滝の音の聞こえる場所1
ウズの記憶の底にあるのは、轟轟と流れ落ちる滝音だった。
目を閉じれば、思い出す。
その次の記憶は、貧しい海辺の村――胆礬。
白銀の髪を持つ童子は、白銀の毛皮の海獣によって滄溟の彼方から送り届けられてきたのだった。その童子が銀色の羽根をその小さな掌に握りしめ、そしてその首には、かつて海神に嫁いだ胆礬の娘の持っていった海鳴りの鈴が掛けられていたことから、この童子は海神の子であると胆礬の島人は断じた。
海神は胆礬の遠い沖、渦潮の島に棲み、胆礬の島に海の恵みをもたらすが、時折気まぐれに荒ぶっては、胆礬の島に津波だの高潮だの竜巻だのを叩き付ける。だから島人はそのたび海神の怒りを鎮めるため、乙女を差し出した。乙女は海神の妻となり、生贄となり、海を鎮める。島人は海神を畏れ敬い、祀ってきた。
白銀の髪の童子は、海神と、捧げられた乙女との間に生まれた子なのだ。
そうしてウズは幼い頃から、神子として、胆礬の社で勤めることになった。
いつしか渦潮の島をもじり、ウズの名で呼ばれるようにもなっていた。
胆礬での暮らしは貧しいながら、穏やかなものだった。
海の恵みを糧に、月の巡りを目当てに祭りを催し、細々と島人は互いに助け合い生きてきた。
ウズは海神の社で、その島人達の暮らしを見てきた。
神子といわれても、ウズには神通力も何も備わっていなかった。ただ生まれつきの銀髪を敬われ、島人達が運び込んでくる海の幸を食って生きてきた。父だという海神からの便りも遣いも一切無かったが、それでも信心深い島人はウズを海神の子だと信じて疑わなかった。
そうして、島に災厄は訪れた。
――疫病である。
前兆はあった。
渦潮の島の祭りの最中に、不吉な魔獣が現れたのだ。
白い毛皮、黒い片角、紅い眼。
その魔獣が渦潮の島に現れると、地が揺れ、津波が村を呑み、病が流行ると古くから伝えられている。
大人たちが慌てて追い払ったが、実際に、災いは胆礬の島を襲った。
多くの島人が死んだ。神子として崇められるウズも、島人に請われて、父なる海神の救済を願ったが、海神は依然として腐った魚しか島に贈りつけなかった。余計に病は広がる。
神子と敬われたウズには、何もできなかった。
だから、島人はウズを殺すことにした。
表向きは、ウズを渦潮の島に送って父なる海神に直に慈悲を乞わせよう、という話であった。
しかし本音は、そうでもしなければ島人の怒りは収まらないというところだった。
神子と敬い、島人が総出で大切に養ってきたのに、いざ島が危難に見舞われても神子が何もしないなど、ありえない。何のための、海神の子か。否、真に海神の子だというならば、父神にその願いを叶えさせ、島を救ってみせよ。それができぬならば、ただの海の藻屑と消えるがいい。生贄の一人でも送れば、海神も気をよくするやも知れぬ――。
そうしてウズは、重石をつけられ、崖から海に突き落とされた。
次にウズが気が付いたのは、浅葱の浜辺だった。
傍らにはやはり、白銀の海獣がいた。海獣はウズの気の付くのを見定めると、ウズの傍に食べられる貝やら腐っていない魚やら、美しい大粒の真珠やらを残して、渦潮の島へと去っていった。
ウズは貝や魚で食いつなぎ、海藻のように垂れさがるぼろぼろの衣を引きずり、あてどなく陸地をさまよった。海獣に与えられた真珠が市でひどく高値で売れて、それがきっかけでいつの間にか美しい着物を着た人々に見初められ、そうしてウズはどういう経緯でか『ちはや』という家に奉公に勤めることになった。
ウズは『ちはや』の屋敷に招き入れられた。
