「何だ、今の技は……」
もはや気合玉で受けた痛みなど気にならぬほど、バウトはその光景に目を奪われていた。
怪鳥は翼や足を広げたまま地面にひっくり返り、今度こそ完全に動かなくなった。
あの巨体を弾き返した、見たこともない七色の光の波。ちっぽけなマイナンがあんな力を秘めているなど、到底信じられない。
同じように、アグノムもまた驚きを隠せない様子でのろのろと呟いた。
「今のは……竜の、波動……まさか、血筋とはいえ……あの状態で……」
慌てて兄の元へ行き抱き起こすプラスルをぼんやりと見つめながら、アグノムは苦い笑みを溢した。
(どうやらリオも、影の気配を感じた様だったし……なんだか昔の“彼女”を見ているみたいだ)
「ノウ、大丈夫!?」
「リ、オ……? ぼく、何が、どうなったの……?」
震えるまぶたを瞬いて、ノウは静かに顔をあげた。
「えっと、わたしも、よく分からなかった……ノウがものすごい光に包まれて、そしたらあのポケモンが……あっ」
当の怪鳥に目をやってから、リオは驚きのあまり言葉を切った。
仰向けになったアーケオスの体から、みるみるうちに薄気味悪い紫の霧が湧き始めたのだ。
夕闇の色をした霧は、この世の嫌なものを練り上げて作られたのではないかと思うほどに禍々しい気で満ちており、見ているだけで鳥肌が立った。言いようのない不安がリオの心の底を駆け巡る。この霧に触れたら――ほんの手の先でも触れてしまったら――何か自分ではどうしようもない、恐ろしいことになってしまう。そんな不気味な予感がして、リオはつい体を硬く強張らせた。
「なんなの、これ……」
霧はますます濃く渦巻き、とうとうアーケオスの体が見えなくなるほどまで覆い被さると、上空に向かって煙のように立ち上っていく。すると、再びアーケオスの体がびくりと反応した。
「うわっ、まだ戦うの!?」
慌てて起き上がろうとしたノウの背後で、アグノムがささやいた。
「大丈夫……もう、心配はいらないよ」
「え……?」
やがて霧は完全に空へと消え去り、アーケオスがのっそりと起き上がった。寝惚けたように頭をかき、すっかり邪気の抜けた顔つきで辺りを見回す。
「うぅ、頭いてぇ……どこだよここ……」
アーケオスは唸るような声で呟くと、鱗の隙間から覗く大きな目が何度も瞬きを繰り返し、ぶるりと一つ頭を振るった。それから足元に固まるノウたちに目を留めるや突如翼をばたつかせた。
「な、何なんだお前ら! どうなってんだよぉ!」
「へっ?」
そのあまりの豹変ぶりにノウとリオはすっかり面食らってしまった。
あれだけぎらぎらと鋭い殺気を振りかざしていたのに、今のアーケオスからは闘争心の欠片も感じられない。つい先ほどまで暴れていたポケモンとは思えない、ひどい怯えぶりである。
「ねぇ、あの……ちょっと待って、落ち着いてよ……」
「ひぇぇ、勘弁してくれー!」
巨体に似合わぬ情けない声をあげると、アーケオスはたちまち翼を震わせ飛び立とうとした。
が、そのとき。鋭い風が吹き抜けて、アーケオスの後ろから、黒犬が翼を押さえ込むようにして噛みついた。ぎゃあ、という悲鳴とともに、勢い余ったアーケオスがつんのめって倒れ込む。
「答えろ。貴様の主はどこだ」
背中を銀色の輪がついている前足でしっかり押さえ、翼に白い牙を食い込ませた獣は、低く唸りながらそう言った。
抵抗すればもっとひどい目に遭うことを悟ったのだろう。アーケオスは顔を歪ませながらも身動き一つせず、肺から搾り出すようなうめき声で言った。
「し、知らねぇよ……なんだよ、主って……」
「知らないわけないだろう」
「ほ、本当に知らねぇって……!」
獣が顎の力を強めたらしい。アーケオスがまた悲鳴をあげた。とても何か隠しごとがあるようには見えない。
そのあまりの光景を見ていられず、リオはぎゅっと目をつぶった。
「ねぇ、何もそこまでしなくても……!」
ノウが叫んでも、バウトは見向きもしなかった。
自分の何倍も体格差のあるアーケオスを押さえつけている力は相当なものらしい。駆け寄ると、バウトの肩の辺りの筋肉が大きく盛り上がっているのが分かった。そのせいだろうか、決して大きなポケモンというわけではないのに、ひどくいびつな形をした、巨大な生物に見えてしまう。
「やめるんだ! 彼は何も知らない」
アグノムが痛みを堪えた表情でどうにか声を張り上げると、ゆっくりと唸り声が消えていった。前足は獲物を押さえたままの状態で、ようやくバウトは顔を上げた。
