22
「そろそろ交代しよう。白目剥いてるぞ」
アキラはそう言われてはっとした。座っていた座イスから転げ落ちそうになった。
見上げると、ここの家主であるシンがマグカップを持って見下ろしていた。
「まずい、寝ちまったか――そうだな、バトンタッチするよ」
二月二日の夜。時計は十一時を回った。
今日の夕方からずっと当番だったアキラが久しぶりに座イスから立ち上がった。肩がゴキゴキと音を立てる。
「特に変わったところはなかったな。出入りしてる連中もいつも通りのメンツだ」
一週間前から、彼ら「ヘル・スロープ」のメンバーは、交代で暴力団アジトの入口を監視していた。
去年二年生のケイタが仕入れたある店。その店は暴力団がドラッグの受け渡しを頻繁に行っているらしく、今パソコンの画面に映っている雑居ビルにはそこから辿り着いたのだった。そのビルは、観光地化している市街の外れの地元人しか訪れないようなところに身を隠すようにしてひっそりと建っていた。
出入りしている人間が店の方と顔ぶれとの一致していることや、何よりその風貌から、その雑居ビルが暴力団の拠点であることを割り出した。
一見すると、消費者金融会社の事務所が一階に入っているだけの小汚いビルだが、この事務所こそやつらの本拠地である。
善良な企業を装って、なんてことない、悪徳な高利貸しを生業としているのだった。まあ、よくある話かもしれない。
その事務所の向かいに、スナックと居酒屋が身を寄せ合うようにして建っている。
その建物のわずかな隙間にビデオカメラを設置し、ブルーシートの隙間からレンズだけをのぞかせた。ぱっと見はただの粗大ごみにしか見えず、間違ってもこんなものに興味を持つ人間はいないだろう。
そのビデオカメラが撮影した映像をインターネット回線に乗せて、このパソコンに送られてくる、という寸法だ。
こんなことができるのも、コンピューターや情報通信に詳しい四年生のシンのおかげだ。監視室になっているミオシティのこの部屋も、このパソコンも、ビデオカメラもすべてシンが提供している。
一週間に渡る観察の結果――出入りしている顔ぶれからの推測なので一概には言えないが――暴力団の総人数は約二十人。年齢層は二十代から四十代と幅広く、何人かはモンスターボールを携帯しているのが見て取れた。
客らしき人間を除き、出入りが頻発するのは朝と夕方だが、夜遅くまで出入りが絶えないことが多かった。
入ってすぐ出ていく者が多いことを考えるとあまりその事務所に常在してはいないらしい。
こういう道の方々はやはりオフィスワークではなく外でお仕事する場合が多いのだろう。どんな業務内容なのかは知らないが。
「やっぱり、一網打尽といくなら誘い出すのが一番やりやすいだろう」
アキラは台所で水を汲み、一気飲みしてから言った。
「そうだろうな。町中でドンパチやるわけにはいかない」シンは、何か注視しなければならない時にだけかける眼鏡を拭きながらパソコンを見つめた。「暴力団だけあって相当やり慣れてるだろうし、できればこっちに有利な場所で、相手の戦力を分散しつつやりたいところだ」
この手の会話は、実はこの一週間何度も繰り返された話だ。
暴力団メンバーをできるだけ多く、どこかへ誘い出す。集団で戦いなれている相手に有利にならないよう、相手を二、三人ずつに分散し、小分けにして戦力を削っていく。
「問題はどうやって誘い出すかと、どこに誘い出すかだな――」
アキラがそう言うのとほぼ同時に、玄関のドアが開いた。冷たい外気が部屋に吹きこんだ。
「お疲れさん! 差し入れ持ってきたよん!」
現れたのは我がサークルの代表、マキノだった。頭に少し雪を被っている。ジャージにダウンジャケットという出で立ちで、手にはコンビニの袋が下がっていた。
「どうでもいいが、チャイムくらい鳴らせ」とシン。
「もう、冷たいのねシンちゃんは。おでんいらないのかしら?」そう言いながらマキノは部屋の真ん中に据えられたこたつに潜り込み、コンビニ袋を置いた。「はぁー、あったかーい!」
「お、それは激アツ。食ってから寝よう」とアキラ。
「――おでんはいる」全く抑揚のない声でシンはパソコンの画面を見ながら言った。「箸と皿は流しの横だ」
「言われなくてももう使わせてもらってまーす。この一週間でこの部屋の物、なにがどこにあるか熟知したから」
そう言ってマキノはおでんを深皿に取り分けた。ダシのしみ込んだ大根やがんもが湯気をたてる。
「卵は一人一個なので、そこんとこ」
おでんを頬張りながら、三人はミオシティの地図を広げ、作戦の最終調整をした。
残る問題である「誘い出し方」と「誘い出す場所」は、マキノの一言で半ば強引にけりがついた。
