14.
ブロロ、とエンジン音が鳴り響き、船は波を切り裂き進んでいく。数日前まで現役だった船は、持ち主が世を去ったことによりよもや引退かと思われた。だから船自体も誰かの手でこうしてまた海を走ることになるとは思ってもいなかったかもしれない。 天気がいい。波が日光を反射してあちこちでキラキラと輝いている。アカリが後方を見るともう島はかなり小さくなってしまっていた。来るときと逆だ、と彼女は思った。 「アカリちゃん、どう!? 何か見える!?」 後方の操縦席からトシハルが声をかける。 「ううん、だめ! 海しか見えない」 と、アカリは返した。見えるのは青い空、流れる雲。そして碧く広がり波を打つ海ばかりだった。 「ふうむ、もう少し進んでみよう」 トシハルは応える。久しぶりに握る船の舵。それを掴む手の平に汗が滲んだ。心臓が高鳴っている。それをトシハルは感じていた。レバーをさらに前方に倒す。前方に注意しながら、彼は船を滑らせる。 波を掻き分けしばらく南へ直進する。そして、トシハルは自分の視界の許す限りに注意を向ける。競争意識のようなものが働いた。船に乗って、海を見渡す少女はポケモンを扱うプロだ。だが、リーグで扱うほとんどは陸生のポケモン。彼女がホエルオーを持っているとは言え、水生ポケモン、それも野生ポケモンを見つけることに関する分はこちらにあるという気がしていた。負けない。負けるつもりは無い。そう思った。洋上にポケモンを探す訓練ならば、かつて飽きるほどにやっていたのだから。 エンジンレバーを前倒しにしたまま船を進ませていく。バクバクと心臓が鳴り続けていた。まるで何かに目覚めるように。鳥にでもなったかのように見える視界が開いてゆく。それは劇的な感覚だった。ばたばたと身体に当たる風が血となり全身を駆け巡るように。 十年の封印を破るように。 波で船が揺れる、そのたびにトシハルの体が揺れる。船が揺れるその度に腹の底に沈めていた何かが浮かび上がってくるようだった。
「おい、ボウズ。何してる」 かつて炎天下の港に佇む少年に初老の男が声をかけた。 「おじさん、誰?」 島の少年はそう返した。彼は半分べそをかいている。今となっては友達と喧嘩をしたのか、はたまた母親に怒られたのかは定かではない。ただよく覚えているのは、逆光を背負うその男がえらく大きく見えたこと。それと声がなんだか怖いなぁと思ったことか。 そうして「おじさん、誰?」という少年のその質問に男はこう答えたのだった。 「私か? 私はな、クジラ博士だ!」
「……」 その男が近所に住んでいるカスタニという変人だと知ったのは家に帰ってからのことだ。なぜ変人なのかというと母親が変人だと言っていたからだ。「近所に住んでるカスタニって人、変わった人なのよ」と、言っていたからだ。だからトシハルの中でカスタニは変人だった。理由もなく変人だった。今は理由のある変人だと思う。 それにしたってずいぶんな自己紹介だ。カスタニ博士は、カスタニとは名乗らず、クジラ博士と自ら言った。たぶん、島にやってきたときからそう言っていたんじゃないかと思う。カスタニ博士は決めていた。自らはクジラ博士である。そのように決めていたのではないか。今になってそう思う。
大きな初老の男はしゃがみ、少年に目線を合わせると言った。 「ボウズ、お前名前は?」 「……トシハル」 「トシハルか。奇遇だな。私の下の名前にもなトシって文字がついているんだ。もしかしたら同じ漢字かもしれないな」 そう言って博士は少年の頭を撫でた。 そうしてクジラ博士は次に言ったのだ。 「トシハル、船に乗っていかないか。いいもの見せてやるよ」
今トシハルは少女を乗せ、海を走っている。 あの時に見た「いいもの」を少女と一緒に探している。
クジラ博士に会って、船に乗せてもらった。 そう夕食の席で告白したところ、母親は味噌汁を吹き出して、父親は喉に芋を詰まらせた。 その場で「あの人おかしいのよ。近づいちゃダメよ!」などと言われた気がするのだが、少年は言うことを聞かなかった。博士のところに足茂く通うようになった。そうしているうちに母親は何も言わなくなった。 何年か経って父が言うところによると「あの頃お前は友達いなかったからな。だから母さん、実は博士に感謝してんだよ」ということだった。 そうだったろうか、と彼は首をかしげた。博士といる時間があまりに楽しかったから、そういうことはどうでもよくなった。忘れてしまったのかもしれなかった。
「ほう! もう見つけたか。お前は筋がいいぞ!」 途端に博士の声が聞こえたような気がした。
波影に混じって浮かんだ影をトシハルは見逃さなかった。 「アカリちゃん、いた! 南西方向! 350メートル! ホエルオー、ホエルコの混合群だ」 とっさにトシハルは叫ぶ。東ばかりを向いていたアカリは反対の甲板に移った。トシハルがスピードを落とし、南西方向に船を傾ける。 くじら達を脅かさないよう、ゆっくりと船は近寄っていき、50メートルほどまで距離が近づいた時点で、船を停めた。 「これ以上はね、こっちから近寄らないルールなんだ。向こうから近寄ってきた場合は別だけどね」 操縦室にあった双眼鏡を手にとる。アカリに渡してやった。鶏頭が身を乗り出してその方向に目を凝らす。まるで成人女性のようなサーナイトもゆったりと構え、彼らのブローの様子を眺めていた。 「トシハルさん、あれは何番かしら」 研究所の写真で見た個体識別のことをアカリが尋ねたので、トシハルは双眼鏡を受け取った。狭い視野から彼らの特徴を確認していく。 「ホエルオーは三匹、ホエルコは五匹いるね。たぶんだけど、一番小さいホエルオーがサンロック――369番じゃないかと思う。15年くらい前に進化したやつだ。一番大きいのは彼女の母親。中くらいのがその妹だよ。それぞれ260番、263番。ホエルコはちょっとわからない。やつら識別が付けづらいんだ。たぶんサンロックの子どもか何かじゃないかと思うんだけど……」 すると369番が潮を吹き上げた。まるで正解だとでも言っているようだとアカリは思った。 「あ、こっちに来る」 アカリが言った。バシャーモが髪を立て少しばかり身構える。ホエルオー達はゆったりと泳いで、30メートル程の地点まで近づくと、海に潜った。そうして船の下を潜り、50メートル離れたところでまた浮かび上がると去っていった。ピュイイッとピジョットが声を上げた。 「ダイズのカメラ、持ってくればよかったかな」 トシハルは呟いた。そういえば、と彼は記録するものを持っていないことに気が付いた。かつて海に出るときはいつも持ち歩いていたのに。 ポケットを探る。あったのは会社の携帯電話だけだった。これが今の習慣だった。いつかかってくるかもわからないから常に持ち歩いているのだ。無論、この場所は圏外だったのだが、習慣とはそういうものだった。 「…………」 その瞬間に彼は現実に引き戻された気がした。 強い海風が吹く。頭を冷やせというように。風に混じって自らの声がしたのを彼は聞いた。 ――こんな所で何をやってる。お前はもう余所者なんだ。 ――ここで一回記録をとったから何になる。 ――さっさと気付け。お前はもうとっくの昔に愛想を尽かされた。見捨てられた。早く気づけ。 ――お前が捨てたんだ。おまえ自身が選んだのだ。 びゅうびゅうという音に混じるその声を確かに聞いた。 あれだけ早くなった鼓動。それがいつの間にか元に戻っている。 「……戻ろうか」 と、トシハルはアカリに言った。 「もう?」 アカリは不満そうに声を上げた。せっかくいい感じなのに、と彼女は言いたげだった。 「いや別にもう少し走ってもいいけどさ。日暮れまでは時間があるし」 「じゃあ、もう少し。それに……」 「それに、何?」 「昔はよくこうしてたんでしょう。そうしたら何か思い出すかもしれないじゃない」 「思い出す?」 トシハルは呆けた返事をする。 もーう、鈍いわねーという感じで、アカリはつかつかと近寄って来て顔を近づけると言った。 「か・ぎ・よ。鍵穴のヒントよ。元々それを探しに来たんでしょ。何か忘れてることがあるのかも。こうしていれば思い出すかもしれないじゃない」 「……、…………」 トシハルは一瞬黙りこくった。 それでは何か。この少女は己の楽しみのためでなく、今、目の前で話している相手の為に、ツグミトシハルの為に船を出させたとでも言うのだろうか。 「……思い出せるわけないじゃないか」 歯と歯の間から、言葉が漏れた。 「もう僕は昔の習慣も忘れちゃってるんだ。思い出せるわけない。だいたい鍵穴なんてはじめからなかったんじゃないのか。あのとき君だって言ったろ? 博士に担がれてんだよ。鍵穴なんて無いんだよ! 