草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-5. 霜月のハクダンシティ
11月下旬 ハクダンシティ
あれだけの事件があったというのに、その週末にはハクダンシティでは、毎年恒例のカロス最大のワイン祭り――通称『栄光の三日間』が催されていた。
カロスが滅ぼされかけていただとかそんなことは関係ない、結局はテロリストが自爆しただけでカロスは滅びなかったのだから、いつもどおりに祭りを開催する。その逞しい根性とワインに対する情熱がまさにカロス人らしいと言えるだろうか。
ハクダンを取り巻く葡萄畑は、黄や赤に色づいている。その葡萄樹に実った黒い宝石は摘み取られてワインとなるべく仕込みに回されて、残された葡萄畑は枯れた葉が寒風に吹き散らされるのを待つばかりだ。
空は毎日、雲に覆われていた。
日没は日に日に早くなる。
サイドテーブルにはサザンカの花枝が白磁の花瓶に挿して飾ってある。
セラは病室から、そうした初冬の気配を感じ取っていた。身を起こす気力すら失われたまま。
教会の鐘の音。
利き酒騎士団の叙任式。
広場や通りに軒を連ねる屋台の売り声。
ワインの試飲にいそしむ観光客の嘆声。
パレード。
マラソン。
ストリートパフォーマンス。
屋外で行われるワインのオークション。
賑やかだ。
セキタイで起きたことなど、無かったかのように。いや違うか、セキタイであれだけの事件が起きたからこそ、それを乗り越えたカロスを讃えているのだ。「あの程度の災禍などカロスにとっては何でもない」と国内外にアピールしているのだ。
素晴らしく鮮やかな掌の返し具合だ、とセラは思った。
行政の上層部にも、フレア団員はいたのである。彼らも、その日セキタイの最終兵器がカロスの全てを滅ぼし、フラダリの統べる死の無い新世界が始まり、そこで新たな人生を始めるものと――多かれ少なかれ信じて、フレア団として活動を続けてきていたはずで。
なのに、『栄光の三日間』をいつもどおり執り行っている。
あらかじめ、フレア団の失敗を、ある程度予測していたということだろうか。
けれどフレア団の悪事が明るみになった余波は、確かにカロスを襲った。
行政府の半分ほどの大臣、中央銀行の上層部、主要メディアをはじめとする大企業の重役、名家として知れ渡る貴族の末裔などなど。何十人ものカロスのトップに立つ人間が、フレア団との関わりが明るみにされて、職を失った。
その中で最後まで糾弾されなかった人物――カロスのポケモンリーグ四天王が一角パキラが、まったく悪びれる様子もなくニュースキャスターとしての華やかな職務に邁進しているのを、セラはむしろ感心して眺めた。
病床に横たわったまま。
セラは全身に火傷を負っていた。
最終兵器の放った光で焼かれたのだが、リズに庇われたおかげで炭化せずに済んだわけである。
そんな重い火傷も、病院で働くシュシュプの“アロマセラピー”やタブンネの“癒しの波動”やチリーンの“癒しの鈴”を毎日ひっきりなしに受け続け、強制的にモーモーミルクをごっくんさせられ、ラッキーの産んだ栄養満点のタマゴを毎日喉の奥に流し込まれ、そしてプクリンの歌声を聴かされて眠らされていると、ほんの数日で驚くほど回復した。
それでも、吐き気が止まらなかった。
上体を起こすことすらままならない。
煙のにおいを嗅ぐとどうしてもだめで、炎ポケモンを連れた他の患者やその見舞客が近くを通るだけで体調を崩す。
担当医はそれらを精神的なショックに起因するものと診断した。
それから病院のムシャーナに夢を診断されたりした。が、ムシャーナの出す夢の煙ですらセラは嘔吐する羽目になった。セラ自身にもわけがわからない。
手持ちのオンバーン、ギルガルド、アマルルガの3体はセラを心配そうに見守ってくれる。ポケモンに心配されるのは有り難いことだとセラは思う。フレア団に所属していた間、ほとんどセラは手持ちのポケモンを顧みなかったのに、この3体はセラを気にかけてくれるのだ。
この3体はセラに捕らえられた身であることを理解していて、その上で、セラに尽くすことを生きる意味として見出しているのだ。
そんなことは、数日間この3体と共に過ごしていれば当然に分かることだった。
ポケモンにも心があり、その命に価値があり、生きる意味を持っている――と教えてくれたのはリズだった。
