「失敬。ちょっと訊ねたいのだが」
そのように言いながらアデクは町の大通り沿いに立地する交番の、硝子張りの引き戸を開けた。背中で苦しげに眉を歪め昏睡している彼と出会った時、空の頂点で輝いていた太陽が、今にも山の向こうへ隠れようとしている。辺りの景色はみな橙色に染まり、地面には黒く長い影が落ちていた。
「この子がどこの子か知らんか? 車庫の裏に一人でおったんだがちっとも帰ろうとせんで、この有様で」
あの後。彼が帰路に着くまで付き添っていようと時機を窺っていたアデクだったが、結局この時間まで少年は蹲ったままだった。それどころか、いつしか彼は眠りに就いてしまっていたのである。
交番には常駐の巡査が一人おり、旅人らしき男を視界に収めると付けていた日誌を畳み、椅子からやおら立ち上がった。室内を進むアデクよりわずかに年下であろう、口髭を蓄えた巡査――濃い灰色の制服の左胸に、キミズと刻まれたネームプレートがある――は示された少年を見るなり「ああ、シュヒくんだね」と言った。
「シュヒくんと言うのか。もう黄昏時だし、親御さんも心配しておるだろうに。すぐに迎えに来てもらわねばな」
「それは無理だねぇ。送り届けてあげないと……」
眉を顰め怪訝な顔をしたアデクにキミズは一瞬言い淀み、旅人の背に負われた、シュヒと言う名の少年を見つめた。瞼がきつく閉ざされているのを確認して、重々しく口を開く。
「この子のご両親は先月……不慮の事故でね。亡くなったものだから」
「!!」
思った通り瞠目したアデクを見て巡査はふ、と嘆息する。驚くのも無理は無い。
「ところで、あんたさんは旅のもんかい? 見たところトレーナーのようだけど……まさかシュヒくんの目の前で、ポケモンを出したりしなかったろうね?」
「あ、ああ……それが、わしのポケモンが彼を見つけてな。その、この子は何故あれほどポケモンを?」
どうやらこの旅人は既に粗方のことは知ってしまったようだ。これ以上隠しても無意味かも知れない。諦めたように肩を竦め、巡査は滔々と語り始めた。
「彼の父親はカナワの駅員で、母親も駅舎の売店で働いておったんだがね」
目の前のこの男に、自分の知る全てを一つとして隠さずに洗い浚い話さなければならない。そのような奇妙な感覚に衝き動かされながら。
「先月の第四土曜日……朝のちょうど九時半だったか。列車が発車直後に、線路に野生のポケモンが迷い込んでね。シュヒくんのご両親がそれを見つけて、助けるために線路に下りたんだ。ああ、ポケモンは無事に救われたんだが……二人がその場を離れるのも、列車が急停止するのも間に合わず、二人はそこで……」
のどかな町と、少年を襲った惨事。誰にも予測出来得ない、突然の死別。誰かが悪いのではなくて、だからこそ、遣る方無い。
「親族はみな遠いカントーやホウエンに移住していてな。他に引き取り手もいない。町の者で大体の世話は出来るし、現にしておるつもりだが……やはり家に独りきりというのは、つらいのだろうね」
出来るなら付きっ切りで見守ってやりたい。だがそういう訳にもいかない、と巡査は言う。自分はカナワの町民全員の平穏無事を守り、祈らねばならない立場だ。たった一人の町民だけに尽力など、きっと、したくてもしてはならない。それは何もキミズに限ったことではなく、少年の心情を気遣う者全てに言えることだ。
「両親が飼っていたポケモンたちがおるにはおるんだが……もともとポケモンが苦手な子だし、今回のことでまあ……あの通りだろう? 独りぼっちなんだよ、この子は」
彼のことが気懸かりだと言っても、人にはその人の生活がある。優先すべきものがある。だからどうしたって、彼は未だ独りきりのままだった。
彼をひたすらに愛してあげることの出来る、家族がいない限りは。
「シュヒくんにとっても、ポケモンたちにとっても、酷なことになってしまったよ」
