マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1443] 最終話「嚆矢濫觴」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/08(Tue) 20:43:20   35clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「あ〜、ありがとうホント〜!! これで年が越せるよ〜!!」

気持ち良い秋晴れのタマムシ某所――とある路地裏の複合ビル二階、真夜中屋の事務所(兼自宅)にミツキの声が響き渡った。

「いや、そんな……こちらこそ本当にお世話になりまして……」

一連の問題が解決したということで、悠斗達はミツキに謝礼を払いに真夜中屋へおとずている。富田が示した『相場』から割り出したその金額が安いのか高いのかは、悠斗や泰生、森谷はよくわからなかったが、ミツキや彼の相棒であるムラクモは、「今日はご馳走だよ! 鍋やろう鍋!」『やったぜみんな! 久々にちゃんとしたものが食えるぞここで!』と大袈裟なほどに喜んでいた。その様子に少々ヒキながら、悠斗はひきつり気味の苦笑を浮かべる。
「ホント助かるよ、あとちょっとで電気止められるとこだったからさ」あまりシャレにならないことを平然とのたまうミツキは、悠斗達からすれば久しぶりに見る、人間つまり本人の姿だ。くしゃくしゃの髪は今日も好き勝手に癖がついていて、寝間着か部屋着が区別のつかないスウェットの上は『NO FIRE NO LIFE』などというフォントとヒトカゲのイラストが躍るTシャツである。「ま、もし止められてもロトムとかに頼めばいいんだけど」全然困ってなさそうな彼の言葉を適当に聞き流しつつ、悠斗は、逆にこんなのどこで買えるのだろうか、という疑問を抱いていた。

「でも、大変だったでしょ。お疲れ様だったねぇ」

労うようなミツキの声に我に返って、「はい、そりゃ、まぁ……」と悠斗は正直な溜息をついた。大変じゃないなどといえば嘘になる、というか、大変だったどころの騒ぎではない。ミツキの姿同様久々に見る真夜中屋の中は相変わらず散らかり放題ゴーストポケモン溜まり放題の酷い有様で、ゴミ以外よりもゴミの占める割合の方が多いという空間だったが、それも気にせず富田と森田はゴミに埋もれるようにして寝こけている。片やパンプジンの腹に突っ伏すようにして、片やゴミ袋とヒトモシが積み上がったソファーに転がって、完全に意識を失っている二人を見て「緊張のあかいいとがほどけた、ってヤツだね」とミツキが楽しそうに笑って言った。あかいはいらないでしょう、とツッこんだ悠斗が横目で見た先では、泰生がシンクに腰掛けるプルンゲルを興味津々といった感じでつついている。一人だけ随分元気だが、プロのトレーナーはこのくらい肝が据わってなければ務まらないのだろう、と悠斗は勝手に結論づけた。
「でも、ま、とりあえずは一件落着ってことで」報酬の入った封筒をポケットにしまいつつ、ミツキは気の抜けた笑みと仕草で肩を竦める。「これからはこんな、僕に世話になるよーなことに巻き込まれないことを祈ってるよ」

「これで君たちは、僕とのアレコレは終わりになるけれど……悠斗くん。これからもさ、瑞樹のこと、よろしくね」

はっきり違うってわかることを、悪いことする理由にする馬鹿って結構いるからさ。力無い、だらけた声のまま、そんな言葉を続けたミツキに、悠斗は『何を急に』とか、『そりゃあ勿論そのつもりですけど』とか、そのあたりの答えを返そうとしたが、やめた。
へらへらした、服装同様だらしない彼の笑顔の奥に見えたもの。ゴーストポケモンを媒介にして要所要所で割り込んできた彼が、やりすぎなレベルで明るくぶっ飛んでいたことを思い出す。それは単に、ミツキの性格のせいだとばかり思っていたけれど、――――

「当たり前ですよ」

悠斗は言う。そして、安心したように頷くミツキに向かって、次の言葉を付け足した。

「ミツキさんも。また、瑞樹とか連れて遊びに来ます。ライブにも来てください、学祭もありますから、是非、」

そう告げた悠斗の、意志のぶれないまっすぐな瞳にミツキは数秒、ぽかんとしたまま固まった。それからようやく自分の言われたことを理解したらしく、彼は血色の悪い顔を一気に緩めて笑みを浮かべる。
「ありがと」苦笑と照れと、それ以上の喜びが滲んだ声で彼は言う。いえいえ、と笑顔で返した悠斗に、生来人智を超えた力に否応無く恵まれてきたタマムシの便利屋は、「悠斗くん」と不思議に穏やかな口調で、正面に立つ者の名前を呼んだ。


「君は、ポケモントレーナーに向いてるのかもしれないね」

「え?」


唐突に向けられたその言葉に、悠斗は無意識にそう返した。「あの子の言う『ふさわしい』が正しいとしたら――――」そんなことを呟くミツキの真意が掴めなくて、悠斗は口を開いて息を吸う。

『おいミツキ! 鍋やるなら多い方がいいだろ、みんな呼ぼうぜ!』

そこで横から飛んできたムラクモの言葉に、ミツキは「いいねぇー!」と大きな声で返す。「悠斗くんたちも食べてくでしょ」という、嬉しそうなその笑顔に悠斗はそれ以上問いかけることが思い浮かばず、「はい」と深く頷いた。
そうと決まればみんなに連絡だー、と、ミツキは携帯の連絡帳を開いてあちこちにメッセージを打ち始める。知り合いを集めてくるようムラクモに言われたヨマワルやカゲボウズなどが、窓からふよふよと出ていった。『みんな』の範囲がふと気になった悠斗は、おそるおそるといった感じでミツキに尋ねる。

「あの、ミツキさん……どんな人……いえ、方が来るんですか?」
「うん? いつもここに溜まってるゴーストポケモン達とー、ここの一階のラーメン屋の人とか、そこにある古本屋の人とか? あと僕の同業者仲間が来れれば何人か、かな。いろんなのが来るよ、真夜中屋特製たべのこし鍋はおいしいからね」
「たべのこし鍋…………?」
「うん。いろんなきのみの、普通だったら廃棄する部分を集めた鍋。果物屋さんとか八百屋さんからもらってくるんだけど、まとめて煮込んじゃえば意外においしいんだよコレが! カイスの皮とかー、チイラの蔓とかー……」

目を輝かせて『たべのこし鍋』とやらの説明を始めてしまったミツキに、それは金が入ったからするものでは無いのでは、というツッコミを悠斗は出来なかった。
ゴーストポケモン達が好き勝手にだらけていて、妙ちきりんを極めたような家主がいる、散らかり放題の部屋。今夜ここに集まるというのはどんなツワモノ揃いなんだろう、と悠斗は不安にならずにいられない。

「ベリブのヘタとか食べたことある!? 無いでしょ、見た目的に悪いんだけど、あれが本体と逆で甘いんだよ、多分本体にいかない甘みがあそこに……」
「わかりましたよ、もういいですから……」

それでも、少なからず楽しみにしている自分がいるというのは、きっと悪いことではないのだろう。
ゴミにまみれつつ未だ寝こけている富田と森田、デスカーンの腹部をしげしげと眺めている泰生、棚から鍋だのコンロだのをいそいそと出しているムラクモに視線を向けて、悠斗はそんなことを考える。そして熱弁をふるい続けるミツキに目を戻し、適当な相槌を打つことに戻ったのだった。