オンバーンやギルガルドやアマルルガを愛おしく思えば思うほど、リズのことが思い出されてつらい。
オンバーンを、リズのファイアローと並べて何度も空を渡った。
ギルガルドがこの形態に進化させた闇の石は、リズのフラージェスを進化させた光の石と交換したものだった。
アマルルガは、リズに譲ったガチゴラスの片割れの化石ポケモンだ。
まだ生きると。
言ったのに。
そんなこんなで、セラはずっとハクダンシティの病院に入院している。
負傷現場であるセキタイから何故こんなにも遠く離れたハクダンに連れてこられたのかと思ったら、死傷した数万人のフレア団員で、シャラやショウヨウ、コボク、ミアレの病床が埋まってしまったためらしい。病床にあぶれたセラの受け入れを表明した医師が、ハクダンの病院に勤める、セラのミアレ第十一大学での先輩だった。
その個人的にも信頼できる医師から、セラは、自分の全身の細胞が最終兵器の放った高圧の電磁波にさらされて染色体が傷つき、ありとあらゆる部位において癌の発生リスクが高まった、などというようなことを聞かされた。
が、セラはそんなことなどどうでもよかった。
大学の先輩である医師が、半ば放心している様子のセラの顔を覗き込む。
「気をしっかり持て、ケラスス。つらいだろうが、人生なんてそんなものと思って受け入れろ」
「……そうは言うけどな……」
「それにしたって、おまえも寂しい人間だな。家族も来ない、友人も来ない。そんな患者、滅多にいないぞ。おまえっていったい何を生き甲斐にしているんだ?」
「……精神的にも弱ってる患者に向かって、えらい言い草だな……」
いい意味でも悪い意味でも遠慮のない先輩の言葉に適当に相槌を打ちながら、セラはどこも見ていない。
目覚めた時からずっと、セラの頭には、“円い星空の下に打ち捨てられた炭の人形”の映像がこびりついていた。
全身の火傷はひどく痛むけれど、そんなものどうでもよかった。リズはセラ以上に苦しんだはずなのだ、破滅の光に焼かれて、もがき苦しんで炭になって転がって煙を上げて、そして死んだ。
結局、死んでしまった。
死に損ねたななどと、笑っていたのに。
これからも名前を呼び続けるからと、セラという呼び名をくれたのに。
これからもよろしく頼むと、手を差し伸べてくれたのに。
煙が目にしみる錯覚がして、涙がだらりと流れ出てくる。そして医師を吃驚させる羽目になる。
「大丈夫かケラスス、痛むか。つらかったらお医者さんにすぐ言えよ、痛み止めは用意してやる。精神的な苦痛の緩和はカウンセラーの仕事だけどな」
その医師は、セラに友人がいるなどと思いもしないのである。そして自分の仕事をしっかり割り切っている。
良くも悪くもさっぱりしている。
セラは吐き気をこらえつつ、唸った。
「……オリュザ・メランクトーンの手持ちのポケモンは?」
「え? オリュザ君?」
「……あいつも……ここに連れてこられたんだろう?」
「ああ、うん、おまえと一緒にこの病院に運んではきたけどね。オリュザ君のポケモンは、オリュザ君の傍にいるけど……それがどうした?」
セラは息を吐いた。
リズの親族が見つからず、リズの手持ちの3体もおやの傍に留め置かれているということだろうか。どこかのジムなどに預けられてしまう前に、尋ねてみてよかった。友人だと名乗り出れば、リズのポケモンはせめてセラが引き取ることができるだろう。
「……そいつのポケモン、私が預かることはできないか?」
「え? なんで?」
「……なんでって……友達だから」
「あ、へえ、そうだったんだ。でもなんで? オリュザ君本人から頼まれでもした?」
医師は間抜けな顔をして、ぬけぬけとそう尋ねてくる。
さすがのセラも顔を顰めた。
「……頼まれてはいないが、あいつの傍に置いておくよりいいだろう……」
「いや、良くないだろうケラスス。だって、ポケモンはおやの意思に沿った処遇を受けるべきであって」
「――だから、そのおやが死んだんだろう? 遺言でも無いと駄目とでも言うつもりか?」
さすがに気分を害して刺々しく言い放つと、医師はぽかんとした。
「えっ?」
「あ?」
「えっ?」
「……おい、何だ」
「えっ? あれ? もしかしてケラスス……あれ? えっと、オリュザ君……」
医師は暫く一人で混乱していた様子だったが、とつぜんポンと両手を打ち合わせ、セラを見ながら馬鹿笑いを始めた。
「アッハハハハハハハハハッハハハハッハハッハハハハッハ!!!???」
「……何がおかしい」
