夕闇の中、「銭湯ゆずりは」の明かりが灯っていた。
暖簾の隙間から漏れ出す光が、アスファルトを照らしている。入口のすぐ前に突っ立って、私はしばらくその光を見つめていた。
通い慣れた銭湯が、急に年老いてしまった気がした。主を失くした今の彼は、悲しいほど無表情だった。
今まで気付かなかったけど、えんじ色の暖簾は擦り切れてほつれが目立つし、黒くくすんでしまっているところも多かった。時折強いがぜが吹くと、曇りガラスの引き戸はかたかたと乾いた音を立てる。煙突のてっぺんからは、何も吐き出されていない。灰色の身体を木枯らしに晒して、震えていた。
今分かった。私にとって、ここはすごく大切な場所だったんだ。
ここは、私の一部だった。銭湯ゆずりはがなくなってしまう。それは、自分の手や足がもぎ取られるようなことだ。ユズちゃんのおばあちゃんがいなければ、この銭湯はやっていかれなくなる。今、私の身体は部分的に凍傷にかかってしまっていて、腐食が始まっているのだ。
放っておいたら、切断しなければ生きていけなくなってしまう。
急に生暖かいものが、頬に流れた。外気で冷たくなった顔を伝って、それは次々溢れ出て、紺色のマフラーに染み込んでいった。
私は銭湯ゆずりはの前で、ひとしきり泣いた。
鞄からポケットティッシュを取り出して、三回洟をかんだ。幸い通りに人影はなく、私は入口横の小さな植込みのところで、誰にも気づかれずに涙を拭き取った。
ユズちゃんのこと、何にも言えない。
私は静かに手を合わせた。もろの木さまを思い浮かべて、湯の神さまを思い浮かべて、それからコノのことも思い浮かべた。
どうかまた、ユズちゃんのおばあちゃんが元気になりますように。
真っ赤になった顔を冷ましてから、私は入口の引き戸を開けた。がらがらと、けたたましい音を立てる。
「あ、すみませーん! 今準備中なんです!」
少女の声が、番台の陰から聞こえた。ユズちゃんの声。私が聞きたかった、ユズちゃんの声だ。その声は、拍子抜けするほど明るく響いた。
番台の上に、ユズちゃんがひょこっと顔を出す。私を見て、彼女はとたんに目を丸くし、口を大きく開いた。
「茉里!」木製の天板に手を突っ張って、ユズちゃんは番台から飛び降りてきた。
「ごめんね! 土曜の演奏会行けなくって! うちのばあちゃんがさ、朝なかなか起きだしてこないと思ったら、ふすまのところにぶっ倒れてて」
ユズちゃんはあっさりと言った。彼女の頬には黒い煤が付いていた。頭にはいくつか綿埃が乗っかっている。
「急いで救急車呼んだんだけど、これがまたうちまで来るのに馬鹿みたいに時間かかってさ。やっと病院に着いたと思ったらあれよあれよと個室に入れられて。なんだっけ、集中治療室? とにかくずっと隔離されてて、そっからほとんど一日中手術。一応今はなんとか落ち着いてる。茉里にはすぐ連絡しなきゃと思ったんだけど、もうそれどころじゃなくなっちゃって、それで――」
そこまで一気に言ってから、ユズちゃんは急につっかえた。
「――ユズちゃん?」
自分が子供すぎて嫌になる。友達がこういう状態のとき、どうしたらいいのか見当もつかない。
「ご、ごめん。とにかく、今はお風呂無理なんだ」
弱々しい笑顔で、彼女はまた謝った。みるみる顔が赤くなって、眉間にきゅっと皺が寄った。目を伏せ、両手で口を抑える。手には、軍手がはめられていた。
少しのあいだ、沈黙が訪れた。風の神様はお構いなしに、入り口の引き戸をかたかたと鳴らしていた。脱衣所の灯りが一定の間隔でちかちか点滅している。三色の牛乳が入った冷蔵庫が、ぶーんと鈍い音を発している。
ユズちゃんは泣かなかった。代わりに小さな声で、「ごめん、大丈夫だから」と言った。
「ほんと?」
「うん、本当。大丈夫ったら大丈夫――全くなんで茉里なんかに心配されなきゃなんないのよ」
ユズちゃんは軍手を外して、番台の上に放った。
そりゃあ心配する。あなた、気丈に振る舞うのは十八番なんですから。
「ノートとプリント、持ってきた。今日の数学、図形のところに入ったよ。いる? いらないか」
「あ、いるいる! ごめんって茉里!」
「――あとね、病院に行ってきたよ。ユズちゃんのお母さんが、ユズちゃんならもう帰ったって教えてくれた。やらなきゃいけないことがあるって――銭湯のお湯、沸かそうとしてたの?」
