マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
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  [No.3099] クロ(6) 投稿者:Skar198   投稿日:2013/11/03(Sun) 13:33:17   121clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:鳥居の向こう】 【次か次あたりでラスト

6.

「兼澄本町(かなずみほんちょう)、兼澄本町」
 電車のアナウンスが約束の駅名を告げた。カナズミシティの中心地でデボンコーポレーション本社も近い場所だ。フタキが指定してきたのはカナズミ市の中心地にある百貨店、DOGO前の広場だった。ぶわっと水が吹き上がる。噴水に住むコンクリートのホエルオーは半身だけを見せ、威勢よく潮吹きをした。広場にはデートを楽しむカップル、友達同士で歩いていく女の子達、そしてポケモンを連れたトレーナー達の姿がある。
 弟の姿はすぐに見つかった。噴水近くに座っている人物が手を挙げたからだ。隣には白いドレスのポケモンが座っている。
「待ったか?」
 ベンチに近づいて俺が尋ねると、さっき来たところだとフタキは答えた。隣の介助ポケモン、サーナイトが見上げるようにじっと俺を覗き込んでいたが、俺は無視した。バッグにはモンスターボールがあったが、ここにクロはいない。
「ねえ、お昼はもう食べた?」
 フタキが尋ねてきた。なんだか今日はやけに喋るな。そんな事を思いつつ、
「いや、まだ」と答えた。
「じゃあ先に飯にしよう。コンサートまでは結構時間あるから」
 フタキが言った。そして、サーナイトが先に立ち上がり、手を伸ばした。
「行きたい店があるんだ。そこでもいい?」
 サーナイトの白い手をとりながらフタキが言って、「ああ」と俺は答えた。弟がベンチから腰を上げた。
 弟の歩みは常人のそれと比べればだいぶゆっくりとしたものだった。足音が違う、とクロは言ったが、やはりぎこちなさがある。だがサーナイトは嫌な顔ひとつせず、弟を導いていた。手を繋ぐ一人と一匹、まるで恋人にも似たその姿に時折道行く人の視線が刺さる。けれどフタキはまったく気にしていなかった。俺はフタキの歩調に合わせ、その後をついていった。俺は改札口で、クロをボールから出した事を思い出していた。
 ――別行動にしよう。
 クロがそう言ったのは前日の夜の事だった。やはりボールの中は退屈だ、と。何より弟の連れ合いの視線が痛い事が最大の理由らしい。
『にゃあ』
 クロはボールから出されると俺を一瞥し、普通の声で鳴いた。そして雑踏の中へと消えていった。
 道すがら、サーナイトは何かを気にするようにちらちらとあたりを見ていた。どうしたの、とフタキは尋ね、何でもないんです、という素振りを見せる。おそらくどこからかクロが見ているのだと思った。
 弟に案内されたのはカイナシティ名物、カイナバーガーの店だった。バンスに大きなハンバーグ、豊富な具材を挟んだ特大のバーガーだ。地下にある店に入るには狭い階段を降りなければならない。なるほど、弟の選びそうな店だと俺は思った。こんな店、車椅子では絶対に入れない。
「荷物見てて。注文してくる」
 フタキはそう言って、俺に希望のメニューを尋ね、サーナイトとカウンターのほうへ歩いていった。しばらくして、スタンド付きの数字入りプレートを三枚持って戻ってくると向かい合う形で席につく。
「チケット渡しておくね」
 そう言って鈍い銀色の券を俺に差し出した。
 ハミングバードライブ――歌鳥音楽祭Vol.3。そう印字されていた。