「おはようございます、羽沢さん!」
「あっ羽沢さん! 今日のダブルバトル練お願いしますね」
「うっす羽沢、調子はどうだ? この前眩暈とか言ってたのはもう治ったか?」
「泰生さんはよーっす!」

朝の064事務所は次々と出勤してきたトレーナーやマネージャー、事務員達の行き来で賑やかである。着替えにいく者や自分の席に向かう者、一旦荷物だけ置きにきて早々にコートへ行ってしまう者などが慌ただしく動き回る廊下の壁にかかったカレンダーが、人の移動で生じた風で少し揺れた。
その、バケッチャの写真が躍る十月の日程を横目に見つつ、泰生は若干複雑そうな顔をして廊下を歩いている。その半歩後ろの森田が手元の資料をパラ見しながら、「どうかしましたか」と首を傾けた。

「いや、……なんか元に戻ってからというもの、皆がやたらと声をかけてくるようになったというか、笑ってくれるようになったというか……」

少しばかりソワソワした感じで言った泰生は、「特に岬や相生など、何故か知らんがかなり近づいてくるし」と腑に落ちないような口調で手を顎に当てる。それを聞いた森田は、「なんだ、そんなことですか」と軽い調子で返した。

「そりゃあそうですよ、しばらくの間、泰さんの中には悠斗くんが入ってたんですからね。最初こそ驚いてましたけど、みんな『そっちの泰さん』に慣れたもので、今じゃ多分、ちょっと怖いけど話してみたら案外そうでもないよね〜、くらいにしか思われてませんよ。岬さんは知りませんけど、相生くんは相談まで持ちかけてたみたいですし」
「なるほど、まあ悠斗なら、そうなるだろうな……だが、そんなに変わるものか? たった数週間だし、悠斗だって俺っぽく振舞ってただろうし」
「え? いやー、それはどうですかね。同じオニゴーリでも、中身がサザンドラとヌメルゴンじゃ大きな差が」

割と失礼なことを言った森田に、それはどういう意味だという意味を込めた睨みを利かせて泰生は鼻を鳴らした。このマネージャーは前からちょいちょい口先どくタイプの片鱗を見せていたが、あの一件以降どうにも隠さなくなってきているように思える。
「サザンドラだって、皆が皆、凶悪な性悪というわけではない」とりあえずそこは譲れないので提言しておく。森田は「ご自分がサザンドラっていうのはわかってるんですね」と呆れ気味に呟いた後、「あれ、泰さん」と片眉をぴくりとさせて尋ねた。

「悠斗くんだとそうなるって、わかってたみたいな言い方じゃないですか」
「当たり前だろう。あいつの方が、ある意味では俺よりここでよくやってけるとは、俺も……思ってしまう、こともある」
「よくやってけるって……悠斗くんはトレーナーじゃないですよ」

だいぶ頑張ってましたけどバトルもまだまだ初心者ですし。そう続けて苦笑した森田に、泰生は「そうじゃない」と首を横に振った。

「俺よりも、悠斗の方が、世間でいうところの『ポケモントレーナー』に向いてるのだろう、と思ったんだ」

今回のことだけじゃなく、以前にも何度かそう思ったことがある、と泰生は付け加える。森田は僅かだけの間を置いて、「そうですね」と頷いた。泰生の言葉、きっと彼自身の考えというよりは客観的、一般的な意見であるそれを否定する気にはならなかった。
「だけど、だからって決まるわけじゃないですよ」手に持ったファイルに込める力を強め、森田は言う。それに「当然だ」泰生は首を縦に振って、ベルトにつけた三つのボールに手を添えた。

「トレーナーになるかならないか、それを決めるのは自分自身だ。誰かに何か言われてそうなるものじゃない……そうはわかっているが、それでも、ポケモンにも人間にも好かれて、必要とされるような人間というのはいるんだ。悠斗は、そういうやつだ。あいつがもしもトレーナーの道を志せば、きっとかなり上へ行けると思わないといえば嘘になる」

「トレーナーになってほしくない、というのも」泰生は一度目を伏せて、「でも」と再び前を見た。

「あいつになってみて、わかった。あいつにはあいつの見つけた場所があるし、そこはあいつのことを必要としてるんだ」

迷いのない瞳で、そう言い切った泰生に、森田は再度「そうですね」と深い頷きを返す。

「泰さんと同じですよ。泰さんも悠斗くんもそれぞれ、違う場所で、自分の知らないうちに必要だと思われてるってことです」

その言葉に泰生は何かを言いたそうに口を開いたが、すれ違った別のトレーナーの挨拶でそれは発されないまま消えてしまう。まあ、聞かずともなんとなくわかるだろう。森田はそんなことを思いながら、空の胸ポケットにそっと手を当てる。
泰生がいるべき場所に戻った今、自分にそれは、もう必要無いのだ。





「…………っし、いい感じじゃないか?」

いよいよオーディションに向けた練習も大詰めである。曲の終わりに鳴り響くギターの余韻を富田が消した数秒後、マイクから口を離した悠斗は後ろの演奏陣を振り返ってそう言った。
「なんかノってきたよなぁ、羽沢」ベースを一度スタンドに戻し、有原がニヤニヤしながら言う。「この頃イメチェンとかそういう感じで、歌う時もクール気取ってたのに。前のキャラに戻っちゃってるじゃねーか」その言葉に引き続き、ドラムセットの向こうの二ノ宮も頷いた。「っていうか、前よりノリ上がってないスかね?」

「あー、いや……ちょっと風邪ひいてたから、……」
「でもよかったよな、治ったってことはマジで風邪だったみたいだし。実はここだけの話さぁ、二ノ宮と話してたんだけど、お前性病でももらったんじゃないかって心配してたんだよ」
「は?」

慌てて言い訳を口にするもつかの間、悠斗は手に持ったペットボトルを落としそうになった。
「ちょっと待てよ、なんでそんな話になってんだよ」狼狽えた声で悠斗がわめく。

「いや、だってお前ここ最近すげぇ噂になってんぞ。大のポケモン嫌いで有名な羽沢悠斗は実はポケモン大好きっつーかポケモン性愛者だって、しかも自分でそう言ったんだってな、告ってきた女の子に」
「それなりにモテんのに彼女作んないのはポケモンが対象だからって話ッスよね。めっちゃ広がってるよ、運いいことに誰も拡散とかはしてないから問題にはなってねーけど」
「うん、だからさ……俺たち思ったわけよ、羽沢は多分ポケモンとやっててなんか、病気でももらったんじゃねぇかって、ほらポケモンって人間より丈夫だから人間だと負ける菌持ってたりするし、対策とか難いみたいだし」
「そういうのって、言いにくいだろうから、だから俺らには隠してるんじゃないかって思ってて……多分富田にだけ話してて、だって明らか風邪じゃなさそうなのに何か隠してるっぽくて、何だろうって思ってたところにこの噂だから、なんか病気なったのきっかけにオープンにでもなったのかと……」
「どこから突っ込んでいいかわかんねぇよ! 大体、待てよ、なんでそんなやすやすと信じてんのお前ら!? 前の、俺と富田が云々みたいな噂には『いやそれはないわー』みたいに全然疑惑のかけらもなかったのに、なんでそっちだけストレートで信じるんだよ!?」
「それは、なぁ……? 富田とお前のそれは、普通に距離近すぎて逆に、って感じ? だよな?」
「そうッス。いつも嫌い嫌い言ってたのは、カモフラのためだったのかと……」
「違う! 俺にそんな趣味はない、しかもそんなことを言った覚え……はあるかもしれないけど、とにかく違う! あとそうだったとしてもそんなカモフラはしない!!」

