マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1098] 〜1.育て屋の少年 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:45:02   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:PG12

 智志は落ち着かない思いで、周囲を見渡した。
 シンプルで落ち着いたデザインの家具が並ぶ部屋。無駄のないデザインが、却って選んだ人物のセンスを感じさせた。そして、ソファとテーブルの下に敷かれたカーペットや、テーブルと棚に置かれた花瓶、そこに生けられた季節の花が、ここが応接間であることを感じさせる。それにしても、育て屋らしくないな、と智志は思った。育て屋というと、皆が皆作業着で、インタビューもポケモンの育成場と直結の半分作業場みたいな所でやるのだと思っていた。
 インタビュー。そう、それをしに来たんだ。
 正確には、八坂智志はただのアシスタントであって、インタビューをするわけでも、ましてや記事を書くわけでもない。ジャーナリスト真壁誠大の金魚のフンというのが正しい。
 なのに、インタビューをしに来たのだと思うと、胸に冷水を注ぎ込まれたような感じがした。この感覚は何だろう。
「お前は黙って見ておけばいい」
 智志の様子を緊張の所為だと思ったのか、真壁が言った。テーブルには真壁の持って来たカセットテープレコーダーが、足元にはあの黒いファイルを入れた大きな鞄がある。そして、それらに囲まれる真壁は、やはりジャーナリストよりもくたびれたサラリーマンに見えた。
 緊張か、と智志は単語を咀嚼した。緊張かもしれない。しかし、体が一瞬にして骨の髄まで凍りつくようなあの感覚は、緊張では説明できないような気がした。
 自分のことさえ説明できないのに、他人のことを説明するのか。俺はまだ、ジャーナリストの梯子の一段目にすら足をかけていないんだ。そう智志は思った。いや、気付いたのだ。

 今朝、智志は午前六時に起きた。母親との冷戦状態は一応解除されたが、いつもより早く起きた息子に用意された朝ご飯はなかった。
 智志は自分でトーストを焼いて家を出た。行き先は大学ではなく、ビルの片隅にある真壁の事務所。藪から棒に弟子入りさせてくれと頼んで、履歴書を持って来いと言われてその通り行動した智志の、記念すべき初出勤の日となる。
 目を通しておけ、と言われて渡された、黒いファイルのずしりとした重さを急に思い出した。『ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件』――十三年前に起きた、センセーショナルな事件。
 俺たちは今日それを追いかけてきたんだ、と智志は思った。そして、真壁の横顔を盗み見た。彼が何を考えているかは分からなかった。
 その時扉が開いて、智志たちが追いかけている者が姿を現した。
「はじめまして。山田優吾といいます」
 現れたのは、智志といくつも違わない青年だった。

 彼は事件当時、十三歳だった。智志とは四つ違い、今は育て屋のフィールド主任補をやっている――と言って優吾は笑った。
「フィールド主任、って言っても、分かんないですよねえ」
 歳の近い智志がいて気が緩んだのか、優吾は妙に子どもっぽい、無邪気な笑みを浮かべた。実直を顔に描いたような太い眉毛とがっしりした鼻梁からは、その笑みがこぼれることは意外に思われた。ギャップ、というのか。
「ここみたいに大きい育て屋って、フィールドごとに分けてポケモンを管理するんですよ。それで、フィールド毎にチームを組んで、ポケモンを預かるんです」
 管理っていう言い方はまずいですよね、と言いながら、優吾がバツの悪そうな顔でテーブルに乗っかったレコーダーを見た。
 レコーダーは、赤いランプを灯してクルクル回っていた。
「最近は、そう言葉に煩いこともありませんよ。それに、書いたものは一度以上目を通してもらうことになっていますから」
 対する真壁の声は、やはりジャーナリストというより疲れたサラリーマンのようだ。しかし、目を見れば、そこに何かがあることが智志にさえ分かった。

 インタビューの直前、山田優吾に断ってレコーダーをセットした真壁は、置き物のようにそこにいた智志に、適宜メモを取るようにと言った。真壁は真壁で、手帳を持参している。名義上はアシスタントだが、智志にそんな働きは毛程も期待していないのだ。
 それを自覚しながら、智志は自分の手帳を見下ろした。おろしたての、まっさら。ここに何を書けばいいだろう、と智志は寸の間考え――ペンを動かした。目の前の優吾の、太い眉。がっしりした鼻梁。そこからこぼれた無邪気な笑い。
 ……あまり上手くはない。
「今はフィールド主任補ですけど、その当時はまだ入りたてのペーペーでした」
 優吾の話に、智志は耳を傾けた。優吾の目がすっと暗くなったのを、智志は見逃さなかった。

 親が小さな育て屋を営んでいる関係で、優吾はここにやって来た。この育て屋はフィールド毎にポケモンを管理するのが主流だが、新任の優吾にはポケモン一匹を世話する仕事が任された。一匹だけなら、初心者でもなんとか世話が行き届く。だが一方、相手が一匹だけなのだから誤魔化しようのない仕事でもある。優吾のミスや管理不行き届きがポケモンに確実に現れる。
 他人のポケモンを預かるのだから、緊張するし、一つ一つの失敗が重い。大変だし、何にも分かってなかった時代でした、と優吾は言う。教育係には頭をよくはたかれた。
 その教育係、当時のフィールドA1の主任であった根岸翔平がそのポケモンを持ち込んで来たのは、優吾が十四歳の時――ちょうど事件の報道が終息し始めた頃のことだった。
「びっくりしますよね、そんなポケモン持ち込んできたら。でもその時はそんなこと知らなかったし、知った時は後の祭りだったんです」
 そして、優吾が関わった事件を語り始めた。

