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  [No.2740] 少年の帰郷(11)〜(13) 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/21(Wed) 18:42:55   160clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:クジラ博士のフィールドノート】 【少年の帰郷

11.

 太陽が南に高く昇っていた。
 立派な体格の男達が博士の棺を運び出す。多くの島民達は船付場に集まると、それぞれが小型の漁船に乗り込んだ。
 エンジンがかかる。最初に博士を乗せたボート大の船が出発すると、後から他の船達が波を切裂きながら走り出した。
 この島では誰かが死ぬと島からしばらく走った沖合いに行き、そこに死者を沈め、水葬を行ってきた。だから島には火葬場が無い。ホウエンの離島やサイユウ付近では珍しいことではなかった。旧い時代、海の信仰の影響下にあった彼らは母なる海に自らの身を還すことを良しとした。今ではだいぶ減ってしまったものの、海を信仰した民族の末裔である彼らの一部はその伝統を受け継いだ。それは資源の限りある島における彼らなりの工夫でもあった。
 今日、海に沈むカスタニは島の生まれではない。だが天涯孤独の身であった彼は、生前からフゲイ島式の葬儀を強く希望していたという。自分には生まれ故郷の縛りは無いから。私の終の棲家はここだから。彼はよくそう言っていたという。島民達もそれをよく知っていたから、手続きはいつもの島式に滞りなく行われた。
 人々は朝食を済ますと、海岸に繰り出した。そこで彼らは花を探した。橙色のユリであるハマカンゾウ、濃いピンクの可憐な花を咲かすハマナデシコ、上品な白のコマツヨイグサ――岸に咲く様々な海岸植物の花を摘み集め、去る者への手向けとした。出棺するその前に、島の住人達は一人、また一人、棺に花を入れていった。トシハルが入れ、ミズナギが入れ、アカリが入れた。ダイズも一輪入れた。棺の中が花で満たされると、彼らは棺に釘を打った。それが終わると、棺が男達によって運び出され、小さな船に乗せられた。
 博士を乗せた船が走っていく。同じ船にトシハル、それに昨日の通夜祭を行った宮司姿の神職など限られた数人が同乗していた。アカリとミズナギはその様子を別の船で追いかけながら見守った。
 島が見えるくらいの、ぎりぎりの沖合いで船は止まった。博士の船の上で神職が御霊の食事である餞を出し、故人に差し上げる儀式を行った。それが終わると祭詞(さいし)奏上(そうじよう)を行った。故人の略歴を神道作法の下に読み上げる行為だった。次に行ったのは誄歌(るいか)奏楽(そうがく)、故人を慰めるしのびうたの奏楽であった。神職が笛を取り出し吹くと、その見習いの出仕が太鼓を叩いた。笛が奏でるのは旧い旋律だ。それは古来より島に伝わる海の音楽だった。その音が鳴っている間、島民達が手を合わせた。
 神職が口から笛を離す。音が止む。男たちが棺を持ち上げる。棺を頭のほうから徐々に水に浸からせた。棺の横に開けられた海水の進入口から海水が入り込み、棺の中へ流れ込んでいく。
 トシハルは押し黙ってそれを見つめていた。
 そうしてかつて博士が言った言葉を思い出していた。

「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
 島から若者が出て行ったあの日、少年は博士にそんなことを聞いたことがあった。
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼いトシハルの頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
「トシハル、私はどこにも行かない。この島に生きて、この海に身体を還すつもりだ。この島の人達が代々そうしてきたように」

 ああ、これは覚悟だったのだ、とトシハルは今更に理解した。
 あの頃からもう博士は自らの生き様を決めていた。死に方を決めていたのだ。
 頭から入れた棺が十分に重くなると、やがて足のほうまで海水に浸からせて、棺は完全に彼らの手から離れる。沈みやすいよう二重構造の下段に石を敷き詰めたその棺はほどなくして水底へ落ちていき、見えなくなった。
 神職は島を出る前に棺を沈める作法を説明していた。海面を鏡に見立てるのです、と彼は説いた。そう考えると海に沈むことは、天に昇ることと同義になります。ですから頭のほうから沈めるのもそういうことです。頭から天に昇っていくという発想がそこにあるのです、と。
 碧の海に沈んだ棺はもう見えない。もう手が届かない空へ昇っていったのかもしれない。そのようにトシハルは思った。
 再び島民達は手を合わした。神職が餞を海に撒く。次いで酒瓶を開ける。島で育ったサトウキビを黒砂糖へと加工し、それらを醸造した黒糖焼酎だった。神職は瓶を振るようにして中身を海へ流し込む。黒糖で出来たその酒は生前の博士が好んでよく飲んでいたものだった。
 シュゴッ!