自分の知らぬ間に泰生がしでかした何かに呪詛の言葉を吐きたい一心で叫ぶ悠斗に、しかし有原と二ノ宮は彼をよそにホッとした顔になる。

「でも安心だわ、どんな趣味でもお前の勝手だけど、深刻な事態だったらどうしようと思ってたからな」
「そうだよ羽沢。だってポケモンとのアレって気をつけないとめちゃめちゃ危険なんだろ、ブーバーの中とか何千度もあるらしいし、マルノームに口でさせて溶かされたみたいなイッシュのバカ変態がニュースになってたし。あと、バチュル何十匹と一緒にやってあやうく感電死とか、ホント、怖いって」

好き勝手なことを言う二人に、悠斗は何を言う気力もなくしてマイクスタンドに突っ伏す。その横で、それはもう性病の範疇ではなく頭の悪い事故なのではないか、と、黙って聞いていた富田は思ったが、その噂を流した泰生を見張っていなかった責任を背負わされるのではないかとも思ったため引き続き黙っておくことにした。

「ま、とりあえず――」

強引に話を打ち切り、有原が悠斗に向き直る。「理由は知らんけど、お前が元気になったみたいでよかったよ」

「やっぱ、羽沢いてこそのキドアイラクだからな。お前の調子がおかしいとこっちもしまらないっぽい」
「何言ってんだよ……別に俺だけじゃないし、お前ら三人ともそうじゃないのかよ。俺があってとか、そういうんじゃないだろ」
「そういうことなんだよ。別に誰がどうってわけじゃないけど、でも、やっぱ俺たちはお前あってこそなんだよ」

悠斗の言葉を遮ってそう言った有原に、富田と二ノ宮も頷いた。「結局のところ全部お前に繋がってんだよ、俺らは」「もーちょっとその辺わかってくれてもいいんじゃねぇの?」冗談めかした笑みを浮かべて口々に言う二人に、悠斗は「なんだよ」と鼻白む。自分が泰生の身体にいる間に、こう言わせるだけの何かがあったのだろうか、と考えてもわかるはずはない。
「わかったよ」仕方がないので、フィーリングで頷いておく。「ま、一応俺もリーダーだからな、俺あってっていうのはあながち間違ってもないかもな」やはり少しばかりズレていることを言った悠斗に三者は苦く笑ったが、悠斗はそれに気づかず笑顔になった。

「でもな、俺だってそれは同じだから。お前らみんないてこそだと思うし、お前ら誰が欠けても、俺は嫌だからな。四人でずっと、……」
「当たり前だろ。そのための練習なんだ」
「富田の言う通り、絶対勝つぞ。俺らが続けるために」
「キドアイラクやめんのなんて、ごめんスからね。絶対受かって、まだまだやんないと」

自分の言葉に割り込んだ、力強くてかけがえのない三つの声に、悠斗は一瞬だけ目を丸くして、それから浮かべた笑みをさらに深くした。
「そうだよな」三人に向けて悠斗は言う。頷いたバンドメンバー達が同時に楽器を構え直すのに合わせ、彼はマイクスタンドにかけた手の力を強くした。





雲ひとつないという表現そのままに、澄み切った青空が広がっている。秋にしてはやや珍しくもあるその下、そこまで大きくも小さくもない神社に悠斗と泰生は訪れていた。

「森田さんは一緒じゃないんだな」
「俺は今は休憩時間なんだ。あいつは事務所で色々やることをやってる」
「ふぅん」

適当に答えた悠斗に、「お前も一人じゃないか」と泰生が尋ねる。石で出来た階段を登りながら、悠斗は「みんな何かしら授業とかあんだよ」と言った。視界の上半分を覆った赤い鳥居を、そこに止まったポッポの眼球達に見下ろされながらくぐって境内に入る。「有原と二ノ宮は学部違うし、富田も、違う授業があるから」
お互い一人で来たところ偶然に居合わせた手前、悠斗と泰生は何とも言い難い空気に包まれる。親子二人で出かけているなどいつぶりのことか双方わからず、どちらが先にそうしたわけでもないが、互いに微妙な距離を保ちつつ歩いていた。「ミタマとか外に出さないの」「うっかり攻撃でもされて怪我したら危険だし、感染症予防もあるし、普段は外に出さないトレーナーは結構いる」「へぇ」適当な会話を若干ぎこちなく交わしつつ、彼らは境内へ入る。
敷き詰められた砂利を踏みながら本殿へ進んでいくさなか、「ここはよく来るのか」と泰生が聞いた。境内を囲うように植えられた広葉樹の間から、モンジャラやウツドンが覗いている。それを横目で見つつ、「ああ」と悠斗は呼吸の延長のような声を出した。

「大学からも近いし、……そういえば、064の皆さんもよく来るらしいな。この前絵馬を書いたって岬さんから聞いた」
「歩いて来れる範囲だとここが一番近い。他にもあるんだが、祀られてるのが旅行先の安全だの健康祈願だので、バトルとはあまり関係無いからな」
「俺たちもこの前来た時、絵馬書いたんだよな。ちゃんと飾ってっかな」

本殿の脇にある絵馬所に向かって歩きながら悠斗が呟く。
大量の絵馬が掛けられているその場所で、悠斗はしばらくそれを覗き込んでいたが、やがて「あれ?」と怪訝そうな声を上げた。隣で同じように眺めていた泰生が、どうした、と尋ねる。

「いや、……俺の書いた絵馬が無い」
「片付けられたんじゃないのか? 結構みんな書いてるみたいだし、入れ替えくらいするだろう」
「そりゃそうだけど……違う、富田のはあるんだ。有原のも、二ノ宮のも。同じときに書いたのに俺だけ無い」

悠斗の言葉に泰生も眉をひそめる。確かに彼の視線の先、いくつかの絵馬に重なるようにして並ぶ三つには各々の字で『オーディション通過! ライブ出場!』などと書かれているが、そこに悠斗のものは無い。
「俺もだ」と、今度は泰生が低く言った。「俺のも、事務所の他の奴らのはあるのに、……俺のだけが無い。リーグでいい戦いが出来るように書いた時のが」

「悪いイタズラか? でもなぜ、よりによって俺と悠斗が……わざと俺達を狙ったみたいじゃないか」

ピンポイントに親子のものが無くなったことに、泰生が目を細めて首を捻る。はっきり言って不快な状況に、しばらく二人はムッとした表情で黙り込んだ。

「あ、絵馬、…………!」

と、そこで悠斗が思い至ったようにそう叫んだ。何のことかわかっていないらしく眉をひそめた泰生に、悠斗は「ミツキさんが言ってたじゃん、気持ちとかがこもってるモノを使うって!」と切羽詰まった口調で説明する。
思いや感情が篭ったもの。望ましいのは憎悪や怨念、嫉妬など負の要素を孕んだものだけど、プラスの気持ちでも出来なくはない――。そんなことをミツキに言われたその時には全く思い浮かばなかったが、『願い』という思いを込めたという点において、絵馬というのはその条件をばっちり満たしていると言えた。

「……そういうことだったのか」

悠斗の話を聞き、泰生は深く溜息をつく。苛立ったように彼は絵馬所に視線を向けたが、そこにはもう、二つの絵馬は無いのだろう。今どこにあるのかもわからないし、元の形を保ったまま存在しているのかすら不明だった。
「まったく、何が何に使われるかわかったもんじゃない」忌々しげに言って、泰生は絵馬所を睨んでいた目を社務所の方へ向ける。「けど、そんなことを言っても今更仕方ないな」

