うっすらと目をあける。それと同時に刺すような寒気に体が震える。手も冷えて思い通りに動かない。顔にかかる邪魔な前髪をかきわける。髪は濡れていて、全て思い出す。
大波に飲み込まれ、訳も解らず流されて、いまいるここ。ここはどこだ。全く見覚えがない風景。大きな空洞、そして冬よりも酷い冷気。このままいたら凍死しそうなほど。
痛む体を起こす。小さな傷があちこち出来ていた。右手を見れば、手の平に細かい赤い線が入っている。モンスターボールが握れなくなるほど酷くはないらしい。けれどここの冷気が手の動きを邪魔する。
鞄についていた透明な鈴がちりんと鳴った。その高い音が洞窟に反響して幾度も重なって聞こえる。
ここはどこだ。こんなに寒いところ、ミズキは聞いたことがない。吐く息が白く曇る。自分の呼吸音の他に、もう一つ聞こえる。敵であったら困る。ブラッキーのボールを握りしめ、ゆっくりと近づく。
この岩の影から聞こえる。そして強くなる冷気。ミズキは意を決して飛び出す。人影を見つけるも声をかけられない。その人は目の前の大きなものに釘付けになっていた。そしてミズキも。人影が振り向き、小さく名前を呼んだことも気付かない。
巨大な氷。透明な固まりの中にあるのは人間。そしてそれを守るかのように凍り付いている青い彪。ミズキの息が止まりそうになった。その人間と青い彪こそ、時間を越えても探していた人だったから。
「言霊の娘」
その空間に響く声。いくつもの声に聞こえ、ミズキは耳を塞ぐ。
「なぜそこにいる。なぜホウエンに戻ってきた。お前の役目は彗星の封印」
「二度とこの地を踏まないことで完成する」
「ならばお前を消し去るまで」
岩壁が形を作る。固い地面が形を作る。そして目の前の氷から物体が形を作る。未完成の人形のような岩、鋼、氷の体。その見た目に、ミズキはボールを持っていることを忘れていた。言葉を失うには十分すぎる奇異な見た目だった。
「レジアイスの中に封じる。そこを動くなよ!」
冷気が強くなる。冷気なんてものではない。全てを凍り付かせるような風が、レジアイスから放たれる。手の動きがにぶく、握りしめたボールが落ちる。
「刃向かうのか」
冷気が止まった。ミズキの前にはサーナイトが立っている。右腕を前に突き出し、胸の赤い突起を光らせている。
「僕には意味が解りませんが、人を殺してまで守るものなんですか。さっきから聞いてれば、自分たちのことばかりで、平和的に話し合うこともしない。そんな人たちの言うことなど、僕は信じません」
ミツルが命じる。サーナイトの手から青白い火花が散る。ぱちぱちと電気のような音を激しくさせ、レジアイスにぶつける。普通のポケモンならばそれで良かった。おびえるか麻痺してしまうから。レジアイスの体は何ともなく、冷気は弱くならない。
「それだけか。刃向かうには覚悟が必要というのに。巻き込まれたのは申し訳ないと思っていたが、お前も同じく消し去る」
ミツルに刃が向く。レジスチルと名乗った鋼の人形が彼へと向く。サーナイトは目を閉じ、冷静にエネルギーを集中させた。
「ミツル君!」
落としたボールを拾う。そしてサーナイトの隣に投げた。
「アッシュ、ミツル君を守って!」
青い輪模様が特徴のブラッキーがサーナイトの隣に現れる。
「私は負けない。大切な人たちの時間をこれ以上かえてたまるか」
ミズキはブラッキーに命令する。ブラッキーの青い輪が幾重にも光り、レジスチルにぶつける。レジスチルの体に反射し、洞窟全体に妖しい青い光が溢れる。妖しい光を拒否しようと岩の人形であるレジロックが洞窟全体を揺らす。
「消えよ言霊」
揺れにミズキがよろける。ミツルがその体を受け止める。ミズキの鞄についていた小さな鈴が鳴る。ちりんという本当に些細な音だったが、それに反応したのはレジたちだ。
「まさか」
「言霊が、二人に増える……」
聞こえたぞ。
お前も聞こえただろ。
あいつらが来た。来たんだ。
今しかない。今しかないんだ。行くぞ!
