マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1099] 〜2.骸の塔 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/17(Fri) 17:46:15   46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:PG12

 窓の外では、休日に繰り出した人々が行き来している。
 指先でカップを叩き、冷えきったコーヒーを揺らす。約束の時間をもう、十五分過ぎていた。忙しい人とは聞いている。が、時間を守らない人だとは聞いていない。今日は来れないのだろうか。
 智志は足元で寝そべっているガーディの頭を手遊びに撫でた。ポケモンカフェに来たというのに、ポケモン用の美味しいご飯を貰えないからだろう、ガーディは恨めしげに智志を見た。「ごめんな、相手の人が来てから頼むから」食事の匂いだけがいたずらに鼻をくすぐった。
 ガーディはそっぽを向くと、自分用のお冷をいじましく舐める。智志は冷めたコーヒーをすすった。
 窓の外では、休日を楽しむ人々が行き来している。自分の日常が非日常に変わっても、自分のすぐ側で世間は素知らぬ顔をして日常を過ごしている。それは酷く当たり前のことなのに、酷くやるせなく思えた。

 あれから二週間が経った。
 旅のポケモントレーナーになる、と言って家出した絵里子は、一日経たない内に家に戻ってきた。といっても、旅のトレーナーを諦めたわけではなく、友達の家に居候するのも気が悪いし、仕方ないから中学卒業までいるだけだと、智志に何度も言っていた。
 絵里子は母親と口を聞いていない。母親は何度も絵里子を説得しようとして、その度に拒否されてヒステリーを起こしていた。
 智志は、どっち付かずだった。母親の言うことをよく聞いて、大学まで入ったいい息子である智志は、母親の味方だと思われている。でも、智志は母親と一緒になって絵里子を説得する気にはならなかった。それをやると二対一で、絵里子の立場がないと思うし、何より……智志には言葉がなかった。絵里子を諭す言葉も、応援する言葉も、智志の中にはない。いい息子でやってきて、何となく大学まで行ってしまった智志には、妹へ掛ける言葉がない。
 もっと考えて大学に行っていたら、もっと違っていたのだろうけど。智志はまたコーヒーを口に含む。何をしたいか、何が出来るか、そういうことを考えて自分で道を選んでいたなら、絵里子にせめて、大学に行った場合の功利を話せたのだろうけど。そんな智志だから、この時節にあえて旅を選ぶ妹に、何も掛ける言葉がなかった。

