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  [No.3192] 投稿者:リナ   投稿日:2013/12/19(Thu) 00:57:25   67clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


「ちょっと津々楽さん。どうかしたんですか?」
 いつの間にか目の前の景色に、色が戻り、雑踏が戻ってきた。私は駅前広場のベンチに座っていることを思い出した。社美景は怪訝な目で、私の顔を覗き込んでいた。黒くはない。近くで見ると、白い頬が寒さで少し赤らんでいた。
「私、今何してた?」
「魂が抜けてました。ほんの十秒くらいですけど」
 さっきの声は、もうしない。コノが社美景の上で、穏やかな頬笑みを浮かべていた。
 ほんの十秒くらい――そんなことはなかったはずだ。あの白黒の人々がいる、静止した世界を、彼女は経験していない。あの声を聴いたのは私だけで、白黒の人々も、私しか見ていない。
 私にとって、座敷童がタメの女の子で、一緒にもののけさんがいて、しかも彼は日本語をしゃべって、彼女は「神子」だという。それだけでも摩訶不思議な出来事の連続なのに、さっきの声や、あの異常な世界は、その彼女すら知らない世界なのだろうか。
 そうだとしたら、私、ちょっと巻き込まれ過ぎじゃないか。
 方程式の解き方をやっと完璧にしたと思ったら、実は二次方程式もあるんですと言われた。それは、私にはまだ早い。それは二年生で習うんです。まだ私は一年生。方程式までをきちんと解ければ、誰にも文句は言われないはずです。
「津々楽さんは、吹奏楽部ですか?」
 彼女は脇に置かれたキャリーケースを見て言った。
「うん」
 担当楽器も訊かれた。フルートだよ。木管の――そう、横笛。
「今日は練習ですか?」
「ううん。香田で演奏会があって。その帰り」
「そうでしたか」彼女はベンチに座り直し、正面を見た。「あまり音楽には詳しくありませんけど、機会があれば、聴いてみたいです。津々楽さんの演奏」
 口ぶりは、やっぱりどこか冷たい。本当に聴きたいと思ってくれているのか怪しいものだ。
 でも彼女にしては、丁寧な言い方だった。ぎこちなくて、無理をしているのが分かる。気を使ってくれているのだ。きっとそういうのは苦手なんだろうなと、私は思った。たぶんそういう場面が、日常にないのだ。
 私はこの子とやっと普通の話題で話すことができたのが、ちょっぴり嬉しかった。
「もろの木さまの力が、弱まっています」話が戻る。とても強い口調だった。「目に見えない、色んな種類の『毒』が、少しずつ、この天原町に入り込んでいます」
 彼女は「毒」と表現した。さっきの声も言っていた。「大きな力」が入り込んでいる。それは、人と人とを切り離す。
「今日も、コノを介してもろの木さまの声を聞こうとしました。でも、『カミクチ』は、やっぱり五気が同じ気質でないとだめなようです。コノも全く役に立ちません」
 僕のせいじゃないやい――コノが憤慨した。
 神様に直接お伺いをたてる口寄せを「カミクチ」というらしい。「カミクチ」によって、初めて神様の「御言葉」を聞くことができる。「御言葉」は、コノのような八百万の獣を介した口寄せでは、聞くことができない。土行の社美景では、木行の気質であるもろの木さま本人とは“直接”話すことができないのだ。
 対する私は木行。もろの木さまの声を、直接聞くことが出来るのだ。
 いや、“出来た”のだ。私はさっきまであの、時間の流れない、白黒の人々の世界で、「カミクチ」をしていた。
 あの声は、もろの木さまの、御言葉だったんだ。
「何とかしてもろの木さまにお伺いをたてて、力が弱まっている原因を探って、天原を“元通り”にしなければなりません。それは、津々楽さんにしかできません」
 私はすっかり怖気づいてしまった。私は既に、彼女の希望通り、もろの木さまの声を聞いた。お伺いを、たててしまった。彼女の知らないうちに、あっさりと。