「書き直すか。書いたことの結果はまだ出てないから、今でも間に合う」

「いいよ別に」と悠斗はそっけなく言ったが、泰生はそれを他所に首を横に振った。「他の奴らのだけあるのも変な話だし、また書き直した方がいいだろう」そう言った彼は悠斗の返事も聞かず、さっさと社務所へ歩いていって数分後、二つの絵馬を買って戻ってきた。
今年の干支のモチーフということで、モココだのメリープだのが積み重なっているイラストを手渡された悠斗は、突っ返すことも出来ず憮然とした顔で受け取る。本殿から少し離れたあたりにある、湿った木板で出来た台に置かれていた油性ペンを早くも手に取り、泰生は絵馬の裏面に何事かを書き始めていた。それに倣って悠斗もペンを持ち、願い事を刻んでいく。

「お前は、……俺に、トレーナーになってほしいとか、思ったことあったりすんの」

揃って文字を書くだけの沈黙に耐えきれなかったらしく、不意にそんなことを尋ねた悠斗に、泰生は質問には答えず「どうした」とだけ聞き返した。
世間だったら、ごくありふれた問いなのかもしれない。親がトレーナーだろうがそうじゃなかろうが、旅の経験があろうが無かろうが、一度はそういうことを聞くものだろう。しかし泰生は今まで一度だってこんな質問をされたことはないし、悠斗だってしようと思ったことも無かった。そんなことを、気にしたことすら皆無だったのかもしれないというほどだ。
「ミツキさんに言われた」足元の砂利に靴底を無為に擦り付けながら悠斗は答える。「俺がトレーナーに向いてるかもって」なんとなく泰生の顔を見たくなくて、彼は俯いたまま、ジャンパーの襟元に顔を埋めてモゴモゴと言った。「だから、ちょっと、気になった」

「知らん」

そんな悠斗に、泰生はきっぱりと言い切る。「そんなのは、俺の知ることじゃない」
少しは予想していたとはいえ、あまりにもシンプルかつぶった斬りなその答えに、悠斗は思わず絶句した。「そうか、よ……」と虚しく呟いた彼に、しかし、泰生は迷いの無い口調のまま続ける。

「トレーナーになるかならないかなど、他人が決めてどうなることじゃないだろう。なる奴はなるし、ならない奴はならない。それだけだ」

「俺だって、自分は仕方無しにトレーナーになったのだと思ってた頃もあった。でも、ならない選択肢だっていくらでもあったんだ、あのまま旅に出ないでいれば、……」彼はそこで言葉を切る。ペンを持つ手が少し震えていた。何を考えているのかは悠斗にはわからなかったが、あえて声を挟むことはしなかった。
それでも、と、少しの沈黙を置いて泰生が再び話し出す。「トレーナーになること、旅をすることを選んだのは俺だったんだ。誰にも頼まれてないのに、俺がそうしただけだ」握り締めていた拳の力をふっと解き、泰生は視線を上げて空の方を見た。嘘くさいほどに青く綺麗な空が、彼の、悠斗によく似た瞳に映り込む。

「向いてるとか向いてないっていうのも、実際どうするかには何も関係無い。あの探偵は不思議な力があるらしいから、そういうのがわかるのかもしれんが、……だとしても、だ」

「……………………」

「向いててもトレーナーにならない奴はいる。向いてなくても、なる奴もいる。お前が決めろ。なりたきゃなりたいときになればいいし、なりたくないんなら、なるな。お前にも、ポケモンにも、お前以外の他の奴にも、何もいいことが無いからな」

わかったか、と尋ねた泰生に、悠斗は「ん」と短く頷く。特に反論する要素も無い。もっともなその言葉を、彼は素直に受け入れた。
そこで泰生は青空から視線を移し、隣に立つ悠斗に目を向ける。

「ただ、悠斗……お前は、」

いつの間にか大きくなってしまった息子に、彼は無意識に笑いかけた。

「きっと俺がもっと良い父親だったとしても、ちゃんとお前と向き合えるような人間だったとしても、…………お前は今みたいに、誰かと音楽をやっていたのだろうと、俺は思う」

その言葉の、何を否定して何を肯定すればよいのかもうわからなくなって、悠斗は「バカなこと言うな」と小さく呻いた。そのセリフに泰生は、誰がバカだと大真面目にムキになりかけたが、しかし彼の文句は途中で掻き消えて聞こえなくなってしまう。
急に黙ってしまった彼を不審に思い、悠斗は泰生の顔を覗き込んだ。固まったその表情からは答えを見出せず、何だよ、と口を尖らせた悠斗は泰生の視線の先、自分達の手元に視線を向け――――そして、同じように言葉を失った。


話しているうちに両者とも手がずれたらしく、冷たい空気に晒された絵馬の裏面。
そこに書かれた願い事の文言が、絵馬所から消えた二つをお互いそっくりそのまま書き合った結果となっていた。


かける言葉もかけられる言葉も何も探せず、二人は揃って絶句する。表情も動きも止めたまま、ただ彼らを残したそれ以外だけが何事も無いかのように時を刻んで行った。
やがて、先にそうしたのはどちらだったかはわからないが――どちらからともなく、顔を見合わせた親子はあまりのことに思わず吹き出した。次いで響き出した笑い声が重なっていくのを、彼らの手元の影になった、二つの絵馬に描かれたメリープとモココ達は静かに聞いていた。





数多の大物アーティストを輩出してきた、ヒットへの登竜門とも呼ばれるライブへの出演をかけたオーディション、二次審査。タマムシ某所で行われているそれに、新進気鋭のバンドの一つであるキドアイラクは挑んでいた。
すでに演奏審査は終了し、いくつかの質疑応答を行う面接に移っている。これが評価のうちに入るのか入らないのか、それともこの時点で結果を伝えるためのものなのか、それは出場者には知らされていない。会議室を貸し切った面接会場で、キドアイラクの四人は緊張した面持ちをしてパイプ椅子に腰掛ける。

「君たちはまだ全員、大学生だったよね。もしもバンドがうまくいってきたとしたら、学校の方は続けるつもり?」

主催企業の担当者や、ライブのゲストでもあるアーティスト、スポンサーの社員などから成る面接官らの質問に、一応リーダーである悠斗は「はい」と返事をする。
「出来る限り両立させていきたいです。途中でやめることはしたくないですし、それにタマムシ大学は僕たちがお互いを知った場所ですから、きちんと卒業したいなと」答えた悠斗に、質問した担当者は「そうだね」と深く頷いた。「せっかくタマ大だし、中退は勿体無いし……両立は大変だけど、やってきた人も沢山いるしね」彼の言葉に、悠斗達四人は首を縦に振る。

「あそこには去年からいるのか。なんでそこを選んだの?」
「人間だけでやってる方々が多く所属してるのと、系列の事務所に僕らの好きな方がいらっしゃるので……」
「それ、いいギターだけど結構旧い型だよね。すごい小さい頃からやってたとか? それとも趣味?」
「始めたのは中学の頃なんですけど、これは父にもらったものです。父も昔、ギターやってましたから」
「君さ、何年か前ドラムのコンテスト……もっとカタめのとこが主催してるので優勝してたよね? そっちの、音大とか、そっちには行こうと思わなかったの?」
「は、えっと、……その! その時くらいに羽沢のこと知って、それでこの人とやりたいって思いまして、だからです!」
「ビジュアル的には個性的なんだか没個性的なんだかちょっとコメントしづらい感じなんだけど、なんかコンセプトとかあるわけ? いや、別にいいんだけど個人的に気になって」
「いえ、特に無いです……富田は諸事情で目を隠したがってるだけで、俺と羽沢は単に好きで染めてて、二ノ宮は生まれつきこうなんで……はい……」