 突然近くで潮吹きの音がして彼らは振り返った。見ると大きな影が水面に浮かんでいた。
「ホエルオーだ!」と、誰かが叫んだ。
 近い。一匹のホエルオーが船団のすぐ近くまで寄ってきていた。
 海面に半分ほど身体を出し、ホエルオーがじっとこちらの様子を伺っている。
 トシハルはその個体を見る。Y字の尾鰭にサメハダーの仕業と思しき噛み傷がついていた。
 あっ、こいつは192(イチク)番(二)じゃないか。
 とっさにトシハルはそのホエルオーを個体レベルで判別した。この傷は間違い無い。博士は見つけたホエルオーに番号で名前をつけ、個体識別をしていた。そのうちの何頭かは分かりやすい目印があるから、ぱっと見て分かるのだ。船を走らせていると時々近づいてくる好奇心の強い個体だったから尚更だった。
 そんなイチクニだからしてきっと博士の顔だって覚えていたに違いない。だから気が付いていたのかもしれない。ここ数日博士が船に乗って海に出なかったことを。そして生物的な何かでもってこの状況を悟ったのかもしれなかった。
 トシハルはなんだか情けなくなった。自分にはイチクニに向き合う資格が無い。かける言葉がない。そう感じてずっと下を向いていた。
 ホエルオーはしばらくじっと船団を見ていたが、やがて方向を転換する。その余波で少しばかり漁船が揺れた。彼は沖合いへゆったりと泳いでいった。そうして何十メートルか離れたところまで行くと身体をひねり、巨体を中空に出すとブリーチングをした。海面が巨体に叩かれる。大きく高く水が上がって、おおっと人々が歓声を上げた。
 もしかしたらイチクニなりに博士を弔っているのかもしれない、とトシハルは思った。
「……さすがはクジラ博士の葬儀でございますなぁ」
 トシハルの隣で神職が感慨深そうに呟く。その上空でダイズが輪を描き、飛んでいた。
 船が再び島へ戻り、人々は散っていった。だが、それで終わりというわけではなかった。彼らは各家庭に戻ると仕込んでいた料理を温めたり、仕上げたりした。そうして日の落ちる頃になってまたぞろぞろと集まりだした。
 ある家庭は鍋物を持ち込んだし、ある家庭はご飯ものを持ち込んだ。また、ある家庭は魚料理だった。バイクに乗って、黒糖焼酎を持ち込んだのは島の酒造所の息子だった。彼らは通夜祭を行った集会場に御座を敷き、小さな低いテーブルをいくつも並べた。各家で用意してきた料理を持ち込んで、そこは直(なお)会(らい)の場となった。
「さあさあ、どうぞ一杯」
「これはどうも」
 島民達は酒を酌み交わす。そうして故人の思い出話に花を咲かせた。
「博士は結局いくづだったん」
「たしが九十だったと思ったがね」
「九十! そんりゃあ大したもんじゃ。大往生じゃなあ」
「学者ゆーんは好きなことさしとるけんの。長生きだって聞いたこどあるべ」
「そーいやあ、あん人がやってきた時も夏頃だったわ。えれー暑っちい日だったの」
「ああ、そうじゃった。あん頃ァ随分ウワサになっとったわ」
「アンタじゃなかったが? 一ヶ月もしたら帰るだろうっつったんは」
「そんなごとば言っとらん」
 思い出話は自然と進んでいく。酒も手伝って会話は大いに盛りあがった。
 元来博士は島の人間ではなかった。だが、島の人々に愛されていた。その光景を見てトシハルは少しだけ救われた気持ちになった。
 酒の勢いは止まらない。トシハルやアカリに飛び火するのにも時間はかからなかった。
「おい、トシい! ちょっとこっち来いや」
 と、いうような感じでトシハルは真っ先に巻き込まれたし、
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ。いくづなん」
「どこから来たん?」
「トシとはいつ知りあったん?」
 などとアカリは質問攻めにあった。
 さらに人波を掻き分けてやってきたのは島の子ども達だった。
「あっ、いたいた! このおねえちゃんだ!」
 などと一人が叫び、それにつられて何人かが集まってきた。アカリは袖を引っ張られせがまれた。
「ねー、おねえちゃん、トレーナーなんでしょ!?」
「ポケモン見せて!」
「見せてー」
 島の噂の広がりは早かった。うきくじらに乗ってポケモントレーナーがやってきたという噂はすでに島中に伝わっていたらしい。子ども達にせがまれてポケモンを出したのがさらにまずかった。
「おうおうにいちゃん、いけるクチだねぇ」
 などと言われ鶏頭は絡まれて、酒を飲ませられた。
「お姉さん、美人じゃの。うちの息子とどうだね」
 などとサーナイトが縁談を迫られる始末だ。
 オオスバメのレイランはあっちこっちで翼を広げリボンを見せびらかしているし、ライボルトとグラエナの獣コンビが酒ですっかり出来上がってしまい気持ちよさそうにひっくり返った。失敗した、とアカリは思った。
 さらに、島の老女がアカリに追い討ちをかけた。
「トシが連れてきたっつー嫁さんはあんだか? んでー、式はいつかねェ」