「ああああ、そうか! 実によかった! よかったなケラスス!」
医師は実にいい笑顔を浮かべて、横になったままのセラの肩を優しく叩いた。
にんまりと笑って、医師は確かに、こう言った。
「――オリュザ君は、生きてるぞ」
セラは絶句した。
まるまる一分ほど経っても、息しか、漏れなかった。
「………………はあ?」
セラは寝台から転がり落ちた。
貧血でぐらぐらして、立てない。足もひどく萎えている。セラは傍にあったサイドテーブルの上、サザンカの枝の花瓶の傍に置いてあった3つのモンスターボールのどれか一つに呼びかける。
「マルス」
ギルガルドが召喚に応じ、自らボールの中から姿を現す。
「動かせ。私を」
ギルガルドの霊力で体を操らせる。頭に血が回らなくて、ひどく頭痛と眩暈がして、吐きそうなのをこらえて、壁を伝い、震えながら、すぐ隣の病室へ、もだえ苦しみのたうち回りながら向かう。
隣だった。
すぐ隣にいたのだ。
そこに、リズはいた。
褐色の肌、黒髪、金茶の瞳。
「え?」
セラは顔を顰めた。
それは紛れもない本人の姿で、至って健康そうな姿で、白い病床に横になってぼんやりと窓の外を眺めていた。
褐色の腕を白い布団の上に投げ出し、その右手には花切鋏、そして布団の上には山積みになった鮮紅のサザンカの花束。
「……え?」
ただただ息が、漏れる。
リズがサザンカの花弁の中から、ゆったりと、セラを振り返る。至って自然な動作で。
「よう、セラ。……ひどい顔だな」
「…………え?」
確かにリズの声だった。
信じられない思いで、見つめる。
リズの体には傷一つなかった。
リズは困り果てたような苦笑を浮かべてセラを一瞥すると、すぐに視線を逸らし、手の中のサザンカの花枝に改めて向き直った。鋏で枝を切り揃え、どうやら病院の白磁の花瓶に生けるものを造っているらしい。
セラはギルガルドに縋りつきながら、喜んでいいのか恐れるべきなのか、判断しかねた。
リズはもう、セラを見ていない。初冬の花に夢中だ。セラに軽く声をかけただけで、握手の挨拶すら無かった。――なぜ、友達なのに、感動の再会なのだからハグくらいしたって当然だろうに、いや、これは本当にリズ、か…………?
セラは立ち尽くしたまま、混乱していた。
遅れて医師がリズの病室に入ってくる。
「おおオリュザ君、今日もお花作りに精が出ますなあ」
「ああどうも、先生」
「他の患者さんも喜んでくれてるよ」
「それはよかった」
医師とリズはそのように呑気な会話をしている。
セラはただただぽかんとして、リズを見下ろしていた。
そこに医師が声をかけてくる。
「いいか聴け、ケラスス。オリュザ君は、このハクダン病院への収容時には全身炭化してて、こりゃ死亡診断出すだけの簡単なお仕事だわと思ってたその矢先――お医者さんが気付いたときには、完全復活を果たしてました」
「………………はああ?」
セラは顎を落とした。あまりに驚愕したせいか、頭痛がどこかに行ってしまっていた。
一方のベッドの上のリズは医師の説明にも興味なさげに、黙々と花切鋏でサザンカを切っている。どちらかというと、切り刻んでいる。時折その鮮紅色の花弁のかけらがはらりはらりと、雪白の布団の上に散る。
医師も溜息をついた。
「いや、お医者さんも何が起きたかさっぱりわけわかめなのね。で、とりあえず精密検査したわけよ、オリュザ君だけじゃなくて医療関係者の頭も片っ端からね。――で、これは間違いなくオリュザ・メランクトーン本人だよ。彼の手持ちのポケモンたちも、そのような反応を示している」
セラはリズを見つめたまま、呆然と、医師の説明を聞いていた。
医師曰く。
オリュザは最終兵器の光を浴びて、全身の細胞が形質転換を引き起こした。
――どこかで聞いたような話だった。
どんなに傷つけられても、あっという間に傷が癒えてしまう。それはもう染色体がどうのという問題でなくて、ほとんど観測する間もなく、時間が戻るように、あっという間に再生する。
そのような話を半ば放心状態で聞きながら、一方でセラの科学者としての頭の一部は冷静に動いていた。
リズのケースはセラによるAZの細胞の観察結果と若干異なる、が、それはセラがAZの細胞のサンプルを得た時点でAZが既に3000歳を超えてある程度老化が進んでいたためではないか。
つまり、リズは、AZと同様の症例に罹患しているといえるのではないか。
不死、という病に。