 まだかな。智志は顔を上げて、カフェの時計を見る。毎時零分になると上の小窓からマメパトが飛び出してくるその時計は、十七分前に一度くるっぽーと鳴いたきり、沈黙していた。
 今日はもう、来られないだろうか。真壁の知り合いだという人間で、真壁はインタビューの練習台にでもしとけと言っていたが、まさか蔑ろには出来ない。しかし、遅れてきたのは先方なのに、勝手に帰るなとは真壁は言うまい。あともう少し、待とうか。智志は鞄からトビイシが書いた原稿を取り出した。どうせなら大学のレポートをやりたかったが、真壁の事務所でこれを押し付けられることは目に見えていたし、そうなると荷物の量が馬鹿にならなくなるので諦めざるを得なかった。赤のボールペンを取り出し、原稿のチェックを始める。恐るべき速筆のトビイシだが、間違いが多い。トビイシが書いた大量の原稿を、真壁か智志が必ず目を通さなければならない程で、トビイシの印刷好きも相まって、智志は事務所の経営は本当に助かっているのか疑問に思う。一応黒字らしい。
 智志はトビイシの原稿に目を落とす。外地育ちの所為だろう。怪しげなカタカナ語がよく交じっている。智志は辞書を引いて、それをこちらの言葉に直す。時計のマメパトがもう一度くるっぽーと鳴いた。と同時に、カラン、とカフェのベルが鳴った。
 いらっしゃいませ、という店員の声の後に、何かやり取りが続く。
 と、やにわに店員が視界に出現した。「こちらでございます」店員は一礼して、去る。間もなく智志の目の前に、中年の男がどっかと座り込んだ。男は豪快に笑う。
「すまんな、遅れた。ひったくりを追いかけ回しててな。
 悪かったな。食事はまだか? ここは俺が持つから、遠慮なく頼め」
 そう言って、男はメニューを智志に寄越した。
「いえ、自分の分は自分で持ちます。今回、こちらの都合に合わせていただいたわけですし……」
 しどろもどろになる。「まあそう言うな。俺の方が年長だし、遅れて来たし、第一お前に会わせろって真壁に言ったのは俺なんだから」男が豪快に言い募るその途中で気付いて、智志は立ち上がって礼をした。
「本日はお世話になり」
「まー、座れ座れ。折角お洒落なカフェに来たんだから」
 男は智志の台詞を途中で切って言う。
「それから、面倒な敬語もなしだ。仕事で肩凝ってんだよ。非番まで肩凝ってたらやってらんねーや」
「あ、いえ、そういうわけには……」
「敬語はやめ、つってもそんなもんか? まあいっか」
 男はニヤリと笑って自分の分のメニューを開く。
「これいいな。モモン・タルト・タタン」
「すっごく甘いですよ」
 モモンの実を始め、ポケモンが食べるきのみというのは、味がどぎつい。その味は甘い、辛い、酸っぱいなどと表現されるが、人間が知覚するそういう味とはまた別物だと智志は思っている。
 智志の忠告に、男は「俺じゃねえよ、こいつだこいつ」と笑ってモンスターボールを開けた。ボールから現れたのは、智志のポケモンと同じく、ガーディだった。
「フレイヤって名前だが、普段はフレって呼んでる。女の子だ」フレ、と男が声に出すと、ガーディが男を見上げて、お座りの姿勢のまま尻尾を振った。
「お前のポケモンは?」言ってから、男は机の下を覗き込んだ。「ああ、そこか。お前のもガーディか」そして身を起こす。
「仲良さそうだな。いいカップルになりそうか?」
「こいつは女の子です」
「あ、そう」
 男は残念そうな顔をした。しかし、すぐに表情を切り替える。
「お前も好きなの頼め、な?」と言われ、智志は一番安いポフィンを頼んだ。「若い内から遠慮すんなって」男はまた豪快に笑う。智志は「はあ」と曖昧に答えた。
「でだ」
 注文を終え、男は腕を組んで机に付くと、智志の方へずいと身を乗り出した。
「お前だな? 真壁の弟子の、八坂智志ってのは」
「あ、はい」
 今ので、うっかり自己紹介していなかったことに気付く。
「真壁さんの所で働かせてもらってます。八坂智志と申します」
 智志は座ったまま頭を下げた。男は「いいっていいって」と手を振った。
「真壁から話は聞いてるんだ。面白い奴だな、あんな唐変木に弟子入りするなんて。あの唐変木はお前のことをモラトリアム小僧と言ってたが」
 智志は少しムッとした。モラトリアム小僧は余計だ。が、事実でもあるので言い返せない。
「まあ、俺も自己紹介せにゃなあ」
 男はそう言って、背筋を伸ばした。
「俺は青井守。真壁とは警察の記者クラブで知り合ったんだ。こう見えて、警察官だ」
 そう言って、青井はニッと笑った。真壁とは同い年と聞いたが、薄くなりそうな気配を見せる黒髪に、白色は交じっていない。代わりに、顔のシミが目立った。しかし、笑った時に見せる歯は白くて健康そのもの。やんちゃ坊主が順当に年を取ったらこんな感じなんだろうな、と智志は思った。いつも通り、手帳に書く。あまり似ていない。