 などと尋ねてきたものだからアカリは参ってしまった。
 そのような関係ではないと説明したものの、島の老人にはそのあたりのニュアンスがちっとも伝わらない。酒が入っていた所為もあるのだろうが。
「むがし使った衣装もあるでなァ、貸してやってもええぞい」
 などと言われ、アカリはただただ苦い愛想笑いを浮かべた。
 アカリが島の老女に手を焼いているその向かい側にはトシハルが座っている。時々島民達が、話しかけるが、心ここにあらずといった感じで生返事をするばかりだった。皿に盛り付けた精進落としの料理にはほとんど箸がつけられていない。置かれたグラスにも注がれるだけ注がれたままの黒糖焼酎がそのままになっていた。島の者が注いでもトシハルが飲まないから、いつまで経っても変わらなかった。
 神道の考えでは死は「穢(けが)れ」だ。それは表面的な不潔、不浄を意味しない。生命力が損なわれた状態、すなわち「気枯れ」と同義だ。死は悲しみによって人を気枯(けが)す。だからそれは穢れと呼ばれる。
 明らかに気を枯らしているトシハルは空を空しく見つめ、語らない。向かいに座るアカリは、ときどきそれをちらちらと見ていたが、彼女もかける言葉が見つからなかった。トシハルの隣でピジョットのダイズが心配そうに主の顔を覗き込んでいる。
 するとそこへ割って入る者があった。白髪の、けれどしっかりとした体格の老人だった。老人がトシハルの横へすっと座った。
「よおトシ、久しぶりじゃの」
 赤い顔をした男はやはり焼酎のグラスを片手に持っていた。
「あ、町長さん」
 トシハルは我に返ると向き直り、少しかしこまって挨拶をした。
 どうやらフゲイ島の集落、フゲイタウンを取り仕切る人物であるらしかった。
「これはどうも……ご無沙汰しております。昨日はろくにご挨拶も致しませんで」
 彼は急に日常に戻されたように言葉を発した。
「気にすることはなか。みんなおめェは来れんだろと諦めてたとこだったからよ。ほんまに帰ってこれていがったわ。母ちゃんと父ちゃんもひさびさに会ったから安心したべ」
「ええ、博士に顔を見せてから……結局ちゃんと顔を合わせたのは通夜祭の終わった後でしたけれど」
 トシハルはうつむき気味に言った。
「ん……そうか、そうか」
 町長はうんうんと何度も頷いた。
「んで、本題だがなぁ。実はお前に博士からの預かりモンがあってよ」
「え……。僕にですか」
 トシハルはにわかに顔を上げた。向かいからその様子を伺っていたアカリは料理をつつきつつ、彼らから注意を逸らさぬようにする。
「ニ、三年か前に渡されてたねん。ま、博士もだいぶ歳だったからの。いろいろ考えてたんだと思うわ」
 町長が続ける。トシハルに差し出されたのは丈夫そうな厚い紙で出来た小さな封筒だった。
 封筒には博士の印鑑で封がしてあった。表面に手書きで「継海俊晴殿」と書かれている。見覚えのある字。間違いなく博士の字だった。
「博士は預かれとだけ言ってきたが……まぁ、いわゆる遺言ってぇヤツだな。中身は知らん。わしは預かっただけだけん」
「博士が、僕に……?」
「まあ、博士の研究つってえも、扱いがわかるんはおめーだけだしの」
「……」
 トシハルは封筒を見つめたまま再びうつむいた。
 そんなことは無い、という気持ちがあった。島の人間は知らないのだ。この広く大きな世界には優秀な人間などいくらでもいるのだ。自分は特別などではない。あそこに自分が立っていたのはたまたまだ。
 何より自分は逃げ出した。博士の下から逃げ出した人間なのだ、と。
「そらおめーが島出て何年かはカントーやらジョウトやらの大学生ば受け入れとったがの。数年前にそれもやめちまった。ま、だいぶ歳だったしの」
 町長は続ける。ここ何年かはミズナギに頼んで船を出していたらしい。博士はたった一人で船の甲板に立ち、うきくじらを追っていたらしかった。
「まあ、とにかく渡すもんは渡したからよ」
 と、町長は言った。近いうちに開けて確認してくれ。あとはお前に任せるから、と。
 そうしてしばらくの間、世話話をすると町長は去っていった。
 トシハルはずいぶんの間、封筒に書かれていた名前を無言で見つめていた。が、やがてふらりと立ち上がりそっと直会の場を後にした。次いでピジョットが集まった黒い服の人々の間を縫うようにし、とことことくっついていくのが見えた。
「バク、あんたは適当に飲んでていいわ」
 アカリはテーブルに突っ伏してぐったりとしている鶏頭に告げる。この夏、激戦のリーグを勝ち抜き、駿足の猛火と恐れられたバシャーモと同じポケモンとは思えぬ泥酔ぶりだった。元々顔が赤いのでどの段階で酔いが回ったかもよくわからない。ただあまり強くはなさそうだと「おや」であるアカリは思った。
「悪いけどお守りをよろしく」
 情けない姿の鶏頭とは反対に、一升瓶二本を空にしてケロリとしているサーナイトにそう告げるとアカリも直会の場を後にする。集会場を出てそっと彼らの後をつけることにした。







12.

