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キュウコン本「社の雨」に乗せてそろそろ1年弱。
縦書きを横書きに直すのが面倒だったので、特に編集せずに文庫版の物を引っ張ってきました。ポケモンハードSF? な作品ですが、読んでいただけると幸いです。
※全角スペースだった所が半角スペースになってますが、心の目で全角スペースと認知して読んでいただけるとさらに幸いです……。
プラス、修正前のものを載せていたので修正させていただきました。ご迷惑をおかけしました
第六惑星のナインテール
1
輪っかのかかった惑星。土星。
うちらの故郷の惑星の地球とは違う。
もっとも、うちがこの土星の衛星タイタンに着いてから二〇〇年。うちや寿命の長いポケモン以外は代替わりしていてここが故郷になっている。重力は地球の一/七しかないこの環境も、二〇〇年生活していると慣れ親しんで、地球と同じ一Gのスペースセツルメントに仕事で行くと体が重くてしょうがないという事に皆なる。
土星圏に住む人類は一五〇万人。対して、ポケモンは四〇〇万匹。ほとんどの人類もポケモンもタイタンに住んでいる。そして今、タイタンではスペースセツルメントの建設ラッシュが始まっている。人口一〇〇〇万人単位で人を収容できる円筒形状の構造物を、一気に五〇基作り上げようというプロジェクト。これは、今後二〇年で計画されている第二次土星移住計画の一環。すでに一号基と二号基は外観が完成していて、互いを連結する事で人工重力を生みだしながらもジャイロ効果を打ち消す段階まで進んでいる。次のステップは内部の環境づくり。まだ、遠心力で重力は生みだしていても、中は真空状態なので建造物を作りながら、大気循環を整えて植物相による大気組成の補助を計算した上で街づくりをしていく。
うちら第一次土星移民団は長期計画に基づいて、第二次土星移民団の受け入れをする為に二〇〇年間タイタンで準備を進めてきた。
衛星タイタン。土星の衛星の中で最大の大きさを誇る。そして、地球をも超す厚い大気を持っている。ただ、うちら地球からきた生物は宇宙服なしではタイタンの地表を歩けない。大気の組成が地球と違うから。窒素と若干のメタンの大気。そして、メタンの雨。
何かしらの生物がいるんじゃないかという期待が昔から囁かれていたけど、アメーバ一つ見つかってない。
そんな星に第一次土星移民団は八回に分かれて到着した。
うちが乗ってきたのは、第一次土星移民団第三梯団の移民船。第一次梯団と第二次梯団の移民船は、そのままタイタンの地表で解体されて都市の建設資材になっていた。第三次梯団の移民船の半数は前の二回と同じ運命を辿って、残り半数は地球へ戻る科学者や、今まで集めたサンプルを乗せて地球に帰ってしまった。見ての通り、ほぼ片道切符だった。
うちは、キュウコン。うちは地球で第三次梯団のプログラマーの一家に預けられたキュウコン。何で預けられたかっていうと。この第一次土星移民団のほぼ全員が、何かしらの技能取得者で占められていて、ポケモンも人間に従順。もしくは、人間と意思の疎通が可能、人間の作業の補助ができる。この点に絞られて集められたポケモン達だったので、それぞれの仕事に合わせて各家庭に預けられた。
うちは、そこの家庭で「クリスティ」という名前をもらった。どうやら、タイタンを発見した人の名前からとったらしい。でも、考える事は同じなのか、地球で支給されたポケモンやタイタン生まれの第一世代に「クリス」が入っている子が多くて、ややこしい事になっている。まあ、それもご愛嬌って事で、タイタンには「屋号」が復活していた。大抵、苗字じゃなくて屋号で、「五本辻のクリス君」とか「大島屋のクリスティーナ」とか呼び合っている。
話は逸れちゃったけど、うちはそんな感じでタイタンに来た。今も、この一家の家に居候しているけど、本当に居候しているだけ。この星に来た時は、プログラマーをしていた「お父さん」の手伝いとして、言われたものを取りに行ったり運んだりをしていた。うちらキュウコンは人の言葉を理解できるので、軽作業の手伝い要員として選ばれていた。そのうち、「お父さん」が亡くなって子供達はそれぞれの仕事についてしまった。うちは、「お父さん」の勤めていた空調管理所に残ってもよかったけど、別の仕事の募集があったのでそれに応募してみた。
それが、今勤めている図書館。
場所は、タイタンの赤道付近にある首都『ホイヘンス市』の官庁街。ホイヘンス市を覆う与圧ドームの中心部に官庁街はあって、うちの居候している家からも近い。
仕事の内容は図書館司書の補助。書架の整理や司書に依頼された本を探してくる。それで、うちはお給料をもらってそれで自分の食い扶持は得ている。土星圏にいるポケモンの半数はこうやって、誰か人間と共に暮らしながらも自分の食い扶持は自分で稼ぐ事が当たり前になっている。
ただ、どうして“人間と共に暮らす”かというと、これは人間側の事情。ここではポケモンも人間も所在だけはしっかりと管理されている。特にポケモンは人間の庇護のもとにいないと保健所行き。どうしてって?
いくら人間と共に活動できる基準のポケモンでも、野生化したらどんな被害を出すか分からない。特に与圧ドームの壁が破られる事があれば、ここの住人は窒息死してしまう。
他にもポケモンに関しては制限事項が多い。その点は仕方がないとうちは思う。いざとなれば、ポケモンは人間の科学力に屈してしまうけど、暴れたポケモンの破壊力は通り過ぎる強烈な台風と変わらない破壊力をもたらす。だから、ポケモンも自立して収入があったとしても、人の庇護のもとにいる事を証明しないといけない。
ただ、ちゃんとうちらポケモンに対する配慮もある。人が一五〇万人もいれば色んな人もいる。辛く当たられるポケモンもいない訳じゃない。そういうポケモンがいれば、政府が責任を持ってポケモンの保護をし、新しい庇護者を見つけてくれる。
それが、衛星タイタン。
2
『字引きのクリスティ』
これは、うちの渾名。家の方は家で屋号があるのだけど、図書館に勤めてからそう呼ばれている。年の功は伊達じゃないって事だと思うけど。館長に「お前が人間なら、俺はクビだよ……」とボヤかせてしまってから、じわじわ街中に浸透してそう呼ばれてしまった。
朝起きるとまずする事、昔は人間の事を知りたくて新聞を読んでいたけど、最近は仕事の勉強の為に本を読んでいる。今後の為に、資格を取ろうと思っているから。
今の待遇でも全然構わないけど、趣味も兼ねてのもうちょっとランクアップを目指している。取る資格は、「司書補助士一級」。これはポケモンが取れる司書の資格の中で最上級。うちは今、二級を持っている。この際だし、一級を目指そうという訳。まあ、一級になれば給料も上がるけど、仕事の幅も増えるからね。取っておいて、損はないと思うんだ。
という訳で、今朝も家のみんなより先に起きて居間で『司書の手引き』の参考書を読み直している。これは何度も読んでいるから復習の範囲だけど、一番の難関は小論文。テーマが自由というのが困りもの。意図は分かるんだ、うちらポケモンの論理的思考力を測る為にあえてテーマを自由としていると……。
そんな訳で、うちは初心に帰って『司書の手引き』を読み直している。
「論文のテーマどうしようかな?」
思わずそんな独り言も出てしまう。
「姉ちゃん、まだ悩んでるの?」
遅れて起きてきた、この家の同居人であるプクリン。彼はこの星で生まれた第八世代に当たる。さすがに第八世代の人間の子供や、ポケモンは『クリス』の名前を受け継ぐ子は少ない。この子も名前は『アレックス』と、いたって普通な名前をもらっている。
「そうね。例年の合格者の傾向からすると、多少奇抜な答案じゃないといけないから……。うちはそういうの苦手だしな……」
「まあ、姉ちゃん頭固いしね……。ママさんとかに相談してみれば?」
「そうしよう」
ママさんとは、この家のお母さん。『サチヨ』さんという名前で、アレックスの一つ前の第七代の子。他にもこの家には、パパさんの『マホメド』さんと、第八世代に当たる娘の『マリカ』。あとは、付き合いの長い第六世代のお婆ちゃん『クリスティア』が住んでいる。ポケモンだと、うちとアレックスに、家庭内でポケモンと人間の通訳をするポリゴンの『カクバル』も家族の一員。
ママさんこと、サチヨさんは地球に留学した事もあるかなりのインテリ。タイタンに帰国してマホメドさんと結婚してからも、この街の私立大学で非常勤講師として教鞭を振るっている。専門学は野生生物学。全てが人工のこの街においても、野生とついてしまうものは少なからず生息している。代表格はネズミ。こればかりは、人間が行く所には何処であろうとついてきてしまう。あとは、ゴキブリなどの虫といった類。これも、どうやってもうちらにくっついてきてしまう。それらが、人工物の空間で共存していくというのをテーマにサチヨさんは研究を続けている。
ママさんに相談か、何かヒントでも出てくるかな?
仕事に行く前に、マリカの学校のお弁当と、マホメドさんと自分の分、そしてうちの弁当と四つの弁当を作ってくれて、朝食の準備も欠かさないママさんは本当に出来る女性だと思う。普通は、こうも出来る人はそうそういないんじゃないだろうか?
朝の忙しい時に相談するのも悪いから、『夜相談したい事がある』とカクバルに伝言をお願いした。
「いいわよー!! もし午後暇なら、研究室に来てもよいから!!」
あっという間に、ママさんからの返事が台所から響いてきた。
『じゃあ、一五時過ぎに伺いまーす』
うちは台所に叫び返す。人間には何を言っているか分からないポケモンの声でも、ポリゴン達がいれば翻訳に困る事はない。今では、知能が低いポケモンでもなければ大抵は会話が成立する。
「はいはい。待ってるー!!」
という訳で、アポが取れた。
朝食を早々に済ませると、家事をするアレックスとカクバルを残して、仕事へ学校へとみんな家を出る。
『いってらー!!』
アレックスの元気な声に送り出されて、うちらはそれぞれの目指す方向へ別れる。うちは、歩いて官庁街の方へ向かう。
官庁街も含め、この街の乗り物は全て電動式。なぜかというと、広いとはいえドーム空間内で化石燃料を燃やしたら、あっという間に空気浄化設備の限界を超えて一酸化炭素中毒でみんな死んでしまうから。これは、建設済み建設中のスペースセツルメントでも同じ。どうしても馬力が必要な物は水素式エンジンを使っている。酸素を消費するのは仕方ないけど、生成される水は電気で分解する事でまた酸素と水素に戻す事ができる。そのために必要な電力は、タイタン周辺の宇宙空間に浮かぶ太陽電池からマイクロウェーブで送電されてくる。
限定された空間だからこそ、地球以上に環境について考えないといけない。これはうちらがここに『ホイヘンス市』を建設した時からの生存上の課題。小論文のテーマも、環境についてでよいかな?
でも、手垢がついてそうだしな……。仕事中に、余裕があったら論文検索でもして確認してみよう。
官庁街は、商業区に比べると朝の人通りも少ない。非常時の為に政府機関は、複数の都市に分散しているせいもあるけど、今はスペースセツルメント建設のために出張で宇宙に上がっている公務員が多いからなんだろう。
まあ、おかげで仕事場の図書館は閑古鳥が鳴いている。何しろ官庁街にあるっていうだけあって、法律や政策に関する本を中心に収蔵している。そのせいもあって、一般の人が本を借りに来る事はあまりない。
従業員口のセキュリティで、左前脚に埋め込んだICチップをかざすと認証されて扉が開く。このICチップはセキュリティだけでなく、人もポケモンも個人を特定する物として、生後すぐに腕か前脚に埋め込まれる。これがあるおかげで、買い物も交通機関の乗り降りも家の鍵の開け閉めも何でもできる。
従業員口から中に入って、個人ロッカーに荷物を詰め込む。職員である証のスカーフを、四苦八苦して首に巻くと準備完了。
『おはようございます』
図書館のカウンターに入ると人間の司書が二人と、ポケモンが三匹くつろいで座っている。
「おはよう。勉強は進んでいるかな?」
くつろいでいる人間の一人。ここの館長さんに挨拶がてら、聞かれてしまった。
『まあ、まあまあです。うちに残っている課題は、小論文です』
「あれは毎年、受験者を叩き落すための科目だからね……。対策は練っているだろうけど、奇抜過ぎても駄目だからね」
館長さんはお茶を飲みながら、軽い感じで言ってくる。あまり心配はされてないみたいで、ちょっと複雑な気分。まあ、小論文以外はうちと館長さんで模擬テストと模擬面接を何回も繰り返して、手応えはあるから心配されてないんだろうけど。
『あー!! おくれましたー!! すいません……』
始業開始ギリギリに飛び込んできたのは、うちと同じポケモン職員のカイリキー。
「よし、遅刻の常習犯もきた事だし。業務開始といくか」
館長の一言で、うちらはそれぞれ仕事にかかる。
いま、うちが担当しているのは書籍のデータベース管理。まあ、その中には論文の管理も含まれている。うちはまず、図書館が開館する前にネットで予約の入っている本と論文を手配する。本の方は、返却されていない本があった場合は、直接利用者にメールで催促をして、新刊の場合はデータか紙媒体の本かどちらかを手配する。
出版社が土星圏にあればすぐ手配できるけど、地球にしかない場合は問屋を通してデータを送ってもらう。利用者から紙媒体を求められたら、ホイヘンス市内の印刷所に製本を依頼する。
論文に関しては、総合的なデータベースが地球にあるのでそこに問い合わせをする。ただ、惑星間の通信は惑星の位置にもよるけど、分単位、数時間単位で問い合わせに時間がかかる。なので私は、問い合わせの多い論文は論文の管理者に問い合わせて、この図書館でデータベース化させてもらっている。
3
今日も、開館前に予約の処理を済ませてしまう。返却期限が切れた本の借り手にメールを送信して、あとは予約が殺到している本に関して、先着順に貸し出し許可のメールを出す。
最近の貸し出しの流行は、役所の人達からの問い合わせの多い宇宙空間での建設管理業務の法令集。ほかには、建設作業員の宇宙線による被曝回避の防護マニュアルなどの専門書や実用書。
次いで多いのは、今は六月の終わりで、八月の夏季休業にあわせて旅行にでも行くのか、木星圏や小惑星帯の観光地のガイドブック。こっちの方は民間人からの問い合わせが多い。
『今年の最新ガイドブック、発注するかな?』
出版社から送られてきたダイレクトメールを確認しながら、発注をするか悩む。発注するといっても、うちが発注したい旨を館長か司書の主任に確認してからになるけど。
『正直、毎年代わり映えしないんだよね……』
「リクエストはきているのか?」
館長が私のディスプレイを覗き込む。
「大して来てないなあ……。もう少し様子見でいいだろう。バカンスシーズンはもう少し先だ。ほっとけ」
そう言い、勝手にディスプレイの画面から、メールボックスを閉じてしまった。
「それより、どうせ今日も暇だろうから手が空いたら小論文の題材でも探しておけ」
『じゃあ、そうさせてもらいまーす』
という事で、忙しくなるまで書架の管理を同僚達にお願いして、うちは小論文の題材になるようなものがないか探し始めた。
『遠隔地間での書籍情報の共有』
『近似的要素を含む作品の著作権所有者決定裁判の判決事例』
『国連文化事務局年次報告書から読み解く十年計画』
うちの興味を引いたのは、この辺。ただ、一つ目はこの内容で多少奇抜な物を求められても難しい。
二つ目は、人類が太陽系中に散らばった為に起こるようになった裁判に関する事。ありとあらゆるデータのやり取りに分単位、時間単位のタイムラグが生じる。書籍に限ってしまえば、ほぼ同一と思える内容の本が別々の星で出版されて、しばらくして内容がかぶっている事に気がついたそれぞれの作者が裁判を起こす。そんな事が近年増加しているので、判例集や対策マニュアルなどが登場してきている。この問題に対する、解決策を提示する小論文もいいかなと思う。この話題は小論文の候補として高い。
三つ目は二つ目とかぶるところも多いけど、国連で文化事業の書籍に関する部分の十年計画について読み解いて、今後の出版業界のあり方について考える小論文にすればいいか。
というところなんだけど、正直うちの目から見ても奇抜さを出すというのは難しい気はする。
結局、奇抜さってなんなんだろう?