最初から無いんだよ!」 風が吹きすさんでいた。寒い、とトシハルは思う。寒い。ここから去れと言っている様に海は寒かった。もう海は自分のフィールドじゃあない。自分は海から歓迎されてなどいない。 「諦めるの?」 「諦めるも何も、最初から……」 船が揺れている。絶えず動き続ける海。揺れているのは波か、船か。それとも。 「……意気地なし」 アカリが言った。 「貴方はそうやっていつも逃げてるのよ。本当は怖いんだわ。確かめるのが怖いんだわ。博士から絶縁状突きつけられるのが怖いんだわ。博士はもう海の底だっていうのに、いまだに博士の影に怯えてる」 「君に言われたくないよ」 トシハルが返す。こうなるともう売り言葉に買い言葉だった。 「君に言われたくないよ! 君だって逃げてきたじゃないか! 君達の世界から。トレーナーの世界から! 君のパパがどれだけ有名かなんて僕は知らないがな、君だって逃げてきたじゃないか! 君に言われたくない……君に…………」 そこまで言って、しまったと彼は思った。頭に血が上った、と。けれどたぶんそれはその言葉が的を得ていたからで。でも返してはいけなかった。同じ言葉を返してはいけなかった。 目の前で少女がうつむいている。その後ろで、バシャーモとサーナイトが睨み付けていた。 「……ごめん」 うつむいてトシハルが言う。 最低な気分だった。あまつさえ年下の女の子に当り散らすなんて。だが、 「……いいわよ。本当のことだもの」 と、アカリは言った。 「確かにあなたの言うようにしばらくあっちには戻りたくない。でもね、私、トレーナーであることはやめない。やめないわよ」 自分の手持ちポケモンより小さな体から少女は声を張り上げた。 まるで自分を奮い立たせるように少女は言った。 「たしかに私は逃げ出したわ。今立っている場所が嫌で嫌で、逃げてきたの。でも、それでも資格が無いとは思わない」 ずっと考え続けていた。島までの航路の間、ずっと。島についてからもずっと。 一人のトレーナーとしての、自分の行き先を。 そうしてたどり着いたのはシンプルな答えだった。 「だって私、ポケモンが好きだもの。バトルだって好きだもの。ドキドキするもの! だから私はトレーナーでいられると思う。どこにいても、どこに行ってもトレーナーであることをやめないと思う」 叫びが矢になって放たれた。それがトシハルに突き刺さる。 ああ、この子はなんて瑞々しいのだろう――なんて強いのだろう。トシハルは思う。 「だからトシハルさん、一つだけ聞かせて」 「何だい」 「あなた本当に、島を出て行きたかったの? ホエルオーの研究も嫌々やっていたわけ?」 ドキリとした。少女の放った無数の矢。その一本が的の中心を射た気がした。 鈍い痛みが胸を刺した。深く深く突き刺した。 それはたぶん向き合う恐怖に抗う痛みだ。本当の気持ちと向き合う恐怖。矢を放ち追ってきた狩人を目の前にして彼は寒気を覚えた。 捕まる。捕まえられて、毛皮をはがれ、丸裸にされてしまう。 「どうしてそんなこと聞くんだい」 トシハルは尋ねる。声は震えていたように思う。 はぐらかそうとした。刺さった矢を抜かなくては。けれど矢を抜いたなら、きっと傷口からは血が吹き出すだろう。 「どうなの?」 「……そうだよ。僕はもう研究なんてしたくなかった。こんな島早く逃げ出したかった」 そう言って矢を抜こうとした。 けれど抜く前に矢がぼきりと折れ、矢は抜けなかった。矢じりは体に埋まったまま残された。 「嘘つき」 アカリの声が聞こえた。言葉という水が堤防を破って溢れ出す。 「嘘つき。嘘つき……嘘つき!! 貴方って本当に嘘つきだわ。それが本当なら、待ち合わせ場所でホエルオーを探したりなんかしない。研究室でノートを読み返したりしない。私より早くホエルオーを見つけて、それが誰か見分けたりしない!」 洋上に声が響き渡った。誰も見ていないなら耳を塞ぎたかった。痛い。胸に残った矢じりからじりじりと痛みがこみ上げてきた。 「じゃあ、どうしろっていうんだよ」 半ば投げやりな言葉を返すのがせいぜいだった。 見えぬ傷口を押さえる。血が滲んでいる。 「僕は博士から、研究所も、船も譲られなかった。とどのつまりはそういうことだろ。それが答えだろ」 「それは違う。研究所が無いなら作ればいい。船だって手に入れればいいじゃない」 少女は反論する。 「博士は僕を許さないだろう」 「許してくれなくたっていいじゃない」 「僕には資格なんて無い」 「そんなもの、初めからないじゃない!」 「…………」 トシハルはそこでしばし押し黙った。 痛む胸に去来したのは博士のことだった。 ああ、そうだ。資格など初めから無かったのだ。そもそもカスタニ博士が島に来た時からそんなものは無かったのだと。別に博士は誰かに資格を与えられたわけではなかった。ただホエルオーが知りたい。それだけの為にこんな辺鄙なところにやってきて、自らをクジラ博士と名乗った。船を買い、研究所を建てた。変人と言われて、嘲笑と好奇の目を向けられても、クジラ博士であり続けた。 強い人だ。本当に強い人だと、そう思う。 「……僕は強くない」 トシハルは続けた。 「……僕は博士のようにはなれない」 博士のようにはなれない。あの人のように立派には出来ない。僕には出来ない。 かつて少年は博士のようになれると思っていた。このままこうしていれば博士になれる、と。そう信じて疑わなかった。けれど少年は知ってしまった。 「僕は博士には、なれない」 繰り返すように。強調するように言った。アカリは言えない。博士になればいいじゃない、とは言えないはずだ。 「そんなの、当たり前じゃない」 「……え」 「だってあなたは博士じゃないもの」 今更何を言ってるのよ、とアカリは言った。 「………………」 トシハルは目を見開いて、まじまじとアカリの顔を見る。 言葉の綾にひっかかったような、揚げ足をとられたような、ヴェニスの商人に出てくるという金貸しを演じているような気分になった。 「そう、か……」 と、それだけトシハルは言って、そして黙った。 海を見る。心を落ち着かせて、言葉を咀嚼した。 悩みに悩んでいると突然に天から啓示があることがある。わからなかった数式の解法が突如降ってきたような感覚、あるいは絡まった糸がほどけたような感覚。解いてみればなんでもない。複雑なように見えたそれはただの一本の糸だった。 「…………うん、そうだな……」 ぼそりと呟いた。君の言う通りかもしれない、と。 「いや、初めからだ。初めからそうだったんだ」 そうだ、そうなのだ。と、トシハルは妙な感覚に捉われた。 何をこだわっていたのだろう、と。そんなこと前からわかっていたことのはずだ。今更だ。本当に今更だった。 いや、待っていたのかもしれない。 もう船は出されていて。自分の気持ちはとうに向こう岸についていて。 ずっとずっと、誰かがそう言ってくれるのを待っていたのかもしれない。 貴方はもう立っているじゃない。望む場所に立っているじゃない、と。 「それに私ね、トシハルさんが弱い人だとは思わない」 「どうして?」 「誰かから離れるってことは、自由になるってことはさ、もうその誰かには助けてもらえないってことだから」 「…………」 「貴方にとって、博士がどれだけ大きいか、わかってるつもりよ。私にとってはたぶんパパがそうだから。だから、たぶん……だからこそ貴方は、博士から自由になろうとしたんだと思う。博士の名前のしがらみから。それで島を出ていった。私がそうしたように」 一呼吸を置く。雲の流れる空をニ、三の大きな海鳥が通り過ぎてゆく。あの独特のフォルムはペリッパーだろうか。 「トシハルさん貴方、バカだわ」 ばっさりと切り捨てるようにアカリは言った。 「極端とも言うわね。博士から逃れるために好きだったことまで何もかも全部仕舞い込んじゃった。そんな必要なかったのに」 トシハルは十年を振り返る。 思えばポケモンとは関わらぬ職業につき、コンテストにもリーグにも関心を向けなかった。否、向けないようにしていた。感情に蓋をした。 触れる資格が無い。逃げ出した自分には資格が無い、そう思って。 ……思い込んで? 「僕は……」 トシハルは洋上の船の上でつたない声を発した。 彼の視界いっぱいに水平線が広がっている。空と海。青と碧。 それらに彼は問いかけた。
僕は。 僕は、望んでもいいんだろうか。
やり直してもいいのだろうか。 それは許されることなのだろうか。 無いものは手に入れていけばいいだろうか。 それでいいのだろうか。