 そして私は、そのことを彼女に言えない。切り離されていく人々のことを、言えない。少しずつ黒くなっていく人々のことを、言えない。
 あなたがひどく切り離されて、真っ黒になってしまっているだなんて、言えない。 私は守られていると、もろの木さまは言った。でも同時に、社美景に何もしてやれないとも言った。私が木行で、彼女が土行だからなのか。それとも、あまりに切り離されてしまっている人は、神様にはどうにもできないのだろうか。
 神様にどうにもできないのに、私にどうにかできるのだろうか。
「――私には、たぶん無理だよ」
「それはやってみないと分かりません」
 社美景は、真っ黒な瞳でこちらを見た。
「そうかも知れないけど……」
 この天原町は、毎日同じことの繰り返しで、退屈で仕方なくて、そしてとっても平和だ。テレビ画面で繰り広げられている「物騒なこと」は、まだこの町には辿り着いていない。みんなそう思っている。私も、そう思っていた。何か「大きな力」がこの町の平和を脅かしているだなんて言ったところで、町の人たちは誰も信じない。実際に何か大きな事件が起こったわけでもない。今日も駅前広場は夕日で照らされているし、きっと明日も照らされる。何も変わったりしない。
「コノだって、しっかりサポートしますから」
 社美景は、どうしてここまで必死なのだろう。私は不思議に思った。天原町に入り込んでいるという「大きな力」のことも、どういう経緯で知ることになったのだろう。そして、なぜ彼女は真っ黒になるほどに「切り離されて」しまっているのだろう。
 彼女のことをもっと知りたい。そう思った。力になれるかどうかは分からない。力になりたいと、私自身思っているのかどうかも、正直ふらついている。
 だから、それらの判断も、彼女を知ってから。それからでは駄目だろうか。
「美景ちゃん」
 私は立ち上がって、キャリーケースを肩に掛けた。突然名前で呼ばれた“美景ちゃん”は、口をぽかんとさせていた。
「また、会おうよ。今度は友達も連れてくる。あと、フルートも聴かせてあげる」
「なんですかそれ。出来るのはあなたしかいないって、言ってるじゃないですか」
 美景ちゃんも立ち上がった。コノは何も言わずにぷかぷかと上下に動いている。何だかとても嬉しそうだ。
「私ね、一人じゃ何も出来ない自信があるよ」
 なんですかそれ。美景ちゃんは同じ台詞を繰り返した。
 そう言えばと、私は思い出した。「私ね、ユズちゃんと話してたの。あなたに、友達になってくれるように頼んでみようかって。来週も同じ時間、ここにいる?」
 訳が分からないという顔をしている美景ちゃんを見ているのは、ちょっと楽しい。
「そりゃいいや!」コノが両手を広げて言った。「もちろんいるともさ。その子も連れて、茉里もまたおいでよ。僕らは大歓迎だよ」
「ありがとう、コノさん」
「どういたしまして、それから僕のことはコノでいいよ」
 そんな会話を交わす隣りで、美景ちゃんは何か言いたそうにしていたけど、最後には「午後四時です。時間通りに、必ず来て下さい」と言った。ユズちゃんを連れてくることに関しては、好きにしてください、だそうだ。
 もろの木さまも言っていた。「もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている」って。
 私も、そう信じたい。
 天原町は、へんてこな町だと思う。何が変かって、変なことが起きても、もう次の日には、それも案外普通のことかもしれないと思えてしまうところだ。
 私はただの横笛吹きではなく、木行の気質を持ち合わせた横笛吹きだった。座敷童――もとい社美景、美景ちゃんと出会い、もののけさんと名前を呼び合う仲になり、神様の声も聞いた。そして、頼まれごともされてしまった。巻き込んでしまってすまない、とまで言われた。
 これほどおかしな案件を持ち帰ってきたというのに、次の日にはもうどこから手をつけようかと、冷静に考えている自分がいた。この天原に忍び寄っている「大きな力」とは何なのか、静かに推測していた。