試験の小論文は配点比率が高いせいか、過去の模範回答なんかは出回らないし、合格者にも箝口令が敷かれていて内容が漏れ伝わる事がない。だから余計に頭の固いうちみたいなポケモンは、頭を抱えてありきたりな論文提出で落とされる。
正直、柔軟な思考って難しい。
お昼。うちのシフトは一三時までだから昼休憩は無し。なので、昼休憩をみんながとっている間に、同じシフトのサーナイトと二匹でカウンターに座って仕事している。意外とお昼ってこの図書館は混み合う、昼休憩時間に本を借りに来る公務員の皆さんがやって来るから。
「暇だね」
「うちら、いらなくない?」
さっきから、サーナイトと同じ会話しかしていない。一応、水曜日の平日なんだけど。まだ出張で宇宙に上がった人達が、帰ってきてないのもあるのかな……?
「帰ろうか?」
「早退しようか?」
欠伸しつつも、やる事がない訳じゃないから、視線をカウンターのディスプレイと図書館全体と交互に動かしながらデスクワークを片付ける。隣のサーナイトも同じように、自分の仕事をこなしていく。
彼女は、うちと同じ図書館司書の補助の仕事と、保安の仕事も請け負っている。彼女はこの星の生まれの第八世代。地球生まれの、うちから見ればひ孫みたいな感じ。ただ、キュウコンという種族が長寿なせいか、うち自身あまり年の差というのを気にはしてない。うち自身まだ若いつもりだし。そんな訳でか、ひ孫みたいなこのサーナイトとは親友のような感じになっている。そんな彼女も、うちに対して気安く接してくれる。
「クリスティは一三時上がり?」
「ナナコも一三時でしょ」
「そうなんだけど、仕事の後暇?」
「あー、ごめん。ママさんと一五時から約束があるんだ……」
「ありゃ、ごめん。じゃあ、また今度」
ナナコことサーナイトは、残念と少しため息を漏らすと仕事に戻ってしまった。何か相談事でもあったのだろうか?
今晩、電話してみようかな?
4
『お先、失礼しまーす!!』
「図書館で大声出すなー!!」
いつものやり取りを終えて、仕事を上がると休憩室で遅めのお昼を食べる。一四時までにはここを出ないといけないから、急いでお弁当を食べる。
ママさんの働く私立大学は、官庁街から離れた与圧ドームの外周区の側にあるので、地下鉄で一時間弱かかってしまう。急がないとママさんを待たせてしまうので、食事も早々に切り上げて、カバンを背負うと駅まで急いで向かっていく。
基本的に与圧ドーム内の移動は地下鉄か、路面電車にバス。後は自転車に歩きが主流。電気自動車も走っているけど、交通網は公共交通機関がホイヘンス市内を網羅しているので、自家用車で移動という概念はあまりない。そんな、タイタンの各都市間の移動方法は軌道エレベーター。ただ、軌道エレベーターは赤道上にしか設置できないので、基本的にタイタンの都市は赤道上に存在している。それ以外の場所になると、航空便が飛んでいる。飛行機ももちろん電動式。こっちは水素エンジンの飛行機はない。何でかっていうと、大気中のメタンガスに引火したら、大惨事になるので静電気による発火もご法度。静電気が発生しそうな場合は、航空便はすぐに欠航になる。だから、あまり軌道エレベーターを使わない赤道外の都市は多くない。
小論文の事を考えながら四六時中過ごしていると、どうしても無駄にタイタン開拓史を反芻してしまう。ただ、思い返してみるというのも復習にはなるのかなと思いつつ、駅の改札をくぐる。
ちょうどホームに入ってきた南北線に乗れた。あとは南駅で外回り線に乗り換えてしまえばいい。そのまま、何気なく地下鉄の路線図を眺める。外回り線、内回り線、南北線、東西線、新外回り線、新内回り線、軌道エレベーター線。市内に張り巡らされた、地下交通網はざっとこんな感じ。地上は地下より複雑な交通網になっているからなんとも説明しがたいけど、この街の構造的に道という道は街の中心部から放射状に伸びていて、それらの道は円を描く環状線で結ばれている。そして、要所要所を結ぶバスや路面電車が走っている。
地下鉄で一番新しいのは軌道エレベーター線で、東西線の西駅で乗り換えてドーム外に作られた軌道エレベーターの基部まで伸びている。そこから先は、軌道上から吊り下げられているエレベーターでステーションへ登ると、各軌道エレベーター行きのリニアに乗り換えるか、宇宙船に乗り換えて土星の衛星軌道を回る人工構造物の『土星港』に行ける。
『土星港』は第一次移民団の第一梯団が母船として使っていた大型移民船を母体に、年々拡張を繰り返して、外航航路の主要基地となっている。ここから地球や火星、木星などへの外航船や、建設中のスペースセツルメント群へのシャトル便が出ている。うちは土星港自体この一〇〇年ほど行ってないから、最近の充実っぷりは噂でしか聞いてないけど、一大娯楽施設としての機能もあるらしい。昔は、本当に寂れた田舎の空港って感じだったんだけどね。
さてさて、そんな事考えていたら南駅に到着。そのまま乗り換えて『タイタン科学技術大学駅』で下車して、名前の通りの『タイタン科学技術大学』の校門をくぐればママさんの所にたどり着く。
タイタン科学技術大学は、私立大学としてタイタンに最初にできた大学。最初は、技術者速成の専門学校だったけど、社会インフラが充実してきた頃に大学となり長期的な研究をする機関という事で私立大学として発足した。
うちのママさんもここの卒業生で、院に関しては先端学問を学ぶ為に地球に留学したけど、帰って来てから後進の学生を相手に教鞭をとっている。
校門をくぐると、セキュリティの警備員に用件を告げて、構内に入る仮のIDを発行してもらう。それを左前脚のICチップにダウンロードして終了。今日一日は校内を好きに移動できる。
何度か来た事があるので、そのまま正面玄関から建物の中に入って、セキュリティゾーンの研究棟に、発行してもらったIDを使って入る。研究棟と大仰な名前が付いているけど、研究と称して実験など大掛かりな事をするような、大きな研究室は大抵独自の建物を持っているので、ここはママさんの様な非常勤講師の控え室兼個人資料室的な場所になっている。まあ、ママさんの研究テーマみたいにフィールドワークで済む様な場合は、図書館も近いここの研究棟の方が勝手がよいという事らしい。
物理学や化学の実験を伴わない研究室もここに集まっている。階段を上がって、廊下を歩いてすれ違う学生達に声をかけられたりしながら、ママさんの研究室に向かう。
ドアフォンに脚のICをかざしてベルを鳴らす。
『失礼します!!』
自動ドアが開き、中から防虫剤の微かな匂いとコーヒーの匂いが漏れ出てきた。
「いらっしゃい」
いつもと変わらないママさんの声だけど、どこか凛とした感じがする。場の雰囲気なんだろうかな。
勧められるままに室内に入る。中は虫の標本や動物の剥製、分厚い博物学関係の本が戸棚に綺麗に並んでいる。ただ、来客用の応接セットとママさんの机は資料の本や、論文のコピーや、メモに書きかけのノートとかで埋まってしまっている。そんな状態でも、コーヒーカップを置く場所だけは作って、パソコンと向き合っている。
「ちょっと待ってね。レポートの採点がもうすぐ終わるから」
仕方ないので、室内の標本や剥製が収められている棚を眺める。標本はママさんが地球で採集してきたものもあるけど、ほとんどはタイタンにいつの間にか潜り込んできた虫達。剥製の方もネズミが主体だけど、いつの間にかタイタンに居ついている小動物達。全部、ママさんが標本や剥製にして保存している。この部屋の防虫剤の匂いは、標本や剥製に虫がつかないように戸棚に防虫剤が置かれているから。戸棚が閉めてあるから、そこまで強烈な匂いじゃないけど、ガラス戸を一つでも開けたら卒倒するにに違いないなあ。
「はい!! おまたせっ!!」
ぼーっと、ネズミの骨格標本を眺めていたら、ママさんに声をかけられた。
パソコン越しにこっちに顔を出して、ママさんがうちを見ている。
「司書学の小論文にするの?」
ママさんに『小論文の題材を司書学について』でどうかと単刀直入に聞いてみる。そうしたら、返ってきた返事は前述の通りだった。
『ありきたりですかね?』
「悪くはなさそうだけど、ちょっとインパクトに薄いかな?」
ママさんはコーヒー片手に一緒に考えてくれている。
自分のデスクに腰掛けたままのママさんは、天井を見上げて何事かつぶやいている。うちは、その様子を応接セットの机に置かれたお菓子をつまみながら見て待つしかない。
「そうね。今度の土日仕事ないよね?」
『はい』
「よし。じゃあ、私の出張に付き合って。いい参考になると思うわよ?」
『出張?』
ママさんは壁に貼ってあるカレンダーを指差す。
「そう。建設中のスペースセツルメントに出張。多分、あなたの目からウロコが落ちるわよ……」
なんだか含みのある言い方だったけど、特に断る理由はないし。うちは、ママさんの出張についていく事にした。
その後は、出張の内容を教えてくれなかったけど、ママさんが最近市内で見つけたネズミと虫の話をしてくれた。ここ二〜三年で急速に広がってきたらしい。どれも、地球からの貨物や、客船にくっついてきたのだろうと。土星港ではその七〜八年前から、木星では一五年前から見られるようになったらしい。地球の生き物達は徐々に人の手を借りて外の世界へ旅立っているという。人の手を借りていても、人の管理を受け付けない生き物達は脅威となるのか? それとも良き隣人として共存していくのか? ママさんはその事がどう影響するかそれを今も追っているという。ただ、年々新参者が参入してくるので、この小さな生態系の変化は激しいみたい。
上位種は常に移り変わって、先が読めない。そこがまた面白いという話だった。
二時間ほどママさんの講義を聞いて、そのままママさんと帰宅した。
5
その晩、うちはサーナイトのナナコに電話した。
一コール、二コール、三コール……。
「もしもし? クリスティ?」
「遅くにごめん。あと、昼間ごめんね?」
寝ぼけた声がしたから寝ていたのかもしれない。
「ああ、大した事じゃないけど、ちょっと小耳に入れた事があって。サチヨさんなら何か知ってるかなって?」
「ママさんが? 何で?」
ちょっとした間。
「ん〜。私の家、建設局で働いてるでしょ? で、小耳に挟んだんだけど。建設中のスペースセツルメントに地球から新しい管理局長が来るって話」
「何かママさんと関係あるの?」
電話の先で、軽く溜息が聞こえた。
「仮にも司書なんだから、新聞読んでるでしょ? 月で起きた事件」
月? 月? 確か、この前野生化したポケモンが与圧ドーム内で暴れて、非居住区の隔壁が破られたとか?
「野生化ポケモンが暴れた事?」
「そう、それ。それで、地球から来た管理局長がサチヨさんに、何か諮問するって話だけど?」
「聞いてないな? でも、うち。今度のスペースセツルメントの出張に、付き合う事になったなあ」
でも、それが、ナナコに何の関係があるのだろう?
「じゃあ、もしサチヨさんからなにか聞きだせたら教えて。何でも、管理局長は、ポケモンの行動に関する決まりを厳しくするために来たって話だから」
「へえ」
今度は、電話口から思いっきり溜息が聞こえた。
「暢気ねえ……。まあ、とりあえずお願いね」
「ん〜。うちでよければ聞いておく」
確か月はあまりにも人もポケモンも増えすぎて、人間のもとから逃げ出したり、人間が捨てたりしたポケモンが社会問題になっているんだっけ?
資料になりそうな物を、ネットワークから探す。
月への移民は、うちら土星への移民が始まるさらに一〇〇年前にはじまった。地球に近かったせいもあったのと、宇宙空間でもポケモンとはうまく活動できるだろうという楽観論が混ざって、人間達は地球にいる感覚でポケモンと暮らしていた。
月にジムが建設されたり、ポケモンリーグが組織されたり。野生のポケモンが街中をウロウロしたり。ポケモンの育て屋が血統書付の強い個体を売り出す中で、使えない個体を勝手にその辺に捨てたり。そういったポケモン達が人知れず増えていった上に、トレーナーが求めるポケモンは大抵強いポケモン。個体としては弱くても、種としては強いからバトルという物を抜きに考えると危険極まりない存在となっている。
そんな歴史があって、つい最近といっても半年前だけど。いつの間にか成長して、進化を繰り返していたガブリアス達が見つかって保健所が駆除に乗り出したものの、腐ってもガブリアス。しかも一〇〇匹近くもいたという事で、大捕物になって月のある街の隔壁が破壊されたって。そんなニュースがあった。
それで、対策にママさんがスペースセツルメントに出張ってなったのかな? 明日聞いてみるかなあ?