 ポケモンたちの為に頼んだ食事が来た。人間の分として追加でコーヒーを頼む。「インタビューの練習なら、レコーダーの一つでも出した方がいいんじゃないか」と青井に言われ、智志は遠慮がちに、バイト代で買ったばかりのICレコーダーを机に置いた。カフェの店長には、予め許可を取っている。
「真壁とは違うなあ。あいつはどうせカセットテープ使ってんだろ?」
「はい」
「どこの遺物かと思うわなあ。まあでも、ああいうデカブツを使ってた方が、インタビューだっていう意識が両方に出て良いって真壁は言ってたな」
 智志には、カセットテープによって時間制限を意識させるのだと言っていた。
「おっと、こんな与太話で時間を潰すわけにはいかないよな」
 そう言って、青井は座り直す。目がギョロリと智志を見た。
「あの事件のことを話せってことでいいか?」
「その事件と、その後のことを」
 真壁にも言われたことを、智志は小さな声で繰り返す。――俺は、正義を求めたり、真実を暴いたりはしないんだ。ただ、追いかけるだけだ。
 青井はコーヒーを煽ると、天井の照明を見上げた。
「そうかあ。あいつはまだ追いかけてんだなあ」
「この事件を、ですか?」
「いや」
 青井は再度座り直す。そして、智志を見た。その顔には先程までの磊落さはなく、ただ、年老いて寂しそうな男が表れていた。男は、ふっと声を落として話し出した。
「雪ちゃんのことだよ……あんなもん、どうにもならねえのになあ。あいつは生真面目すぎる。適当に放り捨てなきゃ、やってられんもんだぜ」
 青井は眩しそうに目を細めた。まるで、今しがた照明の存在に気付いたかのようだった。そして、手をひらひらと振ると、「愚痴になっちまったなあ。悪い、忘れてくれ」と言った。
「あるいは、真壁に直接言ってくれてもいいぞ。もう追いかけるのをやめろ、ってな」
「それは」
 智志は言葉に詰まる。本来言い返すべき真壁は、ここにはいない。大事なインタビューがあると言って、どこか別の場所へ行った。
 青井は手で智志を黙らせるジェスチャーをした。そして、言う。
「あいつは事件じゃなくて、その後の人生を追ってるつもりだろうが、おんなじことだ。いい加減、忘れっちまえ。俺が真壁に言いたいのは、これだけだ」
 青井は手を引っ込めると、また前のように磊落そうに笑った。
「ま、お前と真壁は別の人間だ。お前はお前で、好きな道を選べばいいさ。ただし、真壁と同じやり方はお薦めしない」
 青井はコーヒーを飲もうとして中身がないことに気付き、店員を呼び止めておかわりを頼んでいた。智志はそれを眺めながら、今言われたことを頭に入れていた。追いかけるのをやめろ。そう言われても、智志にはこの場で何も言えなかった。自分の中に言葉がない。また俺は、何も考えていなかった。すすったコーヒーの苦味が際立つ。
「まあ、脱線したが、本筋と行こうじゃないか」
 おかわりのコーヒーが来るのを待って、青井が言った。智志はコクリと頷く。手帳を構えて。
「あの事件のことだが、俺は実は関わってないんだ。事件に当たったのは別の奴でな。そいつも色々あって警察をやめたが……そうだな。まずは、俺たち三人のことを話そうか。真壁を入れたら四人か。俺たち四人がお前くらいの年で、青春やってた頃だな」

 あの頃は、まだ旅のポケモントレーナーも多かった。青井くらいの年代の奴は、ほぼ全員が旅に出ていただろう。
「それが、こんな時代になるとはね」
 嘆くわけじゃねえけど、自分の頃にあった風習が、さも悪習みたいに言われんのはねえ。青井はやるせなさそうにため息を吐いた。
 ともかく、旅をするトレーナーが多かった時代のことだ。若い内から旅をする関係で、義務教育は小学校まで。通信教育や留年制度を利用する者も多かったが、小学校までの学歴のまま、職を探す者も少なくなかった。それが出来たのは、“旅をした”“旅をしてジムバッジをいくつ集めた”というのが、高評価で受け入れられてきたからだろう。ポケモンバトルがプロリーグに移行して、アマチュア向けのジムバッジ制度はすっかり廃れてしまったが。
「俺たちも例外なく、旅をしてバッジを集めて、その伝手で警察に採用されたような連中だった」
 青井は可笑しそうに笑う。
「真壁は聞屋で、海原はよく分からんかったが」
 ともかく四人は出会った。
「俺、海原、記者クラブにいた真壁。それから、アキちゃんだ。
 まるで幼馴染だったよ。今まで出会ってなかったのが不思議なくらい、俺たちは気が合った!」
 過去を懐かしむ目。
「ああいうのは、中々ないだろうな。真壁は職業が違うからあまり一緒にはならなかったが、俺たち三人は警察内で一緒に馬鹿やって、トリオ扱いされてたもんだ」
 しかし、今では四人とも、別の所にいる。
「皮肉だよなあ。それも、こんな職を選んだから離れざるを得なかったというか」
 出会った頃は、そんなこと、露程も思わず。