青と碧は答えない。 空はただ淡々と雲を流していく。海はただ波を起こして、船を揺らし、船体を叩いている。眠っている子どもを起こすように、太鼓のように叩いている。 空と海は答えない。けれども決して否定もしない。 胸に刺さった矢じりは抜けないままで、まだ痛みがあるけれど、いつの間にか風は穏やかになっていた。 「そういえば朝見たテレビでね、戦隊ヒーローが言ってたわ」 しばし黙っていたアカリが口を開き、言った。 「何て?」 「望むものは与えられるものじゃない。自分の力で手に入れろって。黒いのがカッコつけて言ってた」 子ども番組って意外と侮れないわよね、と続ける。 「もしかしてそれ、ブイブラック?」 トシハルは咄嗟にピンときて、尋ねる。 「そう、それよ。トシハルさんも見てたの?」 意外だわ、と言いたげにアカリは返した。 「いや、今朝は見てはいないけど、昔見てたから。君と会った日にリメイクされてるってたまたま知って。だからそれかな、と」 そうだ、たしか昔の放送にそんなものがあった、とトシハルは思い出していた。 いつもバトルに負けてばかりの男の子は、怪人フーディーニの薬で頭脳明晰なトレーナーになる。けれどかわりに洗脳され、悪さばかりするようになってしまった。町中に洗脳を広げる怪人をブラックがやっつける。そうして洗脳が解け、我に返った少年少女達にブラックは言ったのだ。 望むものは自ら手に入れろ、と。 「ブイブラックかっこいいよな。クールでさ。僕はブイレンジャーの中じゃブラックが一番好きだったんだ。でもね……ごめんアカリちゃん」 トシハルは申し訳なさそうに言った。 「へ?」 「そいつ、裏切り者。最終回の五回くらい前で敵のスパイだってわかるんだ」 「…………え。ええ!?」 「僕ァ、ショックだったな。一週間くらいは立ち直れなかったよ」 そう、ブラックには秘密があった。ブラックは敵の送り込んだスパイだった。ブラックの暗躍によって、戦士達の組織は壊滅的な打撃を受けたのだ。 懐かしい日のことをトシハルは笑いながら語った。今だからこそ笑って言えるけれど、当時は大真面目だった。最終回でブラックと仲のよかったブイパープルが彼を許すけれど、トシハルはどうしても納得がいかなかった。 なんであんな奴を許すの? 裏切り者なんだよ。奴は裏切り者なんだ、悪い奴なんだ。 許しちゃいけないんだ。絶対に許しちゃいけないんだ。 そんなことを一生懸命に博士に訴えた気がする。思いの丈をぶつけた気がする。ブラックが好きだったからこそショックでショックで仕方なかった。 「博士に言われたよ。お前は変なところで真面目だよなぁって」 トシハルは苦笑いを浮かべた。 「続き、行こうか」 トシハルは再び操縦席に立つ。再びエンジンレバーを握り、前後左右を確認しようとした。 「ん?」 そこでトシハルは声を上げた。アカリのバシャーモにサーナイト、そしてダイズまでもが皆同じ方向を向いて、視線を集中させていたからだった。そうして気が付いた。進行方向の右側。南西の方向に巨大な影が浮かんでいることに。 どくん、と心臓が高鳴った。 近い。しかも大きい。相当に大きい。 それは、ざばぁと音を立て水面に姿を現した。横半身を見せて、頭から始まり上半身、下半身を見せて反ってみせる。最後に巨大な尾鰭が見えて飛沫を上げ、海に潜った。 「アカリちゃん!」 「わかってる」 エンジンを前に倒すのをやめ、トシハルは急ぎ、船の先端へ走った。 双眼鏡を受け取る。時間を経て再び浮かんできたうきくじら。その特徴をくまなく確認する。 「何番?」 とアカリが尋ねた。 「……わからない」 「わからない?」 トシハルの答えに彼女は訝しげな声を上げた。 「見たことが無い個体だよ。普段はもっと外洋にいるのかも……」 「大きいわね」 「ああ、大きい。何メートルくらいだろう」 観察個体が去っていく様子は無い。うきくじらはまた、海面にわずかにその姿を見せた。頭から潮を吹く。今度はぷかりと浮かび上がり、その上半身が姿を現す。まるで島が姿を現したようだ。くじらの背中から水が落ちて引いてゆく。 「22、23…………いや……25メートルはあるんじゃないか?」 トシハルは船から落ちそうなほどに身を乗り出して、その姿を目で追った。 「すごい! こいつは大物だよ。下手すれば記録上一ば…………」 そう言い掛けて、彼は言葉を飲み込んだ。 身体の中でカチリ、と音がした気がした。 「……いや……違う。こいつは二番目だ。だって一番は………」 次いで、ドボンと海に何かが落ちるような鈍い音がした気がした。頑丈な南京錠がはずれて水の中に落ちたような音だった。 双眼鏡を目から外す。アカリと目があった。トシハルは突如冷水をかけられたかのような顔をしていた。 「どうしたの?」 「……思い出した」 「何を」 「博士縁(ゆかり)の場所だよ。……もう一つ。もう一つだけある」 トシハルの中に遠い日の、暑い日の記憶が蘇った。鮮やかに、鮮やかに蘇った。 まるでタイミングを待っていたかのようだった。 島を出たあの時に思いを封じてしまったからだろうか。だから、いつのまにか仕舞いこんで鍵をかけてしまったのかもしれなかった。 馬鹿な話だとトシハルは思った。 どうして忘れていたんだろう。あれほど強烈なことを、どうして忘れてたんだろう。 不意にホエルオーと目があった。その巨大なホエルオーはもう一度体を反らすと海に入り、ゆっくりと去っていった。まるで用事は済んだ、と云わんばかりに尾鰭で海面を叩くと、悠々と泳ぎ去っていった。 「おうい、ミズナギさん」 海がオレンジ色に染まりかけていた。所用で港にやってきたミズナギに、体格のいい老人が声をかける。 「あ、これはどうも」 振り向いてミズナギが挨拶をすると 「トシば見かけんがったか」 と、町長は尋ねた。 「さあ、今日はお会いしていないですね。たぶんアカリさんと一緒なのかと思いますが」 「いやそれがな、研究所で探し物があるからっつうんで鍵貸してやったんだが、戻らんのだわ。研究所にもおらんしのー」 ふーむ、困ったというように顎を指で挟み、町長は首をかしげる。 そんな町長の様子をミズナギはしばらく見ていたがやがて思いついたように言った。 「ああもしかしたらその鍵、もう一つ別の鍵がついていませんでしたか」 「おう、ついてたぞ」 「じゃあきっとそれです」 ミズナギは町長を連れ、小型船舶の並ぶ船着場を歩いていく。そうして一つだけ船の抜けた箇所を発見した。 「ほら。博士の船がなくなってる」 ミズナギが言った。ぽっかりと空いたその場所で、海面がゆらゆらと揺れている。 「はーそういうことか」 町長もやっと状況を把握したらしく、納得したように声を上げた。 「アカリさんも一緒かな。彼女も今日見ていませんし」 ミズナギが付け加える。 「何。てーと、トシはあのめんこい子とクルージングか。やりおるの」 ふむふむと町長は唸った。 「まあ別にそういうのではないと思いますけど」 ミズナギはフォローを入れたが、町長が聞いているかどうかはわからなかった。 「しかしちょっと困ったことになりましたね」 「困る? 何がだ」 「町長、天気予報見なかったんですか。今日の天気、昼間は晴れですけれど、夜から降るって言ってましたよ。風も強いって言うし海が荒れないといいのですが」 「いぐらなんでもそれまでには戻るべ」 「まあ、それはそうですけれど。でもトシハル君って島育ちのわりに天気に疎いから。昔遭難したことあったじゃないですか。台風に巻き込まれて」 それに運転だって久しぶりだろうに。 ミズナギは心配そうに水平線に目をやった。
エンジンが最大の唸りを上げる。波を切り裂き飛沫を上げながら船は一直線に走っていく。 エンジンレバーを最大に傾けて、トシハルは南へ急いだ。 「どこに行くの!?」 操縦席の横で船の揺れと格闘しながら、アカリが尋ねる。 「沖ノ島だよ」 「沖ノ島?」 「フゲイタウン管轄の離れ小島でね、南にあるんだ。無人島だから島の人間もめったに行かないけれど」 興奮した様子でトシハルは言った。 「そこに何かあるの」 アカリは続けざまに尋ねる。懸命に髪を抑えていた。船のスピードによる強風。両脇に伸ばした前髪が激しくたなびいている。 「そうだ。あそこにはヤツがいる」 「ヤツ?」 「ホエルオーだよ。フゲイ島周辺海域の観察史上最も巨大なホエルオーだ」 トシハルは前方に目を凝らしながら、続けた。 ホエルオーの名は、島(しま)鯨(くじら)。 番号でない、特別な個体。 浮鯨神社の神様の名にちなんで僕達はその個体をそう呼んでいる、と。 波を裂きながら船は走り続ける。 やがて、太陽が西に沈み始め、海が、空が、水平線がオレンジに染まり始めた。同時に海を漂う空気が湿気を帯びてくる。 だが、船は引き返す様子が無い。ただ真っ直ぐ一直線に南へ向かい走っていった。
15.