ユズちゃんの風貌は、まるで建設現場の棟梁みたいだった。首にタオルを巻いている。履いているぶかぶかのジーンズも、羽織っている紺のダウンも、よく見ると煤でかなり汚れていた。綿ぼこりも、そこかしこに付いている。
「だってほったらかしにしておけないし。釜場にまだ雑燃が残ってたから、なんとか火をつけようと思っていじってたんだけど、ボイラーの使い方なんて全然分かんなくて。説明書みたいのがないか探してたとこなんだけど、どこにもそんなものないんだよね」
もうこんなことならばあちゃんに訊いておくんだった――ユズちゃんは番台に座り直し、だらりと両手を投げ出した。
「勝手にボイラーなんていじったら、それこそおばあちゃんに叱られるよ」
「それでも」ユズちゃんは天板に突っ伏したまま、静かに言った。「それでも、この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう」
潰される。ユズちゃんは力を込めた。
「何? あの人って?」
ユズちゃんの「あの人」の言い方には、はっきりと敵意が現れていた。
潰される? そんなの、初めて聞いた。
「いいの。茉里には関係ない話」
ちくりとくる言い方だった。子供はもう寝なさいと、子供にそう言われた気分だ。
「関係なくなんかないよ。私だってこの銭湯が潰れちゃったら嫌だもん」
「潰れるとか簡単に言わないで!」
彼女は突然、がばっと起きだした。空っぽの脱衣所に、大きな声が響いた。私は面食らってしまい、その場に固まってしまった。
荒れてる。めちゃくちゃだ。先に言ったの、ユズちゃんじゃないか。
「ばあちゃんが回復するまで、あたしはなんとかこの銭湯を守らなきゃいけないの。じいちゃんが建てた、夢なんだから。それをばあちゃんが、一人で守ってきたんだから。なんとかしなきゃなの。なんとか――」
勢いよく話し始めたのに、どんどん声がしぼんで、最後の方は、くぐもった息づかいしか聞こえなくなってしまった。
相当滅入ってる。
「――茉里、ごめん」
また謝られた。幽霊みたいな声だ。やっぱり、大丈夫じゃない。
ユズちゃんのおじいちゃん。確か、六年前だと思う。小学校の低学年。うっすらだけど、覚えている。当時、着慣れない礼服を着て、よく状況が分からないまま斎場に連れて行かれた杠家の葬儀で、写真を見た。
でも、写真だけだ。私が「銭湯ゆずりは」を初めて訪れた頃には、すでにおばあちゃんしか番台に立っていなかった。生前のユズちゃんのおじいちゃんには、会った記憶がない。
その頃には、すでにどこか悪かったのだろうか。当時からユズちゃんも、ほとんどおじいちゃんの話題は出さなかった気がする。口を突いて出てくるのは、いつも「ばあちゃん」の方だった。
そうなのだ。ユズちゃんは生粋のおばあちゃん子だった。おばあちゃん想いの、優しい女の子だ。その彼女は今、番台の上に顔を乗せて、うーうー唸っている。
ユズちゃんが抱え込んでいることを吐き出せるように。三橋先生はそう言っていた。私一人で会わなきゃ、それができないのだと。一番の友達の、私じゃなきゃ、できないこと。バスケ部の同級生や、クラスの他の女子ではいけない。私だからこそ、できること。
津々楽茉里として、杠奈都子にしてあげられること。
「ユズちゃん、今日さ、うちのお風呂に入りにおいでよ」
私は提案した。
「お風呂? 茉里んちの?」
「うん。もちろん銭湯と比べるとうちのは狭いし、二人入ったらもうぎゅうぎゅうになっちゃう。でも、ほら――」私はユズちゃんの頭に付いた埃をつまんだ。「ユズちゃん汚い」
また怒られるかなと思って、ちょっと構えた。けどユズちゃんは、じっと私のことを見ていた。真剣な顔で、ちょっと照れ臭そうに。
「――ごめん」
この子、またごめんって言った。
「今日はもう謝るの禁止」
ユズちゃんちに書き置きを残して、私たちは杠家を後にし、津々楽家の方へ足を向けた。歩いて十分とかからない。ほとんど目と鼻の先の距離だった。
「久しぶりだなあ、茉里んち」ユズちゃんが白い息を吐いた。