 終わりに近づいた夏の夜の下、チリチリと虫が鳴き始めていた。
 街灯の灯らない暗い道をトシハルが歩いていき、ピジョットがとことことついて行く。夜空を見上げると、島の突端で灯台の光が回転しているのが見えた。
 何を目指して歩いているかもよくわからなかった。ただあの場で封を切ることが躊躇(ためら)われ、人気の無いところに行きたいと彼は思った。道行く間、トシハルは手に握る封筒の所在を何度も何度も確認した。
 石垣の並んだ道を通り過ぎ、海を横目に見ながら緩やかな坂道を上った。何十メートルか後ろからアカリがついてゆく。見失いそうになりながら一人と一羽を追いかける。
 バサバサッと何かが横を通り過ぎた。
「なんだ。ズバットか」
 彼女は少し驚いたが、すぐにその正体を知ってほっとした。ポケモン達を集会場に置いてきてしまっていた。尤もこういった離島に強力なポケモンがいるとも思えなかったのだが。
 翼の音が通り過ぎて、再び虫の音だけになる。アカリは再びトシハルの姿を追った。
 結局、三十分あまり歩いただろうか。一人と一羽、そしてそれを追う一人が辿り着いたのは島の小高い丘の上にある神社だった。浮鯨(ふげい)神社。この島の産(うぶ)砂(すな)神(がみ)、島(しま)鯨(くじらの)命(みこと)を祀る社だ。あたりはすっかり暗かったが、神社の拝殿に続く石の階段を一対の灯篭が照らしていた。
 丘の緩やかな石段をトシハルが上がってくる。ダイズがぴょんぴょんと後に続いた。トシハルは右脇にある手水(ちようず)舎(や)に立ち寄ると、封筒をダイズに預け、柄杓(ひしやく)を持ち、左手からかけはじめた。普段は神社に行っても手水などしもしなかったが、さすがに葬儀の後だからという気持ちが働いたようだった。
「あ、アカリちゃん」
 そこまできてやっと後ろをつけてきた存在に彼は気が付いた。アカリが緩やかな石段を上り、神域の入り口である神明鳥居をくぐって姿を現したからだった。
「ごめんなさい……何か気になっちゃって。その」
 神社までは一本道だ。なんとなく内緒でつけてきてしまったもののここまでだろうと、さすがにアカリも観念した様子だった。
「邪魔だったら戻るけど」
「いや、いいよ」
 アカリが来た方向をちらりと見つつ伺いを立てると、トシハルはそう答えた。あの場で開きたくなかっただけなのだ、と。
 手水を終えると、拝殿に登る。からんからんと鈴を鳴らして、トシハルは手を合わせた。
「願い事?」
 アカリが尋ねる。
「特に無い。ただなんとなくだよ。……でもそうだな、導いて欲しいのかもしれない」
 と、トシハルは答えた。
 電気式の灯篭がブブブ、と点滅しながら淡い光を放っている。トシハルの影が大きく、点滅しながら拝殿の平入りに映し出された。
 この社で祭祀されている産砂神、島鯨命は遠い昔、うきくじら、たまくじら達を引き連れ、この地に降り立ったのだと伝えられている。うきくじら達はその昔、もっと内地に近い海に暮らしていた。けれど人間達が本来約束された数以上にくじら達を獲るようになった。見かねた島鯨命はくじら達を引き連れて、新天地を探す旅に出た。旅路の果てにたどり着いた場所がここ、フゲイ島の海域であるのだという。
 だからこの社の神様は導きの神様なのだ、と島の神職はよく言っていた。産砂神はその土地の守り神で、島に生まれた人々を誕生の瞬間から見守ってくれている。人生で岐路に立った時はその力を貸してくださる。生を全うした時には祖霊の世界へと導いてくれるのだ、と。
 ふざけた話だと彼は思う。自分は島を出た。神様が選んだこの土地で生きる未来。それに希望を抱くことが出来なくて、逃げ出した。その自分が導きを求めて、神頼みをしているのだ。情けない話ではないか。なんとも愚かで滑稽ではないか。
 それにしてもまた減ったのではないか、とトシハルは思う。思えば昔からその兆候はあった。そして自分が島を出た約十年前も、今も、人の流出は止まっていないようだった。若い者はみんな島の外に飛び出していってしまう。昨日の通夜祭に出席した人々、今日の水葬や直会に参加した人々に手や顔に皺を刻んだ白髪交じりの者のなんと多いことだろうか。
 変わっていく。望む望まざるに関わらず移り変わっていく。ずっと同じでいることは、出来ない。
 トシハルは二礼をするとパンパンと二回手を打った。さらに一礼をする。
「すみません。少しばかりこの場をお借りします」
 ぼそりとそう呟いた。
 そうして彼らは拝殿に続く階段に腰掛けた。灯篭の光を効率よく受け取るにはそこがよい場所だったからだ。
「博士からの手紙なんですって?」
 アカリが確認をする。
「どうやらそうらしい」
 と、トシハルは答えた。
 二人と一羽はトシハルを中心にして座り、封筒に注目した。
 トシハルが慎重に封を切る。丈夫な紙で出来た封筒はきれいに破くのに少々難儀した。結局、上部の封ごと切り離したその切り口はジグザグマがあっちこっち歩いたような形になった。細い封筒のその口に指を突っ込んで中身を引き出す。それはまるで神社でおみくじを引く感覚に似ていた。