「……ああ、コンサートってハミィだったのか」
 俺は言った。 
 ハミングバード、通称ハミィ。スマイル動画でも中堅どころの歌い手だ。「歌ってみた」。スマイル動画で自分の歌った曲を発表するジャンルがある。歌う曲は流行のアニメのテーマソングだったり、ボカロのオリジナル曲だったりする。ミミの曲の中には「歌ってみろ」というタグをつけられた曲が存在する。あまりにも高速だったり、使う音程が広すぎたり、間が無かったりといった曲だ。人間のカツゼツと音域、息継ぎのタイミングを無視したミミの為の曲、それらを見事に歌い上げる事で名を高めてきたのがハミィだった。
「知ってるの!?」
 フタキがやや身を乗り出して聞いてくる。
「ああ、まあ。そこそこ有名だし」
 有名なのははらはらイーブイコレクションだ。もともとはミミのオリジナル曲で、イーブイとその進化系たちが毎度何らかの騒動や事件を起こすといった内容なのだが、曲が進む度に早く難しくなていく。イーブイ、シャワーズ、サンダース、ブースターと図鑑ナンバーが進む度に難易度が上がるのだが、グレイシアあたりまで来るともう何を言っているのか分からない。たいがいの歌い手はブラッキーあたりでギブアップする。
 チケット裏を見た。ゲストもなかなか豪華だった。歌ってみた、弾いてみた、それにライブ活動をするボカロPの名前があった。実力派揃いだ。
「知ってるならよかった。兄貴の趣味に合わなかったらどうしようかと」
 フタキは胸をなでおろすように言った。
 まさかこいつがスマイルを見てるとは。そんな事を思ったが、よく考えてみればフタキは俺以上にインドアだったと思い出した。なんせ半年前までは歩けなかったのだから。スマイル動画という存在がどれだけカズキの時間を占めたか。それはきっと俺以上だ。
「スマイルは結構見るの?」
「まあ、そこそこな」
 俺は言った。まあ一応ボカロPだし。ぜんぜん有名じゃないけど。
「好きなジャンルとか、ある?」
「ボカロとか? 週刊ボカロランキングはチェックしてる」
 俺は答える。ただし、曲が入った事はない。エンディングで紹介される31位以下にかろうじてサムネなら載った事があるが。
「へえ、意外」
 と、フタキは言った。悪かったな。どうせピラミッドの下のほうだ。
 そんな事を言っているうちにハンバーガーが運ばれてきた。焼けたハンバーグのいい匂い。噂に聞くカイナバーガーは思った以上に具沢山だった。メインのハンバーグに加え、各種木の実を薄くスライスしたものがたくさん挟まっている。俺達はフォークとナイフを手に取る。具沢山すぎてとてもじゃないがかぶりつけない。
「これこれ、一度食べてみたかったんだ」
 そうフタキは行った。
 弟と、いや正確には弟とその相棒との食事。それは思ったよりずっと緊張の無い、穏やかなものだった。何より驚いたのはフタキがよく喋るという事だ。食事会の時と比べてもその表情は豊かだった。
 その様子を見つめながら、ふと俺は我に返った。
 ああ、フタキは何も知らないのだ。俺がラルトスを交換に出してしまった事、それでブラッキーを手に入れたこと、そのブラッキーはただのブラッキーでは無い事。今もどこかでこの様子を伺っている事……。
 時折、サーナイトの赤い目がじっと俺を見た。
 だが残念、クロならここにはいない。君がフタキを守る事もたぶん出来ない。
「ねえ兄貴」
「ん?」
「ボカロ好きならこの後「ライコウのあな」行かない?」
「ライコウのあな?」
 これまた意外な名前が出てきて驚いた。ライコウのあな、様々なジャンルのオタク向け書籍やグッズを扱う同人ショップだ。本店はカントーだが、ここカナズミにも支店がある。