6
結局のところ、ママさんからあまりはっきりとした返事はもらえず。
「まあ、ついてらっしゃい。お友達には帰ったら詳しく話せばいいしね」
と、はぐらかされてしまった。
ナナコにはひとまず土日の出張から帰ったら話をするという事を話して、もやもやする木曜日と金曜日を過ごした。そして、金曜の夜に荷物を持ったうちとママさんは、軌道エレベーター線でホイヘンス市の軌道エレベーターに向かっている。
軌道エレベーターを見上げると、地面から巨大な塔が上空に伸びている様にしか見えないけど実際は逆。軌道エレベーター自体は地上と接していない。軌道上からこの塔の様な建造物が、地上すれすれまで垂れ下がっている。だから、一言でいうと、地上すれすれの場所で浮かんでいるなんとも不思議なものなんだけど、何で浮いているかは遠心力とか色々な要素が絡んでいるから、専門外のうちにはよく分からない。人が乗り降りする時だけ一瞬、扉の渡し板が星と接するぐらい。
タイタンは日常をつつがなく過ごしているけど、この土星圏は只今スペースセツルメントの建設ラッシュ中なので、土日を利用して自宅に帰る人達が、軌道エレベーターを使って宇宙から降りてくる。そんな帰宅ラッシュをよそに、うちとママさんは人混みを逆流して軌道エレベーターの搭乗口へ向かう。
ホイヘンス市の軌道エレベーターは三〇分に一本の頻度で運行している。
与圧区画の搭乗口で他の利用客と待っているけど、週末のこの日この時間に宇宙に上がろうという人は少ない。搭乗口の窓から外を眺めていると、タイタンの分厚い大気の向こうに太陽光を受けて微かに光り輝く土星が見えた。そして、上空に浮かぶ雲を突き破って軌道エレベーターの昇降機が降りてくる。
軌道エレベータの基部まで降りてきた昇降機は渡し板が繋がれて、搭乗口のボーディング・ブリッジが伸びる。まず、降りる乗客が退場ゲートに向かう。搭乗口で待機中のうちらは、昇降機内の清掃、安全点検が確認されてから中に通される。
昇降機の中は閑散としているけど、そのおかげでゆっくりと寛いで過ごせた。
気密の為に窓がないから、壁に設置されたモニターを眺める。モニターには現在高度や、外の様子、軌道ステーションでの乗り継ぎ便の情報やニュースが代わる代わる紹介されていく。
しばらく待っていると、ズンッと潰される様な感覚を感じて、そのままモニターの高度表記が上昇を始めた。徐々に加速をしていくので、それに合わせて体感的なGも大きくなる。ただそれもしばらくして、加速に体が慣れてくると体にかかっていた重みから解放されていく。うちは、荷物を降ろしたような感覚にホッとして。床に伏せて丸くなる。軌道ステーションまで一時間ちょっとだから、眠っていこう。
うとうとしつつも、徐々に体が重力から解放されていく感じがしてきた。久々の宇宙。ずっとタイタンにいたからこの感覚も懐かしい。
「クリスティ。着いたわよ?」
いつの間にか眠ってしまっていたのか、天井にくっ付いていたうちをママさんが引っ張って降ろしてくれた。まあ、宇宙空間には上下の概念がないけど、平面空間で生きてきた地球の生物には擬似的にでも上下が必要な訳で。宇宙に上がる時はしっかりと自分で上下の概念を持ってないと、脳が混乱して酔ってしまう。
ひとまず、床と天井を把握してママさんと昇降機を降りる。
通常だと、このまま土星港行きの出発便ロビーに行くのだけど。今回は、スペースセツルメント建設作業員達が一時帰宅の為に乗って来たシャトルがある。なので、そのチャーター便に乗せてもらって、建設中のスペースセツルメントに向かう。うちとママさんは、チャーター便のロビーで手続きを済ませて、チャーター機に乗り込む。チャーター機内は無重力なので、磁力靴を履いてふわふわ浮かび上がらないようにしないといけない。
この後は、八時間のフライトになるので、現地到着は翌朝の予定だからもう一眠りしていこう。チャーター便の同乗者達も同じ考えなのか、みんな毛布を体に巻きつけて眠り始めた。ただ一人、ママさんだけは何かの資料をじっと見つめて、時々ペンで何かメモを書き付けていた……。
7
『間もなく本機は“スペースセツルメント一号基”発着場に到着します。減速の加重に備えてください』
音量大きめの機内アナウンスで目が覚めて、座席のモニターにシートベルト着用のサインが出ているのに気がつく。うちは慌ててシートベルトを締めるけど、人間用のシートベルトがどこまで役に立つのかは正直分からない。
ママさんはすでにシートベルトを締めて、座席のモニター越しにだんだん大きくなってくるスペースセツルメントを見ている。
直径六キロメートル、全長三〇キロメートル。それが二基直列に繋がっていて、ジャイロ効果を打ち消すために一方は時計回りに、もう一方は反時計回りに回っている。
『大きい……』
あまりの規模に、思わず単純な感想しか出てこなかった。
「そうね。この一つに人口八〇〇万から、一〇〇〇万人の住人が住むんだから。二つ合わせて二〇〇〇万人弱……。見て、今は真空だけど。空気タンカーが集まってきてる。近々、気密試験と空気注入が始まるのね。その後は、植物相と生態系の調整をして建物を建てて、地球に溢れかえる人々を受け入れる。火星でも、木星でも同じプロジェクトが進められてるけど、はるばる土星まで人間は何しに来るのかしらね……?」
ママさんが言うように、空気タンカーが大小数十隻スペースセツルメント一号基と二号基の周りで漂泊している。そして、見える範囲では、何基ものスペースセツルメントの骨組みが形作られている。第二次移民団は5億人。タイタンは第二次移民団が来ると、その役割の大半をスペースセツルメントに譲って、小さな衛星都市圏として余生を過ごす事になる。
それが二〇年先まで迫っているなんて想像がつかないし、今タイタンに住んでいる人口の三〇〇倍以上の人間が押し寄せてくる事も想像がつかない。土星圏はどうなってしまうのだろうか? それよりも、愛着のあるタイタンは寂れてしまうのだろうか?
「さてと、仕事終わらせて、さっさと帰りたいわね」
『管理局長との会談?』
「そう。まあ、クリスティを誘ったのも、小論文の題材にいいかなっていうのと、私のサポートして欲しかったていうのもあるしね」
『サポート? 何すればいいの?』
シャトルが逆噴射を始めて、減速に伴う反動が全身を前へ押し出そうとする。
「大した事じゃないから、いつも通りにね!!」
『はあ?』
あんまり多くを教えてくれないママさんに苛立ちを覚えつつも、初めて訪れるスペースセツルメントにうちは釘付けだった。モニターいっぱいに広がる建造物に、ぽっかりと空いた穴が入港口だった。減速しながら徐々に入港口に近づく、画面いっぱいの建造物はもう全容を捉えられない。
ガイドビーコンにの流れに乗って、シャトルは土星圏最大の建造物の中に入った。入ってすぐに、ロボットアームに掴まれてドッキングハッチまで引っ張られていく。そして、ドッキングハッチに接続されると、扉のロックが解除されて乗客達はシャトルの外へ出て行く。うちとママさんもシャトルを出て、仮の到着ロビーに案内される。港の周りはすでに空気が入れられていて、空調も整っているみたい。
「さてと、一流ホテルはないけど。泊まる部屋は用意してくれているから、荷物を置きに行きましょう」
ママさんが手にしたスマートフォンの案内を見ながら、作業員区画の貴賓室まで歩いていく。建設中とは言え既に回転する事で人工重力が生み出されている。もちろん地球の重力に合わせて一Gで。久々の重力感覚に体が悲鳴を上げているけど、タイタンの住民は、人もポケモンも一定以上の筋力を維持する事が健康診断で決められているので、そこまで苦にはならない。けど、荷物が重く感じてしまう。
普段はここで建設作業なんかをしている人達が寝泊りする場所だけあって、設備はちゃんと整っている感じがするけど今は閑散としている。みんな、タイタンに帰ってしまっているからかな。
貴賓室といっても、多少他の部屋より広くて調度品が整ってるだけで、確かにホテルと比べるものではないなあ。窓もないし、ちょっと大きめのテレビが一台と保安センターにつながる電話が一台。
うちとママさんは荷物を置くと、ひとまず朝食を食堂で済ませて、到着した時の仮の到着ロビーに向かった。
到着ロビーには役所のお偉いさんとか、建設現場の監督とかが揃っていた。
「これから、管理局長が来るから。まあ、普段通りに礼儀よくしててね」
『分かった。でも、うちが邪魔なら部屋に戻ってようか?』
ママさんは静かに首を振る。周りの役所のお偉いさんや、現場監督達もポケモンを傍らに待機させている。人間達はどこか緊張した面持ちだ。ナナコが言っていた様に、今度来る管理局長というのは、ポケモンに対して厳しい人なんだろうか? でも、ここ土星圏では人間もポケモンも同等に近い権利を有している。そうしないと社会が回らないから。その事を、この人達は管理局長に訴えるつもりなんだろうか?
ママさんはお偉いさん達の輪から離れた場所に立っているから、自然とうちも他のポケモンの輪から離れている。輪の中でどんな話が交わされているのか気になるけど、もう直ぐ管理局長が来るらしいので、おとなしくママさんの後ろで座っている。
遠心力が生み出す人工重力のせいだけじゃない、なんとも言えない重たい空気が場を支配している。なんというか、しっぽ一本動かすのも憚れるそんな感じ。時々、視線を動かすと他のポケモンと視線が合うけど、互いに無言で頷く事しかできない。
8
「では、第一回スペースセツルメント環境会議を開催する」
地球から来た管理局長を迎えて早々、うちら一行は会議室に向かいそのままの流れで会議が始まった。お題は第一声を上げた管理局長の言う通りなんだろうけど、立ち上がって周りを見る管理局長の視線はどこか厳しい。視線が合っても逸らしてはいけない。そんな感じがする。
「まず、先ほど月で起きた野生化ポケモンの対応については事前会談で説明した通りだ。異議は後ほど伺うとして。ポケモンを管理した状態で、二〇〇年過ごした貴方がたタイタン人の意見を伺おうか? スペースセツルメントには一基最大一〇〇〇万人の人間と、その住人が各々持ち込むポケモンが生活する事になる。
勿論、タイタン人がポケモンを選別の上この地を踏んだ事例を踏襲すれば何の問題もない。しかし、この度の第二次移民団は人間もポケモンも選別された特技技能者の集団ではない。一般人、あえてきつい言い方をすれば、地球での食いっぱぐれの連中だ。不逞の輩も紛れ込むだろうが、五億ともなると見極めは厳しい。人間の管理監視は警察がすればいいとして。今後想定されるポケモンリーグ創設待望論とそれに付随する、過度な厳選による不法に遺棄されたポケモンの対応について忌憚のない意見を言ってくれ。月の事件の後でもあるという事と、地球から最も離れた場所に住む者として、各種支援が遅れる事を想定して述べてほしい」
誰の口も挟む事を許さない調子で一気に要件を管理局長は述べると、ドスンと椅子に腰掛けて次の発言者を待った。
「よろしいでしょうか?」
最初に起立したのは、警備局の局長。顔に見覚えがある。今は五〇を超える年齢だけど、若い頃はうちの勤める図書館に足繁く通っていた人だ。
「警備局長。どうぞ」
「環境会議という場ですが、環境は専門外なので最初に安全管理面だけでも意見させていただきます。
まず、建設局での資料では外殻は五重の層になっているので、通常のポケモンの技では五層に渡る隔壁の貫通は不可能となっています。これは警備局でも確認済みですが、月での例を参考にすると、不法に遺棄されたポケモンが行き着く先は、こういった外殻の人の立ち入らない区域になります。
その場合、五層にも及ぶ外殻を持つスペースセツルメント五〇基をもれなく警備巡回する事は、警備局と保健所の職員総出でも不可能と考えます」
そう言って、警備局長は席に着く。彼の後ろにはルカリオとカイリューが控えているけど、それぞれがなんとも苦渋に満ちた顔をしている。その意見を無表情で聞いていた管理局長は次なる意見を促す為に、会議場を見渡す。
「環境局局長のイシハラです。
先ほどの警備局長の意見に補足ですが。スペースセツルメントに大気循環等の設計耐久は人間一〇〇〇万人に、ポケモンが種によりますが二〇〇〇万から二五〇〇万匹を想定しています。ただ、過度な厳選が行われた場合試算では、年間最大二〇〇万匹のポケモンが卵から孵る事になり。大気循環は追いつかず各スペースセツルメントは二酸化炭素の蓄積により酸欠を起こしてしまいます。
よって、事前に法整備を行い、育て屋産業の規制と免許制。抜き打ち検査等の実施を行うべきと考えます」
環境局長もそれだけ言うと座る。
「持ち込む、種の淘汰という選択肢はあるのかね?」
管理局長が、鋭い視線を環境局長に向ける。
「それに関してですが……」
ここで、ママさんが立ち上がる。
「あなたは?」
相変わらずの厳しい視線で管理局長がママさんを睨む。
「タイタン科学技術大学のクスノキ・サチヨと言います。限定空間での野生生物学を専攻してますので、今回環境局のアドバイザーとして参加させていただきました」
「ふん」
「持ち込む種の淘汰に関してですが、我々の先祖が行ったように限定させる事は可能と思いますが、現状一五〇万人の人類という小世帯なので、環境局の規定するポケモン以外が紛れ込んできても水際で対処できます。
ただ、五億人もの人間に対して届く経済物資に紛れ込んだポケモンの水際での対処は不可能に近いです。現にポケモンでないからと、対処が追いつかずタイタン中に広まった哺乳類、爬虫類、節足動物などはかなりの数になります。
アドバイザーとして言える意見は、育て屋の規制以外にポケモンによる自治という事をお勧めします」
管理局長は身を乗り出して、ママさんを睨む。この人はこの場に対して何が不満なんだろうか?