いくつかの質問が重ねられて、時間的にそろそろ終わりかと四人が内心思ったところだった。
面接官の一人、イベントの出演者であるアーティストが口を開いた。「君たちは、ポケモンの力を借りない音楽をやっているけれど」泰生よりも少し下くらいだろうか、もう何十年も音楽界を支えてきた彼は静かな声でそう尋ねた。

「それは僕もそうで、ギター一本でここまで突っ走ってるわけだけど……君たちは、なんでその道を選んだのかな。はっきり言って邪道とも呼べる、ポケモンとやらない音楽を、なんでやろうとしているのか。その理由を、教えてくれるかな?」
「はい……」

返事だけをした悠斗に、富田と有原、二ノ宮の視線が一斉に集まる。この問いに直接答える理由を持っているのは悠斗だけなのだ、自分達には助け舟を出したくとも出せない。そんな思いをそれぞれ持って、三人は悠斗のことをただ見ていた。
その悠斗は、すう、と息を吸って一瞬だけ考え込む。以前だったら、答えなんて決まりきっていた。ポケモンの力など借りなくても自分達は人間だけでやってやる、ポケモンなんかいなくても音楽が出来るのだと証明してやるということを言うだけだったのだ。所属事務所にはその意気を買われて入ったわけだし、それは紛れもなく本当だった。本気でそう、思っていたのだ。

しかし、今は。
今、同じことを言ったとしても、それは嘘にしかならないのだと悠斗は感じていた。


「僕たちは、人間です。ポケモンではない存在として、今、生きてます」

でも、と言葉を切って、悠斗は質問者である歌手を真正面からじっと見据える。

「人間か、ポケモンか、という以前に。僕たちはひとつひとつ別のもので、それぞれの身体と、それぞれの心と、それぞれの考えとか思いとか言いたいことや伝えたいことや聞いてほしいこととかがあって、別々に生きてます。そこに人間とかポケモンとかはなくて、……ないのだと、僕は感じます。感じさせられたんです。だからこそ、僕たちは僕たちの音と言葉で、僕たちの方法で、人にも、ポケモンにも、伝えていきたいんです」

そう答えた悠斗に、面接官の一人が資料をめくりつつ、「君のお父さんは確か有名なトレーナーだったよね」とコメントする。「そっちの道を目指そうとか、そういうことは考えたことはないの?」
その問いに、悠斗はゆっくりと首を横に振って、前を見た。

「父は、ポケモンバトルで。僕は、音楽で。誰かの………………誰かの、何かになることが出来ればと。そう、思っています」


「君も君の父親も、どうにもまっすぐな目をするね」


悠斗の答えを聞いた歌手が、腕を組んでそんなことを言う。「僕は昔、羽沢泰生が君くらいの歳の時のバトルを見たことがあるんだよ」唐突に言われたそのセリフに、悠斗始めキドアイラクの四人は真意を測りかねて無言になった。
その様子を気にすることなく、彼は半ば独り言のような口調で続ける。

「でも、あの時の羽沢泰生のまっすぐさは、どうにも、後ろに何もないことが理由のまっすぐさに思えたんだよ」

その時のことを懐かしむような、同時に少し哀しんでいるような声だった。当時の彼が自分の父を見て、何を思ったのかは悠斗にはわからない。しかし彼が言っていることはなんとなくわかるような気がして、悠斗は自分の胸の中が少しばかり痛んだような気がした。何か言わなければ、と自分を奮い立たせ、どうにか口を開ける。
「けど、」だが、悠斗が声を発するよりも先に、歌手の方の口調が変わった。「君の目は、違うまっすぐさをしてるね」柔らかな声で言い、彼はシワの刻まれた顔をふっと緩ませて笑みを浮かべる。

「君のそれは、前にいきたい、何かをしたいと思うが故のまっすぐだ。あの時、あの目をしていた彼の子供が、……君が、そんな目を今していることが、僕はとても嬉しい」

そう言って、彼は椅子から立ち上がる。移動式の机をずらした彼は、そのまま悠斗の前まで歩いてきた。

「君たちと一緒にイベントを作れること、本当に幸せに思う。最高のものに、しよう」

そして手を伸ばし、握手を求めるように笑った彼に悠斗は慌てて席を立ち、「あ、っ……ありがとうございます!」と叫ぶようにして言った。その声は大きく震えていたけれど、それを指摘する者は誰もいなかった。富田とと有原、二ノ宮も立ち上がり、深く頭を下げて礼をする。
ゆっくりと手を取った悠斗は、音楽の大先輩であると同時に昔の父を知る者でもあった歌手の瞳をじっと見つめた。そこに映っている自分の目がどんなものであるかなど、自分自身では知ることが出来ないが、自分も、そして泰生も、彼の言うような目であり続けられたらよいと思った。

他の審査員達が、肩の力を抜いてそれぞれ笑う。次いで彼らは誰からともなく手を叩き出して、会議室の中には拍手が響き出した。





『本日は、ポケモンリーグセキエイ大会にお越しいただき、誠にありがとうございます……選手入場は十九時、開会式は十九時三十分からとなります……また、セレモニーの花火は……』
「いよいよ始まりましたね」

カントー地方セキエイ高原、ポケモンリーグ会場。施設内に設けられた選手控え室では、もう何もすることのないトレーナー達が刻一刻と近づく開会の時をただ待っている。
「長かったような、短かったような気がしますよね」泰生用のペットボトルに巻いたタオルを無意味に動かしながら、森田がありがちなことを言う。「いざ始まってみると、びっくりするくらいすぐ終わっちゃうんですけど」064事務所のトレーナーと、そのマネージャーで満ちた部屋を見渡しながら、彼はしみじみと呟いた。

「どうですか、泰さん。緊張してます?」
「俺が緊張してると思うか。俺はバトルで緊張したことなど、一度も無い」
「えー、でも、悠斗くん見にきてるんでしょう? なんかそれで違ったりしないんですか」
「悠斗が見にくるのは別に初めてじゃない、ずっといなかっただけで……あいつが七歳になるまでは見にきてたから……」
「いや、それはほぼ初めてに近いんじゃないですか? 辛うじて記憶があるかないかのレベルですよそれは……」
「あら、羽沢さん、息子さんが来てるの?」

森田のツッコミに泰生は何かを反論したかったようだが、それよりも先に横から割り込む声があった。「そういえば、今年は優待チケット何枚も取ってたって聞いたわよ」トイレから戻ってきたらしい、二人の脇を通りがかった岬がレパルダス柄のタオルを首にかけながら言う。「いつもは、奥さんの分一枚だけだっていうのに」
「え、羽沢さんってお子さんいらっしゃるんですか」朝に会場入りしてからずっとやってた緊張が一周回って緩んできたらしく、意外にリラックスしている相生も話に入ってくる。握り締めすぎて白くなった拳と血色の悪い頬という、よく言えばエルレイド悪く言えばプルリルみたいになった彼は、整った顔をかしげるようにして尋ねた。「そうよ」と泰生より先に岬が答える。