「ちょっと探したいCDがあって」
 そんな訳で今度はショッピングになった。ショッピングビルの八階にその店はあった。俺達は同人音楽コーナーに足を運び、思い思いのCDを物色した。久しぶりのライコウのあなはいろいろ目移りするCDがある。黄色のジャケットが印象的なスパークPや、著名なラノベのテーマ曲を作るので有名なミカルゲP、俺が好きで聞いているP達の新譜が結構出ている。鴨鍋というタイトルのごろ寝Pの新譜ジャケットでは土鍋の風呂でカモネギが入浴を楽しんでいた。ファーストアルバムはコイキングの生き作りだったが相変わらずのジャケットだ。
 VOCALOID飛跳音ミミ。彼女はデスクトップミュージックの作者達が歌つきの曲を作る、というハードルを劇的に下げ、また聴き手に聴いてもらうというハードルも劇的に下げたと言われている。それはフタキを外に出させたサーナイトにも似ているかもしれない。
「決まった?」
 と、お目当てが見つかったらしい弟がサーナイトとやってきた。しばし迷った挙句にミカルゲPのものを選ぶ。あるわけが無いのは知りつつも、ヨロイドリ氏のものがあったら迷わず買うのに、と俺は思った。CDを購入した後、人気シューティングゲームのトゥーホゥーや某ポケモンアイドル育成ゲームのコーナーなどを覗き、店を出た。ハミィのコンサートまでにはまだ時間がある。俺達は会場近くのコーヒーショップで休憩をとった。今度は俺が注文に行って、テーブルにドリンクを三つ置いた。
「ありがとう」
 とフタキは言って、サーナイトにモモンジュースを渡す。
「ミドリは甘いのが好きなんだ」
 と、続けた。自分の彼女でも紹介するみたいにフタキの表情は明るかった。
 ミドリが来てくれて本当によかった。フタキはそんな発言を繰り返した。カップに並々と注がれた俺達の飲み物は少しずつ減っていった。
「ねえ兄さん」
 突然、フタキが改まって言ったのは、そろそろ出ようかと言う頃合になってきた頃だった。
「何だよ。急に」
 俺が身構えるように返事をすると、
「その、ラルトスの件、悪かったと思ってる」
 と、フタキは言った。本当は俺からお願いしなくちゃいけなかったのに、と。
「ああ、そのこと」
 俺は言った。確かにありゃ迷惑だった、と。
「ごめん」と、弟は言い、「別にいいさ」と、俺は答えた。
「ラルトスは元気……?」
「いや、今はいないんだ」
「え?」
「欲しいって人がいて、譲った」
「そ……そう」
「だから気にしなくていい」
「……うん」
 そう言って俺達はしばらく黙った。俺は思う。こうしている今だって俺はフタキの事が嫌いだし、しおらしい態度にイラついてもいる。だがもし、今こうしているみたいにいつも話せていたのであればこの弟に向ける態度も少しは違っていたのではないだろうか、と。
 母のいない空間での弟はしゃべりもするし、それなりに主張もあった。食事会の時に比べればずいぶんとましだ。けれど長年溜め込んだものがすぐに氷解する訳ではない。今は付き合っているだけだ。弟にあわせ、付き合っているだけだ。これは気まぐれ。本番前の前座にすぎない。
「しばらく父さんと母さんには内緒な」
 俺は言った。
「うん」
 弟は頷いた。
 またサーナイトと目があった。まっすぐに見つめる両の赤い瞳。同じように今もクロはどこかで見ているのだと思った。
 交換に出されたラルトス、グローバルリンクから来た黒い獣。俺が命じれば何でも盗んできてくれる。そう、何でも。
 三つのカップ、飲み物もう空だ。少し氷が溶け、水が溜まり始めている。コンサートの時間が迫っていた。そろそろ出るか、そう言い掛けた時、
「あ、あの……兄貴、俺さ……」
 にわかに弟が語り出した。
 