美しい衣を着た男女が、座敷で踊りの稽古に励んでいる。
『ちはや』の家は芸事の家らしく、踊りの他にも茶やら花やら、多くの弟子が出入りして、ひどく賑やかだった。ウズも下働きをするうち、そのうち当主に気に入られて芸事を習った。ウズの裁縫の腕がひどく重宝され、当主の寵愛いよいよめでたく、やがては『ちはや』の家の子女の養育を任されるまでになった。
けれど、ウズは年老いることがなかった。
あるいは海神の子というのは真実だったのかもしれない。『ちはや』の当主が没し、その子が当主となってやはり没し、さらにその子が老年で没しても、ウズは神子の頃の若い姿を保ち続けたのである。
――人魚ではあるまいか。
そのような噂が立った。ウズは恐れられ、しかし人魚の血肉を食らえば不老不死を得られるなどという話も手伝って、奇怪な連中が『ちはや』の家のあたりをうろつくようになった。
そうして『ちはや』の何代目かの当主の判断があり、ウズは屋敷の奥に閉じ込められることとなったのだ。
『ちはや』の家の人魚は、座敷牢に軟禁されていた。
日に三度の食事は届けられる。
その代わり、繕い物も届けられる。ウズは日々針と糸を操り、着物を仕立て続けた。
庭にあつらえられた、小滝の音を日々聞きつつ。
ウズは時折、障子を細く細く開けては、座敷で行われる踊りや茶や花の稽古を見ていた。美しい色とりどりの着物を着た男女が、華やかな芸事を嗜む。男女は年月とともに色衰え、新たな蕾や花が現れ、やはり趣深く枯れていっては、新たな花の中に埋もれ、露のように果ててゆく。
人魚は、それを見つめていた。
小滝の音の中。
幾百、幾千もの花が開いては枯れ落ちるのを見てきた。
そして芸事にばかり興じることのできる平和な世も、永遠には続かなかった。
『ちはや』の家は栄華を極めたが、頂点に花開くほど欲は深くなり、醜い権力闘争に血道を上げることとなった。父子兄弟は互いに憎み合い、『ちはや』の家は分かたれる。
そしてとある夏の日、当時の当主の四男坊が、ウズの閉じ込められていた座敷牢の格子をぶち破り、ずかずかと牢に踏み込んできた。
「……人魚。共に来やれ」
「……不躾な」
ウズは目を潜め、まだ若く色白な四男坊をじとりとねめつける。それでも針を持った指先は勝手に動き続ける。すると四男坊は、ウズから縫いかけの着物をむしり取った。
ウズの腕を掴む。
「そなたのためじゃ。兄上や我が弟どもは、そなたという人魚の血肉を上様に献上し、官位を得んとしておるぞ。そなたがまこと人魚か甚だ疑わしいが、醜き争いの贄となるのも詮無かろう」
「あたしが人魚や否やは、あたしも知りませぬ。されど、あたしは抗うに飽いたのじゃ。ただ泡沫の如く、浮世の流れに身を任せるまで」
ウズは淡泊にかぶりを振る。
すると、四男坊は強引にウズを掴んで立たせると、背負った。
「流れに身を委ねるというならば、大人しゅうするがよい」
ウズもその通りだと思った。なるように任せるしかないならば、このまま四男坊に連れてゆかれるままにする他ない。
滝近くの山奥の里に逃げ込んだ四男坊とその家族と、そしてウズは、そこで陰謀や戦乱を避けつつ、芸事を伝え続けた。
『ちはや』――千剣破家は消え去った。百磯城、十束、一條、二條、三條、四條、五條、六條、七條、八條、九條の家に分かれ、そうしてその中のいくつもの家が破れていくのを、ウズは四條の家から見ていた。
ただ、世の流れに身を任せ、そして四條の当主が芸事に励む傍ら、ウズはもはや座敷牢に囚われることもなく、ただ四條の子らの養育に努めた。着物を縫い、当主の若き妻らに奥方の心得を説き、代々の当主に助言を与え続ける。