黒髪半白の巡査は悲痛を堪えるように、目を閉じる。
アデクの心のどこかで、何かがさざめき立った。
「可能であれば、わしにこの子の面倒を見させてもらえんだろうか?」
「ええっ!」
話し終えるや否やの突拍子も無い提案。キミズは呆気に取られた顔を一切取り繕わず、発言した男に向けた。空耳かと思い旅人の目を見つめる。しかし相手は至って真剣な眼差しで、こちらを見据えていた。
「子供がたった独りでいるのを、看過は出来んよ」
眠り続ける少年を肩越しに窺うアデク。戸惑いを隠せず、キミズは頭を掻く。
「しかしなぁ。そりゃ、この子に付き添って世話をしてくれる者がおれば周りも安心だし、とても助かるのは確かだけども……」
言ってキミズは一つ、咳払いをする。
彼の危惧する所、言いたい事は、アデクも重々承知しているつもりだ。自分が彼の立場であれば迷わず指摘する問題が、己にはある。
「あんたさんとは面識が無いしねぇ。安易に承諾する訳にはなぁ……」
すなわち、どこのシママの骨とも判らない人間には任せようにも任せられない、ということ。職業柄うんぬんではなく、見ず知らずの人間に急に信用しろと言われたとて、疑念を抱かずにいられないのは至極当然の心理だ。
「うむ、それはごもっとも。これしきのことで承知してもらえるとは、わしも思っておらんが……」
想定していた返事にアデクは素直に頷く。それから、懐をまさぐって見つけ出した物を巡査へ寄越す。彼らの手の平に収まる程度のそれは、ポケモントレーナーの身分証明書、トレーナーカードだ。
「わしはこういう者だ。今は訳あってこの通り旅をしている。もしこれで認めてもらえぬなら我が友人、ソウリュウシティのシャガ市長に、確認を取ってもらっても構わない」
受け取ったカードにキミズは首を捻りながら視線を落とす。アデクの渡してきたカードは一般トレーナーが所持する物とは明らかに異なる、繊細で華美な紋様と、烏鷺(うろ)の彩りを持つ代物だった。
こういうのを職権濫用と呼ぶのだろうか――アデクは己の行為を少し疾しいと思った。けれどこうでもしなければ、こんな人間が“それ”だとは、とてもじゃないが信じてもらえない気がする。逸早く信用を得るには“それ”であることを知らせるのが一番の捷径なのだ。仕方あるまい。
関係者に聞かれたらなんと言われるか判らない考えを頭の中で展開させているアデクを、キミズが目を丸くして見やった。
「こりゃ驚いた! あんたリーグチャンピオンなのかい。ここいらで一番強いトレーナーってことだろう? それは凄いなぁ」
リーグチャンピオン。誰よりもポケモンを理解し、誰よりもポケモン勝負に勝利し続けた、その地方でただ一人のトレーナーに与えられる称号。ポケモントレーナーを志としない人間でも、余程の事情が無い限り、基礎的な知識として知る存在である。
確かに、と言って巡査が持ち主に返したカードにはアデクの名と顔写真、そして“イッシュ地方ポケモンリーグチャンピオン”という記載が為されていた。
道理で、とキミズは思った。なぜ自分はこの男に、何もかも白状しなければならないような気持ちになったのか。それは彼が纏っている荘重な空気のためだったのだ。内側から煥発する隠しようの無い彼の気高さに、自分は動かされたのだろう。
キミズは寸分唸ったのちによし、と溢す。
「解った。町長には私から話をつけておこう」
アデクを信頼の置ける人物と判断したのだろう。巡査は了承の相槌を打った。
「何かあれば、いつでも私に言っとくれ」
「ありがとう。巡査殿」
アデクが顔の緊張を解かして感謝を口にすると、キミズは立てた右手をひらひらと横に振り、
「いやいや……。シュヒくんを、よろしく頼むよ」
と、言った。
少年の自宅までの道程を教わり、もう一度、駐在に謝意を伝える。
シュヒを起こさぬよう用心しながら背負い直して、アデクは交番を後にした。