*

 恋が叶わぬジャンヌはブラッキーに男性の心を盗ませた。
 けれど、ジャンヌは心配になった。せっかく手に入れたこの心もそのうち誰かにかすめ盗られてしまうのではないか、と。彼女は男性が他の女性と会う事を許さず、話かける事も見る事も禁じるようになった。それでも男性の心はジャンヌのものだったが、彼女はもはやそれさえも信じる事は出来なくなっていた。男性が誰も見ぬよう視力を盗んだ。誰の声をも聞かぬよう音を盗んだ。どこかに行かぬよう立ち上がる力を盗んだ。男性は彼女無しでは何も出来なくなった。彼は今や廃人同然だった。

*

 コンサートもといライブ会場は中規模のハコでドリンク制だった。ジンジャエールを受け取って、テーブル席に着き、その時を待った。最初に登場したのはやはりハミィその人。顔は見た事がなかったのだが、声で分かった。歌い手にはしばしばどうせイケメンなどというタグが付くが、例に漏れずハミィはイケメンの部類だった。
 まず最初に披露されたのは代表曲のはらはらイーブイコレクションだ。たっぷりと情感を込めてイーブイの一番を歌ったハミィの歌は次第にスピードアップしていく。
「サンダス、突っ込む、ミサイル針」
 ハミィは軽い調子で歌う。このあたりはまだ俺でも舌が回りそうだったが、次第に曲は人の領域を超えていく。ついにエーフィを終え、ブラッキーに続く間奏に入った頃は間奏中に拍手が入るようになった。曲は瞬く間にブラッキーを終え、終盤のリーフィア、グレイシア、ニンフィアに移って行く。
「ニンファサザンドヨセカバッキゼッ!」
 もう歌詞を知らないと何を言っているのか分からない。ちなみにニンフィアはサザンドラに妖精の風をお見舞いして効果ばつぐんで気絶。おおよそそんな意味の歌詞である。大きな拍手が起こった。ここまで歌いきれる歌い手はそうそういない。隣の席、フタキも興奮した様子で手を叩いてる。
 ハミィが一旦引く。ゲストのスマイルピアニストが現れて、ボカロ曲のアレンジ演奏を披露し始める。さっきと打って変わってスローテンポの曲だ。場がしんと静まった。
 だが、曲が変わっても同じ事を俺は反芻し続けていた。
 ――兄貴、俺さ……
 思い出すのは先のコーヒーショップでフタキが語ったその内容だった。

「俺、大学はホウエンの外に行きたいんだ」
 突然の告白だった。驚いた。フタキはてっきり母の言う通りカナズミシティ内の大学に行くと思っていたのだが。
「ホウエン外は無理でも、カイナとかミナモとか。一人暮らしが出来たらと思ってる。一旦家からは離れようと思ってるんだ」
 母には、と俺は尋ねる。
「まだ言ってない」
 弟は答えた。今はまだ時期ではない、と。けれど、こうも言った。
 介助ポケモンの事を知って、どうしても欲しくなった。だからその為に今までで一番主張したかもしれない、と。ミドリが居れば自分はどこにだって歩いていける、と。
「もちろんもっと訓練は必要だけどね」
 フタキは付け加える。
「知ってた? シンクロって訓練すればサーナイトがボールに入ってても出来るんだって。今は手繋ぎが必要だけど、今にそうなってみせる」
 母さんにはしばらく内緒でね。弟はそう言った。俺もラルトスの事は黙っておくからさ、と。