四條の家を護ってきたのは、ウズなのだ。
時代は流れる。
四條家はみやこへ戻り、いくつもの戦火を潜り抜け、そうして踊りを伝え続けた。戦なき平和な世をもたらす霊鳥を招く舞を。
ウズはそれをすべて見てきた。
ウズは跳ねるスーツケースを宥めつつ、曇天の下、クノエの石畳を歩いている。
地図は頭に入っていた。見事な紅葉には趣を感じつつ、ただ慣れない土地の水でうまく暮らしてゆけるか、漠然とした不安はあった。ウズは現在に至るまで、ジョウトの地から出たことはなかったのだ。
なぜ、このようなことになったのか。
ウズは歯噛みする。
自分は、四條の家を古から守り続けてきた。次期当主を養育し、芸事の稽古もつけ、華やかな衣装を縫ってやる。それがウズのすべてだった。
――それがまさか、庶子の面倒まで見させられるとは。
ウズは何度目か、不機嫌に鼻を鳴らす。
現在の当主とその息子は、ウズを奇怪な人魚か、あるいは便利な子守人形としか見ていない。しかしウズもそれに不満を唱えたわけでもない。ただ、不気味な人魚として、あるいは無害な人形として、振舞い続けてきた。四條の家以外に、居場所を見つけられそうになかったから。
ウズが向かっているのは、現在の四条家の当主の息子の妾の家だった。
当主の息子には、既に嫡子が数人ある。現代では子供が急死することなどほとんど見込めない。であれば、ウズにとって庶子など、まったくどうでもよかった。庶子など、いてもいなくても、四條家の存続にほとんど影響はない。それどころか、昨今の平等だとかいう言論に勢いづいて、四條家の安寧を脅かしかねない。近年にも非嫡出子の相続分が嫡出子と同じとするとかいう、ウズの価値観では理解できない法改正がなされたばかりだ。
「……なぜ、あたしが、妾の子などを……」
矜持を引きずり、ぶつぶつと毒づきながらも、ウズはその家の前に立つ。帯の間から鍵を取り出し、錠を開けた。
スーツケースを玄関の中に入れ、ウズは下駄を脱ぎかけた。
その家は存外、洋風の造りではなく、エンジュの歴史ある家のような造りをしていた。当主の息子が普請し、妾に与えたものだろうか。とりあえず、居住空間ではカルチャーショックを受けることはなさそうだと、ウズは僅かに息をつく。
間もなく、一人分の足音が玄関まで、ウズを迎えに来た。
「ウズ殿。失礼しております」
「……モチヅキ殿か」
ウズはわずかに顔を上げ、その人物の姿を認めた。
腰ほどまでの黒髪を緩い三つ編みにし、ブラウスにスキニージーンズを身につけた大学院生のモチヅキが、両腕に何かを抱えて立っている。
ウズは重い鞄を抱えて、上がり框に足袋の足を踏み出した。
そして、モチヅキの両腕に抱えているものに目を留めた。
「……それは」
「この家の、四つ子です」
よく見ると、モチヅキの右腕に二人、左腕に二人、子供が抱えられていた。
両手両足を投げ出し、その身は痩せこけ、黒髪はぼさぼさ、灰色の眼は虚ろである。
ウズは、どさりと荷物を取り落とした。
開いた口が塞がらない。
「……四つ子、じゃと?」
「はい。……もしや、ウズ殿はご存知ではありませんでしたか」
「……――あのアホ息子」
ウズは歯噛みした。
四つ子などと、聞いていない。ただ当主の息子から、愛人が亡くなったからその子供の面倒を見てほしいと、本当にそれだけ聞かされたのだ。
小さな四つ子は、大人しくモチヅキに抱えられていた。ウズを見ることもなかった。