「つまり君は、人間は人間。ポケモンはポケモンで管理しろと言いたいのかね? 君らタイタン人は選ばれた優秀なポケモンにだけ囲まれているからそんな発想をするのだろうが、現実は甘くはない。人間に一切触れた事がないポケモンが、人間に対して見せる敵意は真空で浮かぶ構造物では危険極まりないと思わないかね?」
「その点は、私は地球に留学した事があるので理解していますが、今の技術で人とコミュニケーションが取れないようなポケモンでも、ポケモン間ではコミュニケーションが成り立ちます。
そういう事例は、すでに過去から多数の論文で検証・確認されています。広く教育されたポケモンを野生化したポケモンと交流させる事で、人間ができないポケモンへの教育という課題をクリアしてくれると思いますが如何でしょうか?」
ママさんは、あえて感情のこもらない表情で管理局長を見ている。
「では、君の後ろにいるポケモンに聞いてみよう。彼女は第一次移民団で渡ってきた古老のようだからね」
えっ? うちの意見? 聞いてないよ……。
会場の視線がうちに集まる。
「好きな事言いなさい」
ママさんが唇を動かさずに、うちに小声でそう告げる。
「では、クリスティ君。君は相当な勉強家のようだ。資料を見ると、様々な技能を持っている。
そんな君に聞きたい。例えば、幼くて知能も低いナックラー。それに対して、君は教育というものの効果を発揮できると思うかね?
特に厳選の際に捨てられたナックラーであれば、地割れなどの危険極まりない技を習得して生まれてくる。どうかね?」
『うちは、粘り強く語りかければ克服できると思います。既に、この星で生まれた第一世代の子供達から数えて八世代に渡って、同じ一家にお世話になっています。生まれたて人間の子供は技こそ使えなくても、知能的には極めてレベルの低い状態。感情に支配された時期がありますが、それでも粘り強い親の声かけで緩和されます。
ポケモンも同じだと思います。ただ、育て屋の規制や知能の低いポケモンを低いまま放置するだけでなく、レベルを上げ鍛える事で社会に組み込んで、人間との共生を図る事は可能だと思います』
うちは、それだけ言うと管理局長が頷いたのでへたれこむ様に座った。
そのあとの会議は、放心状態でよく覚えてない。後でママさんから聞いた話だと、育て屋の免許制と、トレーナーの基礎教育。ポケモン同士によるコミュケーション実験などの研究課題が次回の会議までの課題として決議されたという。
うちは部屋に戻ると、緊張といつもより強い重力から来る疲れに負けて、床にへばりこんでしまった。
「いや〜。クリスティを連れてきて良かった。期待通りに、話を持って行ってくれたしね。後は、あなた自身の課題のテーマもできたんじゃないの?」
『テーマ……。自分であんな事言ってしまったし。小論文でやらないとダメだよね?』
「締め切りまでにうまく纏められれば、合格間違いないと思うけど?」
あ〜。『ポケモン間による教育効果と限定空間でのポケモン自治』という、大学レベルの小論文を書く羽目になってしまった。うちはどうしたらいいのやら……。
衛星タイタン。土星の周りを回る衛星。土星圏は変革期を迎えている。うちらポケモンも、自分達の権利を主張しないといけない。人間にくっついているだけの存在では、この宇宙では生きていけない。人間と肩を並べて、種族を超えた絆をさらに深めて、新しい時代を切り開かないといけない。うちが先陣を切る事になるとは二〇〇年前に地球を出る時には想像もしていなかった事だけど、これも運命なのかもしれない。
宇宙に進出してポケモンと人間の関係は変わってきている。技術の進歩もあるけど、環境の変化もある。ここを乗り越えないと、うちらポケモンと人間は袂を分かってしまうかもしれない。
これから先は読めない事が多いけど、未来なんて読めないもんだし。ここはひとつ一肌脱いでやってみよう。
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さる画家の老人から聞いた話。
ドーブルにはすごく稀に尻尾の絵筆が黒いの色のたドーブルがいるそうだ。
そのドーブルが黒で絵を描くと、絵はひとりでに動き出すらしい。
図工の時間が嫌いだった。
家は貧乏だから僕は絵の具を持っていない。
物のない時代、兄弟の一番上だった僕には兄弟からのお下がりなんてものもなくて、絵を並んで描くような友達もいなかった。
だから写生する絵はいつも鉛筆の黒一色だった。
先生はそれで許してくれたけれど、ずっと笑われている気がしていた。
写生の時間、絵をほっぽり出して学校を飛び出した。
けど行くあてもなくて僕は神社の賽銭箱の横にうずくまって泣いていた。
あのドーブルが現れたのは、そんな時だった。
境内のどこからか現れたそいつは水墨画から飛び出したみたいななりで、瞳と口の中以外は白黒の活動写真みたいな体色で、絵筆でもある尻尾の毛先は黒だった。
そのドーブルはにっこりと笑うと、境内の石畳に黒い尻尾の先で黒い絵を描き始めた。
まるで踊るように舞うようにドーブルは絵を描いた。
ある時は軽やかに跳ねて、ある時は駆け抜けた。
黒い尻尾の先の絵の具が石畳に跳ねて、飛び散った。
あれよあれよという間に石畳には一匹の龍が現れた。
ドーブルはその黒い龍を満足げに眺めると、自分の前脚を尻尾で染めて、完成、とでも言うように石畳に押し付ける。
すると信じられない事が起こった。
龍が途端に石畳から浮き上がって、実体を持ったのだ!
そいつは咆哮を上げ、神社の境内をくるくると飛んだ。
黒い龍ってかっこいいなあと僕は思った。
長い身体の龍は舞い続ける。
そのうちにその鱗の色が変化し始めた。
最初は藍色、次第に色が明るくなって青になり、紫、赤、橙へと変わっていく。
黄色までいくと金色に輝いて、次第に緑色を帯び、焦げ茶、そして最後にまた黒になった。
黒に戻った龍は上空へ登っていき、そして見えなくなった。
いつのまにかあのドーブルもいなくなっていた。
三原色と混色、という話を図工の時間に習ったのはそれからしばらくしてからだ。
絵の具の色は様々な色を塗り重ねる事でその色見を変えていく。色は重ね塗りのたびに暗くなっていき、最終的には黒になるという。
黒い龍が空に昇った後も僕の描く絵は相変わらず黒かった。
れど、もう色がなくて情けないという風には思わなくなった。
だって黒は全部の色を持っているのだから。
どんな色にだってなれるって僕は知っているのだから。
感想ありがとうございますー!
> 例のアプリ発表から作品までの速さ……さすがきとかげさん……!
ネタに走ると速い体質です!
> 「アプリ」の出現から世界が塗り替えられていく描写が丁寧でぞくぞくします。
> でもこれ、きっかけが本当に「アプリ」とは書かれてないんですよね……。
> > 息子がスマホ片手に、しきりに虚空を掻いていた。
> 冒頭のこの時点ですでに息子にとってポケモンは「アプリ」の中の存在ではないですしね……。
いえいえ、もしかしたらとってもすごいVRやARかもしれませんよ……?(虚空を撫でながら)
> 落ち着きを取り戻したあたりで、「アプリ」の介助が必要なくなったということでしょうか?それって言わば次のステージへ進んだってことなのでは……。
> もしかしてこの医者の真の目的はそれだったのでは(考えすぎでは
いえいえ、もしかしたら本当に重度の中毒だったのかも(虚空を撫でながら)
冗談はさておき、アプリ中毒専門の医者というのもそういうことなのかも……? なんて感想を読みながら思いました。ネクストステージ……
> そもそも、この「アプリ」を作ったのは何者なのか……目的は何なのか……。考えるのも野暮かもしれませんが気になりますね……。
書いておいてなんですが、ブラックボックスですねえ、そこらへん。アプリの機能はその内に実現しそうではありますが、若干オーバーテクノロジーですしね……
> とりあえず自分はこれ読んで例のアプリ入れることを決めました(
ありがとうございます( これはこれとして、アプリの方も面白そうです……! 多分虚空なでなで機能はないと思いますが……思いますが……?
> そして部屋に引きこもりから謎の廃屋へ(違う
母さんの一人称が俺に(そこじゃない
しかし実際こんな状況が続いたら、謎の廃屋行きでしょうね……。
> レイヤーワールドがじわじわ拡がっていて久方さんは楽しいです(
広がるレイヤーワールド……! 私も非常に楽しませてもらってます(
感想ありがとうございました! あっ、餌の時間(何もないところを見つめながら)
拝読させていただきました!
例のアプリ発表から作品までの速さ……さすがきとかげさん……!
「アプリ」の出現から世界が塗り替えられていく描写が丁寧でぞくぞくします。
でもこれ、きっかけが本当に「アプリ」とは書かれてないんですよね……。
> 息子がスマホ片手に、しきりに虚空を掻いていた。
冒頭のこの時点ですでに息子にとってポケモンは「アプリ」の中の存在ではないですしね……。
お医者さんの対処も効果ないですしね……そもそもいわゆる中毒ではないでしょうから当然かもしれませんが……。
> その内に息子も落ち着きを取り戻し、宿題も言えばきちんと取りかかるようになった。
> 時々、床近くの空気を手で掻いていたが、私が見ているのに気づくと、すぐにやめた。
> 医者いわく、「アンインストール後の手持ち無沙汰を埋める行為」だそうだ。これも、時間が経てばなくなっていくのだろう。
もうこの時点で、「アプリ」は必要なくなってるんですよね……。
落ち着きを取り戻したあたりで、「アプリ」の介助が必要なくなったということでしょうか?それって言わば次のステージへ進んだってことなのでは……。
もしかしてこの医者の真の目的はそれだったのでは(考えすぎでは
そもそも、この「アプリ」を作ったのは何者なのか……目的は何なのか……。考えるのも野暮かもしれませんが気になりますね……。
とりあえず自分はこれ読んで例のアプリ入れることを決めました(
> 私には見えないだけで、車道を危なく横断するポケモンがいて、山の中でしか捕まえられないポケモンがいて、遠くのマグマ溜まりでは伝説のポケモンが眠っている。
> そう言われても、どれだけ世の中のニュースが書き換わっても、私には、ただのアプリしか見えないまま。
そして部屋に引きこもりから謎の廃屋へ(違う
レイヤーワールドがじわじわ拡がっていて久方さんは楽しいです(
素敵な作品を読ませていただきありがとうございました!!
(前書)
久方小風夜さま作「存在しなかった町」(http://masapoke.sakura.ne.jp/lesson2/wforum.cgi?no=3670&reno= ..... de=msgview)、「薄膜の上の誰かへ」(http://masapoke.sakura.ne.jp/rensai/wforum.cgi?no=1322&reno=4 ..... de=msgview)、586さま作「#142790 「置き換えられた記憶」」(http://masapoke.sakura.ne.jp/rensai/wforum.cgi?no=1235&reno=1 ..... de=msgview)に影響されました。これらも面白いので是非に。
どちらかのバーチャル
息子がスマホ片手に、しきりに虚空を掻いていた。
「こうすると喜ぶんだ」と言う彼のスマホには、この前捕まえたポケモンが映っているのだろう。
山に行きたい、と急に言われた時はどうしたんだと思ったものだが、リリースされたポケモンアプリのお陰らしかった。そこに行かないと好きなポケモンを捕まえられないとかで、山道の途中で、はしゃいでスマホをトントンして捕まえたそうだ。きっかけはどうあれ、インドア派な息子が少しは外で遊ぶ気になって、古臭い親心ではあるが、やはり嬉しい。
しゃがんでメールをいじっていた息子が立ち上がった。
「ユウちゃんたちと公園で遊んでくる」
門限までに帰るよう、言い含めて見送った。なんでもポケモンバトルは外でやったほうが迫力があって楽しいとかで、息子の約十年の人生で外に出た回数を考えると、ポケモンアプリさまさまである。
**
「コイツ、散歩すると喜ぶから」
そう言って息子はよく外出するようになった。
そしてその度、私は同じ注意をすることになった。
「スマホばっかり見て歩いたら、危ない」と。
息子は、それはもう、通い慣れた通学路でも、楽しそうに歩く。隣にソイツがいるのだと言って、頻繁にスマホ画面でソイツの姿を確かめながら。
「危ないから、やめなさい」
「でも、コイツが車道に出て轢かれてたりしたら」
息子の心配事に、私は思わずふき出した。
「アプリが轢かれるわけないでしょう」
息子はちっとも納得しなかった。
「ユウちゃん、コラッタが轢かれたの見たって」
それはきっと、アプリが車が映ったのを判断して、そういう演出を入れたのだろう。リアルは結構だが、やりすぎではないだろうか? 苦情を入れるべきだろうか。
苦情は後で考えることにして、息子のほうは、歩きスマホをするならスマホを取り上げる、と脅して、やっとやめさせた。
それでも息子は気になるのか、しょっちゅう立ち止まっては、アプリを起動して、ポケモンの姿を確認しているようだった。
**
「アプリ中毒?」
人は色んな物に中毒する。アプリ中毒はスマホ中毒に似ているが、違うらしい。
「ええ、ユウくんもアプリ中毒で大変なんだって。ポケモンの様子が気になるって、スマホを手放さないし」
噂好きのママ友は声を低めた。
「スマホを取り上げたら、すっごい大声出して暴れるんだって。ユウくんいい子だったのに、いやねえ」
いやと言うわりには、彼女の顔は舌なめずりでもしそうになっている。うちの子もハマってて、心配だわと付け加える声が空々しい。
そうそう、最近はアプリ中毒専門のお医者さんもいるらしいわよ。ハマり始めに早めに対処したほうがいいんだって。ママ友はそんな情報を置いて去っていった。
**
もう学校から帰ってきているはずだ。子供部屋のドアをそっと開く。
息子は床に座りこみ、スマホを横目で確認しながら、指を空中に這わせていた。
その腕はなにかを抱える形に曲げられていて、息子にとって大切なものがそこにあるのだな、と見てとれた。
開いたままのドアを叩く。息子は口を丸く開けて私を見上げた。子供部屋のドアが開けられたのに気づかなかったらしい。
