マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1559] Chapitre1-3. 風月のフウジョタウン 投稿者:浮線綾   投稿日:2016/07/15(Fri) 20:47:58   41clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe

Chapitre1-3. 風月のフウジョタウン



2月下旬 フウジョタウン


 猛烈な強風をものともせず、ファイアローとオンバーンは飛翔する。
 どこまでも連なるなだらかな白銀の丘陵。
 雪を蹴散らすグラエナとポチエナの群れ。
 葉を落とした、密な針山のような森林。
 農家のミルホッグが見張りをしている、白雪に覆われた葡萄畑、小麦畑、野菜畑。
 ポニータの駆ける牧場。
 石造りの小さな村。
 コアルヒーの遊ぶ、紺碧に泡立つ土色の大河。
 景色は流れる。
 風はひどく冷たく、酷く強い。
 点在する村の教会の祭壇から東の方角を確認しつつ、北東へ、北東へとファイアローとオンバーンを駆る。
 冬空はただひたすらに灰色の曇天。雪でも降りそうだ。
 草木は寒風に揉まれ、人の気配を示す石垣も寒々しい。
 けれど時折、視界の端には村々の薄黄のミモザや、淡紅のアーモンドの花の色が閃く。

 セラはオンバーンの背で姿勢を低くしながら、先行するファイアローとその背にしがみついているリズを見やった。
 常に羽ばたき続けて高度を一定に保っているセラのオンバーンと異なり、リズのファイアローは羽ばたいて上昇しては翼を休めて滑空しというふうに、波のように常に上下に揺らめいていた。
 滑空中は羽ばたく必要がないために体力が温存されるのかもしれないが、その背で揺られるリズは気分が悪くならないのだろうかとセラは思う。リズは伸ばしっぱなしの黒髪を風に吹き散らされながら、ファイアローの緋色の背中の羽毛にもっふり埋まっている。暖かそうだ。少し羨ましくなった。
 前を行くファイアローの熱の恩恵には、セラのオンバーンも与っている。オンバーンは寒さを苦手とするから、ファイアローが風を作りしかも空気を温めてくれるとかなり体力が温存できるのだ。だからオンバーンはファイアローに競争心を煽られることもなく、楽な二番手を堅持しているのである。
 行く手に、白銀の山嶺が見えてきた。フロストケイブを抱く北東の山脈だ。
 頬に氷の破片がぶつかってくる。
「あと少しだ、メルクリウス。頑張ってくれ」
 セラは鞄から手探りでヤチェの実を取り出すと、前方の宙に投げる。それをオンバーンが上手に顎で捉えた。これで氷雪を凌いでもらうしかない。
 降り始めた雪の向こう、フウジョタウンの光は既に見えている。
 18時頃だった。遥か背後に日が沈む。


***


 フウジョタウンの中央広場にファイアローとオンバーンを折り立たせ、それぞれのトレーナーは疲労の溜まった飛行ポケモンをモンスターボールに休ませてやった。その足でポケモンセンターに入っていく。
 空を飛んだ二体はバトルをして傷ついたわけではないから、回復機械にかけるほどの消耗具合ではない。ボールの中でゆっくりさせれば足りるだろう。
 セラは受付で宿舎のツインルームの鍵を受け取ると、どこかぼんやりとしているリズを引き連れてエスカレーターに乗り、ポケモンセンターの階上へ向かった。