沖ノ島。 フゲイタウンのあるフゲイ島よりさらに南下した場所にある孤島。 トシハルの生まれるもっと昔にはサトウキビや木の実を栽培していたこともあるらしい。が、島の畑の後継者がいなくなってからは住む者がいなくなってしまったのだと聞いていた。 沖ノ島が見えてきたのは、水平線から日の赤が消えかけて、夜になろうという頃だった。 フゲイ島に比べても簡素な船着場だ。数えるほどの船しか泊まれそうに無い。 トシハルはエンジンレバーを後ろに引き、減速を始める。きれいに着岸するとロープを巻いた。真っ先に鶏頭とアカリが降り、ついでサーナイトが降りた。最後にトシハルとダイズが続く。 「バク、あなた顔色悪いわよ」 アカリが言った。顔が赤いのと暗かったせいで顔色といわれてもトシハルにはさっぱりわからなかったが、まぁトレーナーの彼女が言うからそうなのだろうと彼は思った。 「船酔いかしらね。ずいぶん揺れたもの」 彼女は続ける。酒に弱い。船にも弱い。この子、本当にパーティの要なのかしら、とアカリは勘ぐりだす。酒の席と同様にケロリとしているサーナイトとは対照的だった。 「モンスターボール、入る?」 ボールをちらつかせると鶏頭はぶんぶんと首を振った。 「そういうところがかわいいのよね」 少女は満足そうにニヤニヤすると、ボールをしまった。そうして新たに二個のボールを取り出すとグラエナとライボルトを繰り出した。 「いいこと。宝探しよ」 アカリはふんふんと鼻を鳴らす黒と青の獣コンビにそう言った。
島鯨。一番大きなホエルオー。 沖ノ島までの航路を走る間、トシハルはアカリに語った。 十数年前、島の漁師が巨大なホエルオーを発見したのだ、と。 全長約30メートル。記録された中では最大の個体だった。 「けど、一つだけ残念な点があった」 「残念?」 「そいつはすでに仏様だったのさ」 島の漁師が発見した巨大ホエルオー。 それはすでに息絶えた後だった。 「まぁそれでも運がいいよ。ホエルオーは死んで間もなく沈んでいってしまうんだ」 もちろんカスタニ博士は大いに興奮していた。 言うまでも無く博士は陸に上げてそれを調べようとしたのだが、何せ大きい。解体して調べようにも時間がかかるし、腐臭がしてはまずいというので、フゲイ島ではなく沖ノ島でそれは行われることになった。この場所ならば誰にも迷惑をかけることはなかったから。 沖ノ島の一番広い海岸。島民の協力も得て、巨大ホエルオーの亡骸をそこに引っ張り上げた。全長を測り、分厚い皮膚を苦労して裂いた。中のものもいろいろ調べて、満足いくまで記録をとった。 そうして記録をとった後にその巨体は砂浜に埋められた。 「埋葬したってこと?」 「いや。骨格標本にするためさ」 生物の骨格標本を作るにはいくつかの方法がある。薬品で煮る方法、虫に食わせる方法……だがホエルオーは大きすぎてそれらの方法は使えない。だから埋めて、自然分解を待つ。肉を腐らせ、微生物による分解を待つのだ。 そうして骨だけになった時を見計らい、堀り出す。たしかそういう手はずになっていた。 「あの時は賑やかだったな。カイナの海の博物館もそうだけれど、カントーやジョウトの博物館からも研究員が何人も来た。カイナの館長なんか標本が出来たらぜひ譲って欲しいって直々に交渉しに来たくらいだった」 「結局、どうなったの?」 「わからない。確認していないんだ。あれだけの大きいホエルオーを埋めて、完全に骨にするには何年もかかるから。僕は掘り出したところまで確認していない」 トシハルは知らない。掘ったのか、それとも未だ砂の中なのか。 「どこかの博物館に巨大な骨が寄贈されたという話も聞かない。僕が知らないだけかもしれないけれど」 「ということはつまり」 「ヤツはまだ島にいる。その可能性が高い」 トシハルの舵を握る手に力が入った。 正直なところ鍵との関連はよくわからなかったが、そんなことはこの際どうでもよくなっていた。 自身の目で見届けていないそれをこの目で確かめてみたい。そう彼は思ったのだ。
「こっちの大きい道はサトウキビ道。道なりに歩いていくと昔のサトウキビ畑に出る。今は草が生えてるだけで何も無いけどね」 陸側に続く道を指差してトシハルは説明した。 「砂浜はこっちの細い道」 人気の無い島を彼らは海沿いに歩く。元来たほうには海があり、陸側には林が鬱蒼と茂っている。そうしている間に日は落ちる。虫や小さな蛙の合唱で島は騒がしいけれど、すっかりあたりは暗くなってしまった。 「エリーゼ、ラーイ。フラッシュ」 と、アカリが指示を出した。一瞬何かの呪文かとトシハルは勘違いしたが、ポケモンのニックネームと技名だったらしい。サーナイト、それにライボルトがまばゆく光るエネルギー体を作り出した。 便利なものだとトシハルは感心した。こちらの位置を知らせることによって下手に危険な野生ポケモンとも遭遇しまい。 光球を連れた二匹を前と後ろに配置して、彼らは隊列を組み、歩いてゆく。後ろのサーナイトが光球を手の上で浮かせるようにし、先頭のライボルトはそれを口でくわえた。それに質量があるのかは定かでない。不思議な技だとトシハルは思う。ライボルトが空気中を嗅ぐようにしきりにふんふんと鼻を鳴らしている。落ち着きの無い様子だった。 「ここだ。この砂浜だよ」 しばらくの行進の後にトシハルは言った。 ゴツゴツとした岩の転がる緩やかな坂を慎重に下りる。砂浜に足を下ろすと、彼は駆けた。急きすぎて途中で一度転んだが気にする様子は無い。砂浜のその中心に向かい、走っていく。 半月の形をした砂浜の真ん中。それが巨大ホエルオー、島鯨の身体を埋ずめた場所だった。 砂を一掴み手に握った。指と指の間から砂がこぼれてゆく。 あたりを見回す。比較的大きな流木を見つけ、それを浜に突き刺した。 「掘るの?」 と、後から追いついてきたアカリが尋ねる。 「道具が要るな」 と、トシハルは答えた。記憶を手繰り寄せる。陸側にしばし歩いた先に調査時に建てたプレハブがあるはずだった。そこに行けばスコップなどの道具が残っているかもしれない。 「一応、ロボが覚えているけれど。穴を掘る」 隣で尻尾を振る黒と灰のポケモンを見て、彼女は言った。 ハッハッと息を吐きながら、ロボと呼ばれたグラエナはアカリを見上げる。目は爛々と輝き、尻尾を千切れるほどに振り続けている。 「そうかい。それなら……」 お願いするよと、トシハルは言いかけた。 が、彼がそう言葉を発する前にポツリと冷たい何かが頬を打った。 「雨?」 彼がそう問いかけると同時に一気に雨粒が降り出した。 頬に、腕に粒が当たる。時を待たずして周囲がザアザアという音に包まれる。小雨などという曖昧な状態を経ずに、天気は一挙に大雨に転じた。 「うわッ……ラーイが落ち着かないと思ったら!」 手の平で雨から顔を守るようにし、アカリは空を見た。そうなのだ。さっきからやけに暗いと思っていた。空には星も無いし、月もない。 「向こうにプレハブがあるはずだ」 と、トシハルが言った。一行は慌ててトシハルを先頭に走っていく。雨水を吸い込んだ砂浜がざくざくと音を立てた。 雨の勢いがますます加速する。暗い空からもたらされる雨はたちまちに彼らの衣服を濡らし、陣地をとるように侵攻した。ほどなくして、衣服に乾いた部分はなくなって、濡れた生地がしわを作りながらぴったりと体に密着した。靴の中もぐしょぐしょになり、一歩を踏み出すごとにぐちゅぐちゅと嫌な音を立てる。 雨粒はトシハルのかける眼鏡も水滴だらけにする。やがてそれは雨の日の窓のように流れ出す。眼鏡だけではない。やがてぐっしょり濡れた髪からも水滴が流れるようになり、トシハルの顔に、目にとめどなく流れた。こうなると視界が悪い。 海岸をぬけて、林の中の荒れた道をゆく。まるでシャワーを浴びているかのように木々の肌からも水滴が流れ続けている。 流れ込む雨粒と戦いながらトシハルは少女と共に建物を探す。 最初に声を上げたのは、アカリのライボルトだった。光球を口にくわえたまま、低い唸り声を上げた。 「あった。プレハブだ」 とトシハルが視界の悪いその先を見て言った。 一同は走る。鍵はついていない。初めにその扉を開いたのはアカリだった。だが、中に入ってすぐに彼女は言った。 「トシハルさん、これはダメだわ」 「どういうこと?」 そう尋ねてトシハルも中を見る。そうしてすぐに理解した。 サーナイトの光球が照らした部屋の中に大量の雨粒が降り注いでいた。