トレーナーカード。それは十歳になったとき、ポケモン協会から各自に配られるモノだ。トレーナーカード一枚だけで身分証明書にもなり、各種大会への出場権にもなるし、ポケモンセンターのような公共施設などでも宿泊出来るようになる。まさにトレーナーには欠かすことの出来ないカードだ。
そしておれはカノンにその大事な「カノンの」トレーナーカードを無理やり握らされている。
「ちょ、ちょっと、どういうつもりだよ! こんな大事な物をおれに――」
「今から貴女が本物のカノンになるの」
「はぁ、何言ってるんだ?」
カノンはようやくおれから手を離すが、思わぬカノンの提案に呆気にとられたおれはトレーナーカードを返すことさえ忘れていた。
「コンテストに出場するために必要なコンテストパスを作るときにも、旅をするにもこれは必要でしょ? ユウキのトレーナーカードじゃどう考えても身分証明出来ないじゃない」
「いや、そりゃあ……、確かにだけどカノンはどうするんだよ」
「言葉遣い。わたしは……わたしで何とかするから気にしないで。とにかく、これから貴女がカノンだから。カノンのコンテスト全制覇の夢は一度諦めたけど、体が良くなって再び追いかけれるようになりました! ってことでさ」
極めて明るく微笑みかけるカノンにどう言葉を返せばいいか分からず、眉をひそめる。
これは本心からなのか、それとも強がりで言っているのか。
聞いてはいけないような気がして、ベッドに腰掛けたまま硬直してしまった。
すぐ目の前にカノンがいるのに、その心は闇の中に紛れているようでさっぱり伺えない。
いつも一緒にいたはずなのに、この妙な心の距離感が苦しかった。
あの後すぐに、おれのポケナビに姉貴から一度家に戻ってこいと連絡が入った。
じゃあまたねとぎこちない挨拶を交わして、カノンの部屋からすぐ隣の我が家に着くまで僅か二分程度の道のりを歩くおれの足取りはひどく重かった。
別にカノンのトレーナーカードを貰わずとも何とかする方法はあった。トレーナーカードは国ではなくポケモン協会が発行するものである。ポケモン協会に直接紛失したと言えば、住所年齢性別氏名を書いて、手持ちのポケモンを見せてトレーナーであると証明出来ればその場で即発行してくれる。だから戸籍のようなものには直接のおれの存在は無いものの、それでもトレーナーカードは発行出来る。
本来トレーナーカードはあくまで会員証程度のものだったのに、ポケモン協会の肥大化と同時についには今のように身分証明を成せるようになった、らしい。なのにいまだにトレーナーカードの作成手順は甘く、それを利用しようと思っていたのにどうしてカノンは自分のトレーナーカードをおれに渡したのか。
意図がまるで汲めない。カノンはおれにどうして欲しいのか。
悩みを抱えたまま我が家に入る。ただいま、とか細い声をかければ、玄関まで迎えに来た姉貴が心配そうにどうしたのと声をかけてきた。
事を伝えようか迷ったおれはちらと考えた挙げ句、ずっと手にしていたカノンのトレーナーカードを姉貴に見せた。
「カノンにいきなり渡されて、これから貴女が本物のカノンって言われてさ……」
「そっか。カノンちゃんはそう決めたのね……」
「姉貴は何か知ってるのか?」
予想していなかった反応に、廊下を歩きながら顔を明るくして今の体より五センチ程背の高い姉貴を見上げると、軽く頭を小突かれた。
「言葉遣い直しなさい。あと姉貴って言わないの。お姉さんとかお姉ちゃんとか言いなさい」
「……ねぇ、何か知ってるの?」
「あ、今意図的に『お姉ちゃん』を抜かしたなあ?」
ふと姉貴の腕が顔の側まで伸びてきて、今度は頬っぺたをつままれ強く横に引っ張られる。
「ひ、ひはひ!」
「お姉ちゃんって言うまでダーメ」
悪戯っぽく笑う姉貴。抵抗するも力業で勝てる相手じゃない、ここは従うしかないか……。
「ほへーはん!」
「あ、ごめん。このままだと何言ってるか分からないわね。はい、もう一度言い直して?」
頬っぺたから姉貴の手が離れ、患部を優しくさすりながら姉の横を通り抜けてリビングに向かおうとする。
「あ、こら! 逃げるな!」
おれの予想より早く姉貴の手が再び頬っぺたに伸びる。さっきのでさえ結構痛かったのに!