「宿題は?」
息子はバツが悪そうに目を伏せ、腕の中のなにかを下ろした。そして、机上に伏せたスマホを名残惜しそうに見てから、のろのろとノートを引っ張りだした。
**
「典型的なアプリ中毒ですね」と医者は言った。
頻繁にアプリを覗かないと落ち着かない、アプリを起動するとひとまず落ち着く、などが典型的な症状らしい。
これが重度になると、アプリの中のポケモンを優先したライフサイクルとなり、通常生活に支障をきたすそうだ。
「そうなると、患者をアプリから引き離す際にも、多大な苦痛を生じます」
医者は脅すように言う。
「そうならないために、どうすればいいんですか」
その言葉に、医者は申し訳なさそうに目を伏せて、でも、職業上こういった演技には慣れているといった風情で、
「アンインストールでしょう」
と言った。
診察用の椅子に乗せられた息子が青ざめた。
**
ポケモンが見えなくなるから嫌だ、と息子は言った。
アプリがなきゃ、餌をやる時間も餌のやり方もわからない、と息子は喚いた。
アンインストールのボタンをタップするのは、指先の電気が触れるだけというのもあって、とても呆気なかった。
**
それからしばらく、仕方ないと言えば仕方ないが、息子は元気がなかった。ポケモンの名前らしい単語を連呼して、家の中を探し回るようになった。
医者が言うには、時間が経てば元に戻るということなので、助言通り放っておいた。
その内に息子も落ち着きを取り戻し、宿題も言えばきちんと取りかかるようになった。
時々、床近くの空気を手で掻いていたが、私が見ているのに気づくと、すぐにやめた。
医者いわく、「アンインストール後の手持ち無沙汰を埋める行為」だそうだ。これも、時間が経てばなくなっていくのだろう。
**
リビングの入り口で、息子が見えないボールを拾い上げる真似をした。そして、新聞を読んでいる私を見て、「まずい」という顔をすると、自室に逃げ帰っていく。
なにがまずいのやら。後で暇があれば確かめよう。
めくった面の見出しに、私は眉をひそめた。
『収まらぬ火山活動 伝説のポケモン復活の兆候か』
新聞記者には重度のアプリ中毒者がいるようだ。ここの新聞はやめたほうがよいかもしれない。
テレビを点ける。新聞と同じ火山活動のニュースだが、そこにはポケモンのポの字も出てこない。やはり、この新聞はどこかおかしいのだ。
夕食を作るのに野菜が少ないので思い立って、外に出た。そこにはユウちゃんのアプリ中毒の話を美味しそうにしゃべくっていた、あのママ友がいた。
「こんにちは」
「こんにちは。噴火、怖いですねえ」
当たり障りのない世間話で幕を開ける。しかし、相手は「いい車を買っても、灰で汚れるから大変なんですって」とまたもや舌なめずりしそうな顔になる。いやはや、この人に息子のアプリ中毒がバレなくてよかったなあと心底思う。
ママ友は舌なめずりの顔のまま、「伝説のポケモンがいたって、いいことないんですのねえ」と言った。
「え、なんて」
私は聞き返した。
「ニュースでやってるでしょう」
相手は、私が非常識、と糾弾する調子で言った。
「そういえば」ママ友は話題を変えた。
「ユウくん、ポケモンと旅に出るんですってね。伝説のポケモンがいるような、危ないところには行ってほしくないわあ」
うちの子は旅なんて出ませんけど、と彼女は自慢気に言った。
**
「僕も、旅に出たいなあとは思ってるよ」
息子が言った。
「クラスの子も、旅に出る人多いし。ユウちゃんも行くって言ってるし」
バツが悪そうな顔をする息子の腕には、またもや透明なボールが抱きかかえられていた。
いろんな疑問を飛び越えて、私ができるのは、彼の行為の上っ面をなぞることだった。
「なんで今まで言わなかったの?」
そう問うと、息子は腕の中の透明なボールを見下ろし、私を見上げ、そして、目を伏せた。
「だって、お母さん、見えないみたいだし」
伏せたまつげに半ば隠れているのは、それは間違いなく私への憐憫だった。見えない、お母さん、かわいそう。そんな。
「それはアプリでしょう」と私が言った。
彼は悲しそうに、腕の中の空虚と“目を合わせた”。
**
夏休みに入る頃に、私は息子の背中を見送ることとなった。
学校の担任に相談しても埒が明かず、かえって事態は加速して、おたくの息子さん、トレーナーとしての才能がありますよ、旅に出ないなんてもったいない、ということになってしまった。
大きなザックを背負い、時折、見えない斜め下に向かって笑いかける息子が印象に残った。
私には見えないだけで、車道を危なく横断するポケモンがいて、山の中でしか捕まえられないポケモンがいて、遠くのマグマ溜まりでは伝説のポケモンが眠っている。
そう言われても、どれだけ世の中のニュースが書き換わっても、私には、ただのアプリしか見えないまま。
(後書)
ポケモンGOたのしみです。
せんだって Twitter にあげたミニスカート×ベトベター的なマンガをまとめました。
初出は2015年9月8日 https://twitter.com/ohinot/status/641206926064287746 以下です。
悪夢よりも悪夢かもしれない、羽沢親子入れ替わり事件勃発から二日目である。
悠斗は森田によるポケモンバトルレクチャーに知恵熱を出し、泰生は富田に連行されたカラオケボックスで行われたボーカル特訓(と言っても、身体的に染み付いた歌唱力は残っていたため問題はもっぱら泰生の妙な羞恥を突き崩すことだったが)の屈辱に夜、うなされた。もっとも本人達より安らかでいられないのは森田や富田の方であり――森田は胃薬をラムネ菓子のようなペースで摂取し、富田はイライラ対策のためにモーモーミルクを大量購入した。腹を下す体質では無いのだけが幸いである。
しかしどれだけ嘆いたところで、この現状がどうにかなるわけではない。元に戻るまではお互いのフリをしっかりこなすことが最優先だ。そんな決意を悠斗、泰生、森田、富田の四人はそれぞれの胸に宿して困難へと立ち向かう。
……その困難は、悠斗と泰生それぞれの知識があまりに偏っていたため、彼らが予想していたものよりずっと大きかったのだが。
「いいですか。くれぐれも、くれぐれも、くれぐれも! 芦田さんに怪しまれるようなこと言わないでくださいよ」
さて、そんな泰生と富田は本日も学生生活の真っ只中である。
今日の講義は学部の専門科目が二つ、テキストの漢字が読めなかったり一般常識の部類であろう語句を知らなかったりと、泰生のトレーナー一本ぶりに、昨日に引き続きうんざりを繰り返すことになったが、散々言い含めた甲斐もあり、余計な発言をすることだけは回避出来た。『若き旅トレーナーを狙う性犯罪問題をどう解決するか』という授業の最中に「普通にポケモンや自分を鍛えればいいのではないのか?」などと真っ直ぐな瞳で言いだした時には頭が痛んだが、昨日のように講堂全体に聞こえる声で言わなかっただけよしとする。
「三回も言うな。ドードリオやレアコイルじゃあるまいし、一回言えばそれでいいだろう」
「一回言ってわかってくれないから何度も言うんですよ。何ならポケモンミュージカル部にペラップ借りてきて、常に聞いていただきたいくらいです」
しかし今日の富田が声に棘を作るほど懸念しているのは、どちらかというと授業ではなく、この後にあるサークル活動の方だった。個人練であれば何とかごまかせそうではあるけれど、本日の羽沢悠斗の予定は学内ライブのセッション練なのだ。セッションの相手、一学年上である三年生のキーボード、芦田は当然この事態を知らない。
羽沢悠斗という人物に向けられた信用を崩壊させることなく、また要らぬ誤解を招くこともなく、芦田との練習を終わらせなくてはならないのだ。どうすれば一番安全かと思考を巡らす富田の隣から、泰生がつつつ、と離れていった。
「タツベイ……」
「え、え……何すか…………?」
廊下ですれ違った見知らぬ男子学生の肩に乗っていたタツベイに引き寄せられ、そわそわと近づいていく泰生に気づいた富田は「だから! だから三回言ったんですよ!」と青筋を浮かべて泰生の首根っこを捕まえた。いきなり近寄ってきた赤の他人、しかも呟かれた独り言以外は無言の仏頂面という怪しさに、何事かとヒいている学生に秒速で頭を下げる。「すみませんホント、何でもないんです」そんな富田の鬼気迫る様子に彼はさらに不審感を募らせたが、関わり合いになりたくないためタツベイを抱え、そそくさと去っていった。
はぁ、と重い溜息を吐いた富田が、辿り着いた部室の扉を前にしてもう一度言う。「本当頼みますからね。悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、ですよ」
「……メタグロスか」
泰生の漏らした不平は無視して、富田はドアを開ける。
「お疲れ様です」「おっす羽沢、富田」「おつかれー」「ハザユー風邪大丈夫なの?」「あ、ただ疲れてたらしいです」「何でトミズキが答えるんだよ」「お前、そのニックネームわかりにくいって」口々に交わされる言葉が、各々の楽器が鳴らす音と共に響く部室を歩く。有原と二ノ宮は今は不在みたいだな、などと思いながら、富田と泰生は一台のキーボードの前まで進んだ。
「芦田さん、こんにちは」
「あ、お疲れ! 羽沢君、具合はもう平気なの?」
何やら携帯で連絡を取っていたらしい芦田は顔を上げ、人の良さそうな笑みを浮かべる。彼の質問に富田が泰生の脇腹を素早く突き、泰生は慌てて「ん」と頷いた。
その態度に富田はまたしても頭を抱えたくなったが、「まだ本調子じゃなさそうだね〜無理はしないでね」と、芦田は都合良く解釈したらしい。それに内心で胸を撫で下ろしながら、「守屋もお疲れ」と芦田の隣に座っていた同級生へ声をかける。「『も』は余計ですよ」冗談っぽく拗ねたような顔をして、守屋は軽く片手を上げた。彼の足元のマグマラシが富田達をちらりと見たが、すぐに、一緒に遊んでいたらしいポワルンの方へ視線を戻してしまう。マグマラシとポワルンは、それぞれ守屋と芦田のポケモンだ。芦田のポワルンは、何故か常に雨天時のフォルムをしていることでちょっと有名である。
「今日は悠斗と合わせでしたよね」 晴天の室内にも関わらず雫型のポワルンに興味津々の泰生は無視してそう尋ねた富田に、「そうだよー」壁にかかった時計を見ながら芦田は答える。「本当は横木くん達が使うはずだったんだけど、一昨日代わってくれたからね」対角線上でベースをいじっているそのサークル員、横木に感謝の合図をしながら、芦田がキーボードの前から立ち上がった。
「悠斗の具合が心配なので、俺もついていっていいですか」
そこでそう言った富田に、芦田はほんの一瞬不思議な顔をしたものの、「もちろん」と笑って頷いた。ちょうど時間だしそろそろ行こっか、そんな言葉と共に床の鞄を持ち上げた芦田に泰生と富田も続こうとする。
「樂先輩」
が、守屋が芦田の名前を呼んだため、彼は一度足を止める。「なに」言うことは大体予測がついているらしい芦田が、じっとりとした目を守屋に向けた。
「残念ながら、僕は樂さんにお供いたしませんので……」
「いいよ別にしなくて! 巡君には期待もしてないし! わざわざ言わなくていいよそんなこと!」
「むしろこの辺が片付いて、せいせいし……いえ、スッキリした気持ちになってます」
「言い直さなくていいから! アメダスのこと見ててね、じゃあね!」
守屋の軽口に呆れ混じりの声で返し、溜息をついた芦田は背を向けて歩き出す。「いってらっしゃいませ」と悪戯っぽく笑った守屋が手をヒラヒラと振り、芦田が座っていたキーボードを早速弾き始めた。
「まったく、巡君はいつもああだ」などと呻きながら部室を出た芦田の後ろを歩きつつ、まったくはこっちの台詞だ、などと富田は考えていた。有原と二ノ宮達といい、よくぞ毎回飽きないものである。自分のことを完全に棚に上げる富田の隣で、泰生はアメダス――芦田のポワルンを少し触らせてもらえばよかった、などとのんきな悔恨に駆られていた。
「うーん、なんか……」
部室から移動して、第一練習室。学内ライブでやる予定の曲を一通りやってみたところで、芦田がなんとも言い難い顔をした。「……やっぱり、羽沢君まだ調子悪い?」言葉を選ぶような声で問いかけられた泰生が「どういうこと……、ですか」と、ギリギリのところで口調を悠斗のものに直しながら問い返す。
芦田は「なんというか」「別にいつも通りと言えばそうなんだけど」と、グランドピアノと睨み合いながらしばらく首をひねっていたが、ややあってから顔を上げて泰生を見た。
「なんというか、ね。楽しそうな曲なのに、楽しそうじゃない、っていうか」
「…………そんなこと、」
とてもじゃないが楽しくなどない泰生は「そんなこと言われても困る」と言いたかったのだが、芦田の目には途中まで発されたその言葉が、不服を訴えるものに聞こえたらしい。慌てたように「いや、俺の気のせいかもなんだけどさ」と頭を掻いて、彼は「でも」と困ったような笑みを作る。
「羽沢君って、こういう歌を本当に楽しそうに歌ってたから。だからこれにしようって決めたわけだし……なんか違うような、そんな気がして……」
譜面台に置いた楽譜を見遣り、怪訝そうに言った芦田に何か弁明しようと富田が「あの」と口を開きかける。しかしそこで芦田の携帯が着信音を響かせ、「ごめん。ちょっと待って」彼は電話を取った。
「はい。はい、そうです。さっきの……ああ、そうですか……いえ、わかりました。はい。了解です」
電話の向こうの相手と短いやり取りをしていた芦田だが、数分の後に「失礼します」と通話を切る。どうしたんですか、と富田が尋ねると、彼は重く息を吐いて「学内ライブなんだけど」と力の無い声で答えた。
「日にちが一週間前倒しになっちゃって……昨日事務の人にそう言われて、どうにかしてくれないか頼んでみたんだけど……」
「そんな、じゃあ……」
「点検の日付を変えるのは無理だから、って。みんなに言わないとなぁ……」
苦い顔をして気落ちする芦田に、富田も歯噛みする。ただでさえ、元に戻るまでの諸々をごまかすのに必死なのに、ここに加えて本番までこられては大変まずい。一体どうしたものか、という思いを、芦田と富田はそれぞれ違う理由で抱く。
だが、泰生の反応はそれとは違った。「なぁ」携帯でサークルの者達に連絡を送っていた芦田が泰生に視線を向ける。
「なに、羽沢君?」