レジアイスの背後にある氷にヒビが入る。洞窟が揺れに揺れる。レジたちが焦っているのが解る。特にレジアイスは、ひび割れを直そうと、ミズキたちを見ていない。
「お母さん!」
ミズキが叫んだ。
「スイクン! 起きろ!」
ミツルの聞き慣れない名前を呼んだ。氷のヒビはさらに大きくなる。ミズキの声を合図に、氷の中の彪が吠えた。本当に吠えたのだ。氷は全て吹き飛び、レジたちに突き刺さる。
「氷の封印が……」
「二つの言霊を会わせたからか」
「ちょうどいい、二人を一緒に」
その言葉は冷静さを失っていた。青い彪は目をあけ、しっかりとした足取りで立つ。そしてレジたちをにらみつける。
「お前ら、ただじゃおかねえぞ」
その彪は喋った。後ろにいる少女を守るように立つ。まだ起きない彼女をかばいながらも、レジたちにはこれでもかという殺気を見せる。
「スイクン!」
ミズキが叫ぶ。聞き慣れない声に一瞬だけスイクンが殺気をこちらに向ける。
「……誰だか知らんが、クリスの血縁者か」
「……その通り。これでやっと、そろったわね」
ブラッキーをボールに戻す。そして手に持ったのは二つのモンスターボール。ミズキはためらいなくその二つを開く。凍える洞窟に現れるのは、その場の空気を一瞬にして暖めるほどの熱を持つ獅子。そして雷エネルギーを蓄えた虎。
「遅かったなスイクン」
「まあ、タフなだけある」
「うるせえよエンテイ、ライコウ。俺だってあそこまで凍ってたらさむいわ!」
スイクン本人が言うほど寒そうではない。レジロックの岩攻撃をサイドステップでかわすと、大きく息を吸い込んだ。
「いくぜ、これで3対3だ。今度こそ負けねえ」
再び氷でスイクンをとらえようとするレジアイス。その前にエンテイの炎が立ちはだかる。エンテイをどかそうとレジスチルが鋼の攻撃をする。しかし弾ける電気と共に現れたライコウに邪魔されて届かない。援護しようとしたレジロックの岩を、スイクンのハイドロポンプが撃ち落とす。
「お前、ミズキだろ。この隙にクリスとそっちの子を連れて逃げろ」
スイクンは小声でミズキに耳打ちする。彼女はうなずいた。
地面に降り立つ。もう雰囲気はがらりと変わってしまっていた。夏の匂いがする。今年はすでに終わりそうだと告げられた。もうそんなに時間が経ってしまったのかとため息をつく。
「やはり来たか、歴史の番人よ」
流暢な言葉で話しかけられる。美しいビロードのような毛並みのキュウコンがいた。
「長老!? なんでいるの?」
驚いたような顔で、ふわふわとした妖精はキュウコンを見る。
「ふむ、なぜとは歴史の番人としては愚問であろう。夢幻の予言者が本来することであるからのう」
「それは知ってる。だからなんで長老が代わりを……」
「わしとて変な歴史にされたくないからのう、お主の仕事を少し手伝ってやっただけじゃ。少し前にお主の片割れに会ってきたぞ」
キュウコンは話しかける。少し顔色が変わったのが解った。
「やはりか。お主も片割れも、本当にお互いのことしか考えとらんのう。まあ仕方ないといってしまえば仕方ないことじゃ。これが青春というやつかのう」
「……どこまで知ってるか知らないけど、もう時間が経ち過ぎた。あの時にみたいに思ってるわけない」
「ほっほっほ、全部知っておる。お主たちがホウエンの崩壊を止めたことも、歴史が変わってしまったことも。本来ならば手を出さないべきこと。じゃがお主がそこで消えたことで、歴史に大きなダメージを受けてしまうようじゃからのう」
何を言ってるんだろう。そんな顔でキュウコンを見る。
「今に解るじゃろう。大事なのは今、どうするかじゃ。お主の行動によって救われるのはお主の片割れだけではない。歴史など変わっても些細なこと。きっと正しい選択が出来るじゃろうて。それにわしの背中にいる人間はお主を待っていたようじゃ」
キュウコンの背中にいつからだろうか小さな人間が乗っている。その後ろにはエネコがいた。ふわふわとした毛皮をつかまれて、少しぼろぼろになってしまっていた。
「おかえり!」
そういって小さな人間は飛びつく。手に見覚えのあるモンスターボールを持って。
「はい、これキュウコンさんのでしっていうあおとくろのきつねさんからもってこいって!」
ボールを受け取ると、それぞれの体調をチェックする。あの時より少しみんなたくましくなっていたように見えた。
「シルク、シリウス、リゲル、ポルクス、レグルス、カペラ。久しぶり、元気そうね」
主人から名前を呼ばれ、嬉しそうに反応する。特にギャロップは角を振って前足を動かして。
「時間がない。行こう」
声をかけられ、黙ってうなずく。チルタリスの翼が夏の空に舞った。キュウコンはそれを見送ると、九つのしっぽにからみついている人間に声をかける。
「これ。しっぽで遊んではいかんぞ」
「えー!? だってキュウコンさん、あのもふパラのモデルのキュウコンさんなんでしょ? あおくろきつねさんがいってたよ! ねえ、うちのポケモンになってよ!」
「ほう、もふパラを知っておるか、その年で。その気持ちは嬉しいが、わしはまだ行かなければならん場所が多くてのう。また遊びにきてやるぞい、予備のヒトガタよ」
「わーい! んじゃ、エリスちゃんのサインもらってきて!」
「ぬう、エリスか。聞いておいてやろう」
やっとしっぽから出て行く。約束だよ、と手を振る人間にしっぽを揺らした。そして一気に風のようにかけていく。