 取り出したのは一枚の紙だった。端と端を合わせて折りたたまれたそれをトシハルは開く。紙の面積の割りに中の文は簡素だった。

 継海俊晴へ
 封筒に入ってるキーをお前にやる。
 そいつで開いたところに入ってるものもお前にやる。
 お前の好きなようにするがいい。
                           □□□□年○月×日 糟峪忠俊

「…………?」
 おみくじの結果より少ない文章量、はっきりとしない文面。名前に少し被さるようにして小さな判が押されていた。二人と一羽が顔を見合わせる。
「キー?」
 トシハルは封筒を逆さにして、口を地の方向に向ける。ポトリと何かが落ちた。
 そうして彼は自らの右手の平でそれを受けとめた。小さな鍵だった。
「何の鍵?」
「わからない」
 アカリが尋ねると、トシハルはそう答えた。
 馴染みのある鍵というのはいくつか思い当たる。たとえば実家の鍵、博士の研究所の鍵、それに博士所有の小型船の鍵――しかし封筒から転がり落ちてきたこれはそれのどれにも当たらないように思われた。
「本当に心当たりはないの?」
「ないな。見たことも無い鍵だよ。ダイズ、お前知ってるか?」
 トシハルは念のため聞いてみたが、ピジョットはクルルゥ、と鳴いて首を傾げるだけだった。
 親指と人差し指でつまみあげたそれを、灯篭の逆光に晒す。えらく不可解な遺言(メツセージ)だと思った。
「知りたければ、探すしかない……か」
 トシハルは呟く。そうしておそらく何かがあるとすれば差し当たり研究所だろうとも考えた。
 博士の意図がよく分からなかった。だが、入っていたものが研究所の鍵でないとすればそういうことなのだろう、とも彼は思った。期待などしていなかった。していなかったはずだ。逃げ出した自分、裏切った自分に資格などないのだから。
 けれど知りたいとも思った。鍵で開いたその先にあるもの。それが自分に何をもたらすのかを。
 博士はもういない。旅立ってしまった。行き先は海の底か、はたまた鏡写しの天界か。
 情けない話だ。それでもまだ、博士に与えられることを望んでいる。博士が道筋を示してくれると期待している。
 もと来た方角を見ると、行きも見えた灯台が回転しながら光っていた。自分の居場所はここだと告げる灯台。行くべき方向を告げる灯台――。
 導きが必要なのだと彼は思う。船に灯台の灯りが必要なように、導きが要るのだと。










13.

 少年の家にあるテレビは旧式だった。音が悪いし、よくノイズが走った。
 尤も少年は幼い頃はそれが当たり前だと思っていたので、気にも留めなかったのだが。
 あの頃の日曜朝は楽しみな時間だった。時間になると少年はテレビの前に正座待機した。毎週楽しみにしている番組があったから。
 進化戦隊ブイレンジャー。
 五人の男女が五色の戦士に変身し戦う戦隊活劇、特撮モノだ。数ある戦隊モノの中でも爆発的な人気になったシリーズで今はリメイク版が放送されている。
 炎を操る熱きブイレッド、水を操る麗しきブイシャワー、雷の戦士高速のブイサンダー――中でも少年が特に好きなのは漆黒の戦士ブイブラックだった。イーブイの進化系、ブラッキーをモチーフにしたブイブラックのクールな戦いに彼は夢中になった。

 むしゃ。
 アカリは朝食に出されたナスの漬物にかじりついた。出された味噌汁をすすり、白いご飯にパクつく。海風の心地よい畳敷きの和室、突然の来客にあてがわれた民宿の一室で彼女は朝食を摂っていた。
 同時に彼女は朝のテレビ番組を見る。トレーナーになってからというもの、彼女の曜日感覚は薄れていった。だが、それはテレビ番組によって補正されるようになっていた。朝に戦隊モノといえば日曜日に決まっている。それは地方によって異なるのだろうが、少なくともアカリの中ではそうだった。
 進化戦隊ブイレンジャー エボリューション。
 バックの激しい爆発と共にテレビに踊った題字にはそう書かれていた。アカリ自身はよく知らないが、かつての人気シリーズ、そのリメイクらしい。新たな戦士を二人加えて臨む意欲作だ。テーマソングが流れ、各色の戦士が決めポーズをとる。今日も悪の組織が何かを企み、怪人を送り込む。戦士達は協力しながらそれをやっつけるのが毎回のパターンだ。
 今週の敵はフーディンモチーフの怪人、フーディーニだ。化学教師に化けたフーディーニは頭をよくしてあげよう、ポケモンバトルも勝てるようになるなどと言い、体液から作った怪しげな薬と自作マシンで少年少女とそのポケモン達を洗脳していく、というものだった。強力な念力に苦戦する戦士達。だがそこにブイブラックが切り込んでフーディーニを真っ二つにした。ブラッキーの力を宿すブラックにエスパータイプの技は通用しない。炸裂する必殺技。激しい爆発音。怪人は跡形もなく消し飛んだ。エンディングのクレジットが流れ、次回予告。今週の放送はここで終わった。
 彼女はチャンネルを変更する。局番の若いチャンネルでは国営放送が天気予報を流していた。
「ホウエン地方は本日は朝昼共に晴れ模様でしょう……」