「なんですか、根岸さん」
 その日の業務を終えた優吾は、珍しく根岸に呼び出されて、心穏やかではなかった。働き始めて三年、ミスは少なくなっていたが育て屋として一人前には程遠い。何かマズいことをやらかしたのかと、気が気でなかった。
 思えば、自分がそんな風に悪い方に考えていたのは、ひとつに、根岸の顔がこの世の終わりのような暗いものだったからだ。
「優吾」
「はい」
 根岸はひと言でそれと分かる程、重いものを抱え込んで疲れた声を出した。
「お前、今日で対一匹の研修終わりだったな?」
 業務上の確認。それでさえ根岸は疲れきった声を出した。
「はい」
 対一匹、つまり一匹をひとりが集中的に管理する仕事だ。優吾は三年で三十二匹の世話をしてきた。そしてちょうどその日、三十二匹目を顧客の元に送り出した。その三十二匹目に、何か問題があったのだろうか。
「明日からフィールドの研修入れるが、対一匹のも入れて構わないな?」
 根岸の言葉に構うも構わないもなく、優吾は「はい」と答えた。それで自分が事件に関わることになるとは、露程も思っていなかった。
「そうか」
 と言って、根岸はモンスターボールを取り出した。そして、防護室――攻撃的で、他のポケモンに危害を加えると判断されたポケモンを一時的に隔離する専用の部屋――へ向かい、機器を使って防護室内部にそのポケモンを解き放った。
 ニドラン♂。
 突然、一面を特殊なガラスで覆われた部屋に投げ出されたニドランは、時が止まったかのように目を見開いたまま静止していた。そして、やにわに大きな耳をバタリと振り下ろすと、もんどりうって自分の体を引っ掻き始めた。
「錯乱してますよ、防護室入ります! 入り口のロック開けてください!」
「馬鹿野郎、特性毒のトゲだ、服着てから入れ!」
 早まった優吾に怒鳴った時、これでやっと根岸さんらしいと優吾は思った。防護服を着、パートナーのサーナイトを呼び出してから、優吾はガラスの向こうの部屋に入った。
 優吾が二重扉の向こうに辿り着いた時、ニドラン♂は既に自分の体をズタボロにしていた。応急処置しようにもどこまで傷か分からない状態で、優吾は手を上げてガラスの向こうの根岸にニドランをボールに戻すよう要請した。そして、自分の無力さを痛感した。
 回復機械では治せないということで、優吾と根岸は最寄りのポケモンセンターへ向かった。大きな育て屋はポケモンセンターと密な契約を結び、資金援助をする代わりに色々な無理を利かせてもらっている。それでも、というか当然というか、優吾たちの対応に出た職員はいい顔をしなかった。
「どうしたんですか、根岸さん」
 その日、対応に出た職員は優吾たちの顔馴染みの人で、根岸の技量も良く知っていた。だからこそ只事じゃない、と思っていることが顔に書かれていた。
 その問いに、根岸は「なに、少々問題のある預かりものでな」とはぐらかすばかりで、一向に答えようとしなかった。“少々”問題のあるポケモンくらいで、根岸がこんな大きなミスを犯すはずはない。優吾のみならず、応対した職員全てが根岸の言葉を信じてはいなかったが、結局、根岸からそれ以上真実らしい話を聞き出すことは出来なかった。
 そのポケモンと一番密に関わった優吾でさえ、真実を教えてもらったのは何もかもが終った後だったと言う。

「すいません」
 不意に優吾の目から零れたものを見て、智志は驚いた。そういう人物ではないと思っていた。あるいは、昔のことだから、泣かないと思っていたのか。インタビューを受けられる程度には、気持ちの整理がついているものと思い込んでいたのかもしれない。
 ず、と鼻をすする音がして、優吾が立ち上がった。シンプルな調度類に紛れ込んでいる箱ティッシュに近付いていく。その背中だけ見れば、逞しいという言葉がこれ程似合う男もいなかった。だから一層、何故泣いているんだという疑問が湧くに違いない。何も知らない人が見れば。
 でも、だったら、俺は何かを知ってるのか? 智志は、優吾が鼻をかみ、応接室のソファに戻ってくるまでの間、ぐるぐると、言葉を回して考えていた。優吾が泣いているのは、気持ちの整理がついていないからだろう。だがそんなものは、智志が今さっき抱いた印象に過ぎない。本当のことは、優吾にしか分からない。優吾本人に聞いても、分からないかもしれない。だとしたら、他人である智志が理解することは出来ないだろうし、それを言葉にしてもっと何も知らない他人に伝えるなんて、不可能だ。他人に伝えるのが不可能なのだとしたら。智志は横にいる真壁誠大をチラリと見た。この人は、俺は、何の為にここに来たのだろう?
「すいません、続き、いいですか?」
 目の端を頻りに擦りながら、優吾が言った。真壁は静かな鷹の目を伏せ、そっと先を促した。

 ニドラン♂を預かった次の日から、激務が始まった。
 午前中はニドランの様子を見、午後はフィールドを走り回って研修。夜はいつも倒れるように眠った。ニドランは根岸がメインで優吾が補佐という形だからまだ楽だった。フィールド研修の方は、本来一日でやる内容を半日に押し込めたような状態で、慣れないこともあり、ミスが目立った。餌のやり方が下手で、他のポケモンに餌を取られたりとか、あるいは餌を取り違えたり。掃除のやり方が雑だと怒られ、やっとこさ掃除を終えて用具を片付けたと思ったら、用具室へ通じる扉を閉めろ、そこからポケモンが逃げると怒られたり。酷いものでは、フィールド間を繋ぐシェルのスイッチを入れ忘れた、というのがあった。この育て屋では、ポケモンの技であるリフレクターと光の壁を科学的に再現して作った“シェル”をフィールドの周囲に配置して、ポケモンの逃走を防いでいる。一応、フィールドとフィールドの間に柵や水路はあるが、ポケモンが逃げるのを防ぐ為、というよりシェルの位置を示す目印だ。優吾はフィールドに入る時、うっかりシェルの内外を行き来できる状態のまま半時間放置していたわけで、実害はなかったものの、あの時は雷が落ちた。
 優吾はこの話をする時、不思議に明るく笑った。そこには今まであった苦笑の影が、少ししか見えない。
 と、優吾はすっと笑いを引っ込めた。口元は笑ったままだが、それは苦笑の形で、優吾は机の上に乗っているレコーダーに目を落として言う。
「本当、ちょっとへこみましたね……ちょっとじゃなくて、すごく、だったんですけど。次の日の午前がニドランじゃなかったら、俺、育て屋行かなかったかもしれない。でも、ここで行かなかったら後どうするんだってのもあって。俺、両親が育て屋だから、後継がなきゃなあって思ってて、でもその時正直、育て屋やめたいな、とかって。怒られて、仕方ないけど、でも俺育て屋でやってけんのかなって思って、でも両親が育て屋で、俺は中卒だから、あんま選択肢とかないなって思って。俺の将来、育て屋しかないじゃんって思って、両親に怒るというか、なんで選択肢ないんだよって」
 あはは、と優吾は声を出して笑った。そして、「多分、それが俺の反抗期だったんですよ」と言った。真壁が頷く。反抗期。その単語が智志の心の中に冷たく入り込んだ。
 反抗期、俺にはあっただろうか。

