翌日の朝。目を覚ましたおれはゆっくりと上半身を起こして自分の体を確認する。長い髪、白い体、男にはない二つの丘。
ああ、賭けに負けたんだな……。
昨夜交わした賭けの約束、もしおれが元に戻ったらおれはカイナに残り続ける。そして元に戻らなかったらおれは旅に出る。しかしこうして現におれの姿は昨日と変わらずカノンのままだった。
腹を括るしかないだろう。大勝負に負けてしまったんだから。そう考えると反発する気は萎れてしまい、どこか納得出来てしまった。確かにカノンは心配だ。だけど旅に出てみたいという気持ちもあった。この賭けの結果は百パーセント本意ではないけれど、カノンからの立派なGOサインだった。
旅……かぁ。旅をしておれは何をしたいんだろう。
中途半端な体勢を動かしてベッドに腰掛け、すやすやと笑顔でまだ眠るカノンを見つめながら、今後のことをぼんやりと考える。
折角カノンがああまで言ってくれたんだから、カノンに胸を張れるような旅にするしかない。
『わたしは旅に出れないから……』
昨晩カノンはぽつりとそう漏らした。カノンはこんなおれよりもずっと旅に出たがっていたのだろう。
なぜならカノンには夢があった。コンテスト全制覇。体が弱くて旅に出れないカノンは、短冊にそんなことを書いても、おれにそう言っても、心の底では諦めていてただの絵空事にしていた。
だったら……。
「わたしの、勝ちだね」
カノンは目を覚ましてまずベッドに腰掛けたままのおれを一瞥すると、そう言ってから小さく欠伸する。
「はは……だね。おれ、旅に出るよ」
「あら。昨日あんなこと言ってたのに以外とあっさりなのね」
「約束だからな。それに、決めたんだ」
「決めたって何を?」
「おれがカノンの代わりにコンテスト全制覇をやってみせる」
何をしようか考えた結果導きだした答えだった。おれは真顔できっぱりとそう言ったというのに、どうしてかカノンはいきなり俯いて顔を隠すと肩を揺らし、声が漏れる。
「ぷっ、あはっ、あははっ。ユウキがコンテスト全制覇なんて無理無理!」
腹を抱えて笑い出したカノンに対し、さすがにやや怒った顔をしても仕方ない。
「し、失礼な! まだやってもないのに無理はないだろう」
つい脊髄反射的にベッドから立ち上がってそう言った。
一通り笑いきったカノンは目尻を拭って、一息入れる。
「だってユウキは今までコンテストに興味が無かったじゃない。コンテストが大好きで、それでいて本気で取り組んでも制覇出来ない人だらけなのに、そんなのじゃ結果も見えてるよ」
「まだやってさえいないぞ!」
「最初から無理だって分かることもいっぱいあるんだから」
切なく笑うカノンを見て、おれはつい言葉を失ってしまった。
ずっと近くにいたから分かる。カノンは確かに体が弱いから、旅に出れなかったり運動出来なかったりと「無理」なことがたくさんある。
だけどカノンは何でもかんでも体が弱いからという言い訳をして無理だと言って遠退けて、いろんなことから逃げている節があった。
きっとカノンが言っていた『変わるきっかけ』はおれに対するものだけじゃないはずだ。カノンがおれにこうして変わるチャンスを与えてくれたんだから、おれもカノンを変えてやらねばならない。
いい加減カノンも変わらなくちゃならないんだ。そのカノンの消極的な殻を、おれがコンテストを全制覇することで突き破ってやる。これが、おれが考えついた結論だった。
「ふん。見てろよ、今にもおれは世にも轟くコンテストの有名人になってやる。お前がそこまで無理っていうなら絶対におれがなってみせてやる。不可能だって、可能に変えれることを証明してみせてやる」
諦めてしまったら、たった一%でもあるかもしれない可能性が無くなってしまう。
いくらおれがコンテストに興味がないとか下手くそかも知れないと関係ない。それを見せてやる。
「おれは本気だ。必ずやってみせる」
カノンは困った顔を見せるが、それ以上は何も言わなかった。
おれを本気にさせたのは、カノン、お前だ。
「そう、ようやくってとこねぇ」
朝からカノン家にやってきた姉貴に旅に出る旨を伝えたら、うすら笑いでそう返してきた。