「相生くんと同い年くらいじゃなかったっけ? 昔一回だけ見たことがあるけど、ねえ、羽沢さん」
「うむ……今年二十になったから、君より少し下くらいだ」
「へぇ、そうなんですか! 会ってみたいなぁ……」

引きつり気味の表情を緩ませた相生に、『会いまくってるよ』と森田は心の中だけで彼に言った。会っているどころか、相生が泰生に話しかけたりするなどということのきっかけとなったのはその悠斗であるが、無論相生の知るところではない。ちょっとだけモヤモヤするような気持ちもあったが、森田は特に何も言わず黙っておくことにした。
「それにしても」挑発的な笑みを浮かべて岬が言う。「いつも以上に頑張らないといけないわね、羽沢さん」

「カッコ悪いとこ、見せられないじゃない。息子さんのためにも」
「……当然だ」

微塵も動じずそう返した泰生に、岬は満足そうに笑う。そうこなくちゃ、とでも言いたげな、大きな瞳が泰生を半ば睨むような風に見た。それを見ていた相生が気圧されたようにごくりと喉を鳴らしたため、森田は彼の背中を軽く叩く。

『出場者の皆様にご連絡致します、あと十分ほどで、選手入場が開始致します。出場者の皆様は、指定されたゲートにお集まりいただくようお願い致します、繰り返しご連絡致します、あと十分ほどで……』

と、控え室に備え付けられたスピーカーからアナウンスの音声が流れた。その言葉に室内が、いや、他の控え室も含め建物全体が一気にざわめきを増す。

「そろそろ、ね。ここで悠長にしててもしょうがないし、行っちゃいましょ」

じゃあ、また後で。岬はそう言い残し、髪を揺らして自分のマネージャーの方へと歩いていった。「あ、僕も……もし当たったらお願いします!」相生もそれに続き、一礼をしてから慌ただしく泰生達の前から去っていく。
残された泰生と森田も、「行きますか」「ん」とそれぞれ短く息をつく。軽く伸びをする泰生を待ってから、森田は三つのボールを彼へと渡した。

「さて! 始まりますよ、泰さん!」
「わかってる」

いつもの調子で言葉を交わし、二人は064事務所の面々と共に控え室を出る。
数多のトレーナーで溢れた廊下の続くその先は、彼らの登場を今か今かと待っている、何より輝かしい祭典の会場なのだ。





「……えーっと、じゃあ、ポケモンリーグ開催を祝って、そんで学祭成功を祈って? 乾杯の音頭を取らせていただきま」
「西野さん、もうみんな勝手に飲んでますけど……誰も乾杯とか待ってませんけど……」
「あ、店員さーん! ポテト盛り合わせと唐揚げと海鮮サラダとー、おい! あと何か頼むヤツいる!?」
「プレミアムモルフォンピッチャーで」
「この『怪利鬼殺し』ってのください!」
「あっ俺もそれ! あとチーズ餅!」
「なー芦田どこ行ったの? 学校出るときはいただろ、俺馬刺しのポニータで」
「あー、なんか守屋が教室に鞄忘れたらしくて取りにいったのについてった、俺それのシママ」
「ついてったっていうか連行されてたって感じじゃん? そこまで嫌がってもなかったからいいけど、お前ら柔らかい方が好きなん? 俺その隣にあるやつ、メブキジカ」
「カシブオレンくださーい、それとこの石窯プリンアイスってヤツ」
「女子か? つーかよくカシオレの後にほんなゲロ吐くほど甘そうなの食えるな?」
「すいませんテーブルに灰皿ないんですけどいただけます?」
「お前ら勝手すぎんだろ!! なんで普通に始まって数十分みたいな雰囲気出してんだよ待つだろ普通!!」

タマムシ大学近くの、学生御用達の小さな居酒屋である。店の天井に備え付けられたテレビには今に始まるポケモンリーグの様子を中継する番組が映し出されており、集まった客たちは皆、飲んだり食べたりしながら画面に視線を向けている。リーグが始まるとあちこちの飲食店でこのような光景が見られるようになるため、店側にしてはある種のかき入れどきでもあるのだ。
第二軽音サークルの面々も、店内の一角に集って盛り上がっている。乾杯の音頭も待たずに、既に出来上がった雰囲気に向かって「なんで待てないんだよマンキーの群れがお前らは!」と、西野と呼ばれた男が叫んだが、好き勝手に飲み食いしているサークル員達には少しも届いていないようだった。

「センパイ〜! やりましたよセンパイ、俺は今最高に嬉しいッスよ〜!!」

そんな、話を聞いていない部員の一人、二ノ宮が早くも真っ赤になった顔で何事かを言う。「もう嬉しさマックスッスよ、ピーピーマックスッスよ〜」無色透明の液体が揺れるコップを両手で握り締め、ヘラヘラと笑っている彼は隣に座る有原に絡んでいる。ちなみに今日、悠斗と富田はリーグ会場に行っているため不在だ。
絡まれた有原は自分のコップを机に置き、「お前飲みすぎだよ」と二ノ宮を諌める。さらにその横にいる別の部員が、「いやそいつ一杯も飲んでないだろ、弱いんだよかなり」と口を挟んだ。その言葉に頭を抱えた有原の襟首を掴むようにして、二ノ宮が「センパイ〜」とうっとうしい感じで叫んでいる。

「つーか二ノ宮に酒飲ませたの誰だよ、アイツまだ十九だろ、一応やめとけよ何か言われたら面倒だから」
「大丈夫だって。この世界は十歳が成人だろ? 酒とタバコだって二十いってなくてもイケるって」
「メタなこと言うのやめない?」
「あ、店員さん! 日本酒のー、雷神と風神と豊穣お願いしまーす」
「なあ紅井は? 来てなくね? 芦田たちと一緒とか?」
「え、紅井さんなら彼女とリーグ行ってるよ、言ってたじゃん? チケット取れたって」
「は!? マジで!? あのクソ倍率のリーグチケ取れたの!? あの裏ルート使わないと取れないとか転売ヤーのオークションで万積まないと買えないとかでお馴染みなのに!?」
「そこうるせぇな! 俺真剣にテレビ観てるんだからもうちょっと静かにしろ!」
「しかも紅井のヤツ、ラープラスで取れたっつってたぞ! あの、チケットがご用意できないのは当たり前! のラープラスで!」
「あ、赤ワインください、それと冷やしマトマと枝豆」
「ふざけんなよ! 俺十口は応募したけど全滅だぞ!? クソ〜紅井め〜なんで彼女もチケットも手に入るヤツは全部手に入るんだ〜」
「なぁモツ鍋頼もうと思うんだけどどう思う? こっちのキムチの方がいいかな? あと粉物何にする?」
「芦田さんとかまだ来てないのにそんな頼んでいいか? まー別にいいか、俺海鮮もんじゃで、あ、この店ポケモン出していい感じ?」
「禁止ってそこに書いてあんじゃん。お前のデデンネならいいかもだけど、この狭さじゃ無理なのもいるからだろ」
「なんだよンネちゃん出せなくて寂しいのか〜!? しょうがねーなぁー、特別に今だけ俺がお前のポケモンになってやるよ!」
「だから静かにしろって! 今リーグ会場映してるんだからいいとこなんだよ!」
「マジで? 羽沢たち映るかな?」