「どうして、そこでもっと抗議しないんですか?」
泰生からすれば純粋な疑問をぶつけたに過ぎないが、いきなりそんなことを言われた芦田は面食らったように瞬きを繰り返した。
「それは……まあ、したにはしたんだけどダメだって言われたし……学校の都合ならどうしようもないから……」
「何故です? 先に予定を入れておいたのはこちらなんだろう、なら、向こうは譲るべきなんじゃないんですか」
「僕だって同じこと思うよ。それはそうだ、羽沢君の言う通りだ……でも、しょうがない、じゃん」
「学校にそう言われちゃ、仕方ないよ」芦田がぽつりと言って、白と黒の鍵盤に視線を落とす。諦めたような顔が盤上に映し出された。
「しょうがない、って……」
しかし、泰生は違った。
その一言を聞いて、眉を寄せた彼は、両の拳を握り締める。
「そこでもっと言わないから、こういうことが起きるんじゃないのか? どうせ言うことを聞くから、と馬鹿にされて……だから後から平気で変えてくるんだ!」
「羽沢、君…………?」
「なんでそんな無理を言われるのかよく考えてみろ、そうやって、受け流すから見くびられるんだ。大学だか事務だか知らんが、そことの不平等を作っているのはこっち側なんじゃないか!」
「…………それ、は」
「これでまた、一つつけ上がらせる理由になったんだ……わかってるのか、これは俺だけじゃなくて、他の奴らにも関係あるんじゃないのか? こうして平気で諦めたことは、他の学生にも――」
「おい、羽沢――――」
「樂先輩」
見かねて口を挟んだ富田が何か言うよりも前に、そこで、泰生と芦田の間に割り込む声があった。
「赤井先輩が呼んでます、学祭の件で急用だって……」
携帯じゃ気づかないだろうから呼びに来ました、そう付け加えた守屋は、半分ほど開けたドアの向こうから三人を見ている。その足元と頭上それぞれで、マグマラシとポワルンが、何やらただ事では無さそうな雰囲気にじっと動かずにいた。
「あ、うん。わかった。すぐ行く」
一瞬、目をパチパチさせていた芦田が慌ててピアノの前から立ち上がる。「ごめん、羽沢君、富田君」そう言いながら簡単に荷物をまとめた芦田の様子は、少なくとも一見した限りでは普通のもので、富田は反射的に頭を下げる。彼に背中を叩かれた泰生も会釈したが、すでにその前を通りすぎていた芦田が気づいたかどうかはわからない。
「本当にごめん。戻れたら戻るけど、ここ六時までだから、駄目だったら次の人によろしく」
忙しない口調で告げて、芦田はドアの向こうに消えていく。「ありがとね」そう彼に言われた守屋が、芦田に軽口を叩くよりも前に、練習室の中を少しだけ見遣った。
何か言いたげな、探るような視線。が、彼が実際に発言することはなく、二人と二匹は慌ただしく廊下を走り去ってしまった。
残された泰生と富田は、閉まったドアの方を見てしばらく無言だった。が、やがて「俺は」と、泰生が口を開く。
「間違ったことを、言ったのか」
「悠斗、は――――――――」
毅然とした口調でそう問うた泰生に、しかし、富田の細い眼の中で瞳孔が開いた。
その瞳を血走らせた彼が、一歩踏み出して泰生の胸ぐらに掴みかかる。咄嗟のことで反応出来なかった泰生は怯んだように身を竦ませた。
表情というものを消し去って、富田の、握った片手が勢いよく振り下ろされる。
「………………悠斗は」
が、その拳が泰生を打つことはなかった。
思わず目を瞑っていた泰生が、おそるおそる目を開けると、肩で息をする富田が自分を黙って見下ろしていた。
時計の秒針が回る音だけが、彼らの間にうるさく響く。
「……すみませんでした」
その言葉と共に、富田は泰生を掴んでいた手を離す。急に解放された泰生は足をよろめかせたが、俯いてしまった富田がそれを見ていたかは不明だ。声を僅かに震わせていた富田の顔は、長い前髪に隠れてよくわからない。
それきり、富田は何も言わなかった。泰生も無言を貫いた。
結局六時を過ぎても芦田は戻らず、後で彼、および芦田を呼びつけたサークル代表の赤井から謝罪のメールが届いたが、それに対して富田が言及したのは「芦田さんが置いてった楽譜は僕が渡しておきますから」ということだけだった。
◆
そんなことがあった翌日――悠斗は、森田と共にタマムシ郊外の街中を歩いていた。
「悠斗くん、そんな落ち込まないでください。まだ三日目ですから、次に勝てるよう頑張りましょう」
「………………」
彼らは先ほどまでいたバトルコートから、近くの駐車場まで移動しているところである。地面を見下ろし、俯く悠斗に森田が励ましの声をかけた。しかし、悠斗は依然として肩を落としたままである。
数十分前、バトルコートで悠斗が負けた相手は別のトレーナープロダクションに所属している、しかし064事務所と懇意にしている壮年の男トレーナーだ。リーグも近いし練習試合を、ということで前々から約束されていた予定である。
そのバトルに、悠斗はまたしても負けてしまったのだ。今回は必要最低限の知識は入れていたし、少しは慣れたから惨敗とまではいかなかったが、それでも男トレーナーに怪訝な顔をさせるくらいにはまともな勝負にならなかったと言える。ある程度は予想のついていたこととはいえ、悠斗は度重なる敗北に少なからず傷心していた。
「相手方にはスランプで通していますから。それにですね、いくら泰さんのポケモンとはいえ、バトル始めたばかりの悠斗くんがそう簡単に勝てたら、エリートトレーナーも商売上がったりですよ」
「それはそうですが……」
「泰さんと互角の相手なんです、あの人は。負けるのもしょうがないです」
片手をひらひらさせた森田は「とりあえず、今日は帰るとしましょう」と歩を進める。「そうですね」悠斗も浮かない顔のままだが頷き、その後に続こうとした。
「おい、そこのお前!」
が、背中にかかった声に二人は反射で足を止める。
「お前、羽沢泰生だよな!?」
振り返った悠斗達の後ろにいたのは、半ズボン姿の若い男だった。年の頃は悠斗の元の身体とそう変わらないだろう、サンダースのような色に染めた髪やその服装から考えるに、悠斗や富田に多少のチャラさを足した感じである。
「俺は、たんぱんこぞうのヒロキ!」膝小僧を見せつける彼の始めた突然の自己紹介に、悠斗と森田は頭の上に疑問符を浮かべる。「森田さん、たんぱんこぞうって、中学二年生くらいが限度じゃないんですか」「ミニスカートとかたんぱんこぞうとかっていうのは、名乗るための明確な規定が無いからね……『小僧』が何歳までっていう線引きも無いし」「あ、ああ……?」小声で交わされる珍妙な会話は聞こえていないらしい、やけに真っ直ぐな目をした男は、人差し指を悠斗へ向けてこう言った。
「羽沢泰生! 俺と勝負しろ!」
「はぁぁ!? 駄目、だめだめだめ!!」
唐突なその申し出に反応したのは、悠斗ではなく森田だった。慌てたように冷や汗を浮かべた彼は、「そんなこと、出来るわけないでしょう!」ときつい調子で男を叱る。
「そう簡単にバトルを受け付けるわけにはいきません! 羽沢は今事務所に戻る途中なんです、お引き取り願います!」
「目が合ったらバトル、トレーナーの基本だろ!? エリートトレーナーだからって、それは同じじゃないのかよ!」
滅茶苦茶な理論を並べて森田に詰め寄る男に、悠斗は何も言えず立ち竦むしか無かった。ポケモンにもバトルにもとんと関わったことのない悠斗には縁遠い話であったが、しかし偶然、同じような状況を街で見かけたことがある。有名トレーナーを見つけ、無理を通してバトルを申し込む身勝手なトレーナー。最悪のマナー違反として度々問題となっているが、結局のところ、今までこれが解決したためしは無い。
そして、こういうものを煽る存在がいるのも原因の一つだ。「エリートのくせに、にげるっていうのかよ!」「いいから帰ってください!」騒ぐ二人の声に引き寄せられて、近くを歩いていた者達が次々と視線を向けてくる。
「え? なんか揉め事?」
「なぁ、あれって羽沢泰生じゃね!?」
「は!? マジで!? なになに、なんかテレビの撮影!?」
「バトル!? バトルするんだ!!」
「おい大変だ! 羽沢泰生の生バトルだぞ!!」
「やっべー! 次チャンプ候補じゃん、ツイッターで拡散……あとLINEも送ってやらないと……!」
人が人を呼び寄せ、その様子に興奮したポケモンがポケモンを呼び寄せ、気がつくと悠斗達はギャラリーに取り囲まれていた。人とポケモン専用の道路には、ちょうど、バトルが出来るくらいのスペースを残して群衆達が集まっている。「ここまできて、やらないってことはないよなぁ!」パシン、と膝を両手で叩き、男は挑発するような笑みを浮かべた。
「森田さん、これ、やるしかないよ」
「でも、悠斗くん……あっちにしか非はありませんし、ここは理由をつけて……」
「ううん。あいつなら、こういうのが許せないからこそ戦うんだろうし、それに」
「俺、勝つから」
小さく告げられたその言葉に森田が唇を噛む。一歩前に踏み出した悠斗の姿に群衆と男が上げた歓声が、中途半端な狂気を伴って、曇天の空に響いていった。
「やってこい! クレア!」
男が放り投げたボールから現れたのは、肩口と腰から炎を赤く燃え滾らせたブーバーンだった。アスファルトを震わせながら着地したブーバーンは、口から軽く火を噴いて悠斗の方を睨みつける。
「いけ、キリサメ!」
対して悠斗が繰り出したのは長い耳を揺らすマリルリで、雨の名を冠した彼は跳ねるようにボールから飛び出した。ギャラリーの中から「かわいー」と声が上がる。割とお調子者な傾向のある彼はその方へ視線を向けながら丸い尻尾を振ったが、すぐにブーバーンへと向き直り、丸い腹を見せつけるように胸を張った。
タイプはこっちの方が有利のはず。マリルリが覚えている技を急いで頭の中に思い出しながら、悠斗はそんなことを考える。今にも雨が降りそうな天気と、どんよりした湿気も手伝って、炎を使う技は通りが悪そうだ。ここはみずタイプの技で一気に決めてしまおう――そう決めて、指示をするため口を開く。
が、その一瞬が男に隙を与えた。悠斗が考え出した時には既に息を吸っていた男は、灰色の空を見上げながら、こう叫んだのだ。
「にほんばれ!」
彼の声にブーバーンが目を光らせた途端、その空に異変が起きた。重苦しい、分厚い雲の隙間に小さな亀裂が走ったと思うと、それはみるみるうちに広がりだし、瞬く間に文字通りの雲散霧消となってしまった。その向こうから現れたのは青く晴れ渡った天空と、強い輝きを放つ太陽である。
「なに――――」
こうなるかもしれないという予測どころか、てんきを変える技があることすらよく知らなかった悠斗は明らかな動揺を顔に浮かべる。「アクアジェット!」とりあえず言葉は発されていたものの、その狼狽がマリルリにも伝わってしまったらしい。完全に出遅れた彼が水流を放った時にはもう、ブーバーンは次の技に入っていた。
「クレア、ソーラービームだ!」
陽の光の力による目映い一撃が、マリルリに向かって一直線に放たれる。確かな強さを以たアクアジェットはしかし、弱体化していたこともあって、黄金色の光線によって呆気無く跳ね返されてしまった。
キリサメ、と悠斗が叫ぶ。成す術もなく宙を舞ったマリルリは、無様な音を立ててアスファルトへ墜落した。甲高い声がマリルリの喉から響く。
「もう一回アクアジェットだ!」焦ったように悠斗が言うが、マリルリが体勢を整え直すよりも前に男とブーバーンの攻撃が飛んでくる。「させるな! ソーラービーム!」繰り返される一方的なその技を何度も喰らい、マリルリはその度に多大なダメージを負っていく。にほんばれが終わらないうちに勝負をつけてしまおうという魂胆なのであろう、連続する攻撃は暴力的な勢いすら持ってマリルリを襲う。何発目かになるそれを腹部に受け止めた彼は、数秒ふらつく足を震わせていたものの、とうとうその身を横転させてしまった。
「キリサメ!」
地面に倒れ伏したマリルリに悠斗が叫ぶ。力無く横たわった彼は耳の先まで生気を失い、これ以上のバトルが出来るようにはとても見えない。
しかし、悠斗は叫び続けた。
「頑張ってくれ、キリサメ!!」
それはバトルに疎い、ポケモンの限界というものをよく知らない悠斗だからこそ言えた、突拍子も無い言葉なのかもしれない。普通だったらもう諦めて、ボールに戻してしまうところだろうに、それでも声をかけ続けるなどは決して賢いとは言えないであろう。無駄な行動だと一蹴されてしまうようなものだ。
だけど、少なくともマリルリにとっては、そうではなかったらしい。ぴくり、と、片耳の先端が小さく動く。勝利を確信し、マリルリを見下していたブーバーンの目が、何かを察知して僅かに揺らいだ。
その時である。
「クレア!?」
「…………キリサメ!」
突如、勢いよくぶっ飛んだブーバーンに、男が悲鳴に似た声を上げる。やや遅れて、悠斗が呆然とした顔で叫んだ。
ぐち、と奥歯でオボンを噛み砕きながら、マリルリは肩で息をする。ブーバーンの隙をついてHPを回復した彼は、ばかぢからをかました疲労をその身に抱えながらも、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「キリサメ! よくやった……!」
悠斗の声を背に受けて、マリルリが二本の足でしっかり立ち上がる。彼を支援するようなタイミングで、技の効果が消えたのか、空が再び灰色に覆われていく。ブーバーンに有利な状況が一変し、急速に満ちる湿り気にマリルリは、可愛らしくも頼もしい鳴き声を空へと響かせた。
つぶらな瞳を尖らせたマリルリに、男は「まだいける! 10万ボルトだ!!」と狼狽えながらもブーバーンに指示を飛ばす。ブーバーンが慌ててそれに応えようと身体に力を溜めるが、マリルリはとっくに動き出していた。アクアジェット。湿気のせいで行使が遅れた10万ボルトなど放たれるよりも先に、重く激しい水流を纏った彼は、ブーバーン目掛けて突っ込んでいった。
「クレア!!」
地響きと共にブーバーンがひっくり返る。その脇に着地して、マリルリは自らの、力に満ちた肢体を見せつけるかのように、得意げな表情でポーズを決めた。
声も出せず、成り行きを眺めるだけだった悠斗が息を漏らす。「…………勝っ、た」呟きと言うべき声量で発されたそれは、やがて喜びの声へと変わっていく。
「勝った…………!!」
信じられない、という笑顔になった彼をマリルリが振り返り、キザな動きで片手を上げた。その様子に笑い返して、悠斗は全身に込み上げる高揚感に包まれた。