 なんだか忙しくなりそうだ。私は思った。
 今年一番の出来事――このときはまだ、それは起こっていなかった。
 それは突然、全然違う方向からやってくる。
 神様にお願い事をしたことはなかった。切迫して、衝動的に手を合わせることなんて、今まで一度もなかった。私はそれだけ、恵まれた生活をしてきたのかもしれない。
 神様、どうにかしてください――十月ももう終わろうとしていた頃、私は生まれて初めて、神様にお願い事をした。

 月曜の朝、チャイムが鳴り終わってもユズちゃんの席が空いていた。
 担任の三橋先生が入ってきて、日直が号令をかける。先生はちらりとその空席を見た。眼鏡越しに見える目は、いつもの優しい目だったけど、すこし強張っていた。礼が済むのを待って、先生は口を開いた。
 杠さんは、ご家庭の都合により、今週はお休みされます。授業のノートは、皆さん交代で取ってあげて下さい。それから――
「ノートとプリントを持っていく係は、津々楽さん、お願いできますか?」
 三橋先生は、まるで最初から決めていたように、私を見た。
「――はい」
「ありがとう。では、出席を取りますね」
 いつもの穏やかな声で、淡々とクラスメイトの名前が呼ばれていく。さしたる連絡事項もなく、先生は出席簿を教卓にとん、と立てた。
 朝のホームルームが終わった後、私は職員室に呼ばれた。
「すぐですよ。もちろん、説教なんかじゃありませんから」
 先生はにっこりと笑顔で言ってくれたけど、やっぱりちょっと目が強張っている。 教室から職員室までの廊下は、いつもより長く感じられた。三歩前を歩く三橋先生の背中が軽く左右に揺れている。
「先生。ユズちゃんに何かあったんですか?」
 耐え切れなくなり、職員室のドアの前で、私は訊いた。
「津々楽さんからは、何も?」
「聞いてません」
 演奏会に来てくれると言っていたことも、先生に話した。おばあちゃんと一緒に来てくれると、ユズちゃんは言ってたんです。でも、来なかった。
「大丈夫。心配しないで下さい」
 職員室は、いつものコーヒーの匂いと、給湯室から来るたばこの臭いが入り混じっていた。一応分煙するために、吸い殻入れが給湯室にだけ置いてあるのだ。職員用の机のうち七割以上の席が空いていたけど、その机の大半はずいぶんと散らかっていた。
 添削中の理科の小テストとか、付箋やプリントが挟まって分厚くなった教科書、コンビニ袋に入った菓子パンもあった。英語の筒井先生の机には、ワークが三クラス分、うず高く積み上がっていた。
 三橋先生は自分の席へ歩いていき、椅子に座った。他の机と違って、三橋先生の机はとてもよく整理されていた。
 先生は、私を振り返った。
「先週土曜日の朝、杠さんのおばあ様が病院に運ばれたそうです」
 私は先生の言葉を頭の中で反復した。無言で十回くらい、「病院」と「運ばれた」を反復した。
「昨日の夜、お母さんから電話がありまして、今はもう落ち着いているようですが、しばらく目が離せないそうです。そういう状態なので、杠さんも、学校には来れません。分かりますね?」
 ほとんど息を吐いただけのようなかすかすの声で、私は「はい」と言った。
 あの演奏会の日の朝、ユズちゃんのあばあちゃんは倒れた。他でもないユズちゃんがそれに気が付いて、すぐに救急車を呼んだらしい。今は柿倉市の総合病院に入院しているという。先生が状況をそんなふうに話してくれたけど、それ以上のことには言及しなかった。
 土日の二日間、杠家は大変なことになっていたのだ。変な噂ばっかり早く広まるくせに、こういうことには「天原町の噂好き」も、てんで役に立たない。
 そして、先生は私に訊いた。
「津々楽さんは、杠さんの、一番のお友達ですね」
 無意識に、私は頷いた。そのつもりです。
「会いに行ってあげてください。ノートやプリントを渡すだけでなく、話を聞いてあげてください。今の杠さんには、それが大切ですよ」
 穏やかな声だったけど、三橋先生はとても真剣だった。
