なんでいあいぎり覚えられないの?
これが、主人から、ザングースである『あなた』に向けられた言葉だった。
あってはならない一言だった。
詳しく話そうとも、それほど長い事情でもない。
地方はジョウト。地点はしぜんこうえん。季節は春。気候は晴天。時刻は午前。そこを3時の方角へ抜けた先にある36ばんどうろ。次なる目的地はエンジュシティ。
その途中、一本の木を斬り倒そうとするも、残念ながら鋭利的な手段を持つのは、あなたしかいなかった。
立ち往生もままならないため、やむえずしぜんこうえんのゲートへと引き返し、対策を練っていたさなか、そんな不満がふと主人の口からこぼれたのだった。
ううん、これじゃあ先に進めないよね。
落胆を思わせる主人のつぶやきが、こころに深く差し込まれる。
あなたは考える。必死で考える。
借りもある、恩もある。いくつもの昼と夜をともにし、戦火を交えた。斬撃こそ我が生涯であるはずだった。このまま退場を宣告されるのは、ネコイタチポケモンの名が廃るというもの。
主人の言葉をそのまま裏返せば、自分にも「斬る」ことへのポテンシャルが秘められているかもしれないと言うことにほかならない。この場において期待を裏切るわけにはいかなかった。
どうしたの?
あなたはすっくと立ち上がり、パフォーマンスで主人の気を引いた。独特の呼吸術を開始。特有の套路(とうろ)を踏む。目の前に木があると仮定し、音も無く素振りをしてみせる。
え、自力で覚える?
意図をつかんでもらったや否や、あなたは何度もうなずき、細く赤い双眸を凛々とさせ、しぜんこうえんへの扉を爪指す。
よく分からないけど――まあいっか。せっかくだから、わたしたちはここで休憩するね。その間、納得いくまで特訓してみる?
最後にもう一度、あなたは力強く。
― † ―
「いあいぎり知ってるかって――まあ、知ってるけど」
しぜんこうえんへと放たれたあなたは、一時的に野生の血を取り戻す。草むらへともぐり、走り抜け、一匹の野生のストライクを見事ひっかけた。
「ああ、そういうことね。道中の木が邪魔して、それをぶった斬らないと、あんたとあんたの主人は先に進めない、と」
さあ教えてくれ今すぐ見せてくれ、とばかりにあなたは研ぎすまされた爪と目を向ける。
「無理よ」
にべもねえ。
「ちょ、あたしに怒っても仕方ないでしょ。何もいあいぎりにこだわる必要はないんじゃないかってこと」
ちょっと見てなさい、とストライクは両腕の鎌をもたげ、両翼をゆるく展開した。
ほんのりと、前かがみになる。
それは、歩法から始まった。
勁道を大文字に開く。
ストライクは踊る。上体は酒に酔っているようでもあり、しかし足取りは実に安定している。体内を静かにうごめくものに身を任せているようにも見える。それらがまとまった一連の動作であるのは、ストライクが両翼を薫風(くんぷう)に沿わせているからであり、しかれどもあなたは気づかない。動きの粘りは中々に強く、利き腕ではないらしい左の鎌は特に鈍く間合いを取っている。両の足は数秒と地を噛むことがなく、過去の踊りは二度と再現されることはなく、型にはまった一挙一動はまるでない。
片足を振りあげての跳躍。目に定まらぬ何かを背負うような反り。重力に逆らい、ストライクの上と下が入れ替わり、戻り、音もなく着
その時、臨戦心理の錠が外れる音を、あなたは確かに聞いた。
突如としてストライクが緑の残像となった。
木のふもとへ疾風のごとく忍び寄ったストライクが、両翼を完全に開放。渦巻く闘気が足から立ちのぼり、腰にためていた右鎌を振り払った。
木そのものが、切断されたことを自覚していなかったかのように、妙な間があったのは事実だ。やがて木は斜めに二分され、大きな衝撃音と共に崩れ落ちた。
ふう、気功のために取り込んでいた空気をストライクは吐いた。
「どう? あたしのとっておきの型。いあいぎりは覚えられないでしょうけど、これでも『斬る』ことに変わりないから。あんたが今まで発揮した勁道がどんなのかは知らないけど、柔よく剛を制すって言うでしょ? 一番やっちゃいけないのは、力任せに引き抜くこと。自慢の爪がぼろぼろになるから。あたしのを完璧に真似しようとするのもバツ。自分の力のバランスポイントを見つけることが大事。分かった?」