 智志の両親は、ありふれた両親だった。父親は、旅をしていたトレーナーが多い時代のことで、行方不明。母親はそれを嘆いたり、笑ったりしながら、智志と絵里子を育てている。好きにしなよ、と口で言いながら、目では、旅のトレーナーにはなるんじゃない、と言っていた。母親の苦労を事あるごとに聞かされて育った智志は、特に疑うこともなく、周りの皆と同じように、とりあえず大学まで進学した。
 特に反抗した覚えなんて、なかった。あるのは、直近の一度だけ。勉強しなさいと言われれば宿題くらいは済ませ、家事を手伝ってと言われれば手伝った。このお金で本でも買いなさい、と渡されたお小遣いは、言われた通り全てを本に替えた。写真集という本もあったが。そこへいくと、妹の絵里子は、兄の智志より、ずっとはっきり反抗していた。智志は、彼女が小遣いをマンガに替えていることを知っている。そして、母が本と呼ぶ物に、マンガは入っていない。

 優吾の言葉が耳に入ってきて、智志は過去を巡回していた思考を、現在に引き戻した。
 レコーダーが静かに回っている。
「でも、まあ」
 レコーダーの赤い光。
「結局疲れて寝て、育て屋に行ったんですけどね。道中色々考えたけど、結局到着して」
 優吾が顔を上げる。
「でもやっぱ、疲れてたんですね。午前中ずっと寝てて、起きたら、根岸さんに帰るかって言われて。でも、寝たら体力回復して、却って元気になっているわけですよ。で、午後も行きます、って」
 過去への誘い。
 そういえば、優吾の両親は育て屋だったと言うのに、優吾は何故ここで働いているのだろう。疑問を手帳に書き留めて、過去の時間が進んだ。

 元気になった、といっても、相変わらず小さなミスは多かった。優吾はあまり要領のいい方ではなかった。それでも、ミスといっても、やり方のミスでなくて、優吾がポケモンの性質を分かっていなくて起こるミスの方になっていて、優吾は失敗しながらも、自分の成長を感じ取っていた。
「っていうのも、今だから分かることかな。そん時は、もう仕事で手一杯でしたから」
 起こりうるミスは多分、全部起こしましたと言う。同じミスを繰り返すこともあった。当然、怒られることも多かった。
 ニドラン♂と、根岸と過ごす半日が、いつしか心の安らぎとなっていた。防護室で暴れて以来、ニドランは凪のように静まり返っていて、ちょっと大人しすぎるくらいだった。その凪のようなニドランをブラッシングしてやったり、栄養管理をして餌を作ったり。預かり物といっても育てて強くするコースではないらしく、訓練が入らないので大分、楽だった。ニドランは大人しいので、躾なければということもない。根岸は時折、ニドランを抱いてフィールドを歩き回ったりしていたが、優吾はそれは根岸の仕事と割り切っていた。 対一匹の仕事はもう呑み込めていたし、隣にベテランがいるから、研修の時みたいに時間いっぱい走り回ることもなかった。時間に余裕が出来ると、心のタガが緩んだ。仕事中に、フィールド研修の愚痴みたいなものを根岸に話すようになった。午前中の失敗や午後の不安を、根岸に話してアドバイスを貰うこともあった。根岸は業界でも名の通っているベテランの育て屋だ。その彼と、事実上一対一で話せるのだから、優吾にとってこんなに有難いこともなかった。それに気付いたのも今になってからだったが。
 優吾と根岸の会話を、ニドランは大人しく聞いていた。そう、優吾は思っていた。

「僕らが対一匹の仕事を入れる時っていうのは、そのポケモンにお客様から細かい要望があった時と、そのポケモンが特別手がかかる時なんです」
 優吾はずい、と前に身を乗り出した。その動作が突然で、智志はぎょっとしたけれど、隣を見て姿勢を正す。隣にいる真壁誠大の瞳は、ただ優吾の話を真摯に聞く為に前に向けられていて、揺らがなかった。
 智志は手帳に目を落とす。真壁の鋭い目を、手帳に書き写す。
「もちろん、見習いの時はそういうポケモンの世話はしませんよ」と優吾が説明を付け足す。
「でも、その時の僕は対一匹の研修は終わってた。それに、ニドランの世話は根岸さんが主にやってた」
 そこまで言って、優吾は目を閉じた。手を組み、それを額に当てる。そうすれば、彼の表情は電灯の影になって見えなかった。なのに何故か智志には、優吾が苦悶を押し留めるかのように瞼をきつく閉じ、口を強く引き結ぶ様が、フィルムに焼き付けられたかのようにはっきりイメージできた。否、断定できた。
 優吾が身動ぎする。自身の体の影に入った口を動かす。
「俺は、でっかいミスをしてたんです」
 取り返しの付かないミスを。しかしそれは、研修の日々に忙殺されて、気付かれることはなかった。本当に本当の、直前まで。そして、それでは遅すぎたのだ。