結局のところ自分達のことなどほぼほぼ気にしていない喧騒の中、二ノ宮は「嬉しいんスよ〜俺は〜」と破顔する。

「わかったよ、嬉しいのは……それにしても酔いすぎなんだよ、顔真っ赤じゃねーか、カロスの闘牛かよ」
「うっせ〜ッスよ、誰が色違いバッフロンッスか、もう〜」
「言ってねぇし、色違いバッフロンは顔は赤くないだろ別に。いいから水飲め、ちょっと落ち着け頼むから」

そう言って水を差し出した有原にしかし、二ノ宮は「なんスかセンパイ」と不満そうに口を尖らせた。「キドアイラクがオーディション残ったんスよ〜ライブ出れるんスよ〜嬉しくないんスかセンパイは〜」と、オーディション後から何度目かわからないことを言い出す二ノ宮に、「わかったって」と有原は半ば聞き流すような態度をとる。
それが不満だったらしい二ノ宮は、「何度喜んだっていいじゃないッスかぁ」と、酔いで涙ぐんだ声で食い下がる。「だって嬉しいモンは嬉しいッスよ」


「だってこれで、キドアイラク続けてけるってことじゃないスか、別にダメだったらやめるつもりじゃそりゃもちろんなかったッスけど、これで続けるっていうのがはっきり出来たと思うんスよ、俺は」

「………………」

「それが嬉しいんスよ! また四人でステージに立てるんだっていうのが〜」


言いながら、えへへと気の抜けた笑みを浮かべた二ノ宮に、有原は短く溜息をついた。「そうだな」それから大きく頷いて、彼は一瞬だけ目を閉閉じた。

「センパイ〜俺は嬉しいッスよ〜」
「あー、はいはい、俺も嬉しいよ……つーか嬉しいどころじゃねーって」
「そうッスよね!! もう最高ッスよね!!」
「二ノ宮うるさい! 静かにしろ、テレビ聞こえないんだよ!!」

響いた誰かの怒鳴り声も聞いていないらしい、二ノ宮は心底幸せそうな笑顔でアフロ頭ごと机に突っ伏してむにゃむにゃ嬉しみを語っている。その背中を叩いて一応は落ち着かせているっぽい有原も、コップにつけた口元には隠しきれない笑みがこぼれていた。
そんな二人をよそに、サークル員達はまだまだ失われない勢いで騒ぎに騒ぎを重ねていく。ある者は注文を叫び、ある者は一発芸を披露し、ある者は景気付けだのなんだのと歌をうたいだし、またある者はポケモンになりきって雄叫びをあげている。「ここがタマムシのやぶれたせかいだー!!」などとわけのわからないことを絶叫した輩に、別の部員が激昂する。


「だからうるさいんだってばお前ら全員!!」


窓の外はいつの間にか暗くなり、店の灯りが夜道に浮かび上がっていたけれど、もはやそれに気がつく者は誰もいない。賑やかに騒ぎつつ、テレビの中のリーグ中継を競うようにして見つつ、彼らのポケモンリーグの夜は更けていく。




「なんでこういう時に限ってこうなるかなぁ」

サークルの面々が、自分達を差し置いて居酒屋で大騒ぎしてるとも知らず――タマムシ大学の廊下を小走りで進み、芦田は辟易したような声を出す。その隣を走る守屋が、「僕のせいだとでもお考えですか」と不機嫌な口調で返した。芦田の横を漂うポワルンと、守屋に並走するマグマラシが、また始まったというように視線を空中で交差させる。

「君のせい以外に何があるの。なんでよりによって今日のさ、みんなでリーグ中継見ようとか言ってた日に限って、学校に鞄忘れたりするわけ? あったから良かったようなものだけど、財布とかも入ってるんでしょコレ、気を付けてよ、ホント」
「じゃあついてこなきゃよかったじゃないですか。そうやって後からアレコレ言うのはズルいですよ、耐久高い自慢ですか」
「探すの手伝わせたのは君でしょ? しかも見つけたの俺だし」

ポケモンリーグの開会式が行われるというのに、夜の大学に残ってる物好きもそういない。いつもは騒がしさを極めている廊下はしんと暗く静まり返っていて、芦田が携帯のランプで照らす光とマグマラシの炎だけが眩しかった。早足の足音が三つ分、薄闇の廊下に響いては消える。
「そういえばさ」いつまでも文句をぶつけ合っていても虚しいだけだと思ったらしく、芦田が強引に話を切り替える。天井に張り付いていたイトマルが、近づいてくる光に怯えて逃げていった。「この前聞いたんだけど、羽沢君、旅に出たことあるんだって」

「え? 樂さん旅出られるんですか? 今更? お土産買ってきてくださいね」
「僕の話聞いてなかったの? 僕じゃなくて羽沢君だよ。あとお土産って君さ、旅行じゃないんだから」
「だって樂さんの旅とか絶対トレーナー修行とかならないじゃないですか、絶対諸国漫遊的な何かになりますよ。で、何ですか? 羽沢が? 何かの間違いじゃないですかね、聞き間違いとか」
「僕もそう思ったんだけど、でも旅の話とかしてたんだよね、僕に似た人に会ったとかなんとか。びっくりだよね、誰がどんな過去あるかわかったもんじゃないよホント」
「マジなんですか……僕ここ最近で一番びっくりしてます、高校の時の友達がケッキング似の彼女と付き合いだしたって聞いたら実際はふくよなナゲキと付き合ってた時並にびっくりしてます」
「俺はその話の方がびっくりだよ……何それ…………」

呆然と言った芦田に、「僕だってよくわかりません」と守屋は雑な返事をする。巡君のせいで何話そうとしたか忘れちゃったじゃん、などとぼやき、芦田は携帯のライトを切った。釈然としないまま校舎の外に出ると、空は既に濃紺に染まり、少しばかりの雲に覆われた月が浮かんでいた。
今頃選手入場が始まった頃かな、と言おうとして芦田は口を開く。が、それよりも前に守屋が「でも、樂さん」と声を発した。


「今、旅してないってことはここにいたい理由があるからなんじゃありませんかね」

「…………奇遇だね。俺もそう思ったよ」


その言葉に守屋は露骨に不愉快そうな顔になり、「樂さんと同じとか勘弁していただきたいですね」と清々しいほどハッキリ言い放った。「君ね……」芦田が声にトゲをにじませる。またもや始まりそうな応酬に、ポワルンとマグマラシは付き合ってられないとばかりに、皆の待つ居酒屋へと続く夜の道を先にいってしまった。





「いよいよだねー、今年はどうなるかなぁ」
『まあ、言うて毎年予想外のことも起きないけどな。初出場の少年が圧勝しまくってそのまま優勝した1996年伝説くらいだろ、色々覆されたのなんて。それだっていつの話だって感じなのに』
「ま、それはそうだけどさ。でも知り合いが優勝候補ってだけで大分違うじゃん?」

ゴミとゴーストポケモンで充満した、とある複合ビルの二階に位置する真夜中屋。ラジオから流れるリーグ中継を聞きながら、ミツキはムラクモはじめ、ゴーストポケモン達とダラダラしている。
『それは言えてるな。あのオッサン、優勝出来るかね』今はミツキしかいないためにタブレットの電子音声など使う必要のない、ムラクモが思念を直接ミツキに飛ばす。「んー、どうだろ」それに対し特に意味も無く肉声で答えながら、穴が開いたソファに寝転がるミツキはだらしなく寝返りをうって転がった。「強い人もいっぱいいるからねぇ。勝つかもしれないし、負けるかもしれない、ってとこじゃない」