 四人は全くもって仲が良かった。仲良く喧嘩もやったが、すぐ仲直りした。四人それぞれタイプが違うのもあっただろう。
 如何にもやんちゃ坊主が成長した感じの青井。
 思慮深く、知的なインドア派の真壁。
 クールで影があり、天才肌ながら面倒くさがりな海原。
 そして紅一点、おてんばでズケズケと物を言うかと思いきや、奥手でもあったアキちゃんこと晶子。
 当然の如く、青井は晶子に惚れ、晶子は海原に惚れていた。真壁は惚れていたかどうか分からないが、トリオの恋愛事情からは一歩身を引いていた。
「ま、その頃のアキちゃんは可愛かった。丸顔で、背もよく警察なれたなってくらい低かったからな。可愛い系だよ。ま、今はオバサンだが」
 青井は笑って続ける。
「海原は女に寄られても仕方ない顔してた。洋画の俳優みたいな顔でな。鍛えてるけど、細身で長身。休日にサングラスして黒のスーツして歩いてたら、女が冗談じゃなく振り向くんだよ。しかもあの性格だ。女はああいうのが好みなのかねえ。アキちゃんの呼び方がな、『青井さん』『真壁さん』『海原くん』なんだよ」
 青井が笑う。智志も笑った。
 智志は手帳に似顔絵を描く。会ったことのない、想像の晶子と海原の顔が並んだ。
「もっとも、アキちゃんは俺と馬鹿やることの方が多かったけど。でもあれでアキちゃんは、学級委員みたいな真面目なとこがあったんだなあ。でなきゃ、辞めるわけないしな」
 青井はそこで急に身を起こすと、智志に「おい」と言った。
「なんでしょう?」
 記録されるとまずい話だろうか。智志の目がICレコーダーに飛ぶ。しかし青井はそれに構わず、話し続ける。
「お前、バベルタワー事件を知ってるか?」
 智志は息が詰まって、そして、ガクリと首を落とすようにして頷いた。知らない、なんて言ったら常識を疑われる。
 深くは知らない。しかし、その概要は誰もが知っている。当時小学生であった智志でさえ。
 酷い事件だった。
「ヤマブキハイランドマークで、宗教団体がテロが起こした、とは聞いています」
 それだけ答えた。

 当時、世界最大の自立式鉄塔であったヤマブキハイランドマーク、高さ五百八十三メートル。エレベーターやレストランが設置され、ヤマブキの観光の目玉になっていた場所。
 そこで事件が起こった。
 天使塾、と名乗る宗教団体のメンバーが、タワーの最上階で次々とポケモンを開放した。塔の内部に突然現れた大型のポケモンたち。タワーに訪れた人々の頭にまず浮かんだのは、襲撃の恐怖と、塔の崩落という恐怖だっただろう。タワーを降りようとする人々と、登ろうとする人々。天使塾による封鎖。パニックによる死者も出たらしいと聞く。その中で天使塾は声明を発表する。
「我々人間は、ポケモンを自らの欲望の為に、物として扱ってきた。ポケモンの力を酷使して作り上げた、このバベルタワーはその典型である。今一度、我々は神に赦しを請い、その裁きを受けなければならない。しかし、あるべき修業を積んできて我々は、神に赦され、天使として命を受けるであろう」
 そして、天使塾は神を呼ぶ儀式と称して、虐殺を始めた。
 その日は日曜だった。

 後で分かったことだが、天使塾の主なメンバーは、ポケモントレーナーを長く続けすぎて、職にあぶれた人々だったそうだ。
 旅をすることが公に認められている、と言っても、限度はある。引き際を見極められなければ、その先に道はなかった。旅をそんなに長く続けて、バッジはそれだけ? それとも、旅の経験でよっぽど売り込めるものがあるのかい? 大抵の人には、ない。バッジを集められず、あるいはポケモンリーグの本選に進めず、そんな所で足踏みを続けていた人々。足踏みしている間に時間が過ぎ、その時間に値する物を得る為に、また足踏みをして。そうしている内に、ポケモントレーナーから身を引こうとしても、居場所がなくなってしまう。そんな人々を天使塾は吸収して、肥大化した。
 これも、旅するポケモントレーナーが時代から消える一因だった。