 半年が経ち、研修はますます忙しく、厳しくなっていった。
 元々、優吾はここでの研修を終えたら、実家の育て屋に帰る予定だった。それが、ニドラン♂の仕事で押していた上に、父親の体調が良くないと連絡が入った。早く一人前にならなければ、という優吾の思いと、早く一人前に育て上げなければ、という周囲の思いが歯車のように咬み合って、優吾は人生で最高に多忙な日々を迎えた。研修をこなし、ニドランの世話の合間に雑用もこなし、事務仕事も覚えさせられ、帰宅後は両親にメールして、帰郷の算段をつけたり、もしもの時のことを相談したりした。
「ああ、父は今も元気に生きてますよ。手術するかどうか、って話だったんですけど、事件が終わったくらいのタイミングで治ってしまって」
「君のことで、思うことがあったんだろう」
 真壁が、はじめて自分の意見を声に出した。優吾がはっと顔を上げ、真壁を見つめる。まるで、真壁という人間がいることに、たった今気付いたみたいに。
 しばらくの間、優吾と智志は、応接間に石でも投げ込まれたみたいに、呆然としていた。しかし、真壁がそれ以上、自分のことで喋る気がないのを見てとると、優吾は再び語り始めた。最初はぎこちなく、しかし、すぐに前の調子に戻った。
「えっと、ほら。両親にメールして、近い内に有給とろうかとか、葬式とか墓の費用とか、結構色々細かい所まで話し合っていました。ただの胃潰瘍だし、手術すれば大丈夫とは言われてましたけど、やっぱりもしもとかあるかもしれないし、お母さんが『うちは身内経営だから、そういうのはきちんとしとかないとね』って。最後は治ったんですけど、最初は吐血して病院に担ぎ込まれたって言ってたし、気が気じゃなかったと思います。職業柄、色んな種類のポケモンの世話をしますから、それで変な病気を貰ったんじゃないかとか。実際、毒ポケモンの世話で体に毒が溜まって、とか、炎ポケモンの世話でいつの間にか体内を火傷してたとか。やっぱり聞くんですね、そういうの。それで余計に不安になって、今ニドランの世話してるらしいけど大丈夫、とか」
 優吾は、ここで苦笑を挟む。苦笑なのに、見ているこちらが幸せになるような、素朴な笑みだった。
「俺としては、研修で忙しいのを気にしてほしかったかなあ。でも、親ってそんなもんですね」
 本当に忙しかったというか、今では違法じゃないかな。そう言って優吾は、今度は明るいはずなのに苦い笑みを浮かべる。

 ポケモンたちのコンディションチェック、餌決め、餌の配合、餌やり、掃除、それからフィールドごとに訓練がはじまり、訓練後のコンディションチェックがあり、もう一度餌をやって。
 それを、ポケモンたちの個々の性質に気をつけながらやらなければならない。それ以外にも、扉の鍵の管理から掃除用具の使い方から、見習いの優吾には気にすることが山程ある。ただでさえ過密スケジュールのところに加えて、実家の心配だ。でも、だから仕方ないとは、優吾には言えなかった。ニドランの時間は半日、優吾に割かれていたのだから。
 根岸が優吾に、最初に打ち明けていれば、事態は違っていたかもしれない。しかし、あの事件があって心を一番痛めていたのは間違いなく根岸で、その彼に誰が何を言うことなど、出来はしなかったのだ。
 些細なミスだった。
 疲れていた。実家が心配だった。言い訳は色々あるが、起こってしまったことは、もう戻らなかったのだ。
 あの日、優吾は用具室の扉の鍵をかけ忘れた。
 ニドラン♂は逃走した。

 バタバタバタと、ひっきりなしに誰かが駆けずり回る音がする。加えて、絶え間なく鳴り続ける電話のベル。とんでもないことをしてしまったのだと、優吾はやっとこさ自覚した。職員は状況を尋ねるのに入れ替わり立ち代わり、電話番の片方は休みの職員に片っ端から電話をかけて援軍を頼み、もう片方は地元の警察やレンジャーに電話をかけて説明しながら謝り続けている。一方で、それを眺める優吾は、何もやることがなかった。それが優吾の罪悪感を加速させる。
 根岸が扉を開けた。
 根岸は周囲にちらりと目をやって、それから真っ直ぐ優吾の元に来た。雷が落ちるか、と期待して優吾が肩を竦める。しかし、雷が落ちることはなかった。
「状況をお願いします」
 根岸は、狩人みたい、と度々評される眼光でもって、優吾の隣にいる人物を見た。育て屋の長、及川。彼は現場から退いて貫禄の付いた体を揺すって、根岸の質問に答えた。
「エス一匹A棟用具室東出入口より。エスはニドラン♂。イヌ四匹、ソラ三匹で追跡中。十一分、もうじき十二分」
 優吾は目が回るような気分を味わった。自分にはよく分からない言葉で、それを早口で言われたのだから、分からなかった。しかし、根岸にはそれで分かるのか、彼は顔を青くして頷くと、「十二分か……」と項垂れた。
「ソラ一匹追加するか」
「僕も出ます」
 根岸は作業着のポケットからボールを取り出す。しかし、及川は渋面を作って、何やら言いにくそうにしている。
「なんですか」
 根岸が、焦れて言った。
「今回、君が責任者だから……」
「責任なら後でたっぷり取れます。それより」
 根岸が優吾の腕を掴む。及川は何か言う前に、根岸は部屋を出た。
 育て屋の外に出たところで、根岸は優吾を放した。そして優吾を見下ろす。狩人という言葉では到底足りない、猛る竜のような、凄まじい気迫と眼光が優吾を見た。食い殺される、と一瞬優吾は、本当にそう思った。
「ごめんなさい」
「何?」
「すいません」
 反射的に謝罪の言葉が飛び出ていた。蚊の鳴くような声で、根岸には純粋に聞こえなかったのだろうと思う。
「反省は後で出来る。今は」
 根岸はくっと息を飲む。それだけのことをしてしまったのだと、優吾は思う。
「ニドランを探そう」
 根岸は及川との対談から、ずっと手に持ち続けていたボールを開けた。
 光が飛び出し、形を作る。竜の体躯、尻尾に灯る炎。一目でよく育てられたと分かるリザードンだ。
「僕は空から探す」
 どこから拝借していたのか、双眼鏡を首にかけて、根岸はリザードンの背に乗った。
「君は歩いて探せ。まだニキロ圏内だろう。タグが付いてるから見れば分かるな。サーナイトも出して。ニドランだとイヌの臭気追跡は頼りにならん。サーナイトの感情探知能力の方がまだいい」
「なんでですか?」
 リザードンの背中から見下ろした根岸の目を見て、優吾は、その質問は今すべきではなかったことを知った。だが、口から出た発言は取り消せない。根岸も、教育係としての性が消せないようで、優吾の質問に丁寧に答えた。
「ニドランに限らない、毒ポケモンの追跡を臭いでやるのは難しいんだ。ポケモンが嫌がるからね。これは本能であって、訓練しても中々うまくいかない。臭いを嗅げば、相手が毒を持っているかどうか分かる。相手が毒を持っていると分かった上で突っ込むのは、ポケモンも嫌なんだろう。デルビル系統は自分も毒を使うからか、ある程度の距離まで詰めてくれるが、それ以上はポケモンの意志で進んでくれないと思っていい。それよりサーナイトだ。野生ポケモンと明らかに違う感情を探すこと。外はテリトリーじゃないから、心細いとか、居心地が良い場所を見つけたいとか、あと――まあ」
 根岸が額に手を当てた。「あいつは」手を下ろす。「まあとにかく」リザードンに座り直した。
「頼んだ」言うと同時に飛び立った。
 空高く、リザードンの咆哮が聞こえる。どうやら、早く空を飛びたかったらしい。
 地上にポツネンと残った優吾は、育て屋の外に散らばった職員に邪険にされつつ、サーナイトをボールから出した。感情に敏感と言われる種族の彼は、優吾を見て目を丸くしてたたらを踏み、倒れそうになったところをエスパーの力で立て直した。
 彼にはもう、状況が分かっただろう。それでも、優吾は声に出さずにはいられなかった。
「俺の所為で、俺の所為でニドラン♂が逃げた。一緒に探してほしい。頼むよ、ラルフ」
 これだけ言うのが精一杯だった。本当は、せめて、涙声じゃない方が良かった。
 ラルトスからの付き合いの彼は、任せたと言う代わりに、明るい表情で頷いてみせた。