あちこち雨漏りをしている程度ならまだよかった。が、その惨状はそんな生易しいものではなく、風雨がそのまま上から吹き込んでいると言ったほうが適切だった。 放っておかれた十数年の間、南国につきものの台風にくれてやってしまったのだろうか。屋根には大きな穴が空いていて、原生林と暗い空がその上にあった。かろうじてくっつき残っている屋根も地面に向かってお辞儀をし、今や床に水を運ぶだけの雨どいとなってしまっている。 「船に戻る?」 「いや、それは危険だと思う。かといって他に雨宿りできるとこなんて……参ったな」 ダバダバと雨に晒されるだけの朽ちた床を見てトシハルは言った。下手に踏み込めばめりめりと音を立てて底が抜けるかもしれなかった。 雨が降り続いている。穴が開いたぽっかりと空いたプレハブの屋根を呆然と二人は見つめた。 彼らの意識が他へ向いたのは、グラエナとライボルトの二匹が少し離れた所からけたたましく吼えたのを聞いてからだった。 「ワンワン、ワン!」 「バウ、バウゥッ!」 声に気が付いてトシハルとアカリはプレハブの外へ飛び出した。 林の荒れた道の、さらにその先。灯りが一つ揺れている。ライボルトのフラッシュだった。 灯りに誘われるように走っていく。細い道を抜けると林が開けた。 舗装されぬ荒れた道ではあったが、ずいぶん広い。かつての島の住人が開いたサトウキビを運ぶ道路だった。船着場で別れた二つの道。ここがその合流地点だった。 「あれ?」 開けた視界の先を見て、トシハルは声を上げる。 道の先に広がるかつてのトウキビ畑。今は草が生え放題のその草原。そこにミナモの港にいくつも並んでいそうな大きな倉庫のような建物がひとつだけ、ポツリと雨の風景の中に溶け込んで、建っていた。グラエナ、ライボルトが交互に吼え続けている。トシハル達が走り寄り、二人とポケモン達は合流する。 「なんだこれ……昔はこんなものなかったはずだけど」 トシハルは呟いた。だが、一方で安堵した。これほどに堅牢な建物ならば雨宿りくらいわけはないはずだ。 「入り口は……」 道の前にあるシャッターは硬く閉ざされていて、開きそうに無い。彼らは倉庫をぐるりと回って入れる場所を探した。建物をぐるりと一周するように歩くと裏に小さな通用口を見つけた。 「鍵、閉まってる……」 ドアノブをガチャガチャと回してアカリは言った。 「……壊そうか」 「いやそれはちょっと」 「ブレイズキックなら一発よ」 びしょびしょになった頼りなさそうな鶏頭を指してアカリは物騒なことを言い始める。鶏頭がぶるぶると全身を震わせて、水を払うと手首から炎を出して構える。雨の中にも関わらず、炎がほとばしるのはさすがチャンピオンのポケモンか、などとトシハルは思ったが、 「いやちょっと、待てよ!」 と、考え直し彼らを制止する。 「雨宿りにはかえられないわ」と、即座にアカリは言った。 「一晩もこんな状態なんて私いやよ。トシハルさんが開けられるなら別だけど」 「いや、それは……鍵なんて持ってないし」 トシハルは言葉に詰まった。建物の存在も知らなかった自分が通用口の鍵なんて持っているわけも無いと思った。だが、 「……鍵?」 トシハルとアカリは顔を見合わせた。 「まさか」 「それで開かなきゃ、破るだけだわ」 「……わかった」 トシハルは濡れたポケットの底にある封筒を取り出した。丈夫な紙で作られたその封筒は水をたっぷりと吸っていたが破けてはいない。折りたたんだ封筒を開き、中から鍵を取り出す。ドアノブにそれを差し込み、回した。 「……回った」 キイ、と内側にドアは開き、彼らを中に招き入れた。水滴を床に垂らしながら彼らはなだれ込んでいく。 が、倉庫に入った次の瞬間に、二、三歩を踏み出してトシハルは立ち止まった。 続くようにして入ったライボルトのフラッシュが倉庫の中を照らした時に。 「どうしたの?」 と、アカリが尋ねる。が、すぐに理解した。 中には既に先客がいることに気が付いたからだった。 それはあまりにも大きすぎて、何であるか理解するのに数秒をアカリは要した。そうして理解した。見えていたのは先客の一部。尻尾だった。 「…………島鯨だ。間違いない」 トシハルが言った。 あまりに巨大なので、頭のほうまでその光は届かなかった。 フラッシュが闇を照らす。それが闇の中に横たわる巨大な骨を照らしていた。
16.
「びえーっくしょん!」 トシハルが巨大うきくじらの肋骨の下、盛大にくしゃみをした。 寒い。だが濡れた身体を乾かさなくてはならないのでそこは我慢した。 彼らは今、二手に分かれて濡れた体と服を乾かす最中だった。
「トシハルさん、私が出てくるまでこっちきちゃだめだからね!」 広い倉庫に少女の声が響き渡る。倉庫の端に積まれたコンテナの影に隠れてのアカリの台詞だった。コンテナの後ろで光が漏れ、その前で鶏頭が腕組みをしている。 「何言ってんだよ! 言われなくても見たりしないよ! こっちも服絞るからしばらく出てこないでくれよ」 トシハルが反対側の端で、服を絞りながら言った。ダバダバと水が落ちる。 その傍らにはアカリから貸してもらったライボルトが光球を口にくわえながらものすごく嫌そうな目を向けていた。目つきの悪いライボルトだったが、アカリいわく女の子とのことだった。 「あーあ。靴もズボンもかわかさなきゃだめだな。これは」 トシハルはズボンを脱ぐ。トランクス一丁の情けない姿になり絞る。また水が落ちる。 「ダイズ、かぜおこし頼む。軽くな」 そのように依頼すると、ピジョットが片翼を使ってうちわを仰ぐようなしぐさをした。びゅうっと風が吹く。彼はそこで盛大にくしゃみをした。 「ダイズ、もう少し弱く。そうそうそれくらい」 ピジョットにそんな贅沢を言いながら、今度は髪を乾かす。冷たい風だからなかなか乾かない。またくしゃみをする。 「すいません。ちょっと借ります」 そういって巨大ホエルオーの前鰭に上着を引っ掛け、靴を引っ掛けた。ぽた、ぽたと靴の先から雫が落ちる。ズボンを干せないのは無念だが仕方あるまい。これ以上水が出ない程度によく絞った後にトシハルはそのまま履くことにした。上半身は許してもらうにしろ、この状況で履かない選択肢はない、と判断した。 ライボルトと共に歩く。倉庫から数少ない資材を探したところ、ダンボールのようなものは見つかった。もう少しまともなものが残っていてもいいのに、などと思いながら、二、三枚下に敷き、座る。 「まぁ、コンクリート直寝よりはいくぶんかいいか」 トシハルは呟いた。少なくとも雨が上がるまではここで過ごさなくてはならない。天井から雨打つ音、ガタガタと風の鳴る音が響いてくる。ダイズがぴょこぴょことトシハルに近寄り、隣に座った。 「ダイズ、お前本当は知ってたんじゃないのか。鍵のこと」 トシハルがそう言うとピジョットは彼を見、首をかしげた。 「とぼけてるのか? 本当に知らないのか? まあ、いいけどさ……」 そこまで言うとトシハルはもう追求しなかった。 おそらくは骨を掘り出したことは知っていたのだろう。だが、それの学術的価値や意味はダイズに理解できなかったに違いない。博士が骨を掘り出して、この場所に収めた。それを言葉にして表現する力を彼は持っていない。博士がダイズが知らない間に鍵を作った可能性もあった。 ミズナギは知っていたのだろうかとも考えを巡らせた。彼のことだから骨を掘り出す手伝いくらいはしたのだろう。だがそこまで考えてもういいや、とトシハルは思った。 知りたかったのは鍵を開けたその先だ。それがわかったなら、それらはすべて些細なことなのだ。 伏せていたライボルトが顔を上げ、立ち上がった。コンテナの裏からアカリが出てきたからだった。バンダナはしていなかったが、赤い服はしっかりと身につけていた。 「もう乾いたの?」 ポケモンをぞろぞろ引き連れてやってくるアカリにトシハルが尋ねると、 「速乾性なのよ。最近のトレーナー用品ってよく出来てるの」 と、返された。トレーナーの旅の大きな悩みのひとつが洗濯だ。だから衣服は日々進化しているのだと彼女は言う。リーグの賞金を使って、以前着ていたものと同じデザインでオーダーメイドしたのだと説明した。 「そりゃあ研究者にも喜ばれそうだな」 トシハルが返す。 アカリはポーチから、モンスターボール程度のカプセルを出すと、中身を取り出して栓を抜いた。するとそれはみるみるうちに膨らんで寝袋になった。さすがは野山を歩き回るトレーナーである。準備の仕方が違っていた。