 と、国営放送は告げていた。続きがあったようだが、アカリはそこでテレビを切った。
「ごちそうさまでした」
 彼女は台所に食器を下げると、一旦部屋に戻りトレードマークの赤いバンダナを締めた。黄色いポーチを腰につけ、古ぼけたタイルを敷き詰めた玄関で靴にかかとを入れていると
「あら、アカリちゃんお出かけ?」
 と、声がかかる。旅館の女将だった。
「ええ。ちょっとそこまで」
 アカリは返事をする。
 島では色々な意味ですっかり有名人になってしまったアカリは島民達の注目の的だった。
 足を靴に押し込んでかかとを入れる。コンコンと地面を靴で叩いた。女将がにこにこしながらその様子を見守っていた。
「私にもねぇ、娘がいるのよ」と、白髪交じりの女将は言った。
「今は結婚してカイナシティにいるの。元気にしているかしらねぇ」
 そう言って女将は少し寂しそうに笑った。

 トシハルとの集合場所は港の船着場だった。
 日光が降り注ぐ民家の石垣の塀に囲まれた道を歩きながら、アカリは海の方向を目指す。五分ほど歩くと申し訳程度に舗装された道路があり、すぐ下は急な斜面、そして海だった。浅瀬にマングローブが自生しており、気根(きこん)を天に向け、伸ばしていた。
 道路を下るように歩く。ほどなくして船着場が見えてくる。待ち合わせの人物は、降り注ぐ太陽の下、大きな鳥ポケモンと共に、海の向こうを眺めていた。
「何か見えるの」
 アカリは尋ねる。
「300メートルくらい先かな。ホエルオーが一匹。それと50メートルくらい先にホエルコが二匹」
 と、トシハルは答えた。
「あ、今潮を吹いた」と、続けざまに彼は言った。
「…………」
 アカリはじっとその表情を観察していた。
 集合した彼らは海沿いに歩いて目的の場所を目指す。場所は言わずもがな、研究所だ。博士が何かを隠すとしたらまず真っ先に疑ってかかるべき場所はそこだった。鍵の先にあるものの正体を確かめるべく、彼らはその場所で、鍵に合う鍵穴を探すことになっていた。
 フゲイ島水生携帯獣研究所。蔓性の植物が繁茂し、花を咲かせている研究所の石垣の壁にはそう彫り込んだ看板が埋め込まれていた。建物自体はそう大きく無い。島の平均的な家庭くらいの大きさの建物だ。その昔、人が住んでいた民家を改造して作ったのだとトシハルは説明した。
 じゃらり、とトシハルはポケットから研究所の鍵を取り出す。博士が亡くなって以来、研究所はフゲイタウンで管理をしていたが、町長に事情を話すと快く研究所の鍵を貸してくれた。
 がちゃりと鍵が回った。扉を開く。もう踏み入れることが無いだろうと思っていたそこに、トシハルは足を踏み入れた。
「――…………」
 何か言いかけてトシハルは口をつぐんだ。
 暗い、それに蒸し暑い。雨戸までも閉め切っていたから中は蒸し暑く、暗かった。だから彼らが始めにやったことは雨戸を開き、窓を開いて、風と光を通すことだった。
 アカリはデスクのある研究室の窓を開いたし、トシハルは博士の寝室の窓を開けた。
 暑かったのか、毛布は仕舞われ、枕だけが無造作に転がっていた。もう一週間前ならば博士はここで寝息を立てていたはずだった。
 中に風が通り、光が満ち溢れたころに彼らは研究室に集合した。部屋の中心には大きなテーブルがあった。周辺海域の海図が広げられている。かつては毎日のように海から戻っては、データを整理したその部屋だ。隅にパソコンを置いたデスクとプリンターが並んでいた。
 トシハルが最初に驚いたのは研究室、そして隣のデータ置き場の整然とした整理のされ具合だった。トシハルが出入りしていた頃にあれほどあっちこっちに積み上がっていた書類や本は日付やテーマごとに皆フォルダや箱に収まり、ラックにきれいに並んでいる。床には紙の一枚だって落ちていなかった。あの乱雑で整理されていないかつての部屋とは思えない整頓のされ具合だ。
 ――博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください。
 ――データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません。
 十年前の言葉が今更に突き刺さった。だが、博士は立派にやってみせていた。
 ああ、やっぱり僕など必要は無かったのだ。博士は元来一人でなんだって出来るのだ。トシハルは整頓された研究室を見ながらそう思った。
 天井にホエルオーのミニチュアモデルがぶら下がっている点は昔と変わらなかった。壁には島周辺の海図、そして船で海に出、撮影した何十枚ものホエルオー、ホエルコの写真が貼られ、個体番号がついていた。お別れの時に海から現れた192(イチク)番(ニ)の写真もそこにはあった。歯型がついた特徴的な尾鰭がはっきりと写し出されていた。
「これ、全部博士が?」
 アカリが尋ねる。
「三分の二はダイズかな。残りを博士と僕と半々ってところだったと思う」
 と、トシハルは答えた。
 そうして部屋の中をきょろきょろ見回すと、紐のついたカメラを持ってきた。