「はい、分かりました。でも、会いに行くなら私だけじゃなくて、バスケ部の友達とか、他の子からも元気づけたりしてあげた方が」
 先生は、かぶりを振った。それではいけません、と。
「“みんな”が相手では、恐らく杠さんはみんなに心配されないように、作り笑いをしてやり過ごしてしまうでしょう。それでは、杠さんへの“お見舞い”の意味がないのです。今回のことで、杠さんが一人で抱え込んでしまっていることがあります。それについて、私が詰め寄っても逆効果ですし、大人がただ事実を言い当てようとしたところで、やはり意味がないのです。それを吐き出せるように、津々楽さんだけで、行ってあげてください」
 私は黙って頷いた。どこか、含みのある言い方だった。そもそもユズちゃんと仲が良いというだけで、わざわざ職員室で状況を話してくれるのも、よく考えたらちょっと変だ。
 ユズちゃんは強い。強いけど、今はすごく心配だった。そう思う私の気持ちを、三橋先生は察してくれたのだろうか。
 放課後、私は部活を休んでユズちゃんのおばあちゃんが入院している病院へ向かった。家には、学校の電話を借りて連絡を入れた。お母さんの耳にも入ってなかったようで、三橋先生がかけてくれた電話口から、びっくりするほど大きな声が聞こえた。
 お母さんと先生との会話の中で、「脳梗塞」という病名が聞こえた。それを聴いたとき、背中がざわりとした。先生は声を小さくして、出来るだけ私に聞こえないようにしていたみたいだけど、残酷にもそれが、一番はっきりと聞こえた。
 柿倉市立総合病院のある柿倉駅は、天原駅から上り電車で三駅だった。演奏会のあった香田市とは逆方向になる。正面の改札口から出て、道路を挟んだすぐ目の前に、その病院はそびえ立っている。小さい頃、水疱瘡にかかったときにこの病院に通っていた。ただっ広い駐車場と、くすんだクリーム色の外壁を、うっすら覚えている。
 あんなに大きな声で笑い、あんなに元気に竹ぼうきを振り回し、あんなに柔らかい笑顔だったユズちゃんのおばあちゃんは、小さく縮んて病室のベッドに横たわっていた。
 言葉を失うほど、小さく見えた。色も、黒ずんで見えた。老いた身体の臭いと、消毒薬の臭いが混ざり合っていた。
「ちょっと、茉里ちゃんじゃない!」
 ベッドの脇には、ユズちゃんのお母さんが座っていた。おばあちゃんほどではないけど、どこか小さく見える。病室を訪れた私を見るとすぐに立ち上がって、駆け寄ってきてくれた。
 おばさんの明るい二重の瞳や、笑うといたずらっぽくなる口元は、ユズちゃんとそっくりだ。すらりと背が高くて、綺麗な人だった。会ったときはいつも、優しくて魅力的な笑顔を分けてくれる人だった。でも、今近くで見るおばさんは、白髪と皺がすごく目立った。笑っているけど、悲しげな笑顔だった。
「部活があるんでしょ? 休んで平気なの?」
「はい。顧問の先生には言ってあります」
「そうなの――ごめんなさい、津々楽さんのところには、すぐにきちんとお知らせしなきゃと思っていたんだけど、ばたばたしちゃってて。本当に、びっくりさせちゃったわね」
 ありがとう、来てくれて。おばさんは言った。
 私はベッドの僅かな膨らみと、静かに呼吸する皺だらけの顔を見た。ユズちゃんのおばあちゃんに取り付けられた人工呼吸器のチューブが、本当におばあちゃんは倒れてしまったんだと、私に実感させる。息が詰まりそうになり、鼻の奥がつんとした。
 おばさんは病室の隅に重ねてあったスツールをひとつ出し、私に勧めてくれた。お礼を言って、私が座ったのを見届けてから、彼女も自分の椅子に座り直した。
 おばさん訊いて下さい。
 金曜日、お風呂に入れてもらいに行った時は、全然こんなんじゃなかったんです。
 いつも通りすごく元気で、ユズちゃん――奈都子さんを怒鳴りつけるくらいだったんです。
 本当にこんなふうになるなんて、私信じられません。
 どうしてこんなことになっちゃったんですか?
 おばあちゃんは、どこが悪かったんですか?
 大丈夫ですよね?
 助かるんですよね?
 まさか、死んじゃったりしないですよね?