 ヤマブキハイランドマークは、バベルタワーのように崩れ去ることはなかったが、観光塔としては閉鎖された。そして、慰霊塔となり、骸の塔と名を変えて、今でもそのまま残っている。忘れてはならない記憶の場として、訪れる観光客も多いそうだ。

「……その事件が、どんな風に終わったかは知ってるか?」
 智志はコクリと頷いた。そして、青井を見て、頷くだけでは足りなかったのだと知る。智志はコーヒーではなく水を一口飲んで、言葉を連ねた。
「最後は警察が突入して。でも、その前に、噂ですけど」
 青井が頷く。智志は半ば驚きながら、言葉を連ねる。
「ホウオウを連れたトレーナーがやってきて、収めた、と。塔からホウオウが飛び去った、と聞いてます」
 智志は水を置いた。静かに置いたつもりだったが、テーブルに触れ、コップがコンと小さな音を立てる。すいません、と思わず小さな声で呟く。
 青井はそれには気付かず、黙っていた。
 ICレコーダーが、小さな駆動音を立てる。
「……青井さん?」
 一分程待ってから呼びかける。青井は「ああ」と返事をして、体を智志の方に向け直した。
 窓の外を顎でしゃくる。
「今日も休日だなあ、と思ってな」
 何となく、青井の感じたことが分かる気がした。
「とにかく、話の続きだ。前後したがな」

 バベルタワー事件が起こる前、俺たち三人が警察になってからの話だ。
 最初は刑事課で仲良くやっていた。仲良く、といっても、扱う事件は強盗や殺人という重いものばかり。精神的にきついなんてことはいくらでもあった。しかし、人間には忘れるという機能がある。事件が解決したら、そこでエンドマークだ。それ以上、刑事が関わって出来ることなどないのだから、すっぱり忘れることだ。青井は、そうやってやってきた。
「俺にだって、忘れられないことはあるさ。でも、アキちゃんや真壁に比べたらなあ」
 晶子は人に実直すぎた。真壁は言葉に実直すぎた。一度、真壁が上司に噛み付いているのを見たことがあると言う。
「あれだ。報道の時、強姦が婦女暴行になるだろ。それが真壁は気に入らなくて、噛み付いてた。『そんな曖昧な言葉にすり替えていいのか。真実を報道する以上、それに即した言葉を使うべきじゃないのか』……真壁はそういう奴だった」
 晶子はいつも、被害者や遺族に親身になって寄り添った。カウンセラーや被害者の会の紹介のみならず、警察や検察の被害者支援制度についても詳しく、そういったものが必要な人々の案内役を買って出ていた。取り調べ室でも気を使って「休憩したかったらいつでも言って」と発言したり、これから取る調書について、裁判所での扱いを予め説明したり。事件後も彼女は彼らを気に掛け続けた。命日には、自分の都合と相手の心情が許す限りで、花を手向けに行っていた。
「アキちゃんの手帳は、事件の命日がいっぱい書き込んであってな。その内三百六十五日命日で埋まるんじゃないかってな」
 心配だった。青井は小声で付け足す。
 海原は、よく分からない。何も感じてないのか、と思う時もあったし、忘れているのかと思う時もあった。多分、彼は並外れて精神的にタフだったと青井は思う。
 そうして、三人がトリオで仲良くやっていても、いつかは別れる時が来る。三人のそれは、異動だった。青井は時代の要請が大きくなり始めた交通課へ。晶子はポケモン犯罪課へ。そして海原は刑事課に残った。真壁は変わらず記者クラブにおり、四人の縁はまだ続いていた。しかし、前に比べると、会う頻度は下がる。それぞれに職場があり、上司がいて、後輩が出来た。後輩が出来ると、自分だって至らないのに後輩の指導を任されて、四苦八苦した。しかし、会えばまた昔のように語り合った。
「海原はまあいつも通りだから心配ない。真壁は相変わらず上司に噛み付いてたよ。あれで飛ばされなかったのが不思議だよな。それで、アキちゃんは」
 そこで青井は息を吸った。
「前よりちょっと、マシになった。ポケモンが関わった事件でも、殺人みたいな重いのはポケモン犯罪課に来ないからな。よっぽどのことがない限り」
 加えて、晶子はポケモンに関しては天性の才能を持っていた。本人は否定していたが。
「でもまあ、アキちゃんのポケモンを見れば分かるわな」
 彼女はポケモン犯罪課で上手くやっているようだった。前のように重苦しい空気を背負って思い詰めていることもすっかり減ったし、ポケモンといるとそうなるのか、笑顔が増えた。
 海原が珍しく晶子に言及したのを、青井はよく覚えている。
「普段は、じゃじゃ馬だな、とか言って鼻であしらってるだけなのによ」
 ――大分笑うようになったな。笑ってる方が、俺たちにも良いな。
 そう言って、海原はウイスキーを飲んだ。銘柄までよく覚えている。シルバー・ギャロップ・ラン。そういえば、後にも先にも、海原が人前で酒を飲んでいたのはその時だけだった。