しかし――
「……………………」
「ねえ、今のってさぁ……」
「…………羽沢、だよな?」
「あの、アレ……」
喜ぶ悠斗とは対照的に、集まったギャラリーの反応は薄いものだった。相手トレーナーも、倒れたルンパッパをボールに戻しつつ渋い顔をする。
「さあ、行きましょうか」やけに落ち着いた声で森田が言い、悠斗の背を押すようにして促した。小声で広がるざわめき、怪訝そうに見つめる視線。おおよそ勝敗がついた際のものとは呼べないその状況が理解出来ず、悠斗は困惑しながらその場を離れた。
「どういうことですか」
駐車場に停めた車に戻り、シートに座ったところで悠斗は耐えきれずそう尋ねる。彼らの後をちょこちょことついてきたマリルリをボールへとしまってから運転席についた森田は、シートベルトを締めつつ「それは」と口ごもった。
数秒、車内に沈黙が流れる。
「泰さんの、戦い方というものがありまして」
呼吸を何度か繰り返した森田が観念するように口を開く。彼がかけたエンジンの音が響き、悠斗の身体が軽く揺れた。
「シンプル、かつ的確な指示。言葉自体は少なくても全力で通じ合う。ポケモンの様子をいち早く察知して、勝敗よりもポケモンが傷つかないことを最善と考え、結果的にそれが強さを呼ぶ――それが、羽沢泰生のバトルなんです」
「……………………」
「要するに、さっきのようなバトルとは真逆、ということです」
悠斗の指の先が小さく震える。
「ポケモンに任せきり、判断を仰ぐ……なんて、羽沢泰生、らしからぬバトルでした」普通を装った、しかし絞り出すかのような森田の声が鼓膜を掠めた。
「今までのは事務所内にしか見られてないのでスランプという形でごまかせましたが……プライベートなものとはいえ、衆人環視でのあれは少し痛いところでした。泰さんは気にしないと思いますが、やはり、エリートトレーナーともなるとイメージというものもありますから」
「俺は、…………」
「いえ、でも勝てたのは良かったんですよ! ここで負けてたらそれこそ大惨事ですし、悠斗くん的にも、ほら、快挙じゃないですか!」
無理に明るいと笑顔を声を作って森田が言った。「過ぎたことは過ぎたことですし、まあ今後は、ああいうのを控えてくれれば大丈夫ですから」ハンドルに手をかけて、周りをチェックする彼は笑う。「それに今回のは相手が強引でしたしね」
「でも、あれはあれで悠斗くんらしいと思いましたよ! ああいうバトルもいいものです」
そう言いながら車を動かし始めた森田の様子は、すっかりいつも通りに戻っていたが、乗車してから一度もルームミラーに映る悠斗を見ていない。そのことを悟った悠斗は、「そうですかね」と曖昧に返して窓の外を見る。
動き出した景色の中、路地でジグザグマとバルキーとでバトルをしている子供達を見つけ、悠斗はそっと目を閉じた。
◆
それから、家に帰った悠斗は母・真琴の剣呑な態度から逃げるように戻った自室で一人、ベッドに腰掛けて天井を見上げていた。
今日の夕方には、富田が連絡をつけてくれたという『専門家』のところへ行くことになっている。森田は一時事務所に戻り、雑務をやってから羽沢家に来るということだった。車で悠斗を送り届けた彼は、道中も、そして悠斗が降車する際にも何かを言うことは無かった。
ただ、申し訳無さそうな顔が頭に浮かぶ。泣きそうなその顔に滲み出る感情が、自分ではなく父に向けられているのは確かだった。森田はそんなことを一言足りとも口にはしないが、それでも、わかる。
自分が父に、羽沢泰生の名に泥を塗ったことは痛いほどに理解した。自分の無知が、意地が、愚かさが、父という存在を貶めることによって、父を慕う人達を傷つけることになる。忌み嫌い、目を背けていた父が自分のあずかり知らぬところでどれほど愛されていたのか。その側面を垣間見たような気がして、恐ろしいまでの後悔が襲ってきた。
(だけど――)
どうすればいいというんだ。壁に貼った、敬愛するバンドのポスターに問いかける。
どうしろというんだろう。三日三晩で作ったハリボテの人格を演じるだなんて不可能だ。しかも相手が、ずっと見ないようにしてきた父親である。どれだけ頑張っても埋められないことへの無力感と、憎むべき父のためにしなくてはならないことへの怒りが心の中でぶつかり合い、押し潰されそうだった。
「おい、悠斗」
そして間の悪いことに、父――自分の姿だが――がノックもせずに部屋へ入ってくる。そういえば今日は三限で終わるから帰ってきたのか、と思いながら「今話せる気分じゃないから」と、悠斗は泰生の顔も見ずにすげない言葉を返した。
しかし泰生はそれをまるで無視し、遠慮無い足取りで悠斗に近づく。迷惑だという気持ちを表すために悠斗は泰生を睨みつけたが、彼は動じる素振りも見せなかった。
「何の用だ」
「何の用だ、じゃない。おい、これはどういうことだ」
言いながら泰生がポケットから取り出したのは、別々にいる時には持ち歩かせることにした悠斗の携帯だった。だからそれがどうしたんだよ、そんなことを思いながらようやく立ち上がった悠斗に、泰生は唸るような声で言う。
「お前の知り合いから送られてきたんだ。『ツイッターで話題になってるけど、お前の父親大丈夫?』と、な。誰だか知らんが、お節介な奴もいるもんだ」
吐き捨てるように告げた泰生の差し出す画面を見て、悠斗は言葉を失った。
泰生の言う通り、ネット上で拡散されているらしいその動画は、先程悠斗が街中でやったバトルを撮影したものだった。あの中に正規のカメラマンがいるはずがないから、人混みからした隠し撮りであるのは間違いないが、駄目なら駄目でしっかり注意しなかったのが悪いとも言えるため口は出しにくい。何より、取り沙汰されたくないならば、森田が言うようにあんな場所でバトルをするべきではなかったのである。
有名トレーナーのプライベートバトルということで、動画はインターネットユーザー達の注目を集めていた。ただ、その注目の内容が問題だった。勝ったとはいえ、森田の言葉を借りるなら『羽沢泰生らしくない』戦い方は、大きな波紋を生んでしまったらしい。
『羽沢も落ち目だな』
『堅実だけが取り柄だったのに。今年は決勝までいけないだろ』
『つまらないバトルだけはするなよ』
まとめサイトに並ぶ辛辣なコメントに、悠斗は発する言葉も無く目を伏せた。
「こんなものはどうでもいい……しかし、お前は俺の代わりをするはずだっただろう。これではポケモンがあまりにも惨めではないか! トレーナーの無茶な言い分に……こんな戦い方、やっていいわけがない!」
「それは…………」
「どうしてお前はそんなこともわからないんだ! ポケモンの気にもなれ、こんな、自分本位な指示でまともに動けるわけがないだろう!? 考えればわかることだ、ポケモントレーナーとして発言するなら、もっと、ポケモンの心に寄り添おうと何故思わない!!」
「っ……そんなの、お前だってそうだろ!!」
怒鳴った泰生に、一瞬目を大きく開いた悠斗が叫ぶ。その大声に泰生が怯んだように言葉を止めた。
「ポケモンの気持ちを考えろ、ってお前はいつもそうだよ。ポケモンの心、ポケモンと通じ合う。言葉なんかじゃない。じゃあ……じゃあ、人間の気持ち考えたことあるのかよ!!」
「なんだと、っ……」
「いつといつも態度悪くてさ。自分本位はどっちだよ、ロクに気もきかないし愛想悪いし、母さんや森田さん困らせて! 人の気なんか、全然考えないんだもんな! ああそうだ、お前はいつだって勝手なんだ!」
一度頭に上った血はそう簡単に冷ないらしく、悠斗の口は止まらない。この、入れ替わったことによるストレスが積み重なっていたのもあって、溜まりに溜まった苛立ちがまとめて溢れ出ていくようだった。
「お前だって大変だろうから、言わないようにしようと思ってたけど」荒くなった息を吐き、悠斗は泰生の胸倉を掴みあげる。「お前、芦田さんに何言ったんだ」
「守屋からLINEきたんだよ――お前、あの人にどんなことしたんだ! 俺の顔で、俺の口で、なんてこと言ってくれたんだ!?」
「何も言ってない。ただ、当たり前のことを――」
「それが駄目だっつってんだよ!! いいか、お前はわからねぇかもしれないけどな、人はな、言われて嫌なこととか、言われてムカつくこととかあるんだよ。だから、言葉を選ばなきゃいけないんだよ、常識だろこんなの!」
「そんなの知ったことか……大体言葉を選ぶ……それは言い訳だ、どうせ本心を隠して影で笑って、嘘をついてるのと同じだ! だから人間なんて信用ならないんだ……人間なんて…………」
泰生も語気を荒げて悠斗に掴みかかる。が、悠斗は全く怖気つくことなく「『嫌い』だろ」と冷めきった声色を出した。
「いつもそうだもんな。お前。人間嫌い、人間は駄目だって。いつもいつも、そうだ」
せせら笑うように、据わった眼の悠斗は言う。
「そんなに人間が嫌いなら、どうぞ、ポケモンにでもなればいいんだ」
「っ!!」
泰生の瞳孔が開かれる。悠斗が口角を吊り上げる。
呼吸を止めた泰生の片手が固く握られ、後方へと振りかぶられた。それを察した悠斗も冷めた眼のまま同じように拳を固め、勢いよく後ろにひいたが――
「ちょっと。悠斗も、羽沢さんも、一回そこまでにして」
突如聞こえたその声と、ドアが開く音に、今にも双方殴りかかりそうだった悠斗と泰生は同時に黙り込む。向かい合って互いを睨む二人の口論を遮ったのは、無表情の中に苛立ちを滲ませた富田だった。
前髪の奥から羽沢親子を見ている彼の後ろには、気後れ気味に顔を覗かせた森田もいる。どうやら二人とも、取り次いでくれた真琴に促されてこの部屋に来たらしい。
勢いづいたところを中断されて、次の行動を図りかねる泰生に鋭い視線を向け、富田は言う。
「絶対こうなると思いましたけど。だから言ったんですけどね、余計なことを言わないでください、と」
「それはこいつが――」
刺々しい言葉に、泰生は反射で返す。が、富田の目を見て、途中で言葉を切ってしまった。
「悠斗くんも、あまり怒ったら駄目だよ」森田の、静かに、しかしはっきりした口調で告げられた言葉に悠斗も黙り込む。気まずい沈黙がしばし続き、やがて謝りこそしないものの、親子はお互いの胸ぐらを掴んでいた腕をそっと離した。
「じゃあ、行きますか」
そうして部屋に響いた富田の声は相変わらず淡々としていたが、先程のような不穏さは消えており、三者の緊張もふっと解ける。親子がそれぞれ顔を見合い、それぞれ軽い溜息をついてまた視線を外したのを見て、森田がほっとしたような表情を浮かべた。
その様子に、富田も僅かに目を細くする。「ちなみに、言っておきますけど」話題を変えた彼に、悠斗達三人は一斉に首を傾げた。「何を」言い含めるような語調に森田が問う。
「今から行くのは、無論『そういう問題』を扱う『そういうところ』ですから――」
一瞬の間を置いて、富田は平坦な声で言った。
「くれぐれも、驚かないようにしてくださいね」
◆
富田が案内した『専門家』は、タマムシ大学から徒歩二十分ほどの街中に事務所を構えているということだった。
街中といっても華やかなショッピング街や清潔感のあるオフィス街ではなく、タマムシゲームコーナーのあたり、要するに治安があまりよろしくない地区である。アスファルトの地面は吐き捨てられたガムや煙草の吸殻が所々に見られ、灰色のビル群もどこか冷たく無機質な印象を受ける。そのくせ聞こえる音はやたらとやかましく、誰かの怒鳴り声やヤミカラスの嬌声、スロットやゲームの電子音にバイクの騒音と、鳴り止まない音に泰生や森田は不快感を顔に示した。
そんな街並みの中を縫って進み、少しばかり裏路地に入る。ドブに寝ていたベトベターが薄目を開けて、並んで歩いてきた四人を迷惑そうに見た。ヤミ金事務所や怪しげなきのみ屋、開いているのか閉まっているのか判断出来ない歯医者などを横目にもうしばらく汚れた道を行く。
「ここだ、このラーメン屋の三階」
いくつかのテナントが複合するビルの一つを指し、先頭を歩いていた富田が足を止めた。何人か客の入っているらしい、ラーメン屋のガラス戸を横目に鉄筋で出来た非常階段を昇る。脂の匂いが路地裏に捨てられた生ゴミ、及びそれに群がるドガースの悪臭と混じり合うそこを進んでいく、二階のサラ金業者、そしてその上に目的地はあった。
「あ、あやしい」森田の率直な呟きが薄暗い路地に響いた。それも無理はないだろう。三階に入っているテナントは、『代理処 真夜中屋』といういかにも不審な業者名が書かれたぺらっぺらな紙一枚を無骨な金属ドアに貼っているだけで、他に何かを知れそうな情報は無い。泰生と悠斗もなんとも言えない顔をして、汚れの目立つ、雨晒しの通路に立ち竦む。
「ちょっと富田くん、本当にここで大丈夫なの?」
「失礼ですね。ここは表向きには代理処……便利屋稼業なんですけど、今悠斗達に起こってるみたいな、あまり科学的じゃない感じの問題も請け負ってくれるんです。そういうところ、なかなか無いんですよ」
「そうは言ってもさぁ、もう少し何というか……得体が知れそうなところというか……」
「得体なら知れてますよ。僕の再従兄弟の友達がやってるんで」
「瑞樹……それは他人と呼ぶんじゃないかな……」
「ミツキさーん、富田です、電話した件ですー」
悠斗のツッコミを完全に無視して、富田は平然と扉を開ける。ギィィ、と思い音を響かせて開いたその向こうは、ただでさえ日陰になっていて薄暗い路地裏よりも、輪をかけて暗澹と不気味だった。
森田が口角を引きつらせる。泰生の眉間のシワが深くなる。「なぁ瑞樹……」まだ陽が落ちていない外には無いはずの冷気が室内から漂ってきて、いよいよ不気味さに耐えられなくなったらしい悠斗が遠慮がちに呟いた。
「あー! 瑞樹くん、久しぶり!!」
が、その時ちょうど中から出てきたのは、そんな禍々しさからはかけ離れているほどにあっけからんとした雰囲気の男だった。
見た目からすれば、目元を覆うぼさぼさの黒髪によれたTシャツとジャージ、十代後半にも三十代前半にも見える歳の知れない感じとなかなかに怪しいが、そんな印象をまとめて吹き飛ばすほどにその男の声は朗らかで明るい。スリッパの底を鳴らしながらヘラヘラと笑うその様子はどう考えてもカタギの者では無かったが、しかし恐いイメージを与えるような者でも無かった。