 この育て屋は自然を利用して作ったようなもので、だから建物の周りには、当然道路は通っているものの、自然が多かった。この中からニドランを一匹探すのは大変だろうな。優吾はそう思いながら、サーナイトの先導に従って進む。
 途中、臭いの追跡部隊を追い越した。根岸の言った通り、気を逸らしたり、道草を食ったりして、中々目標に辿り着く気配を見せない。グラエナは頻繁に止まってトレーナーの顔を見上げている。ヨーテリーは進んでは嫌なのか戻りの繰り返し。根岸の言った通り、デルビルは彼らの中ではまともに進んでいる方だったが、それでも歩みが遅い。残るガーディは、完全に探索を放棄していた。それでも、見つかって声を掛けられるのが嫌だったので、遠巻きにして進む。
「ラルフ」
 サーナイトがこくりと頷く。目を閉じ、瞑想の体勢に入って、周囲にある感情を探る。目を開けると、デルビルの鼻先を見てしばらく進み、そこでまた瞑想に入る。それを繰り返し、もう臭いの追跡部隊が木々に隠れてすっかり見えなくなったところで、サーナイトが片腕を上げた。
「そっちにいるんだね?」
 こくりと頷いた。サーナイトが優吾の手を掴む。そして、指し示した方向に向けてテレポートした。
「ニドラン!」
 森の中に湧き出た泉。そのほとりにニドラン♂はいた。いつものように大人しく、揺れない水面を見つめていた。前足にタグが付いている。間違いない、このニドランだ。
 ニドランは優吾の声でぎょっと顔を上げると、目を見開いたまま後ずさった。優吾はぱっと背を屈める。隣でサーナイトも跪いた。自分より大きな人やポケモンは、小さなポケモンにとっては恐怖の対象なのだ。普段はそうでなくとも、神経が昂ぶった状態では、そうなるだろう。
「ほら、帰ろ、ニドラン、こっちにおいで!」
 対する優吾の声も、少し上擦っていた。自分が見つけたことで、ミスも帳消しになるかもしれない、という淡い期待もあった。でもそれより何より、ニドランを見つけた安堵がそうさせた。
「恐くないよ。ご飯も用意して待ってるから、ほら」
 背を屈めすぎて、腹ばいの体勢になって、優吾はニドランに呼びかけた。「ほらおいで」両手を伸ばす。ニドランが後ろに下がる。優吾は焦れた。「ごめん、ラルフ。一旦ボールに戻って」自分より背の大きなサーナイトを、ボールに入れる。そしてまた、優吾は呼びかけた。
「大丈夫だから」
 ニドランが一歩下がる。
「怖くないから」
 ニドランがまた一歩下がる。
「お腹すいてない?」
 ニドランがもう二歩下がった。
「おいで」
 優吾はニドランに近付こうと、身を起こした。
「悪いことなんてないから、帰ろ?」
 ニドランが下がらなかった。
 代わりに耳がパタリと下がって、そこから発条仕掛けの玩具みたいに、耳が上がって。
 見開かれた目は、糊付けされたみたいに優吾を見ていた。まるで、蛇に睨まれた蛙みたいに。
 糊付けされた目が、動き出した。横にずれる。ニドランは泉を見た。
「ダメッ!」
 優吾の左足が泉を叩き、思いがけない深さに驚いて、引き戻される。優吾は濡れた左足を引き上げて、何をするでもなく、ただぼうっと立ち尽くしていた。
 ぱしゃん、という水面を割る音は、とうの昔に鳴り終わっていた。ニドランがぽーんと宙に自分を放り出すのも。優吾が叫んだ後には、何もかも終わっていた。後は、泳げないニドランが沈むのを眺めるだけ。
「ポケモンが自殺するなんて、思わなかったんだ」
 その言葉は、いつ言ったのか。過去を思い返す度に、その言葉を何度も何度も免罪符として取り出してきて、いつから言い出したのか、分からなくなっていた。分かるのは、その時は何も分からなかったということだけ。
 ややあって、優吾はサーナイトのボールを出して、開いた。手が震えて、たったそれだけの操作に、手間取った。出てきたサーナイトに助けて、というのにもう十秒。承知したサーナイトも、まるで何かの壁にぶつかったかのように念力を飛ばせず、結局ニドランを引き上げたのは他の人達が到着してからだった。