「“よっぽどのことがない限り”、アキちゃんはもう大丈夫だろうと思ってた」
 マメパトがくるっぽー、と鳴いた。もう随分ここに長居している。悪いと思ったのか、青井は二匹のガーディに追加で注文を取った。そして、智志に向き合う。
 机の上の小さなレコーダーを見て、気付いた。これじゃ、どのくらい録音したのかいまいち分からない。真壁のレコーダーは、途中で一回、テープを裏返す動作音が入った。
 それとも、聞けるだけ聞いとけってことか。智志はレコーダーから目を離し、青井の顔を見た。青井はただただ、笑う。
「よっぽどのことは、あったよ。あの事件だ」

 まず、“ある事”が起こった。
「あの事件の被害者は四人、だったな」
 言ってから、青井は右手の平を智志に向け、大きく広げる。
 少し経ってから、智志はその意味に気付いた。
「被害者は」言いかけて、口を閉じる。被害者は、本当は五人いた。一人、事件の被害者にされなかった人間がいた。
 青井は智志を見て頷くと、智志のICレコーダーを手に取った。そして、録音を切った。
「これは一般論だが」と前置きする。
「強姦事件の時、同意があったなかったで揉めることは少なくない。日を置いて被害者が届けを出したら、証拠は双方の言い分だけ、ということも多い。その状態で、被害者と被疑者が仲良さそうに歩いてたり喋ってたりするところを見られてたら、事態はシロの方に傾くことになる。心情的にはクロでもな。被疑者が強姦目的で被害者に近付いていたとしても。不起訴ということすらある」
 一般論終わり、と青井は言った。「もう録音していいぞ」青井はICレコーダーを顎でしゃくった。
 智志は少し体を伸ばして、ICレコーダーを手に取った。録音を再開する。レコーダーを机に置いた。コン、と小さな音がした。
「連続強姦事件の前に、そういう一般的な強姦事件があった。いや、事件にすらならなかった」
 ゼロ番目の事件。いや、事件にすらならなかった。
 青井は乱暴に、机に両手を置いた。ドン、と意外に大きな音が鳴る。
「で、やっと事件の話だ」
 皮肉を込めて、青井はそう言った。

 ポケモンを用いた脅迫による連続強姦事件が起こって、まず呼ばれたのは、ポケモン犯罪課の晶子だった。しかし、その時点では、“連続”であったが“連続”ではなかった。
「本来なら、刑事課だけで担当する事件だろうな」
 しかし、事件にならなかった“あの事”がある。その時点では、ポケモンを用いた脅迫が行われたかどうかもあやふやだった。でも、と刑事課は晶子を呼んだ。どうせ海原が手を回して呼ぶように仕組んだのだろうが、そんなことは、今となっては、最早どうでもいい。
「多分、あそこにいた警察官は誰でも思ってたろうからな。晶子以上のことが出来る奴はいない、ってな」
 事件が事件であったから、なおさら晶子を選んだ。
「アキちゃんは期待通りやったんだろうな。裁判で被害者側の調書がほぼ採用されてたし、判決もこっちの求刑に近かった。いや、俺は交通課だったからな。詳細は知らない」
 ただ、と青井は言う。酷かったよ、と。