 曲が転調する。激しくなる打鍵に人々は目をみはり、耳を傾ける。これは最近、ランキング上位に入った曲だ。ここが一番の見せ場になる。再び横を見る。フタキもまた真剣に聴いていた。
 プログラムが進んでいく。ゲストのボカロPがギターを手に自らの曲を歌い、また演奏者が出て、ハミィが混ざって時にセッションになって。そして、気がつけばもうプログラム後半に差し掛かっていた。再びプログラムに目を通す。ラストの三曲は曲名が伏せられている。シークレットらしかった。開場前にフタキに聞いた話によれば、ハミィのコンサートはいつもそうらしい。
 暗闇に光る目に気が付いたのは、会場の興奮が冷めやらぬ中、サーナイトの挙動が落ち着かなくなってきたからだ。
 まさか。そう思って背後を振り向いたときに見えたのは、一対の赤い眼と金の輪だった。
「! ……クロ」
 おいおいどうやって入ってきたんだ? 微かに呟くとそっと席を立つ。途中でブラッキーを捕まえた俺はその首ねっこを掴んで、外の休憩場に出た。喫煙場も兼ねたその場所では男性が一人、タバコをふかしていたがそのうちに出ていった。俺達はベンチの端と端に座っている一人と一匹になった。
『で、いつぶんどるつもりだ』
 クロが言う。俺は夜風にあたりながら上を見た。都会の空は寂しい。星はまったく見えない。
「最初は分かれたらけしかけようと思ってた」
 俺は答えた。
『思ってた……?』
 予想通り月光ポケモンは怪訝な表情を浮かべた。
「あの野郎、俺が思ってたよりずっと考えてやがった」
 再び星の無い空を見て、俺は自嘲気味の笑みを浮かべる。
『どういう事だ?』
「お前は「特別」を盗れって言ったな。でもそれは今のフタキにとって好都合って事さ」
 あいつカナズミを出たいんだと、と俺は続けた。それが意味するのは母との決別だ。あいつは決めていた。おそらくはサーナイトを手にした時から、既に。今更盗んだとて弟を利する結果にしかならないのだ。
「やるのが三年遅かったな。もうあれは自立してる」
 フタキはいずれ母の元を去るだろう。一人で……いや一人と一匹で歩き始める。
 ――母さんは俺の事を不憫だと思ってるみたいだ。
 店を出る前にフタキはそう言った。
 ――けど俺はそうは思っていよ。少なくとも今はね。俺は何だって出来るし、どこへだって行ける。その為にミドリに来て貰ったんだ。
「惨めだな。完全に負けだよ。俺の負けだ」
 フタキは、もう。
 自立できていないのは俺だった。俺のほうだったのだ。
 惨めなもんだ。歯牙にもかけていなかったPに突如ヒット曲を出されたようなもんだ。
『カズキ。何も俺が盗れるのはそれだけじゃない』
「じゃあなんだ。フタキのサーナイトでも盗れってか? 冗談はよしてくれ」
 心が冷めていた。欲しいのはそれじゃない。俺には殺生与奪権がある。けれどこのブラッキーに命じていくらフタキから盗んだって、いくら弟を不幸にしたって、俺が満たされる事は無いだろう。虚しさが消えることは無いだろう。
「俺はこれ以上惨めになるつもりはない」
 今だって十分に惨めだ。すべて俺の独り相撲だったのだ。
 フタキを品定めするつもりだった。その上でブラッキーに盗ませようと。だが、俺の欲しいもの、望みは何かのその議論は散々遠回りをして振り出しに戻ってきた。
『じゃあカズキ、お前が欲しいものは何だ? お前が本当に欲しいものは』
 クロは納得いかないという風に言った。立ち上がり、言葉と共に詰め寄ってきた。闇夜に赤い眼はますます光を増している。いつもより毛が立っている気がした。
『お前にはあるはずなんだ! 盗みたいものが!』
 クロが珍しく、声を荒げた。
「知らねぇよ」
 俺は答える。
 俺は母の特別を盗みとる事でフタキの反応が見たかったのだ。けれど、その結果はすでに見えてしまっている。今さらそれを自分のものにしたところで。
 ――母さんは俺の事を不憫だと思ってるみたいだ。
 母の特別、それをフタキは憐れみだと言ったのだ。そうだった。最初から分かっていたはずなのだ。
 俺は最初から歩けるのだ。憐れみなんていらなかった。
『それなら……』
 小声でブラッキーは言った。
『……母親の関心でないならなんだ。お前は何が望みなんだ』
 四足で立つ黒い獣の脚は心なしか震えているように見えた。
『そうでなければ、俺は』
「クロ……」
 ピンと立っていた長い尾と耳、それが力なく下がっていく。
『俺の存在意義は……』
「おいおい、落ち込むなよ!」
 俺は慌てた。俺のすぐ横でへたりと座り込んだブラッキーはまるで捨てられたイーブイのようで、いじける子供のようで。今にも消え入りそうで。
「らしくない事言うなよ。お前はいつもみたくエラそうに構えてりゃいいんだよ。フードに文句つけて、気まぐれに窓から出たり入ったりしてさ」
 クロ、お前はブラッキーだ。都市伝説上の存在、主人の欲望を叶える獣――けれどその前にポケモンで、ブラッキーで。
 ああ、そうだ。昔こんな事があった気がする。
 どんなに頑張っても相手にされなかった俺は、意地を張って現状を維持し続けて、それで。
 中学に上がっても好成績を維持し続けた。けれどカナズミ有数の進学校に入って、それでしばらくして……。
 俺はある日急に起き上がれなくなった。
 プツンと糸が切れてしまった。立ち上がる気力が無い。何もする気が起きない。
 俺は学校に行けなくなった。
「…………戻るぞ」
 そう言ってクロを抱き上げた。
 温かかった。大丈夫、こいつはたしかに存在している。

*

 ジャンヌは心を盗ませた。けれどそれを信じる事が出来なくなった。
 それで男が誰の声をも聞かぬよう音を盗んだ。どこかに行かぬよう立ち上がる力を盗んだ。男性は彼女無しでは何も出来なくなった。彼は廃人同然だった。
 これでいいわ。もう彼はどこにも行かない。ジャンヌは満足だった。