ぼすん、とアカリがその上に座る。ポケモン達が隣に座ったり、足元に擦り寄ったりした。よしよし、とアカリがグラエナを撫でてやる。 海の上で少女は言った。ポケモンが好きなら、バトルが好きなら、自分はトレーナーでいられる、と。トシハルはその言葉を思い出していた。 いずれ島を発つであろう彼女がどこへ行くのか。それをトシハルは知らない。けれどその言葉の通りに彼女はトレーナーであり続けるのだろう。 トシハルは後方に手をつくと、再び巨大ホエルオー、島鯨の骨格を見上げた。同じようにダイズやアカリ達もそれを見上げた。暗い倉庫の中、光に照らされた巨大な顔の骨。それを短い首が支えてる。それはやがて背骨となり尾まで続いてゆく。その間に巨大な肋骨が半円を描くように、何かを掬い上げるように伸びている。 博士の手により既に掘り出されていた全身骨格。まるでそれ自体がひとつの建造物だった。その中に収まってしまう自分達はまるでホエルオーの血肉か内臓になってしまったかのように思われた。 「大きいな」と、トシハルが言う。 「うん、大きい」と、アカリが答えた。 トシハルは思う。いつの頃からか人は数字という概念を発明し、使い続けてきた。それは自分達がポケモンという生物を認識する為にもしばしば用いられてきた、と。図鑑で名前の次に挙げられるのは、ポケモンの高さ、そして重さなのだから。 一匹、十匹、百匹、千匹。10メートル、20メートル、30メートル。1キログラム、10キログラム、100キログラム。数や長さ、重さを言葉だけで言うのは簡単だ。だがそれだけでは、単に口に出すだけでは実感を伴わない。だから数字を知っているだけでは、大きさを知っているとは言い難いのだとトシハルは思う。 実際に対峙して、ちっぽけな自らと比較したときに、人は数字の実際を理解する。その数の多さ、大きさ、重さを理解する。ちょうど傍らの鳥ポケモンに触れたその時、はじめてその暖かさ、感触、匂いがわかるのと同じように。 一番大きなポケモン、ホエルオー。 けれどそれが大きいと知っている者は少ない。 皆、14メートルという数字だけは知っている。けれどその大きさまでは、知らない。 「トシハルさん、これからどうするつもり?」 不意にアカリが尋ねた。 「君こそ、どうするんだい」 トシハルが返す。 「もう決めてるくせに」 「そっちこそ」 鼓膜に響く雨の音。ポケモン達のフラッシュが消えたのが先か、トシハルかアカリが瞼を閉じたのが先か、それは両者とも覚えていない。 雨が降り続いている。いつ止むだろうか。もし明日が晴れならば、シャッターを開けてみよう、そんなことを考えながらトシハルは眠りに落ちていった。
…………。
……。
はっと彼は目を開く。 エンジン音に気が付いて、目を開いた。 気が付くとトシハルは船の甲板に立っていた。博士の船の甲板に。ああ、たぶんこれは夢だな、とトシハルは思った。昔はよくあった。明日船に乗るぞと博士に言われると博士の船に乗っている夢を見る。 けれど洋上になかなかホエルオーが見つからなくて。うまくいかなくて。焦っていると、起こされる。朝を迎えているのだ。 海風が吹く。船は猛スピードで洋上を進む。 デッキのほうから誰かと誰かが話す声が聞こえて、トシハルは近づいていく。 覗いてみると二人の人物がそこにはいた。一人は船の舵をとり、一人は双眼鏡を持って、海を覗いていた。 「どうだトシハル見えるかー」 舵を持つ男が、双眼鏡の少年に尋ねる。 「見えないですねぇ」 そこにいたのはカスタニ博士、そしてかつての自分だった。 「うーむ、今日は不漁だなぁ」 「そうですねぇ」 「飯にするか」 「そうしましょう」 師弟は軽妙なノリと共に、提案と同意を交わし、船は停まった。彼らは洋上で昼食を摂り始めた。今日の昼食はトシハルの母が持たせた弁当だった。師弟のそれぞれが島自生の植物の葉の包みを取ると、海の幸の詰まった具の入ったおにぎりが、三つほど並んでいた。 「ダイズ、おいで」 と、クジラ博士の弟子が言う。 デッキから一匹のピジョンが降りてきて、弟子のおにぎりを一つ、つつきはじめた。 彼らはしばしの間、食事に集中した。 「トシハル、ホエルオーとは、何だと思う」 不意に博士が、口をもごもごさせながら弟子に問うた。 「…………何なんでしょう」 口にご飯粒をつけた頼りない弟子は返して、ピジョンのダイズが首をかしげる。少しくらい考えろよともトシハルは思ったが、いかんせん博士の問いかけも抽象的過ぎる。 「ホエルオーとは……」 と博士は続けた。 「ホエルオーとは?」 弟子がオウムがえしする。 「ホエルオーとは、…………ロマンだ」 「……はい?」 弟子とトシハルは同時に突っ込んだ。 だが、大真面目な顔で博士は続けた。 「なあ、トシハル。私はなんであの日、129番水道でホエルオーなんて見てしまったんだろうなぁ」 と、彼は続けた。 「おかげで私は知ってしまった。自分はひどく小さく、弱い生き物だと知ってしまった」 どこかで聞いたような台詞だとトシハルは思った。 「狭い世界の中でつまらんことにこだわって、虚勢を張って生きていたんだと知ってしまった。自分が一生懸命追いかけてきたものが急に馬鹿らしくなってしまったんだ」 博士はおにぎりをすべて口に入れると、葉を丸め、海に投げ捨てた。 「ホエルオーはデカい。バカみたくデカい。そのデカさは人の価値観を変えちまう。人間のどんな業績も名誉も、こいつの前にはかすんじまう。実にくだらん。俺はこいつに出会ったとき、自分のいる世界が、自分の抱えているものがどうでもよくなっちまった。私は決めた。私は、私の残りの人生をかけて、とことんこのホエルオーってやつに付き合おうと決めた」 トシハルはどきりとした。博士がトシハルを見た。 傍らでおにぎりをほおばるクジラ博士の弟子でなく、トシハルのほうを。 「忘れるなトシハル。この島に生まれたお前にとってホエルオーはただの隣人で、当たり前に存在している者で、ただの近所に生息している生物、すなわちそれはお前にとって単なる日常でしかないのかもしれないが、ホエルオーの大きさを知っているお前は、そうでない者達よりはるかに多くを知っているのだということを」 「博士、」 と、トシハルは口に出した。
「博士、僕は――――」
…………。
……。
トシハルは再び目覚める。 ああ、そうか夢だったのか、と彼は思った。いや、夢だとわかっていたのだがいつのまにか前提を忘れていたのだ、と。 隣を見るとアカリとそのポケモン達、そしてピジョットのダイズが立っていた。 「おはよう。トシハルさん」 と、赤バンダナの少女が言った。 「もう寝てるのは貴方だけよ」 「ああ、ああ。ごめん」 と、トシハルは返事をした。まだほの暗い。朝焼けには遠い時間なのだろうか。 「ところで、ちょっと思い出せないんだけど」 と、アカリは続けざまに言う。 「何がだい」 「私達、沖ノ島に来て、雨に降られたのよね」 「ああ、そうだよ」 トシハルが答える。 「倉庫を見つけて、その中で眠った。島鯨の骨の下で」 「君の言う通りだ」 トシハルは尚も答える。 「それなら私達、どうしちゃったのかしら」 と、アカリは問いかけた。 「ここはどこかしら」 「え?」 トシハルはアカリの問いに気が付いた。不意に周囲の音が、空気が変わったのがわかった。 彼らの上に広がっていたのは一面の夜空だった。数え切れない数の星が瞬き、星座が見下ろしていた。それは雨雲に隠されていたはずの、星屑のちりばめられた夜空だった。 そうしてトシハルは感触に気が付く。自分が今、腰を下ろし座っているものの感触に。 ぶよんとした感触の青い身体。知っている。これはホエルオーだ。ホエルオーの背中の上に自分はいる。自分達はいる。 トシハルは立ち上がった。視線の先で大きな尾鰭が揺れていた。 おかしいのはホエルオーの浮いている場所だった。どうも海水の色が変だし、もやもやしているように見える。まるでドライアイスの煙のように掴めない、煙のような何かにそれは見えた。 「雲よ」 と、アカリが言った。 「雲?」 「そうよ。今、私達の下で雨が降ってるの。雲の上だからここは晴れてるのよ。どうも私達は島鯨の背中にのって空の旅に出てしまったらしい」 まるで何かの舞台の台詞みたいにアカリが言った。 「なんだよそれ。ムチャクチャな設定だな」 「そんなことは無いわよ。博士を乗せて海に出る前、神職さんが言っていたじゃない。