「どういうことだ」
「言った通りの意味だよ……彼は、本当に何も知らないはずだ」
バウトは何も言わず、ただ探るような眼差しでじっとアグノムを見つめた。
緊張した空気が両者に漂う。
が、アグノムの表情から何かを悟ったのだろう。バウトは立ち上がると、何ごともなかったかのようにひょいとアーケオスの背から飛び降りた。
背中の圧迫から解放されたアーケオスはよろめきながら起き上がると、少しの間、戸惑うように黒い獣と青い精霊とを見比べていたが、誰も何も言わないのを見るとそそくさと飛び去っていった。次第に小さくなっていく怪鳥の姿を、双子は並んで見送った。
「なんだか……さっきとずいぶん様子が違ったね」
「う、うん、あんなにおっかなかったのに……」
「今のが、あのポケモンの本来の姿なんだ」
アグノムが暗い光をたたえた瞳でアーケオスの姿を見上げた。
「アーケオスって種族は、もともとは、ああいう性分なんだよ。気が小さくて……争いも、あまり好まない。さっきまで暴れていたのは、あのアーケオスの意思じゃない……」
バウトはちらりと興味なさげに空を見上げただけで、すぐに視線をアグノムに戻した。
「どういうことなんだ。あいつは何も知らないで、お前を攻撃していたって言うのか?」
「きっと自分が何をしていたのかも、覚えていないはずだよ……彼は、操られていただけだから」
「操られてた?」
リオは顔を曇らせた。不意に、あのときの不思議な声を思い出したのだ。
誰の声かは分からなかったけれど、あのアーケオスが苦しむ様子をまるで嘲笑うかのようだった嫌味な声。
そういえば、あれが聞こえてからアーケオスの暴れ方が激しくなった気がする。
「じゃあ、さっきのあの声は……」
「声? 何の?」
リオの言葉にノウが首を傾げた。
「聞こえなかった? すごく嫌な感じの、笑い声みたいな……」
「えー、そんなの全然聞こえなかったけどなぁ」
「本当? おかしいな……」
謎の声を思い返しているうちに、リオは改めてぞっとするものを感じて身震いした。不気味な抑揚が何度も頭の中に繰り返し、ねっとりとこびりついたように離れない。
「リオ……きみの聞いたその声が、あのアーケオスを操っていた、影のものだ。ぼくにも、聞こえた」
「影?」
リオは重々しげにアグノムを見た。
「影って、一体何なんですか? ポケモンなの?」
「今は、そう呼べる存在ではないのかもしれない。生き物でさえ……ないのかもしれない。奴は……心が不完全なんだ。真っ暗な闇しか、知らないから」
リオは、はっとしたようにアグノムを見た。その言葉の中に、これまでの彼の口調とはほんの僅かに違う響きを感じたのだ。
それまで暗く沈んでいたアグノムの顔には、苦々しげな笑みが浮かんでいた。だが、リオがその表情の意味を考える暇もないうちに、すぐにまた真剣な表情に戻ってバウトに向き直った。
「……遅くなってしまって申し訳ない。きみが割り込んでくれなければ、きっとぼくもこの子たちも命はなかった。助けてくれてありがとう」
突然の感謝の言葉に、バウトが少し戸惑ったように目を見開いた。
「……別に、助けるつもりで来たわけじゃない。礼ならさっきもあいつらに言われた。そんなことより、お前は奴を影と呼んでいたな」
アグノムは頷いた。
「奴が、表に出てくることはほとんどない。大抵他のポケモンを操って、自分の思い通りに動かしてしまうんだ。あのアーケオスのようにね」
「だから影って呼んでるのね……」
リオは自分の胸にぎゅっと両手を押しやった。
あのアーケオスというポケモンは、すごく苦しそうだった。喉が潰れそうになるほど叫んで、訳も分からないまま、暴れさせられる。そんなひどいこと、もし自分だったら、たとえ同じ力を持っていたとしても胸が張り裂けそうになってしまってとてもじゃないができないだろう。アグノムは、心が不完全だといっていた。だからそんなことが平気でできるのだろうか。
「さっき、彼の体から空へ流れていった霧のようなものを見ただろう? あれが心の負の感情に取りついて大きくなると、ついには意思を無くして操られてしまうんだ。だから、心に隙ができてしまったポケモンなんかは、あっという間に奴の手のひらの上さ」
「そんな……そんなのずるいよ! 自分で戦えばいいのに」
ノウが息巻くのを、アグノムは静かな眼差しで見つめていた。