「お久しぶりです」「半年ぶりくらいじゃん、学校近くなんだからもっと来てくれてもいいのに」「色々忙しくて」二言三言、言葉を交わした富田は悠斗達を振り返って口を開く。
「こちら、真夜中屋代表のミツキさん。ミツキさん、この人たちです。電話で話したの」
「どうも、ミツキと申します。こんな、かいじゅうマニアのなり損ないみたいなナリしてますけど一応ちゃんとしたサイキッカーなんですよ」
おどけた調子でそんなことを言ったミツキに、泰生が「ほう」と感心したように息を漏らした。サイキッカーという肩書きに反応したのだろう、『mystery』というロゴとナゾノクサのイラストというふざけたTシャツ姿に向けていた、不快なものを見る目が少し緩められる。「サイキッカー……」森田は森田で、超能力持ちトレーナーの代名詞でもあるその存在を目の当たりにして言葉に詰まっていた。
ただ一人、サイキッカーという立場の何たるかをほぼ理解していない悠斗だけが「はじめまして」と挨拶している。それに軽く一礼で返し、ミツキは数秒の間を置いて、「なるほどね」と前髪の奥にある垂れ目を光らせた。
「入れ替わったっていうのは、君と、あなたですか。なるほどなるほど、これは……大変だったでしょう」
「あれ。俺、誰と誰が、とまでは言ってないと思いますけど。わかるんですか?」
「流石にこのくらいなら、見ればね。あとは僕のカンもあるけど」
悠斗と泰生を交互に見遣り、同情するような顔をしたミツキは「まあ、立ち話もなんですから」と四人を扉の奥へと招く。
言われるままに室内へと足を踏み入れた悠斗達は、それぞれ思わず目を見張った。勝手知ったる富田だけが、破れかけた紅い布張りのソファーに早速腰掛けてリラックスしている。
「散らかっていて申し訳無いのですが」
決まり悪そうに笑いながらミツキは頭を掻いた。その足元には必要不必要のわからない無数の書類、コピー用紙、紙屑が散乱し、事務所らしき部屋の至る所には本だの雑誌だの新聞だのが積み上げられている。そこかしこに転がっているピッピにんぎょうや様々なお香、ヤドンやエネコの尻尾、お札の使い道は不明だが、ただ単にそこにあるようにしか思えない。唯一足の踏み場がある来客スペース、富田が座っているソファーには何故か、ひみつきちグッズとしてあまり人気の無い『やぶれるドア』が打ち捨てられている。
確かに酷い散らかりようだが、悠斗達の意識を集めているのはそこではない。室内のあちこち、そこかしこにいるゴーストポケモン、ゴーストポケモン、ゴーストポケモン。もりのようかんやポケモンタワーなどを2LDKに凝縮するとこうなる、といった様相だった。
「これは、一体……」
窓に所狭しとぶら下がるカゲボウズ、ガラクタに混じって床に転がるデスカーン。観葉植物用の鉢植えにはオーロットが眠っているし、壁を抜けたり入ってきたりして遊んでいるのはヨマワルやムウマ、ゴースの群れだ。ぼんやりと天井付近を漂うフワンテの両腕に、バケッチャがじゃれついてはしゃいでいる。
洗い物の溜まったシンクを我が物顔で占拠している、オスメス対のプルリルを見て、森田が呆けたように息を吐いた。
「このポケモン達は……全員お前のポケモンなのか?」
「いえ、違いますよ。みんな野生だと思うんですけど、ここが居心地いいらしくて。溜まり場みたいになってるんですよね」
切れかけた蛍光灯の上でとろとろと溶けているヒトモシを見上げ、どこかソワソワした様子(シャンデラの昔を思い出したらしい)で尋ねた泰生にミツキは答える。「僕のポケモン、というかウチの従業員はこいつだけです」
その言葉と共に台所の方から現れたのは、お茶の入ったコップを乗せたトレーを運んできたゲンガーだった。テーブルに四つ、それを並べるゲンガーにまたもや驚いている悠斗達を尻目に「僕の助手のムラクモです」とミツキが呑気に紹介を始める。
『本日はお越しいただきありがとうございます』
「え!? 喋った!? ゲンガーが!!」
紫色の短い腕でトレーを抱えるゲンガーの方から声がして、森田が仰天のあまり叫び声を上げる。富田の横に腰掛けた悠斗は仰け反り、泰生も両目を丸くした。
「違う違う、喋ってるわけではないですよ」面白そうに笑い、ミツキはゲンガーの隣にしゃがみ込む。トレーを持っていない方の手に収まっているのは、ヒメリのシルエットが描かれたタブレット端末だった。
「ムラクモは、これを使って会話してるんです。念動力で操作して」
『そういうわけです、驚かしてすみません』
「な、なるほど……いや、それにしてもびっくりですけどね……」
「だから言ったじゃないですか。『そういうところ』なんだって、ここは」
驚いたままの森田へと、何でもない風に富田が言う。泰生はもはや驚愕を忘れ、どちらかというとゲンガーを触りたくて仕方ないらしく(しかしそう頼むのは恥ずかしいらしく)チラチラと視線を送っていた。『本当、汚くて申し訳ございません。ミツキにはよく言って、はい、よく言って聞かせますから』小慣れた感じに操作されるタブレットが電子音声を再生する。
『よく言って』を強調させながら紅の瞳の睨みを効かせるゲンガーに、「も〜、悪かったってば! 次からちゃんとするから呪わないでよ」などとミツキが情けない声を出す。そんな、当たり前のように交わされるやり取りを眺め、悠斗がポツリと呟いた。
「ポケモンにも、色々いるんだな……」
親友が漏らしたその一言に、「ムラクモさんのアレは特別だと思うけど」と富田が言う。森田は散らかり尽くした台所から出されたお茶の消費期限を気にするのに忙しく、泰生はゴーストポケモン達に内心でときめくのにいっぱいいっぱいで気づいていないようだったが、ただミツキは聞いていたらしく、長い前髪を揺らして悠斗の方を振り向いた。
「そうだね」
嘘のように澄んだ瞳が悠斗をみつめる。
「ポケモンも、人間も。色々いるもんだよ」
それだけ言って、ミツキは「じゃあ本題に入りましょうかー」と話を変えてしまう。「ムラクモ、なんか紙取って紙、メモ取れるやつ」などと甘ったれるその声色は頼り無く、先ほど悠斗に向けられた、浮世離れした神秘を感じるものとは全くもって違っていた。『その辺のゴミでも使え』悪態を再生しながらも、ゲンガーは机に積まれた本の中からノートを探し出してミツキへ放る。そんな献身的な姿を見ていた森田は、どこか親近感を覚えずにはいられなかった。
ノートでばしばしと叩かれているミツキの方をじっと見たまま、悠斗は黙って動かない。そんな彼に声をかけようとして、しかし、富田はそうしなかった。
何か言う代わりに口をつけたお茶は不思議な香りを漂わせ、喉に流れると奇妙に落ち着くようだった。消費期限のほどは、大丈夫だったようである。
「…………それで、羽沢さんたちにかけられた、っていう呪いなんだけど」
悠斗達、依頼者の向かいに座ったミツキが言う。
「恐らくは、ギルガルドの力を利用したものだ」
「ギルガルド?」
ポケモンには疎すぎるほどに疎い悠斗が素直に問いかける。その発言に泰生はこめかみの血管を浮かばせ、森田は両手で頭を抱えたが、肝心の悠斗は気づいていないようだった。
しかしミツキは嫌な顔をすることなく、「ちょっと待ってね」と近くに散乱した本や資料を漁り出す。が、お目当ての物を彼が発掘するよりも先に『これ使え』と、何かを入力していたムラクモがタブレットを手渡した。「あー、ありがと、ありがと」ヘラリと笑い、ミツキはその画面を悠斗達へと見せる。
「ギルガルド、おうけんポケモン。ヒトツキからニダンギルに進化して、そのまたさらに進化したポケモンですね。はがねタイプとゴーストタイプの複合、バトルにおいてはかなり優秀な部類ですから、泰生さんは結構お目にかかっていらっしゃるのではないでしょうか」
「うむ。そうだな、何度も苦戦したもんだ」
過去のバトルを思い出しているのか、泰生が苦い顔をして頷いた。綺麗に磨かれた画面に映し出されているのは厳つい金色をしたポケモンで、貴族っぽい気品は感じるものの、それと同時にゴーストポケモン特有の不気味さも持ち合わせている。話に参加出来る知識が無いため無言で画面を覗いていた悠斗は、なんでこのポケモンは二種類の姿が表示されているのだろうか、という疑問と、どっちにしてもなんか気持ち悪いな、という失礼極まりない感想を抱いた。この場にギルガルドがいたら迷うことなくブレードフォルムとなるに違いない。
「なんでわかったの」富田がもっともなことを聞く。問われたミツキは「僕の千里眼と、あと、さっきムラクモにお二人の影にちょろっと入って調べてもらった」とさらりと答えて「それに、呪いの内容だよ」と、タブレットをタップして図鑑説明を表示させた。
「ギルガルドは、人やポケモンの心を操る力があるんだ。昔は王様の剣として、そう……直接的な戦いで力になることは勿論あっただろうけれど、国を治めるために、忠誠心を生み出すってこともしてたんだって」
「そんな恐ろしいことが出来るんですか!? そんな……それじゃあ、まるで独裁政治じゃないですか!」
「ごもっともです。まあ、実際のところ国一つ……というか、村一つの心を操るのもほぼ無理な話で、ギルガルドの主たる王によっぽどの力が無ければ大勢の心を操るなんてことは不可能ですよ。それに、それほど力を持った王様なら、ギルガルドの霊力など無くても統治出来ますしね」
ミツキの説明に、森田は「なるほど」と安心したようだった。が、ミツキは「でも、ですね」深刻そうな表情を前髪の影の下に浮かべる。
「それが、もし少人数だったら話は別です。……たとえば、二人、とか」
「………………」
「心を操るというのは、何も考え方を変えるというだけには留まりません。根底を折って廃人にしてしまうことも可能ですし、精神だけを異世界へと飛ばしてしまうなんてことも範疇です。それに、羽沢さん方のようなことも」
「……じゃあ、悠斗たちの心を入れ替えた犯人は、ギルガルドを使ってたってこと」
「そういうことになるね。呪いの対処が二人くらいなら、そんなに実力者じゃなくてもいいだろうから……しっかし不思議なんだよなぁ」
両腕を組み、ミツキは視線を上へ向ける。何がだ、と尋ねた泰生に『妙なんだよ』と答えたのはムラクモだ。
『ミツキの千里眼や俺の影潜り……人やポケモンを通して、そのバックボーンを調べると、大概呪いをかけた相手が多かれ少なかれ見えるはずなんだ。その人に思いを向けているヤツってことだな、感情の内容がわかれば普通、その主もわかる』
「でも、羽沢さん方は、その『思い』しか見えないんです。ギルガルドによる力だということしかわからない……呪いをかけた相手の顔が、全く感じ取れないんだ」
『多分、直接呪いをかけたわけじゃないんだ。そもそもお二人とも、呪術だの魔術だのが効くタマじゃないっぽいからな。覗くくらいなら出来るが、霊感が無さすぎて効果が消えるらしい』
「ノーマルタイプとか、かくとうタイプにゴーストの技が通じないみたいなものですね!」
ミツキによる例え話に、森田が「あー、あー」と納得したような声を出した。「やっぱり」と富田も一緒になって頷く横で、羽沢父子はなんとも言えない敗北感に面白くない顔をする。
それに気づいた森田が慌てて咳払いをし、その場を取り繕うように「で、でも」とわざとらしく発問する。
「直接っていうのは、ポケモンバトルの技みたいに、呪いをかけたい相手とかける方がダイレクトに繋がってるってことですよね。じゃあ、そうじゃないっていうなら、どういうことですか。間に誰かがいるってことですか?」
「誰か、というより感情の類です。祈ったり願ったり呪ったり……そういう、何か霊的だったり神的だったりする気持ちを媒介にすると、直接は無理な場合でも呪術が通じることがあるんですよ」
『もっとも、明るい感情はうすら暗い呪いにはほぼ使えないし、もっぱら負の感情になるが……一番手っ取り早いのが、五寸釘打たれたみがわりにんぎょうを使うアレだな。そこにこもった感情から本人にアクセスする呪い』
「どうです羽沢さん。ここ最近、何か呪いをしたことは」
「あるわけないだろう」
「んなバカなことするもんか」
「ですよね」
怒気を孕んだ二つの即答に、ミツキは「すみません」と謝りつつ肩を竦めた。会話を聞いていた森田と富田はそれぞれの心中で、まあそうだろうな、と同じ感想を抱く。泰生も悠斗も、呪いどころか可愛いおまじないでさえもまともに信じていないようなタチなのだ。宗教的なことを軽んじる人達では無いけれど、かといって自分からそういう行為をするなどあり得ないだろう。
行き詰まった問答に、一同はしばし黙り込む。最初に動いたのは「でも、一応手がかりは掴めたわけですから」と伸びをしたミツキだった。
「霊力自体は嗅ぎつけたんです。地道な作業にはなりますが、ここを中心に、カントー中、ひいては世界中の……まあ出来ればそうしたくないですが……ギルガルドを探し当てて、この力と同じものを探してやればいいんです」
『何、俺たちは探偵稼業もやってますからそういうのは得意なんですよ。ホエルオーに乗ったつもりでいてください』
「色々ありがとうございます。申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします……!」
「お、お願いします!」
「…………よろしく頼む」
「なるべく早く、ね。よろしく、ミツキさん」
四者による各々の頼み方に一つずつ頷いたミツキは、「任せてください」と微笑んだ。
何かあったら連絡してください、という言葉と共に彼が扉を開けると、陽はとっくに暮れていた。一階のラーメン屋の灯りだけが路地裏を照らす。手すりにぶら下がっていたズバットが、扉の隙間から急に差し込んだ光に驚いて飛んでいってしまった。
「ここのこととか、ムラクモのこととか、御内密に頼みます」「言いたくても言えませんよ……」「そりゃあそうか」気の抜けた会話を交わしつつ、悠斗達は非常階段へ続く外に出る。薄ぼんやりとした月が見上げられるそこで、いざ帰路につこうと彼らが背を向けたところで、真夜中屋のサイキッカーとその相棒は、揃ってイタズラっぽく笑ったのだった。
『そんな場合でも無いかもしれないが――』
「この際、思いっきりぶつかってみるのもいいと思いますよ」
無言で視線を逸らし合う親子にミツキが言う。「生き物だもの、ってね」なんとも微妙なアレンジが加えられたそれに、『パクんな』という電子音声が夜の空に響いた。
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