 ポケモンセンターというのは不思議な施設だ。病院とホテル、レストラン、カフェ、図書館、役所、トレーニングジム等々が一体になったようなものだ。
 農業と水運と観光を産業の基盤とするところのフウジョタウンも、立派なポケモンセンターを持っていた。
 正面ホールは3階まで開放的な吹き抜けになっており、1階の受付のカウンターは広い。左右の明るく清潔なロビーでは低いテーブルとソファに数多くのトレーナー達が憩い、ポケスロンの様子を映す大画面のテレビの前は大人気で、また壁面に沿っては巨大な書架がずらりと立ち並びポケモンに関連する書籍が豊富に揃えられている。水ポケモンを放すためのプールもあるし、炎ポケモンを温めるための暖炉もある。奥には格闘ポケモンも満足の室内トレーニング施設が供えられているはずだ。
 2階にはレストランやカフェやビストロやバー、フレンドリィショップ、人間のための診療所、各種行政手続きの窓口などもある。
 そして3階から上は、ポケモントレーナーのための宿舎だ。
 ホールにはポケモンの鳴き声が満ち、吹き抜けには空飛ぶポケモンがのびのびと飛び回っている。

「……ミアレのとあんま変わらないんだな」
「ポケモンセンターは都市の一等地を買い上げて建てられるから、敷地面積などによって構造を変える必要があまりないんだろう」
「でも朝起きた時、今どこの町にいるか分からなくなりそうだな」
「トレーナーを安心させるためだから仕方ない。ポケモンセンターは“どの町からでも帰れる家”である必要があるから」
 ツインルームに入り、2人はひとまずそれぞれのベッドを見定めて荷物を置く。ベッドはけして上等とは言えないけれど、十分安眠はできそうだ。なにより部屋は乾いてしっかり暖められている。
 とりあえず当面の宿に満足すると、セラはリズに笑いかけた。
「まだ十年くらい前じゃなかったか、ポケモン協会はカロス各地の立派な教会とか貴族の城館とかを壊して、近代的で巨大なポケモンセンターを大都市に造った」
「……そりゃ、さぞや反対の声もでかかったでしょうね」
「そう、景観保全や文化遺産保全などを理由として、ポケモンセンター建設反対運動はカロスじゅうで大規模な盛り上がりを見せた。けれど、それもいつの間にか封殺されてしまった」
「……おー怖い怖い。ミアレにプリズムタワー造った時と同じか?」
「まさしく。まあそのプリズムタワーも、万国博覧会後にミアレジムに接収されたわけだが」
「酷いオチだ」
「あの照明塔は今でこそミアレのシンボルになっているが、そんなところを預からされるジムリーダーにはむしろ心から同情するよ、私は」

 言いつつセラは黒のジャケットを脱いでハンガーにかけ、クローゼットに収納した。それからモンスターボールからニャスパーを出し、そのふわふわの毛並みを楽しみつつそっと抱き上げる。
 つられるようにリズもシシコをボールから出すが、こちらは膝の上に乗せたまま立とうとはしない。
「私はビストロで夕食にしてこようかな。リズはどうする?」
「……うーん、寝る」
「わかった。カーディガンは脱いでおけよ。Bonne nuit, Riz」
 早くもシシコと共に横になっている友の肩をぽすぽすと軽く叩いてやって、セラはニャスパーと共に部屋を出た。


 リズの記憶が戻らない。
 セラのことを覚えていない。
 今年の1月にミアレの病院で目覚めてから一ヶ月、リズはずっとこの調子だ。昔のように面白おかしく冗談は口にするものの、ぼんやりとしている時間帯が多い。一日の半分ほどを睡眠に費やすのも、かつては三日に一度しか眠らなくても怒涛の勢いで論文を生産していた彼を思えば、異常でしかない。記憶障害の副作用なのだろうか。
 ビストロでニャスパーと一緒に肉と白インゲンの煮込みとバゲット、赤ワインという夕食をとりながら、セラはうっかり頭を抱えた。
 うーんと唸りつつ地元産のワインをあおって、セラは考えるのをやめた。
 ――リズを信じるしかない。刺激はいくらでもあるのだし、一つずつ反応を試してみればいい。





 ポケモンセンターの宿舎の、ガラス窓の向こう。
 蒲公英の綿毛のような雪が、風に煽られて舞い飛んでいる。
 風車のある石造りのフウジョの街並みは、フラスコ画のようだった。
 朝の8時ごろだろうか、ようやく山脈の向こうで冬の太陽が昇り始めたような気配がある。
 薄暗い朝の部屋の中。
 ニャスパーが耳の傍で微かに、みうと鳴く。