 それからというもの、優吾は下宿にこもりっきりで、職場からの電話も出ようとしなかった。終いには鳴り響く電話が鬱陶しくなって、電源を元から切ってしまった。それから十日目だったか五日目だったか、優吾の下宿のボロい扉を、強く叩く者が現れた。
 しばらく、優吾は出なかった。しかし、扉を叩く音がしつこいのと、食料が尽きてお腹が空いてきたのもあって、優吾は扉のところへ体を引きずっていくと、スコープを覗いた。
「なあ」
 そこには、心の何処かで期待していた、根岸がいた。
「いるんなら開けてくれ。話したいことがある」
 それから根岸は、カップ麺を入れたビニール袋を持ち上げた。が、それを見るまでもなく、優吾は扉を開けるつもりでいた。すいません、一歩下がってと断ってから、優吾は外開きの扉を開けた。
「お邪魔するよ」
 根岸はカップ麺の袋を優吾に渡したが、家には上がらなかった。優吾は袋を持ったまま、狭い部屋の中で立ち尽くしていた。根岸の意図が分からなかった。てっきり、自分を引っ張って連れ出していくものと思っていたのに。
 唐突だった。
「すまん」
 根岸が土下座した。
「許してくれとは言えん。ニドランにもお前にもサーナイトにも、すまなかった。
 言わなかった俺の責任だ。あいつは、あのニドランは、ポケモン使った連続婦女暴行事件ってあったろ。あの事件の」
 扉から上がり込んだ風が、ビニール袋を揺らしていた。
「加害者のものだった」

 実を言うと、ニドランの事件の後、優吾の記憶は混乱している。他の人に聞いたりして時系列に並べてみたが、どうも自分の記憶と食い違うと言う。それに、どうやっても欠けた記憶がひとつ出てくる。それは仕方ないとして、優吾は話してくれた。
 ニドランの遺体を引き上げた時、優吾は手を組んで、ごめん、とか、すまない、とか言っていたらしい。しかし優吾は、当時の自分は混乱していて、謝罪を口に出来る状態ではなかったと言う。手を組んでいたのは確かだが。この時、ニドランとサーナイト、サーナイトと優吾と順番にシンクロして、優吾がニドランの感情をぼんやりとながら把握していた為、謝罪の言葉を口に出した、と説明はつけられるらしいが、あまり納得は出来ない。それから、ニドランのお別れ会が育て屋の隅で小さく行われ、根岸が土下座して謝り、優吾が数日間下宿に引きこもった後、年度の終わりを待って根岸が辞め、優吾が実家に帰った、らしい。
 しかし優吾の記憶ではこうなる。まず、優吾が引きこもる。そこに根岸がやってきて土下座で謝り、ニドランのお別れ会が催される。それから、何度辻褄合わせをやっても解せないことに、優吾の父親の葬儀が入る。これはどう考えてもおかしいことで、第一に優吾の父親は生きている。実家に帰る前に優吾が葬儀に出席できたはずもないので、これは捏造された記憶なのだろう。両親と葬儀について、仔細に渡って打ち合わせていたから、夢に出たのだろうと思う。そして年度末をもって、優吾が実家に帰り、優吾が知らぬ間に根岸が育て屋を辞める。ここでも時系列が前後するが、根岸は本当にひっそりと育て屋を辞めたので、優吾が気付かなかったのも無理はない。予期はしていたが、別れの場面には立ち会えなかった。
 根岸は予め及川に言っていた通り、後で責任をたっぷり取った。それも、過剰な程に。ニドラン♂の“事故死”も、用具室の鍵の不手際も、全てその双肩に負って辞めていった。風の噂では、遠い地方に渡って、そこで育て屋をやっていると聞く。根岸らしい、と優吾は思う。自分の腕一本で、それなりに盛り立てているらしい。一方、こちらの育て屋の方は散々だった。預っていたポケモンが事故死したとなれば、そうなるしかあるまい。客足が遠のき、職員も多くが別の育て屋に移った。及川もそれから間もなく隠居し、後任に育て屋を引き継いだ、つまり丸投げした。優吾も一旦は実家の育て屋に戻った。しかし、今度は時流が安寧を許さじと彼らの元へやってきた。旅をしてジムバッジを集める、という風潮が下火になった。義務教育が六から六・三になって学歴水準があがった。ポケモンバトルリーグが財力に下支えされるプロのものになっていった。乗用車が大衆化し車人口が増加、それに伴って舗装路が増え、町と町の間を歩いて行ける環境ではなくなった。原因なんてあるようでないようなものだ。ただ、時流が変わった。優吾の実家の育て屋は潰れ、大自然を活かしたリラクゼーションとポケスロン訓練に的を絞った経営で大穴を当てたこの育て屋が生き残った。ただ、用具室は配置を変えた。昔の用具室には、払い下げの馬鹿でかいコピー機が鎮座している。

 語り終えて、優吾はふう――、と長い息をついた。まるで、十何年も歳を取ったかのようだった。
「それで、僕はここに戻って、今ではフィールド主任補になりました」
 思い出したように、付け足す。
 ウィーンガシャ、と音がした。レコーダーがテープを吐き出していた。
 真壁は慣れた手付きでテープを鞄へ仕舞うと、ひと通り定型の謝意を述べた。それから、今度は優吾と心の篭った握手を交わして、深々と礼をする。優吾が戸惑って、顔を上げてください、とも言えない間に、真壁は体を起こしてこれからこのテープを元に原稿に起こす旨を伝えた。
「もちろん、そうしてください」
 優吾は笑っていた。
「今ではポケモンのPTSDも、皆知ってますけど。たった十年前には、ニドラン一匹救えない馬鹿がいたって」
「君は馬鹿ではないよ」
 大きな鞄を持ち上げた真壁が言った。持ちましょうか、と言うのを断って、鞄を抱える。そして、言葉を続けた。
「若いのに、難しいポケモンを抱えて困ってた根岸に頼られたんだ。それは誇っていい」
 優吾は不思議そうに、「はあ」と頷いた。誉められた理由が分かっていないように。そんな顔もするんだな、と智志は思った。