 犯人のやり方は、ワイドショーなんかで散々言及されたが、こうだった。
 まず、辺りをうろついて、適当な女性を物色する。旅のポケモントレーナーなんてありふれたものだったのだ。誰も気に止めない。
 ターゲットを決めたら、旅のトレーナーらしく、旅の話をしたり、道中で手に入れたポケモンを見せたりして相手の気を引く。そして、しばらくこの町にいるんだけど、どこか案内してくれないかな、などと言って何度もターゲットと会う。出来れば人の多い所で。そうして親しさを演出した後、事に及ぶというわけだ。
 智志ははっと気付いて、いつの間にか作っていた握りこぶしを解いた。手の平に爪痕がしっかり付いていた。青井はそれに気付かず、話を続ける。
 ニドラン♂を使うかどうかは、まちまちだった。“二番目”の事件では使わずに犯行に及んだ。最後の事件では、親しくなる過程を飛ばしてニドラン♂で脅迫し、犯行に及んだ。そうして味を占めて計画が杜撰になっていったことも逮捕の一因だが、これもどうでもいいことだ。ただ、共通していたのは、ニドラン♂はそこに居させただけで、実際に危害を加えたりなどはしていない、ということ。
「実際に危害を加えてたら、最初の最初でとっ捕まってムショ行きだっただろうさ。小賢しい野郎だ」
 そう、青井は吐き捨てた。
 何はともあれ、犯人は捕まり、有罪が確定した。懲役十三年という罪は、罪状に比べて軽すぎるものだっただろう。それでも、被害者には何とか、怒りを向ける先が出来たと青井は思う。そう信じないとやってられない。
「晶子は生真面目すぎた」
 青井は再度ICレコーダーを手に取ると、録音を切って、机の上に投げ戻した。
「あいつのやりそうなことぐらい、分かっとけってんだ」
 あいつはなあ。青井は笑いながら言う。
 被害者でもない人間に会いに行ったんだよ。馬鹿だろ。
 泣き出しそうな声だった。

 その人は、事件の捜査が始まってすぐと、事件が終息に入った時の二度、姿を現した。だから、晶子とその人は一応、面識があった。誰かから聞いてその人のことを、ゼロ番目の被害者のことを知った晶子は、矢も盾もたまらず、謝罪に行った。「警察としては、やってほしくない行動だな」その人としても、やってほしくない行動だったのだろう。晶子は拒否されたが、それでもめげず、再捜査して今度は起訴させると約束して、事実その通りに行動した。
「アキちゃんは、行動力はあるし、多少のルール違反はやってしまうタイプだし、何より真面目で、正義感があった」
 四回の強姦事件が、大きく報道されたこともある。警察が非を認めさえすれば、有罪を付けることぐらいは出来ただろう。
「出来なかったんですか?」
「再捜査も、もうされないだろうな」
 青井は息を吐いた。そして、窓の外を見る。横顔を見て、はっとした。彼もやはり、真壁の同年代の人間なのだと痛感した。目元と口元に細かい皺が寄っており、それはきっと笑い皺なのだろうと思うのだが、今は、青井の顔にどうしようもなく深く時を刻んでいるのだ。
「自殺した。ご丁寧に、被害届を取り下げてな」
「……」
「ま、過去のことさ。俺は忘れようと思ってる」
 青井は先程投げたICレコーダーを持ち上げると、録音を再開して机の上に戻した。ICレコーダーはキュルキュルと鳴った。だからインタビューに応じたのだろうか。
「そっから」
 青井は気を取り直すように、乱暴に手で顔を擦る。元やんちゃ坊主らしく、豪快に笑ってみせるが、やはり元気がない。
「アキちゃんは窓際に飛ばされてな。それで持ち直せばいいと思ってたが、そこにバベルタワー事件だったよ」
 つくづくついていない、と青井は思ったものだ。
「捜査にあたった、じゃないんですよね?」先程飛ばされたと聞いたのを思い出す。
「ああ」青井は頷く。そして、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「巻き込まれたんだよ。海原と一緒にな。ったく、非番に二人で何してたんだか」
 苦々しい顔の次は、苦笑。「俺も混ぜろってんだ」笑う。
 そしてすっと表情が消えた。表情がよく変わる人だとは認識していた。だが、消えるとは思っていなかった。
「なあ」
 青井は感情を映し出さない目で、智志を見た。
「俺が最初に、事件がどうやって終わったか知ってるか、って聞いたの、覚えてるか」
 智志は頷く。
「ホウオウを連れたトレーナーが収めた、という噂のことですね」
「それだ」
 青井は人差し指を智志に向け、言った。智志はただ、たじろいだ。
「合ってるようで、違う。それぞれは真実だがまとめると間違いになる」
 智志は眉間に皺を寄せた。青井の問いかけが、謎かけのようで分からない。
「噂は、確かに噂だったってことだよ」
「えっと?」
「つまり」
 青井は机に肘を付くと、智志を指差した。
「ホウオウは目撃されたが、それは場を収めたトレーナーのものじゃない」
「つまり?」
 青井は一呼吸置く。そして、悲しそうに智志を見た。
「あの場を収めたのは、海原だ。ホウオウは、野生でも、海原のポケモンでもない。アキちゃんの手持ちだよ」
 一拍置いて、
「場が収まったんなら、ポケモンを出す必要なんてないのにな」
「えっと、それは……」
「宿題だ」
 青井は目を伏せて、足元にいるガーディの耳を掻いてやった。そして、「俺も真実は知らん」と付け足した。
「これは、と思う可能性はある。ただ、それを確定するのはむごすぎる。海原も、何も言わなかったしな。結局、俺の推測だけだ」そして、酷かったな、と独りごちた。