何をやったのかは終始分からずじまいだが、教えたいとする肝はなんとなしに把握した。とにかく、やってみようと思った。
― † ―
見たことを見たままに再構築するのがそもそもどだい不可能な話ではあるが、形から入らぬことには始まらない。
それは、人間の称する瞑想に近い何かであった。
四肢を大樹が張る根ととらえ、大地から力を吸い上げるイメージ。
静かに、勁道を開く。
目は閉じたまま。
まぶたの闇。木はまだ視えない。
己の爪を、腕の延長とする。
上体をゆっくりと持ち上げ、自分の力が自然と全身に巡るよう、一番無駄のない姿勢をとる。両腕を正眼で構えると、爪の先の集中力が、密度濃いものとなってゆく。
この瞬間から、両腕から懐までが、あなたの世界の全てとなる。
この世界の境目は、まさしく生と死を分かつ閃きだ。
視界の残像が闇に遠のいていき、意識もぼやけてゆく。
緑の風。
ゆらり、と上体が右へ傾いた。
転倒する。
直前で体がねじれ、左後ろ足が背後へ回った。
二つの後ろ足で、あなたは、軽く踊ってみせる。
陽の光を浴びた黒金色の爪は、空を裂いて風に滑る。焼け付くような爪の残滓を曳き、あなたの体は両腕にひっぱられ、独楽のようなたおやかな旋転を得る。円を成すこの世界にて、いよいよ内外の空気の差というものを感じ始める。ここへ踏み込もうとする、生きとし生けるものは全て抜け殻へと還り、二度と生きては帰さない。
柔らかく地を踏み鳴らし、穏やかに流れるような舞踊。空を制するストライクから学び得た技能による、新たな演舞。風を取り込み、空気と化す。草木とともに風にそよがれ、なおも両腕は円弧の軌跡。
まぶたの闇。その向こうに、木の気配が視えた。
開眼。
液体金属が一滴と遅れることのない滑らかな初動を持って、あなたは猪突。
豪傑な力などいらなかった。
流れにあわせて右腕を払っただけだった。
爪の軌道線を阻むものは何もなく、ただ物体がそこにあるのみ。
真正面へと接近してきた木の胴体に一振り、登りの斬撃を走り込ませる。
自重に耐えきれなくなったそれが、斬撃と同じ傾斜角を持って、垂直にずり落ちる。
― † ―
ついにやった。
やってしまった。
これをいあいぎりと呼ぶのかはまだ決めかねるが、それ以上の手応えが全身に流れた。主人の行く手を遮る木々どもは今のうちに切り株となる運命を覚悟しておいたほうが後々気楽だ、とすらあなたは思う。
ストライクはとっくの前に野へ帰ってしまったようだが、これなら及第点くらいはくれるだろうと、自身に信じこませた。
あ、おっかえりー! なかなか戻ってこないから心配してたんだよ?
ゲートへ帰還したあなたは主人の足下へとすりより、首尾良く行ったことのサインを送る。
おお、その感じ、なにか掴んだみたいだね? そうそう、こっちにもいいニュース。新しい仲間が加わったの。
心臓が石になる呪いをかけられた気がした。
ものすごく、
ものすごく、嫌な予感。
「あら、あんたの主人って、この人だったの?」
あのストライクだった。
この子ならね、あの木が斬れるかもしれないと思ってお願いしてみたんだ。だから――どうしたの、顔が怖いよ?
「へえ、なんていうか、妙な偶然ね。変なところから始まっちゃった縁だけど、これからもよろ――ちょ、何するの危ないじゃないそんなもの振り回してやめなさいこら! 恩を徒で返す気なの!?」
悲惨極まりないため、ゲートにて起こったその喧噪劇は、一文で記すにとどめておこう。
「斬」をこころ得た両者による、爪と鎌が交錯しあうその剣戟のありさまは、野次馬目でもそーとーえげつないものであった。
あなたはもう、訳が分からない。
― † ―
ちなみに、だが。
当初の目的であったあの木は、なんてこたねえ、ただのウソッキーであり、あなたでもストライクでも役に立たず、これっっっぽっっっちも歯が立たなかった。
今はただ、あなたと主人とストライクのしあわせを祈るばかりである。
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3年くらい前に書いて、そのまま成仏したヤツです。二人称小説にハマっていたころだったかと……。
サブタイトルは、とある自作への小ネタです。