個目です」
 ミズナギが石を掴み得意げに言う。アカリも負けじと岩壁を叩いた。なかなかミズナギのようにはいかない。コツをつかめばなんてことはありませんよ、とミズナギが笑う。
「そうそう化石って言えば、シンオウって地方に行くとこういう場所がたくさんあってね。化石もたくさん出るんですって」
「シンオウ……」
「ホウエン地方がこの国の南端なら、あっちは北端ですね。生息するポケモンもずいぶん違うそうです。アカリさんはトレーナーだから一度行って見るのもおもしろいかもしれませんね」
 そう言って彼は二個目の採掘にかかった。ピッケルを壁に突き立てる。再び洞窟に音が響いた。何が面白いんだという感じで鶏頭は退屈そうに見ていたが、二人はしばしそれに熱中した。
 急いでいないなどと言ってしまったが、来て正解だったかもしれないとアカリは思う。あのまま葬式気分でも気が滅入るばかりだったろうから。ミズナギの心遣いに彼女は感謝していた。
「私にとっても博士は恩人なのです」
 と、ミズナギは言った。
「昔ちょっといろいろありましてね、行く当てもなくて島に流れたついた私の面倒を見てくれたのが博士だった。思えばあの頃からもうトシハルさんは博士にくっついて回っていたな」
 ミズナギは懐かしむように昔を語った。
「だからね、私は嬉しいんです。貴女がトシハルさんを連れてきてくれて」
 ミズナギがアカリを見た。今度は手を動かさず、そう語った。
 アカリが石を二、三採掘したところで、彼らは洞窟から切り上げた。その間にミズナギは十個くらいを余裕で掘り出しており、麻の袋に入れると、アカリに渡してくれた。こんなにいいのだろうかとアカリは思ったのだが、トレーナーさんじゃないと使わないからとミズナギは言った。
 洞窟を出る。鶏頭があまりに暇そうだったので、遊んで来いと言って他のポケモン達と一緒に洞窟の外に出しておいたら、砂浜がバトル場と化していた。ダイズに擦り寄るレイランを尻目に、二対二に分かれた獣組と人型組が互いに技を繰り出していた。目の前で上空から振り下ろしたブレイズキックが炸裂し、砂浜の砂が舞い上がる。見れば砂浜のあちこちが穴だらけになっており、アカリは急いでそれを埋めさせた。
「本土のトレーナーさんはワイルドですねぇ」
 そう言ってミズナギは笑い、アカリは苦笑いした。もう、油断も隙もないんだから、と砂浜を埋め終わると急いでポケモン達をボールに戻す。ダイズがやれやれと言った風に足でばりばりと冠羽の付け根を掻いた。
「……あの……お別れは明日のお昼でしたっけ」
 静けさの戻った砂浜でお茶を飲んでいると、不意にアカリが尋ねた。
「ええ、そうですが」
 ミズナギが答える。
「でもアカリさんはいいんですよ。どこかでゆっくりしていらっしゃったら」
「でももう目的のものは手に入れてしまったんです」
 麻袋に入った水の石をゴロゴロさせてアカリは言った。
「いえ、お邪魔ならいいです。私は部外者だし。……でも、なんか気になってしまって」
「トシハルさんが?」
「……まあ……、そんなところです」
 アカリは麻袋から碧い石を一個取り出す。光の下で透かして見てみた。取り出したのは自身が採掘したものだった。掘り出すのがへたくそだから傷だらけだった。
「お優しいんですね?」
 とミズナギが問いかけるように言った。
「暇なだけです」
 と、アカリは答えた。
「部外者だなんて思ってませんよ。貴女はここまでトシハルさんを連れてきてくれた。だから部外者なんかじゃありません」
 日差しが強い。水筒から冷たい茶をもう一杯注いでミズナギは言った。
 ピジョットがばさりと飛び立った。水平線の方向を見る。小さく、小さくだが二匹のホエルオーが横切っていくのが見えた。

 落ちる日が島から見える水平線を赤く染める頃、集会場に人が再び集まりだした。
 黒い服を着て訪れたその多くは大人、それも四十や五十、それ以上の者達だった。子連れや若者は少なかった。
 この島に寺は無く、代わりに島の神社の神職がやってきて、神道式の通夜祭を執り行った。参列者は神職から島に自生する木の枝の玉串を受け取ると作法に従いそれを回し、玉串(たまぐし)案(のあん)に置いていった。二回礼をし、しのび手で二回、かしわ手を打つ。そうしてさらに一礼。参列者が入れ替わるたびに同じ動きを繰り返した。血縁者のいない博士の遺族席、神職の意向でそこに座ったのはトシハルとピジョットのダイズだった。
 玉串が積み重なってゆく。トシハルは参列者に何度も何度も頭を下げた。
 そうして通夜祭はしめやかに執り行われていった。


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