青々と茂った背中の巨木は、朝からたっぷり光を浴びてますます葉を艶めかせた。春の陽気に誘われて見晴らしのいい丘の上で日光浴をしていると、どこからともなくムックルたちがやってきて、思い思いの枝に羽を休め始めた。
何とも平和な午後だった。
グレスは足元でまばらに散りばめられた色とりどりの花を見て、にっこりと微笑んだ。どれも小さいながらも美しい、可憐な花々である。実のところ、今年もこの光景を見られるものか、グレスは少し心配していたのだ。
グレスは齢三百を超える大きなドダイトスだ。他のどのポケモンよりもたくさんの春を経験してきたのだから、今年の春がいやに遅いことは彼の不安を駆り立てた。
このレインボーアイランドは、七色列島の中で最も豊かな四季の巡る島だ。その恩恵を受けて、他の島々より遥かに多くの種類のポケモンたちが暮らしている。
島の中心に大きくそびえる霊峰、アルカンシエル。それがこのレインボーアイランドの象徴であり、島の名の由来でもあった。灰褐色をした山肌は悠々と天を突き破り、遥かな頂には七色の虹が橋を架ける。その虹は、何故か昼であろうと夜であろうと、雨が降ろうと雪が降ろうと、何が起きても輝き続けた。聖なる山と呼ばれた由縁である。
そこには神々に最も近い存在の竜たちが住むと言われているが、何とも確かめようがないので分からない。不思議なことに、山には近づくことはできても登ることはできないのというのだ。山頂目指して山道を歩いているとたちまち深い霧にもまれてしまい、登っているのか下っているのかも分からぬうちについにはふもとへ出てしまう、といういわくである。そのような少々不気味な匂いの漂う噂がある上に、そもそも神聖な山に登ろうという輩自体が少ないため、真偽は定かではない。
そのアルカンシエルの頂から虹が消えたのは、いつの頃だったか。威風堂々といった様子で空を割る雄大な姿そのものは変わりないのに、虹が消えた山頂には、代わりに真っ白な雲が帽子のように被せられるようになった。もちろん、こんなことはグレスの長い生涯の中で初めてのことである。
七色の神鳥を崇めるこの七色列島で、山の虹が消えたなど、不吉な予兆にしか聞こえない。他所の島では近ごろ木の実の出来が悪く、腹を空かせたポケモンが食料を強奪するというおっかない話も聞く。また、とある島が何ヶ月もの間ひどい吹雪に襲われたとか、あるところでは干ばつ、またあるところでは水害と、ここ数年の異常気象は目を見張るものがある。
幸い、この島ではまださほど悪い噂は聞かないものの、これはやはりというか、何かとてつもなく恐ろしいことが起こる前触れではないだろうか。例えば、そう、古くから伝わる、あの伝説のように。
グレスはつかの間目を閉じた。希望がないわけではないのだ。ただ、今はまだ、黙って見守らねばならない。あの子らは、その身が持つ意味を何も知らない。全てを伝えるには、まだ、あまりにも幼すぎる。
グレスは胸につかえる重苦しい気持ちを吐き出すように大きく息をついた。すると、背中の木が揺れたのだろう。ムックルたちが次々と不満げに鳴き出した。
「おお、すまんね。チビどもや」
しわがれた声でそう言うと、ふと、あの子らが村に来た日のことを思い出した。あれは確か、山から虹が消えた翌日のことだったか。崖っぷちに横たわる産まれたばかりの二匹の幼子と、それを頑なに守ろうとして行方知れずになった獣の姿。今でもありありと思い出せるのは、それだけあの出来事がグレスの中で印象深かったということなのだろう。
すると――
「おーい、グレスじいちゃーん!」
甲高い子供の声がして、グレスははっと顔を上げた。驚いたムックルたちが一斉に飛び立っていく。幾重にも重なる羽音を聞きながら目を凝らすと、丘の下から、何匹かのポケモンが駆け上がってくるのが見えた。一、二匹……いや、少し離れたところに三匹目。
グレスは最後尾をゆっくり走るそのポケモンに目を止めるや、驚きのあまり釘づけになってしまった。先ほど思い起こしていた記憶の中の姿と何ら変わらない、そして、この島ではまず見ることのないそのポケモン。
「デルビル……なんとお前さん、生きておったのか!」
グレスが叫ぶと、デルビルは驚きの表情を浮かべた。先に丘を上り切った二匹は、一体全体何のことかときょとんとする。
二匹のうち、青色の耳をした方が何か言おうとしたとき、ずっと後ろにいたはずのデルビルが風のような速さで走り寄るなり間髪入れずに口を開いた。
「お前、おれのことを知っているのか!?」
そのあまりの勢いに、さしものグレスも顎を引いた。
「んん……? 何じゃお前さん、あのときのデルビルではないのか? わしはてっきり……」
「バウト、おじいちゃんと知り合いなの?」
先着組の赤い耳の方がデルビルを見上げると、彼ははっとしたように我に返り、何ともばつの悪そうな顔をして半歩退いた。
「あ……いや、すまない。おれの勘違いだ。……とりあえず、こいつらの話聞いてやってくれ」
グレスは訝しげに瞬きをしたが、特に話を掘り返そうとも思わず、デルビルが鼻先で指し示した二匹に視線をやった。
「ノウ、リオ、わざわざこんなところまで。一体どうしたんじゃ?」