 うつ伏せに眠っていたセラは、枕元にリズがぼんやりと突っ立っていることに気付いてびくりとした。ちなみに2人とも寝起きのため下着くらいしか身に着けていない――多くのカロスの人間は冬ですら寝るときにほとんど服を着ないものだ。
「うわ。どうしたリズ、目覚めのキスでもしてくれるのか?」
「目が……覚めたんで……」
「なるほど。いいぞ、ほら来いよ。私の頬はいつでも空いている」
 セラが上体を起こして右頬を差し出すと、リズの人差し指がぶすりと刺さった。
「リズ、それはキスとは言わない」
「なんかモモンの実みたいだと思ってつい」
「お前はモモンを見たら指先で押すのか。あれはつついたところから腐り出すんだ、まったく迷惑極まりないなお前は。金輪際、果物屋には近づいてくれるなよ」
 金茶色の瞳を瞬いているリズを、セラはベッドに腰かけたまま見上げる。
 リズはぼんやりとセラを見下ろしてきている。パンツ一丁で。友人とはいえ、そしてセラも同じ格好とはいえ、なかなか衝撃的な目覚めだ。
 とりあえず見つめ合ってみた。パンツ一丁で。

「どうした。何か思い出したか、リズ?」
「…………ずっと前にも、アンタとここに来たということは……思い出した」
「そうだな。……ずっと前にも、お前は私のベッドに――」
「……そしておもむろにアンタは意味深な手招きをし――」
「一夜の過ちを捏造するな」
「あー怒られた。アンタが先に悪乗りしたのに、怒られた。………………思い出せない。俺たちはここで何をした?」
 リズが力なく苦笑している。
 その目が混乱に陥っているのを見て取って、セラはあーあと首を振った。
「推理してごらん。私に聞くまでもなく分かるはずだ。この街のことを調べれば」
「アンタに訊いた方が早いのに」
「私は教えたくないな、お前が苦しむ姿をもっと見ていたい」
「俺はアンタが愉悦に浸っている姿を見たくない」
「朝から私の笑顔が拝めるなんて最高だろう? さて、ブーランジェリーで朝のバゲットでも買ってこよう」
 セラは立ち上がって大きく伸びをすると、未だにぼんやりとしているリズを振り返って笑った。
「ほら何をぼさっと突っ立ってるリズ、服を着ろ。それとも目覚めのキスをご所望か?」



 ヒャッコクシティ方面から流れてきた河と、南のチャンピオンロード方面から流れてきた河の合流地点にフウジョタウンは作られている。
 この地は水はけのよいケスタ地形で、葡萄の栽培が盛んである。スパークリングワインが特に有名だ。
 また北側に広がる針葉樹林が北風と霜を防ぎ、二つの河のもたらす湿度が寒さを中和し、さらには石灰岩まじりの泥土が広がる――という恵まれた環境が、穀物や野菜を育てる。中世から大規模農業が続けられてきた、フウジョはカロスの誇る一大農業都市だ。そうした豊富な農産物は水運によってカロス各地に運ばれている。

 雪の降る中、ニャスパーを抱えたセラとシシコを担いだリズは傘もささずに、焼き立てのパンのにおいを辿ってフウジョの街を歩く。
 街そのものは大きくはない。広場から少し歩けば、合流する二つの大河と、雪に覆われた田園風景が見られる。畑には枯木のような背の低い葡萄の木が並んで、綿雪を浴びてしんと静まり返っていた。
 地元の人々に立ち混じって焼きたてのバゲットを二つ買い求め、むき出しのまま手に取り持って帰る。