「でもあんた本当に大丈夫なの? その体で」
「体? もちろん、昨日も言ったけど走れるし」
「そっちじゃなくて、女の子なのよ今のユウキは」
う、そうだった。旅に出るからと言って男に戻るわけでもないのだ。
「たぶん……」
頬を軽く掻きながら力なくそう答えたら、姉貴はふふんと笑ってやけに嫌な笑みを作る。
「じゃあまずは形からでも女の子に慣れないとねぇ」
「え?」
「うん、やっぱり可愛いねぇ」
身ぐるみを剥がされたおれは姉貴やカノンのなすがまま、人形のようにカノンの服を着せられていった。
今のように絶賛する姉貴に対し、調子に乗ってそうかなと気取ると、カノンにユウキは何もしてないじゃんとツッコミを入れられた。
白を基調としていて、黒の刺繍が入った膝上丈のワンピースに緑の薄手のカーディガンを羽織らされたおれは、改めて姉貴が用意した全身鏡の中の自分と対面した。
やはり誰がなんと言おうがカノンが鏡の中にいた。昨日はあくまでも、自分の服を着たカノン程度であったのに、もうどこからどうみても正真正銘のカノンだ。
なのだが、服の感触が馴染めない。太もも同士がすぐにこすれて妙にくすぐったい。足の半分以上が露出していてこのスカートの解放部分もあって、足下が非常に頼りない。
おれ自身はパンツルックがいい、とせめてもの反抗をしたのだが、そもそもカノンはあまりそういう服を好んでいないためこういうものばかりで、なおかつ姉貴の「いずれ着ることになるんだろうだから今でもいいんじゃない?」という一言に妙に納得してしまったからであるが……。
「うん、外はまあ問題ないわねぇー……。後はぁ、そうね、中身」
腕組みをした姉貴はおれを一通り眺めると、また何かを言い出した。
「中身?」
「そう。中身よ中身」
姉貴の言いたいことが分からなくて首を傾げる。
「言葉遣いとかに決まってるじゃない」
「あーなるほど! って、えー……」
「さて、と。ちょっとお昼から用事入ってるから、カノンちゃん後はお願いね」
はーいと軽い返事を姉貴は背中で受けて、部屋から出ていく。何の用事なのだろう。今日は火曜日で、姉貴の仕事は水曜日から土曜日のはず……。
と、右手を顎に添えて考えていると、それとは関係ないものの大事なことを思い出した。
「あ、中身で思い出した。カノン、コンテストについていろいろ教えてくれない?」
コンテストをやると言ったものの、今まで興味が無かったために大雑把にしか知らないのだ。
かっこよさ、かわいさ、美しさ、賢さ、たくましさをそれぞれ競い、下から順にノーマル、スーパー、ハイパー、マスターランクがあることは知ってる。我が町カイナではハイパーランクコンテストが開催されているし、ルックスだけを見る一次審査と、実際にワザを繰り出す二次審査があるのは知っている。ただそこまでしか知らない。
「もう。そんなので大丈夫なの?」
「肝心なのはこれからこれから」
はあ、とわざとらしくため息をついたカノンは本棚から背表紙にポケモンコンテスト大全と書かれた青い分厚い本を取り出して、おれに寄越すので片手で受け取ろうとする。が、
「重っ!」
受け取った瞬間に腕ががくんと下がる。すかさず膝を曲げて空いていた左手でフォローを入れて、がっちり本を持つ。これくらいならいつもは片手で持てたはずなのに。
「大丈夫? だいたいのことはこれに書いてるはずよ」
よいしょとベッドに座り込み、本を開けるもどこから読めばいいのやら。
「うーん、口頭でおれに説明を」
「わ、た、し」
一瞬カノンの強い語気にびくんと背筋が立つが、何を意味しているか分からない。
「言葉遣い言葉遣い」
「あ、なるほど。口頭でお……じゃなくてわたしに説明してくれた方が良いなぁ。だなんて」
む、むず痒い……。変な感じがしてなかなか言いづらいし、言ってからも妙な感触がまだ残る。
「だーめ。自分で頑張りなさい」
悪戯っぽく笑うと、カノンはおれから遠ざかって部屋のドアの取っ手に手をかける。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
そうしてドアの向こうに消えて、おれは分厚い本と共に一人残されるのだった。