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん!」
あと一秒でも遅かったらどうなったか。姉貴はよろしい、とにっこり笑ってそう言うと、先にリビングに向かった。都合のいい姉貴である。
安堵と呆れ混ざりの溜め息を一つついて、頬っぺたをさすりながら姉貴の後を追った。
「それでさっきの事なんだけど……」
「ああ、そうね」
リビングのソファーに隣り合うように座って、肝心の話を催促する。
「カノンちゃんもあんたの事で悩んでてさ――」
姉貴の口からカノンが今日相談してきたという悩みを打ち明けられる。すっかりあんな態度だったから、そんなに苦しんでいたなんて知らなくて少し面食らってしまった。
「だから、辛いことは誰にでもあるけど越えなきゃダメだって言ったんだけどね。あ、もちろんあんたもね」
「一言多いよ」
「まあ、あんまりこういうのは他人には言わない方が良いかもしれないけど、二人がギクシャクするよりは良いかなと思って。きっとトレーナーカードを渡したのはカノンちゃんなりの、今の自分の状況を打ち破ろうとする決意の現れじゃないかな?」
手元のトレーナーカードを見つめる。決意、か。
『わたしたちに変われっていう暗示だと思うの』
昨晩カノンはああ言っていた。変わる……、まさかここまで物理的に変わろうとしていたとは完全に予想外だけど、カノンの決意を尊重してこれは受け取っておくことにする。
「さて、旅に出るユウキ、じゃなくてカノンのためにプレゼントよ」
姉貴はリビングの隅で寂しそうにしていた赤の刺繍が至るとこに入ってる白の斜めがけの鞄を指差す。
「お下がりだけど、別にいいでしょ? 見た目は小さく見えるかもしれないけど、実際に開けてみれば大きさは分かるわ」
ソファーから立って、言われた通りに鞄を開ければ成る程。確かに、見た目以上に幅が広い。内にファスナーもあって小物はそこにまとめれそうだ。
「若干どころか十年前だからかなり古いモデルだけど、それでも別に大丈夫よね」
「うん、ありがとう」
「まあこれで我慢してもらえないとこの後が大変だから……。さ、買い物行くわよ」
小さなポーチを手に取った姉貴はリビングを発とうとする。が、ちょっと待った。
「買い物?」
「ばか。鞄だけで旅に出れる訳ないでしょ」
それもそうか。今貰ったばかりの鞄を担ぎ、リビングの壁掛け時計に目をやる。まだ午後四時過ぎ、街はまだまだ元気だろう。
「って、ちょ、ちょっと待って! おれ、この格好で街に出るの?」
慌てて廊下に出た姉貴にそう言うと、姉貴は腰に手を当てて頭を項垂らせる。
「別に何もおかしくないじゃない」
「いや、正直恥ずかしいし……」
「旅に出たらどうせ避けられない事なのに何うだうだ言ってるの!」
「そ、そうだけど」
「だったら早めに馴れとくべきじゃない」
反論の余地がまるでない。だがおれはおれなりに葛藤しているのに、あまりにも配慮がないというかなんというか。
「さっさと行くわよ?」
「あ、ちょっと待って。せめて準備くらいさせて」
姉貴の文句を背中で弾き、すぐそこの階段を昇って二階の自室に一日ぶりに戻る。たった一日居なかっただけだというのになんだか懐かしく感じるのは相当密度の濃い時間を過ごしたせいなのだろうか。
壁際にある机に歩み寄り、広い机にぽつんと目立つように置かれたモンスターボールをそっと手に取る。
ジグザグマ。六歳の時に初めて出会った唯一の手持ちポケモンだ。ずっと遊んできた仲の良いポケモンで、おれたちの絆は確かなはずだ。
だが、不安が一つだけある。ジグザグマは異常なまでにカノンのことが嫌いなのだ。
吠えるのはもちろん、外であれば砂かけをしたり、体当たりなんてかますことがある。
どうしてそこまで執拗にカノンを嫌うか――姉貴には嫉妬じゃないの、と言ったが――分からず、カノンに会うときは極力ジグザグマを出さないようにしていた。
しかし現状はおれがカノンだ。おれが体当たりをされたりしてしまうかもしれない。言うことを聞いてくれるかがとても不安だ。
ふと階下から姉貴の急かす声が聞こえ、迷った挙げ句とりあえずモンスターボールを持って玄関に向かった。