「私が誘い出すわ、任せて」
「任せてって、それ大丈夫なのか?」アキラは眉にしわを寄せた。
「ええ、ちょっと乱暴な方法だけど、私とトレスクが必ずおびき出して見せるわ」
トレスクとはマキノのゴローニャの名前だ。
一体どこからそんな自信がくるのだろうと、アキラは異常に不安に思ったが、マキノのトレーナーとしての腕を見込むことにして、結局マキノに丸投げした。こんなんでいいのか、とも思った。
「あと、誘い出す場所なんだけど――」
マキノは地図上の一点を、ゆっくりと指差した。
「ここがやっぱり一番だと思うわ。私たちが一番動きやすい場所でもあるし、逆にやつらは絶対来たことないと思うから」
「――ああ。おれもそこしかないと思う」とシン。
「おびき出すのは夜だ。ゼミ室で寝てるようなやつ以外、誰もいないしな」とアキラ。
「じゃあ、決まりね」
マキノが指を指したのは、他でもない、ミオ大学のキャンパスだった。
23
二月三日、水曜日、節分。早朝のミオシティジムでユウスケは最終調整をしていた。
「ジーナ!」
ユウスケはキリンリキに最後の指示を出した。
キリンリキの額のあたりに電流を帯びた球体が現れ、それがピンポン玉くらいの大きさからどんどん膨らんでいき、ついにはバスケットボールくらいの塊になった。
キリンリキはその長い首をバットのように勢いよく振ると、その電撃の塊が凄まじいスピードで発射された。
「むっ!」
相手をしていたジム・トレーナーのタカユキはその眩しさに眼を庇った。
彼のエアームドに電撃波が直撃した。エアームドはよれよれと翼をはためかせ、やがて地面に着陸した。
「いやぁ、驚いたな! そんな技まで使えるとは!」
タカユキは感嘆しながらエアームドをボールに戻した。
「最近習得したんですよ。電気属性の技は何かと便利なんで」
ユウスケはタカユキにお礼と別れを告げ、ジムを後にした。
決戦の日と言っても関係ない人にとっては今日はただの平日。駅前の道は通勤中の人でいっぱいだった。
ユウスケはその人の流れとは逆方向の大学に向かって歩いていた。
コートの襟を立て、ポケットに手を突っ込む。今日もまた、一段と冷え込むらしい。
昨日の夜はかなり雪が降ったらしく、除雪の済んでいない道は少し歩きづらかった。
ユウスケは携帯を取り出し、ある番号に電話をかけた。
二度コールしたが、相手はなかなか出ない。
この時間に起きていることはまずない人だから、あまり期待しないで三回目の電話をかけた。
<――ふぁい?>
明らかに電話によって起こされた、不機嫌な声。
幸運にも、たった三回目の電話で相手は応答した。
「もしもし、シロナさん? 僕ですよ、ユウスケです」
<――何よ? こんな朝早くに>
「別に朝かけることでもなかったんですけどね、事を起こすのは夜ですし。でも、なるべく早めに確認しときたかったんですよ」
電話越しに風が吹いているような音がした。恐らく、シロナのあくびだろう。
<大丈夫よ、準備は万全。あなたたちのこと、誰も傷つけるつもりはないから。『火を付けた責任』ってのもあるしね>
「そっちじゃないですよ、この前頼んだ件です。覚えてます?」
<この前……ああ。うーんと、あの子よね。ガーディの彼の彼女の――>
「カオリです」
<そう、カオリちゃん。ええ、ゴヨウに確認したけど、なんとかなると思うわ。刑事総務課長がミオ警察署管轄の摘発事件に関与するのはキツいと思ってたけど、意外とゆるいみたいね――でも、あんたがなんでそこまで心配するの?>
ユウスケは少しだけ、言葉を探した。言葉が見つからなかったわけではなく、いくつかの言葉の中でできるだけ良い文句を使いたかったからだ。
「――同情ですかね。楽しくて、充たされた大学生活を、後輩には送ってもらいたいですから」
電話の向こうでシロナはクスクスと笑った。
<へえー、変ったわねーあなたも随分>
「変わってませんよ。未だに僕は変態クソ野郎です」
<高校生の頃は変態じゃなかったわよ? クソ野郎ではあったけど>
「――そうですね、確かに昔はただのクソ野郎でした――それじゃあ本日はどうもよろしくお願い致します」
ユウスケはそう結んで電話を切った。
久しく忘れていた高校時代を、ユウスケは少し思い出した。
たったひとつの不幸で黒く塗りつぶされてしまった、あの高校時代。
あのまま自分には光の射す日々など訪れないと思っていた。
しかし今は思う。「道を踏み外す」なんて、大した過ちじゃない。
手を差し伸べてくれる人さえいれば、すぐにまた自分の足で歩けるようになるから。
実に充実したこの大学四年間、通い慣れたこの坂道を、ユウスケは雪を踏みしめて上っていった。