 帰り際、応接室から外へ向かう廊下の途中、外から帰ってきたらしい、後ろ足にタグを付けたガーディと、育て屋の作業着を来た職員とすれ違った。育て屋の外でも訓練をするのだな、と智志は思う。振り返って、ガーディの動きを目で追った。自分がよく知っている個体よりも、ずっとたくましい後ろ足の動きに合わせて、小さな金色のタグが上下している。
「あれは、うちで始めた新しいサービスに参加する個体なんですよ」
 智志の視線に気付いた優吾が、説明を始めた。
「町に訓練を施したポケモンを放して、犯罪の防止や早期発見につながるよう、動いてもらおうという……まだ訓練を終えたポケモンも多くないし、この取り組みに協力してもらってる町も、一つだけなんですがね」
 途中まで自慢気に、最後は失速して苦笑まじりに言った。
「どこまで抑止力になるのか……うまくいけば、まだ自分のポケモンを持てない子どもなどを、犯罪から守れるかと」
「だから町の方で訓練してたんですか」
 智志は返事を期待せず、呟いた。しかし、優吾はそれにも丁寧に答えを返した。
「ええ。移動のコストも馬鹿にならないんで、町にある出張所を支部に作り変えてる最中ですよ」
「発案したのは、君か?」
 それまで、ずっと若者二人の会話を聞いていた真壁が口を出した。鷹の目が、一狩り終えて、休息に入ったような余裕を持って、優吾の方をじっと見た。羽を休めていても、鷹は鷹。優吾の背筋がピンと伸びたのが、隣で見ていてよく分かった。
「ええ」
 真壁は返答を聞いて、目を伏せて納得を示した。そして、その姿勢が見えない扉を開けたかのように、優吾は先程のインタビューでは語らなかったことを、するすると語り出す。
「ニドランのことは折に触れて考えてたというか。自分はなんでもっとちゃんと見てなかったのかなっていうのもそうだし、どうしてニドランはあんなにじっとしてたんだろうっていうのもそうでしたし。僕がいて根岸さんがいて、あいつは微動だにしなかったですからね」
 優吾はそこで近くの壁にもたれかかった。
「後で考えたら、動けなかったのかな。ニドランが亡くなって、自分がそれで罪悪感感じて、はじめて思ったんだけど、ニドランも罪悪感を感じてたんじゃないか。……僕が下宿に引きこもってたみたいに、ニドランも動けなかった」
 失礼しました、と言って優吾は壁からパッと身を起こした。無意識にもたれていたらしい。続きは歩きながら、と優吾は二人を促して言った。自然と、真壁と優吾が並び、智志が後に続く構図となった。
 優吾は話し続ける。
「ポケモンも罪悪感感じるんだな、って、思いました。人間と同じくらいに、あるいはそれ以上に。だから、罪悪感を感じるなら法律も守ってくれるんじゃないかなって思った。この話はこれで終わりです」
 優吾が闊達に笑う。
 外に出るまで、微妙に間が空いた。その隙間に、智志は質問を挟んだ。
「それが、ニドランの供養になるとかは……」
 安い問いだ、と智志は思った。
「俺がニドランから得た物をマイナスにしたくないって意味では、そうです。でも結局は自己満足ですよ。願望だし」
 相手が智志だからか、砕けた口調で優吾は言う。さようなら、と別れの挨拶を告げる。
 育て屋の建物から一歩外に出た瞬間、眩い陽光に目が眩んで、立ち止まる。振り向くと、優吾も同じように立ち止まって目を細めていて、彼には夕日が似合いそうだなあと、なんとなくそんな感想を抱いた。