点々と灯る水銀灯の小道。私たちは冷たい風に顔をしかめて、身を縮め、足早に歩いていく。立ち並ぶ民家が途切れて、アスファルトが砂利道になり、そしてすぐに畦道に変わる。既に作物の収穫時期が終わり、辺りには裸ん坊の田んぼが広がっていた。土と草の匂いがほのかに風に混ざり込んでいる。街灯もなくなり、隣を歩いているユズちゃんの顔も、ぼんやりとしか見えなくなった。
お母さんは、私が連れてきた煤だらけの女の子を見て、弾かれたピンボールのようにてきぱきと動き始めた。
「あらいらっしゃい! ちょっと寒かったでしょ! 早く上がって、ストーブの前で温まりなさい。やだちょっと二人で何してたの? 奈都子ちゃん埃だらけじゃない。さあ、いいから早く」
私とユズちゃんが居間のストーブで指先をほぐしているあいだ、上着を脱がされ、バスタオルを渡され、おばあちゃんが「大変だったねぇ」とユズちゃんの頭をわしゃわしゃやり、熱いお茶が出され、お母さんが病院とユズちゃんちに電話をかけ(ユズちゃんちはまだ留守だったらしく、伝言を残していた)、夕飯は一人分多く支度され、お風呂のお湯が沸き、早く入りなさいと急かされ、お父さんは一度ビールを冷蔵庫から出したけど、ちょっと迷ってすぐに戻し、ユズちゃんの分の布団とパジャマが準備され、ユズちゃんはうちに泊まることになった。
「奈都子ちゃんのお母さんには電話でお話したから大丈夫よ。服はお洗濯しておくから、明日はうちからゆっくり病院に向かえばいいわ。ただ茉里は明日も学校なんだから、夜更かしはだめよ。さあ早くお風呂に入っちゃいなさい」
ばたばたと浴室に追い立てられて、気付けば私とユズちゃんは裸になり、湯気の立つ浴槽の前に立っていた。
「ユズちゃん」
「なに?」
「うちね、テレビのチャンネル権はお父さんにあるの。だから今日の『探偵☆森ガール』は、見れないかもしれない。お父さんいっつも『世界遺産大絶景』見るから」
月曜夜九時と言えば「探偵☆森ガール」だ。今学校でも大流行りのドラマだった。主役の女優さんのヘアスタイルやファッションがとっても可愛くて、うちのクラスにもぽつぽつとレプリカが現れ始めている。
「大丈夫。あたし先週見逃してから、もういいやって思ってたから。茉里先に入りなよ」
あたしは身体洗うからと、ユズちゃんは一番風呂を私に勧めた。涌いたばかりのお湯は入るには熱すぎたので、私は蛇口をひねって水を足しながら、浴槽を洗面器で掻き混ぜた。
「森ガール。一応、録画してるけど。先週分のも」
リアルタイムではなく、録っておいたものを次の日の夜に見る。お父さんのせいで、毎週そうする羽目になっていた。本編を見る前に、ストーリーの大事なところをうっかり聞いてしまってはいけないから、学校ではドラマの話題を避けるのに一苦労だ。
「ほんと? それ、見たいかも」
お湯はちょうど良い温度になり、肩から身体にざぶりとお湯を被ってから、私はゆっくり湯船に沈み込んだ。はーっ、と息が自然と漏れる。
「じゃあ、またうちにおいでよ。今日の分も録っとくよ」
「うん、ありがと」
熱いお風呂を目一杯楽しみながら、石鹸を泡立てるユズちゃんを見つめていた。「腕も脚も細くていいなあ」なんて、ぼんやり思う。
そのとき私の耳に、突然別の声が飛び込んできた。
「こりゃ驚いた。茉里が連れてくるつもりだった子って、湯の神の姉さんとこの子だったんだね」
聞き覚えのある、無邪気な男の子みたいな声だ。私の頭上に、いつの間にかコノがプカプカ浮いていた。
「やあ茉里」
「コノ!」
彼はひょろりと長い腕を組んで、小さな羽根をぱたぱたさせている。対してユズちゃんは、私をじっと見て、不思議そうな顔をしていた。
「え? なに茉里、どうかした?」
こんなへんてこな生き物が突然民家の浴室に現れたというのに、平然と身体を洗い続けている。
私ははっとした。彼女には、コノが見えていない。
「えっと、あのねユズちゃん、今ここに」私は人差し指を天井に向ける。「来てるの。コノっていうもろの木さまのもののけさんが」
「もののけ、さん?」
ユズちゃんは天井を見上げる。目を凝らし、そこにあるものを見つけようとしているが、やはり何も見えないようで、すぐに苦笑いを浮かべた。けど、無意識に両手で胸のところを隠していた。
「ちょっと、冗談やめてよ茉里」呆れたように言う。
「うーんと――」