「ほら、ここを引っ張るとさ、ダイズが嘴で引っ張ってシャッター切れるんだ。揺れに強いカメラでね、飛んでてもブレないようになってる。だからいい写真はみんなダイズだよ。こいつ空飛べるからさ、反則アングルだろ?」
 首を傾げるピジョットを見ながらトシハルは説明した。博士が特注のカメラを頼んで、ダイズを訓練したのだと。カメラが重かったものだからポッポのうちはかなり苦労した。ピジョンに進化してからは苦にもしなかったけど、などとも説明した。
「こっちは?」
 今度はどこから引っ張り出したのか。アカリが大量の細長い濃い緑色のノートの箱を出し、テーブルに置いた。
「それはフィールドノート。海に出て、記録をとったり気が付いたことを書き留めるんだ」
 トシハルは答える。一冊を手にとってぱらぱらとめくった。様々な記録が博士の字で書き連ねてあった。定点観察の記録が記され、日付が添えられていた。さらに何冊かを手に取りページをめくる。見事に日付順に並んでいた。本来のデータに加え、その日に受けた印象やアイディアなどが事細かに書かれている。気が付くと夢中になってそれを読んでいた。来る日も来る日も碧い海にホエルオーを探す博士の姿が浮かんだ。
「トシハルさんのもあるのかしら」
 不意にアカリが尋ねてきて、彼はドキリとした。
「……どうだろう。もしかしたらデータ置き場の奥にあるかもしれない。博士が捨てていなければ、だけれど」
 トシハルは目を合わさない。自信がなさそうにそう答えた。
「……」
 アカリはしばしトシハルの横顔を見つめていたが、やがて
「まあいいわ。鍵の穴、探しましょう」
 と、言った。
 トシハルとアカリ、それにダイズ。アカリがモンスターボールから出した人型の二匹も加えて、彼らは鍵穴を捜索した。鶏頭が指を指したのは庭に放置された納屋、サーナイトが持ってきたのは錆びた工具を詰めた箱、ダイズが真っ先に確認したのは壁に掛けられた船のキーボックスだった。けれど、そのどれにも鍵はあてはまらなかった。机の引き出しにも鍵はあったけれど、そもそも鍵がかかってはいなかった。
 探してみれば鍵穴は意外と少ない。箪笥やロッカーを開け、隠された秘密の引き出しは無いかと書類の詰まったフォルダを下ろし、壁を見る。もちろんそんなものなど存在しなかった。
 ベッドの布団をひっくりかえし、下に潜って裏を覗いたし、風呂場やトイレなども見てみたが、そんなものはやっぱり無かった。
 まるで火事場泥棒の二人組とその手下達だった。きっと事情を知らない人が見たら、どこかの組織の工作員だと思われるのではないかとトシハルは思った。
 暑い。太陽が南に昇って窓から照りつける。この建物にある穴という穴を確認したが、鍵に合う穴はどこにもない。
「おちょくられてるんじゃないかしら……」
 汗をぬぐってアカリが言う。
「僕もそんな気がしてきたよ」
 下ろしたフォルダをラックに戻しながら、トシハルは同意した。額に汗が滲んでいた。
 そういえば、とパソコンをつける。パスワードは変わっていなかった。デスクトップ壁紙は案の定、ホエルオーの写真でダイズが撮影したベストショットだった。博士が何かの拍子で生き返ったならすぐに研究を再開できるくらいにファイルはよく整理されていた。けれど鍵穴に繋がるヒントは見られない。
「お昼にしようか」
 電源を落とし、汗をぬぐう。眼鏡を拭きながらトシハルは提案した。
「おいしいとこ、知ってるよ」

 研究所から徒歩十分。
 「大衆食堂 海風」という看板がかかった島の小さな食堂に彼らの姿はあった。
 座敷に上がり、二人と三匹がテーブルを囲った。
「ゴーヤチャンプルセット三つ。あと豆腐チャンプルのセットを二つ。それとサイコソーダ五つください。食前に」
 かつて馴染みの客だったトシハルをオーナーはよく覚えていた。はいはいと気前良く返事をすると、すぐによく冷えたサイコソーダを運んできてくれた。
 我先にとアカリとそのポケモン達が手を伸ばす。トシハルは別に渡された銀色のボールにソーダを注ぐ。ダイズがそこに顔を突っ込みごくごくと飲み始めた。多くの鳥ポケモンは水をすくって、顔を上げて飲み込むのだが、なぜかピジョットの系統はそれをしない。頭を突っ込んだまま文字通りごくごくと飲んでいく。トシハルは昔からそれが不思議だった。けれどもトシハルが大人になった今でも、そのメカニズムはよくわかっていない。
 携帯獣研究において何かの成果がある。それが文字やニュースになった時、研究が進んだという表現がしばしば使われる。たしかに研究は進んだ。けれどそれは昔よりはある部分が分かったということに過ぎない。ポケモンはわからないことが多い。調べることは尽きず、無くならない。
 ほどなくして皿に盛り付けたゴーヤチャンプルと豆腐チャンプルが運ばれてきた。バシャーモは器用に箸を使った。サーナイトはスプーンでそれをすくった。ダイズはそのまま皿をつつき始めた。
 懐かしい記憶が蘇る。船を乗り回し、海から戻ってきて、博士とよくこの店に通った。ダイズとトシハル、それに博士。二人と一羽はここでよく食事を摂った。博士はゴーヤより豆腐が入っているほうが好みで、よく注文していた。