「でも、優勝する道は拓けてるよ」

曖昧な言葉の後にそう続け、何かを確信しているみたいな笑みを浮かべたミツキをムラクモが赤い瞳で見遣る。『なんかイミシンな言い方だな』床に広げたスナック菓子を貪る手を止めて、紫色の腕を伸ばしてミツキの足をつついた。
「ぜんぜん深くないよ、むしろそのまんま」くすぐったそうに身をよじり、横たえていた身体を起こしたミツキはソファに座る。汚いとしか言いようのない、しかし不思議と穏やかな空気の漂う部屋を眺め、彼は力の抜けた笑みを浮かべた。

「あの女の子が正しいことをしたとは絶対言わないけど、でも、結局は羽沢さんも、あの呪いが通じちゃうような人だったんだ。王にふさわしいかどうかを見抜く、ギルガルドの呪いがね」
『…………でも、それは解けただろ?』
「そうだよ。だから、大丈夫なんだ」

あの人は、きっと王様になれるよ。
「そう思うでしょ? ムラクモ」笑いかけたミツキに、ムラクモは大きく裂けた口をにっと歪ませて答える。『たりめーだろ』彼の返事に被さるようにして、ラジオの実況中継が、選手入場の開始を告げた。





リーグ会場の女子トイレで、松崎は化粧を直している。
父親のバトルを見るために訪れたわけだが、実のところ彼女がポケモンリーグを生で観戦するのは初めてだった。

実際目にしてわかったことは、沢山のトレーナーがいるということと、その全てを応援している人がいるということだった。何百といる出場者に、それでも皆に力を与え、与えられる人がついていた。大勢の観客達は、皆、誰かという光を心待ちにして開会を今か今かと焦がれている。
どんなトレーナーでも、誰かに夢を与えて誰かの希望になっていた。
結局一口も飲めなかった、コーヒーの匂いが意識の中だけで蘇る。便利屋と名乗るサイキッカーと交わした会話、降り続く雨の音、止まった時間に感じたものは恐ろしさと、後悔だ。

リップグロスの蓋を閉め、松崎は思う。
呪ってしまったあのトレーナーも、きっと自分の父親と同じ、さして変わらない、誰かにとっての道となった存在なのだろう、と。

「はるなちゃーん! もう、始まっちゃうわよ選手入場! ノブさん出てきちゃう早く早く!」

外で待っていた、ファンクラブのメンバーが松崎に声をかける。
楽しそうな、嬉しそうなその声に松崎は少しだけ笑みを浮かべ、「今行く!」と化粧道具をポーチにしまって足を踏み出した。





「あと五分で選手入場ね。まだ席に戻ってきてない人も多いけど」

ポケモンリーグセキエイ高原大会、会場客席。人もポケモンも入り混じり、大勢の客で溢れかえったその場所にはリーグ開始を待ち焦がれる者達の立てる声や音でひしめき合っている。
その客の一人、真琴が膝に抱えたポップコーンをつまみながらスタジアムの時計を見て言う。「ここからでも見分けってつくのかしら、全体が見えるっていうのはいいけど、ちょっと遠すぎる気もするからねぇ」

「大丈夫だろ、母さんオペラグラス持ってきてるって言ってたじゃん。あと、スクリーンもあるし」
「かなりいい席ですよ、ここ。まさかこんな席でリーグが観れる日が来るなんて……ホントにありがとうございます」
「なんか、すみません。私達まで誘っていただいて……」

真琴の言葉に答えた悠斗に続き、富田と、彼の両親が頭を下げる。「いいのよ、いつもお世話になっているし、ご近所さんなんだから」笑ってそう言った真琴に、富田の母親が黒の尖った耳を揺らしてもう一度礼をした。出場者である泰生の口利きである程度のチケットは取れるため、悠斗が来るのに合わせて真琴が富田一家の分も確保しておいたのだ。富田の母の、尖り気味の鼻の頭が嬉しさによって赤くなる。
「羽沢さんは何番目くらいに入場されるんですか?」「所属の五十音順だから最後の方だと思うんだけど……」そのまま親同士が会話に入ってしまったため、必然的に悠斗と富田が残される形となる。斜め前にいる、ププリンを頭に乗せながらリーグ賭博に余念のない老人を横目で見つつ、富田は悠斗に声をかけた。

「俺、リーグ来るの初めてだわ。こんな盛り上がってるもんなんだな、思ってたよりすごいな」
「俺も十何年ぶりだから、毎年母さんだけ行ってたからな……っていうか、テレビとかで見てないわけ? 客席の様子も映んだろ、こういうの」
「んー……そうだけど、見る必要もなかったし」

そう答えた富田に、悠斗は「そうか」と頷いた。それきり黙って、微妙に視線を逸らしてしまった悠斗に富田は「何考えてるか知らんけど」と声をかける。

「別に、……自分がどうするかとか、何するかっていうのを、悠斗を理由に決めたことは一回も無いよ、俺は」
「………………」
「ただ、俺がそうしたいから、俺が決めただけでさ」

茶色に染められた、長い前髪の向こうの赤い瞳が悠斗を見る。思えばこれを怖いとか、不安であるとか異質であるとか、そうやって考えたことは一度も無い。そんなことをふと思った悠斗に、無二の親友は微かに笑った。

「今だって、別に自分が来たくなかったら来てねぇよ。それだけ」
「…………うん」
「お前だって、別に、羽沢さんを理由にここ来たわけじゃないだろ」
「うん」

その返事に続け、悠斗は富田に何かを言おうと口を開く。しかしそれよりも先に、会場中にアナウンスが響き渡った。


『間もなく、選手入場です! ご着席がまだのお客様は、速やかに席にお戻りください!』


「おお、いよいよだな」
「始まるわねぇ」
「今年はどんなリーグになるかしら」

歓喜と待望にざわめく客席の上空、晴れた夜空に丸い月が浮かぶ。祭の夜に更けていくその下で、悠斗と富田はスタジアムの中心へ、それぞれ二つの目を向けた。






スタジアムに続く通路の中、沢山のトレーナーが開会を待つ。闘いの始まりに武者震いする者、緊張で息苦しさを覚える者、現実感を持てずに落ち着けぬ者。それぞれの思惑とそれぞれの野望、そしてそれぞれの闘志が交差するまで、残された時間はあと僅かだ。
その一人である泰生に、森田はそっと声をかける。「泰さん」マネージャーである彼はここで一旦泰生と別れることになる、自分がここから先に行く側であった日のことを思い出しながら、森田は泰生の目を見て言った。「行ってらっしゃい」


『――――それでは、二千十五年度ポケモンリーグセキエイ大会、』


泰生が大きく頷く。森田が力強い笑みを浮かべる。岬が唇で弧を描き、相生が両手を握り締める。064事務所の皆が、各々目の光を強くする。少し離れた場所に立っていた根元が、泰生をちらりと見て含み笑いをする。
コートと通路を隔てていたゲートが、音を立てて開く。眩しいほどの光に満ちたそこは、今から自分達が向かうその場所は、王者を決める闘技場である。



『選手一同、入場です!!』



「頑張れよ――――――」


コート全体に響いたよく通る声――若きシンガーのそれを耳に受け、泰生は闘技場への一歩を踏み出す。




誰かの希望となり、夢を見せるような。

誰かの光となり、輝きを放つような。

誰かの道となり、前へ前へと導くような。


そんな、王者を決める祭典が――――――――




「父さん!!」




今、幕を上げる。


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