確かに、冗談みたいな状況だ。彼の存在を、どうやって伝えればいいだろう。
「しょうがない。今日は特別に『端境(はざかい)』を解いちゃおう。茉里、僕に触ってみてごらん」
コノが促した。駅前広場のときと違い、彼はは今手を伸ばせばすぐに届くところに浮かんでいる。私は恐る恐る、コノの左足の先っぽに触れてみた。犬や猫と全然変わらない触感だった。緑色の体毛はふわふわとしていて、ほのかに温かい。
「きゃあっ!」ユズちゃんが叫び声を上げた。「やだ! なに? なんなのそいつ?」
彼女は顔を引きつらせて、泡だらけの身体をぎゅっと小さく丸めた。その目は、今度はしっかりとコノを捉えていた。
「同じ木行だからね。茉里は僕に触ることができる。そして人間が僕に触れば、他の人たちにもしばらくのあいだだけ、僕の存在を共有してもらえる」
その後、パニック状態のユズちゃんを落ち着かせるまでに、しばらく時間がかかった。
私はなんとか、あの駅前広場の出来事を話そうとした。けど、途中ふざけて急接近するコノに、ユズちゃんは悲鳴を上げながら石鹸を投げつけた。外れた石鹸は後ろの窓ガラスに当たって跳ね返り、私の後頭部を殴打した。
その二十秒後、ユズちゃんは再びいたずらしようとするコノに対し、今度はシャワーのお湯で応戦した。コノがひらりと身をかわす。私は頭からお湯を被った。「いい加減にして!」と私が叫ぶと「なに先から遊んでるの!」と、浴室の外からお母さんに叱られた。踏んだり蹴ったりだ。
もろの木さまとコノの関係。五行、口寄せ、神子。そして天原に忍び寄るという「大きな力」のこと。私はコノの言葉を借り、途中行ったり来たりしながら、ゆっくり説明した。ただ、あのモノクロ人々の世界のことだけは話さなかった。私には、あの光景を言葉にすることができなかった。
座敷童の正体が中学二年生の子供だと知ったら、ユズちゃんはがっかりするだろうなと思っていた。でもそんなことは、人語を介する緑色の獣の前ではもうどうでもよくなったらしい。美景ちゃんについて話したときは、一言だけ「麗徳とか、すごい」と呟いただけだった。
「大丈夫、もう驚かない。なんでだろう。確かに信じがたいけど、有り得ないことだとは思わない」
やっと落ち着きを取り戻し、ざぶりと湯船に浸かった彼女は、どこか神妙な顔つきをしていた。
「あたし、ちょっと思ったことがあるの」
ユズちゃんは、じっと自分の膝を見つめている。
「うちのばあちゃんともろの木さまって、似てるなって」
コノが「ほう」とフクロウみたいな声を出した。ユズちゃんと入れ替えで身体を洗っていた私も、思わず手を止めた。
「もろの木さまは天原を守ってくれてる。でもそれだけじゃなくてね、この町の人たちを、きちんと繋いでくれてる気がするんだ。いつもはみんなもろの木さまのことなんて全然見向きもしないで、あの広場を通り過ぎていくかもしれないけど、もしもろの木さまが突然なくなっちゃったら、町中大騒ぎでしょ? それと同じで、ばあちゃんはあの銭湯をずっと守ってきたの。あの銭湯に来たお客さんは、お風呂の中で顔を覚えて、脱衣所で名前を覚えて、一緒に牛乳を飲んで、知り合いになるの。そんなにたくさんはいないけど、来た人たちは、みんな繋がっていった。だから、もろの木さまとばあちゃんは似てるなって。そっくりだなって思うの」
ユズちゃんは照れ臭そうな笑顔を、私に向けた。
「わかるよ。ユズちゃんのおばあちゃんも、もろの木さまも、『そこにいる』って思うだけで、ほっとするもん」
大きなふところで、大きな安心感を与えてくれる。そんな彼らの見てくれは、ちょっと大きい古ぼけたスギの木だったり、竹ぼうきを振りまわす年老いた番頭だったりする。
「そして、今の状況もそっくりだね。残念だけど」
コノが言う。私とユズちゃんは同時に彼を仰いだ。
「そんな、『そういえばお前何しに来たんだ?』っていう目で見ないでくれよ。僕だって、用もないのにこんなところ来ないさ」
こんなところだんなんて、失礼な。
「まあ僕らとしてもね、あの銭湯がなくなっちゃうのはちょっと痛いんだ。天原でも特に大切な場所のひとつだからね。それに――」
コノは腕を組んだまま、湯船の縁に着地した。
「あそこ潰れちゃうと、湯の神の姉さんがホームレスになっちゃう」