 あれから時は流れ、自分は今ここでアカリたちと食事をとっている。ここの匂いも、涼しげな店の雰囲気も変わらないのに。いつからこんなに違ってしまったのだろうと思う。
 ゴーヤを一口、口に運んだ。ほのかな苦味だけは昔と変わらなかった。その正面で、アカリが白いご飯の茶碗を片手にパクパクと口に運んでいる。初めて食事を共にした時もその食欲に驚いたが、本当によく食べる子だと彼は思う。ポケモンリーグチャンピオンというものはエネルギーがいるのかもしれない。
「ねえトシハルさん、食べた後はどうするの」
 皿の上でわずかに残った卵のかかったゴーヤをつつきながら、アカリが言った。
「もうあそこに調べるところなんてなさそうだけれど」
「ううん、そうだなぁ」
 トシハルは手詰まり感たっぷりに口を濁した。
 調べていないといえば、船くらいか。ホエルオー程度の長さの博士所有の船。ミナモかカイナか、もう場所は忘れてしまったのだが、そこで売られていた中古のものを買い取ったと博士は言っていた。今のものは二代目だった。トシハルはもちろんその所在を確認している。朝に港で様子だけ見てきていたから。所有者はいなくなってしまったけれど、船そのものはまだしばらく現役で動きそうだった。
 だが……いいのだろうか、と思う。
「ねえ、博士は船持っていたのよね」
 ミズナギから聞いたのか。あるいはそう当たりをつけたのか、アカリが目ざとくそう言った。
「あ、ああ。持ってる」
 とっさにトシハルはそう返事をした。正直あまり気乗りしなかった。研究所もそうだったが、聖域を侵しているという気持ちがあった。自分は博士から研究所も、船も譲られなかった。それらの資産に関する言及は無く、それは自動的に町の管轄になった。譲られたのはよくわからない鍵、そして鍵で開けられるその中に入っているという本当にあるかどうかもわからないものだけだ。
 その自分が果たして、船にまで乗り込む資格があるのだろうか。トシハルは自問した。
「ね、トシハルさん、船は動かせるの」
 アカリはそんなトシハルの心持ちを察する様子も無く、無邪気に聞いてくる。本当に空気を読まない子だと彼は思った。
「……出来るけど。ここ十年以上触ってもいないよ」
「出来るのね?」
 アカリが追い討ちをかけるように言ってくる。
「まあ、」
 と、トシハルは苦々しく言った。
「じゃあ次は船ね。せっかくだからさ、クルージングしよ。私近くでホエルオー見たいな。島に来たときみたいに」
「…………」
 君はいつだって見れるじゃないか。持っているんだから。そう言いかけてトシハルはますます苦々しい雰囲気を醸し出した。
 けれど嫌だとは言えなかった。この少女にろくな説明もせずに島へ連れてきたことを思い出したからだった。本来の仕事とは関係の無いところに巻き込んでいる。たぶん少女は言ってるのだ。埋め合わせをしろ、と。
「そうだね……そうしようか」
 とトシハルは答えた。
 自分はこんなことをしてはいけないんだという気持ち。それを事情だからで誤魔化すことにした。いつだって流されている。自分で何一つ決断できやしない。するも、しないも、貫けない。
 研究所に戻る。町長から借りた研究所の鍵。それがかかる輪に引っ掛かっていたもう一つの鍵。それが研究所内にある船のキーボックスの鍵だった。かちりと開く。中には船のエンジンキーがかかっていた。
 研究所からエンジンキーを持ち出し、港に降りたったトシハルとダイズ、アカリとそのポケモン達は博士の船に乗り込んだ。
 まず彼らが行ったのは船内の捜索だった。鍵に見あう穴は無いかどうか。それを彼らは捜索した。甲板、デッキからは下に降りていき、寝室、シンク、配電盤……収納。けれども結局それは徒労に終わってしまった。狭い船内はさほど探す場所が見当たらなかった。
 ここもダメか。トシハルはますます訝しげに博士の遺した鍵を見つめた。
「トシハルさん」
 と、アカリが声を掛ける。
「何だい」
 と、不機嫌そうに返すトシハルにアカリは畳み掛ける。
「約束よ。クルージング」
 ふう、とため息をつくとトシハルは航海灯のスイッチを入れた。オイルの量を確認する。十分に入っているようだった。ギヤオイルも確認する。そうやっていくつかの航海前確認をすると、船をつないでいたロープを港から切り離した。エンジンキーを鍵穴に突っ込む。レバーを前に倒す。ブロロ……とエンジンが唸りを上げはじめた。
「アカリちゃん、危ないからきちんとつかまってて!」
 トシハルが叫んだ。
 揺れる水面を切り裂いて船が出発した。船が海水を跳ね上げる。操縦室の上に止まったダイズが目を細めた。船側面の手すりにつかまるアカリとバシャーモの髪が激しくなびき、サーナイトのスカートが風で大きくはためき、思わず彼女はそれを押さえた。
 船はみるみる速度を上げる。船着場から、島から遠ざかっていった。


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