 雪と寒風の中、香ばしいバゲットの端を齧りながらセラとリズは並んで歩いた。石畳は凍って滑りやすくなっているので、足元に注意しながら。シシコとニャスパーにもそれぞれのバゲットの反対側の端を齧らせてやる。
「……かたいな」
「リズ、本格的に頭は大丈夫か? ……これで殴れば、正気も記憶も取り戻すのか?」
「やめとけ、セラ。アンタが傷害罪で起訴されるところは俺も見たくない」
「お前はヘタレだな」
「むしろイケメンじゃなかったか、今のは」
「私をダシにして己の身を守ろうという浅薄さが気に入らなかった」
「ああ言えばこう言う……」
 二人仲良く並んでバゲットの端を齧りつつ、雪の残る畑の傍の道を歩く。
 そして道端に早春のミモザの黄色い花を目に止め、リズが立ち止まった。もくもくとバゲットを齧りながら。
「どうした?」
「……綺麗だな」
 言いつつリズはバゲットを口にくわえると、のんびりとミモザの木に寄っていった。ベルトから銀の花切鋏を取り出し、いとも自然な動作で黄金の花束を手の中に生み出す。慣れた手つきだった。
 セラは溜息をついた。
「相変わらず、だな」
「……ひえいあああああ」
「そうだな、綺麗な花だな」
「……ん」
 リズとシシコはバゲットを咀嚼しつつ、手の中のミモザの花にじいと見入っている。ほのかな甘い早春の香りを嗅ぎ取り、目を閉じる。

 その時、近くでグラエナの吠え声が聞こえた。
 雪を蹴る音。
 また、何かのポケモンの、喉を引き絞るような悲鳴。


 リズとセラはバゲットから口を離さないまま、ちらりと視線を交わす。
「……こんな人里近くで、グラエナか。遠吠えは聞こえなかったよな。物騒な……」
「ミルホッグぽかったな、今の鳴き声は。ちなみにミルホッグといえばフウジョ辺りには、農家が農作物を野生ポケモンから守るために、ミルホッグを畑の見張りに立てるという伝統がある」
 セラが知識を披露すると、リズはバゲットを食いちぎった。つまみ食いのつもりが、すでに半分ほどをそのまま食べてしまっている。たまたま立ち寄ったブーランジェリーだったが、かなりの当たりだった。次は焼きたてのクロワッサンなど買ってみたいところだ。
「……つまり、野生のグラエナに、農家のミルホッグが襲われた、と」
「十中八九そうだろう」
「……グラエナが農家を襲ってまで、農作物を奪いに来たわけか? 秋まき小麦の芽でも狙っているのか? グラエナが?」
「いやむしろ、ミルホッグそのものが獲物だった可能性の方が高いだろうさ」
 セラが意見を述べる。

 バゲットをもぐもぐやりつつも、リズの金茶の瞳が思案に沈む。手の中のミモザの花を見つめる。
「……フウジョ付近に生息するグラエナは、冬季は一般的には、野生のミネズミやウリムーを群れで襲い食す……らしい」
「そうなのか。ミネズミの匂いがしたからミルホッグが狙われたんだろうか」
「だがグラエナは賢い、人が飼うポケモンを襲うことは滅多にしない。最近のグラエナはポケモントレーナーの脅威を群れの内部に伝達しているから、人間を避けるようになっている。……にもかかわらず今、農家のミルホッグを襲ったわけだ……」
「ちなみにだ、リズ。人の所有権の及ぶポケモンが危害にさらされている場合、それを察知できたトレーナーにはそれを救助する義務があるということを知ってるか?」
「……トレーナー法第23条第1項だろう、新人トレーナーでも知っている。当該条項に定められた義務の履行を怠ったトレーナーには1万円以下の罰金の支払いが命じられる。善意無過失の証明責任はトレーナー側に存するが、その証明は一般に非常に困難だ。――で、アンタは俺を誰だと思ってるんだ、セラ」
 リズは鼻を鳴らした。これでもミアレ第一大学の法学者なのだ。
「……リズは、リズだな」
 セラもくすりと笑った。
 2人はグラエナの遠吠えと、ミルホッグの悲鳴の聞こえてきた方角を見やった。雪が舞い上がっている。
 グラエナは複数いるようだ。
 セラとリズはモンスターボールをそれぞれ一つずつ、開く。
「行こうか、マルス」
「……頼む、クローリス」
 セラはギルガルドを、リズは赤い花のフラージェスを繰り出した。