海面を鏡に海に見立てた時、頭から海に沈むことは空に昇ることと同じだって」 「いや確かにそうは言ってたけれど」 トシハルは混乱する。ホエルオーは海に浮かぶもので、雲に浮かぶものではないのだ。確かに彼らは死ねば海に沈んでいく。だから海面を鏡とするならば、ホエルオーは空を飛んでいるのかもしれないが。 「それにね、あの人も同じことを言ってるの」 アカリが前方を指差した。 「あの人?」 トシハルが問いかける。さっきからアカリの言葉によって、視界がだんだんと開けているように思われた。そうしてアカリが前方を指差した。トシハルは初めて前を向いた。ホエルオーの進行方向に顔と身体を向けた。 そうして見つけた。 巨大なホエルオーの背の、白い四つの模様のその先、うきくじらの頭の上に誰かが立っているのを。 腕組みをしている人物の背は高い。 「何を今更驚いてんだトシハル。お前はこの風景を知っているだろう?」 聞き覚えのある声だった。 白い半袖のポロシャツを着たその人が、彼らの側に振り向いた。 「今私達を乗せてるこいつが――島鯨が教えてくれたぞ。昔雲の上でお前を乗せたってな」 高身長の老人が装着しているのは愛用の眼鏡。 「トシハル、お前昔、沖ノ島に行こうとして遭難したな。死にかけて雲の上まで行ったはいいが、こいつに振り落とされた。そんなことまで忘れちまったのか?」 それはかつてホエルオーを求め島にやってきた人。自らをクジラ博士と名乗った人。 それは一昨日、海に沈んだその人。 「カスタニ博士……!」 トシハルが声を上げた。 「よお、久しぶりだなあトシハル。その様子だとまぁまぁ元気みたいだな」 取り乱す弟子を尻目に、老人はあくまで調子を崩さない。まるでかつての思い出の写真のようにうっすらと笑みを浮かべながら淡々と語った。 「お前の意識がぶっ飛んでる間、そこの赤い子からいろいろ聞いたぞ。お前、ホエルオーに乗って帰ってきたんだって?」 博士は続ける。 トシハルは何かを言おうとするがうまく声として出てこない。 「トレーナーサポートシステムだったか。あれは便利だよな。掘り出したこいつの骨をどうやって運び出そうかと思ってたんだが、試しに募集かけたらよ、バトルガールやらサイキッカーやらいろいろ集まってくれて助かった。あの時はバッジ五個くらいの奴らに集まってもらったが、まさかお前がリーグチャンピオン引っ張り出してくるたぁなぁ。大したヤツだよ、本当に。昔っから人に迷惑かけてばかりでさ……」 ああ、言わなくては。 とトシハルは焦る。けれど積もる話がたくさんありすぎて、つっかえてどれも出てこない。 言わなくては。言わなくてはいけないのに。 聞きたいことだってたくさんあるのに。 「知ってるかトシハル。島の誰かが死ぬとな。島の祖霊ってのがこっちに迎えをよこすそうだ」 島の神職が言ってたんだがな、と付け加える。 「私は余所者だからな。正直、受け入れられるのか心配していたが、一日ばかり待ってたら、こいつが迎えにきてくれた。神職さんがちゃんと葬儀をやってくれたお陰かも知れないな。あとでお前から礼を言っといてくれ」 弟子が何か言いたそうなのを博士は知ってか知らずか、一方的にしゃべり続けた。 星が瞬く。星座が煌く。 強く強く風が吹いて、雲が流されていく。 隣に立つアカリの髪がばたばたとたなびいている。 博士、博士。博士! 声が出ない。少年は焦る。うきくじらの背の上で少年は焦る。 「あれだろ、お前さ、私にいろいろ聞きたいことがあるんだろ?」 わかってるよ、とでも言いたげに、博士は笑った。 「島を出たことがどうとか、本当はどうして欲しかったんだとか、こいつのバカでかい骨を押し付けてどうするのか、とかさ。お前はそういうことが聞きたいんだろ? そういうくだらないことをさ」 お見通しなんだよ、そう博士は続ける。 「すごかったろ? あれ。カイナの館長が未だに欲しがってるんだ。まあ、私はあいつ嫌いだからさ、頼まれたってやらないけどな?」 そう言って博士は「がはは、」と笑った。 トシハルは尚も何かを声に出そうとするけれど、風のようにひゅうひゅうと空気が漏れるだけで、博士には届かない。走り寄って行きたいのに足も動かない。 全長約30メートル。島鯨の背中の距離は長く、遠い。 ああ、きっとこれも夢。夢なんだと彼は思った。 夢っていうのはいつだってそうだ。いつだって思い通りに運ばない。 「トシハル、」 言い聞かせるように博士は言った。 「お前達の世界における私の役割は終わってしまったんだ。だからこれ以上は言わないし、言うことは出来ないんだ」 博士は続けた。人は言葉で生きているから。言葉で世界を、自分を定義するから。だから去る者がむやみに言葉で縛ってはいけないのだ、と。 「本当はな、こうしてるのだってルール違反なんだ。ついしゃべり過ぎちまったがな」 星が輝いている。夜空の雲の上をホエルオーは進んでゆく。 腕にはめた時計を見て、そろそろタイムリミットだ、と博士は呟いた。 瞬間、彼らの乗る島鯨の前方、後方、そして左右のあちこちから、無数の潮が吹き上がった。そうして、いくばくかもしないうちに潮吹きの主達はその巨体を雲から出し、島鯨と併走し始めた。 ああ、迎えだ。彼らは迎えだ。 トシハルにはそれが分かってしまった。 知っている。昼と夜、空の色はあの時と違うけれど、この風景を知っている。 吹きすさぶ風の中、博士を見た。博士もまたトシハルを見た。博士はふっと笑った。そうして再び進行方向に向き直った。前を向いたままもう二度と振り返らなかった。 「トシハル」 風の中で博士は呟いた。 耳の横でびゅうびゅうと風が鳴る。 だからバカ弟子には聞こえまいと思った。 「トシハル。こいつの骨の行き先も、自らの行き先も、お前自身が決めるんだ。誰でもない、お前自身が」 前を向いたまま博士は呟いた。 「お前はもう、少年ではないのだから」 じゃあな。 博士は手を軽く上げる。 瞬間、島鯨が最大級の「潮噴き」をした。勢いよく吹き上げられたそれが濃い霧のようになって前方の視界を塞ぐ。博士が消えた。霧に隠されるようにその姿は見えなくなった。 「……はか、せ……はかせ! 博士!」 トシハルは叫んだ。 「カスタニ博士ッ!!」 だが声が戻った時にはもうすべてが遅かった。 金縛りが解かれたように、急に身体が動くようになって、彼は島鯨の頭まで全速力で走ったけれど、博士の腕を掴むことも、その姿を捉えることも出来なかった。忽然と消えてしまったように、最初からいなかったように、そこにもう博士はいなかった。 霧が晴れていく。すべてが風に流されて、また星空が覗いた時、トシハルはたくさんのホエルオー達がぐんぐん空へ昇ってゆく光景を目の当たりにした。 ああ、同じだ。と、彼は思った。あの時と同じだと。 きっと博士はあのくじら達のどれかの上にいて、手の届かない場所へ行ってしまったのだ。 届かない。もう、届かない。博士には届かないのだ。 ふと、誰かが手を掴んだのがわかった。振り返るとアカリだった。 「トシハルさん、戻ろう」 と、彼女は言った。 「戻る?」 「そうよ。私達は、私達の世界に戻るの。見て」 雲の向こうを指差す。小さな影が雲の海に見え隠れした。ホエルオーが一匹、蛇行しながら雲の中を泳いでくる。ある地点まで来ると雲の中に潜るように消えてしまった。 「シロナガちゃんが迎えに来てくれたのよ。乗り換えよう」 「乗り換えるって、どうやって」 「もちろん、飛び降りるのよ。あなた昔、そうやって戻ったんでしょ? 大丈夫よ。あとでシロナガちゃんが拾ってくれるって。じゃ、先に行ってるわよ」 そう言ってアカリは島鯨の横幅ぎりぎりまで後ずさると、助走をつけてジャンプした。雲の中へのダイビング。彼女の身体は一瞬で雲の海に消え、見えなくなってしまった。その後を追うようにして、アカリのポケモン達が続いていった。 まるで水泳選手のように真っ先に鶏頭が飛び込んで、続いて獣の二匹が一緒になって飛び込んだ。はためくスカートを押さえながらサーナイトも落ちていく。そして、不意に上空でトゥリリーィと声がしたのをトシハルは聞いた。いつの間にボールから出されたのだろうか。オオスバメのレイランが星空を旋回して飛んでおり、まるで水中の獲物を狙う海鳥のように雲の海に突っ込んでいった。 びゅうびゅうと風の走る足元を、トシハルは呆然と見つめている。雲の中、アカリとそのポケモン達は既に見えない。まるで当たり前だというように落ちていったトレーナーとそのポケモン達の気が知れなかった。やつらには恐怖心が無いのかと彼は本気で疑った。ジョウト地方のなんとかって寺の舞台から飛び降りるとかそういうレベルではない。 が、次の瞬間、ドン、とトシハルは背中を押され、島鯨から真っ逆さまに落っこちた。 ダイズの体当たり、あるいは捨て身タックルだった。 「……」 島鯨の背の上。風に冠羽をたなびかせたピジョットは下を見つめる。しっかりと主人が落ちたことを確認すると、翼を広げた。空中で体勢を変える。そうして彼は雲の海にダイビングし、消えていった。 空に昇ってゆく島鯨。その姿を一瞬だけ目に焼き付けて。