「……もちろん、奴も全てのポケモンを操れるわけじゃない。強い心を持つポケモンは意思を無くすことなんてまずないし、さっきみたいに、強い攻撃を受けて急に解けることもあれば、何かのきっかけで自然に解けることもある」
「そうまでして、奴は一体何がしたいんだ? お前を狙っていたことと関係があるのか?」
「それは……」
それまで淡々と話していたアグノムが初めて口ごもった。瞳に迷いの色が浮かんでいる。やがて考え込むように目を閉じて、小さなため息をもらすと、独り言のように呟いた。
「……奴は、きっともう、ぼくを狙ってくることはないよ……」
「何故そう思う」
「……奴が、ずっと探し続けていたものを……見つけてしまったから」
「探しもの?」
鋭く聞き返すバウトに対し、アグノムは苦々しげに言った。
「……すまない。それが何なのかは、今は言えない……ただ一つ言えるのは、奴がやろうとしていることは、この世界を危険な道に導くかもしれないことなんだ。それだけは、なんとしても阻止したい……」
そう語るアグノムの表情はどこか儚げで、空気に溶けて消えてしまいそうな感じがした。
それを見てバウトが胡散臭そうに鼻を鳴らした。
「いちいち回りくどい言い方をする奴だな。お前はおれに何をさせたい?」
アグノムは驚いたように目を見開いたが、静かな口調で答えた。
「……何をするのか、決めるのはきみの意志だ……ただ、すまない。ぼくにはもう、時間がないんだ」
「え……ちょっと、アグノム……?」
今目の前に見える光景が信じられなくて、ノウはつい目を凝らした。気のせいじゃない。本当に、アグノムの体が透き通って薄れている。それに、彼の体から青白く光る小さな球が、一つ、また一つと、泡のように空へ浮かんでは消えていく。
「だから、ノウ、リオ」
二匹は突然名前を呼ばれてびっくりした。
アグノムの体からは、なおも光の球が蒸気のように立ち上り続けている。自身の変化に少しも動じる様子もなく、アグノムが真剣な顔つきで双子に向き直った。金色の瞳の向こう側に森の木々が透けて見える。
「ノウ、リオ。これからぼくが言うことを、よく聞いて欲しい。信じられないかもしれないけれど、これはきみたちにしかできないことなんだ。もう、残された時間は少ない……できるだけ早くここを出て、旅に出るんだ。儀式に必要な透明な羽は、橙の島にあるはずだ。それを持って、三つの祠を巡って……後はきっと……祠の彼らが、教えてくれる」
「え? え……? 儀式って……?」
青い光の球はどんどん数を増していき、もう数え切れないほどの光の粒がアグノムの体を包んでいる。光の勢いが増すほどに彼の体は薄れていく。それにつれて、アグノムの声もまたかすれたように小さくなって、ひどく聞き取りづらかった。
「すまない……本当は、もっと詳しく教えてやりたいけれど……今のぼくには、これが限界だ。シアも……きみたちのお母さんも、いつか、こうなるときが来るって……分かっていたのかもしれない……」
一言一言が風の音で消されてしまいそうな中で、ノウとリオは、アグノムが口にした名を確かに聞いた。二匹の顔がみるみる強張る。
「アグノム、今、何て……」
「おかあ、さん……?わたしたちの、お母さんを知ってるの!?」
二匹が発した震えるような声からは、藁にもすがるような響きを含んでいた。その悲痛とも言える響きに、まだ何か言いたげだったバウトもつい押し黙った。
聞きたいことは山ほどある。それなのに、何も言葉になってくれない。緊張で膨れ上がった空気がどんどん喉の奥に詰まっていく。
果たしてそんな二匹の様子を、アグノムは、見止められただろうか。今の今まで彼がいたところは、もう小さな光の群れと化していて何も見えない。それでも彼の声だけは、遠い波音のように聞こえてきた。
「きみ……の、お母……は、まだ……会えない。でも……ずっと、き……たちを……」
「待って! ねぇ、待ってよ!」
アグノムの声が消えていく。
必死に伸ばした小さな手から、最後の光がすり抜けて宙に溶けた。
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お久しぶりになってしまいました……
何でこんなに時間かかったんだろう。多分アグノムのせいだ(←
すごい遅筆で申し訳ないですが、まだまだ書きたいこといっぱいあるので
これからもちまちま間を空けながら続きを投稿していきたいと思います。
少しでも気が向いたときに読んでもらえるとうれしいです。