 セラのよく通る声が響く。
「マルス、“影討ち”で先手を取れ。“聖なる剣”でグラエナを追い払え」
 盾を構えていたギルガルドが抜身の状態になり、盾を振り回す勢いで自らの刀身でグラエナに斬りかかっていく。

「クローリス、“ムーンフォース”」
 リズの半ば直感に基づく指示に、フラージェスは素直に従った。ごく当然のように、むしろどこか嬉々として。
 深紅の花弁を揺らしながら、眩い光を放つ。

 唐突に割り込んできた第三者の攻撃をさばけるほど、その野生のグラエナの群れは経験を積んでいなかった。群れの連携を乱され、統率を失って逃げ回る。
 グラエナの群れの集中攻撃を受けていた農家のミルホッグは、ぐったりとはしているがどうやら瀕死で済んだらしい。早めにポケモンセンターに連れていけば問題なく回復するだろう。


 騎士の如きギルガルドと女帝の如きフラージェスの優雅な戦いぶりを、2人は畑の傍の道路でバゲットを齧りつつのんびり眺めていた。
「リズ、思い出したか?」
「何をだ?」
「お前と私で、光の石と闇の石を交換したな。それでフラエッテだったお前のクローリスと、ニダンギルだった私のマルスが進化したんだ」
「そんなこともあったっけな。……その、すごく……と、友達っぽいな……」
「そこは照れるんだな」
 もぐもぐ。2人とも、シシコとニャスパーにも齧らせているにしても、今朝買ったばかりのバゲットを既に3分の2ほど消費してしまっている。もぐもぐもぐもぐ。
「そ、れは置いといて……セラ、なんでグラエナが農家のミルホッグを襲ったんだとアンタは考えてる?」
「さて。ところで、フウジョ付近のグラエナの最大の天敵って、マンムーじゃないか? もちろんマンムーは草食だけど、グラエナが獲物のウリムーを襲撃した際、往々にしてその仲間のマンムーに返り討ちにされることってあるよな」
 それだけ答えを与えておいて、セラは相手の反応を窺う。
 リズはバゲットから口を離した。顎の動きが止まる。
 ギルガルドとフラージェスはグラエナの群れを追い払い終えて、倒れたミルホッグの傍で2人の指示を待っている。

 リズの表情が緩やかに変わっていく。
「…………マンムーが減ったのか…………?」
 その金茶色の瞳が翳るのを、セラは満足げに見ていた。
「当たり」
「ウリムーを守る大人のマンムーがいなくなったから、グラエナがウリムーを食い尽くしたんだ。そして去年はグラエナが増えて……それで獲物が足りなくなったのか……それで人のポケモンを襲うようになった? …………いや、何か違う?」
 セラはますます笑った。
「思い出したか?」
 リズは手の中のミモザの花に視線を落とした。
「…………ああ……ちょうど一年前、このフウジョで……マンムーを狩ったのは俺たちだったな」
 その時もリズはこのミモザの花を美しいと嘆じ、切り取った。それを記憶の引き金に、2月の記憶が蘇る。
「…………10番道路の列石に繋ぐ生贄にしたんだ」



***


 2月は末でも、雪は深かった。
 早朝、空はまだ深夜のように暗い。
 フロストケイブに通ずる雪道、一面に雪化粧を施されたモミやトウヒの針葉樹林、その中の小さな空き地。
 五頭の野生のマンムーが倒れていた。

 白衣を身に纏った科学者――ケラススが、瀕死のマンムーを一頭ずつハイパーボールに押し込めていく。無表情だった。機械的な作業だった。
 が、その銀紫の瞳の色から、苛立っていることをオリュザは見抜く。