 真壁と共に、なし崩し的に彼の事務所まで戻った。ドアの向こうから、微かに機械の駆動音が聞こえた。働いているもう一人が来ているのだろうか。
 真壁が事務所のドアの取っ手に手を掛けたところで、動きを止める。そして、「根岸だ」と言った。
「はい?」
「根岸だよ。俺に田中優吾を紹介したのは。あいつもほとぼりが冷めてから、こっちに戻ってきた。二年程前になるかな。流石に育て屋には戻れなかったみたいだが、調子よくやってるよ」
 ドアの向こうでは、相変わらず機械の稼動音がしている。時々途切れながら、でも継続していた。
 智志は首を傾げた。
「どうして今、その話を?」
「もう一人事務所で働いてるのって、根岸のところから来たやつなんだよ。驚かすのも悪いと思ってな」
 言いながら、真壁はドアを開いた。智志は声もなく驚いた。真壁の目が穏やかに笑っている。
「紹介しよう。新人アルバイトの八坂だ」
 そう、声を掛けた。
 事務所の中では、真壁が丁寧にまとめたファイルや手書きのメモが、縦横無尽に飛び交っていた。駆動するパソコンが二台、一台は超高速ワードプロセッサと化し、もう一台は人間には目視できない勢いで画面を切り換えている。コピー機が絶えず紙を吐き出していた。その高速化の嵐の中心に鎮座する人物――人物?
「で、こちらが事務所の先輩のトビイシだ」
 挨拶は、と促されて、やっとの思いで「はじめまして」と口にする。
 トビイシはパソコンと飛び回るメモの中心部から、ジロリと智志を睨み上げた。思わず智志は立ちすくむ。
「あの、真壁さん、あれメタグロス」
「トビイシさん、な」
「はい」
 真壁は慣れた様子で、飛び交うメモ類をかいくぐって、コピー機から紙束を持ち上げた。「お、もう書き上がったのか。ご苦労さん」それから、パラパラ捲って読み始める。
 暫くして、事務所に入った所で立ち止まっている智志に気付いたのか、真壁がこっちに来いと手招きする。相変わらず危険に飛び交うファイルを避けながら、智志は真壁の近くに寄った。
「まず、これ。とりあえず内容ごとに分けといて。トビイシさん、複数の作業同時にしながら印刷するから、交ざってるんだよ」
 こっちが原稿用こっちが資料用、とトレイを渡される。智志はファイルにぶつからないよう、地べたに座り込むと、重い紙束を抱え直して、上から一枚ずつパラパラと捲り始めた。文章が切れていると思ったら、印刷した時に最後の文章が上に来た為か。たどたどしく作業を始めた智志に、真壁が笑いながら話しかける。
「トビイシさんは資料も集めてくれるし、ちょっとした文章も書けるから、助かるっちゃあ助かるんだが、整理だけは下手なんでな」
「文章書けるんですか?」
「ああ、事務所の経営が助かってるよ」
 言っとくけど、俺と名前は別だぞ――という真壁に同調するかのように、名詞が飛んできた。『フリーライター 飛石薫』なるほど。
「なんで薫っていう名前なのかは聞いてもいいですか?」
「性別不明だから、ユニセックスな名前なんだと」
 あきら、とかでは駄目だったのか。
 真壁が笑う。笑っていると、疲れたサラリーマンから、疲れが少し癒えた感じのサラリーマンなったように見える。
 そうして暫く、真壁と二人、トビイシが散らかした資料の整理に追われた。片付ける傍から、トビイシがコピー機に新しい資料や原稿を吐かせるので、終わらない。一段落したと思ったら、また機械が唸り出した。そういやトビイシさんって、メタグロスなのに資料は紙派なんだなあと思いながら、智志はそれを見つめていた。
「トビイシは」
 真壁が智志をちらりと見ると、言った。
「根岸が引退すると聞いて、俺の所に引き取らせてもらった。あの事件の後、外国へ行って、そこで捕まえたポケモンらしい。それから色々あって、根岸はその国でも育て屋で落ち着いたみたいだ。だが、歳を取ったから、故郷の土を踏みたくなったと言っていた。育て屋は後に譲って、こっちに戻ってきたんだと。
 俺とはその時会ったんだよ。ちょうど向こうはポケモンの引き取り手を探してる最中、俺は事件を追ってうろついてる最中でな。色々話をしてる間に、トビイシを俺が引き取るってことになった」
 そして、真壁は手元の紙束に視線を落とした。
 智志も、目はメタグロスが作った文章を追いながら、心では別のことを考えていた。運命という言葉で片付けるのは、余りにも簡単すぎる気がした。事件によって一度は故郷を離れた人間が、外地のポケモンを連れて帰り、そのポケモンが、事件を追ってきた別の人間の経営上のパートナーとなる。事件がなければ、生まれなかったもの。事件があって、変わってしまったもの。
「手が止まってるぞ」と真壁に指摘されて、慌てて智志は手を動かした。


 そのまま、夜遅くまで事務所に居着いてしまった。送ると言う真壁の申し出を断って、智志は夜道を徒歩で帰る。家までさほど遠くないし、成人男性だし、大丈夫だろう、と思う。一応、ポケモンも連れているし。
 途中、野生のヤブクロンを一匹見かけた他は、特筆すべきこともなく、智志は玄関まで辿り着いた。鞄を引っ掻き回して鍵を探す。それにしても、この国にもヤブクロンっているんだな、とか、考えながら。あれは外国のポケモンだと思っていた。
 鍵は掛かっていなかった。不審と不安が横隔膜からガッとせり上がってきて、智志は筋繊維が緊張するのを感じた。こめかみの当たりがピリピリする。泥棒か、強盗か。智志は自分が唯一持っているモンスターボールを、間違って取り落としたりしないよう、両手でしっかり包み込んで、右手の親指をボールの開閉スイッチに添えた。玄関に上がる。途端、センサーライトが智志を照らす。一驚、そして安堵。二つの感情は失敗した色粘土みたいにごっちゃになって、智志にもよく分からないものになった。ドアを静かに閉め、靴を履き捨てて、上がる。そうっと、そうっと。変だな、静かすぎる。それとも泥棒や強盗なら、静かにするのが当たり前なのか。リビングとキッチン、どちらのドアを先に開けるか迷って、金目の物を狙うならリビングだろうと考え、音を立てないよう、震えながら、ボールは両手で持ったまま、指先でドアノブを引っ掛けてドアを開いた。
「こんな時間までどこ行ってたの!」
 一喝。母親の吠え声に、智志は目を白黒させた。智志は大学生だし、成人男性だ。日付が変わる前に家に帰って、怒鳴られる筋合いはない。
 手元から零れたボールから、ぽんと光を放って子犬が姿を現した。今日、育て屋で見たのよりはずっと貧弱なガーディが、きゅうんと鳴いてソファの後ろへ身を隠した。
「あら、智志だったの。ごめんね」
 母親が謝る。しかし、そのはらわたは煮えくり返っていて、謝罪に身が入っていないのは、智志にはよく分かった。昔から、堪忍袋の緒が切れやすい人だった。思い通りにならないことがあると、いつもそうだった。
「どうしたの?」
「絵里子よ」
 そして、母親の堪忍袋の緒を切るのは、いつも妹だった。
「絵里子が、旅のポケモントレーナーになるんだって言うのよ!」
 そうして、母親は泣き崩れた。智志は困って、ただしゃがみこんだだけ。ガーディは相変わらず、ソファの後ろで悲しげに鳴いていた。
 旅のポケモントレーナーなんて、そんな前世紀の遺物みたいなもの。トレーナーなら町のジムに通って、教えてもらえばいいのに。高校にも行かないなんて、あの子……智志は母親の言葉を、ぐるぐると聞いていた。話はいつも同じところに戻って、同じところへ返ってきた。私の育て方が悪かったのかしら、智志はいい子に育ったのに……
 母親のぐるぐる回る言葉を聞いて、智志は自分の頭もぐるぐるしてきたように感じてきた。その中で考えたのは、何故かメタグロスのトビイシさんのことだった。宙にメモ帳や百科事典を、ぐるぐる回すトビイシさん。ポケモンなのに名刺を持った、性別不明のイットのことを。
 その日の内に妹は帰らず、ただ、夜が当たり前に更けて、まどろむ内に朝になっていた。


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