 けれどある日、ジャンヌはふと正気にもどったのだ。それは街で楽しそうに歩く男女を見た時で。
 彼女は気が付いた。自分が欲しいものはこういう時間だった。あれほど好きだった彼はもうどこにもいないのだと。
「彼から盗ったもの、全部を盗って」
 彼女は盗み取ったすべてを男に返すと、ブラッキーを手放し、ミアレを去った。

*

 ライブ会場に戻ると、ステージ上で歌っていたのはハミィだった。相変わらずのイケメンボイスだった。バックではギターを弾くボカロPに、鍵盤を叩く弾いてみた奏者が音を奏でている。アップテンポの曲は今が最高潮の盛り上がりだ。マイクが悲鳴を下げた。人間泣かせの長い長い音の伸ばし。だが難なくハミィはこなしてみせる。拍手が沸き起こった。
「みんな、今日はありがとう!」
 汗をびっしょりと掻きながらハミィは言った。
「とうとうシークレットのラスト三曲です。一曲目はゲストのフェアリーPのリクエストにお応えします。ではフェアリーP、どうぞ!」
 バックでギターを構えていた小柄の男がニヤニヤしながらマイクを取った。
「みんな知ってる? こいつさ、今でこそ歌い手やって人気出てきたけど、昔はこそこそボカロPやってたんだぜ? 全然伸びなかったんだけどな」
 え? そうなの? 俺はあっけにとられた。ハミィは歌い専門だと思っていた。同じように会場がどよめいた。一部の人間は知っていた、という風に落ち着きを払っていたが。
「俺は好きな曲あるから消すなって言ったのにさ、こいつ全部消しやがって」
「それは言うなって!」
 少々顔を赤らめてハミィは言った。オホン、とフェアリーPが咳払いし、続ける。今ならもっとうまく歌えるだろ? と。
「それでは、昔のこいつの曲から一曲、リクエストします」
 フェアリーPがその曲名を口にした。
「え?」
 俺は小さく、声に出した。ハミィがマイクを構え、横の奏者は鍵盤を叩くべく指を構える。キーボードが穏やかな音を奏で始める。それは追憶を誘う旋律だった。
 知っている。
 俺はこの出だしを知っている。
 高い空――。高速の歌唱で知られるハミィはゆっくりと最初のフレーズを口にした。


 高い空 君は見上げる
 澄んだ空 晴れ渡る空 広がるのは青い空
 けれど君は知っている そこには決して届かない
 君は見上げる 切り取られた空
 だってここは籠の中 茨の籠の中なんだ
 身動きがとれないよ 棘が僕を傷付ける
 ここからは出られないんだ


 昔、立ち上がれなくなったことがあった。起き上がれなくなって部屋から出られなくなって。
 引き篭もった俺は無為に動画ばかりを見て過ごしていた。


 高い空 君は見上げる
 泣いた空 雫降る空 広がるのは鈍色雲
 それは君の心のよう そこには決して届かない
 君は見上げる 切り取られた空
 茨の網が裁った空 籠の鳥は今日も鳴く
 身動きがとれないよ 棘が僕を傷付ける
 本当の空は見れないんだ

 ここは嫌いと君は鳴く
 僕もあそこに行きたいって
 けれど君は気付かない
 両に生えるはがねのつばさ

 高い空 今日も見上げる
 澄んだ空 晴れ渡る空 広がるのは青い空
 今日も君は憧れる 決して叶わぬ夢だけど
 君は見上げる 切り取られた空
 両のつばさ閉じたまま 茨の籠で今日も鳴く
 いつか広げたその時に 鋼の刃籠を裁つ
 本当はもう知っているんだ

 いつか広げる時がくる
 君に生えるはがねのつばさ


 立ち上がれなくなったあの時、ミミは歌った。
 あなたはどこにだって行けるんだよ、と。
 俺は気が付いた。
 いつだって俺は自由だったのだ。自由にしていい。どこに行ったっていい。
 俺は家を出ると決めた。
 俺は決めた。新しい場所で、新しい生活を始めよう。
 それでいつかはこんな曲を作りたい。
「クロ、」
 袖で顔をぬぐいながら、腕に抱いたブラッキーに言った。
「分かったよ。俺が欲しかったもの」

 ようやく分かった。
 俺が何を盗みたかったのか。


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