 オリュザは全身を黒いスーツに身を包んでいた。その手の中には、摘んだばかりの黄金色のミモザの花束。つい先ほどフウジョの街の道端で見つけて、その美しさに心奪われ、ついついお気に入りの花切鋏で切ってきてしまったのだ。
 ミモザの花の甘い香りを楽しみながら、オリュザはのんびりとケラススに声をかけた。

「おい、また捕獲率の曲線とやらが想定と違ったのか?」
「……やはり非自発的情動モデルの限界か、だがそうなると性質固定理論との整合性がとれなくなる、やはり特防の法則が、いや成長曲線との均衡点が右方にシフトすることによってまた抵抗値が下がるということか、しかしその場合には次元効率との対応の説明がつかない、ここで以前の母集団平均の検定結果を参照すると、……ああそうだ駄目だ棄却だ棄却駄目だ駄目駄目駄目じゃあいちど個性変数を固定して」
「そうか、俺には理数系はよく分からんが。ポケモンを対象とした実験については、携帯獣愛護法第52条においてポケモンに過重な負担を課してはならないということが定められているが、俺の解釈によると、我が国の憲法においてポケモンはカロスの発展に寄与すべしとされていることと、ベトベター解剖事件の最高裁判例との整合性を鑑みるに、まず当条項におけるポケモンの過重な負担というものの定義は」
 そこでオリュザは口を噤んだ。

 ケラススが、自らの腕にヒトツキの青布の部分を巻き付けている。
 憑りつかれたように白衣の科学者はヒトツキの刀身を振り上げ、一体だけボールに収納されずにいた瀕死のマンムーに向かって容赦なく振り下ろした。
 オリュザはその背後で片眉を上げる。
「……何をしている、理論家。それ以上は携帯獣愛護法第6条に抵触する恐れがあるが」
「黙れ、夢想家。私はいま標本収集と測定に忙しい、抵抗理論の修正が迫られている……」


 三度切り付け、ケラススはこともなげにヒトツキの青布を腕から引きはがすと、深く傷ついたその不運なマンムーをハイパーボールに収めた。元よりそのマンムーに抵抗する力など微塵も残されていないだろうとオリュザは思うのだが、すっかりおとなしくなったボールを手に、ケラススはご満悦のようだった。
「そうだろうな。そうだろうさ。わかっていたことだ。つまらないな」
「アンタが楽しそうでよかったよ……いっちょ景気づけに踊るか? うちのクローリスが花吹雪してくれるってよ」
 オリュザは、傍らに浮遊している自分のフラベベを見やった。血色の花にしがみついている小さなフラベベは、先ほどから血の雫のような花弁を撒き散らしながらくるくるくるくるくるくると同じところを何度も回っている。
 はてフラベベの頭は大丈夫だろうかとオリュザが首を傾げているところに、ヒトツキの柄を片手で握ったままのケラススの冷笑が浴びせられる。

「お前はポケモンが傷つけられても、ずいぶん平然としているんだな」
「そりゃアンタな、人間がポケモンのために生きてどうするよ。アンタだって同じだろ。どうせこのマンムーどもも生体エネルギーを吸い尽くされて死ぬんだろう、別に今さらどうも思いやしねえよ」
「お前は、ポケモンの権利は否定派か」
「そうだな。むしろポケモンは世界から絶滅させるべきだとも思うしな。ポケモンがいなければ戦争の犠牲者は9割方減るだろうよ。俺は平和主義者なんだ」
 オリュザは手の中のミモザの花束を掲げ、肩をすくめてみせる。
 ケラススは鼻で笑う。
 雪もミモザの花もヒトツキもフラベベも、仲間のマンムーを助けようとして逆に命を奪われたものたちで赤く汚れていた。
 そのにおいを嗅ぎつけたグラエナの群れの遠吠えが、近くなっている。





Chapitre1-3. 風月のフウジョタウン END


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