同じころ。
「ねぇランディ、もう戻ろうよぉ。お腹空いたよぉ」
「そうよ、もうそれがいいわ! なんだか怪物みたいな声も聞こえたし、ノウくんたちもきっと引き返してるわよ!」
「うっさいなー、マルル、チェルシー。今そうしようと思ってたところだよっ」
薄暗い森の中、三匹の子供たちは互いの不安や苛立ちをぶつけるように言い合っていた。
好奇心につられて足を踏み入れたはいいものの、どんなに歩き続けても、森の表情は変わらぬまま。不健康そうな細い木々が見渡せるずっと先の方まで立ち並び、真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、まるで堂々巡りをさせられているかのようである。幾重にもなった頭上の木の葉は意地悪く、日の光をすっかりしっかり遮ってしまっているため、時間も方角もさっぱりだ。木に登って太陽の向きを探ろうとも試みたが、どれも背伸びをしているみたいに垂直でとっかかりがない上に、つるつるの木肌が邪魔をして、もともと木登りの得意でない三匹にはどうすることもできなかった。
足取りは不安とともに重くなり、口を開けば八つ当たりめいた不満が何よりも先に飛び出した。
先頭を歩いていたランディは立ち止まり、むっつりとした顔で後ろにいたウパーとチェリンボを見回した。
「だいたい、何もないじゃんかこんなとこ。UFOも見失っちゃうしさ。これで大人たちにここへ行ったことがばれたら、おれたち怒られ損だぞ!」
「いいよぉそんなこと……それより早く帰ろうよぉ」
マルルがすっかり疲れた様子でそう言うと、ランディはニドラン♂特有の小さな針を尻尾の先までぴんと尖らせて声を荒げた。
「よくないっ! そもそも、ノウの奴が言い出しっぺだろ。リオも勝手に飛び出してったしさぁ。あいつらマジどこ行ったんだよ」
突然冷たい風が吹き抜けて、大きく木々がざわめいた。緑の木の葉が不気味に踊り、からかうように擦れ合う。
三匹はごくりと息を飲み込んだ。さっと青くなった顔を見合わせて、互いに互いを勇気づけるよう頷き合う。
「……よし。じゃあ、戻るぞ。おれがまた先頭を歩くから、お前らしっかりついてこいよ。……番号! いちっ!」
「にぃ!」
「さん!」
「よん」
「……よん?」
ランディは声につられて振り返った。マルルとチェルシーも同じように後ろを見た。
にぃっと笑った真っ赤な瞳と目が合った。
「……え」
子供たちは、最初、呆然とそれを見つめた。
いつの間にか隊列の一番後ろに、見たこともない、真っ黒で大きな布のようなものが加わっているではないか! 真っ赤に充血したみたいな目がぱちぱち瞬くと、見る間に三日月型に布が裂け、ニタリと白い歯を覗かせる。
ランディの全身の針がぞっとそそけ立った。
「うわああぁぁぁ! で、出たあぁぁぁ!」
子供たちはありったけの声で叫ぶと、たちまち弾けたように駆け出そうとした。が、皆恐ろしさのあまり足がすくんで動けない。
そいつはケケッと不気味に笑うと、ふんわり宙に浮き上がり、腰を抜かした三匹の前へ音もなく着陸した。
「まぁ、そんなビビるなよ。まだ何もしてないだろ?」
声は、さほど気味の悪い感じはせず、どちらかといえば陽気ささえ感じさせる軽い調子だった。それでも、その声色には得体の知れない響きがあった。一本残らず逆立った全身の針が、信用してはならぬ、と告げている。
ランディは空気を食べるかのようにぱくぱく口を動かした。何かを叫ぼうとしたはずだった。こんなお化けがいるなんて聞いてない、来るんじゃなかった、と。だがしかし、まるで水の中にいるみたいに、自分の言葉がぼやけて聞こえる。いや、そもそも、言葉を言えてすらいないのだ。何か言おうとしても、舌がもつれて、あーとかうーとかいう唸りしか声にならない。
心の奥底に風穴を開けた恐怖が何もかもおかしくさせる。
マルルは地面に尻餅ついたまま、狂ったように小さな足をぱたぱたさせて、チェルシーは顔を萎びた果実みたいにひきつらせ、つぶらな瞳からは今にも涙が溢れんばかり。
真っ黒な布の奴は、やれやれとでも言うように両の手のひらを上にかざした。
「いいから、まぁ、ちょっと聞いてくれよ。お前ら、あのガキどもの知り合いか? あのマイナンとプラスル――ノウと、リオ、だっけか?」
特に返事を待つつもりもないらしく、布は続ける。
「実はおれもあいつらのこと探しててさ。お前らも探してんだろ? ……だったら、ちょっと手伝ってくれよ」
その瞬間、景色が歪んだ。真っ黒な布の体から、薄気味悪い紫の霧のようなものが噴き出して、たちまち辺りを包み込む。霧は、ゆっくり、ゆっくり、三匹の周囲を煙のようにたなびいて、近づいてくる。
何も言えぬまま、ただただ恐怖を湛えた瞳で見上げる小さな子供たちに向かって、布は、いかにもわざとらしい、優しくあやすような口調で言った。
「ケケッ! なぁに、ちっとも痛くねぇさ……ほんのちょっと大人しくしてるだけで、すーぐ終わるからな」
真っ赤な瞳が怪しく光る。
微かに残った意識の切れ端で、ランディが最後に見たのは、夕闇色の霧の中、白い三日月がにぃっと笑うところであった。