 晶子は警察を辞めた。
 前後して海原も警察を辞めた。こちらは、予め辞めるつもりだったらしい。ばっちり引き継ぎもして、後も綺麗にして辞めていった。きっと、旅のトレーナー時代に引っかけた女に追われてるんだと軽口を叩かれていたが、それがあながち外れでもないことが後々発覚する。「それはさておき」
 真壁も、何故か記者クラブから外れた。のみならず、新聞社を辞め、フリーに転向した。心当たりはある。色々積み重なったのだろう。
 青井は、警察に勤め続けた。他の三人のように辞める理由がなかったのもある。
「でも、最も大きい理由は、忘れてもいい、って思ったことだな」
 青井は言う。
「アキちゃんや真壁みたいな連中がいる。いて、事件のことを覚えててくれる。なら俺は、忘れてもいいんじゃないか、って思うんだよ」
 言いながら、青井は寂しげな表情をする。
 多分。
 智志には分からないけれど、推測は出来る。
 青井は、親友たちを懐かしんでいるのだ。親友たちとの戻らない時間。事件が起こらなければ、今も親友たちと笑い合っていたかもしれない。そんな可能性を考えているのだ。

「真壁に伝言を一つ、頼むよ」
 カフェの支払いを終え、外に出て別れる、という時に、青井は智志に頼んだ。智志は断るはずもなく、頷く。じゃあ、と青井は息を吸った。
「“雪ちゃんのことは忘れろ”」
 それだけだ、と青井は言った。
 智志は口の中で伝言を繰り返す。一字一句、間違えてはいけない。そんな気がして。
「ああ」
 背中を見せて、去りかけた青井が戻ってきた。「なんでしょうか?」と智志が尋ねる。青井は、智志の足元の子犬を指差した。
「些細なことなんだが、気になってな。
 そいつ、名前はなんていうんだ?」
「へっ?」
「名前、付けてるんだろう?」
 戻ってこれて嬉しいのか、青井のガーディのフレが、尻尾を振って智志のガーディに挨拶している。智志のガーディの方も、友達が出来て嬉しいのか、控え目に尻尾を振っていた。青井はというと、不思議そうに智志を見た。
「ガーディ、って名前じゃないんだろう? いや、店で一回も名前を呼ばなかったから、気になってな」
「名前は、付けてますが……」
「ほう、どういう名前だ?」
 教えてくれないと、今夜から眠れんなあ、と言って青井は大口を開けて笑う。
 智志はどもった。
「何と言いますか……」
「発音できない名前でも付けたのか?」
「いえ、発音は出来ますが。その」
「なんだ、はっきり言え」
「こいつを貰ったのが八歳の頃で、名前を付けたのが、その、八歳児なんで」
「ほうほう、それで?」
 この人は取調室でもこんな調子なんだろうか。
 智志は観念した。
「アマテラス」
 智志の足元の貧弱ガーディが、ぴょいと顔を上げた。まさしく「呼んだー?」と言う感じで。
「……」
「あの」
「何だ」
「コメント、してもらえます?」
 青井は、アマテラスをしげしげと眺めていた。「ああ、まあ」と言って咳払いをすると、こうコメントした。
「いい名前じゃないか?」
「そうですか」
 名前に敗北を喫したガーディが、愉快げに尻尾を振っている。


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