その男が部屋に戻った時、既に部屋の中は冷え切っていた。
暖房は切られており、白熱灯も部屋を明るくしてくれてはいなかった。
ベッドの上のシーツは皺だらけだったが、その皺を付けた張本人はどこにもいなかった。
男は焦って、バスルームとクローゼットのドアを全部開けて隅々まで探した。しかし、彼女はいなかった。
落ち着け、と男は自分に言い聞かせた。彼女は自由に動ける体じゃない。そう遠くへは行っていないはずだ。
だが、机の上に置かれたパソコン――電源が付きっぱなしだった――を見た途端、男は思わずディスプレイを引っ掴んで大きく揺らした。
パソコンは物言わぬ機械である。しかし、何物かが残したメッセージを男に読ませる程度の心遣いはすることができた。
ワードで表示されたそれは、原稿用紙三枚分ほどの短いメッセージだった。しかしそれを読んで理解し、行動に移すには実に二時間の時間を要したのである。
お世辞にも上手い文章とは言い難い物だったが、男を驚愕させるには十分だった。
あなたがこれをよんで、どう考えてどうするかは、ぼくにとってはどうでもいいことなのです。
まずはじめに、キーボードをきずつけてしまうことをあやまっておかなくてはなりません。
ご存じの通り、ぼくのては何かをたたいたり、なにかを持ったりすることがむずかしいです。あなたのようなせいかくな文は書けないでしょう。
しかし、今からいうことは本当のことなのです。
誰かがあなたをだますために書いたものではありません。まぎれもない、ぼくからのメッセージです。
あなたがこの人とけっこんすると知ったとき、ぼくはいやでした。
あなたがこの人を愛していると思えなかったからです。ごぞんじの通り、ぼくはずっとこの人といっしょにいましたから、よく相談あいてになっていました。
かのじょにとっては、人のことばを話せないぼくだけがあんしんして話せるあいてだったのです。
あなたからけっこんを申しこまれたと聞いたとき、かのじょはとてもうれしそうでした。あなたも彼のことを好きになってくれるはずだ、そう言いました。
でも、ぼくはあなたのことをよく知っていました。とても、かのじょを愛しているとは思えませんでした。
ずっと昔、ぼくはあなたに会ったことがあります。とてもきれいなばしょでした。ぼくたちはしあわせにくらしていました。
森とみずと大地がひろがる、美しいばしょでした。
それが、とつぜんあなたが大きなきかいとともにやってきて、つぶしてしまったのです。
みんな、ばらばらになりました。ぼくは逃げて、ここまでやってきました。
そして、かのじょの友達になったのです。
あのとき、ためらいなくぼくらの住みかを壊したあなたの顔を、ぼくは一生わすれないでしょう。
かのじょが体がよわくて、でもお金持ちの人ということを考えれば、あなたがけっこんを申しこんだ理由なんて、すぐにわかりました。
でも、ぼくは人のことばをはなせません。そしてかのじょは、文字を見ることができません。
だからこうして、あなたにはメッセージをのこそうと思ったのです。
かのじょはぼくに、たくさんの本を読んでくれました。てんじとよばれる文字を使って。
ローマじや、ひらがなカタカナもぜんぶ読めるようになりました。
ぼくはかのじょをつれていきます。
どこか遠いばしょで、あなたが壊したぼくのすみかと同じくらい、きれいなばしょで、いっしょにくらすつもりです。
さようなら。
男の額から、一滴の汗が流れた。