トシハルが気が付いた時にはもう朝だった。 彼はうきくじらの骨の下で仰向けになっていた。 倉庫のいくつかの窓からは眩しい朝日が差していて、中の埃が舞っているのがよくわかった。 横になったまま、隣を見るとアカリとポケモン達はまだ眠っていた。おはよう、とでも言うように朝日の逆光を背負い島鯨の背骨にとまったピジョットがピュイと鳴いた。 ああ、眩しい。とても眩しい。 トシハルは腕で目を覆い光を遮る。 つうっと一筋、涙が流れた。
ただいま。 僕は今、帰ったよ。
そうだ。自分は今、初めて帰ってきたのだ。 そのようにトシハルは思った。
エピローグ
昨日、トシハルが干した上着は湿り気が気にならない程度に乾いていた。靴はまだ湿気があったけれどとりあえず履くことにした。多少の湿り気があったって歩けないことはあるまい、とそう思う。 きょろきょろとあたりを見回す。目的のものはすぐに見つかった。 手をかけた。だいぶ固くなっていたが、体重をかけるとそれを回すことが出来た。閉ざされていたシャッターがガラガラと開き始め、一挙に光が差し込んだ。 音につられてアカリ達が目を覚ます。見れば、レバーを懸命に回すトシハルの姿があった。彼女は寝袋から這い出してゆき、ガラガラと開いてゆくシャッターの下を潜る。倉庫を出て、見上げた空はからりと晴れていた。 がちゃん、といって音が消えた。倉庫のシャッターが全開になる。雨の夜は暗く、部分部分しか見えなかった島鯨。その全貌をようやく彼らは目の当たりにした。 「カイナの館長が欲しがるはずだよなぁ」 ぐるりと囲うように歩き回りながら、彼らは改めてその大きさを体感した。 大きい。四枚の鰭といい、背骨のひとつとったって、パーツパーツの大きさが半端ではないのだ。頭部だけでも圧巻だった。小さな船一隻程度ならば余裕で丸飲みに出来そうである。 もしかしたら博士はこれを一人でこれを眺めてはニヤついていたのかも分からないと、トシハルは想像した。まぁダイズくらいは連れていたかもしれないが。 これに乗っかっていたのか。博士はこれに乗って、そしていってしまったのか。 トシハルは空の上に思いを馳せる。 「ねえ、アカリちゃんってバンジージャンプ好きだったりする?」 何の躊躇もなく雲に飛び込んだアカリを思い出し、気まぐれにトシハルは尋ねたが、アカリに変な顔をされたので、いやなんでもないよ、と彼ははぐらかした。 「戻ろうか」 彼が言うと、アカリは同意した。 「お腹がすいたわ」 と、彼女は言った。 昨日の昼から何も食べていない。早く何か食べたい、と。 晴れた空の下、かつてのサトウキビ道を獣達が駆けていく。昨日は出さなかったからと、運動に出されたオオスバメの影が彼らを追い越していった。 道路を道なりに進み船着場に到着する。船は無事だった。 驚いたのはどこで嗅ぎつけたのか。あるいは何かを予感したのか。島に着いたその日に放しておいたアカリのホエルオーがすぐ近くで潮を吹いていたことだった。 彼女は驚き、なんでここにいるの、どうしてわかったのなどと言っていたが、手持ち全員揃ったとも喜んで無邪気にはしゃいでいた。 そうしてトシハルとダイズは船に、アカリ達はホエルオーに乗ってフゲイ島に戻っていった。
島に戻るとずいぶんとトシハルは怒られた。 心配したじゃないか、また遭難したのかと思ったという声が大半だった。中には昨晩はお楽しみでしたね、などととんでもないことをぬかす輩がいたが、彼は断固として否定した。ダイズがやれやれとでも言いたげに足で冠羽の後ろを掻いていた。
アカリは二日ほど島をぶらつくと、ついに島を発つとトシハルに告げた。 北上すると彼女は説明した。まずはシロナガに乗って西へ移動し、リーグ本部のあるサイユウシティに渡る。野暮用を済ませた後に、飛行機に乗り、さらにカナズミの飛行場からカントーへ飛ぶという。 「カントーでしばらくぶらぶらするつもりだけれど、シンオウに行こうと思ってる」 と、彼女は語った。化石をたくさん掘るのだという。 「もうホウエンには帰らないつもりなのかい」 「今は、わからない。あなたこそどうするのよトシハルさん」 アカリが返した。結論などもうわかっていたけれど、はっきりと言葉で聞いておきたかった。 「……そうだな。今度の定期便で一旦本土に戻るよ。いろいろ片付けなくちゃいけないこともあるし、でもすぐに戻る。今度は十年とかじゃなくて……」 「そう」 アカリはいつものように素っ気無く返事をしたが、口は笑っていた。 そうしてアカリは再びホエルオーに乗ると島を去った。レイランがダイズとの別れを惜しんでいた。終始島のほうを振り返っては名残惜しそうにしていたが、ダイズはほっとした様子だった。
時はあっと言う間に流れていった。 島に戻ったトシハルは、町長に許可を受け、研究所の土地と施設を借り受けた。今は事実上住み込みで、そこから毎日海へ出ている。 すぐに秋が終わり、師走が駆け抜けて、正月になる。彼は十年以上の間を経て久々に浮鯨神社に初詣をした。そうして元旦から三週間くらい過ぎた頃に見慣れない消印がついた便りが届いた。 ダイズの嘴に挟まれたそれを見るとアカリからで、シンオウのポストカードに最近のことが少しばかり綴られていた。 それによると、ここから遥か北にあるシンオウはよく雪の降るところであるらしい。化石堀りを思う存分にやった後のブームは犬ぞりなのだそうだ。グラエナのロボ、ライボルトのラーイのコンビにそりを引かせ、大会に出るのだという。 はるかに続く白一色の大地。グラエナとライボルトにそりを引かせ、犬ぞり遊びに興じる彼女の後ろを、置いてけぼりを食らって、懸命に追いかける鶏頭を想像し、トシハルは少し愉快になった。今日もあのバシャーモは彼女に引っ張りまわされているに違いない。そうに違いない。 追伸に妙なことが書かれていて、トシハルはしばしダイズを見つめていたが、ピジョットは首を傾げるばかり。決定的な証拠も無いので、あまり気にしないことにトシハルは決めた。 当分はこの地方にいるつもりだと彼女は続けていた。ホウエンに帰るつもりは今のところないらしい。 でも、いつか。と、彼は思う。 いつか、いつの日か、それが何年後になるか、あるいは何十年後になるのかはわからないけれど、うきくじらの背中に乗ってきっと彼女は帰ってくる。そんな風にトシハルは思うのだ。 トシハルはしばしの間、ポストカードを眺めていたが、やがてそっとそれを机の上に置いた。 そうして代わりに手に取ったのはフィールドノート。ポケットにその小さなノートを突っ込むと、傍らのピジョットに行くよ、と告げる。海に出る時間だった。 誰もいなくなった研究所の一室は静かだった。 ポストカードの置かれた机。その前で開かれた窓の向こうに、青い空と碧い海が覗いている。 碧い海の上にある青い空は何者にも占領されず、水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。 ふと、その風景に海から吹き上げられた海水が混じる。 それはこの付近の海域に棲む巨大な生物の仕業だった。 吹き上げられた海水。それは空中でキラキラと輝いて、ほどなくして海へと還ってゆく。
波の音が、聞こえる。 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す、波の音、海の音色が。 少年はもういない。 耳の鼓膜に残った故郷の音。それを探す少年はもういない。
海が鳴っている。 かつての少年は噛み締める。 自分はここにいる。自分の居場所はここ。ここにあるのだと。
海が鳴っている。 息をしている。脈を打っている。
波の音が、聞こえる。
少年の帰郷「了」
アカリちゃんからの葉書
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