「私、また元気になるって信じてます」
 言いたかった言葉を全部飲み込んで、気付いたら私は、そう口にしていた。
 私は津々楽茉里だ。杠家の親戚や、まして家族ではない。余計にうろたえたり、余計に悲しんだり、してはいけない。
 そうしても許されるのは、孫のユズちゃんだけだ。
「――そうね。茉里ちゃんが来てくれて、お母さんも喜んでるわ」
 おばさんは、弱々しく微笑んだ。
 これは後から知ったことだけど、ユズちゃんのおばあちゃんは脳卒中だった。
 かかりつけののお医者さんに、以前から血圧が高いことを心配されていた。高血圧と加齢からくる動脈硬化もあり、乳製品やマグネシウムを含む食品を勧められていた。おばあちゃんはお医者さんの言うことを守って、ごまを使った料理を多くしたり、苦手だった乳製品も、出来るだけ食べるようにしていた。きちんと予防していたのだ。
 それなのに、おばあちゃんの動脈は硬くなり、弾力を失っていった。
 土曜の早朝、おばあちゃんの心臓でできた血栓は血液中を流れていき、脳に到達した。血管が詰まり、脳卒中を引き起こした。
 急性期の心原性脳梗塞だ。元気だと思っていたユズちゃんのおばあちゃんは、導火線付きだった。
「すみません、奈都子さんは?」
 私はおばさんに尋ねた。ユズちゃんの姿がなかった。
「ああ、そうよね。奈都子は先に帰ったわ。やらなきゃいけないことがあるって。一人で帰すのも心配だったんだけど、お母さんのことも一人にしておけなくて」
 おばさんが迷っていると、ユズちゃんは言ったそうだ。私は一人で大丈夫、と。
 大丈夫なもんか。つよがり。
「今日の授業のノートとプリント、持ってきたんです」
 そう言えば、家族以外の大人と話すときはいつからか敬語になっていた。でも、ユズちゃんのおばあちゃんと話すときだけは違った。小さい頃からの言葉づかいが、今でもそのままになっていた。
「茉里ちゃんは優しい子ね。何だか申し訳ないわ。どうもありがとう」
 おばさんは大袈裟すぎるほどのありがとうを、たくさん私に浴びせた。
「ノート、私が預かっておくわね」
「いえ。私、直接渡します。奈都子さんに用事もあるので」
「あらそう? いやだわ、何から何まで本当に迷惑ばっかり――そう言えば土曜日も奈都子たち、茉里ちゃんの演奏会に行く予定だったのよね? ごめんなさい。すっぽかしちゃったわね――」
 おばさんは目を伏せる。私はかぶりを振った。
「また年明けにあります。演奏会。その、すごく楽しみにしてくれてたんで、次は来てほしいなって、思います」
 今日は音楽室に置きっぱなしにしてきたフルート。彼はケースに入って、部屋の奥の棚で、静かに眠っている。私程度のレベルの演奏者なんてたくさんいるし、耳の肥えた人からすれば、中学生の吹く横笛なんて、聴くに堪えないのだろう。
 でも、私のフルートを聴きたいって、言ってくれる人がいるのだ。孫の友達だというだけで、応援してくれる人がいるのだ。
 明日は部活に行こう。きちんと、練習しよう。そう思った。
 病院を後にした頃には、もう十七時を回っていた。
 陽が落ちるのがどんどん早くなる。柿倉の駅の周りは新興住宅地で、天原と比べれば二世代くらい若い街だ。真新しいマンションがドミノ見たいに並んでいる。
 背の低い建物がごちゃごちゃしている天原とは違い、計画的に区分けされ、優れた外観にデザインされ、ゴミ捨て場さえも清潔で、自分と他人とは、セキュリティという壁できちんと仕切られていた。
 マンションとマンションの隙間から、ぎりぎりの太陽が最後の力を振り絞って、街に光を浴びせていた。横断歩道を渡る私の東側に、長い長い影が伸びている。
 柿倉駅のホームで電車を待ちながら、私は考えた。
 どこか違和感がある。今朝、職員室で三橋先生と話した時から、うっすら感じていた。ユズちゃんのお母さんに久しぶりに会って、話して、その違和感はますます膨れ上がった。大人たちの話す言葉のその行間から、妙なぎこちなさを感じる。
 ただの杞憂に終わってくれればいいのだけど。


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