リズの枕元には、彼の手持ちであろう3つのモンスターボールが転がっている。
リズは死んではいなかった。だからその手持ちのファイアローもフラージェスもガチゴラスも、リズの傍に留まっていただけなのだ。それは3体にとっては良いことだろう。
医師は他の仕事の時間だと言って、リズの病室から去っていた。
そこにはリズとセラだけが残された。
リズは手を止めた。ぼんやりと、布団の上に散ったサザンカの花の残骸を眺めている。
遠く、ワイン祭りのざわめきが風に乗って病室まで聞こえてくる。
ぽつりと、声を漏らした。
「楽しそうだな」
セラもベッド脇の丸椅子に腰かけて頭痛をこらえながら、頷いた。
「……そうだな」
「ずっとここでアンタが目覚めるのを待っていた」
「……起きるだけならずっと前から起きていたのに」
「アンタが俺に会いに来れるまで回復するのを待っていた」
「……偉そうに……」
すっかり健康そうなくせに病人のように病床にあるリズを、セラは睨み下ろす。
「……お前は死んだと思っていた」
「俺も自分は死んだと思ってた」
「……生き返ったんだな、AZと同じに。イベルタルの力で命を吸われて空っぽになった肉体に、ゼルネアスの力で尽きぬ命を注がれたわけだ……」
「そうだな。アンタがフラダリやクセロシキにドゲザしてまで望んだ肉体だ。羨ましいだろう?」
挑発するような口調ながら、リズは自嘲気味に笑っている。
セラは顔を顰めた。
「……お前はそれを望んで手に入れたわけではないんだろう?」
「そうだよ。殺されて、生き返らされた。傲慢な神によって。……最低だ」
そう吐き捨てるリズの顔から笑みが消える。と同時に、憎悪と絶望と虚無が表情に広がる。
もともとリズは、殺されるとか、生き返らされるとか、そのように命を弄ばれることを憎む人間だった。それは死の意味を消滅させ、生の価値を破壊する行為だからだ。
そのことをセラはよく知っている。
だからリズが哀れでならなかった。頭を下げる。
「すまない。あのとき、私が、お前に庇われなどしたから」
するとリズは困ったような表情になった。
「……そう言われると、困るんだよな。あそこでアンタを庇ったのは俺の意思だし。でもあのときは咄嗟だったから、あの光をまともに浴びたらこんな事になるだなんて、考え付かなかったんだよ」
そう言ってリズは深く深く溜息をついた。哀しげな眼をしていた。
「……それに一方のアンタは、そう長くないらしいじゃん。庇った甲斐が無いじゃんな」
「…………あ…………」
リズに言われて、セラも思い出した。――そうだった、自分は、癌の発生リスクが高まったために常人ほどは生きられないだろうと、医師から宣告されたばかりだったではないか。リズが死んだと思い込んでいた間は自分の余生のことなどどうでもよかったが、言われてみれば、そうだった。
リズは永い命を与えられた。
セラの残り時間は削られた。
セラは途端に現実が信じられなくなった。
リズは鮮紅色の花弁に埋もれる中で、へらりと笑う。
「俺の持論を聞かせてやろうか、ケラスス・アルビノウァーヌス」
「……何だ」
「アンタは“哲学の第一原理”をご存知か? デカルトの『我思う、ゆえに我在り』ってやつ」
「……それぐらいは知っている。世の中のすべてを疑ってかかる姿勢をとってみた中で、その疑うということをしている自己だけは、疑いようのない存在だということだろう」
「俺に言わせりゃね、それでも信じられない不確かな自己もあると思うんだわ。――確かに俺はここに在る。でもそんなの信じられない、俺は死んだはずだ。だけど、まさにそう思っているからこそ、俺の存在が確信される。でもいくら確信されたところで、俺は俺が信じられないんだ……」
リズは横たわって宙を見つめたまま、そう呟いた。
セラはただただ苦笑した。
「…………お前の話は難しいな、夢想家」
「そりゃ、トピック的論証だもん。理論家には理解できんだろうさ」
リズも苦笑した。
「でも、こんな酷い現実、受け入れられないだろ? 俺が言いたいのは要はそれだよ」
「…………確かに、残酷な結末だな」
「だよな?」
リズは昏い眼を閉ざす。
その右手は冷たい花切鋏を握りしめ、左手は裂かれたサザンカの花を握り潰している。
セラはそれを見下ろしながら、ただただ悲しかった。――せっかく生きて再び会えたというのに、なぜ喜び合えないのだろう?
Chapitre4-5. 霜月のハクダンシティ END